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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-11 ヴォーパルバニー その3 キャットの説法

 アスファルトがなだらかに隆起したクヌーズオーエの外縁部。

 固有の名前すら無い、この鏡像の迷宮に無数に、あるいは真実数限りなく配置された、ありふれた廃棄市街。

 リーンズィはライトブラウンの髪に灰混じりの風を浴びながら、目を伏せ、長い睫で瞳を隠し、薄目で朽ち果てた風景を見送っている。がたん、がたん、と歪な不可視の線路を走る荷車が苦鳴を上げる。

 立ち並ぶ標識を見よ、悉くねじくれて、雷に打たれた古木のように割れて裂け、それでも尚、霞かかる空、何者もありはしない虚空へと、救いを求めるように、黒焦げた手指の如きその分かたれた破片を高く伸ばしている。

 最早何者も標識の意味を読み取れぬ。僅かに遺された色は赤。赤は血に通じ、血は大量死に通じる。大量死は疫病を呼び、不朽結晶の翼と蠍の尾を持つ馬のような蝗を招くだろう。しかしこの不死の都市、不死のともがら、滅びることすら許されぬ憐れな者どもは、流す血を誰もが失ってしまっていた。

 殆どの不死病患者は、レーゲントたちが歌う人ならざる音声の鎮魂歌の中に微睡み、飲みさしで放り捨てた空き缶のような空虚さで佇む。枯れ草の茂る歩道、赤色の標識が瞬いて、蒼く灯る日を待っている。

 見上げるものは誰も居ない。

 不死病患者たちは、夢を見ているのかも知れない。一切の精神活動が無いことは科学的に証明されている。だが、リーンズィは胸騒ぎとともに、形の無い空想を脳裏で検証する。魂無き者どもは、誰かが先に進めと言ってくれるのを、新しい魂が吹き込まれる日を、遺言を言いかけた途中で事切れた口元が、新しい言葉を紡ぐその日を、待っているのではないか。


 私は彼らに何をしてやれるだろう? どんな安らぎを与えてやれるだろう。

 リーンズィ。アルファⅡモナルキア。君は、何をしてやれる。リーンズィ。何のために創られた?


 彼女の感傷を知ってか知らずか、SCARのガンナー席に座った猫っ毛のレーゲントは、雑多な色彩の絵が描かれた画用紙を掲げ、神や悪魔と論争をする年老いた狂える宣教師、さもなければ壇上の三文役者のように、熱の籠もった声で説法を続けている。


「そこに聖なる猫の使徒たち、戒めの十匹が現れたのでした! だだーん! だだだだーん! ずしんずしーん! ずしゃー! ぎゃー! ずばずばずば! 威勢も虚勢もどこへやら、恐れ、戸惑い、みっともなく暴れ回る悪魔たち! びびびーっ。どかーんどかーん! でもその呪いは戒めの猫にまでは及ばないのでした。そう、彼らには人を呪うことしか出来なかったのです。聖なる猫に呪いなど通じないのでした。星々の煌めきに祝福された、蜘蛛の如きしなやかな八つの関節を持つ、高潔なる五番目の戒めの使徒は、その類い希なる腕前のキャットクローで、シュババ、シュババ……このようにして倦怠の病魔を薙ぎ払ったのでした。そして飢えたる人々の前に突き立てられた第一の戒律者! 彼は水をワインに、砂を金に、パンを肉に変え、ここに人々へ神との新たな契約を宣言したのでした! ハレルヤハ!」


 歓喜の声とは裏腹に冷静にページを送る。


「神を疑っていた人々は随喜の涙を流し10匹の偉大なる猫、戒めの猫たちの前に跪きました。猫は言いました。にゃーと。それは哀しみのにゃーでした。そう、民はまだ真なる猫の意思に気付かなかったのです。役目を果たして光の粒になって消えていく聖なる猫の半分の部分……きらきらきら……しゅわー。第一の戒律者の見上げんばかりの巨体から放たれた光は万里を照らし、長きにわたる戦い終止符が打たれたのでした……聖なる猫の福音書第58巻、これにて終わりです」


