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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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幕間 Into That Good Night

 ぬばたまの夜の畔にて、星空失せて、月光遠く、乾いて瑞々しい白い黒の波紋の交わり、静けき大河の畔にて波打つ。吹き荒ぶ風の囁きは、異郷を統べる司祭の呪文めいて謎めき、暗澹たる生涯、魂無き骸の、喪われた結末を低く密かに物語る。立ち竦む影に言葉なく、ただ無尽の水面、可知と不可知の境界に、黒黒とした波紋の浮かんでは解ける様を見る。その終局の川縁にて名を問う者、真贋を分かつ者あらず、ただ彼方より歩み来たる渡し守の影、色の無い風に墨のごとく滲む。見渡すも暗黒、上下左右の別なく、千の夜さえ融けて一夜、ただ一面の黒なり。

 されど終古の無明にもいずれ終端は来たる。

 名乗る声も無し、無窮の宙に描きし夢、未来への渇望、昔日禊ぐ意志も削げ落ちて久しく、もはや形の定まらぬ二つの瞳が、夜の終わり、膨脹する渡し守の影を、じっと、見つめている……しかし、お前は聞く、その声を聞く……声ならぬ声、剥奪された世界の切れ端から、言葉では無い言葉が、歌う問うな声が……。


「おはようございます、おはようございます」


 ……声がする、誰かが呼ぶ声がする……お前は聞く、その声を聞く……


「おはようございます、おはようございます。挨拶は大事です」


 誰だ? 

 そうお前は問いかける。


「神語りて世界あり。然る後、六日目の朝に猫来たりて、夜に人を迎える。世界の模様は猫の色、黒は白へ、黒は白へ」


 世界が逆転する、黒は白へ、白は黒へ……。


「猫のうたたね、曇の色、流れる水面に楔無し。雲の綿毛に境無し。未来の過去の、過去の未来の……」


 未来は過去へ、過去は未来へ……。


「猫の語るに命は九つ。死して咲く花、散る花もみじは桜色、散り咲く先に猫の国、喪うことと拾うこと、猫の語るに命は一つ、喪うことと拾うこと、猫の語るに二つは一つ……」


 喪失は獲得へ、獲得は喪失へ……。

 流転する、流転する、流転する……。

 万事等閑にして然るに差異無し。虎の如き小さな影が勇躍し、お前を導く……。

 影は問う。


「おはようございます、挨拶は大事です。あなたはどなたですか?」


 お前は問いかける、声ならぬ声、言葉では無い言葉、思考ではない思考で、際限なく試行する……。

 誰だ? 

 誰だ?

 誰だ?

 誰だ?

 誰だ?

 誰だ?


「おはようございます、おはようございます。あなたはどなたですか?」


 声がする、お前を呼ぶ声がする……。


「おはようございます、おはようございます」


 誰だ? お前は誰だ? 

 問いかける、問いかける、問いかける……。

 誰だ?


「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです」


 俺は、誰だ?


「目覚めるのです、時計の針を探す人」



 兵士は目を覚ました。

 そして見た。

 彼は死んでいた。

 霜の降りたアスファルトが打ち砕かれて流氷のように隆起しており、

 そこに彼の残骸は、ぶちまけられていた。

 彼はそれを見た。

 やがては蘇るのだろう。不死病患者とはそういうものだ。だが確実に死んでいた。不朽にして不滅であることを約束された装甲は無残に轢断され、いかなるものをも絶つという触れ込みだった不朽結晶剣も跡形も無い。頭部はヘルメットごと粉砕されて丸ごと原形を留めていなかった。二つの目玉すらその兵士には残されてはいない。

 そして、頭部に装填されていた、人工脳髄さえも。

 彼はもうこの世界に存在していない。どのように定義しても、彼という個性は消滅した後のはずだった。生体脳も粉微塵で、神経パルスという形でさえも、存続は不可能だ。

 あるいはこれは、寸分未来を予感した、人工脳髄の断末魔の如き最後の演算で、実際にはまだ壊れていないという可能性もあるが……。

 どの道を辿ろうが、到着する場所は一つだけだ。

 大気の揺らぎすら固定された究極の空間に一人、兵士は己の残骸に手を伸ばす。

 掴めない。

 そもそも手が無い。男には何もなかった。

 では、自分はどのようにしてこの世界を知覚しているのか?

