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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-11 ヴォーパルバニー その12 処刑台行進曲(蒸気抜刀・後2)

 ファデルの号令により、方々に散らばったスチーム・ヘッドたちが一斉に蒸気機関の回転数を上げた。

 戦闘の気配に鬨の声を上げた古代の戦士たち。

 あるい景気づけに号砲を鳴らす旧世代の軍隊。

 不滅の鎧を身に纏ったこの時代の兵士も、旧世紀の遺物と何ら変わるところは無い。

 永久に朽ちぬことを約束された結晶で象られたその不合理な機械の拍動が世界を揺らした。がちんがちんがちんと巨獣が歯を鳴らすかの如き音を立てながら歯車が組み替わり、炉心が開放され、永遠に温かい石、不定形あるいは個体の化石燃料、教会に住む一群が手慰みに生産している薪、どこかの誰かを肖像画とした見知らぬ国の無価値な紙幣、かつて意味があり偉大であると信じられもはや誰も信じなくなった本が熱に変換され、各々にそうあれかしと与えられた熱媒体が急速に沸騰する。

 採取した血液、蓄えられた汚水や泥、特殊な性質を付与された粒子状不朽結晶。

 魂無き機械が世界を揺らす。誰かを殺すために絶叫を上げる。


 その只中で、少女は歪な鋼の巨人と向き合っていた。

 誰もその少女に目を向けなかった。

 その存在に気付かなかった。

 その存在を覚えていなかった。

 少女と十匹の猫たちのことを忘れていた。

 唯一、司令塔として、あらゆる認識ロックから解放されているファデルだけが忘却を免れた。

 号令を掛けたそのままの姿勢で硬直し、どこからか現れた少女と、彼女の眷属たる猫の群れを注視していた。

 そのようにして、独裁者の銅像のような奇妙極まる姿勢で硬直しているスチーム・パペットを何機かのスチーム・ヘッドが発見し、疑問に感じたあと、少女と猫を見た。

 それから彼らはファデルごと少女と猫たちのことを忘れた。

 レーゲントも解放軍の兵士たちもその聖なる猫の使徒を見なかった。


『わた……お、俺は……俺は覚えてるぞ……』


 ファデルだけが、慄然として呟いた。


『……どうして……あんたがここにいる……?  何をしに現れた……? これは内紛や裁判じゃない。あんたの出る幕じゃない……』


 世界は空気とともに蒸気機関に吸引され、燃焼室で押し潰されている。誰しも、そのような形でしか息を出来ない。不滅の肉に偽りの火を送り込む冷たい鞴。非武装のレーゲントたちも己らの蒸気機関に触れ、あるいは頭に深々と突き立てられた造花の人工脳髄に触れ、一様に原初の聖句を紡ぐことを中断し、緊張した面持ちで事態の推移を見守っている。

 その猫の少女だけは、全く平静だった。何も聞こえていないかのようだった。その呼吸に金属の肺は介入せず、その言葉に偽りの魂は必要なかった。

 少女は無抵抗な三毛猫を掲げて、ユンカースと名乗ったその二足歩行機械に挨拶した。


「おはようございます、遊園地の幸せな遊具に似た大きな人。ロングキャットグッドナイトです」


『はじめまして、ロングキャットグッドナイト。当機は医療支援AI、ユンカースです』


 意外なことにユンカースはごく普通に返事をした。猫がにゃーと鳴いた。


『その生物は?』


「これは猫です。和睦の使者です」


 ロングキャットグッドナイトは朗々と歌った。


「和睦の猫たちが、このようににゃーにゃと鳴いています。無垢な赤子のように小さくて無害な、吹けば飛ぶような毛玉の如き命が、こんなにもか細く、あわれにも、ふるえているのです。戦いの恐ろしさとむなしさを知っているので。なげかわしいことです。猫を泣かせしまう諍いは、全て悪です。聖なる猫の福音書にもそう書いてあります。何故なら聖なる猫がそうお告げをしたからです。猫の悲しみを通じて、あなたにも猫を遣わした神の悲しみが分かるでしょう。猫に免じて、矛を収めてくださいませんか」


『理解が不能です。しかし停戦交渉の要請であると判断しました。現在の戦闘状況は当機の関知するところではありません。残念ながらあなたの期待に添う返答は不可能です』


 答えが不満だったのか、掲げられた猫がてしてしとパンチをし始めた。めっです、と囁きながらロングキャットグッドナイトは猫を胸に抱えた。

 少女達はこの殺伐とした風景、兵士とレーゲントが群れを成すこの鉄火場の淵で浮遊していた。もっとも、取り立てて奇妙な点は無い。だがレーゲントを知る者はむしろ主張のないその服装に違和感を覚える。無垢な表情に戸惑いを覚える。貫頭衣型の行進聖詠服には装飾が殆ど無い。将軍の如く様々な勲章、祈りや信仰に基づいて生み出された何の正式な由来も持たぬエンブレム、信者として彼女たちを支えた人々の欲望の残滓としてのレリーフで装飾を施されている他のレーゲントと比べれば、全く無いと言っても良かった。幾百、幾千の魂を導き、信仰、憧憬、敬愛、ありとあらゆる熱狂を一身に注がれたはずのレーゲントの装束としては不自然なほどに簡素で、豊かな猫っ毛を湛えた顔貌は確かに整ってはいたが、いずれも汚濁や呪詛とは無縁で、清潔だった。


「では、どなたが猫のぬくもりを知りますか?」


『交渉可能な相手を尋ねていると理解します。本作戦における全権は当機のオーナーであるエージェント・ヒナに付与されています。交渉なら彼女までお願いします。しかし、接触は非推奨です。剣を持たないあなたが意思疎通可能な機体ではありません。凶器を介してのみ彼女は言葉を理解します』


「そうですか。()()()()()()()()()()()()()


 少女はこっくりと頷いた。ユンカースは咄嗟には回答できず、ファデルが『待ってくれ、あんたの手を煩わせるような事態じゃ……』と訴えたが、猫のレーゲントはただユンカースに対してのみ猫を掲げて見せた。かつての同胞のことなど大して記憶にとどめていないという様子だった。巨人の手に収まるものは何一つ無い。触れることさえ出来ない。

 ファデルはままならぬ現実に癇癪を起こしそうになっていた。


「感謝します、遊園地のぐるぐる回る幸せな遊具に似た人。さようなら、さようなら。わたしキャットはその方の所へ参りますので。あなたもいつか幸せな夢の中で猫と遊んでください」


『猫は嫌いではありませんが、繰り返します。ヒナとの接触は非推奨です。不朽結晶連続体で完全武装した戦闘用スチーム・ヘッドと相対することの意味を理解してください』


「ハレルヤハ。理解していますので」


 少女の歌うような言葉は、蒸気機関の爆音が鳴り響く中でも明瞭に響き渡った。


「矢と弾は、すべからく尽きるもの。いかな刃も、いずれ折れて砕けるもの。戦士もやがて倒れて眠るものなのです。しかし猫だけは命を失いません。猫の命は九つあります。そして9という数字は3つの3であり、ほぼ聖霊です。つまり聖なる猫のぬくもりは永久なので。誰も猫の影を踏むことは出来ないでしょう。猫は神の影、その足跡であり、わたしキャットはその影を歩むもの。猫を知らぬ人のための代理人。武器を捨てた兵士の胸に猫を乗せます。兵士はやがて猫に抱擁され、安らかな眠りにつくでしょう」


『何を言っているのですか?』医療支援AIは戸惑った。


「全ての剣は折られるべきなので」


『何を……』


 ユンカースが当惑しつつ応答したときには、もうその少女は消えていた。

 猫たちも姿を消していた。

 その生真面目な機械は、善性によって、すぐ傍の敵に呼びかけた。


『解放軍ファデルに警告。先ほどの不明な不死病患者は貴官の部下ですか? 即座に撤退させることを推奨します』


『全軍停止! 停止しろ!』


 ユンカースに取り合うことなくファデルが絶叫した。拡声器をハウリングさせながら怒鳴りつけ、手近な通信手たちに命令して、発煙弾、発光、サイレン音、あらゆる手段を講じて停止の信号を送らせた。


『進軍を停止しろ! 緊急事態だ! 進軍停止! 臨戦状態を維持したまま待機、待機だ! 俺が行けと言うまで一歩も前には進むな! いずれ何かを目にするはずだ。何かは言えない! お前らは理解できねぇからだ! だが不可能だと感じたなら、全速力で後退しろ! 何が何なのかは、見れば分かる! 各自その場で待機だ! レーゲント隊は直ちに散開! 聖句戦に警戒しろ!』


 くそっ、マズいことになった、くそっ、と毒づき、エージェント・ヒナ討伐の現場へ向かうことなく、ファデルはその場で大型剣を構えた。ロジー・リリウムがひどく狼狽した様子で事情を尋ねに来て、ファデルから何か名前を聞いたようだった。

 不死の肉体を強張らせたその栗毛のレーゲントは青ざめて蒸気機関の拡声器を起動して、聞いた名前を一言も口にすることなく、ただ聖歌隊の面々に「備えるように」と呼びかけを始めた。

 異様であった。張り詰めていた空気の質が丸きり変わってしまっていた。

 敵であるはずのユンカースが逆に問いかけることになった。


『解放軍ファデル。音紋解析の結果、貴官らは酷く動揺していると結論づけました。先ほどのレーゲントはそれほどの重要人物だったのですか』


『ユンカース。あんたのぶら下げてるそれは、全部ヒナ・ツジのための追加兵装なんだよな?』


『回答する必要を感じません。支援を阻むことは、これを認めません』


『逆だ』


 筒状の頭部を持つそのスチーム・パペットは、戦闘が発生していると思われる方角を躊躇なく指差した。


『ぶっ潰されたご主人様が見たくないなら、今すぐ使えそうな武器を送るんだ。デカい野郎、速い野郎、クソみたいにタフな野郎、全部すりつぶせるような武器をだ』


『貴官は自分が何を言っているのか理解していません』


『いいや理解してるね。俺だけが理解してるんだよ。猫の手も借りてぇってことだ。くそっ、猫の手も借りたい、なんて言葉も使いたくねぇが……俺たちであの御方を止められるか、正直自信がねぇ。リリウム様が来るまではたぶんどうにもならねぇだろう』


