2-11 ヴォーパルバニー その4 鏡像連鎖都市の増殖
進軍は続いた。
一つの街を通過するのに大した時間はかからなかった。
先遣隊の仕事か、定期的に作業を行っているのか、周囲の建造物が崩落していようが、道路それ自体が陥没していようが、基本的な通行には問題ないよう充分に整備されていた。
路傍にはもう不死病患者の姿すらない。
ただし、封印された悪性変異体の成れの果てである5m程の黒い柱、不朽結晶連続体で構築された環境閉鎖鎮静塔がたびたび出現した。
猫たちは警戒感を示したが、呼吸をするかのように僅かに蠕動するその柱に大抵の機体は反応せず、雪山で滑落して以来何十年も放置されている遺体を眺めるかのように、無視するようにして扱った。
全ての道路、全ての街並み、高層建築物の群れに区切られた全ての空、都市の遙か向こう側に存在する天を突く影の塔。
全てが同じだった。
どのクヌーズオーエにも、似ていないものが存在しなかった。
活動を開始して間もないリーンズィにも『クヌーズオーエ』の全貌は明らかだ。
同じ街並みを毎日『第二十四番攻略拠点』という形で見ている。
それと同じ、見慣れた街が、細かな要素を変えながら永久に続く。
繰り返し現れる同じ道路、同じ街並み、同じ空、同じ塔。
それなのに致命的なほど何かが違う。
巨大な合わせ鏡の中に広がる未踏の異郷へ迷い込んだような心地になる……。
それがこのクヌーズオーエが鏡像連鎖都市などと呼ばれている由縁だ。
内側が同じなら外側も似通っている。クヌーズオーエ群の最も外側に存在すると思われる第二十四番攻略拠点が特異なだけで、大半のクヌーズオーエは基本的に別のクヌーズオーエと隣接しており、そうした部位は必ず巨大な壁で区切られていた。
隔壁の性質にはかなりの差があった。それらは腐食した鉄の板であったり、表面が剥落して内部の赤錆びた鉄骨を晒すコンクリート壁であったり、発泡ウレタンの山であったり、どこから現れたのか知れない、通常ではあり得ないような規模の塩化ナトリウムの塊であったりした。
いずれにせよ、城門に相当する部位が破壊されているため通行に関して何の妨げにもならない。
どんな敵が待ち受けていても大した問題にはならない。完全武装したスチーム・ヘッドの進行を止めるには例外を除いてスチーム・ヘッドをぶつけるしかないのだ。
つまり、道行きは全くのんびりとしたものだった。パペットに囲まれたスチーム・ヘッドたちは交代で隊列を組み替え、外側に配置された機体だけが蒸気機関を暖機させた。
彼らが好んで使うのは木炭だったが、一度に回るオルガンが少ないために、異臭も騒音も然程強いものにはならなかった。反響する無数の足音の方がよほど目立ち、黒い煙の残滓はレーゲントたちの遊ぶような歌声や不死病患者の甘い香りに掻き消された。
ロングキャットグッドナイトは、そんな中ですやすやと居眠りをしてはむくりと起き上がり、土地や天候を問わず、例によって宗教的な教えとしては理解できない支離滅裂な説法を始め、しばらくすると猫を抱いて、また眠った。
起きている時間よりも寝ている時間の方がずっと長い。
不死よりも人間に近く、人間よりも猫に似ていた。
幾つかの街を通り抜けた。遺棄された店舗のうち補強を重ねられた数軒は不死病患者の収容施設だった。様々な場所に掲げられた看板の字は読めず、空白を埋めるためだけに生み出された何かしらの記号にすぎないように推測された。
どこかの収容施設から脱走したらしい全裸の男が焦点の定まらない目で看板をじっと見つめていた。
「あれは不死病患者になら解読が出来るのだろうか?」
『言語としての規則性を検出できません』
リーンズィの首輪型人工脳髄に書き込まれた簡易型ユイシスの解析結果も同様だった。
『言語についての認知が存在しないならば、非言語的な理解が可能かも知れませんが』
「では、ああいった記号群もある種の言語かも知れない?」