 振り返れば、鼓動無き世界に、ウィンチェスターハウスの如き異形の鎧の背が聳える。

 清廉なる騎士、ベルリオーズ。

 古い時代の同胞。

 永久に眠らないことを望んだ偉大なる狂人。

 何が起きたのかは理解出来なかったが、少なくとも自分は、ベルリオーズに挑んで、敗北したのだということは分かっていた。

 最初から分かりきった結末だった。

 ベルリオーズに敵う点など一つも無いからだ。

 つまり、こうなるだろうと予想したとおりに、彼は死んだ。

 ついに終わったのだ。ある意味では待望の未来であった。


 ずっと、こんな世界など手放してしまいたいと想像していた。

 十年か、二十年か、三十年か、四十年か……。

 破壊されて二度と目覚めなくてよい、そうなりたいと男は願ってきた。

 まさしくそのようになった。


 だというのに、存在しない心臓に、一つの感情も湧いてこない。

 永く続いた無価値で無目的な旅が、ここで終端に達した。

 たったそれだけのことなのだから、当然である。

永久など無い。どこにもありはしない。

 何事にもいつかは終わりが来る。達成感や解放感が伴う余地など無い。


 たった一つだけ疑問がある。

 自分は破壊されているのだ。疑いようも無く破壊されている。

 あるいは、これから完膚なきまでに破壊される。

 それはもう覆しようが無い。

 だから彼は、こうして未だに目を覚ましている理由が、理解出来なかった。

 あるいは、死後の世界か、幽霊の見る夢か? スチーム・ヘッドの演算された擬似人格に、魂など在るのか? 兵士は己の馬鹿げた空想を嘲笑う。

 無意味だった人生、無価値だった生涯を、ひとしきり笑い、しかし笑っても、世界は凍りついて動かない。


 この現象は一体何なのか。


 自嘲の感情も急速に消えていく。スチーム・ヘッド、永遠に眠ることの無かった自分自身の残骸を見ている自分は、いったい、どこに、どうやって立っているのか。

 自然と思考は移ろって行くのだが、全てが解けて、消えて無くなっていく感覚があるのに気付いて、出し抜けに、これがまさしく死というものであることを理解した。


 論理的な思考が、端から解体されていく。

 今はまだ思考出来るが、そのうち自分という存在は残らず消える。

 その確信に、恐怖を感じることは無い。

 ただ、泡となった記憶が弾けるたびに、忘れていた何もかもが、兵士の瞼の裏を通り過ぎていく……。

 そのスチーム・ヘッドは名前をオルドリンといった。

 コードネームだ。

 自分が本当はどういう名前だったのかは忘れ去って久しい。

 多くのことを忘れた。本当に多くのことを。父母の記憶、友人の名前、初恋の相手、好きだった季節や花の香り、星座に積年の夢、名誉と栄光……素晴らしいものは何もかも忘れた。幼い日のことなど水没した日記よりも不鮮明だ。

 ああ、ベッドの上を勇躍する小さな影がある。愛らしい動物。あれは何だっただろうか?

 

 時計の針がどのように動くものなのかさえ、もう覚えていなかった。そうならざるを得なかった。不死身の肉体の脳に突き刺された永久に朽ちることの無い演算装置、人工脳髄。そして蒸気機関と銘打たれた異様な機械が彼の時間を支配した。記録媒体に書き込まれた人格が夢に見る、知覚と身体能力が発狂した世界。

 それは人間の暮らす宇宙では無い。

 オルドリンは人間の時間から追放されてしまった。

 技術者……顔も覚えていない年若い技術者……酷く場違いな外見をしていたのは覚えている……技術者は、彼に慣れの問題だろうと言っていた。人間には高い順応性がある。オルドリン、そして同時期に常時オーバードライブ型のスチーム・ヘッドになった仲間たち、シェパードやクーパーといった面々も、この不安定な面々も、じきにその世界に慣れるだろうと。

