1-3 エンカウント・フォール・アウト
海辺を越えると、眼下の景色は途端に平穏なものに変じた。
ただの荒れ地だった。
おぞましく歪な塔の群れなど世界のどこにも存在しないかのように思われたが、しかし言い知れぬ圧力が、狂える世界の実像として、確かに背後に存在している。
演算された偽りの魂がどのように感じようとも、かつて限られた生を生きていた肉体は、生理的な反応によって雄弁に現実を語っている。
十数分後に、小規模な市街に行き当たった。
ユイシスに街の名前を尋ねると、わずかな間を置いて『不明です』と返事があった。
『当機に収録されている地図情報が正しければ、この近辺に市街地は存在しません。地図情報に問題があるか、空路を誤ったかの、いずれかでであると推測』
「どうであれ、街は現実に存在している。局内規定に従って、呼びかけを行わなければならない。非常用周波数で改めて無線機を起動」
『了解しました。広域無線放送、レディ』
「……こちら調停防疫局、エージェント・アルファⅡ」
兵士は淡々と語りかけた。
「応答を求む。こちら調停防疫局、エージェント・アルファⅡ。応答を求む。感染者、スチーム・ヘッド、人工知性、どのような形態でも当方は区別しない。現在、困難な状況にある全ての人類に対し、苦痛を取り除くための、最大限の支援を行う意思がある。意思疎通が可能な残留者は、どうか応答してほしい。こちらは調停防疫局、エージェント・アルファⅡ……」
幾度か繰り返したのち、見えざる協力者に問うた。
「どうだろう、ユイシス?」
『応答ありません。一切の信号がありません。コーラの瓶がブラインドの紐に引っかかっている、ということさえ無いと予想されます』
「そうか」
アルファⅡはこっくりと頷いた。
「ところで……それって、よくあることなのか?」
『主語が不明です』
「つまり、コーラの瓶がブラインドの紐に……」
『それは冗談です』
「何の? どういう? 冗談? 何がだ?」
アルファⅡは至って真剣だったが、明瞭な返答はなかった。
代わりにユイシスに『貴官はボケ殺しです。エースになれるでしょう』という賞賛をされたので、「そうか」とこっくりと頷いた。
さほど広い街ではない。上空を通り抜けるのに時間はかからない。
しかし、レンズによる望遠拡大とユイシスの解析支援を併せれば、十分な観察が可能だった。
どこまでも荒廃していた。伝統的な色取り取りの屋根を持つ家々は色褪せて、腐敗し、崩れ落ちている。
いっぽうで、急造されたと思しき無骨な鉄筋造りの収容施設は陽光の下に死の断絶を匂わせる灰色を晒して、全くの健在だった。
草叢に倒れている看板を、視界の片隅に切り出して拡大する。
『クヌーズオーエ操車場』。
ユイシスの地図情報には、そのような施設の名前は確認できない。
街の路傍には、こちらを見上げている影が幾つもあった。
不死病患者だ。
服は朽ち果てていた。長らく風雨に晒されているのだろう。通常の手法で縫製された衣服は、そのような状況では、あっという間に崩れて、人間の肌を保護するという機能を失ってしまう。
彼らは揃って裸の有様だったが、肌に汚れたところは一つも無く、土埃に塗れているべき髪も鮮やかで、機上からその色をはっきり判別できるほどに清潔だった。
彼らは確かに生存していた。
しかし、手を振るでも、追いかけてくるでもなく、エンジンの音に反応してこちらに視線を向けるだけで、それ以上の活動は見られなかった。未来永劫一人きりの楽園に閉じ込められた憐れな、幸福な者ども。
手入れのされていないアスファルトは雑草に覆われ、あるいは忘れ去られた墓標のようにひび割れ、路上に放置された車は一つ残らずタイヤがパンクして、ボディの塗装も随分と剥がれている。ただし事故を起こした形跡はない。純粋に放置された結果のように思われた。
