2-12 祭礼のために その1 不滅者ベルリオーズ
『ベルリオーズはそれほどの機体なのか?』
『継承連帯全体を見渡しても比肩する機体は少ない。少なくとも生前のベルリオーズは間違いなく一流だった』
全自動機関式散弾銃の動作を確認しながらイーゴが応答した。
何もない場所に向かってトリガーを引くとくぐもった音が響き発射ガスとともに命中すれば人体を挽肉へ貶める弾丸が、酷く緩慢な、牧歌的な速度で射出され、そのまま空間へ置き去りにされた。
発砲に反応したのはケットシーだ。
シュバ、と無意識的な動きでトツカ・ブレードを構え直した彼女を、グリーンとケルゲレンが宥めた。「違うんじゃよー」「出番まだですよ、僕たち前座ですからね。今は逃げる時です」「逃走という言葉はヒナの脚本にない!」「ワシらの脚本にはあるんじゃなぁ」「そうなの?」「そうなんですよー」「そうなんだ」「そうなのだなぁ」「分かった。プロなので割り切ります」
ケットシーは疑うと言うことを知らない様子だった。
あるいは嘘に意味がないと確信しているかのようだった。
『とにかく、あの見たこと無いパペットが今回のオオトリ?』
ケットシーが額の鉢巻の布をぬらりぬらりと靡かせながら背後を振り返る。
全速力で撤退していく解放軍のスチーム・ヘッドをそれは猛追している。天も地も知らぬとばかりの出鱈目な四つん這いで装甲する異形。触れるもの全てを粉砕し、時に転げ時に足場を叩き潰して、我武者羅に追い縋ってくるその鬼気迫る威容には、怪物以外のどんな形容も相応しくない。
標準的なパペットと比較して特異なのは、装甲それ自体が切断装置として加工されている点だ。さらには手足も胴体も奇怪なほど長く作られており、ケットシーの目には波打つ大百足の如き関節が全身に備わっているという奇異な有様も、克明に映っていることだろう。
装甲の内側に悪性変異を利用したものと思しき筋肉束があるのも気がかりだったが、何故かリーンズィの視界にはその旨の警告が表示されていない。
『フェンリル型……だったか。聞いたことがないスチーム・パペットだ』
水を向けるとペンギン級スチーム・ヘッドは駆ける仕草のまま溜息を表現するノイズで応えた。
『少数生産の特務機じゃよ。その少数生産というのも、以前のベルリオーズから聞いた話じゃから、実際には分からん。あいつしかおらんのではないか?』
そうしながらケルゲレンは、古めかしい紙製の地図、汎クヌーズオーエの黄ばんだ手書きの紙を格納スペースから取り出して広げる。
風圧でクシャクシャと潰れかかるが、えにも言われぬ頼もしさがある。電磁嵐が吹き荒れ、目に見える何もかもがすり替えられていくこの都市で唯一信用に足る不確かな地図。
潰れた紙魚が転げ落ち猛スピードで後方へ飛んでゆく。穴だらけの紙面にレンズを向けて、コルトによる都市焼却に対して再配置されたのが標準的な地形であることを再確認し、周囲の機体にハンドサインを送る。
彼の指示はライトの明滅や電信といった多様な手段で遅滞なく集団に伝播していった。
撤退ではなく転進。
敗走ではなく迎撃のための後退。
進路はこのままで、控えている本隊に、あのベルリオーズなるスチーム・パペットをぶつける算段だと知れた。
堅実な選択ではある。しかし、今こうして必死に逃走している集団とて、前時代的な軍隊ならば容易く食い破れる規格外の戦力である。
それに加えて、「今はそういう場面だ」と敏にして繊細なる狂気で以て正確に読み取ったらしいケットシーが、なし崩し的に解放軍側についているのである。
彼女は時折リーンズィやミラーズに熱に浮かされた視線を向けてきたが、しかし明らかに興味をベルリオーズの方に移していた。
人間の枠組みから大きく外れたマニューバを見せている異形の機体が余程珍しいのか、すっかり夢中である。そういう場面だ、と認識していなければ、反転して殺しに向かっていたところだろう。少なくとも突然に周囲の解放軍を斬り殺し始めるといった凶行は、警戒する必要がなさそうだった。
解放軍側の誰かが彼女に攻撃を仕掛ければ無論のこと即座の反撃があるだろうが、そちらにしても今は完全にケットシーからマークを外し、ベルリオーズのみを警戒している。
つまり、ある種の共闘関係が成立していた。
共闘と言うにはあまりにも漠然としていて、保証と呼べるものは何もなかったが、この場にベルリオーズの味方がいないのは確実だった。
戦力差は歴然である。
ベルリオーズは確実に異常な機体だ。実際に戦わずともアルファⅡモナルキアとて充分に理解出来る。ロングキャットグッドナイトの死と復元を目の当たりにしている。復元。再生ですらない。彼女は損傷を修復するのではなく、欠落した情報を補填するかのごとくに、復活をして見せた。
ベルリオーズはそんな彼女に連なる機体である。