『事情は関知しません。元より支援開始の刻限です。てっきり妨害されるものと予想していましたが』


 ユンカースのアームから、電磁加速されたコンテナが次々に射出されていく。それを見た解放軍のスチーム・ヘッドたちは困惑した様子でファデルを振り仰ぎ、真意を糾そうとしたが、回答が無いのを回答として理解し、その場で戦闘準備を始めた。

 無数の蒸気機関が、解き放たれることなく、世界を押し潰している。

 怯える子らの心臓のように。


『ユンカース、どうかジャミングを解くことは出来ねぇのか?』


『当機の意思決定権はエージェント・ヒナに委託されています』


『あんたのご主人様は目についたものを全部斬り殺すイカレ野郎だな?』


『肯定も否定もしません。ただし、ここに彼女が尊重すべき味方などいないのは事実です』


『なら良い。俺らを殺しにくるのと同じぐらいの勢いで働いてくれるんならな。むしろ助かる』


『繰り返します。貴官は自分の発言を理解していないものと予想します。味方を攻撃しろと敵に要請する理由は何ですか?』


『すぐに分かる。――だが、それを理解した時には、もう手遅れかも知れねぇ』

 


 そして、彼らは災厄の箱が開かれるのを見た。

 


 アルファⅡモナルキアには特殊なオーバードライブが存在している。

 悪性変異体用を鎮圧する場合にのみ使用可能な、超高倍率破壊的抗戦機動。

 最高加速倍率は百倍を超える。『オルタナティブ・ドライブ・オペレーション』という名前は存在するが、正式なものでは無く、それの短縮形らしい『オルタ・ドライブ』や『アルタ・ディメンション』など、様々な名前の案がそのまま登録されているような有様だ。

 統合支援AIユイシスの助けがなければそれらが具体的な一つの機能を指しているのだと認識することさえ難しい。

 この不確かな上位戦闘機動は、アルファⅡモナルキアの別の機能を完成させる過程で、副次的にもたらされた機能である。使用可能だという事実が判明した後も、検証実験はさほど綿密には行われなかったらしい。生体脳をベースとして各種の能力を強制的に向上させるオーバードライブと現象は似ているが、実際には発動機序も異なる。


 最大の特徴は主導権が生体脳ではなく人工脳髄の側にある点だろう。

 どうやらこれが自分たちアルファⅡモナルキアの独自の機能であるらしい、とリーンズィが気付いたのはここ数日のことだ。

 ヘンラインやコルトたちと赴いた調査任務において、クイックシルバーと呼ばれる悪性変異体と遭遇した際、リーンズィは初めて能動的にこの機能を使用した。

 そしてこの機能がある意味でカタストロフ・シフトと真逆の性質を有することを発見した。


 滅亡したどこかの世界へと転移するカタストロフ・シフトは、まさしく予測不可能な危険をもたらす。

 言わばカオスの海への投身であり、行き着く先は神の如く君臨する<時の欠片に触れた者>の匙加減で定められる。

 対して、オルタ・ドライブにおいて、究極的な加速に到達した世界は、一切の変化を許容しない。


 見えるもの全てが欺瞞に変わる。そのように記述するのが適切だろう。完全なる空虚が根を張って世界を犯し、事物が例外なく静止する。

 有史以来そのようにあるべしと定められたかのごとき創造物たち。自分の脈拍、蒸気機関の鼓動など聞こえはしない。肉体から心臓が欠落する。音という概念が世界から切除される。自分自身に手足が備わっているという事実すら信じられなくなる。吹き飛ばされた灰は微動だにせず、大気は固形化して息も出来ない。皮膚感覚すら断絶して、ただ凍て付いた風景だけが許される。

 孤独。完全な孤独だ。

 リーンズィは初めてオルタドライブを起動したとき、目には見えない恐ろしい存在によって、遠い時間、灰色の地平線、その先にある名状しがたい牢獄、全ての可能性が喪われた世界に、自分だけが放り込まれてしまったような気がした。身体動作の不自由さにも焦燥感が付きまとった。首輪型人工脳髄の演算能力でも認知能力の加速までは可能だったが、身体制御まではとてもリソースが回らなかった。

 誰と触れあうことも出来ない、自分の体さえ満足に扱えない。究極の孤独に晒されてすぐに怖くなり、倍率を落とし、クイックシルバーの不規則な起動に追従できる程度までに減速したのだった。カタストロフ・シフトも危険ではあるが丸きり全ての自由が失われることの閉塞感は形容しがたい。

 強力な機能ではある。たいていの場合において、相手がこちらを認知するよりも速く行動できるのだから、絶対的であるとすら言える。ただし、負荷が不釣り合いなほど大きいため、常用できる機能ではない。そもそもスチーム・ヘッドやパペットと戦闘するには加速度が過剰すぎる。使う場面は特殊な悪性変異体と対峙した場面にしかあり得ない。

 製造段階で既にそのように定められていたのだろう、この特殊なオーバードライブのロックが解除されるのは、総合的に見て悪性変異体との戦闘が避けられない場合に限定されていた。

 それを知っているからこそ、リーンズィはオルタ・ドライブを利用して駆けつけてくれたヴォイドに、思わず不安な声を掛けてしまった。


『ヴォイド……? 何を、している……?』


 少女の声は上ずっていた。ケットシーの猛攻を凌いだ結果として、腕部の甲冑はボロボロで、何度かは骨肉にまで斬り込まれている。それでもリーンズィの意識は己が同胞にして親機たるアルファⅡモナルキア・ヴォイドに集中していた。

 オルタ・ドライブは究極の虚無の世界だ。何もかもが静止した行き止まり。

 ただ足を踏み出すだけでも全身が圧壊する程の負荷がかかるに違いない。

 そう易々と起動できる力ではないのだ。

 なのにアルファⅡモナルキア・ヴォイドは救援に駆けつけてくれた。

 全身に血煙と蒸気を甲冑の如く纏ったアルファⅡモナルキア・ヴォイドがどうやってオルタ・ドライブのロックを解除したのかは、ヴォイドと同期して『K9BS使用』『危険/悪性変異進行率:100%』のタグがついているのを確認した時点で理解出来た。

 自分自身に悪性変異体の因子を撃ち込むことで無理矢理発動条件を満たしているのだ。


 百倍速の世界での活動は、文字通り致命的だ。バッテリーは一瞬で干上がり、重外燃機関が無ければ継続起動は困難。不滅にして不朽であることを約束された生命であったとしても、凍り付いた世界の閉塞感と圧力には到底耐えられない。生命管制が完全でないならば、オルタ・ドライブに突入した瞬間、その機体を構成する全ての要素が崩壊する。たちまちに肉体は圧壊し、人格記録媒体に収録された情報までもが不可逆的な変質を遂げるだろう。無謀な飛翔を試みた機体は蝋の翼を融かされることさえなく、ただ無様にも空中を転げる肉のペーストとなって終わるはずだ。そしてアルファⅡモナルキアのような極めて高度な生命管制能力を持つ機体ですら、その速度の世界では100%の実力を発揮できない。加えて、ただ移動に利用しただけで、信じられないほど多くのものを対価として奪い去る。現にヴォイドは幾つかの臓器を完全に破裂させてしまっている。人工脳髄が一時的に機能を代替しているのだろうが、生体脳の無事も怪しい。

 端的に言えば欠陥機能だ。

 それを躊躇無く使用してここまで駆けつけてくれた。


『そんな無茶をすれば、いかなアルファⅡモナルキアでも壊れてしまう……』


『意志決定の最終権利者を援護しない機体はいない』外れて砕けた関節部を修復しながらヴォイドは淡々と返事をした。『子機を守れない親機には、調停できる戦闘も存在しない』


 援軍は有り難いばかりだが、しかし調停防疫局のエージェントとして一体幾つの機能を不正利用したのか、見当が付かない。

 これでいいのだろうか、とリーンズィは少しだけ憔悴した気持ちで考えた。

 その間に、見えざる手に脳髄を掻き回されてしまい、リーンズィは異物感に身を竦ませた。

 どうやらヴォイドがリーンズィの記憶領域を無遠慮に閲覧したらしい。


『状況は把握した』


 他の機体には共有していないプライベートな記憶まで漁ったあとで、ヴォイドは何事も無かったかのように水兵服の少女と向かい合った。


『こちら調停防疫局のエージェント、アルファⅡモナルキア。東アジア経済共同体、葬兵ヒナ・ツジに告げる。我々調停防疫局は、君との戦闘を望まない。どうすれば交渉の席に座るか。回答を求める』


『すごい……なんかボスっぽい人が来た……』ヒナは嬉しそうにぼそりと呟き、それから居住まいを正した。『決まってる。椅子に座るなんて両足がついてるうちは認められない。あなたがヒナに勝てないなら、テレビの前の皆は納得しない。だから何か言うことを聞かせたいのならヒナを殺してみせるべき。あとこれはとても大事な設定。今のヒナは、ヒナ・ツジじゃない。ブランケット・ストレイシープのケットシー。これがみんなからの愛称』


『ではケットシー、不本意ながら貴官の制圧を開始する。君という個性の存続を、防疫局は保証しない』


 そして左腕部ガントレットの文字盤で文字し、弾丸を装填するかの如く意志決定のレバーを引く。

 右腕をケットシーを向けた。

 腕が前方に向かって爆裂した。

 リーンズィには、何の予徴も無く蒼い暴風が吹き荒れたようにしか見えなかった。自分自身に鎮圧拘束用有機再編骨針弾を使用し、限定的な悪性変異をもたらすダブルクロス・モードだ。ヴォイドの右腕を再構築して生成された蒼い薔薇の群れは、姿無き百人隊が繰り出す無数の槍へと変貌し、人体という脆弱な器からは到底発生し得ない速度でケットシーの元へ殺到した。

 リーンズィの二十倍に加速した世界の知覚でさえ、それら茨の一撃を補足することが出来ない。それが数十に分岐して、一斉に突き込まれるのだ。おそらくは使用したヴォイドにすら、己の右腕を構成するその獰猛な群体がどういう動きをしているのか、把握していない。