 しかし軍事教練場の壁掛け時計の秒針は、冷淡にも、彼らを裏切り続けた。

 例えばオルドリンの時間感覚において、秒針とは二秒に一回、あるいは三秒に一回、酷いときには五秒に一回だけ時間を刻む欠陥品だった。

 誰しもが、彼の世界では月面歩行者の如く、気怠げに動いた。

 おまけに活動速度が丸きり異なるため、言葉それ自体が機能しない。

 真空空間よりもなお息苦しい地獄。

 人間は、いずれ慣れると誰しもが言う。

 だが真実は違う。

 慣れるのでは無く、窒息して、何らかの形で、死を迎え、その側面が永劫に失われるのだ。


 オルドリンもそうだった。

 一人きりの世界に取り残され、ゆっくりと窒息していった。

 最初の一年は、明らかに数年の重さを持っていたが、しかし耐えられた。

 高高度核戦争が全てを台無しにしたが、彼はそのような過酷な状況に耐えられるように何年も訓練を受けていたのだから。

 しかし、二年経過する頃には、絶対不変であるべき時間が完全に失われた。

 ある日、唐突にそれは起こった。

 彼の中で時間に関する恒常性が崩壊し、あるべき時間感覚というものが、完璧に消えた。

 一秒が何秒なのか分からなくなった。

 もはや秒針というものは十秒間に何回動くのが適切なのかさえ理解出来なくなった。

 時間さえも、彼を見放した、そのことを受け入れざるを得なかった。

 何もかもが、彼、そして彼の仲間たちの手を擦り抜けた。どのような賞賛を受けても、愛国者として表彰を受けても、一つの喜びも感じられなくなっていた。

 全てが取り返しのようのない破綻という結末に回収されていった。

 彼らは自分自身から人間の条件を見失った。


 人間の鼓動、人間の時間。全てが壊れていく。

 だが正しい道を進んでいると、オルドリンは、それでも確かに信じていたのだ。

 常にオーバードライブ状態にある機体がいるだけで、その部隊の生存率は格段に向上する。それに、加速した時間についてこれるほど人類が進歩すれば、それは間違いなく財産となり、さらなる飛躍をもたらすはずなのだ。自分の献身は、きっと文化を次の世代へ繋ぐ礎になるのだと彼は疑わなかった。

 疑わないように仕組まれていた。


 残念ながら殆どの場面で彼らは酷く忌まれた。不規則に加速して動き、重度の神経症患者のように小刻みに震え続ける。整備が難しく、一歩間違えば容易く悪性変異体に変じる。さらには人間の速度で発話できないがために、意思疎通がままならない。

 彼らは欠陥機として扱われ、遠ざけられ、それとは無関係な過負荷によって徐々に狂って行った。

 肉体に極度負荷を与えて認知機能を加速させるこの忌まわしい機能は、そのうちに一般化し、適性があれば誰でも搭載可能なものとなった。精々が五倍程度だった倍率も、十倍、二十倍の領域に達した。

 オルドリンたちもその時々に応じて、ほぼ最高倍率の加速が出来るように改修されていった。高度高機動戦力として陳腐化することは無かったが、彼ら常時オーバードライブ機から得られるデータは年々減少した。


 そして、最終的に価値があると認められたデータ群は、次のようなものだった。

 曰く、「低倍率オーバードライブを常時発動するメリットは、ほぼ、無い」。

 曰く、「低倍率オーバードライブは、対抗オーバードライブで容易に相殺可能である」。

 曰く、「常時オーバードライブ機であっても、超高倍率オーバードライブ機による一方的な襲撃には全く無力である」。


 必要なデータ収集が終わった頃には、疑わないというメカニズムさえも壊れていた。

 何もかも無意味で、無価値で、これ以上はどうしようも無いと言うことは明らかで、疑わないでいることの方が、遙かに困難だった。オリドリンの仲間たちの間でさえ、もはや高倍率オーバードライブ時以外は意思の疎通は不可能になっていたが、同じことを考えていると、誰もが確信していた。

 オルドリンを初めとする常時オーバードライブ機は、一人残らず、もとの世界、人間の時間への帰還……長い旅を終えた宇宙飛行士が、安住の地上へ帰るかのような、至極当たり前の帰還を望んだ。

 技術者の回答は端的で、かつ、絶望的だった。


 曰く、「擬似演算の核たる人格記録媒体それ自体が、常時加速のために加工されているため、基本的な倍率を下げることは、不可能である」


 自壊することは許されなかった。国家の財産である彼らにそのような行動は許可されていなかった。だからこそ彼ら常時オーバードライブ機は、疑うことを忘れようとした。無意味な題目を信じた。無意味な理想を奉じた。無意味な主張を守ろうとした。