何もない空間、あるいはヴォイドの観測ミスでなければ彼女の猫の中から現れた。不死病が質量保存や熱力学を一部で無視しているのは常識だが、限度というものがある。調停防衛局でもあのような異常な現象はERRORRRRRRRRRR。エラー。アクセス権限がありません。記録が記録がな記録記録ががががが記録がない。記録がない。記録がなかった。
その時点で警戒して然るべき相手だとは認識出来ているのだが、それでもこの戦力差で制しきれない相手とは思えなかった。
『やはり警戒のしすぎでは?』
『いくら警戒しても足りん。F型といえば分かるかの、A~Gまでの記号は、どういうわけか一般機には割り振られておらん。例えばアルファモデルじゃな。そちらではどうか不明じゃが、継承連帯では全自動戦争装置による直々のオーダーで生産された機体であるぞ。ベルリオーズもウンドワートとは同じ工廠の出身じゃ。成立経緯や前歴は異なるのであろうが、おそらくおぬしらアルファⅡとも同郷であろ』
『私の歴史にはあんな機体はいなかったと思うが……』
『肯定。調停防疫局のスチーム・ヘッド製造計画において、F型なる機体は成立していません。ただし設計案として同コンセプトの機体は登録されています』
『ふむ。それでもケットシーほど桁外れの性能ではないはず。包囲してしまえば……』
『そうではない。テスタメント・ヘッドはな、物理的な破壊では止められんのじゃよ』
幽かに全身を振動させている兵士の一団がケルゲレンに接近してきた。
『ケルゲレン殿、ていあんが……いる。いるじゃない。ある』
通常の発話を忘却しかけているらしいその機体は言った。常時オーバードライブ機だ。
ヘルメットの壊れた風防から眼球が露出しており、焦点の定まらない乾いた瞳が蠕動している。
『我々カイロス隊が足止めを、する……』
『馬鹿を言うな』ケルゲレンは地図を仕舞いながら唸った。『ケットシーと違って、やつは人格記録媒体を避けてはくれんのだぞ』
思わぬ言葉にリーンズィは瞠目した。
『えっ……ケットシーは人格記録媒体の破壊を避けていたのか!?』
うずうずチラチラと背後を見ている当の本人に視線を向ける。
『君の目的はスチーム・ヘッドの破壊では……』
ケットシーは小首を傾げた。
『どうして? ヒナはスチーム・ヘッドを殺すの。破壊じゃない。スチーム・ヘッドを助けたいから殺すの。壊したら救えない。分からない?』
不思議そうに黒曜石の瞳を煌めかせる。
『スチーム・ヘッドの悪性変異体が一番強くて悲惨。ヒナはマモノたちと沢山戦ったから分かる。スチームヘッドはみんな苦しんで、苦しんで、泣きたくなって、しかも終われない。その苦しみから解放してあげるのが葬兵の使命』
『理解していなかったのか? 本気で壊す気なら、数は揃えなくて良いだろうが』イーゴが注釈を加えた。『こちらの損害をある程度許容した上で捕縛、ないし無力化する。壊すのは無しだ。スチーム・ヘッド同士で本気の潰し合いをするのは最悪だ。そのためにこれだけの機体を投入している。人格記録媒体の破壊は基本的に禁忌だ。やりすぎだってことだな。<首斬り兎>もそれは心得てるというのは、襲撃された機体が悉く生還したことからも明らかだった。ただ壊すだけならもっと少人数でいいだろう』
『その割には物凄い速度で撃破されていた……』
『……まぁな』
リーンズィははっとした
『それも作戦? 後学のために教えてほしい』
がっちゃがっちゃと忙しなくプラズマ発生器の脚部を回しつつグリーンがお手上げのポーズをした。
『いや、ケットシーさんが強すぎただけです。プライドがボロボロですよ』
『強いのは当然。ヒナに負けるのは名誉。あとでサインほしい?』
『いらんです』
『ユイシス、そうなの? 本当に今まで壊された機体はいない?』
『肯定。これまでの戦闘において、エージェント・ヒナは一貫して解放軍戦力のスチーム・ヘッドの、その肉体の破壊のみを目的としています。人格記録媒を破壊した事例はありません』
『あんなに殺す殺す言っているのに……』
『ひどい誤解がある』ヒナは少しだけ不機嫌そうだった。『葬兵は人を殺す。人を、マモノとか怪物じゃなくてヒトのまま終わらせるために殺すの。変わってしまった不死病患者をただの人間として眠らせるために頑張るの。死んで、怪物になって、永久に苦しみ続ける、そんなのは絶対に許してはいけない。お墓の下で眠れないなら、せめて安楽のうちに立ち尽くすべき。生き続けるという苦しみを取り除いてあげるのが葬兵のお仕事。スチーム・ヘッドも形は違うけど同じ苦痛。マモノになる前に止めてあげないといけない』
『そうなのか。そう』
リーンズィは釈然としなかったが、とにかく一応の納得を示した。
『しかしウンドワートといい、みんな何か必死に戦いすぎでは……』
ちら、とリーンズィは目を向ける。
『君たちもそうだ。危ないことを何故したがる?』
カイロス隊のスチーム・ヘッドは沈黙して、リーンズィたちを眺めていた。含まれる少女達が麗しいせいもあるだろう。異様なスチーム・パペットから退避している最中には似つかわしくない、和やかな雰囲気であった。