 ふー、とロングキャットグッドナイトは息を吐いた。


「これで聖なる猫と人間たちの幸福な出会いについて分かりましたね?」


「ぜ、全然分からない……」


 聞き流していたリーンズィは至極正直に感想を述べた。

 丸きり何も聞いていなかったわけではない。基本的には別のことを考えていたのだが、キャットの説法はそれを抜きにしても意味が分からない。

 高層建築物の壁面や屋上、そこいら中を歩き回る武装したスチーム・ヘッドたちも遠巻きに、横目で説法を眺めていたが、珍獣の博覧会か旅芸人の演芸を遠巻きに見ているような具合で、特に感銘を受けた兆候は無かった。


「分かるはずです。絵が下手ですか? 挿絵が下手で申し訳ないとは思うのです」


「挿絵というか、絵画というか、その絵はとても上手だと思うが……」


「それでも分からないのですか……」


 異様に写実的な、しかし明らかに猫では無い何かの怪物、さもなければ怪物のような猫が描かれた、無数の黄ばんだ紙の束をまとめながら、ロングキャットグッドナイトは訳知り顔で何度も頷いた。


「仕方のないことです、人は全知では無いので。繰り返し聖なる猫の啓示に触れれば、自ずから光の意味を知れるので、ご安心です」


「ええと……そうではなく……」


 あまりに自信満々で言うので、リーンズィは二の句を継げなくなってしまった。

 人工脳髄から生体脳へかけて展開している簡易ユイシス、模擬演算された代理知性体に助けを求めても『論理的な理解は不可能です、そんなことも分からないのですか?』とバカにされるだけだった。

 だから隣にあぐらをかいて座っているマスターに目配せをした。

 レアと共通部分の多い顔貌、飛行服のような装束を纏う、短い金髪をしたそのスチーム・ヘッドは、


「え、俺も分からん」と戸惑いの声を上げた。


「分からない。よね?」


「分からんだろこれ……」


 二人は廃墟の只中を進む荷車、がたごとと揺れる箱の中、見せしめのように武装したスチーム・ヘッドたちの只中で粗末な木組みの荷台に座り込んでいる。

 藁の代わりに化学繊維を敷き詰めているおかげで座り心地は悪くない。

 諸処の手違い、さもなければ手続き上の事情から、リーンズィたちをおいて本陣は先に出立してしまった。移動は比較的静かなものとなった。

 しかし遅参した戦闘用スチーム・ヘッドたちに紛れて、些か珍妙な有様を晒してしまっているのが、成長しつつあるリーンズィには少し恥ずかしい。

 ふざけていると言われかねない状況だったが、非難や誰何、詰問の類が飛んでこないのは、ひとえに懲罰担当官であるコルト少尉が付き添ってくれているからに他ならない。何らかの罰では無いかと憶測を話し合っているのをリーンズィは聞いた。

 まさか相乗りしている猫のレーゲントが下しているペナルティだとは思っていないだろうが、しかしコルトが容認し、こうして移動に協力してくれていると言うことは、まさしくコルトからの罰と言っても間違いは無い。


 荷車を牽引しているSCAR運用システムはおおよそ乗客について無頓着で、平原の街の打ち砕かれた道路、なだらかな丘陵の如き罅割れてささくれたアスファルトを、雄牛の勇猛さで直進している。廃坑の線路を転げる骨董品のトロッコ列車のような荷車は如何にも頼りなく、いつ脱線を起こしても不思議では無い状態だったが、それよりも酷いものがここにある。

 ロングキャットグッドナイトが福音書と称する何かだ。

 語られる物語には、そもそも辿るべき道筋というものが存在しなかった。


「ではでは、まだ質問はありますか?」


 二人の前、SCARのガンナー席に相変わらずちょこんと座っている、軽くて小さな体の聖歌隊指揮者。

 何だか不安定で、多足の大量破壊兵器が瓦礫を踏み砕くたびに一緒に跳ね上がる。

 居住まいのどこにも威厳は無い。瞳が酷く虚ろで、リーンズィたちを見つめているようでいて実際には何者も見ていないかのような印象を与えることを除けば、ただの愛らしい少女だ。

 ロジー・リリウムや他のレーゲントと比較しても、さほど力ある存在には見えない。

 さらには、レーゲントが総じてどこか悪い意味で浮世離れした気配を纏っているのに対し、ロングキャットグッドナイトは異様なほど無垢だ。愛らしい顔立ちだが、それはある種の隔絶した純粋さを保障されており、彼女が誰かを誘惑している姿など、想像することさえ困難だった。

