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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-11 ヴォーパルバニー その2 裁きの黒猫、敗北の白ウサギ

 ペーダソスのオンボロ移動販売車は、今日も朝霧に煙るクヌーズオーエの夜明けに重苦しいエンジン音を響かせた。

 いつもと同じ朝だった。嵐も津波もこの遺棄された囲いの都市の外側にあると疑わぬ黎明の暗がり。

 すれ違う影は少なく、例外なく魂無き人の群れであり、煙る霞の群れを悠然と割って歩く不死病患者たちは、神話の世界、朝も夜も閉じた無明の世紀を歩く霜の巨人ども、その足下を彷徨う亡国の放浪者であり、姿の見えぬ神に従う彼らは、異形の三輪バギーの行進に、些かの興味も示さなかった。

 そちらに真実など無いと知っているかのように。

 正しいと信じた方向にペーダソスは進んでいるつもりでいた。

 少なくとも何もかもを手放し、永遠の楽園に精神を霧散させた不死病患者たちよりは、正しい方位へ進んでいるのだと。

 確証はどこにも無い。果たして正しい道を進んでいるのはどちらなのか。

 心無き彼らが向かう先にこそ、真実がある。その可能性を捨てられるほど、飛行服の奥に納められた心臓は平静では無い。

 自分の進む先が断崖ではないと誰が言い切れるだろう、飛び込んだ先にきっと望んだ景色があると、誰が?

 彼方を見る。立ち尽くす避難民の影が遠く伸びて結実したような、あの暗い塔(ダークタワー)を見る。

 誰もが虹のたもとを目指して走る。だが虹にたもとなど存在していない。虹の始まる場所は、この世界のどこにも存在していない。

 そのことを自覚するたび、ペーダソスは背筋に氷塊を挿入されたような心地になる。あの塔を目指す試みに意味があると誰もが信じている。

 何の確証も無いまま、盲目的に走り続ける。


 倦怠感を覚えた少女の肉体は、だから考えない。

 演算された魂が、いつものように思考に蓋をする。

 考えるのが怖いから、いつもと同じ道を進む。ただ真っ直ぐに進んでいく。

 少なくとも、この恒例のルートの先には、知己が待っていてくれる。



 いつもの時点で常連客の姿を発見して、ペーダソスはヘルメットの下で口元をほころばせた。

 リーンズィと、今はレアを名乗っている臆病なスチーム・ヘッドだ。

 二人並んでの来店は初めてだった。

 しかし、ペーダソスの笑みは、段々と不可解そうに薄まっていった。

 途中から、非常に難解な絵画でも見るような目つきになっていた。


「おいおい……」


 レアとリーンズィの距離があからさまに近いのだ。

 手まで繋いでいて、センサーで検知できる限りだと、リーンズィなどは鼻歌を歌っている。

 気取られるぬようにヘルメット内部の光学素子を望遠モードに切り替えて、同じ機体を素とするスチーム・ヘッドの、無防備な表情に絶句する。

 白髪赤目の儚くも猛々しいレアは、今や年頃の娘のように頬を赤く染めて、幽かに潤んだ視線を下に落としている。心なしか体の動きがぎこちなく、リーンズィと手を繋いでいるという事実が恥ずかしくて堪らないようでありながら、そのくせ手を離す様子が一つも無い。