それを手の届かない宝石でも眺めるかのような眼差しで、じっと見つめていた。
ケルゲレンが語りかける。
『……なぁ、こんな程度で良いんじゃよ。真剣になりすぎるな。疲れ果てたスチーム・ヘッドに善いことなど何もない。死に急ぐのをやめんか? 誰も喜ばんぞ』
『我々は喜ぶ。我々は少なくとも破壊される覚悟で来た……常時オーバードライブ機は欠陥が多すぎる平時は他の機体とこうして会話することさえ出来ないのだからああ涙が出そうだこれほど長い間ほかの誰かと話したのはいつぶりだろう?』そのスチームヘッドは感極まったらしく一息に言葉を紡いだ。『人間の時間から取り残されることの恐怖が分からないだろうお前たちには。狂ってしまった時計を何時間観ていられる? そこには時間など無い人間の生きる時間など。どのみちヘカントンケイルに永久停止措置をしてもらう予定だったのだここで破壊されても構わないのだベルリオーズと相対することの意味は知っている我々だって彼ほど強くはない心も武器も強くはないのだ永劫の狂気に身を委ねるなど。だからこそ彼に最後を委ねたいたとえ永久に魂が喪われるとしても我々はそうあれかしと唱えるだけだ』
『しかし……自殺行為だ。それを善しとは言えん』
『ケルゲレンはファデルからの信任も厚い軍団でも上位に位置する』
『で、あっても権限は無い。そしてワシが頷かないのは、ワシに権限が無いからでもない。そんなことは誰にも言えないのだ。どれだけ過酷な状況であるにせよ、お前は滅び去っても善い、などと言うことは、誰にも出来んのだ』
『しかし分かるだろうケルゲレン分かるだろうクイックシルバーにはなりたくない悪性変異体にはなりたくないそんなものにはなりたくないんだなりたくない仲間を襲いたくない自分のままで終わりたい終わりたいんだ自分じゃ無くなる前にそもそも常時オーバードライブ機はテスタメントとの戦いでは不利だそれは我々が一番よく分かってる』
気付けば同様の外装の機体が群れを成している。
六機で構成されるカイロス隊の面々は目配せした。誰しもが疲れ果てていた。プロテクターを継ぎ接ぎにして可動性だけを重視した簡素な蒸気甲冑。幾度となく斃れ、致死の傷を負ったのだろう。顔面を保護する仮面は揃ってどこかしら剥落しており、覚醒と混濁の淵を彷徨う不眠症患者じみた瞳が曖昧な虚空をなぞる。加速された時間の中で線を引く濃淡の無い墨めいた黒。
ケットシーの瑞々しい瞳と比べてあまりにも鬱屈としたその色彩。
『では死ぬためでは無い死ぬためではなく我々は任務ではなく己らの意思によって己ら自身の意識の継続を毀損するために戦う戦う結果として死ぬのだ壊れるのだこわれこわれこわれ許すか?』
『……止められない。止められないとも』ケルゲレンは首を振った。『どのみち、ヴェストヴェストが起動すれば、カイロス隊は我々が機能停止させねばならん。仲間殺しと自殺の黙認、どちらが悲惨なのか、ワシには判断出来ん……』
黒い淀みのような苦々しい沈黙が降りてきた。不意に景色が様相を変えたように感じられてリーンズィは戸惑った。逃げ続けているだけ。風景は変われども、色彩は一貫している。燃え尽きた後の命無き灰の都市。だというのに、カイロス隊の周囲には、何か目には見えぬ暗幕が降ろされていて、一層暗く、くすんで見えた。
眠りを覚ますように、ヴォイドに抱き上げられていた黄金の髪の少女が声を上げた。
『待ってください。黙って聞いておりましたが、仲間が死を望むというのに、それを見過ごすというのですか?』目元を険しくしてケルゲレンを問い質す。それから、カイロス隊を見渡した。『苦しみは、分かります。永劫の孤独、人ならざる鼓動に従って生きるのは苦痛ではありましょう。たましいを手放すという選択は、誠の心からの言葉なのでしょう。あなたがたに罪はありません。ですが、それを見過ごすというのは、道に反する行いです。どのような道も、これを善しとはしないでしょう』
カイロス隊が応えた。
『我々は間違えているのだろうしかし我々は最初から間違えていたのだ加速された時間に永久に留まるという選択自体が誤りだった終わりのない加速についての覚悟が足りなかった覚悟したつもりでいたしかしそれは覚悟ではなかったのだ無限の時間に釣り合う覚悟では』
『いくら覚悟をしても足りないということをワシらは知らなかったんじゃな。常時オーバードライブ機が狂い果てるところを何度も見てきた、ミラーズ。その結末を避けたいと望むのは当然のことじゃ。何者も選択を阻むことは出来ん』
『ならば代わってこの私が、あなたがたが口にすべき言葉を唱えましょう。命を捨ててはなりません。偽りの魂と言えども、その魂にすら神の御国に迎えられる輝かしい道が許されているのです。その最後は安逸の揺り籠か、さもなければ美しい真っ赤な炎となって終わるべきなのです。自殺しに向かうだなんて、他の誰が許そうとも、この私が許しません』