 それと同様に、誰かを説き伏せ、心を操り、人形のような己の信徒することも、あまり出来そうには見えない。

 それだから、どれほど文化的な高尚さで見積もっても、公民館の小さな読み聞かせ会に参加している、奉仕活動に熱心なティーンエイジャーという程度の雰囲気であった。


 彼女は自分は本当は強いのだと言っていたが、リーンズィにはどうにも彼女が悪性変異体やスチーム・ヘッド相手に渡り合っている場面がイメージできなかった。

 パンチされただけで「あー」とか言いながら飛んでいきそう、というのが奇譚の無いリーンズィからロングキャットグッドナイトへの評価である。

 ライトブラウンの髪を触りつつ、貸与されたセラピー用の安全猫(何が安全なのか分からない)を膝の上で遊ばせながら、おそるおそる挙手をして尋ねた。


「いくつか良いだろうか? 良いかな?」


「ハレルヤハ、知らないの中に知りたいを求めるのは良いことですので」

「……縮尺が分からないのだが、聖なる猫というのはそんなに大きいのか?」


「いえ、普通サイズです。例えば猫は大きいですか? 猫は大きくないです。しかし聖なる猫に導かれし戒めの罪人などは、猫ならなざるものなので、大きかったり小さかったりします。しかしその真のスケールは猫ならざる身の目には見えないのでした」


「そうなのか、そうなの……」と曖昧な顔でリーンズィが頷き、またペーダソスに視線を送る。


 質問をしようにもこの様態である。実のある受け答えが生じない。ペーダソスも同意見に見えた。

 あぐらの間にくるまっている猫をわしゃわしゃ撫でていたペーダソスも、溜息を吐いて挙手をする。


「形而上の世界ではもっと大きいってことか? 不可知論とかそういうやつか? アルファⅢの代替世界みたいな……」


「むむ、ご静粛に。ここは聖なる猫の勇壮さと慈悲、戒める者たちの永遠に救われぬ戦いに思いを馳せる場面なので。科学とかはお亡くなりです。神智学とかもお亡くなりです。切り捨てご無礼です」


「ご無礼て」


「色々な学問がカジュアルに死ぬのだな……」リーンズィが呟いた。


「っていうかあの……根源的なこと言って良い?」


 マスター・ペーダソスは頭痛に耐えかねたようにグローブの指先で眦を揉む。


「なぁロンキャ……あのさ、気にしないようにしてたけどさ」身振り、手振りで困惑を伝える。「さっきのが29巻で、最初が13巻だったよな。それで、今度はいきなり58巻だろ。そんなに飛ばされたら俺らには何が起きてるのか分からんよ……」


 ロングキャットグッドナイトの説法は一貫していっそ清々しいほどに不完全だ。

 巻数すら飛び飛びなのだ。

 うんうん、とリーンズィが首肯する。分かるわけがない。聖なる猫との契約について語った絵図だというのは何となく理解できるが、それ以上は何も理解できない。

 話が全編を通して全然繋がっていないのだ。


「ロンキャよ、たとえば今の話だと、まず最初の最初、『そこに』の部分から分からん。どこに係ってんの、それ。あと、その悪魔? 倦怠の病魔? との戦いは、いつ始まったんだ?」


「それは8巻で説明されています。そして福音書はあり、猫はいます。それ故に非共時的な連続性により担保されるので」


「猫の人、何にも言ってないのと同じでは……」


「とにかく大事なのは、猫はいます、ということです」


「いやまぁ確かに猫はいるけどさぁ」


 いったいぜんたい何が分からないのですか、とロングキャットグッドナイトは不思議そうだった。


「でもでも、次の福音書を読めばきっと分かるので。それでは第172巻……」


 リーンズィは絶句した。

 172巻。


「飛びすぎでは?」


「悟性により脱落は自然に補完されるので。それではついに現れた四十四組の四人の騎士! 10の戒律者たちもついには猛き不浄のアビシニアンを残して眠りについてしまいました! ただだーん! だーんだーん! エッフェル塔も溶けて曲がり、ベルリン王国の衛兵たちも幸せで温かい塩の塊に変じてしまいます。首都パリを脱出したフランク王国民に最後の試練が! そこに大好きな猫のお医者様と優しい巨人の画家が……」