 常に強敵と戦い続け、戦い続け、戦い続けた。

 死ぬためだけに奔り、死ぬためだけに剣を取り、死ぬためだけに味方を守り、死ぬためだけに……。


 永い時間の果てに、クヌーズオーエ解放軍の側に付いてからは、オルドリンを初めとする常時オーバードライブ機……カイロス隊の面々には、それなりに良い時間を過ごした。多くのスチーム・ヘッドが彼らに理解を示し、レーゲントの歌声は加速した時間の中でまともに理解出来る唯一の音楽となった。


 あるいは、クヌーズオーエこそが安住の地だったのかも知れない。

 都市焼却機直轄の<ヘカントンケイル>シリーズはカイロス隊よりも悲惨な境遇に身を置いていた。自分自身が知らぬ間に複製され、量産されていたという事実は、摩滅したオルドリンから見ても耐えがたいように感じられた。何十機か存在する彼女たちは揃いも揃って優秀な技術者で、人工脳髄を正式に停止させられる権限を持ち、いつかどこかで見たような顔で、「大丈夫だよみんないつでも終わることは出来るよ」と微笑みかけてくれた。


「無理に戦い続ける必要なんて無いんだ君たちは兵士だけど守るべき民間人なんて一人も残っていないし継承連帯自体そもそもまともに機能していないわけだから誰も君たちに本質的な命令を下したりしない。自由なんだ。終わらない世界に合わせて生き続ける責任なんて無いんだから」


 それだからオルドリンたちカイロス隊は、かつての烈しさを捨てた。

 しかし戦い続けた。死にたかったからだ。戦いの中で正当に死にたかった。正当性の追究だけが彼らを辛うじて正常な領域に留めていた。彼らは、<首斬り兎>の恐るべき戦闘能力に救いを見出したし、再び現れて今度は敵として襲いかかってきたベルリオーズを目にしたときには、いよいよこれで死ねると考えた。


 彼らと一緒に飛び出す道を選んだ、カタナの少女、刃の鈍い煌めきよりは濡れた花の一雫が似合うケットシーのことは、気がかりと言えば気がかりだったが、同類なのかとしれないという予感があり、だから、もうさほどの関心ごとでは無かった。

 ……あれほど強いのならば、そう簡単に死ぬことは出来ないだろう。

 百年の孤独は、まさしく彼らの人間性を打ち砕いていた。

 どれほど加速しても、時の倦怠を振り切ることは出来なかった。


 無限に引き延ばさせた苦痛の時間に身を委ねながら、兵士はじっと自分の死骸を見つめた。

 ぐしゃぐしゃに打ち砕かれた残骸は、それだから望んだとおりの光景で、この世界に未練など無く、考えることなど何も無いはずで……。


 にゃー、と音の無い世界に鳴き声が響いた。

 彼女は、そこにいた。

 いつのまにか自分の死体、いつか目覚めるその不死病患者の傍らに、一人の少女が立って、真っ白でふわふわの猫を抱いていた。


「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです。目を覚ましたのですね」


 突然現れたその少女に対して、オルドリンは一切の思考を停止した。

 直後に生じる思考は、自己解体が進んでいるのもあって、さほど纏まったものにはならなかったが、当然に困惑の要素が強かった。

 薄闇の迫る夕暮れに、落してしまった紙片を拾い集めるように、オルドリンはゆっくりと思考を重ねた。


 この少女は、見た目通りの存在ではない。不滅者(テスタメント)だ。

 一つの目的を達成するために、新しい無限の生命へと己を縛り付けた凄惨な存在。

 聖句による生存領域の拡大を己の御業と標榜する大主教、スヴィトスラーフ聖歌隊のヴォイニッチによって存在を編まれた祝福者たち。

 彼/彼女らは様々な手段で自己の恒常性の及ぶ範囲を拡大させており、特に上級レーゲントから作られた不滅者は厄介である。<原初の聖句>の持つ情報密度と強制力を利用して、相対者の人格演算に割り込むことまでしている。

 言ってしまえば、擬似演算の負荷を他の機体に分散処理を強要しているに等しい。


 聖なる猫の使徒を自称するこの狂える少女、不滅者<ナイン・ライヴズ>とは、さきほど遭遇したところである。そのはずだ。自分、即ちスチーム・ヘッド<オルドリン>という意識がまだ何らかの形で擬似演算されているのならば、<ナイン・ライヴズ>の聖句もまた、やはりそこに差し込まれたままであろう。