『肯定。言語が無い世界に生きているならば。貴官のように幼稚な知性であれば可能かと』
「何故君は毎回酷いことを言うんだ……」
「誰と話してるんだ? ニャン公か?」
視界を共有していないペーダソスが尋ねた。
「この辺りに物凄く口の悪い女の子のコピーが浮かんでいて」ライトブラウンの髪の少女はチープ・ユイシスの幻影を手で掴むジェスチャーをした。ユイシスはひらりひらりと身を躱した。「それが色々と言ってくるんだ」
『あは。頭を患った人みたいですね』
「今も酷いことを言っている……」
「スチーム・ヘッドは病院行けないから大変だよな」ペーダソスは頷いた。「酷いようなら、ヘカトンケイルに診てもらえよ。人工脳髄の調整が出来るのはあいつだけだから」
「そんなのはよくある、聞き慣れた話だと?」
「まぁな」
ペーダソスは少女の顔貌に諦観を滲ませて、猫を撫で、荷車の外を見渡した。
「この辺りを片付けてた頃には、誰もがこれで何かが変わるだろうと期待した。でも何も変わらなかったわけだ。何十年も掛けて、それが少しずつ分かってくるんだな。徒労を重ねて、それで何の意味もないらしい、と。どれだけ調査範囲を広げても、確からしい足がかりを作った気になっても、不定期に<時の欠片に触れた者>が再配置を実行して、全部台無しにしてしまう。不死身の肉体でも精神は人間だ。意味がない、何の成果も出ないと確信してしまって、対処のしようが無い面倒な連中に出くわすことになったら、後はもう眠るか狂うか二つに一つだ」
「君は?」
「俺は<凍てついた瞳>のペーダソスだぜ? 眠れはしない。まだ狂っていないだけだが」
そうして、風景を眺めながら他愛の無い会話することで、移動時間の殆どを消化した。
「第二の戒め、ヴェストヴェストは再生と破壊を繰り返しました。ばーん! ばんばーん! がらがらがらー。それはただ一つの物が永遠なのでは無く、猫たちがお昼寝と目覚めを繰り返すことこそが真理なのであり、一秒ごとに永遠は猫たちによって保証されているのだと……」
乗りに乗った調子でロングキャットグッドナイトが説法しているのは、結局は全体のごく僅かな時間に過ぎなかった。うたた寝をしている時間が絶対的に長く、次いで猫と遊んだり、おそらくは原初の聖句による命令と思われる意味不明な呼びかけを行っている時間に占められていた。
太陽は常に空にあった。通りがかった街によって天候はまちまちだった。どの区画にも昼間の時間帯に到着し、太陽が沈み始める前に通り抜けた。そのたびに太陽は昼間の位置へと逆戻りした。
一つ一つのクヌーズオーエがそれぞれ別な宇宙に属しているかのようであった。
ある街では無数の方角から渡り鳥の群れが訪れていた。それぞれが国境の砂漠を彷徨う流浪民のように無軌道に飛び回って互いに威嚇し合い、盛んに翼をはためかせてぶつかりあって、血を流す巨大な黒い塊を形成していた。狂騒の中で生み出されるものは生命の死以外には何も無かった。空は渦を巻く積乱雲のような鳥の群れで埋め尽くされ、雨や雷ではなく抜け落ちた羽根や血肉の破片、そして殺し合う鳥たちの絶叫が降ってきた。
部隊は言葉少なげに、しかし臆すること無く、血と汚泥の入り交じる道路を歩き続けた。直撃コースにある死骸だけ打ち払った。鳥や虫が不死病患者を本能的に見過ごすことを知っていたし、またこの区画を出れば血と糞尿の汚濁も不死病患者の体表から蒸発する汗によって浄化されると分かっていた。さりとてそのクヌーズオーエの汚染度合いは類を見ないほど悲惨なものであった。路上にはカーペットの如く死骸や糞が散乱しており、丸々と太った鼠や大型の昆虫が這い回っていたが、スチーム・ヘッドやパペットの行進に気付かなかったものは容赦なく踏み潰された。
「……う……がたがたゆれています……それに……酷いにおい……血のあじ……」
昼寝をしていたロングキャットグッドナイトも、あまりの酸鼻な大気、血にまみれた空気の生暖かさにぱちりと目を覚また。そして息を呑んで周囲を見渡した。