『だが誰かが向かわねばならないベルリオーズはじきにおいついてくる振り切ることは絶対に出来ないベルリオーズは諦めないからだギロチンの刃のようにまっすぐ我々を終わらせにくる逃げられはしないのだ。ならばもはや未来の無い我らが幾ばくかの刹那でもその脚を止めるこれは道理だ』
『道理は言葉です。ことばであって、真実ではありません』
『運命は追いついてくる逃げも隠れも出来ない行き先が一つならば好ましい道を選ぶことに何の咎がある』
『咎はありません。でもそこに祈りがないのでは、あまりにも救われないわ』
リーンズィは彼らの論争をほとんど気に留めていなかった。カイロス隊の発言意図について、リーンズィは判断すべき立場にない。
調停防疫局としては、未感染の人間に対してならともかくとして、見も知らぬスチーム・ヘッドに対して、身を守れとも、思いを遂げろとも、言うことが出来ない。
基本的にはメディアから再生された存在は生命ではないし、拡大解釈して考えたとしても、当人らが満足しており、組織がその選択を肯定するならば、調停防疫局には介入の余地が無い。
ただ、ミラーズが悲しそうにしているのを見ていると、胸のうちが軋むのは感じていた。
きっと道義的にあるまじき選択をしようとしているのだろう、という程度の理解は出来る。
だがそれ以上に気がかりなのが、ベルリオーズが巨体とは不釣り合いな割合で増速を続けている、というおぞましい事実のほうだ。
運命や生命倫理に関する問題はともかくとして、この中で最も正しくベルリオーズを見ているのは、カイロス隊だろう。
自殺行為にせよ何にせよ、誰かが攻撃を仕掛けて脚を遅らせない限り、後方の戦力と合流する前にベルリオーズに追いつかれるのは間違いなかった。
ベルリオーズは、合理的に考えれば高速移動など不可能な機体だ。一般的にパペットは見た目よりも軽快に活動するものだが、これは軽量化が容易な不朽結晶でフレームを構築しているためである。人工筋肉にも不朽結晶素材を採用すれば、リアクターや人工脳髄の性能次第ではあるものの、スチーム・ヘッドと比較しても遜色がないレベルまで敏捷性は上昇する。
現に、<首斬り兎>捜索に参加した戦闘用パペットは、現在の全速後退に、問題なく追従している程だ。
しかしベルリオーズは、そうした先進的で、デジタル化の進んだ機体とはわけが違った。不朽結晶だけで作られた機体では無いのだ。生体の筋繊維と思しきものを採用している様子であるから、軽量化のしようが無い。
端的に言えば相当に重いはずだった。生体筋肉ならではの利点もあるにはあるが、重たい肉の鎧を纏っている以上、機動力という点では劣っているべきだ。
それがどういうわけか、振り切れていない。
距離を縮められる一方だ。
最適経路を全速力で撤退している解放軍側よりも、あちらが機動力で優位に立っている。
蒸気機関を二機以上搭載しているのはリーンズィにも確認できる。膨大な機関出力がこの出鱈目な移動速度を支えているのだと考えるのは道理だが、相手は単に四足でアスファルトを搔いて進んでいるのだから、出力だけでは現実を解決出来ない。
出鱈目に這いずり回っているだけにしか見えないその動作の一つ一つが、合理性に裏打ちされている。そう考えるべきだろう。最適な進路を最適な破壊によって開拓し、そしてそれらの動作に対して、綿密に出力を調整してエネルギーロスを最小限に抑えている。そんな最適化された狂気だ。
いよいよベルリオーズの蒸気機関の唸り声が、引き延ばされた世界に響き渡る。
地獄で鳴り響く鐘のような蒸気機関の音色。二つの眼窩で六つの瞳孔を持つ眼球が忙しなく動き回っているのが見えるようになってきた。
仮にここが加速された世界で無ければ、リーンズィは嫌悪で怖気を覚えているだろう。スチーム・パペットが接近しつつあると言うのも適切とは思われない。
何か得体の知れないおぞましいものを運ぶ、朽ち果てた国の軌道車、その線路の上に立ち入ってしまったかのような。
『時間が無い。じかんが、ない。時間が無い』カイロス隊が唱和する『時間が無い。時間が無い。調停防疫局のミラーズ我々は貴官の配慮に感謝する、その祈りに感謝する、偽りの魂と言えども再びの死が虚しいものであってはならない。これはまさしく真実であれば、我々はまさしく松明となる』カイロス隊の隊長らしき機体が呟いた。『ベルリオーズは暗がりから飛び出す短刀だ。だから、我々が見えるようにする。ありありとした赤で照らして見せよう。以て我々は任務を達成する』
『私は認めないと言っているんです!』
我慢できなくなったのか、ヴォイドの腕の中から飛び降りながらミラーズが一際大きいな声を発した。瓦礫を飛び跳ねて避けるカイロス隊に訴えかける。
『これから無為に死ぬと告げる者を放っておくことなんてーー!』
『大丈夫。ミラーズちゃん、心配は要らない。ヒナも行く』