 だから、この走馬燈のような風景に紛れ込んでくるのも、無い話では無い。

 だが、なにゆえ、こうして語りかけてくるのか。

 猫っ毛が愛くるしいその少女は、素朴な美貌をぴくりとも動かさず、さっと猫を掲げた。


「これは、約束の白い猫です。誰もあなたを傷つけることはしません。これ以上つらいことは起こらないので。だからどうか、ごあんしんを」


 どうしてここに? 何をしに現れた。


「おはようございます、時計の針を探す人。挨拶は大事です」


 挨拶は大事。挨拶は大事か。それもそうかもしれない。

 思えば不滅者<ナイン・ライヴズ>を邪険に扱う理由も、オルドリンにはありはしない。過去に敵対した記憶は無いし、ベルリオーズとは戦闘になったが、別に彼とて、カイロス隊を明確な敵と見定めていたわけではない。殺すのを止めるために、予防的に殺す。あれはそういう壊れた存在だ。


 おはよう、ナイン・ライヴズ。俺はオルドリン……だったと思う。


「いいえ、いいえ。ナイン・ライヴズは偽りの名前。真のわたしキャットは猫の影、ロングキャットグッドナイトなので」


 全く初耳だったが素直に応じた。

 おはよう、ロングキャット……グッドナイト。


「はい。おはようございます、オルドリン様。裁きの時は来ました。天秤には心臓と羽が載せられており、それは日没と見紛うばかりにぱったりと傾いて、そして、あなたの心臓は、なんと羽よりも軽いのでした。何故なら、慈悲深き聖なる猫が、羽のほうの秤に潜り込んで、すやすやと憩っているからです……。だから判決は、無罪なのです。猫も無罪です。猫なので。聖なる猫の導きで、あなたは許されたのです」


 そうか……。

 オルドリンは酷く穏やかな気持ちで相槌を打った。

 言っていることは意味が分からなかったが、もう悪いことは起こらないような気がした。

 それに、言語による思考そのものに寄生する不滅者とは、どうやら口が無くとも、耳が無くとも、時計の針が噛み合わなくても、会話が出来るらしい。

 幸か不幸かは判断がつかないところだが、喪うものが何もない現状では、久方ぶりのまともな会話に気持ちが安らぐのを、どうしても止められない。

 

 つまり、俺は死んだわけだな。そうなんだろう? ようやく滅びることが出来るわけだ。それで、ロングキャット……ロング……何とかは、見送りに来たのか? 違うのか? 俺に何を望む? 何をさせたい?


 矢継ぎ早に尋ねる。宥め賺すように、にゃー、と白猫が鳴いた。

 ぐぐ、と背伸びをしながら、ロングキャットグッドナイトは猫を持ち上げる。


「いいえ、いいえ、オルドリン様。あなたは滅んでなどいないのです。あらゆる霊魂は不滅なので。ただ、あなたは今、自由なのです。まさに、あなたの魂は小さな牢獄から解き放たれ、新しい道へ向かうことを許されました。でも最後の一息は、この地上に猶予として残されています。わたしキャットは、あなたを導くためにやってきました」


 つまり……、と考えようとして、オルドリンは自分という存在がどんどん希薄になっていることを自覚した。意識は清明なつもりだったが、熱湯に投げ込まれた氷のようなものだ。外縁部から彼という個性は消えつつあり、思考能力が損なわれていっている。

 さらに奇妙なのは、そんな有様なのに、状況を何故か客観的に認識出来ている点だ。

 オルドリンは無意識的に一つの仮説に行き当たった。


 つまり……俺の生体脳がぶちまけられ、人格記憶媒体も破損した。それでも存続するものはある。行き場のなくなった神経パルスだ。普通、それは空中に拡散して終わりだが、その寸前に、あなたの拡張された恒常性が、俺を拾い上げて、取り込んだんだ。


 言葉の列は具体的だったが、オルドリン自身は殆ど思考をしていない。当たり前の事実を拾い上げて列挙しただけのような心地があったし、それ自体が誰かから与えられた知識であったようにも思えた。オルドリンとしては、もうどうでもよかった。


「理屈は大切では無いのです。あなたの魂の安寧よりも大切なものなんて、ありはしないので。ただあなたには、二つの道があることを、猫はお知らせしています」


 ロングキャットグッドナイトは猫を再び抱きかかえ、猫の片足をつまんで、ぴっ、と上げた。


「一つには、このまま穏やかな微睡みに身を任せる道です。これ以上あなたを傷つけ、苦しめるものは、何もありません。戒めの猫、騎士ベルリオーズは、あなたに裁きを与えました。よって、全ての罪からあなたは自由です。罪の無い人を癒やすために、猫たちは来ました。あなたは、ここで眠っても良いのです。無数の猫たちがあなたの永いおやすみに寄り添い、新しい朝が来るまで、ふわふわとした毛のぬくもりで、永久に魂を温めるでしょう」


 それで、もう一つは? 