「待て待て待て」ペーダソスが静止した。「なん……何だ? どうなってんの?」


「知らないキャラクターと集団がまた一気に増えた」


「物語とはそういうものなのだと聞いていますので」


「なぁ、なぁロンキャ、全200冊なのに172巻まで一気に飛んでるんじゃ、もう俺ら話絶対分からないって。いきなり話が進んだとか通り越して、いきなり最終刊じゃん」


「76巻から120巻までは最初から存在しないので。578巻で終わりです」


「えっ」


「は?」


 リーンズィは呆然として、ライトブラウンの髪の少女の首輪に触れ、統合支援AIに助けを求めた。

 アルファⅡモナルキア本体とのリンクは回復させているが、リーンズィの自主性を育成する観点から常時通信は控えており、リーンズィの首輪型人工脳髄にマウントしたユイシスも最低限度の機能しか有していない。

 それでも仮にも人工知生体を自称する何者かである。

 情報処理を専門とする存在なのだから、こういう場面は得意なはずだ。


「ユイシス、ここまでのロングキャットグッドナイトの話をこう……機械学習的なもので要約してほしい」


『要請を受諾しました』


 薄笑いを浮かべた金髪の少女のアバターが現れ、リーンズィの視界の隅でこれまでにスキャンした画像と、書き起こした朗読を一覧化した。


『分析を終了しました。人と猫がいると推測されます』


「それは分かる……」


『では、エージェント・リーンズィは該当レーゲントの論理を充分に理解している状態であると結論出来ます。それが理解出来ていないのは問題かと。初期化しますか? 一からやり直しますか?』


「そうか……いや、初期化はいい……あと何で君は軽量化モードなのにそんなに辛辣なんだ……?」


 リーンズィは思い悩み、猫をそっと持ち上げて、ロングキャットグッドナイトの真似をして掲げてみた。

 お手上げのポーズだった。


 衛兵代わりのスチーム・ヘッドやレーゲントたちが、引き回しの刑に処されているに等しいリーンズィとペーダソスを相変わらずチラチラと見ているが、ロングキャットグッドナイトにはみな馴染みがないようだった。

 こちらに興味関心を向けている何者も、愛らしい猫の歩く姿や、福音書の美麗な猫宗教画に溜息をついているばかりで、横から割り込んで内容を解説してくれる誰かの登場は、やはり期待できそうに無い。

 SCAR運用システムのガンナー席に腰掛けて、リーンズィたちと向き合ってひとときも視線を外さないロングキャットグッドナイトは、抱いていた黒猫を荷車にそっと投げた。

 すると猫は新しい福音書、書とは名ばかりの絵画の紙束を咥えて、身軽な動きでガンナー席へと舞い戻った。


「ありがとうございます」と無表情に猫の喉を撫でつつ膝に座らせ、福音書を受取り、表紙をめくった。

 そして温かな猫たちに囲まれているリーンズィとペーダソスに、びしっと次の絵を示した。

 光の粒子を纏って咆哮する、非現実でありながらも異常に写実的なタッチの白い猫が、黄色がかった朽ちかけた紙面に、息づくような黒の濃淡で踊っている。

 リーンズィは何度目かの困惑に苛まれた。


「わ、分からない……この絵は何なんだ……」


 ロングキャットグッドナイトが示す書に装丁は無い。綴じ紐すら無い。一枚残らず、それらは剥き出しの紙切れである。様々な猫が描かれているだけの鉛筆画である。羽が生えていたり、後光を背負っていたり、八本ぐらい剣を携えていたり、ビルよりも高かったりしたが、一様に猫である。

 他にはどんな存在も登場しない。

 現れる巨像の猫と言えば、いっそ印刷物であれば納得がいくのに、というレベルの美麗な筆致だ。

 そしてどこまでも執拗に理解を拒絶してくる。


「これは悪魔を滅ぼし、わたしキャットに手を差し伸べて下さっている聖なる猫の図です」


 その福音書には文字が書かれていない。ひたすら猫の絵が詰め込まれている。偏執的という言葉ですら本質には及ばない、様々な技法、得体の知れぬ熱量で描き込まれた、虚構の猫、約束の猫、夢に見た猫……。

 巻番号が不規則であるにせよ、刻まれた黒炭の筆先に偽りが含まれていたとは考えにくく、そこには真実しかない。

 全部で200冊あるというのは誇張ではあるまい。何故578冊目まで番号が飛ぶのかは不明だが。

 福音書と呼ぶには、やはりどこか異様な気配を滲ませている。何より、あまりに粗雑だ。

 他のレーゲントと同じくロングキャットグッドナイト自身も字を読むことが出来ないのか、その書に文字は一度も現れない。細かい状況説明や説法などは、全て劇伴の如く彼女の口から奏でられている。