懸念したとおりだったのだろう、猫たちは死骸の折り重なる道路に降りて、墜落してきた渡り鳥を食べようとしている。ロングキャットグッドナイトはそれを次々に指差した。
「いけません! めっ、なので! ……レンブラント、ブリューゲル、ヴェストヴェスト! そして他の皆様にも申し上げます! ■■■■■■■■、■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■……」
鳥の血を臆すること無く浴びながら、レーゲントが理解不能な歌声を奏でると、猫たちは一斉に鳥の死骸から興味を失った。示し合わせたように荷車の上に舞い戻り、そしてロングキャットグッドナイトの前で不揃いに鳴き始めた。
「あんしんあんぜんな餌以外は禁止です。次のご飯の時間まで我慢です」
「……やはり猫と話せるのでは?」
その問いに答える前に、ロングキャットグッドナイトは猫たちを自分の腕の中へと招き入れた。
次々に鳥が墜落し、火薬が炸裂したような音を立てて地表で弾け、緋色の冠を跳ね上げる。大抵の戦闘用スチーム・ヘッドは鳥の死骸が直撃するのを避けない。レーゲントに衝突しそうな死骸だけは、撃つなり払い除けるなりして対処していたが、その程度だ。レーゲントにしても、死骸が直撃して倒れても数秒後で再生を終えて歩みを再開した。
しかし、猫にそれは真似出来ない。
500gほどの肉塊であっても、高空から自由落下によって充分に加速された状態であれば、猫如きは容易く押し潰してしまう。
リーンズィとペーダソスも、はたとその事実に思い至り、猫を抱いて鳥どもの墜落から庇った。
血まみれの羽と肉片はなおも降り注ぎ、眠らない偽りの魂を持つ不死病患者たちを濡らしていく。
浄化と分解の作用によっていずれは跡形も無くなるだろうが、こうも続けざまに浴びせられては処理速度が追いつかない。
ロングキャットグッドナイトは不愉快そうに体を震わせ、耳を塞いで、目を硬く閉じた。
見ればスヴィトスラーフ聖歌隊のレーゲントは、一様に辛そうな表情をしていた。
おそらくは鳥たちが殺し合う音の凄惨さに耐えられないのだ。次々に墜落してくる鳥たちに、人ならぬ言葉で祈りを捧げている者もいる。朱色の雨に濡れる表情は気高く、美しさに満ちている。
険しい表情で聖なる言葉を歌い上げる少女達の頭上に、はらはらと血濡れの羽根が舞っている。
真実、墜落してくる渡り鳥どもに対して出来ることは、一つとして存在していない。
鳥にとっての地獄というものがあれば、ここ以外にあるまい。
胸に猫を抱きながらリーンズィは身を竦めた。
「凄まじい光景だな……」
鳥についてはどうでも良かった。
しかし、以前、カタストロフ・シフトで訪れた核戦争後の世界、凄絶な殺し合いの末に息絶えた人の群れを思い出し、少しだけ気持ちが暗くなった。
「ここは鳥の墓場だ。死骸漁りの鳥さえ死骸になる……集合地点までの最短経路にあるが、まさか通るとは思わなかった」
猫にヘルメットを被せて落下物から守りつつ、降り注ぐ血飛沫に金色の眉を顰める。
「くそっ、ニャン公どもにぶつかるところは見たくないな! とにかくここは、いっつもこうなんだ! 鳥の雨だよ。鳥の死骸の雨だ! 方向感覚を狂わされた渡り鳥がここに集まってくるらしい。道標を失って、どいつもこいつも混乱してるのか知らんが、鳥どもは何故か絶対に殺し合う。何回再配置がかかっても、ここだけは、ずっとこれだ! 基本的にここのクヌーズオーエには不死病患者は出ないし、カーズドリザレクターもいないが、ずーっとこれで、最悪なんだ!」
「まさか世界中の鳥全部がここに来る……?」
そうとしか考えられないほどに鳥の死骸が積み上げられており、雪道よりも遙かに足場が悪い。
しかも絶えず血にまみれた羽根と肉が降ってくる。荷車に積もる死骸は増えるばかりだ。