 だがケットシーは即座に対応した。


蒸気抜刀(じょーきばっとー)――九頭龍斬殺剣(トツカ・ブレード)


 それに真っ向から斬り込んでいた。

 斬り込んだ、とリーンズィが認識したときには、舞い踊るような動きで茨の群れへ突っ走る。

 自殺行為にも等しい迎撃行動。

 それにも関わらず、茨どもの矛先は、ケットシーの雪花の肌にただの一筋も傷を付けていない。

 全て切り払われている。振るう剣はこれまでのカタナよりも幾分か長大である。背部蒸気機関にマウントしていたトツカ・ブレードなる大型カタナを、不可知の加速領域で抜刀していたらしい。

 蒸気が爆発的に線を引いている点からして、圧縮蒸気の噴射を利用して超高速の居合抜きを繰り出す技のようだ。実態がどうであれ、蒸気による加速などたかが知れており、不滅の青薔薇の前で問題になるものでは無いため、基本的には純粋な技量によって切り捨てたはずである。


 ウンドワートでさえ怯ませたその蒼の奔流を、少女は全く恐れなかった。

 右腕部を怪物に変貌させたエージェント・ヴォイドが神話の怪物なら、ケットシーはそれを打ち破る英雄に他ならない。そう思わせるだけの鋭敏さがその制服姿の少女には備わっていた。あるいは運命論的な斬撃、遙か以前からその空間に一太刀が存在していたとしか解釈できない理解不能な速度で血を啜る蔦を打ち払い、予定調和とばかりに躊躇無く掻い潜ってくる。その色素の薄い面貌を歓喜と愉悦に赤らませて、口の端には凶悪な笑み。殺戮の奔流を遡り、茨の川の主たるヴォイドに肉薄しつつある。


『あは! あははは! すごいすごい、ヒトの形を残してるのにマモノ(悪性変異体)の力が使えるんだね! いいよ、すごくいい、すごくいい絵になる! こういうの久しぶり!』


『バケモンどもには付き合ってられんのう』と輸送用パペットから折れた刀剣の代わりを引き抜きながらケルゲレン。常軌を逸した戦闘を目に映してほうけているリーンズィに、短槍を手渡してくる。『まぁどちらもいつまでも続けられる動きではあるまい』


 指示は殆ど聞こえていなかった。リーンズィとしては信じがたい光景だった。

 あの恐るべきもう一人のアルファⅡ、解放軍最強と目されるウンドワートにもまるで通じない技ではあったが、全身装甲型でも無いスチーム・ヘッドが、平然と、それも真正面から、蓋然性の暴力で空間を埋めつくさんとする蒼い薔薇の槍衾を食い破ろうとしている。


 ついにケットシーが、ヴォイド本体をトツカ・ブレードの射程内に収めた。

 その瞬間、この宇宙の常識を無視した異常な光景が現出した。

 像が震動したと見えた瞬間には、既に横凪ぎの一撃が振るわれていた。

 ただし不可知の領域で攻守が逆転していた。

 仕掛けた側である筈のケットシーはブレードの茎を突き出して防御に転じており、ヴォイドがガントレットの左腕で精密なストレートを叩き込んだ後のようだ。

 獲物を捕らえ損ねたスタンモードの電流が大蛇の舌のように茎を舐める。

 返す刀が空中に同時に七つのカタナの閃きを描き、そうして引かれた雪夜にかかる月の如き銀色の円弧を歪なガントレットの七つの残光が打ち砕く。可憐なセーラー服の裾とスカーフをはためかせ蒸気の尾を引いて無軌道に跳ね回るケットシーを追う蒼い茨の群れ。茨はカタナに切り落された傍から時の庭に根を張り世界の枝に絡みつく名も無き悪意の茂みと化して際限なく再生して残像を貫かんと絡まり合い捻れて狂う。

 人知を越えた領域の攻防は時間から脱落したかのように生じる一瞬の静止によってのみリーンズィの視覚に映じた。青い蔦に攻撃を任せ、ケットシーの太刀を拳で迎撃するヴォイド。出鱈目な速度で展開する茨の檻を四散させ、奇怪な軌道からヴォイドの喉笛を切り裂かんとするケットシー。

 一見してヴォイドに分があるようだが、同水準のスチーム・ヘッドの戦いは常に攻撃側に分がある。

 敵の攻勢に一拍遅れるたび、敗北は負けるべき者に歩み寄る。

 カウンターの一撃を狙うヴォイドは、槍衾の展開するパターンを読まれるほどに不利となる。


 やがてその時が来た。

 少女の手の中で柄が滑る。

 射程を延長されたトツカ・ブレードが、ヴォイドの右腕、茨を噴出させる悪性変異の病巣を切断した。

 統御を喪った蒼い薔薇は暴走を防ぐ目的で即座に不活性化。

 魂無き追跡者たちを無力化させたケットシーが一挙に優勢に躍り出た。

 閃く大刀の軌跡がアルファⅡモナルキアの首を切断せんと繰り出される。


 だが真に一手を先んじたのはヴォイドの方だった。

 ガントレットはトツカ・ブレードを防御することなく、切断された茨の腕を殴り飛ばしていた。

 極限のオーバードライブ環境下において、切断された右腕部はまだ手が届く位置にある。

 スタンモードを利用して、悪性変異体の肉片へとパルス化した起動指令を組み込んだ電流を流し込み、ケットシーへと押しやった。

 目を見開く少女の眼前で、変異を集約された腕部に仕組まれたプログラムが起動。

 爆裂した。

 誰も茨の先に蕾が芽吹いたのを視認しなかった。

 須臾の狭間で爆発的に増殖した茨の群れは供与された熱量の全てを転換して青い花の群体となり、1ミリ秒だけ持続する穂先の大波となってケットシーを包み込む。

 悪性変異体<青い薔薇(ブルー・ローズ)>のオーバードライブだ。自然に発生した同タイプの悪性変異体がこの動作を実行した事例は存在せず、調停防疫局においても、アルファ型のエージェント以外はこの現象についての知識を与えられていない。


『乱数で生成される蓋然性の壁だ。これが無効ならば――』


 ヴォイドの声には諦観の響きがある。

 気付けば、ケットシーの姿が掻き消えている。

 茨の奔流が収束した、その数歩離れた位置。

 セーラー服のスカートが、静止した時間の中で波打っている。

 熱量を消費し尽して枯れ朽ちた<青い薔薇>を背にして、その足取りは花弁(はなびら)の舞い散る様に似る。

 リーンズィは目を凝らす。

 槍衾の触手の群れは、命中してはいる。不朽結晶繊維で防護された胸部は無事であるにせよ、内股や首筋など、露出している部位に刃が通った痕跡が見える。

 今、オーバードライブを解除すれば、傷口から血が零れるだろう。

 だが、それだけだ。

 とても決定打とは言い難い。


『これが無効なら、現状の戦力では打倒のしようが無い。リーンズィ、ケットシーの動きは読めただろうか』


 もちろんリーンズィにも、ケットシーの異次元の機動など認識出来ないが、ヴァローナの瞳により、後追いの理解を得ることは出来る。


『……彼女は剣を振るい、庭師の如く茨を払った。爪先で触手をいなし、制服の表面に茨を這わせ、危険な進路にある茨の波を渡って見せた……』


 恐るべき波を避けいなしたことで一つの限界、あるいはピークに達したのだろう、戦場にあるまじき忘我の貌、恍惚の気配を立ち上らせて空を仰いでいた黒髪の乙女は、全身から赤い体液を滲ませながら、しかし未だ余裕を残している。

 そうしてスカートの下から伸びる脚を見せつけるかのように伸ばし、革靴の爪先を頭頂にまで高く掲げたかと思うと、背後から奇襲を仕掛けようとしたケルゲレンを足蹴により迎撃した。全く逆方向を向いていたにも関わらず、インパクトの瞬間には真正面から装甲を蹴りつけている。世界からフレームが欠けたかのような異様な動作速度にそのペンギン級スチーム・ヘッドは対応出来ない。


 ケットシーはケルゲレンを足場として利用し、さらに蒸気噴射により跳躍。稲妻のように急下降して、四本腕の倒立姿勢から脚部のプラズマバーナーの直撃を狙っていたグリーンに標的を変更。トツカ・ブレードの一振りで牽制し、起動タイミングを逃がしたプラズマ発生器の先端に革靴を乗せて再び着地。熱が伝播する前に舞台を支配する踊り子のごとく優雅に身を翻すと噴射機の一基にセットされている短刀を抜いて投擲。密かに再生を終えていたイーゴの頸部を、彼が動き出す前に再び断裂させた。


 ケルゲレンたちの一連の動きが、イーゴによる奇襲をカバーするための布石だと看破していたのだ。

 ケットシーにはエージェント、<首斬り兎>、サムライなどといった言葉さえ不適当だった。

 それを捕まえることは誰にも出来ない。

 人間の形をした黒い蝶に翻弄されている。


『息切れというものを起こしておくべきじゃろうが』良いようにいなされ続けるケルゲレンが悲鳴を上げた。『ふざけておる、切り裂くという行為の具現者か』


 異常なのはそもそも一連の回避行動において敵対者の動きをいちいち視認していないということだった。全ての機体が厭と言うほど同じ動揺を味わっていた。完璧に対応されているというのに、あちらはこちらのことなど眼中に無い。黒曜石のような視線は恍惚に潤んで、唇は歓喜の吐息を漏らして緩み、身体動作の一つ一つが芝居じみている。そして、余人には見えぬスクリーンでも眺めているような無関心さが常に少女を付きまとっていた。それなのに単純打撃の一発を成立させることさえ誰も成功していない。

 出力が危険域に達したヴォイドから救援要請の合図があった。

 ケットシーの相手をケルゲレンたちに任せ、リーンズィはボロボロの両腕でヴォイドを抱えて凶刃の射程範囲外に逃れようとした。


蒸気抜刀(じょーきばっとー)……』宙返りする形で瞬時に反転したケットシーのトツカ・ブレードの刃が背中を追いかけたが、横合いから飛びかかったミラーズが危ういところでそれを弾く。