 レーゲントらしい美しい声音であるにせよ、朗読の技法は酷く稚拙で、大雑把で、とりとめが無く、そのくせ、聞いている間だけは至らぬ点に気付かせぬ程度に、充分に情熱的である。


 結局の所、福音書とは名ばかりだった。

 それを紙芝居と表現することにリーンズィは一切の躊躇を持たない。

 情熱的な猫が画面狭しと展開される画用紙は、いつ尽きるかさえ知れないほどの量がある。荷台、リーンズィたちの目前にうずたかく積まれている。

 かさばるのも道理であるし、この全てにこの意味不明な猫の絵が収録されているのだと考えると眩暈さえ覚えそうだ。


 リーンズィとしては、ロングキャットグッドナイトが活き活きと「説法」をするのは見ていて心和んだし、無秩序に放流された猫たちに包まれて良い気分ではある。

 だが自分は、一体何を聞かされ、何の改悛を促されているのか?

 猫と遊ばせてもらいながら、変な猫の絵本を朗読している猫っ毛の女の子を眺めているだけでは? 

 心持ちを同じくしているであろうペーダソスがぼやいた。


「しっかし、まさか第二十四番攻略拠点のヴォイニッチ・ダイアリーの保管所からこんな大作が出てくるとは思わなかったな」


「うん。作戦発令直後に宝探しをする羽目になるとは思わなかった」


「しかも手続きの書類が、紙だぜ? 信じられるか?」


「むむっ、私語が聞こえましたが」


「でもさぁロンキャ……」


「でもさ、じゃないよ、ペーダソス」


 思わぬ所から咎める声が入った。

 コルト少尉だ。ゆっくりと走行を続けるSCAR運用システムの隣を歩く純白のヘルメットの兵士が、振り返って平板な声音で釘を刺してきた。


「いいかい、君たちはただでさえ本陣の移動から遅れているんだ。それも、君たち自身がリリウムの法に背いたことによるペナルティで。少しは悪びれることを推奨するね」


「反省してまーす、少尉殿」とペーダソスは肩を竦めた。「コルトはお堅いねぇ」


「反省している。いまーす、少尉殿」


「反省するのは良いことだね」コルトが指鉄砲でリーンズィを指した。「反省は良い物だ。良い物は決して滅びない。人類が消え去っても反省だけは生き残るよ。ところで、ペーダソス曹長、その言い方をリーンズィに真似させないように。もうレアに仕込みをされてるんだろう?」


「仕込んだんだか、仕込まれたんだかな」


「不穏当な発言だね」と飄然とした声音でコルトが周囲を見渡した。「あの子は本陣と合流している。もし聞かれていたらこの場で蹴り殺されていても仕方が無かった」


 レアは作戦発令と同時に姿を消した。

 もしもここにいれば、確かにペーダソスに蹴りの一撃も食らわせていただろう。

 ロングキャットグッドナイトのペナルティを受けるのはレアも一緒のはずだったのだが、とリーンズィは黙考する。レアだけはそれを免れた。

 知らない間に一人で離脱していたのだ。

 誰も責める者がいないので、きっと事情があるのだろう。それでも気になるところではあった。

 そもそもレアは、何をしているスチーム・ヘッドなのだろう? 解放軍の幹部だというのは聞いたが、リーンズィの認識では綺麗な赤い目とても可愛らしいせんぱいにすぎない。透き通るような肌の下にはさほどの筋肉もなく、とても戦いに向く肉体とは思えなかった。

 それがどうして本陣に最速で駆けつけるような任を負っているのだろう?