リーンズィやペーダソスが空いた手やブーツの蹴りで片端から取り除いてはいるが、追いつかない。
コルトは「猫たちさえ守っていればそれで良いじゃないか。掃除はこの区画を抜けてからで構わないはずだよ」と取り付く島もなかったが、居合わせたスチーム・ヘッドたちは撤去作業を手伝ってくれた。
「どうして猫なんて連れてきたんだ!」
ヘルメットに黒い鴉の羽をつけたスチーム・ヘッドが怒鳴りつけてきた。
言葉を返す間もなく、その機体は荷車から鳥の残骸を除ける作業に加わった。
リーンズィたちのことは一顧だにしなかった。
無意味だと悟ったのだろう、しばらく猫たちを眺め、去っていった。
大抵の猫が食欲をみなぎらせたり、墜落時の凄まじい音と衝撃に身を竦めたりしている中、猫の番人、あるいは裁きの猫と呼ばれていた黒猫だけは、唸り声を上げながら落ちてくる鳥を弾き飛ばしていた。
猫らしからぬ勇猛さであり、かつ知性を感じさせる動きだったが、そのうち疲れたのか、迎撃を諦め、もそもそとリーンズィの腕の中に潜り込んで、無念そうに唸り始めた。
気が狂ったかのような鳥の鳴き声と墜落時の破裂音が、延々と世界を揺らし続ける。
このクヌーズオーエは不幸な鳥に与えられた死と血の殿堂と呼ぶほかなく、救いようがなく、どうしようもないほど不潔だった。
「ずっと鳥が落ちてくる……」鳴り止まぬ銃声に晒されたかのように全身が震えているが、人工脳髄による制御と補完のおかげで音声伝達は通常通り可能だった。「全部このクヌーズオーエに誘導されて来るのなら、本当にキリがないのでは」
「いや、全部じゃないだろう。これ以上いるって考えるのも気色悪いが。全部ここに来て死ぬってのもあんまり考えたくない。生きて出て行くやつもいるらしいし」
「じゃあ隣近所の街にも鳥がいる?」
「それがな、いないんだよ」
「理屈に合わない」
「空と地表とでは、属する時空間の連続性が異なってるんだ。俺たちからは鳥が壁を飛び越えて、違う空へ逃げて行くところは観測出来る。しかし壁を潜って空を見上げると、そこにはなにもいない」
「クヌーズオーエ同士は空間的に隣接しているわけではない?」
手甲の拳で鳥の死骸を弾く。
血が飛び散って目に入りそうになったので、反射的に顔を背ける。
腕は衝撃で骨折を起こしたがすぐに再生した。
「やはり女子供の腕は脆い。不便……」
「いや、この速度と質量なら大人でもあんま変わらんけどな。っていうか、知らないんだな? この都市に限らず、あの炎に包まれた正体不明のイカレどもに操作された土地は、殆どの空間が現実には隣り合っていない。俺たちが自分の脚で……」ペーダソスはグローブの拳で具足を叩こうとして、怯えている猫に思い至ったらしく、そっと宛がうだけに留めた。「自分の脚で走り回らないといけない理由の一つだ。ドローンを飛ばしても途中で行方不明になる」
「GPSは……人工衛星は、全滅した後か」
「おそらくな。総当たりしたわけじゃあないけどな。どの世界でも数十年前には高高度核戦争が起こってる」
「それは確か?」
「少なくとも百以上の歴史でな。残っていたとしても役に立たないさ、鳥でさえ道を見失うんだからな」
壁を潜るとまた新しいクヌーズオーエが現れた。
あれほどけたたましかった空には淡い雲には浮かんでいるだけで、ペーダソスが言ったとおり一羽の鳥も存在しなかった。
時間が巻き戻ったかのように、黄色い染みのような取るに足らない太陽が、冬に静寂を焼き付いている。
「……雨はやんだのですか?」
ふるふると震えていたロングキャットグッドナイトが薄目を開けて尋ねてきた。
「ここでは少なくとも降っていない」
リーンズィが答えると、猫を従える少女は新しい福音書に手を伸ばした。
夥しい数の墜落した鳥、その死骸など、どうでもいいという様子だったが、猫が鳥の死体を齧ったのを見てまた歌い出した。
ユイシスは区画を区切る壁を境にして2~3時間程度の時差が存在していると推測した。ペーダソスに尋ねてみると「今はそうなのかも知れん」と曖昧な答えが返ってきた。