 ミラーズの援護を頼みに、数十ミリ秒は安全だろうと言える位置まで退避し、廃屋の外壁にヴォイドをもたれかけさせる。そこからさらにケルゲレンたちに援護を任せる。

 ミラーズはカタナを投げ出し、泣きそうな顔でヴォイドに寄り添い、しかし厳しい口調で叱責した。


『ヴォイド、いくらあなたがリーンズィじゃないって言っても、あたしはそんな無茶をしてほしくはないわ。あなたは理解しないかも知れないけどね』


『ケットシーの戦闘能力を確認する必要があった。オルタ・ドライブでも振り切れない。おそらく通常倍率では同じフィールドにすら立てないだろう』崩壊した体組織を冷却剤として重外燃機関から強制排出しながらヴォイドが報告する。『ウンドワート級のスチーム・ヘッドと認定する』


『理解を超えている。何故あんな動きが可能?』


 ミラーズが空中で止まっている折れた刃を握り、凜然と胸を張って、その小さな背中を二人に向け、ケットシーの方を向いた。今度はケルゲレンたちが限界に近い。

 ミラーズに盾のような役目をさせるのは忍びなかったが、ライトブラウンの髪の少女は己の役目に徹すること選んだ。

 両腕の再生に注力しつつ、死力を尽してケットシーの動きを見極めようとした。

 そうしなければ勝機が無いからだ。

 負荷によって瞳の変色が始まっているのが分かる。それでも思考能力が認識に追いつかない。

 理解は常に後追いで、殺すつもりで放たれた一撃を自分が避けられるという未来を、どうしても思い描くことが出来ない。

 ユイシスの声が脳裏に響く。


『報告。目標スチーム・ヘッド、ケットシーのオーバードライブは、限定的に三百倍を超えています』


 三百倍。その速度に達した世界をどうやって知覚しているのか、何故人外の領域に到達した身体が自己崩壊を起こさないのか、何一つ説明が出来ない。

 確かに、戦闘用スチーム・ヘッドは外観上人間の形を保っているだけで、他の不死病患者とは幾分か肉体の構造が異なる。特にオーバードライブを使用するたびに筋組織や神経系は強化されていくため、あるいは究極的には、三百倍に加速した世界にも適応可能なのかも知れない。

 それでも白刃を煌めかせて舞い踊る少女こそがその究極形態なのだとは、とても信じられなかった。


『根本的に……人体の構造を維持したまま<青い薔薇>のオーバードライブを避けられるはずがない。人間の視神経や脳に許された認知能力では目で追うことさえも……まさか彼女も未来予測演算を行っている?』


 ヴォイドは否定の信号を返した。


『ケットシーの人工脳髄はシィーの人工脳髄と同等の仕様だと予想される。そのような機能の存在は想定しにくい。傍証として、超高速機動中の彼女の身体運動における人工脳髄依存率は極めて低い。ウンドワートのように生体脳髄の防壁が停止する予徴が無く、ハッキングを受け付けない。さすがに体組織の再生と変異抑制にはリソースを割いているようだが』


 体内組織の再構築を終えたヴォイドが姿勢を立て直す。悪性変異進行率は依然として100%。アルファⅡモナルキアの現在の仕様では200%からが変異危険域だが、100%であっても当然安全圏からは大きく外れている。同じことをリーンズィが実行していれば、ヴァローナと名乗っていた少女の肉体は完全に変異してしまった後であろう。

 観察をしているうちにも、ケルゲレンとミラーズは連携を取り、圧倒的強者に嬲られる役を交代していく。リーンズィとしては腹部にゆっくりと(加速した世界でゆっくりも何も無いが)斧槍の破片をねじ込まれそうになった記憶が苦々しく、ミラーズがそんな目に遭わされては我慢が出来ないところだったが、ケットシーが無表情と恍惚の狭間といった表情で僅かにこちらを見てウィンクしてきたので、何をどう考えたものか分からなくなった。

 もうあんな真似はしないという合図だろうか。

 ミラーズを細切れにされても困るのだが。


『……とにかく。私よりもケットシーの人工脳髄の方が優れている?』


『基礎設計に関してはシグマ型ネフィリムは優秀だ。十分な装備と優秀な人格記録媒体(プシュケ・メディア)、そして活動に適した肉体があれば、最終的なスペック上はアルファシリーズにも匹敵し得る。彼女はその中でもさらに生命管制特化の型かも知れない』ヴォイドは一貫してミラーズの心配をしなかった。『シィーから取得した情報によれば、シグマ型高性能人工脳髄は、使用者の特性に応じて性能をチューニングが可能だ。オーバードライブ用の身体制御や射撃管制装置を採用せず、再生と変異抑制だけに機能を集約させれば、あるいは部分的に我々以上の水準に仕上げることも可能だろう』


『オーバードライブ機能が、無い? しかし現象に対する説明がつかない。生来のオーバードライブを、機械的なオーバードライブで補助しているように見える』


『説明は既に成された。生体脳の機能だ』


『オーバードライブのかなりの部分を生体脳が代行しているのは理解している』


『理解していない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。より正確には、可能な動作の一部がオーバードライブ同然の領域に達している。あれはケットシー、葬兵ヒナ・ツジ個人のオーバードライブであって、人工脳髄の要素が最初から存在しない』


 右腕を空にしていたヴォイドのバイザーが紫電を反射した。アルファⅡモナルキアの最上位修復機構たる架構代替再生においてはまず、最初に虚空に神経伝達の電流が放出される。骨肉はその電撃を追って、最初から切断された事実など無かったかのように出現する。


『そんなものは人間ではあり得ない』


『人間ではないのだ。それが結論だ。死にさえしないなら、補助なく音速の世界へ入門可能な真性の怪物だ。彼女のオーバードライブは、不死の獲得によって開花した彼女個人の才能に過ぎないのだ。ただ、青い薔薇による蓋然性障壁を突破された点を考慮すると、それすらも彼女の本質の一端に過ぎない』


『メガロマニアじみた妄想の通りに、自在に身体操縦が可能だとでも?』


『おそらくそれ以上だ。コントロール可能なのは身体だけではない、としか推定できない。想像できることは、必ず実現可能である……くだらない空想理論だ。しかし、おそらくケットシーはその空想理論を体現している。彼女は自分に有利な未来に辿り着くための手段を一足飛びに理解しているのではないか』


『望む未来への道筋を理解し、実行出来る……? そのような変異体だということ?』


『悪性変異の兆候は検知出来ない。しかし極めて特殊な生体脳の持ち主であることは間違いないだろう。生前からそうだった可能性もある。特異な才能なのだ。どれもこれも一度死んで再生したとき、即ちコストを踏み倒せる不死となって、始めて花開く天稟だ。一秒か、二秒か……予め選択できる未来はその程度だろう。ウンドワートや我々の未来予測演算よりも範囲は狭い。しかし生体脳由来の能力は濫用が可能だ。そして世界が仮想では無い分、誤差も少ない。電力消費も気にしなくて良い……』


 刃から火花を散らし黒髪と金髪で二色の巴を描いていたミラーズが、リーンズィとヴォイドの会話に対して困惑の声を上げた。


『二人とも、待ってくれる?! どういうこと?! え……これ何か理由があるの?! 全然わけが分からないのですが!』


 ミラーズの攻撃には殺意というものが存在しないが。相手も同様だった。相手を戦闘不能にするという意志が全く感じられない。

 もっとも、ミラーズには少なからず相手を止めようという気概がある。彼女は静かに憤っていた。戦好きとは言えないミラーズだったが、それでもスチーム・ヘッドたちが次々に斬殺されることには腹をすえかねていたらしい。彼女を止めなければならない、という義務心があるようだった。

 ところが、ケットシーには意志どころか高揚以外の感情が無い。

 言動の全てから只ひたすらに現実感が欠落している。


『彼女はこの現実をそもそも見ていない……?』


 何を見ているのかは分からない。

 言うなれば彼女は今・ここという画面を見ずに、少し先の未来が表示されたモニタを眺めているのではにか。

 それがどのような視座なのか、リーンズィたちには知るよしも無い。

 言うなれば予知能力者。そんな常識外れの存在が知覚している世界など、誰が理解出来ようか。


 リンクを通じて、刃で対話するミラーズの動揺が伝播してくる。シィーの技能を以てしてもケットシーの機動に一向に従できていない。雑多に軌道を変動させながら斬りかかるミラーズの刃が迫るたび、ケットシーは舞踏家のような優雅さで足を運ぶ。あるいはスカートの裾を広げながら紙一重の間合いへ退きあるいは胸を反らして首筋から刃を遠ざけあるいは運動アシスト用外骨格の外殻部でいなしあるいは腕を覆う不朽繊維の布で滑らせあるいは柔肌の拳で刃の腹を払い除けあるいは革靴の爪先でミラーズの胸を押して宙に返り蒸気の圧力を変えて跳び蹴りを狙う。

 ミラーズも似通った機動でケットシーと渡り合っていたがそれは選択と逡巡、反射によって生じた行動であり、ケットシーのそれとは全く異なる。

 不朽結晶製の刃同士がぶつかる瞬間もあるにはある。

 しかしそれは防御や攻勢といった戦術上の必然では無い。

 腕部の再生を終え、ヴォイドの護衛に回っているリーンズィからはそれがありと見て取れた。

 少しばかりの蒸気機関を背負っただけの制服姿の少女に過ぎぬケットシーの剣捌きや体運びには迷いが無い。

 それどころか思考している形跡すら無い。

 あらゆる行動が決断的でありそこには一枚の紙を差し挟む余地すら見当たらない。予定調和という概念が少女の鋳型に注がれて生まれて息吹を得たとでもいうかの如き不自然なまでの自然さ。あたかも一度来た平原の道を再度辿る行商人の如き揺らぎの無い確信が行動原理を貫いて、関節を駆動させ、筋肉を突き動かす。

 身に染み込ませた殺陣、演舞の類を完璧にこなしているかのようだ。一見してミラーズと打ち合いが成立しているように見えるのも、そのようにケットシーが振る舞っているからにすぎない。