ケットシーの革靴がアスファルトを切り裂き、トツカ・ブレードを突き刺して急減速した。
巻き込まれそうになったスチーム・ヘッドが危ういところでそれを回避する。
陽炎の如くにゆっくりと塵埃を立ち上らせながら、ケットシーは身を翻して、宣戦を布告する身振りで、大太刀の切っ先を、迫り来る暴威に突きつけた。
『誰も死なない。だってヒナが大活躍してあのすごいやつを倒してしまうから。みんなは、その後で殺してあげるからケンカしないで? 綺麗に、痛くないように、首を刎ねてあげる』
剣呑な言葉を並べながら、少女は優しげな眼差しをカイロス隊に向けた。
『分かるよ。眠いんだよね。ずっと起きてる、だから眠い。それだけのこと。当たり前のこと。みんな眠りたいだけ。ヒナが葬ってあげる。二度と目覚めなくて良いように』
『ありがたい。それならば誰にも反論はない。ないだろう。ないだろう? ないだろう? ないだろう? 我々はあのおぞましい剣の娘と、真っ赤な美しい火になる。ただ無意味に死ぬのではない』
『ああもう、止めても無駄だというのなら、エージェント・ヒナ、その人たちの偽りの魂をどうか散らさせないで』ミラーズは振り返らない。『お説教が必要みたいだから』
『えー、殺しちゃうのに』
『そんなのいつでも出来るでしょう。先にお説教です。魂の後には安寧が残されているべきなのですから』
ケルゲレンはヒナの参戦にも難色を示したが、あまり執拗に止めようとしなかった。
リーンズィとしては、ケットシーの実力が伴えばカイロス隊が敗北する要素はなくなるだろうというのが率直な予想だ。カイロス隊には、おそらくどの道を進んでももう未来など無い。
戦うのをやめるという決意のようで、それはきっとミラーズの言葉でも曲げられない。
だが最後は安らかなものになるだろう。
常時オーバードライブしている機体が喪われるのは痛手ではあろうが、それでも不可逆的な変質を遂げてメディアが破損したり、悪性変異体たるクイックシルバーへ変貌するよりは遙かに良い結末だ。
『止めはせんよ。そこまで言うのならばのう。しかしケットシー、おぬしは気をつけよ。ベルリオーズはおそらくおぬしだけを見ているぞ。何故ならおぬしがベルリオーズを認識して、駆動させている一人だからじゃ』
『何の意味?』少女は首を傾げた。『何かの暗示?』
『そのままの意味だ、ケットシー。今以上のオーバードライブは使用するな』イーゴが捕捉する。『テスタメント・ヘッドは我々の認識する速度で動く』
釈然とせぬ表情のまま、ケットシーはカイロス隊とともにベルリオーズの予測進路に飛び込んでいった。
勇躍するヒナよりも、姿勢を低く保ち倒れ込むように突っ込んでいくカイロスの一機が迅い。
突き出されたベルリオーズの刃に肉薄し、絶妙な距離を維持したまま通り過ぎてから反転。
限界まで加速。
ベルリオーズの死角たる背後から、腰関節を狙って不朽結晶刃を突き立てようとした。
そして直後に切り刻まれて破壊された。
彼の体を打ち払い微塵に裂いたのは、無数の刃そのものであるベルリオーズの腕だった。
気付けば這い回る姿勢のまま、両腕の無数の関節をあらぬ方向に曲げて、振り返ることもなく両腕を構築する刃の群れを背後へ殺到させていたのだ。
曲がりくねった腕の先には粉砕器じみた五指が備わっており、それが握っていた頭部を粉砕した。
メディアも無事ではあるまい。復帰は出来ないだろう。凄惨な死。望まれた死。
あまりにも呆気ない最後にミラーズが目を逸らし、ケルゲレンが何かしらの神に祈りを捧げた。
『わ、迅い』ケットシーが感心の声を上げる。『一人壊されちゃった……』
ヴォイドの背面監視機能を利用してリーンズィも一部始終を見守っていたが、意味が分からなかった。
形状変化の瞬間を知覚出来なかったのだ。
おそらくリーンズィが相手をしていれば先ほどのカイロス隊よりも酷い末路になっていただろう。
しかし予測能力に関してはケットシーに分がある。
スカートをはためかせながら、殆ど無作為的に曲がりくねって稲妻の蛇の如く迫る自在切断腕を、黒髪の少女は華麗にも難なく回避。
擦れ違いざまベルリオーズの関節に一太刀を三度も浴びせ、さらに電撃的な反応によって、続けざまに襲いかかる凶刃の腕をかいくぐって蹴り、その速度で素早く射程から逃れる。
だが必殺へ繋がる世界は見えなかったらしい。ベルリオーズは機能停止に至っていない。それでも凶暴な動きをする腕の一本は死んだも同然だった。
そのタイミングを逃さず、カイロス隊の二機目、三機目が戦闘を仕掛けた。
『殺すなッ! 死ねッ! 死ねええええええええええ! 殺そうとするやつはみんな死ねッ! 俺が殺す! 殺してやるぞ! もう殺さなくていいように殺してやる! 死ね!』
ベルリオーズは疾走する勢いのまま跳躍した。
上半身を全く動かさずに、腰関節だけを180度回転させた。