痩せ細った野犬の群れが、人影の足下を擦り抜けて走り回り、じゃれ合っている。感染者たちはそれにも無関心だった。野犬も人間を無視していた。何を食べて生きているのかは不明だが生態系が根こそぎ消滅するような惨禍は起きなかったらしい。
そうしたある種牧歌的な光景の中に、厳めしい彫像じみた鋼鉄が混じっている。
「機械甲冑が展開している……?」
漏れた呟きに反応したユイシスが、アルファⅡの視覚に、解像度を補正した画像を表示した。
『いずれも標準的な形式です。治安維持組織のものと推測されます』
「電子攻撃対策が済んだ後のモデルか?」
『不明です』
機械甲冑は、金属の装甲板を備えた強化外骨格だ。
いずれも黴が根を張り赤錆に塗れている。
人体を容易く踏み潰し、無数の重火器を吊して活動する、それら古い時代の主力兵器は、もはや不用とばかりにあちらこちらに乱雑に脱ぎ捨てられており、空っぽのコックピットには、雪解けの水か、さもなければ雨水が、腐れた不潔な溜まりを作っている。
まだ動く機体もあるのかもしれない。しかし、大半はスクラップだ。
通常ならば放っておけるような資機材ではない。
感染を免れた残留者が組織的な活動を継続している痕跡は皆無だった。
街は低層建築物だらけだったが、一棟だけ高層住宅があった。
あちこちの窓から多種多様な砲塔が顔を覗かせている。改築を経て、武装した監視塔として運用されていたようだが、やはり打ち捨てられていた。
屋上には、常ならず重武装の機械甲冑が一機。
機械仕掛けの巨人は横倒しにした電柱にも似た異常に長大な電磁加速砲を抱えている。アルファⅡの記憶が確かならば、その砲は本来は限られた状況においてのみ運用される兵器だ。
とぐろを巻くように高電圧ケーブルが張り巡らされているが、電力の供給はとうに途絶えていることだろう。遺棄されて久しいらしく、機械甲冑自身の部品の継ぎ目からは、雑草が方々に生い茂っている。
ユイシスが電磁砲の砲身に『解析:低純度不朽結晶連続体』とラベルを貼り付ける。何もかも朽ち果てた風景で、永久にして不滅であることを約束された物質で構築された破壊兵器だけが、製造当時の真新しさを誇って、冷たい冬の太陽を照り返している。
砲弾を放つ機会は、この先、永久に無い。
例に漏れずコックピットのハッチは開かれていて、しかし機械甲冑の傍らには、誰かが座り込んでいる。
準不朽素材の薄汚れたパイロットスーツに身を包んだその兵士は、電極が露出した旧式の疑似人格再生装置のフルフェイス・ヘルメットを膝に載せて、呆然と空を見上げていた。
スチーム・ヘッドなのだろうが、機能を停止している。
終わらない任務に疲れを覚え、ほんのひととき機械甲冑を脱いで、ヘルメットを外し、空を見上げ、その青の美しさに生まれて初めて気付いたといった調子で目を奪われ、一通り泣きはらして、そのまま意識の揮発という最期の瞬間を迎えた。
そのような姿に見えた。
無論、想像に過ぎない。
「感傷だな」とアルファⅡは呟いた。そして頷いた。「これが感傷というものか。思い出した」
幸せな最後に見えた。
気がかりなのは、その兵士と機械甲冑が海の方を向いていたということだ。
何を警戒し、何のために大型電磁加速砲のような大仰な兵器を持ち出していたのか。
何せ射出された弾頭が第二宇宙速度を超えてしまうため曲射が出来ないという極端な代物だ。威力は絶大であるにせよ用途は非常に限られている。
海岸を背にして、陸地に向けて砲を構えていたというのならば、理解は出来る。
他の都市で発生した悪性変異体。
全自動戦争装置の統率する人類文化継承連帯。
感染による人類救済を掲げるスヴィトスラーフ聖歌隊……。
そういった、抵抗すべき敵と呼べる存在の殆どは、内陸部からやってきていたはずだ。
一方で海岸の向こうには、アルファⅡたちが眠っていた、正真正銘の凍土が存在しているに過ぎない。少なくとも末期の調停防疫局を警戒する理由は無い。存在すら知られていなかったはずだ。