 ここでの一太刀はミラーズには避けられない。そう見えた一合が無数に存在した。

 そのたびにリーンズィとケルゲレンは救援に入るべく合図を送り合った。

 だが現実にはミラーズが回避や防御に成功してしまう。


 ケットシーが『自分は攻撃を失敗する』という未来を選び取っているからだ。

 合理的理由など一辺もありはしないが、リーンズィには何となく理由が分かっていた。

 見栄えがするから、まだ殺さない。


 動きがあまりにも自然なため、意識させられる場面が少ないが、ケットシーには聖歌隊のレーゲントが己の美貌を誇示する時のようなポーズを取っている瞬間がある。おそらく金色の髪を振り乱すミラーズと艶やかな黒い髪の自分が、刃ごしに交わることに、存在しないテレビのための撮れ高があると思い込んでいる。

 実際に、客観的に見れば見惚れるような光景ではあるだろう。

 余裕があればの話だが。

 消費した電力をある程度回復させたケルゲレンとグリーンに攻勢を託し、今度こそミラーズがその場を離脱。

 ヴォイドとリーンズィのところに戻ってきた。

 加速した時間の中で人間の限界を遙かに超えた活動を行った肉体からは、甘い香りのする湯気が上がっている。

 停滞した空間でもはっきりと分かる、脳が蕩けそうになるような魅惑的な香りだ。


『つ、疲れる……エコーヘッドになってから結構重労働よね、あたし……。それで、結局あの子には何が出来るの? ピョンピョン卿っぽさを感じたのですけど。未来予測演算を使っているのでしょうか』


 ヴォイドは要約して伝えた。


『彼女には望む未来への道を見る力が備わっている』


『えっと、予言者ってこと? 未来を予言できたらこんなに早く動けるの? このプシュプシュ蒸気が出るやつ使って一生懸命がんばってるのに全然追いつけないのですけれど。あと接触するたびに秘匿回線で「その顔かわいい」「もうちょっと脚を広げて見せて」「ここでカメラに向かって笑うとファンが増える」「胸がやわらかい。ブラはしてないの?」とか意味不明で卑猥なことを言われました』


 ミラーズは掌で顔の汗をごしごしと拭きながら憮然としていた。

 やはりそういうことをする機体なのだ。リーンズィは無言でミラーズの頭を撫でた。


『あれだけ動けるのは、たぶん別の才能。生まれながらこの動きが出来る素地があったのだと思う』


『何よ、それは。そんなのズルでしょ。ズル。ズルです! 可愛くて未来が見えて素早く動けるの? あの少女は幾つの恩寵を賜っているというのですか!』


『綺麗で可愛くて幾つも才能をもらっているのはミラーズも同じだと思う』リーンズィが素朴な感想を述べる。ミラーズが照れたような声で『ありがとうございます、リーンズィは優しいですね』などと仲睦まじい返事をている間にも、ケルゲレンとグリーンはもうペースを奪われていた。


『じゃれてる場合じゃ無いと思うんじゃが! これ結局対処法が無いのではないか?!』


 リーンズィたちの議論は逐一ケルゲレンたちにも共有されている。それだけに絶望の気色が強まっていた。如何なる手段の攻撃も、容易く迎撃されるか、そもそも行動の起こりの段階で的確に潰されてしまう。

 勝利の確信を掴めと言う方が困難である。自分たちよりも圧倒的に迅く、身のこなしが常人離れしていて、しかも推定の域を出ないが未来予知まで可能なのだ。

 グリーンは倒立姿勢と直立姿勢を細かく切替ながらひたすら不意打ちの機会を探っていた。

 四本のアームを不規則に動かし、死角から秘蔵の仕込み武器の弾丸を発射しても、予め脚本でも渡されていたいたかのような不自然な挙動で、それが当たり前だとでもように回避されてしまう。

 あろうことか一発を蹴り返されてグリーンの装甲に傷が入る羽目になった。


『うわー、躱されるだろうなって思ってましたけど、無理でしょうこれ。これもしかして「無敵」ってやつじゃないんですかね』


 常にスチーム・ヘッドが攻撃し続けているというのに刃が肌に触れることさえない。そればかりか伏兵として超高速再生の機会を伺っているイーゴまで定期的に頸部を切断されて攻撃を封じられている。彼の再生に掛かる時間だけで無く、簡素な外観に整えた蒸気甲冑(ギア)にスチーム・ヘッド制圧用の特殊兵器を満載しているのを見抜いているらしい。

 ケットシーに特別の余裕があるわけでは無い。手加減をしている自覚も無いのだろう。

 だが譫言じみたナレーションを時折ぽつりぽつりと漏らしている。


『敵は防疫帝国の幹部であるシィーの寵愛を受けた美少女と暗黒改造を施された凶暴スチーム・ヘッドたち。果敢に挑むケットシーであったが、でも正義なので負けない。しかし少女たちが深く愛し合っていることを知って苦悩する……大義のためとは言え、愛らしくも蠱惑的な花を手折る悪行に、果たして女神は微笑むのか!? いける……このシーズンいける! 視聴率取れる! 玩具も売れるしみんな元気になる!』


 第一分隊が全滅していないのは、ひとえにリーンズィとミラーズという存在をケットシーが何か重要な人物と勝手に見做しており、一方的に手心を加えているからだ。もはや全機がそのどうしようもない現実を痛感していた。この結節点を過ぎれば凶刃は容赦なく己らの首を離断せしめるという確信すらも。


 見渡せば、他の分隊も着々と集結しつつはあるのだ。建物の窓や屋上から、ケットシーと第一分隊メンバーの戦闘を観察している。手を出してこないのは死屍累々といった道路上の惨状と、まさしくその残骸のうちまだ機能停止していない機体が光信号で危険を伝達しているからだ。そうでなくとも時折二十倍速の世界からも姿を消す少女の形をした美しい刃に飛び込んでいこうという気にはなるまい。


『全員でかかれば倒せる、ということも……ない、か』


 ヴォイドが応答する。『三百倍加速の世界に対応出来るスチーム・ヘッドはアルファⅡウンドワートぐらいだろう。そのウンドワートにしてもまだ動けないと予想する』


『この作戦に参加しているのか』


『当然だ。<首斬り兎>はウンドワートの地位を脅かす強敵である。あの機体の敵愾心は、ケットシーに対して臨界に達している。そしてリーンズィ、君もいるのだ。参加しないはずもない』


『私? 私が理由になる?』リーンズィはきょとんした。『どうであれ今がチャンスでは?』


『仕掛けたいところではあるだろう。しかしウンドワートの未来予測演算はケットシーの未来予知に対抗できない。天然の未来予知に邪魔されて、彼女の箱庭はエラーを吐き出すばかりというわけだ。スペック差があっても圧勝は出来ないとウンドワートは学習している。そうとなれば状況を確実に逆転出来る刹那を狙って、忍んで姿を隠していた方が有利だ』


 全回線に向かって垂れ流されているオリエンタル・メタルのBGMが最高潮に達したとき、ケットシーはケルゲレンとグリーンを敢えて撤退させた。

 そしてくるりと反転し、アルファⅡモナルキアたちに対して、台本を読む口ぶりで告げてきた。

 オーディエンスが充分増えたため、場面転換の時が来たと考えたらしい。


『悪しき調停防疫局のエージェント……ヴォイド。お前がこの事件の黒幕だということは分かっている。無辜の兵士を扇動し、美少女に洗脳して脅迫。そして自分はおぞましきマモノの力を借りて高見の見物。悪を断つ大命を帯びた葬兵ヒナは、お前を許容しない』


> マモノ? さっきからマモノって何。


 水を差すと怒られそうだったのでリーンズィはユイシスにそっと問いかける。


> 推定。マガツ・モノノケの略。エージェント・ヴォイド、彼女の現実認識に合わせて適切に振る舞ってください。


『甚だしい事実誤認があるようだが、その辺の設定資料を予め渡しておいてくれないと当方としては対応しかねる』


> 適切に振る舞ってください。適切に。理解しますか? あと一万二千回このメッセージを表示する必要がありますか? スパムモードを起動しますか?


 ヴォイドの淡々とした応答にヒナは不機嫌そうに反応した。


『それはそちらのテレビ局の不手際。ヒナに言わないで。あなたは大層な装備だし手からなんか、ぶわーって出たし、強くて幹部クラス。違うの?』


『私は解放軍では幹部クラスだと思われる』


『じゃあちゃんと偉そうに振る舞って』


『そうか。では、私はとても偉いので、偉いぞ』ヴォイドはどうでもよさそうに返事をして、リーンズィを見た。『久々に私と君が同じ意識から派生した存在だということを思い出した。これがどうでもよいという感情だな?』


『え、そう……』どうでもよかったのでリーンズィも生返事をした。『たぶんそう』


『真剣にやって! 変なことばかりやってると監督やプロデューサーに怒ってもらう!』 


 非難がましく電波を撒き散らすケットシーに対して、その場に居合わせたスチーム・ヘッドの全てが「真剣にやるべきなのはそちらではないのか」と考えていたことだろう。実際、そう考えたらしい機体が建造物から飛び降りて一撃を狙ったが、


『撮影の邪魔をしないで。教育がなってない』


 制服のスカートが翻ったと思った瞬間には首を切り飛ばされ、胴体を輪切りにされていた。

 斬撃の瞬間は補足出来なかった。

 この戦闘の天才が、現実世界をドラマかアニメの撮影だと思い込んでいる点だけが救いなのだ。ケットシーが全ての力を出し切ったとき天秤がどちらに傾くかは誰の目にも明らかだった。

 一手上回る、一手下回る。

 そんな次元を超越したところに彼女は立っている。

 ケットシーは現実ではなく未来を見て行動している。一瞬後に到来すべき無数の世界のうち、望ましい可能性だけを選択的に獲得する才能。

 ケットシーが選択した行動の妥当性は、世界によってその絶対性を担保されている。

 認識も事前の身体強化も関係が無い。


 信じているから、実現する。

 可能だから、その未来に辿り着く。

 勝利するから、勝利する。

 世界に確信を担保されるとはそういうことだ。


 ケットシー/ヒナ・ツジは『勝利する』という運命に愛されている。他の分隊が壊滅したのは、ケットシーの側に負ける理由が無かったからだ、ということになる。

 アルファⅡモナルキアが『オルタ・ドライブを使用可能なので、使用する』のと同じだ。

 この海兵服の少女は『勝てるから、勝つ』のだ。


『1000ミリ秒』ヴォイドが不意に進言する。『アポカリプスモードレベル1発動まで1000ミリ秒かかるが、それ以外に選択肢は無いと思われる』


『しかしアポカリプスモードはーーいや、それ以前に、1000ミリ秒も君を守ることは出来ない』


 制服姿の可憐な葬兵は、長大なカタナを突きつけて宣告する。


『調停防疫局のエージェント! 今、ここに決闘を申し込む。一対一とはもはや言わない。悪鬼の群れを引き連れて、一心不乱にかかってくるが良――』


「ケンカですか?」


 その刃の示す先に。 

 見知らぬ少女が佇んでいた。

 少女の胸で抱えられた黒猫がにゃーと気の抜けた鳴き声を上げた。


 沈黙の帳が降りた。

 誰もが思考を停止した。


 これは誰だ?