 思うにつけ、今朝は全く慌ただしい出撃となったと溜息を吐く。

 私はとっても強いのです、と移動販売所でロングキャットグッドナイトがふわふわした口調で啖呵を切った直後、予想されていたとおりファデルから<首斬り兎>なる存在の討伐作戦開始の指令が下った。

 当日朝になってようやく発令となったのは、敵側の電子戦闘能力を最大レベルに評価して限界まで情報統制を行っていた結果らしい。

 なし崩し的に解散となり、その隙にレアが一瞬で姿をくらまし、各々が出撃のために準備を整え、不朽結晶連続体の城門の前に集合したときには、猫のレーゲントはあろうことかコルト少尉に渡りを付けて、運搬用の脚としてSCAR運用システムを捕まえてしまっていた。

 実際はコルトの側に、ロングキャットグッドナイトを監視する目的があったのだろうが、どうもそれだけとは思えない。

 特製の荷車に、発掘品にも等しい福音書の山を積むのは、結局リーンズィとペーダソスの役目となった。積み込みまでの全ての作業が終わった頃にはヴォイドもミラーズも先行部隊と一緒に前進してしまった後だった。

 そうして戦闘用スチーム・ヘッド部隊の第二陣と一緒にコルト少尉に連行されるような形で出発して、今に至る。


「白いヘルメットの人。今回はご協力に感謝です」と説法を一時中断しながらロングキャットグッドナイト。「あなたの協力がなければ、わたしキャットは何度も転んでいたことでしょう。お礼の猫は特別なので。今日はたくさん触って下さい」


 コルト少尉は与えられた猫を抱きながら頷いた。


「『ロングキャットグッドナイトの裁定には、十分な協議の上、妥当と認められる場合は可能な限り協力しなければならない』。そういう協定がリリウムとの間にあるからね。本来はお礼も必要ないんだけど、貴重な猫だから厚意に甘えさせて貰うよ」


 先の調査でも猫が好きであるらしいことを仄めかしていたが、本物の猫と触れあっている今も、その微笑を含んだ声音には全く変化が無い。

 もしかするとヘルメットの下では普段よりも和んだ顔をしているのだろうか。


「それにしてもロンキャ、これ全部手書きだろ、すごいじゃん」


 混沌とした猫説法に嫌気がさしたのか、ペーダソスが違う観点から話かけはじめた。


「絵で食えるじゃん。いや俺たちは食わなくて良いんだけど。自分で描いたのか? それとも誰かに描いてもらったのか?」


「頑張ってわたしキャットが描きました。昔々、この夜が今よりもずっと暗かった頃には、キャットには立派な先生がいたので」


 猫のレーゲントはどこか誇らしげに膝の猫をさっと掲げた。

 また戻した。


「あっ、聖猫の肖像販売は禁止されていますので。リリウム様のごめいれいなので。欲しかったのならごめんなさいです」


「いや、凄いとは思うけど……欲しいかって言うと」ペーダソスは言い淀んだ。「あんた、ヴォイニッチ関係だろ? あの大主教が残したわけの分からん日報みたいに、この福音書? でいいのか? これ普通に読んでたら、いきなり変異が起こるとか、なんかありそうだし……」


「あんしんあんぜん、無添加100%なのですが」


「そうは言うけどなぁ……」


 リーンズィは躍動感溢れる猫、あるいは猫に身を借りた何者かが敷き詰められた、奇妙な紙面を眺める。

 ヴォイニッチ・ダイアリーは、クヌーズオーエ解放軍に入る際に門番のスチーム・ヘッドによっても曝露された危険物だ。その忌避され、封印された記事、密閉された倉庫で朽ちるがままに放置されているあの記録の山が何なのか、リーンズィには把握できていない。

 今回の危険な作戦への参画に当たり、ユイシスやヴォイドたちとのリンクも暫定的に回復させているが、あちらのデータベースにも正確な情報は蓄積されていなかった。

 分かっているのは『何らかの変異を促す要素』が存在するらしいということだけだ。

 大主教ヴォイニッチなるレーゲントが遺したものらしいということは確定したが、解放軍を去ったという彼女の遺物が、何故リリウムの管轄下たるこの地に保管されているのかは依然として知れない。

 リリウムはまだもう一人の大主教とは当面同盟を維持するつもりでいるらしいので、何らかの取引である可能性はある。


「……しかも大半が持ち出し不可とは。普通の処理なのだろうか」


「モノがモノだし……保管所というのは名ばかりの廃棄所だからなー、あそこ。掘ったら昔のクヌーズオーエの生の記録が読めると思うんだが、俺も湧いてる虫をかき分けてまで漁りたくない。忘れられた地下墓地っていうか、そんな感じの場所だよあれは」