他に思い浮かぶものと言えば、海岸を埋め尽くすあの忌まわしい塔の群れだ。
兵士たちは塔の立ち並ぶ海岸を監視していたのかもしれなかった。
『視認した全ての全建造物と機械甲冑を解析しました。戦闘が起きた形跡はありません』
「仮想敵には、何を設定した?」
『人類文化継承連帯です。我々調停防疫局が北欧から撤退せざるを得なかった背景には、彼らの躍進もあります。ノルウェーは彼らの攻撃を受け、現在も占領されていると想定するのが適当です』
「奇妙だ。彼らとやりあったのなら、街も兵士も、無事では済まないはずだ。継承連帯のスチーム・ヘッドたちは物理的に壊すという機能に特化しているし、降伏勧告を突きつけるのは、決まって徹底的な攻撃を加えた後だ。起きるべき戦闘、あって然るべき破壊が、無い。何かがおかしい」
『肯定します。市街地の様態は、現在の敵対組織の戦力分布を想定する上での重要なファクターです。ただし、そのタスクの処理は、着陸後に回すべきかと思われます。現時点では如何なる脅威も確認できていません』
「しかし、どれぐらい前にこうなったのだろう。解析は済んでいるか?」
『機械甲冑の腐食の進行度を鑑みると、該当未登録市街が放棄されてから、最低でも三十年は経過しています。他はごく有り触れたものです。この街は、ただ単に、滅びています』
三十年という歳月の経過には留意すべきだったが、ユイシスが指摘した通り、街のそのものに特異な点は無い。
典型的な、この不死の疫病の時代の、不死の疫病によって滅ぼされた街の情景だった。急造された収容施設や、補強されて窓のない病棟のように作り替えられた家々。おそらく何百、何千という数の感染者が閉じ込められている。彼らは不死の病がもたらした醒めない眠りの中を揺蕩うのだ。
餓えることもなく、乾くこともなく、喜びも、怒りも、悲しみもなく。
この地図にない街の片隅で、永遠に、静かに、安らかに……。
滅亡した街が視界から消え去った頃には、アルファⅡのプシュケ・メディア群は、人工脳髄の演算能力を別の事象について割き始めていた。
「海岸に塔はいくつあった?」
『百五十二基を確認しました』
「多すぎる。おそらく計画的に悪性変異体を海岸に追いやり、塔への封印を施していったのだろうが、例えば、さっき通り過ぎた街の戦力で、そんな真似が出来るだろうか。私は不可能だと思う」
『同意します。極めて秩序だった、数千のスチーム・ヘッドを擁する軍事組織によってのみ可能な、大規模な封じ込め処置です。この地に残留しているかは不明ですが、規模だけを勘案するならば、やはり人類文化継承連帯の関与が有力です。……飛行を継続します。塔からの退避は十分とは言えません。現時点では、海岸以南に劇的な異変は起こっていない様子ですが、この規模の汚染地帯の近隣に着陸するのは、推奨されません。飛行に集中して下さい』
「反論はしない。しかし……そろそろはっきりさせておこうか」
アルファⅡは意を決した。
「飛行を継続というか……我々は、着陸というものが出来ないんじゃないかな?」
自壊を始めてもおかしくないレベルの異音を上げているコックピットのフレームを見渡した。
「実際問題として……段々分かってきたが……今こうやって飛んでいるのが奇跡なのではないか。この機体は軽量化のために部品を取り除きすぎたせいで、着陸出来なくなってしまっている。違うか? ユイシス、どう思う? 私が忘れているだけだろうか」
『ブリーフィングでは詳しく説明しませんでしたが、そうですね』
「ふむん。このまま飛び続けるとして、私がやるべきことと言うのは、本当に何かあるか」
『報告。貴官に出来ることは、特にないです』
出来の悪い生徒にお前には雑用すらないのだということを申しつける教師のような、冷淡で素っ気ない声だった。
「……では、飛行に集中しろと言ったのは、何だ?」