 オルドリンは冷淡な気持ちで問いかけた。


 神の国にでも連れて行ってくれるというのか。俺は神なんて信じちゃいないがね。どうして神がいるなら、世界はこんなことになった。誰も助けてくれなかった、狂った時間の中に閉じ込められた俺たちを?


「神の国なんて知らないのです。猫は神様では無いので」


 なんだと?

 あまりにも素っ気ない応えに、オルドリンは唖然とした。


「神の国は無いのかもしれません。神をわたしは見たことがないので。地獄も無いのかもしれません。悪魔もわたしは見たことがないので。人には人の王国がありました。だけれども人の王国も、もちろん潰れてしまって、もうどこにも無いのです。でも、猫はいます。猫は、確かにここにいます」


 少女の腕の中で、聖詠服の胸に身を預けながら、白い猫が欠伸をしている。

 何だかとても幸せそうに見えた。


「では、猫はどこへ向かうのか? 神の御国でしょうか、獄卒の膝の上でしょうか。いいえ、彼らは彼ら自身の王国、猫の国へ向かうのです。人が王国を作るように、神が王国を作るように、猫にも王国があるのです。これがわたしキャットのオススメする二つ目の道、猫の国への招待です」


 ぴっ、と猫がもう片方の手を自発的に挙げて、平和な声でにゃーと鳴いた。

 オルドリンは戸惑った。


 猫の国だって? 何だそれは。どこだ。何があるんだ。


「猫たちがいます。いつでもどこでも猫をモフモフすることが出来ます」


 だから何だというのだ。


「それ以上のことは何も無いのです。猫の愛は神の愛、ぬくもりの代弁者、お日様のポカポカと位階を同じくするもの。ただ猫たちといっぱい遊べるだけの国……しかしその喜びはきっと神の喜びなのでしょう」


 説明が曖昧すぎる。煉獄とかじゃないのか。


「猫の国は、猫の国なので。煉獄とかではないのです」


 ロングキャットグッドナイトは、すす、と抱きつくような距離まで身を寄せてきた。

 それから、猫を差し出してきた。

 彼女の手の中の白猫が、オルドリンの額に前足を伸ばして、ぺたんと触れた。

 彼にはもう額など残されていなかったが、確かに触れられたと感じた。

 温かくて、柔らかい肉球だった。


「どうか選んでください、オルドリン様。もう何もしなくても良いのです。しかし問います、あなたはどこへ行きたいのですか? どのような旅の終わらせ方も、きっと猫たちは祝福するでしょう。しかしここで眠りにつくか、猫たちの国へ旅立つか、あなたには選ぶことが出来るのです」


 猫の国。それはまったく、どんな場所だろう。果たして実在する場所なのだろうか。

 朦朧とする意識を辛うじて束ねながら、オルドリンは問いかける。


 あなたの配下に壊されたスチーム・ヘッドは、みんな猫の国に誘われるのか?


「全ての疲れ果てた人々に、猫による安らぎを与える。それこそがわたし、ロングキャットグッドナイトへと、聖なる猫が下した使命なので」


 無数の言葉(いのり)によって編まれた少女は、首を傾げて、儚げに微笑んだ。


「誰だって、人生の最後には、温かな猫がいてほしいです。そうは思いませんか?」


 悪意も邪気も無いその笑みに、オルドリンは抵抗する意志をいよいよ失った。

 何か皮肉を言ってやる気にもなれなかった。

 ほだされた結果なのか、意識を乗っ取られているせいなのか、あるいはただ純粋に自我の崩壊が致命的に進行しているのか、彼には判断が付かない。

 判断の必要も無いと思えた。


 俺は……そうだな。俺は、疲れてしまったよ。


「仕方の無いことです。あなたは充分に頑張ったのですから」


 猫の国というのは、きっと楽しいところなんだろうな。


「とても楽しいです。たくさんの猫たちが、あなたと遊ぶのを待っているのです」


 でも、俺は疲れた。疲れてしまったんだ。

 オルドリンは肩を落した。

 きっとそっちに行っても、猫と遊んでやれない。それじゃあ猫たちも不満だと思う。俺と猫たちとでは……時間の流れ方が違う。俺たちと他の機体で時間の流れ方が違ったように……しかもすっかり俺は草臥れていて、今にも眠ってしまいそうなんだ。それじゃあ、猫もつまらないだろう。だから、俺はここで大人しく寝ていることにするよ。誰にも迷惑をかけないように……。