 時折堪えきれなくなった様子でリーンズィの貌を見上げて、満更でもなさそうに顔を下げる。


 明らかにもう先輩と後輩の距離感ではなかった。


「ええ……え……マジで……?」


 ペーダソスは慄然として呟く。

 いつのものように移動販売車を停止させ、蒸気機関の炉を閉じて、改めて二人と向き直った。


「おはよう二人とも」まだ手を繋いでいる。ペーダソスは決断した。「よし……聞きにくいことから聞いて良いか?」


「……応える必要を感じないわね」


 レアは小さな体を終始もじもじとさせていて、無意識であろう、もう片方の手でフライトジャケット風コートの裾を頻りに掴んで下げている。

 これはもうあからさまなほどあからさまなのに、絶対口に出さないやつだ。

 昨晩二人に何かあったのだ。

 確信したペーダソスは、潔くリーンズィに矛先を変えて、「どうだった?」と尋ねた。


「何がだ? ……何のこと?」


 ライトブラウンの髪の少女の態度は、たじろぐほどに平然としたものだった。

 照れた目をすることもなければ、頬を染めることもしない。

 仮に知り合って数日しか経っていないこの白髪の少女と一夜を供にした直後なのだとしたら、あまりにも肝が据わりすぎている。

 もしかして早とちりだったか、とペーダソスは口を引き結び、しかし鎌を掛けてみた。


「だから、レアのことだよ」


「昨夜のレアせんぱいはとても可愛かった」


 隠すことも無くリーンズィは頷いた。


「リーンズィ!」レアが小さく悲鳴を上げた。「そういう話はそういう話は、他の人にしちゃいけないんだから!」


「いけないの?」


「いけないの!」


「お、おう……」ペーダソスは微妙な声を出した。「え……何がどうなって、そうなったんだ?」


 返答は期待していなかったが、リーンズィは素直に首肯して報告した。


「昨日、レアせんぱいが喜びそうなウサギのぬいぐるみを拾った。昨晩たまたま会うことが出来たから、プレゼントしたのだが、せんぱいがまたあの体温が高いモードになって、その後ずっと……色々と楽しいことをした。ずっと抱き合ったりしていた……」


「リゼ!」レアが手を離し、慌ててリーンズィの口を塞ぐ。「言い過ぎよ、あなた脳味噌が沸騰してしまってるんじゃない?!」


「沸騰していたのはレアせんぱいもだが……」


「リゼ!!」


「リ……だ、誰だ? リゼって誰だ?」


 ペーダソスは二人を交互に見た。

 リーンズィがレアの手から逃れながら頷いて知らせた。


「私だ。レアせんぱいに贈れるものがあまりないので、専用の愛称として捧げた。私はレアせんぱい専用でリゼ後輩だ。なので、君は私をそう呼んではいけない。聞いたのも忘れて欲しい」


「そうか。いやそこに割って入るつもりは無いが。専用なんだな。分かった」


 これほどリーンズィの口が軽いとは思っていなかったのだろう。レアは動揺し尽して、不滅にして不老の滑らかな皮膚の額に汗までかきながら、今度は傍目にも指を折るつもりなのかと思うほど強くリーンズィの手を握っている。ペーダソスは困惑を深めた。


「いや、っていうか、進展早すぎないか? 仲良いのが悪いとは言わんが、でも、そこまで一気に進むか? 何かそういう雰囲気は俺も感じてたけど、まだちょっと先かなっていう理解だったんだが?」


「こ……こんなの……こんなの、こんなの」


 いよいよ観念したのだろう、白髪の少女は人形めいた美貌を生娘の如く赤く染めて、あちこちに目を泳がせた。


「クヌーズオーエ解放軍では親しければ誰だってすることでしょ。レーゲントもパペットも普通にしてる。普通にしてるの。その……そういうのも、昔と違って、そこまで意味があることじゃないし……これをしたから恋人になるとか、恋人としかしてはいけないってわけでは、今でも昔でもないし、あと、どっ、ど、同意の上なんだし……無理矢理したとかじゃないわよ? 何も問題ないんだから」


「ずっとされているほうだったのでは」


「リゼ! 黙ってて!?」


「まぁな、まぁ、うん……誰だってそうだな」ペーダソスは情け容赦を司る神経を最大限に稼動させ、部分的に聞かなかったことにして、二人を順繰りに見た。「でも、その『誰だって』に、あんたは含まれてないだろ、ウンド……」