『貴官に出来ることはない、という情報に、最低限の社会性を付与した言葉ですので、真に受けなくても問題ありません。前を見ていて下されば十分です』
「そうか。……操縦も必要ない?」
『不可能なので、不必要です。存在しない操縦桿を掴めるならどうぞ』
「そうだろうとは思った」
『操縦は当機がリモートで実行中です。燃料計を確認する程度は推奨されますが、如何しますか?』
「とりあえず確認させてほしい」
『了解しました。耳栓は必要ですか?』
「挿すための耳が露出していない」
アルファⅡは砲金色のヘルメットを指で叩いた。
『ユーモアレベルの上昇を確認。……燃料計、オンライン』
途端、けたたましいビープ音がアルファⅡの聴覚を掻き乱した。
「これは?」
『燃料切れが近いという警告音です。もうすぐ燃料が切れます』
「燃料が切れたらどうなる」
『着陸します』
「燃料が切れたら、着陸するのか? いや、それは違う。燃料が切れると、着陸できないのでは? ヘリというものは、プロペラとか……テイルローターとか……そういったものを精妙に回しながら、慎重に着陸するものだと記憶している」
『問題ありません。幸い、海を渡ることには成功していますので、後は着陸地点を決定するだけです。単に上陸と呼びましょうか。接地、緊急着陸、様々な言い方がありますので、好ましい表現を適当に選んで下さい』
「なるほど。これは、よくないのでは?」
『肯定。良くはないです』
「我々は墜落するわけだ」
墜落、という単語にアルファⅡは語気を強めたが、事実を確認するといった調子で、恐怖も困惑もそこには含まれていない。
「初フライトが墜落で終わる。これが残念という感情か……」
『肯定します。致命的事態ですので、混乱を避けるために避けていた表現ですが……墜落を、何でもないことのように仰いますね』
「何かあるのか?」
心底不思議そうな声だった。
「墜落する。ただそれだけだろう?」
『確認します。この速度で墜落した場合、衝撃は凄まじいものになるでしょう。身体部位の切断、骨格の粉砕、胴体の断裂、内臓破裂、重度の裂傷、大量出血などの深刻なダメージが予想されます。相当の苦痛を伴うと思われますが、恐怖は感じませんか?』
「全く感じない。何も感じない、というのが、アルファⅡという『私』の正常な動作だ」
『肯定。貴官は精神外科的心身適応によって、あらゆるストレスを感じないよう調整されています』
「うん。だから、墜落という言葉を避ける必要性は存在しない。どうでもいいことだからだ。いかなる苦痛も私自身には何の影響も及ぼさないはずだから。私にとっても、君にとっても、精神外科的心身適合が正常稼働しているのを確かめるための一つの機会に過ぎない。むしろ望ましいことかもしれない」
『素晴らしいです、アルファⅡ。理想的な反応と言えます。いたく感心しましたので、意識活動復帰テストを終了しました。テスト結果が不良なら自己破壊をもう一度行う予定でした』
「知らないところで怖いことを進めるのはやめてほしい」
『冗談です。あはは』
とても冗談とは思えないような空疎な声だ。
『アルファⅡ、どうやら暇を持てあましていますね? では、より具体的な提案を行いましょう。ノルウェー全域は現在、人類文化継承連帯の支配下にあると予想されます。これらの勢力と遭遇した場合、極めて高い確率で戦闘に発展するでしょう。我々は――世界保健機関と国際連合軍、そして世界平和を希求した愚か者どもの私生児たる我々は、彼らと良好な関係を築けていませんでしたので』
「私は戦闘を終わらせるために遣わされたんだ。戦闘をするつもりはない……だが、一方的に先制攻撃されるのは良くないな。そうか、被害軽減のために、より一層の索敵が必要ということか?」
『肯定します。そもそも当機は、離陸する以前から索敵を含む探索の実行を推奨し、貴官はそれを実行していました。その最中に低体温症が深刻なレベルに達したのです』
「まるで覚えていない。行動ログを呼び出してくれ」