 いつからそこにいた?


 ケットシーとその凶刃に注目していなかった者など一人もいない。

 だというのに、誰もその少女の到来に気付かなかった。


『え――?』


 さしものケットシーも、突然の闖入者に戸惑った様子だった。


『ん……あれ? どなたですか? 一般の方?』


「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです」少女は黒い猫を掲げた。「これは和睦の使者にして裁きの代行者である黒猫、ベルリオーズです。セーラー服の美しい人。わたしキャットは、聖なる猫の代理人としてあなたに言葉を伝えに来ました。刃の冷たさではなく猫のぬくもりをこそ知るべきなのです。どうか凶器を置いて少しだけ猫を抱っこして、憩ってみると良いのです。猫のふわふわは太陽の暖かさ。猫たちの国から漏れ出た柔らかな慈愛なので」


『ど、どうも、ロングキャットグッドナイトさん……今大事な場面なので邪魔をしないで。撮り直しになっっちゃう』


「剣もいつかは折れるもの。さりとて猫は不滅です。世界の半分は猫なので。今こそ猫と向き合い、和解するときです。戦いは何も生みません。理想郷がなくても、本当の敵なんていなくても、猫はここにいるのです」


『これ、そういう番組じゃないんです。ぶらり旅とかじゃなくて……本当に何をしに来たの。ヒナのファンの人? そうでなければ、あの金髪の綺麗な子とか、スタイルの良い茶髪の人のお友達? あとで時間は作ってあげるから……』


「聖なる猫の導きを信じるのです。猫の裁きが訪れる前に、この悲しみの戦いを終わらせるのです。猫モフモフ30日権もプレゼントします。あなたの身の安全も、わたしキャットが保証します」


『猫の人がケットシーを圧倒している……!』リーンズィが感嘆の声を漏らし、ミラーズは『会話が成り立ってない度合いがより酷い方が雰囲気で相手を威圧だけではありませんか……?』と至極醒めた物言いをした。


 ケットシーがどうしたものか悩んでいる隙に、ロングキャットグッドナイトは、高く、高く、猫を掲げた。小さな体をぐぐ、と背伸びして持ち上げる。

 愛らしい手の中、厳粛な面持ちの黒猫がにゃーと鳴き、周囲に集まっている九匹の猫も唱和する。


「猫と和解するのです!」


 にゃー。にゃーにゃー。


『猫の人が勝ちそうな気がしてきた……それにしても、彼女もオーバードライブが出来たのか?』リーンズィは違和感を覚えた。『でも、しかし、あれ……?』


『惑わされてはならない』ヴォイドが警告を発した。『二十倍速の世界で肉声で発話するのは不可能だ。二十倍速で動ける猫も存在しない』


 リーンズィには、ヴォイドの言葉が一瞬理解出来なかった。

 それは言語化の網を潜ろうとする、しかし余りにも明白な異常。

 ロングキャットグッドナイトは、何も変わっていない。

 それがおかしいのだ。二十倍速は多くの戦闘用スチーム・ヘッドの限界点である。

 専用の装備と適性がなければ踏み入ることの出来ない世界だ。

 だというのに、ロングキャットグッドナイトは、攻略拠点でリーンズィたちの前に現れた時と一寸も変わらぬままだ。

 しかも、声音にも、彼女の猫たちにも、声に変化が無い。

 聞こえてくる声は無線ではなく、まさしく生きている声なのだ。

 解放軍戦力について何も知らないためだろう、ケットシーはまだその異様さに気付いていない。


『問答は無用。邪魔をするというのなら、一刀のもと叩き切るのみーー! あ、でも猫を盾にするのは卑怯。死なせちゃうと視聴率落ちるからやめてください……?』


「人よりも猫の死を恐れるのですか。なげかわしいことですが、猫が好きなのは良いことです。猫を愛するように人も愛するのです」


『やっぱり動物は殺すと可哀相だから……猫は、うん、好き。犬も好きだけど。ヒナも人間以外は殺したくない……ヨミガエリと違って殺すと死んじゃうし……』


「ハレルヤハ。猫の道を知る者は愛を知るのです。さぁ、どうか猫をその手に。猫は太陽のポカポカから毛皮を作ると言われています。冷えて凍えたその手指を、猫のぬくもりが優しく融かすでしょう……」


『猫……猫……ネコチャン……でもね』トツカ・ブレードの刃先が天を向いた。『そんなの、騙されるわけ無い』


 ケットシーの頭上に影が落ちるが、影がその身に達するまでも無く彼女は消えていた。

 音も無く飛来する簡易人工脳髄搭載型追尾誘導貫通弾を予知していたのだ。

 飛び退いたその場を大槍が貫いた。少女の肩部から下腹部までを貫通する進路だ。

 人間大の大槍は狙いを外したと見るや空間斥力転移装置(フーンドライブ)を起動して慣性を保持したまま空中に静止。搭載された生体眼球で標的の移動を認識するや内蔵蒸気機関から蒸気を連続噴射して弾道を変化させ穂先を制服姿の少女に捉える。

 保存していたエネルギーを解放して再び猛然と突進を再開。

 だがトツカ・ブレードは既に少女の両手に握られている。

 上位オーバードライブに突入した彼女は、致命の槍の再反転を許さない。

 そのまま高純度不朽結晶のトツカ・ブレードで呆気なく切り刻み、無力化してしまった。


『二度も三度も見た狙撃。避けるのは簡単。工夫が無い』


 そして振り抜いた刃はまだ停止していない


『見え透いた陽動。猫まで盾にして、その卑怯さには吐き気がする。もう容赦しない』


 ケットシーは流れる水のような素早さでロングキャットグッドナイトの背後に回り込んだ。

 一閃。

 猫っ毛のレーゲントの首が、ぼとりと、牡丹の花のように地に落ちた。

 行進聖詠服など何の役にも立たなかった。掲げられていた猫はそのままに、両手両足、胸部や胴体が滅多斬りにされ、無数の肉片と化し、重力に引かれて落下する。

 ロングキャットグッドナイトは最後の言葉を漏らす間もなく物言わぬ肉塊の山となる。

 アスファルトに粘性の血液が降り注ぎ、かつて少女だったそれは、物言わぬ血肉と内臓の溜まりと成り果てた。

 ロングキャットグッドナイトは、死んだ。

 リーンズィは悲鳴を上げた。

 だが二十倍速の世界では声を出すことさえ出来ない。


『いい加減スナイパーも始末しないと気分が悪い。もう殺すね』


 ケットシーはオーバードライブを発動してコンテナの着弾した這いビルに潜り込み、新しい大型機関兵器を持ち出してきた。既にスナイパーの潜伏位置は特定していたのだろう。

 無数の大型カタナ弾を装填したその最新型ネネキリマルは、明らかに超長距離戦に特化していた。


蒸気抜刀(じょーきばっとー)ーー追尾剣八咫烏之太刀(ホーミングヤタガラス)


 廃屋の窓から突き出された砲身から、フルサイズのカタナ弾が電磁加速により連続射出された。

 簡易人工脳髄搭載型追尾誘導貫通弾と同じく空中で幾重にも軌跡を変えながら一つの方角へと飛翔していき、目標地点上空でさらに針状の不朽結晶弾を展開して電磁射出。

 親コンテナごと一帯へ降り注いだ。

 それは狙撃ではなく、あるいは爆撃ですらなかった。

 範囲一体を例外なく貫徹する冷酷な破壊の暴威、剣の雨であり、回避する余地は無かった。


 大眼鏡と一体化した狙撃装置にしがみついていたハンター・ハンコックは、その破局の雨が降り注ぐのを黙って受け入れた。猫が好きだった。生前はアレルギー体質のせいで殆ど触れたことが無かったが、不死病患者の肉体を得てからは克服できた。尤も、猫が地上に存在したのはあらゆる病から免れた不滅の肉体を手にいれてから僅かな時間だったが。

 それがために判断を誤ったのだ、とハンターは嘆息する。あと一拍でもトリガーのタイミングを遅らせれば、命中させられていたという確信があった。だがレーゲントの連れている猫が斬られるかもしれないという恐れが気持ちを逸らせた。

 不朽結晶連続体の雨が突き刺さった。街から一つの建造物群が丸ごと喪われた。

 ハンター・ハンコックは、感情無き剣の雨を浴びせられて、装甲を粉砕され、人工脳髄を貫かれ、生体を細切れのミンチにすり替えられ、誰の目にも止まることなく破壊されて、死んだ。


『これで撮影がスムーズに進められるね』


『ロング、ロングキャット……グッドナイト……猫の人、そんな……』


 ケルゲレンから手渡されていた短槍を握っていることさえ出来ない。

 リーンズィは膝から崩れ落ちそうになり、その視界は急速に色を失っていきーー

 猫たちがにゃーと鳴いた。


「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです」


 突如聞こえてきたその声で我に返った。

 少女は猫を抱えて佇んでいる。


「挨拶は基本ですので。おはようございます、カタナの人。美しい刃の人。どうして猫を拒むのですか?」


 ハンターが範囲攻撃によって落命したらしい事実さえ、誰しもの認知から欠落していた 。とうのケットシー自身までもが何が起きているのかを受容しきれていない。


『あ……』不都合な事実に行き着いたらしい。『二十倍速の世界でいくら人間を切り刻んでも……それらが地面に墜落するまでには長い長い時間が必要になる……だからあんなふうになるはずない。さっきのは、まぼろし? どういうカラクリ……? でも知らない。あなたはもういらないから』