「わー!! ま、待って待って待って!」


「ああ?」


「ま、まだだから……」


 ペーダソスは、レアが仄かに赤かった顔を、さっと真っ青に変えたので、完璧に絶句した。


「は、マジで?」


「……マジよ」


 レアは気まずそうに目を逸らした。

 わざわざヘルメットを外して、ペーダソスは両の目でレアを凝視した。


「まだ? まだ打ち明けてないのか?」


「その……うん……」


「もうやることはやったんだよな?」


「う……はい……リゼ後輩には……とても仲良くして頂きました……」


 謎の敬語だった。

 レアは俯き、そのまま地面に伏せてしまいそうなほど項垂れた。


「わたしはそれでも言い出せなかった情けない先輩です……」


「マジで情けないぞ。猛省しろよ」


「ちょ、ちょっとキスして、いっぱりお喋りしただけだもん!」


「あれ、その程度なの?! 照れすぎじゃね?!」


「初めてだったんだもん、そういう清い関係を結ぶの!


「何の話だ? ……何の話?」


「気にするな、リーンズィ。そのうち分かる。なぁ、レア? レアは立派だもんな?」


「そのうち分かるのか? レアせんぱい」


「わか。分かる……」白髪の少女は明後日の方向を見ながら曖昧な顔で頷いた。「分からせてあげられると良いわね……」


 いかにも頼りなかった。ペーダソスは深々と溜息を吐き、電子レンジに放り込まれたダイナマイトでも見るような顔でレアとリーンズィを交互に見た。


「知人として言うけど、マジで酷いぞ? 行くとこまで行って無くても、かなり悪い感じの背任案件だろ。遠からず爆発するぞ? ぜったいロクなことにならんからな」


「違うわ、違うわ。あの、あの、この状態は本意じゃなくて……」白髪の少女はしどろもどろに舌を回す。「タイミングがね? あるでしょ、打ち明けるのも……支援を受けて色々予測したりしたんだけど、わたしも全然こういう経験ないし、とにかくデータが不足してて、万が一にも失敗したら国交断絶、戦争だって有り得るでしょ、だから、そこのあたりの見極めが……」


 ペーダソスは三輪バギーから降りて動力源の蒸気機関(スチーム・オルガン)を切り、これ見よがしに深々と溜息をついた。


「よわい……。よわすぎる。まだ飼い猫とかのほうが強いぞ」


「や、やかましいわ! 人を猫あつかいするな!」


「可愛がられ放題だったみたいだしあんた猫なんだろ?」


「見てきたようにそういうこと言うな!」レアは怒鳴った。「……わたしだってリードすべき先輩なのに不甲斐ないとは思ってる」


「っていうか、リーンズィもいい加減分からないか? それとも、実は分かっていてレアと一緒にいるのか?」


「いや……あの、分からない。待ってほしい」


 今ひとつ状況を理解していないらしい背の高い少女は小さく首を傾げた。


「そもそも君は誰だ? レアせんぱいととても親しそうに見えるし、私とも知り合いのようだが」


「は? 嘘だろ、俺だよ俺。分からないか?」


「理解しない。それと、さっきから疑問だったのだが、普段この移動販売所の店主をしているスチーム・ヘッドは、今日はどうしたのだろう? マスターという機体なのだが。作戦中だろうか?」

 

 リーンズィの澄んだ声の問いかけに、ペーダソスは今度は呆れてしまった。

 まさか自分がマスター・ペーダソスであると気付かれていないとは思っていなかったのだ。


「俺のヘルメットには見覚えあるだろ? 今日は任務用のボディに乗ってるから声は違うにせよ、喋り方でピンとくると思うんだが」


「そう言えばマスターには弟子がいると聞いていた……彼らは装備なども似ているのだとか」


 はっ、とライトブラウンの髪の少女は合点を得た。


「なるほど。弟子の人か?」


「だから、俺がマスターだよ! マスター・ペーダソス本人だ」


「……?!」リーンズィはペーダソスの、その成長過程で固定された肉体を見下ろし、戸惑った顔をした。「でも、君はレアせんぱいの、その先輩かどうか、という程度のぐらいの顔と大きさだし、私の知っているマスターと比較して、かなりの差異がある」