アルファⅡは自身が離陸してから九回目の死を迎えるまでの状況を確認した。
特異な情報は無かった。
「……前を向いていたということしか分からないな」
『しかしながら必要な行動です。当機も貴官の肉体の情報処理に相乗りしているに過ぎません。貴官が視覚的に取得していない情報は、当機でも取得できません。墜落するまで、可能な限り情報収集を行って下さい』
「……やはり、ただ前を見ていることぐらいしか出来ないように思うが」
『肯定。とりあえず前を向いていて下さればそれで良いのです』
「それは何もしていないのと同じでは?」
『肯定。現時点での貴官は、百億ドルの費用を投じられた、ただの案山子です』
アルファⅡはしばし沈黙した。
「私は、もしかして、普通に自分が何をしていたのか忘れたんじゃないか? やっていることが……あまりにも無意味だから」
『その可能性は否定できません。まるで変わらない景色と、命を脅かすレベルの低温。現実から意識が外れるには十分なストレスです。停戦と調停に関する自動放送を常に行っておりますので、突然攻撃されるリスクは低くなっています。よって、貴官が覚醒しても気絶していても、どちらでも良いと言えば良いのですが』
「……それで? 人類文化継承連帯のスチームヘッドで、一番遭遇する可能性が高そうな機種は?」
『大型蒸気甲冑。<デュラハン>、<アラクネ>、<コンカッションホイール>、<ジャガーノート>等です』
アルファⅡの視覚野に、首のない大型蒸気甲冑や、腕の生えたホイール・バイクが投影された。
いずれも悪性変異体に勝るとも劣らない異形であり、装着する感染者の身体特性を無視するという方向で、共通の意匠を持っている。
『どの機種も3mを超える巨体です。最大で10m規模。視認できれば即座にそれと分かると予想されます』
丘稜地帯に出ると、ヘリは速度を落とした。
墜落が近い。
衝撃を下げるために丘を掠める限界まで高度を落とす。
渡る風の漣が、雪原を揺らす様が手に取るように分かった。
「地図情報が完全には間違っていないなら、この先にはおそらく森林地帯がある。機体を突っ込ませれば緩衝剤として利用出来るだろう」
『森林地帯は墜落するには最良かと思われます。幸い、燃料はその辺りで切れそうです』
「幸いではないが……」
『墜落は平気なのでしょう?』
「平気だが、良いか悪いかで言えばやはり悪いとは思う」
『同意します。世の中、良いか悪いかで言えば全部悪いです』
ふむん、とアルファⅡは頷いた。
「底抜けに暢気かと思えば、意外と悲観的なことも言うらしい」
『超AIだからこそ見えるものもあるのですよ。すごい知性なので。幽霊とか。未来とかです』
「冗談か?」
『冗談です』
ユイシスは繰り返した。
『当機にとっては、あらゆるものが、そうです』
外気温は相変わらず零下を下回っていたが、呼吸を妨げるほど過酷な環境ではなくなっていた。適応を遂げた肉体には何のダメージにもならない。
アルファⅡはヘルメット内部のレンズを広角モードに切り替えて敵を探した。
「他の勢力と遭遇した場合、戦闘になる可能性はどの程度ある?」
『人類文化継承連帯と接触した場合、100%です』
「このヘリに武装は?」
『スチーム・ヘッドが一機』
「つまり私だけか」
丘のあちこちに人影を見つけた。
感染者だろう。郵便配達人を待つ牧羊民といった風情で、ヘリには反応しなかった。
凄惨な破滅の痕跡はどこにもなかった。
背の低い草が生い茂り、淡く積もった雪が陽光に煌めている。
ヘリの起こす風に巻き上げられて蒲公英の綿毛のように散っていく。
アルファⅡは溜息のように言葉を吐き出す。
「……戦争は、もしかすると、もう終わっているのではないかな。まだそれほど内地に入り込めているわけではないが、活動している軍事組織がここまで全く見当たらないというのは、異常だ。さすがに、どこかの部隊から警告の無線が飛んできてもいい頃合いだろう」