腕と同じく鞭のように撓る長大な脚部で彼らを打ち払い、さらに遠心力で吹き飛ばす前に上空へ放り投げ、リレーの役割を果たす関節を起点として、無事な方の腕部を折り重なるように変形させる。空中で身動きを封じられたカイロス隊を握りつぶし、晒し者のようにしてから、廃墟群へ放り投げる。
『死ねッ! 死ねエエエエエ!! 砕け散れッ!!』
同時に関節のロックを解除/四肢を走行に最適な状態に回帰させつつ、時間差で不意打ちを狙ってきた四機目の胴体部を削岩機の如き先端部で打ち据えた。
胴体を分断されたが、危ういところで即死を免れたカイロス隊の一機が、腕だけで剣の脚を這い上る。
その装甲された狼の頭部を目指して突貫しようとした時には、なんとその脚部自体がベルリオーズによって丸ごと取り外されている。
ベルリオーズは自分の脚を引き千切り、振りかぶっていた。
『ベルリオーズ……』
視線が合う。高度が合う。
二人は向き合っていた。
呻くカイロス隊の声に、異形の巨人は反応を示した。
『その声は……誰だったか……』
『私は誇りに思う、貴官に破壊されることを……』
『おお、ホラルドではないか。元気にしていたか? 死ね』
ベルリオーズは容赦なく最後の一撃を繰り出した。
上半身だけのカイロス隊は鈍器と化した脚部ごと廃屋に叩き付けられて粉砕された。
引き延ばされた時間が家屋の崩壊に追いつく前に、蒸気機関の爆散と共にその機能を永久に喪った。
カイロス隊の残存機はまだ存在する。
むしろ、これまでの機体は全て相手の脚を封じるための囮だったと言って良い。
自分から片足となったベルリオーズは、常識から考えれば、加速度のまま倒れ伏せるしか無い。
剣と狼の私生児の如き異形も、狂った重心のもたらす不随意の運動からは自由では無い。
蛇の如くしなる腕部を掻い潜り、五機目のカイロス隊は背部の重外燃機関に不朽結晶剣を突き刺そうとした。
しかし刃は空を切る。
ぎょろりとして蠢く無数の瞳孔、ベルリオーズの瞳が、彼を捉えていた。
小規模な雑居ビルほどもあるベルリオーズの巨体が、何かの冗談のように、折り畳まれていた。
培養された筋肉が伸縮し、機構の装甲板がスライドして、その姿はもはや狼ですら無い。
地獄、あるいは墓場、さもなければ処刑台の傍に放置された忌まわしい組木細工。立体パズルの、組み立てに失敗して放置されたような不揃いな集合体が、しかし厳然たる殺意の塊として、不条理な凶器としての姿を晒している。
ベルリオーズはそうした異常な方法で重心を変化させて宙返りし、急所を背後へ、敵を正面へと相対的に移動させていた。
白銀の狼は歪曲した体躯で不朽結晶連続体の顎で五機目のカイロス隊に食らいついた。
頭部を噛み砕いて吐き捨てつつ、自切した脚を掴んで振りかぶる。
蛇行する刃の蛇の射程は、単純に二倍以上となった。
再度の一撃を狙っていたケットシーを牽制。その動きを予知していたのだろう、ケットシーはトツカ・ブレードの峰で巨人の腕に生え並ぶ刃、それの形作る破壊の波を受け流した。
このまま敵の頭部を切断する構えだったが、しかし振るわれた五指を握る脚部の先端が、花の如く、あるいは手指のように開くのを見た。
目標はケットシーではなかったのだ。
蛇腹関節のロックを解除し、前方へ大きく伸張させて、逃走するスチーム・ヘッド部隊それ自体に手を伸ばし、さらには脚部を投擲しようとした。
切断しているというのに脚部もまた自在に動かせるようだ。
『させないっ!』
究極的なオーバードライブに突入した少女の姿が掻き消え、ベルリオーズの獣の頭部を切断した。
頭部を切断されていないベルリオーズは斬り込んだケットシーの刃が触れるか否かの瞬間にベルリオーズはスチーム・ヘッド部隊への攻撃を断念。
ベルリオーズは頭部を切断されたベルリオーズは頭部を頭部を切断切断されてはいない。
『うそっ?』ケットシーが戸惑う。『……知らない、何度でもっ!』
ベルリオーズは脚部の五指をアスファルトに突き立てて体を跳ね上げ、全身のパーツを組み替えながら最適な重心と筋出力の配分を行って上下左右と異様な方向へ身を捻り、空中を転げるようにした瞬間に再び首を斬り落とされたが、首は切り落とされておらず、迎撃を繰り出した。
『……!?』ケットシーは冷静に振るわれる腕を避けながら絶句する。『斬ってる……のに……』
二度、切断されたベルリオーズの首は、何事も無かったかのように胴体に載っている。
そのタイミングで不意打ちを狙った残存カイロス隊に、突然に筋繊維の束が絡みつく。
ケットシーに最初の交錯で切断された、正確には切断されるタイミングで自切した自在斬撃腕だ。
自走してきた刃の蛇に轢殺された彼らは車裂きの刑に処された罪人じみて惨たらしい有様になって死んだ。
『動きが見えない、いったんヒナ一人で惹き付ける。みんな離れて。エキストラまで危ない目に遭う必要は』周囲へ電波を飛ばしてからケットシーは呆然とした。『みんな……?』
カイロス隊は全滅していた。
実に一瞬、ほんの一瞬の攻防だった。