 ケットシーが跳躍し、猫を掲げるロングキャットグッドナイトの肉体を瞬く間に刃で分割した。

 首を蹴り飛ばして壁の染みに変え、心臓や臓器を丹念に踏みしだく。


『これで今度こそ終わりーー』


「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです」


『……!?』


 切り刻まれたはずのロングキャットグッドナイトが平然とそこに立っていた。

 ぶちまけられた血も臓物もどこにもない。

 聖詠服に乱れはなく、傷など見当たらない。

 悲劇など起こっていないかのような平静。

 墓標の如き誘導弾の残骸だけが前後の文脈を辛うじて維持している。


 ケットシーがこれまでに無いほど大きな隙を見せているのは間違いない。

 だが誰も動くことが出来ない。

 あまりにも異常な光景が目の前で展開されている。

 ぐぐ、と伸びをしながら猫っ毛のレーゲントは黒猫を持ち上げる。


「不思議に思うことはないのです。猫は常に朝日とともに世界に訪れるものなので。世界のどこかに朝があり、朝あるところに猫はいます。全ては半分猫で出来て」


 言い切る前に徹底的な斬撃がロングキャットグッドナイトを襲った。

 もはや猫を避ける工夫などなかった。少女の肉体は猫ごと冷たい刃に晒された。

 頭部は二十個の破片に分割され、首から下は微塵の肉片になるまで切り刻まれ、周囲一帯が血の海に変わり、「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです」と少女が猫と現れる。


『……何……?』


 ケットシーは初めて恐怖の感情を滲ませた。カタナを振るう手を止めて飛び退いて距離を取る。


『いったいどういう……あなたも、マモノ、なの?』


 リーンズィにも理解が出来ない。

 ロングキャットグッドナイトは間違いなく斬り殺されている。だがそのたびに前後の死を無視するかのように五体満足な姿で戻ってくる。不死病患者としてあるべき再生のプロセスすら踏まえていない。


「いいえ、いいえ。聖なる猫のしもべです。しかし、わたしキャットは悲しみに満ちています。あなたは、殺してしまいました」


『殺したけど、死んでない。あなたはまだ、生きてる。こんなに斬ったのになんで……』


「いいえ、遠くの塔にいた、遠めがねの人を殺しました。なげかわしいことです。敵ではなく猫を見ていた心優しい友人の死をわたしは悼みます。かの名高き猫を知るもの、偉大なるモーセは言いました、『汝、殺すことなかれ』。預言者の言葉は猫の言葉です。わたしキャットは十の戒めに従い、あなたに罰を与えなければなりません……」


 少女は唱えた。


()()()()()


 認識を補完する言詞の風が吹くのを偽りの魂は見た。

 周囲のスチーム・ヘッドが一斉に昏倒した。ある者は倒れ伏せ、ある者は外骨格に支えられて立ち竦んだまま意識を途絶えさせた。

 リーンズィやミラーズも同様だったが、二人のエージェントに関してはアルファⅡモナルキア・ヴォイドからの支援ですぐに復帰することが出来た。

 ミラーズは『聖句……?』とまだ朦朧としていたが、リーンズィの復帰は素早い。

 ヴォイドからのデータ共有で辛うじて現状認識を活性化させる。

 大規模な原初の聖句が発動したのだ。

 数十機のスチーム・ヘッドを同時に機能停止させる異常な聖句が。

 これほど図抜けた強制力を持つ聖句を操るレーゲントを、リーンズィはこれまで記録していない。

 ロングキャットグッドナイトの<言葉>はヴァローナの人工脳髄を用いた簡易な防壁など呆気なく貫通してしまった。リーンズィは脳裏に反響する聖句をユイシスの補正で無力化し、果敢にもその言葉を直視する。()()()()()。節回しや抑揚に特異な点はある。意味としては理解出来るが、言語としては成立していないというのも他の聖句と変わらない。

 しかし、極めて短い。

 たった一言だ。()()()()()|。

 だというのに、比類無いほどの力があるという矛盾。


 あるいはリリウムシスターズや全盛期のキジールなら、同程度の服従を強いるコマンドを出力出来るのかもしれない。それでもこの短い音節にまで意味を圧縮するのは不可能だろう。

 この希代の聖なる言葉、神の時代にのみ許された言語に晒されて、しかし眠りに誘われるべき少女、ケットシーは、眠らなかった。当然の帰結だ。調停防疫局製スチーム・ヘッドならば、バックアップとして別の人工脳髄を備えている。そして原初の聖句は一つの<言葉>しか塗りつぶせない。二個以上の正常な人工脳髄、独自の<言葉>を並列して二つ以上駆動させている機体に対しては、多くの場合無効となる。調停防疫局はその事実をとうの昔に突き止めている。


 調停防疫局製シグマ型ネフィリムであるケットシーにも、形なき災禍たる原初の聖句への対策は当然に施されているのだ。

 水兵服の少女はふらふらと数歩よろめいて、しかし唱えられた聖なる言葉に毅然として反抗した。

 震える手でトツカ・ブレードを構え、切っ先をロングキャットグッドナイトへと向ける。

 戦意を喪わぬ少女へ、猫のレーゲントはどこか悲しげな視線を注ぐ。


「猫の愛を知らぬ人。まだ眠れないのですね。あなたを憐れに思います。憎しみや怨み、破綻した妄想さえ無ければ、あなたも永遠の夢の中で猫と戯れる幸せな一人になれるのに。では、仕方がありません。()()()()()()


 言葉一つで、今度は機能停止していたスチーム・ヘッドたちが再起動していた。

 状況を認識出来ていない。自分たちが意識を失っていた事実さえ忘れて、二十倍速の世界へと帰還してくる。

 状況を理解しないままケットシーたちを見下ろし、『あれ、あのレーゲント壊されてなかったか?』『っていうかレーゲントが何でこんな前線に……』『だいたい誰だあいつ? 見たこと無いぞ』などと暢気に困惑を分け合っている。


「これは、裁きの黒猫です」


 睨み付けてくるケットシーに対して、ロングキャットグッドナイトはあくまでも無感情に言葉を重ねた。


「このうちに秘められた使徒を安寧の眠りから解き放つことを、残念に思います。ですが、これが聖なる猫による戒め、その力となる道を選んだ彼の使命……」


 少女は再度唱えた。


()()()()()()


 加速した世界に、再びの沈黙が降りる。

 今度は長くは続かなかった。


 スチーム・ヘッドの誰かが言った。『……思い出した』


『思い出した……』


『思い出した、思い出したぞ……』


 今朝見た悪夢に再び魘されるかのように、兵士たちは悲鳴を漏らした。


『ヴォイニッチの不滅隊! 不滅隊だ! あいつは不滅隊のレーゲントだ!』


『不滅者<ナインライヴズ>!? 何しにこんなところに来てんだよ!!』


『お、俺たちを始末しに来たのか?! なんで?!』


『なんでこんなことに……』


『嘘だろ、聞いてねぇぞ、こんなの! 殺されるのは承知だが壊されるつもりで参加したわけじゃねぇ!』


『に、逃げないと……! 逃げないと……!』


 ケルゲレンまでもが後退りして、少しでもロングキャットグッドナイトから距離を取ろうとした。

 しかし指揮官だった者としての意地からか、猫に掲げたまま何か言葉を唱え続けているそのレーゲント、レーゲントに似た何かを指さして、仮想の声を張り上げる。


『大主教ヴォイニッチの使徒が一人、()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()殿とお見受けする! 貴官に作戦目的と行動内容を問う! 何故こんな場所に?! 我々は平和的に活動している! 不死病患者への略取も、不毛な同士撃ちもとっくの昔に取りやめているのだぞ! 殲滅の指令など出るはずがない! 違うか?!』


「ですが、ここに猫はいます」少女は夢見るように応えた。「これは裁きの黒猫なので。ここに、裁きはあります」


『誰何している場合か! さっさと逃げろ! 全機に通達! 逃げるんだ!』


 再生する機会をようやく掴んだイーゴががばりと身を跳ね上げ、全ての回線に対して警告を発した。


『裁きの黒猫は第六の戒め、ベルリオーズの猫だ! 厄介な相手だが、第六で済んでいるうちにナインライヴズから逃げるしかない! ヴェストヴェストが出たらオーバードライブを使う余裕は無いんだぞ!』


『何をする気か知らないけどっ!』


 ケットシーが猫を掲げる少女を両断する。

 断面から脳髄や内蔵を零しながらロングキャットグッドナイトは倒れ、何事も無かったかのように復活した。


『ヒナは何を見てるの……!? 確かに斬ってるのに! 手応えもある! 殺した時の景色が見える! このスチーム・ヘッドは死んでないといけないのに』ケットシーは嘔吐くような仕草で後ずさる。『なのに生きてる。マモノでもありえない、何なの?!』


『みんな、どうかしたのか? 何故そんなに彼女を恐れている?』


 リーンズィも状況を飲み込めず、ロングキャットグッドナイトと他の機体との間で、ただ呆然と立ち尽くしていた。武器を構え、あるいはもう既に逃走を開始している友軍。何に怯えているのか、心底から不思議だった。きっと予想外の聖句を浴びさせられて、混乱しているのだ。

 彼らを落ち着けさせるために、知る限りの言葉を投げかける。


『何故ここにいるのかは分からないが、彼女は無害な存在だ。私も何度かロングキャットグッドナイトにはお世話になっている。とても優しくて猫の好きな少女だ。そんなに怯える必要は……』


『そんな表層の概念はどうでもいいんです、暢気にしている場合じゃないんです! ほら早く! ぶっ潰されてしまいますよ!』


 四本の腕で体を跳ね上げたグリーンがケットシーを抱えて飛び退いた。攻撃以外は予知できないのか、ケットシーは『何をするの! 急に触らないで!』と控えめにじたばたしたが、リーンズィやミラーズごと抱えられると『あっ……お邪魔します……』と恥ずかしげな声を出して大人しくなった。