「そうですか」少女は残念そうに嘆息した。「どうしても、眠たいのですね。眠っていたいのですね。それは良いことです。眠れない夜は、疲れてしまいますので。だけど、猫たちは諦めませんよ。ずっとずっと、あなたが目覚めて元気になるまで、あなたのことを守るでしょう。誰もひとりぼっちでは終わらないのです。それこそが、聖なる猫が、神様の膝の上から離れ、この地上に降りてきた意味なので」


 少女の言葉を意識することさえ億劫になってきたが、オルドリンは最後に一つだけ尋ねた。

 ロングキャットグッドナイト、あなたはずっとこれをやっているのか?


「それがわたしキャットの使命なので」


 いつまでやるんだ?


 少女は答えた。


「最後の一人が眠るまで」


 そうか。


 ついに限界が訪れた。オルドリンは存在の核となるものが形を失っていくのを感じた。

 意識は地に落ちてアスファルトに崩れ去り、もう輪郭を保っていることさえ出来ない。

 どこかで見た常闇の川縁が、あちらから迫ってくるような圧力。

 もう目を開いていることさえ出来ない。


 少女の声が耳元で囁く。


「おやすみなさい、オルドリン様。おやすみなさい、おやすみなさい……どうか、あなたの魂に安らぎがありますように。あなたの魂に、聖なる猫の祝福がありますように。穏やかな夜に、幸いなる憩いのありますように。穏やかな夢を、素晴らしい夜を……。聖なる猫が唱えて曰く、世界は一枚の毛布のように温かく、優しく、あなたを包むでしょう。猫たちはあなたと毛布にくるまって、次の朝のために、新しい朝のために、その永い夜を善きものとするために、あなたを守り続けるでしょう……」


 世界が崩れ去った。オルドリンは落下していく感覚を覚えた。

 凄まじい倦怠感、絶望的な冷たさが、背筋から潜り込んできて、あっという間に瞼の下にまで根を張った。


 オルドリンは再び全てを忘れ去った。真実、彼は虚無へと墜落した。ただ猛烈な眠気だけが蠢いている。久遠に続く夜を得られるならば、この命という狂った時計を止めるためならば、全てを投げ捨てても良いと思われた。喜びなど必要ない。安らぎなど欲しくは無い。幸福な未来など自分から投げ捨てて構わない。最後に思い浮かべたのはそんな言葉で、それすら直後に意味消失した。

 彼を構成する全ての要素が音を立てて壊れた。自己連続性は断絶し、人格の基盤となった思い出は無意味な記号と成り果て、想いも言葉も嘘になった。祈りも望みも失われた。後に残されたのは空白だけ。空白がいずこか知らぬ地に流れ着き、無感情に時を待つ。ぬばたまの夜の畔にて、星空失せて、月光遠く、乾いて瑞々しい白い黒の波紋の交わり、静けき大河の畔にて波打つ。吹き荒ぶ風の囁きは、異郷を統べる司祭の呪文めいて謎めき……


「おはようございます」誰かが囁いた。「おはようございます……おはようございます……」


 猫の鳴き声がした。

 彼は目を覚ました。

 そばには誰も、何もいなかった。

 心地の良い夜に抱かれて、夢を見ていたような気がした。

 頬には温かい感覚があって、触ると何故だか濡れていた。

 とても懐かしい気配がした。無性に悲しくなった。

 何故悲しいのかは、彼にはちっとも思い出せない。


 彼はむっくりと起き上がる。どこだか知らぬ道の端に、彼は自分の姿を発見した。

 どうやら眠ってしまっていたらしい。昨晩、随分と深酒をした様子だった。

 どうにも記憶がはっきりしない。酒場を巡っていたような気がする。


 いつのまにやら毛布を被せられていたが、それも彼には覚えが無い。慈善活動家が来たのか、それとも自分と同じ根無し草の厚意か。

 それとも知らぬ間に、全財産を破格値で売り払って、この毛布を買ってしまったのか?