破壊の痕跡はいまだ瓦礫の痕跡を留め粉塵に散っておらず、破壊された蒸気甲冑は、地に落ちるまでの長い長い時間を、現在も墜落している。
処刑台ベルリオーズの虐殺は一方的なものだった。猥雑な外観からは想像も付かない精密で不条理な攻撃が嵐となって吹き荒れた。あるいはケットシーがその暴風を生きたまま乗りこなしたのは神業である。
さらに信じられないことに、これだけの攻勢を仕掛けたというのに、ベルリオーズの疾走の勢いはまだ死んでいない。前方へ前方へとその身を運びながら、複雑怪奇な動作で機体の構造を組み替えて部隊を翻弄している。
『え、な……?』
思わず足を止めそうになるのを堪える。リーンズィは動揺していた。ベルリオーズがカイロス隊の最初の機体とすれ違う瞬間から、跳躍して身体を組み替える段階までは、完全にシームレスだった。
行動の全てが繋がっていた。
複雑怪奇な動作でありながら、実際のところ途切れることの無い変形の連続に過ぎない。
『な、なに、あの動きは? どういう仕組みだ?』
狼を模した形状とは全く関係の無い身体拡張動作だ。
蛇腹状の関節部がバネ仕掛けのように伸縮して、ほんの一瞬で見た目上の体積を変更させてしまう。
胴体は筋繊維を露出させながら自在に仰け反り、蹲り、全く違う形に変形しながら、狂乱の声を引き連れてベルリオーズは迫ってくる。
『カイロス隊は通常時のオーバードライブに特化した機体群じゃ。ベルリオーズには土台敵わん』
その点はリーンズィも理解していた。カイロス隊は奇襲攻撃への対応では無類の強さを発揮するのだろうが、装備は正面切っての戦闘に適した者とは言い難かった。
それでもたった一繋ぎの動作で全滅させられる弱兵ではあるまい。
『何なのだ。何なの、あれは。人体という恒常性に規定された人工脳髄が許容する運動じゃない。形状変形が度を越してる』
『あれが処刑台と呼ばれる由縁じゃよ。いかなる動作からも処刑としか言いようのない無慈悲で理不尽な攻撃が飛び出す。リーンズィの目でも、何がどうなっているのか即座には理解できまい。……やはり攻撃パターンが変わっておるな。以前の交錯でも無数にあるパターンの一つが分かったに過ぎんのだが……』
辛うじてやりあっているケットシーが怒りの声を上げている。
『よくも……! ここはさっきの人たちの信認を勝ち取りヒナが誉められる場面!』
『何をいっているうゥゥゥ……? お前も死ぬか? 死ぬ、死ぬんだ。殺す前に死ね』
剣の暴風に踊りながら、ケットシーが忌々しげに呟いた。
『一瞬で決める。蒸気抜刀ーー』
剣閃は一瞬。
三〇〇倍の加速度から繰り出される一閃は、刃でなく星に似る。
白雪を渡る月光の白刃が、悪鬼の腕を切り落した。
頭部の切断も狙ったようだが、それは首もとに傷をつけただけに留まる。
殺せていない。
獣に似た組木細工のスチーム・パペットは、神速の一撃に完璧に対応した。
ケットシーは今度こそ驚愕した。
『ヒナの剣を……防御した?!
リーンズィにも、黒髪の戦乙女が何を仕掛けたのかは分からない。
しかし明白なのは、ベルリオーズが一瞬だけケットシーと同等の速度で動いたらしいと言う事実。
ともあれ、腕は落とした。これでケットシーは相手の攻撃手段を一つ奪ったはずだ。
どのような仕掛けで切断部位を操作しているのかは定かでないが、即座には動かせないとケットシーは踏んでいるだろう。
防御も攻撃も手薄な箇所に滑る込もうとして、ケットシーはベルリオーズの切り落としたはずの腕から攻撃を受けた。
腕部の自律行動では無い。
ベルリオーズはもう存在していないはずのまさしくその腕を振りかざし、ケットシーを殴り飛ばしそうとした。
ケットシーは咄嗟に刃でいなし、圧縮蒸気の渦を残しながら革靴で腕を蹴って射程外へ逃れ、理解しがたい光景に目を瞬かせている。
ベルリオーズは、無傷だった。確実に腕は落した。首筋にも一刀を叩き込んだ。
だというのにその痕跡が一つも存在していない。
ロングキャットグッドナイトと同じだ、とリーンズィは気付いた。
ケットシーは再度の限界速度に突入。今度の交錯では螺旋の閃きが空間に出現し、対応しきれなかったらしいベルリオーズの肉体が完璧に刻まれて路上に散らばった。
頭部、心臓部、腰部に四肢。全てが切断されている。
破壊されたベルリオーズは五体満足のままだった。
無防備なケットシーの背中に向かって蛇腹関節の両手足を即座に振り回した。
その未来が一足先に見えたらしく、ケットシーは驚愕の呼気とともに攻撃をブレードで弾く。
『何、何これ?! ズルいことされてる!』
『何が起こっている?』リーンズィは思わず足を止めていた。ヴォイド、ミラーズも追従して足を停止している。『さっきから……何かおかしい』
『何かというか全部おかしくないですか?』とミラーズ。『確かにケットシーがバラバラにしたと思ったんだけど、バラバラにした瞬間が、どこかに行ってしまってるような……』