「攻略拠点になってるクヌーズオーエだけは時間の流れが一定だが、外側は一様じゃない。観測者の多寡によって変わると聞いたが、俺も理屈は分からん」
「つまり今は攻略拠点に居を構えるスチーム・ヘッドの主観時間の総和がクヌーズオーエの時間に影響を与えている?」
「俺たちが見ている間はな。観測していない間は不死病患者たちの時間が適応される。らしい。過去も未来も一緒くたになったぐちゃぐちゃの時間だ」
「どんな世界なのだろう……」
「おそらく全部があるんだ」
「全部?」
「全部。だから想像しても意味がない。『全部在る』というのは『全部無い』のと変わらない。宇宙空間みたいなもんだろう……人間の意思が介在しない。真空の虚無だ」
道は尚も続いた。
荷車の上にある鳥の死骸を全部処分して、ペーダソスが自分の頸動脈を掻き切って不死病の血を撒いて消毒しても、時間はたっぷりと余った。
「だから私は後にすれば良いって言ったじゃないか」
いつもの微笑だったが、得意げな気持ちが透けて見えた。
リーンズィは「感情、普通にあるのでは……」と怪訝そうな顔をした。
「えっ」一瞬、コルトの動きが硬直した。「感情が無いなんて一度も言ったことはないと思うよ?」
「いつも表情が変わらないのは感情が無いアピールではないのか?」
「どうだろうね。もしかして君は私を馬鹿にしているのかい?」
「私は君を馬鹿にしていたのか?」
「ふーん……なるほどね、君はそういうやつなんだね」
コルトがいつのまにか拳銃を抜いていた。
ペーダソスが仲裁に入るよりも早く、シュババと鳥の死体を名残惜しそうに見ている猫を指差して謎の言語を発し続けていたロングキャットグッドナイトが声を上げた。
「ケンカですか?! そのケンカ、あとにできませんか?!」
猫のレーゲントも普段とあまり表情は変わらなかったが、あからさまに声が慌てていた。
「あの……あともうちょっとだけ待てませんか? 今すごく、すごく忙しいので! あっ、ダメです! ダメです! めっ! 猫の皆様、落ち着いて! 知らないものを食べてはいけません! ああっ、ベルリオーズまで! あなたまで誘惑に負けてどうするのですかー!」
「おお、ロンキャが焦ってる……こいつも焦ったりするのか……」
唖然とした様子でペーダソスが呟き、指差すのを通り越して、何かよく分からない謎のダンスのような動きをし始めた猫のレーゲントを見ながら言った。
「……なぁリーンズィ後輩よ。誰しもに感情はあるんだ。ロンキャにもある。誰だって泣いたり笑ったりするんだぞ。分かるだろ。コルトだってそうだ」
「その文脈で並べられると私も気にするよ」
「いやそこを気にされてもな。表情にバリエーションが無いのは事実だろ」
「ええ、そうかな……」
「誰しもに感情はある。とても分かった」リーンズィは素直に頭を下げた。「コルト、今まで誤解していた。謝罪しよう」
「ペーダソスとそのレーゲントに感謝することだね。スチーム・ヘッドに対する侮蔑は宣戦布告に等しい。私も面と向かって冷徹な殺人マシーンと呼ばれて許せるほど寛容では無いよ」
「えっ、別に冷徹な殺人マシーンとは呼んでいないが……」
コルトは少しの間黙って、銃をホルスターに戻し、鳥の死骸の誘惑と戦っていた黒い猫を抱き上げて、そのまま持ち上げたり下ろしたりした。
「リーンズィ、私が今何を考えているか分かるかい?」
「分からない」
「レアは君とどうやって付き合っているんだろうって悩んでいたところだよ」
懲罰担当官は深々と溜息をつき、それでようやくリーンズィにもコルトの感情が知れた。
半自動モードで機械的に対処すべき道程だったがどの機体も己自身の意識を手放さなかった。
悪性変異体などの接近を警戒してのことだろう。この行進中に実際に<クイックシルバー>が襲撃してきたこともあったようだったが、リーンズィたちが騒ぎに気付いた頃には、既に鎮圧されていた。