「まったく、皆様は聖なる猫の教えを聞いているのです。他のお話はダメなのですよ」ロングキャットグッドナイトは僅かに頬を膨らませて人差し指を上げた。「でも、みなさまが戸惑うのも無理からぬことなので。猫たちの移動の自由は認められていても、福音書の持ち出しは制限付きだなんて……キャットもこれは盲点でした。リリウム様もいじわるです。私キャットの力を削ぐためにヘカントンケイル様に長い長い規約文を書かせて、それにサインをさせていただなんて。彼女自身の言葉を借りるなら『嘆かわしいことです!』なのです」


「福音書が無いと君の力は弱まるのか」


「気分の問題なので……」ロングキャットグッドナイトは、意気消沈した様子で抱えた猫をもふもふとした。「わたしキャットは猫の影、人知れず路地裏を歩む者です。言葉だけで聖なる猫の活躍は伝えきれません。たくさんの絵と、そこに込めたキャットたちの思い。それを十全に届けることが許されないのは、本当に残念なことなので……」


 せめてもの慰めとばかりに背負っていた撥弦楽器を猫に抱えさせて、べべんと鳴らした。


「第六の戒めであるベルリオーズが瞬く間に悪霊の群れを押し退ける大人気シーンのために練習した曲があったのにそれも披露できません。猫たちの合唱と教会の聖歌の共通性などについての図解もあったのですが。とっても残念なのでした」


「その楽器は……ギター? ロックンロール?」


 リーンズィはつい反応してしまった。

 シィーが好きそうな楽器だったからだ。

 かつてその任務を解いたスチーム・ヘッドのことを、自然と連想していた。


『警告。ダブステップはクソなどと発言した危険エージェントによる思想汚染を確認』


「君はそんなにテクノミュージックが好きなのか……」


 チープ・ユイシスから抗議の無声通信が入電したため、仕方なしに添付のファイルを展開した。ギュイギュイギュイ! ビーッビッビーッデデーデデデーパラパッパッパパーとけたたましい電子音楽が再生された。合間合間に挿入されている不確かなノイズはサンプリングされた環境音だろうか。おそらくユイシス手製の即興テクノだろう。

 躊躇うことなくミュートした。

 音作りのレベルがロングキャットグッドナイトの幼気なオノマトペと同レベルだった。


「しかしあれはギターなのでは?」


『貴官は弦楽器が全てギターに見えるのですか? 妻と帽子の区別も付かないと予想します』ミラーズと同じ顔をした幻影が嘲笑を浮かべる。『該当の楽器は三味線と推測されます。主に東アジア経済共同体の旧日本地区で利用されていた撥弦楽器です』


「三味線というのか、その楽器は」


「おや、ご存知なのですか。そうです、猫の聖骸から部品を取り出し、革を剥いでなめし、髭や筋を解して繋げて組み上げた聖なる三味線なのです」


「猫の……革を……」リーンズィは動揺した。「まさか君が今弾いているその三味線は昔、猫だったのか? そういうものなのか? そういうもの?」


 ペーダソスが意味もなく猫を頭に乗せながら尋ねた。「三味線って何だ?」


「猫の皮とかを剥いで作るらしい……」ユイシスから転送されてくる情報を読みながらリーンズィが青ざめた顔をペーダソスの肩へ寄せる。「その、死体をバラバラにして、髭とか筋繊維とか革とかで……」


「マジで? おっかないな。ロンキャ的にはOKなのかそれ」


「恐ろしいものではないので。聖猫の聖遺物から創造された楽器です。とても尊いものなのです」


「君の猫感はよく分からないな……」


 ロングキャットグッドナイトは憐れみを含んで微笑した。


「猫たちの肉体も究極的には猫の影なので。それらは聖なる猫が地に落とした影であり、神の照らす灯を暗示するのです。つまり猫は歩く奇蹟。奇蹟の残り香を形として遺し、不滅とするのもキャットの使命です」


「さっきから必要で無い会話が多いんじゃないかな。お説教の時間だろう?」コルトがまた釘を刺した。「リリウムの定めている例外処理だから見逃しているけど、本来なら遅参者の雑談、それも最高レベル警戒対象物同士の会話なんてものは言語道断なんだよ。私がただ規則にのみ従う執行者なのだと言うことを、くれぐれも忘れないでほしいね」


 などと酷薄そうに告げては来るが、コルトも結局は貸与された猫を抱っこして可愛がるのに夢中な様子だ。賄賂である。叱責しながら猫で遊ぶと言うことは、ルールが認める限りにおいて多少のお目こぼしはあるという黙示に他ならない。