 本気で分かっていないらしい。

 もしかするとこの機体はものすごく表層的な事実からしか物事を読み取れないのかもしれない。まるで子供のようで、不安であった。実際、ファデルからも、彼女はまだ子供のような人格なのだと聞かされていたが、ここまで洞察力に欠けるとは思っていなかった。


「よし、改めて自己紹介だ。俺こそが真のマスター・ペーダソスだ。言う機会無かったから言ってなかったが、こっちが俺のオリジナルの肉体なんだ。見ての通りガキで女だよ」


「そうなのか」


「そうなんだ。何だ、びっくりはしてないみたいだな」


「びっくりすることでもない。しかし、気付かなかったことを許してほしい」


「人工脳髄の本体はこの蒸気機関に搭載してるんだがな」こつこつ、とペーダソスは強化外骨格の背骨と一体化した外燃機関を叩いた。「言っておくがレアと違って、見た目通りのガキじゃ無いぞ。享年も二十超えてるしな」


「では普段顔を合わせている不死病患者は? 不当に労務に従事させているのなら私も調停防疫局のエージェントとして放っておけない」


「そういうのには一人前に関心があるのか。面倒くさいやつだな」ペーダソスはヘルメットの下で眉根を寄せた。「あれは軍時代の俺の親代わりって言うか……教育担当だった人の成れの果てだ。許可は得てるよ」


「そうか」


「それで? マジで俺が俺だって分からなかったのか? 全然? 割と分かると思うんだが……口調だって同じだろ」


「逆にみんなは分かるのか?」


「あーこれダメだわ。マジで分かってないわ。良かったなレア、鈍い後輩で」


「レアせんぱい、私は鈍いのか?」


「ううん。鈍くない鈍くない」レアはさりげなくリーンズィと手指を絡め、腕を抱く。「ペーダソスの口が悪いだけよ」


「口が悪いとか、それこそどの口で言ってるんだ。ま、あんたのことなんか尚更分からないか。そのなまっちろいガキから、あっちのゴツいのにイメージ飛躍させるのは難しそうだし……おいレア、それを承知で黙ってるんなら、本当にそういうところだぞ」


「う……さすがのわたしも、反省はしてる……」


「情けない後輩を持って俺は悲しいよ」


「先輩ヅラをするな!」


「情緒面まで未完成品とは悲しいもんだね」


「……何。誰が未完成品って?」


 レアの赤い瞳が突如狂気的な輝きを帯びた。


「今、誰を未完成品だと言った?」


「あんた以外には該当機はいないだろ」


「人が言われるがままにされていれば!」


 レアが吠えた。理性による振る舞いと言うよりは、条件反射的な激昂である。


「ここぞとばかりに、完成された先達のように振る舞いよってからに! マスターだなんて偉そうにしておるが、所詮は高速戦闘機の失敗作だろうが! 未帰還が前提、使い捨ての運用しか考慮されていない試作機風情が、最高戦力の一つに数えられるこの機体を前にして、よくもぬけぬけと!」


「ああ? この期に及んで、人の開発経緯をあげつらって、その話題を蒸し返すのか? そこの新入りを騙くらかしてめでたくイチャイチャして、さぞや気分がいいんだろうな。いい機会だ、大好きなワンコの前で恥をかくがいい。俺だってあんたのその、性能に頼った腑抜けた性根について正直に言わせてもらうが……!」