「腕利きが大勢いるらしい。私抜きでも全然大丈夫なのでは」
「代わりに半分イカレてるが、常時オーバードライブというコンセプトで作られた機体がそれなりにいる。いや、『いた』だな。十分の一ぐらいまで減ってしまった。人間は異常に引き延ばされた時間の中では意識の不可逆的な変性から逃げられない。時間の牢獄さ。あいつらが変異を起こしたらどんな事態になるか分からない、そう思うだろ?」
「<クイックシルバー>?」
「そうだ。それがあいつらの意識を辛うじて人間として固定している。クイックシルバーを倒さねばならない、クイックシルバーにはなりたくない……ってな」
「人間の証明なのだな……」
ロングキャットグッドナイトが居眠りしているタイミングを見計らって、リーンズィとペーダソスは声を潜めて話をした。
「ところで猫の人……ロングキャットグッドナイトは……何を根拠にして生きている? つまり、どうやって意識を保っている? マスターは何か知っているのか。知っている?」
「ああ、リーンズィも気付いたか。やっぱりそうだよな、こいつ」
「これだけ長時間傍にいれば、分かる」
ライトブラウンの髪の少女は猫のレーゲントを見つめながら言った。
「彼女には人工脳髄が搭載されていない」
髪に隠れているわけでもない。
存在していないのだ。
どう観察しても、ロングキャットグッドナイトはそれらしき機械を身につけていないとしか結論出来ない。ヴァローナの瞳を使って磁気や電気信号の類を観測しようとしても、何も見えない。
客観的な事実として、ロングキャットグッドナイトは意味のある電気的信号を一つも纏っていなかった。他のあらゆるスチーム・ヘッドが微弱な電磁波を放出しているというのに、猫と共に安らかに眠る彼女には、偽りの魂を演算している兆候が見受けられないのだ。
「こいつ、本当に何なんだろうな」ペーダソスは興味深そうだった。「あんたに共有してもらったデータを確認したが、これならただの不死病患者と大差ないはずだ。それが何で普通の人間みたいに喋ったり動いたり出来るんだ?」
「未知のメカニズムが採用されているのだろう」
「メカニズムっていうか……また別の話になるけど、なんでロンキャは寝たり起きたりしてるんだ? 不死病患者には睡眠なんて必要ないだろ」
不死病患者やスチーム・ヘッドには活動時間帯という概念は本来存在しない。
解放軍の面々は夜間は活動を停止するが、そのようなルールを設けているからであって、生理的欲求とは異なる。
ロングキャットグッドナイトの活動について幾つか推測を交した。
睡眠と覚醒、少なくとも見かけ上そう解釈され得る行動は、非常に短いスパンで何度も繰り繰り返されたが、リーンズィたちはある程度規則性のようなものがあることに気付いた。
少なくとも同時に全ての猫が眠ることは無く、そして全ての猫が同時に起きていることも無い。
関連性は否定しきれないということでペーダソスとは意見の一致を見たが、偶然である可能性も排除しきれず、どうであれ世間話以上の何かにはならなかった。
「リリウムやファデルなら何か知ってるか。知らせる必要が無いから知らせてないんだ、危険な機体では無いんだろうし……」
コルトに視線を注ぐ。ロングキャットグッドナイトに警戒を示している様子がない。
あるいはSCAR運用システムの照準自体は定めているのかもしれないが。
しかし、何で猫なんて連れてるんだろうな、本当に、とペーダソスはあぐらの上で丸まって眠り始めた猫をどかそうとする。
柔らかな無抵抗のいのちに触れ、短い金髪の下で眉を軽く顰めた。
「弱ったな。加減が分からん。猫ってのはどの程度力をかけたら壊れるんだ?」
「猫を触った経験は無い? 私と違って何でも知っていると思っていたが」