 密着されるのが苦手らしい。


『う……?』ようやく覚醒したミラーズが怪訝そうに声を上げる。『え、これは何事なのですか? いつのまにかグリーンに抱っこされてる……』


『グリーン、私は走れる。ミラーズを頼む』愛しい少女の肢体を預けながら、自分自身は腕の中からまろび出て、さらに問う。『いったい何なのだ? 何なの? あのレーゲントの何を恐れている?』


『レーゲントなんかじゃないんです! あれは()()()です! 不死病患者ですらないんです! 勝てるわけが無い! 不滅者なんですよ! 全ての戦闘行為の強制停止を主張するヴォイニッチの手下、よりにもよってナインライヴズです! 媒体の潰し合いをしない限り小競り合いの延長で済む、そんな私たちスチーム・ヘッドとは、まるで別格の存在なんです!』


『でも斬れる! 斬ったもの!』と不服そうにケットシー。『ヒナはまだ負けてない! むしろもう勝ってた! リテイクを要求しにいく!』


『無駄じゃ、あきらめろ!』ヴォイドに肩を貸しながら、ケルゲレンもロングキャットグッドナイトに背を向けていた。『風景に刃が通じないのと同じじゃよ。形の無い言葉はどうやっても切断できん! 言詞甲冑(ワードローブ)は存在核が保証されている場合には無限に再生する!』


『|存在核確立済自己言及式テスタメント・言詞駆動人造脳髄(トーキングヘッド)! テスタメントだとか何だとか呼んでますけど、とにかくあの人、ナインライヴズには実体が無いんです! 原初の聖句を使って自分自身を不死病の因子で編み直した<ことば>の変異体です! ああ、以前の大粛清のときに認識をロックされてそのままだったんだ……! 彼女の存在に気付いていれば、のんびりなんてしていなかったのに!』


『わ、分からない。彼女は只者では無いと思っていたが……逃げる必要が?』


『あります! 彼女は調()()()です! 全ての粛清をコルトがやったわけじゃない、キュプロクスの突撃隊の本隊はむしろ彼女によって駆逐された! 敵味方問わずぐちゃぐちゃにされたんです! 急がないと……もし第一の戒め、ストレンジャーまで開放されたら全滅ですよ! 一人もここから帰れなくなる!』


 全速力で去っていく無数の背中に向かって、少女は感情の無い言葉を編んで歌を紡ぐ。


「ベルリオーズ。安らかな猫の眠りからあなたを解き放つことをどうか赦して下さい。今、この地は血に濡れています。猫のぬくもりは人のぬくもり。そのぬくもりがひとつ、喪われてしまいました。その罪は購われなければなりません。ハレルヤハ、人の世に魂の安らぎがありますように。猫たちの国に久遠の安らぎがありますように……言詞抜錨。()()()()()()、第六の戒め、処刑台の不滅者、ベルリオーズ!」


 黒猫がふしゃーと凶暴な唸り声を上げながら宙に浮かび、木っ端微塵に弾け飛んだ。

 否、黒猫は拡張され、展開され、裏返っていた。そうあれかしと願われ、紡がれた機能のまま、内包した世界で冷たい現実を融解させていた。晒された内側にはおおよそ猫には相応しくない複雑なメカニズムが詰め込まれている。三つの連なる心臓、未接続の状態で残置された不朽結晶装甲、古生代の巨獣じみた異様な筋肉、デスマスクのような意匠のフルフェイスヘルメット。それは複雑に輪転する巨大な歯車として微睡み、魂無き猫の内部を輪転している。

 それは猫という概念をアンカーとする一つの特異点だった。

 世界の半分は猫である。

 人間は夢を見る。

 ならば、どんな人間でも猫として、仮初めの夢に封じることが出来る。

 それがロングキャットグッドナイト、不滅者<ナインライヴズ>の信じている世界である。


()()()()()()


 ばちん、と泡のように猫の面影が弾けた。世界は反転した。そうあれかしと望まれた夢の黒い猫は掻き消える。さりとてその命は消えていない。内包する世界を夢見て、これまでとは反対に、人知の及ばぬ事象の綻び、言葉の紡ぐ円環の微睡みへと落ちて行ったのだ。

 かくして、飛沫の夢の座を替わり、異形の怪物が目覚めて常世に落ちた。

 立ち並ぶ建造物が数十の関節を持つ長大な四肢を受け止めて崩落し、四つん這いの、装甲された獣が、加速された時間の中で、しかしゆっくりと身をもたげる。


『対抗……オーバードライブ検知……20……オーバー……ドライブ……? オーバードライブとは……何だったか……う……あ、アアア? 殺しているのか? 誰か、殺しているのか……? まだ、殺しているのか…………?』


 鋼の獣は蒙昧とした声を漏らす。

 鎧を着込んだ巨大な胴体の奥で、人工的な変異を重ねられた歪な三つの心臓が、不揃いな鼓動を開始する。その身を震わせる。


『分かるぞ。死んだな。誰か死んだな? 死んだな? 誰かが殺されたな。殺したな。殺したなあああああ? 殺す、な……殺す、な……殺す……な……殺すな、殺すな、殺すな、殺すな、殺すな、殺すな殺すな殺すな殺すな殺すな殺すなあああああああああああああああああああああああああああ!!!! AAAAAAAAAAAAAAAAAAGH!!!』


 胸部拡張骨格内部に搭載された重蒸気機関が起動。

 獣の如き巨人の騎士は二足によって立ち上がり、過剰な数の関節を持つ異形の肉体を反り返らせて、音無き世界に咆哮を上げた。続けて外付けの重外燃機から急速発電を示す血煙が猛然と噴出する。


『何故殺す? 殺すのが悪だと何故分からない? 私は理解したぞ。殺すことが悪なのだと理解したぞ……。殺して殺されて、殺して殺されて……そうしたら終わりは全滅しかないだろうがよおおおおおおおおお、クソがよオオオオオオオオオオオオオオオ!』支離滅裂な電波を垂れ流しながら怒りにまかせて手近な建造物を一つ叩き切った。その四肢は余さず刃としての機能を付与しされていた。『ああ、ああ、アアアアアアア。もうたくさんだ……殺すな! 殺すな、殺すなああああああああ! あああああ? どいつもこいつもォォォ、なんで殺すんだ!? そんなに殺すのが偉いのか?! 殺す以外に脳味噌が無いのか? あああああああああああ? 殺すために生まれきたぁ? 冗談じゃ無い、冗談じゃ無い、冗談じゃ無い! そんなための不死じゃないだろうがよおおおおおおおおおおおおおおお! ええ?! そうだろう!? なぁ、おい、誰か返事をして見ろ! 返事をしろ!』


「落ち着くのです、ベルリオーズ」


『殺すな! 殺す! 死ね』


 さっと両手を伸ばしたロングキャットグッドナイトへと、獣の意匠の腕部が叩き付けられた。

 押し潰されて死亡し、即座に復活したロングキャットグッドナイト。

 自身がまさに斬殺された事実など意にも介していない様子で、一目散に逃げて行く解放軍の兵士たちの方向を指差した。


「今、この地では無為な争いが芽吹いています。夢に捕らわれた無限の逃走に荒れ果てた心なので……。誰もが猫たちのモフモフを求め、しかしそのぬくもりを拒んでいます。疲れ果てて、眠れずにいるのです。だからこそ、平和をこそ真に愛するあなたの言葉が必要なのです」


『死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!』


 何度も何度も少女は磨り潰されて死んだ。

 何度も何度も何度も何度も少女は復活した。


「聞くのです、ベルリオーズ。それがあなたの使命なので。猫のぬくもりを拒絶した彼女の剣を折らなければ、いかなる言葉も通じません。誰もが彼女を殺し、彼女に殺されることに夢中なのです。殺人を否定し、殺人の否定のためにその全存在を捧げたあなにだからこそ、託せる願いがあります、第六の戒め。猫の騎士の一人、ベルリオーズ」


『猫の騎士……?』鋼の怪物は動きを止めた。六つの巨大な眼球がぎょろぎょろと蠢き、少女を見下ろし、それからスチーム・ヘッドの残骸が散乱する周囲を確認した。『ここは……知らない戦場だ。私は何を……? ここはどこだ? ああ、そこの君は……君は誰だったか……』


『わたしキャットは猫の影、ただその淵を歩く者なので。無理に思い出さなくえもよいのです。目標はケットシーという少女です。彼女を殺し、殺すのを止めねばなりません。猫を愛し、人を愛せない悲しみ。それは殺さなければ消し去ることが出来ないので。どうか彼女に、殺人が如何に悪であるかを説いて頂きたいのです」


『あああああ……思い出した。思い出した、思い出した、思い出した、思い出したぞ。もちろんだアムネジア。そういう契約だ。私は契約を果たす。人の世には安らぎが必要なのだ』俄に我に返ったらしいベルリオーズが拡張心肺から血潮の臭気を孕んだ息を噴出した。『これ以上同胞同士で血を流す意味などありはしない。助け合うべきなのだ。だから、殺す者には、教えてやらないといけない……人が殺人から解放された世界に辿り着くためには、ひたすら殺し続けるしかないもんなアアアアアアアア? アアアア? 殺してやる、これ以上殺さないように、殺してやる、殺してやる! 殺してやるぞオオオ! 一匹残らずぶっ殺してやる! 死ね、死ね、死ねえええええ!』


 蛇腹状の関節を持つ腕で壁を伝い、蒸気噴射をめちゃくちゃに濫用しながら急加速を始める。弾

 き飛ばされてロングキャットグッドナイトはまた死に、復活した。

 そして、残りの九匹の猫たちと、猛然と駆けていくその背中を見送った。

 壊れた鋳型から作られた出来損ないの狼のごときスチーム・パペットは、名をフェンリル型ベルリオーズという。人類文化継承連帯のかつてのトップエースの一人にして、殺人を忌み嫌い、殺人を憎み、殺人に心を痛め、殺人と闘い、やがて全てを捨てて、猫の夢を守る騎士になる道を選んだ兵士。


 殺人を撲滅するために虐殺を実行する、破綻した狼。

 彼は、狂っていた。

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