「ダメだ! 二人とも、落ち着いて……」


 リーンズィが唇の前に指を立てた。


「三度目だぞ!」


「何がよ?」「何がだ?」俄に殺気だった二人が同時にリーンズィを睨む。


「夜が明けきる前に騒ぐのが。猫の人が来てしまう!」


 にゃー、と猫の声がした。


「来てしまった!」


「猫!? あっ、ロンキャか! どこだ?!」


「え……どうしたの」毒気を抜かれてレアがリーンズィを見た。「リゼ、猫の人って誰?」


「レアせんぱい、預けていたウサギのぬいぐるみを早く!」


「三回目からペナルティがどうのこうの言ってたなそう言えば……! 何されるんだ……? 猫の餌とかにされるのか?」


 また「ぐにゃー」と鳴き声がした。

 キッチンカーの真下からだった。衝突の気配はうやむやに消え去り、三人で視線を交す。

 促されて、マスターが膝をつき、ヘルメットの暗視モードをオンにして、車体の下を確認した。

 何もいない。

 しかし鳴き声は明らかにそこから聞こえている。

 マスターは躊躇いがちに車体をバンバンと叩く。

 すると。

 メカニズムの隙間から、シュタッと見事な動きで真っ黒な猫が降りてきた!

 小型の豹のような精悍な顔つきをしている……。

 黒猫は居場所を察知されたと見るや、躊躇いなくペーダソスの顔面に突進してきた。


「うわっ?! やめろ、お前が怪我をするぞ!」


 ぶつかるかぶつからないか、のところで黒猫は進路を素早く変え、そのまま車の外側へと駆けていった。

 ペーダソスは慌てて身を起こし、視線で追う。

 黒猫は稲妻のようなジグザグの軌跡を描いて建造物に取り付いてよじ登り、しゅぱっしゅぱっと飛び移りながら路地裏へと消えていった。


「……なに今のニンジャみたいな動きの猫」


「ニンジャの……猫!」リーンズィは興奮して、すぐ冷静になった。「ニンジャの猫 vs 犬のお巡りさん……?」


「頭の中で何と猫を戦わせてるのよリゼ後輩……」


「何だあれ。ずっとキッチンカーに張り付いてたってのか。いつからだよ」


「あなたのそのオンボロ、野外駐車だしいつでも潜り込めるんじゃない? それで、どうしたの? 猫がなんなの?」


 レアはすっかり怒気を霧散させていた。


「せんぱい、ぬいぐるみを!」


「なんで……?」


 状況が掴めないまま、レアはコートのポケットからふて寝しているウサギのぬいぐるみをひとつ取り出した。そっとリーンズィの甲冑の手に渡す。


「ねぇリゼ、だから猫の人って?」


「夜警をしているレーゲントがいただろう。たくさん猫を連れている……」


「いたかしら、いたかしら……。ええと、ケンカはやめましょうって言ってきた変なレーゲント?」


「そう。そのレーゲント。あの人はこの街の夜を守っている聖なる猫の代理人なんだ」


「何それ」レアは眉を潜めた。「そんな大層なやつだっけ?」


 周囲を警戒しながらペーダソスが言葉を継ぐ。「荒唐無稽だが、言葉にしにくい変な迫力があるやつなんだよ。あんたはもう去った後だったっけ、この間なんて高いところから飛び降りて受け身も取らずに意味不明に墜落死して、そこから猫に食われて、復活して、そのまま平然と説教してきたんだ」


「どう考えてもただの変な人じゃないの……」レアは当惑した様子だった。「警戒する必要あるの? ザコでしょ」


 そのとき、無機質な声が響いた!


「ケンカですか」


 にゃー、と猫の声。

 路地裏とは反対方向だった。

 しかも三人よりも高所からの声だ。


「猫の人!」

「ロンキャが出たぞ!」

「え、後ろ?!」


 三人が一斉に振り返ると、キッチンカーの屋根に彼女はいた!