「残念だが俺も世間知らずなんだ」少女は自嘲気味に首を振った。「俺は生きてた頃色んなものを見させてもらった。電子化された映像を、何千時間も。でも本物は全然見たことが無かったんだな。自由になるものは武器や装備、部屋の備品、トレーニング相手、後は自分の体ぐらいだな。だから猫がこんなに軽くて柔らかくて温かいなんて知らなかった。しかも枕ぐらいモコモコなんだよな。骨とか内臓とか本当に入ってんのかね、こいつら」
「強く突つけば驚いて起きるのでは?」
「おいおい、ビデオに映された偽物しか知らなくても『それは可哀相だ』ってことぐらいは分かるぜ。偽物も知らないお前には難しいかもしれないが」
「そういうもの?」
「そういうものだ。いや分からんが」
ペーダソスは禅宗の僧侶のように胡座の姿勢を保ち、極力猫を起こさないように努めていた。通常の人間であれば不可能であろう完全な不動の姿勢、不随意運動までも自在に制御可能な人工脳髄は、偽りなく彼女を猫のための安楽椅子になりきらせた。
通常は不整地での潜伏や狙撃姿勢の維持に際して使われる機能だが今この瞬間だけは猫のためだった。
膝の上で猫が眠そうな仕草を見せ始めたとき、リーンズィもペーダソスの真似をしようとした。
猫はその途端に目を覚まし、煩わしそうにひょいとリーンズィから飛び降りて、荷車に伏せ、腰部の蒸気機関のせいで生まれたリーンズィの臀部と荷車の間にある空間に滑り込んでしまった。
尻に柔らかくて温かいものがあるので、リーンズィは酷く落ち着かない気持ちになり、やはり不動の姿勢を強いられた。ふと思い浮かんだのは、昨夜、無言で抱き合ったり、接吻したり、他愛ない接触をしてたときに知った、レアの、痩せぎすで、それでいて柔らかな肢体だ。
彼女は今、どうしているのだろう。彼女も自分と同じ道を歩いているのだろうか。
生真面目そうな顔を不安げに曇らせたライトブラウンの髪の少女を眺めながら、ペーダソスは歯を見せて笑った。
何故笑っているのかリーンズィには分からなかったが、マスター・ペーダソスがあまりにも嬉しそうに、綺麗に笑うものだから、少しだけ心臓が高鳴って、嬉しくなった。
リーンズィの意思ではなかった。
ヴァローナの肉体に由来する感情だった。
そのことに気付いたとき、少女は戸惑いを覚えた。
特定のシグナルに反応した際に再生されるよう設定されていたメッセージが脳裏に響いた。
『進言。不可解に思うことではないと勧告します。そもそも貴官のパーソナリティ自体が肉体からの入力に由来するものです』
「そういうものか? ……そういうもの?」
『衛星軌道開発公社の支配地域でミラーズと接触を重ねた体験が貴官の起源です』
「そうなのか?!」
脳裏に金色の髪をした天使のような退廃した美貌の少女、ミラーズが浮かび、またも心臓が高鳴った。
『その鼓動も貴官に由来するものではありません』
「私のものでは無い?!」
『キジールと深い繋がりを持っていたと推測されるヴァローナの肉体に備わった条件反射です。ようやく自覚したのですか?』
「ま、まだ自覚していない。よく分からない……」
『肉体に主導権を譲渡しないよう注意して下さい。それは貴官の肉体ではありません。どれほど官能的な気分になっても、それは捏造された情動であると言う可能性に注意するよう忠告します』
「しかし、ヴァローナのオリジナルの人格は、既にプシュケ・メディアからも蒸発している」
『彼女が肉体に刻んだ履歴は消えていないと言うことです。アルファⅡモナルキアは、精神外科的心身適応を抑制する方針で、貴官の運用を検討しています。独自の情動を錨とすることを推奨します』
「私の独自の情動? それは一体何なんだ?」
『それを確立させるのが貴官の使命です。流されるだけの人はフラれてしまいますよ。訂正します、前提として多くを知らない貴官には無縁な話でした』
「私の使命……あとまた何か酷いことを言われている気がする……」
「さっきからマジで誰と喋ってるんだ? 猫か? ロンキャ教に入ったのか? この作戦が終わったら一緒にヘカトンケイルのところに行ってやろうか?」