 財布は無事かとあちこちを探ったが、盗まれた形跡は無い。

 不思議と、喪ったものなど何もないと確信出来た。

 いつもの癖で、毛布を丁寧に折り畳んで、脇に置き、ふらふらと起き上がった。

 街は未だ夜明けを迎えておらず、青白い薄暗闇には清潔な空気が満ち満ちている。

 全く見覚えの無い土地のように思えた。遠くに見える高い塔はロケットの発射台だろうか? もう二度と使われることはないだろうが……。

 思い出してしまう。

 そうだ、自分のキャリアは、マザー・グースの橋のように、すっかり落ちて、無くなってしまったのだ。

 あの美しい絶望の夜に。

 人工衛星とミサイルの破片が降り注いだ夜に……。


 いっぺんに目が覚めてしまった。

 こんなことならば、目覚めなければよかった。まだ朝は来ていない。まだ、夜だ。


 もっともっと、酒を浴びるようにして飲まなければ。何もかもぶっ壊れてしまえと思った。喜びも祈りも知ったことでは無い。全部全部、壊れてしまえ。そんなものはもう、どうでも良いのだ。自分のものではありはしない。さて、どこか、営業している酒場はあるだろうか。


 何でも良い、全部忘れて、眠りたいのだ……。


 自棄っぱちになってポケットに手を突っ込み、乱暴な仕草で歩き出そうとしたとき、彼の脚をすぐ傍を、ひとかたまりの、優雅に輝く、小さな素晴らしいぬくもりが、風のように擦り抜けていった。

 彼は目を見張った。それは輝くほどに美しい白い猫であった。見覚えのある猫だった。幼い日、父母に手を引かれて歩いた日に見た野良猫であるかもしれず、ジュニア・ハイスクールの庭に迷い込んできた猫かもしれなかった。ガールフレンドと一緒に可愛がっていたどこかの家の知らない猫にも似ていたし、かつてベッドの上ですやすや寝息を立てていた彼の大好きな猫に似ている気もしたし、路上で車に轢かれて死んでしまった、可哀相な猫にも似ていた。

 とにかくそれは、猫だった。

 幾つもの記憶、幾つもの時間、幾つもの大事なもの、幾つもの愛しかったものが、猫の形を借りて彼の脳裏に去来した。気品ある歩みで遠ざかるその影を見送った。


 美しい白い猫は一つの曲がり角、知らぬ路地、知らぬ場所へ続くどこかで立ち止まると、全身を使って振り返り、蹲って、歌うように鳴いた。

 彼は少しの間、考えた。

 酒場を探さないといけない。酒が飲みたいからだ。全てを忘れたいからだ。夢など知らない。喜びなどどうでも良い。ただ安らかな眠りの中で微睡んでいられればそれで十分だ。

 しかし、遠くにいる猫を眺めているうちに、くだらない好奇心が膨らんできた。

 あの猫を追いかけてみて、どんな場所にいくのか確かめてみても、面白いんじゃないか? 


 時間の無駄と言えば、無駄だ。しかし自分はもう既に時間を捨てるつもりでいるのであって、酒を飲もうが猫を追いかけようが、大した違いでは無いではないか。


 きらきらと薄明に煌めくその猫は、また「にゃー」と鳴いた。

 おまけに、何やらてしてしと地面を叩いている。

 まるで自分を待って、急かしてくれているかのようで、彼は少しだけ笑ってしまう。

 彼は夜明け前の静けさを壊さぬように、穏やかな夜の終わりを汚さないように、そろりそろりと脚を進めて、ようやく猫に追いついた。

 彼はひざまずき、美しい白い猫と視線を合わせ、問いかけてみた。


「やぁ、お嬢さん。どこへ行くんです?」


 猫は銀河を閉じ込めたようなくりくりとした瞳で彼を見つめ、それから大儀そうに「にゃー」と鳴いた。

 彼にはもちろん猫の言葉など分からない。

 しかし、何か楽しいことが起こりそうな気がした。

 すると猫はすっくと立ち上がり、どんどん曲がり角の向こうへと進んでいくのだった。


 彼は見た。

 何かきらきらと輝くものが、猫の進む先にあった。

 もう迷わなかった。

 猫に導かれるまま、その道へ向かっていった。



 クヌーズオーエ解放軍所属スチーム・ヘッド、『オルドリン』の疑似人格演算は、そこで停止した。

 二度と目覚めなかった。

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