 猫っ毛のレーゲント。

 袖が余った制服から覗く小さな手の中で、掲げられた黒猫がにゃーと不機嫌そうに鳴いた。


「これは和睦の使者ではなく、裁きの猫です。おはようございますロングキャットグッドナイトです」


 レアはリーンズィの手を引きながら後ろに退避しつつ、格闘の姿勢を取り、不可解そうに目を細めた。


「こいつ、いつのまにそんな場所に……」


「不思議なことは何もありません」ロングキャットグッドナイトは猫をゆるやかにアップダウンさせながら朗々と語った。「太陽が空にあるように、大地に影が落ちるように、猫はいます。何故なら、猫はいるものなので。毒ガスの入った箱を指差して博士は言いました、この致命の毒の霧にすら猫は50%の確立で存在すると。つまり、世界の半分は猫ということです」


「シュレーディンガーの猫ってそういう話じゃなかったと思うわよ」レアは真顔で言った。


 猫のレーゲントはまるで気にしていない様子だった。


「猫がいるのであれば、当然、私キャットもいます。キャットは猫の影を踏んで歩む者なので」


 奇妙なトートロージーを述べながら、見ている方が怖くなるような危なっかしい動きでロングキャットグッドナイトが飛び降りた。


「お、おう、気をつけろロンキャ」と慌てたマスターが猫の少女をキャッチし、慎重に路面に下ろした。


 ロングキャットグッドナイトは黒猫を抱っこしたまま「ありがとうございます」と丁寧に礼を言った。


「さて、いさかいの声を聞きました」すっくと地面に立ちながら、黒いガラス玉のような視線で三人の姿を舐める。「キャットイヤーは猫の耳。三度も猫の耳を喧噪で震わす迷い子は本当に久しぶりです。猫たちが怖がってしまいます」そうして黒い猫を掲げる。「戒めのために猫の番人をつけていて正解でした」


「待って待って」とレア。「猫の番人って何、何……?」


 レーゲントの腕の中で「うにゃー」と黒猫が唸った。


「今のは『静粛に』のうにゃーです」


「だからそれ、具体的になんなの?」


「はい。番人の猫です。いさかいの火種を見張る猫です。お昼寝が大好きですが夜はとてもよく働きます」


 レアはひたすらに意味の不明さに怯んでいた。


「これ前も聞いた気がするけど猫語が分かるとかじゃないのよね?」


「はい。分かるわけがないです。猫ではないので。しかし、わたしキャットの心は猫なので、猫が分かれば、わたしキャットにも分かります」


「そ、そう……。頭痛くなりそう。あなたを相手に真面目に演算するのは意味ないわねこれ、たぶん」


 レアはそれきり警戒を解いて、静観を決め込んだようだった。


「そいつさっきの黒猫じゃん」視覚から取得した情報の分析を進めていたらしいマスターが驚きの声を漏らした。「あれ? 路地裏の方に行ったんじゃ……」


「猫は気がつけばいるものなので」にゃー。にゃー。「幸せや喜びと同じく、猫たちはいつも忍び足でやってきます。以前警告したとおり、猫のパンチも三回目で爪が出るものです。これがリリウム様のもとでロングキャットグッドナイトの敷いた法なので。大人しく罰を……」