 ロングキャットグッドナイトは思いのほか、したたかだった。

 猫を密かに愛しているコルトの心の隙間に上手く入り込んだのだろう。コルトにそのような隙間があるとは知らなかったが。


 空中にふわふわと天使のような髪のビジョンを浮遊させながらミラーズが全員に通達する。


『進言。時間もありませんので、ここで作戦概要を改めて確認します。首斬り兎と呼ばれる不明スチームヘッドの現状判明分のデータを再度共有します』 


 今朝受取った、ファデルからの確度の高い敵情報だ。

 散発的ながらも極めて計画立てて奇襲攻撃を仕掛けてくるため、おそらくはスチーム・ヘッドなのだと考えられている。

 オーバードライブで一気に接近して、全火力を投射した後、即座に離脱するタイプだ。

 武装は不明焼却兵器と原始的な刀剣だと推測される。

 疾風のように飛び跳ねて回り、好んでスチーム・ヘッドの頭部を切断する。

 その性質から首斬り兎と渾名されるのである。


 問題は、首斬り兎に襲撃された全ての機体が首斬り兎の正体を確認できていないことだ。

 全機が敵を補足するまでに撃破されている。

 飛び跳ねるような動きをする、というのも現場の惨状から逆算された予想であり、実際の様態は不明である。つまり戦闘スタイルさえ明らかでは無いはずなのだが、チープ・ユイシスから送られてきたデータでは飛び跳ねるように移動するのだろうということは高確度情報とされていた。

 軍団長ファデル及びエージェント・ミラーズの検証により確定、と但し書きがされている。

 なおも詳細は伏せられているが、こちらの情報も戦闘開始前には解禁されるだろう。

 首斬り兎には謎が多いという。どういう存在なのだろうか。スチーム・ヘッドだとしても、巨体のパペットが逃げ隠れするのは不可能なので、おそらくは通常の機体だ。

 しかし、どのような機体であれば十数年も解放軍の警戒網を無効化し、変容と崩壊を続ける街に、静かに潜伏できるだろうか。

 何か答えが無いものかと思うが、それが簡単に分かるのであれば、解放軍も悩まされてはいまい。

 詮索は無駄であると判断し、リーンズィはふとロングキャットグッドナイトを眺めた。

 抱えている猫が眠り始めているせいだろうか、彼女もまた眠りの世界に誘われているようだ。


 不意に違和感を覚えた。

 ロングキャットグッドナイトが抱いていた猫は、最初からこんな()()()だっただろうか?

 裁きの黒猫と呼ばれていた個体をリーンズィは覚えている。

 あの猫はどこに行ったのだろう。

 つい先ほどまでの猫と、彼女が今抱えている猫。

 それらが同じものなのか、そうでないのか、いつのまにか入れ替わったのか、リーンズィには判断が付かない。

 尋ねようにも、ロングキャットグッドナイトは胸の中の猫に身を寄せて、矮躯を緩くたたみ、穏やかな冬の午睡に落ちてしまったようだった。一方で、起きている猫たちは元気なもので、にゃーにゃーと鳴きながら歩き回っている。

 そこでまたしても疑問が湧き上がってくる。


「何故スチーム・ヘッドが何の前触れもなく居眠りを始めるのだ? こんなことが有り得るのか?」


 破壊されるまで永遠に目覚めているのが人工脳髄を突き刺された存在の原則である。

 半自動モードや自動モード、休眠モードは存在するが、ここまで自然な寝姿にはならない。


 分からないことだらけだった。

 <首斬り兎>とは結局何者なのだ?

 このレーゲントは一体何者なのだろう?

 聖なる猫は実在するのか?(これはどうでもよい)

 私たち何をしようとしている?


 猫を抱いたレーゲントの眠る姿は、いっそ前時代の女学生が不滅の時代に焼き付けた影法師のように愛くるしく、平和の権化と言われても何ら不思議ではない。

 そう、まるで生きているかのようだ。

 生きているかのようだ……。

 絶望と不死の跳梁する時代で、純粋に無垢で愛らしいということは、異形の身に殺意を纏わせていることにも等しい脅威だった。

 不浄の海に泳ぐ者が、滅んだ猫たちと肩を並べて平和を歌う。

 それは輝ける光であろう。

 恩寵であろう。

 だが叶えられぬまま彷徨い続ける祈りの、何と虚しいことだろう。


 内側に潜むものは、如何ほどまでに、おぞましいものであろうか。


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