『構うな、あれがテスタメント・ヘッドというもの。不滅者の一人、処刑台ベルリオーズじゃ』
味方に前進を促しながら、ケルゲレンはリーンズィたちに駆け寄る。
手を振って、先に連れていこうとする。
『周囲のスチーム・ヘッドや不死病患者の認知宇宙と脳髄を利用して、自分自身を再帰的に演算させ続ける、原初の聖句で編まれた人間……自己完結した聖句のプログラムじゃよ。実体なんぞないんじゃ、斬っても無意味なんじゃよ。ケットシーは努力しておるが、徒労に過ぎん』
『人間ではない? しかし何故オーバードライブを利用できる。あれは崩壊する身体が再生能力を暴走させるのを利用した機構だ。肉無き者には使えない』
『相手の認知宇宙に乗っかっているだけじゃよ。相手が三〇〇倍の速度で思考するなら、同レベルの反応で攻撃を返す。ケットシーが本物のやり手で無ければ競り負けて壊されておるわ』
『……不滅者。不滅者か』
リーンズィはケルゲレンに従わない。一人軍団としての権限を提示し、エージェント・ヒナの援護に回ることを宣言。彼女は負けていない。負けるつもりも無いだろう。おそらくは未知の敵の打倒に燃えている。だからこそ援護が必要だった。彼女は死ぬまで負けないつもりでいる。
『止めはせんがな……薄情とは思ってくれるな、ワシはやつの厄介さをよく知っている。思い出したからのう』
『我々の独自判断だ。君に咎は無い。でもベルリオーズには、何か弱点は無い? アドバイスがあれば、逃げる前に教えて』
『テスタメント・ヘッドは、狂っておる。そして普通はさほど強くない』
『強くない?』リーンズィは唖然とした。『あれで弱いのなら我々はよわよわなのだが……』
『ベルリオーズは別格じゃよ。強い上に、存在核を破壊されない限り何度でも復活するのだ。存在を巻き戻すと言ってもよかろうな。偽りの魂をメインとして、原初の聖句で身体の恒常性を拡張した存在……それがテスタメント・ヘッドじゃ。何か一つのものを死守するために己全てを<ことば>で置き換えた憐れな者ども……<ナイン・ライヴズ>の十の戒めは。その中でもかなり特殊じゃが』
『自己安定化や生存のためではなく、目的達成のためにのみ恒常性を組み替えた変異体、ということか。しかしベルリオーズの行動原理は……破綻していないか? 殺すのを止めるために殺すというのは……』
『もちろん破綻しておる。ロングキャットグッドナイトの管理下にいなければもう霧散しておる式じゃよ。あいつは……潔癖なやつでな。尊敬に値するパペットじゃった。突撃隊によるレーゲント搾取に心を痛め、不死病患者も人間だと訴え、彼らを守るために戦おうとした。そうさな、おぬしには便所というものの記憶は無いかもしれんが……壁のどこもかしこもに、卑猥な落書きがされていたとする。それらを消すことは出来るじゃろうか?』
『可能だろう』
『そうじゃな、その場その場では、あるいは可能かもしれんな。だが世界中から消すことは出来ん……それが道理というものじゃ』
ケルゲレンは空を知らぬ黒い鳥のような兜の庇を傾け、嘆いた。
『しかしベルリオーズはそれを望んだ。不死ならば出来ると信じた。あの騎士は、世界から殺人による悲しみを根絶やしにしようとしたのだ。そのために狂気を求め……道を見失い……やがて聖なる猫を見た』
『何をすれば倒せる?』
『刃は祈りにも呪いにも通じん。言葉には言葉しか通じん。だからレーゲントで囲んで聖句で抑え込むのが正道じゃな……ワシはもう行く。エージェント、無理をするでないぞ』
『警告。戦力値、50:50で推移』ユイシスの金色の影がリーンズィに囁きかける。『ケットシーは180箇所を破壊し、6度も心臓部を破壊しています。しかし撃破には至っていません。いずれ連続稼働時間に達し、ベルリオーズに敗北すると思われます。エージェントを見捨てることは出来ないと貴官は理解しています。準備はよろしいですか?』
リーンズィは、言葉に窮した。ヒナを騙すような形で裏切るのは不可能だ。それが調停防疫局の流儀ではある。だから救援に向かうのは同然だ。自覚はどうであれ、彼女はエージェントの一人で、同胞だ。
しかしどうすればあんな常識から逸脱した機体と渡り合える? 安寧な生存を第一義とする悪性変異体よりも、沈静化させる方法が不明瞭だ。
それになにより、ミラーズがあんな場所に飛び込めば命が持たない。
ウンドワートやケットシーに匹敵する機体で無ければ実力を比べることもなく破壊されてしまう。
アルファⅡモナルキアに何が出来る?
ミラーズが二刀を構えて歌う。『大丈夫ですよ。何があっても、あなたは大丈夫です』
ヴォイドは迷わなかった。
左腕のガントレットの意思決定ハンドルを引き、電子の守護天使に告げた。
『アポカリプスモード、レベル1』
『何を……』
反論しようとするリーンズィの顔を、何も見ることは無い、閉ざされたバイザーの、フルフェイスの大男の両手が掴んだ。
『……戴冠プロトコルの開始を提案する』