「罰の前に、どうかこれを見て欲しい、猫の人」


 リーンズィはさっとウサギのぬいぐるみを掲げた。


「うさぎ……!」


 ロングキャットグッドナイトは目を見開き、掲げた黒猫をウサギのぬいぐるみにそっと近づけた。

 白と黒の対立。

 生命なきウサギの目と、黒い猫の息吹が火花を散らす。

 リーンズィとロングキャットグッドナイトの視線が交錯し、奇妙なほどの圧迫感が朝の空気を震わせた……。

 ごくりと息を呑むマスターの横で、レアは呆気に取られ、成り行きを見守っていた。


「どういう……え……これもしかして戦闘? 戦闘なの? わたしが知らないだけでルールとかあるの?」


「ふしゃー!」


 言っている間に、べしっ、と黒猫が白いウサギのぬいぐるみをリーンズィの手からはたき落とした。

 敗北のウサギは為す術なくアスファルトに墜落し、そのまま動かなくなった。

 だって、ぬいぐるみなので。


「負けてしまった……私の名称未設定ウサギ騎士が……」


「それ名前……?」


 騎士っぽい部分は特になかった。リーンズィはしょんぼりとしながら座り込み、ウサギを拾い上げて、胸に抱き、肩を落とした。

 ぬいぐるみに損傷は無い。


「残念ですが、当然の帰結です。生きて心へぬくもりを届ける肉球に、まがいもののウサギでは勝てないのが道理なので。猫のかたちは神の愛であり、死せざる契約の証なので。しかし聖なる猫は、疲れ果てたウサギをも楽園へ誘うでしょう……」


「何が?」レアは終始唖然としていた。「今の何? マスターには分かる?」


「全然分からん……リーンズィ、その、今のバトルは何なんだ?」


「いや、特に取り決めがあったわけではない」リーンズィは特に感慨も無さそうに応えた。「こちらも何か掲げたらどうなるのだろう、と思ってやってみただけ。結果としてバトル要素が発生した」


 ペーダソスは、ぬいぐるみを大事そうに抱えているリーンズィと、ふしゃふしゃと興奮して暴れる黒猫をあやしているロングキャットグッドナイトを見た。


「まさかリーンズィとロンキャは同レベルなのか? いいのかレア?」


「い、意外とゆるいのがリゼのいいところ……」


 えへん、よろしいですか、と猫の少女が咳払いした。


「いずれにせよ審判は下りました。あなたがたは三度、この街の夜を騒がせました。そのことへの罰として……!」


 ロングキャットグッドナイトは小さな体で精一杯にぐぐっと背伸びをして、勝利の黒猫を高く掲げた。


「あなたがたには、今日一日、わたしキャットの体得した聖なる猫の導き、スヴィトスラーフ聖歌隊猫福音派の秘伝の説法を受けて頂きます……!」


「聖なる猫の秘伝の説法?!」リーンズィだけが興奮して反応した。幼女の反応であった。


「普段は異端の教えとして禁止されていますが、背反者に関しては、リリウム様から許可を得ているので。たっぷりと伝授して差し上げます。日が暮れる頃には、あなたがたの心にも偉大なる猫のぬくもりが宿っていることでしょう」


「ぬくもりが……」


 リーンズィはロングキャットグッドナイトの掲げた猫に触ろうとして、その手をふわふわの肉球で雑に叩かれた。


「ぬくもり……ぬくもり、凶暴では?」


「罪人には、ふわふわの猫たちも牙を剥くので」


「ややこしくなるからリーンズィは黙っていて」とレアがライトブラウンの髪の少女の唇に指で触れる。「要するに、わたしたちに訓戒を垂れるだけなのね? 罰って言うから警戒してしまったわ。そんなに軽い罰なら、抵抗はしないわ。……でももうすぐパペットを呼んであなたの首を刎ねるところだったわよ」


「はい、暴力は一切在りません。心にぬくもりを与える、それが聖なる猫の使者の使命。伝道書である†聖なる猫の福音書†全200冊は、わたしキャットがお貸しします」


「前言撤回! かなり重いわね!」


「猫とわたしキャットが一生懸命お届けします。全部で100kgあるので大変ですが」


「本当に重いわね!?」


「い、いや……でも今日の俺ら、たぶんウサギ狩りだよな……?」


「マスターも勘付いていた?」レアが我に帰って同意した。「たぶんじきに発令があると思うんだけど……ええと、何だか知らないけど、ロング……ロングキャ……あなた、機体名は何だっけ」


「親しみを込めて『ロンキャさん』で良いです。ロングキャットグッドナイトは長いので」


「ろ……ロン……ロンキャさん。自分で『さん』づけを要求するとは、不遜な……いやいや、そんな場合じゃない、ない、ない……」意識してか否か、白髪の少女はリーンズィの手指を弄びながら、言いたいことをぐっと堪えた。「わたしたち、わたしたちは……今日、重要な任務で壁の外に出て、危険な敵と戦わないといけないの。あなたの説法なんて聞いている時間は無いわ」