ペーダソスが可哀相なものを見るような目で言って、直後に幹線道路の彼方を指差した。
「おっと。ほら、見えてきたぞ」
それが隔壁だと気付かなかったのは、あまりにも無残に破壊されていたからだ。
壁として到底機能している状態に無く、何らかの無機物の塊としか認識出来ない。
ペーダソスは何の躊躇も無く姿勢を崩し、不朽結晶連続体製倍率可変型レンズを備えたヘルメットを被った。
ペーダソスで暖を取っていた猫たちはにゃーと不満そうに鳴き声を上げて、ロングキャットグッドナイトの傍へと逃げて行った。
「あっ、猫をそんなふうに扱うなんて! 猫と和解をしないものは、死後聖なる猫と遊んでもらえなくなりますよ! まだ反省していないのですか! 嘆かわしいことです!」
「死なない体になって何年だよ……。あの壁を超えれば集合地点だ。ロンキャだって臨戦態勢を取れよ、無駄話も、にゃん公どもとのお遊びも、あそこを超えたら禁止だからな」
「どんなものがいたとしても、聖なる猫の幸せなお腹に包まれれば、きっと分かってくれます。まずは私キャットにお任せなので」
「いや説法のセの字が出る前に首刎ねられて終わりだって。大人しくしとけな」
ユイシスから与えられた課題について思いを馳せていたリーンズィは、首を刎ねる、という単語から自然と<首斬り兎>へと思考の対象をシフトさせていた
。
「その兎というのは、物理的に首を刎ねるのか?」
「斬れるときは必ず刃物で首を刎ねにいく、ってのが被害状況から推定されてる傾向だな。基本的に関節狙いみたいだが、不朽結晶の蒸気甲冑ごと真っ二つにされたやつもいる。とにかく一瞬で首を斬りまくるんだよ」
「それでは、不朽結晶連続体を切断できる刃物を持ってるということになるが」
「持ってるんだろうなぁ。まぁ十中八九ウンドワートの爪みたいな超高純度不朽結晶だわな。そんなもん持ってオーバードライブするとかインチキだよ、インチキ」
リーンズィは一つの影を連想して、我知らず身震いを起こした。
肉体が覚えていた。
人工脳髄が覚えていた。
……あのスチーム・ヘッドを忘れることなど出来ようはずも無い。
「おお、どうした。ビビってるのか?」
「……クヌーズオーエは……増えるのだな? 私たちが見てきたように」
ライトブラウンの髪の少女の顔は青ざめていた。
無限に連鎖し、光景を反射して、この都市は増殖していく。
「ならば、住民や、中に閉じ込められた人間までコピーして増えていくのだろうか」
「機能停止したスチーム・ヘッドの鏡像体とか、そういうのが見つかることはあるなぁ。でも何でそんなことを聞くんだ?」
「……私にも感情がある。口にしたくない」
そうかい、とペーダソスは肩を竦めた。
リーンズィは、自身の言動について黙考する。
そうなってほしくない、という思いを込めて、言葉を敢えて胸に留める。
この不合理的な行動を肯定する言葉をリーンズィは知らない。
『推定:おまじない。破綻した因果律を前提として、自他の被害を軽減しようとする非論理的な行いです』
冷然とした女の声に、リーンズィは声に出さず、「そうなってほしくないと願うことは悪だろうか?」と言い返す。
ユイシスは『願いを裁く法は、貴官に対して適応されていません』と事務的な音声で返した。
より多くの否定の言葉を求めた。
だが統合支援AIは望んだものを与えてくれない。
だから、自分で否定するしかなかった。
その忌まわしい可能性を。
不朽結晶連続体をも切断する能力を備えた近接戦闘武器。
それを搭載してクヌーズオーエで戦い続けた機体を、エージェント・リーンズィは知っている。
アルファⅡモナルキアは、知っている。
冬の廃村で破壊された機体。
名前すら思い浮かべたくなかった。
名前を呼べば、不吉な予感が、それがために現実としての形を持ってしまう。
そんな非論理的な考えが頭の中を駆け巡って、恐ろしかったのだ。