「問題ありません」レーゲントは再び黒い猫を高く掲げた。「ロングキャットグッドナイトは本来なら一つの期間に、一つの街にしか滞在を赦されないのですが、説法の時だけは自由な移動が認められるので。リリウム様がそうお決めになりました。同行も赦されています。どこでも一緒です」


「しかし、猫たちも危険だ」唇に触れていたレアの指に、自分の甲冑の指を絡めながらリーンズィ。はっとして逃げようとするレアの手を捕まえ、細くしなやかな指に口づけをしながら、黒い毛皮に包まれた取るに足らない命に視線を注ぐ。「我々と違って、猫たちは、死ねば、死んでしまうのだから」


「いいえ、猫は不滅です。楽園はこの地に無くとも、不滅のぬくもりはここにあります。太陽の如く、そよ風の如く、ただ、ここに在るのです。危険な場所で頑張る戦士たちに、そんな聖なる猫の教えをお届けするのがキャットの使命なので」


「いやいや、本当に危険な相手なんだ」ペーダソスも食い下がった。「完全武装のスチーム・ヘッドを何百機も投入することになるだろう。大規模な戦いだ。あんたの警告を無視して、規則を破ったのは申し訳ないとは思ってる。しかし、今回あんたがついてきても、きっと無残に壊されて終わりになる。その説法とやらは謹んで後日受けるから、今日は見逃してくれないか?」


「それほど危険な相手なのですね。尚更わたしキャットの出番ではありませんか」


 ロングキャットグッドナイトは裁きの猫を掲げた。


「聖なる猫に導かれ、廃絶の深淵から蘇りし奇蹟のレーゲント。それこそがわたしキャットなのですから。いかなる悪逆も、いかなる非道も、全ては摩天楼を渡る猫たちから見渡せば、毛玉の無垢なる安らぎを授けて癒やすべき、寂しくも儚い魂に過ぎません。汝ら咎無しと、聖なる猫はそのように裁かれます。ですが、猫の導きは人の耳に聞こえません。だからこそ、わたしキャットはここにいいます。猫と心を同じくする矮小な従僕が、代わりに言葉を告げる者として、ここにいます。ここにいて、そして、どこまでも行くのです。迷える全ての魂を温めて、憩いの楽園へ誘うことこそ、聖なる猫から授かりし使命ですので」


「待ちなさい、話を一人で進めないで。あなたみたいな非力な無名のスチーム・ヘッドでは無理よ。人格記録媒体を破壊されかねないわ。どこの誰だかしらないけれど、これ以上無駄な犠牲者は出したくないの。これ以上の無様は晒せない」


「それは猫も同じです。皆さんが改心する前に打ち砕かれ、眠りに落ちてしまっては、聖なる猫も悲しみます。この禁忌の力は、眠ることの無い魂を鎮めるためにこそ授かりました。みんな覚えていませんが、わたしはとっても強いのです」


「……何ですって?」


 猫の少女は黒猫を掲げながらくるくると舞う。

 円舞でも踏むように、迷い人たちに、私はここにいると示すかの如く。

 振り回されて目を回したのだろう、黒猫が手の中で暴れ始めた。

 少女は荒ぶる黒猫を胸に抱く。

 愛らしい猫っ毛を戴くあどけない美貌に、魂の輝きの宿らない虚ろな笑みを浮かべた。


「皆様には、もう一度だけ思い出してもらいます。この猫ならざる我が身の正体を、相反する祝福を一身に受け、ついに聖なる猫に導かれて現れし不滅の聖隷が一人。呪われし大主教『徹宵の詠い手』ヴォイニッチが最初に見出した使徒……『聖なる猫の代弁者』となったレーゲント、ロングキャットグッドナイトなので」

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