『終わっているというのは、事実です。戦争ではなく不死病によってですが』
ユイシスは応えた。
『仮に三十年の時間が経過しているならば、統計学的な見地から、我々は完膚なきまでに病に敗北しています。地上に未感染の人間は残されていないはずです。我々がノルウェーから最初に撤退した段階で、世界人口の七割以上が感染していたのですから』
「それはそうだが……戦争はそれぐらいでは終わらない。高高度核戦争で地上の大半の電子機器が破壊されても終わらなかったんだ。どの組織も山ほどスチーム・ヘッドを生産して、伝令代わりに走らせることまでしていた。人間が死ななくなっただけで、戦争がそう簡単に終わるはずがない。しかし、終わったとして、どこが、どう終わらせたんだ……?」
牧歌的な風景に溶け込むようにして、突然にその集団は現われた。
幾つかの丘を越えた場所、前方のかなり遠い地点、一際高い丘の上に、方陣を敷いている。
アルファⅡは声ならぬ声で命じた。
> 生命管制、コンバットモードを起動。
『コンバットモード、レディ。起動します』
エマージェンシーモードの起動とともに、アルファⅡの生体脳髄に、通常の人間ならば死亡するレベルの脳内麻薬が即座に放出された。
全ての感覚がブーストされる。心音のごときヘリのエンジン音、風切音の音階の微妙な変化、太陽の光の繊細なグラデーションの移り変わり。地上でプロペラに巻き上げられた雪花の溶けて形を失っていく様まで、つぶさに知覚可能となった。
『警告。不明勢力の展開を確認しました』
> もう見えている
アルファⅡは声ならぬ声で吐き捨てる。
レンズを汎用モードに切り替えた。
それと同時にヘルメットが甲高い音を立てた。
衝撃で首が傾いた。
反射的に、装甲されていない生身の右手を前に突き出す。
強い光を遠ざけるように。
すると指が千切れ、手首に穴が穿たれ、ついに吹き飛んだ。
銃撃されている。
アルファⅡには飛来する銃弾がはっきりと見えた。
対感染者用の標準的な弾頭。強烈な破壊力がある。
本来ならば右手全体が離断するところだが、コンバットモードは、戦闘による負傷に特に適合した状態だ。引き千切られた肉の断面から血が噴き出したのは一瞬で、すぐに血管が閉止した。
さらに、傷口から繊維異質の構造体が飛び出し、空中の肉片と即座に結びつく。
剥き出しになった神経や筋組織が、肉体それ自体から独立した生物、例えば粘菌や線虫のように傷口から伸びて、互いを引き寄せあい、そして瞬く間に手首を繋ぎ止めた。
『銃撃、尚も継続しています。防御して下さい』
アルファⅡは装甲された左手で右肩を掴み、左腕全体を覆うガントレット――超高純度不朽結晶連続体で構築された蒸気甲冑で胸部を守った。
降雹の只中に突っ込んだかのような衝撃が全身を揺り動かした。
身を竦めようとする筋肉を制御し、銃撃の方向を見据える。
2kmほども遠くの丘から火線が伸びていた。
ヘリのプロペラやエンジンにかき消されるせいでもあるのだろうが、銃弾が掠める音は殆ど聞こえない。
しかしガントレットに守られた胸とヘルメットは、遠方より飛来する弾丸によって常に打ち据えられ、調子外れのマーチング・バンドのドラムロールのような、けたたましい騒音を発していた。加速した知覚野では特に耳障りだった。
不明勢力は、的確に弾丸を致命的な部位に集中させているのだ。
生身の人間では実現し得ない精度である。
『貴官の予想は正しかったようです。戦争は絶滅していないと断定』
> 警告も無しに発砲してくるとは心外だ。抗議の窓口があると良いが。
『解析するには情報が不足しています。今は堪えて下さい』
> 堪えるのは気楽だ。待っているだけで良いわけだから。この距離では、敵が高性能機関兵士か、遠隔操作式簡易脳髄か、分からないな。……私のギアにダメージはあるか?
雨嵐と降り注ぐ弾丸に忙しなくヘルメットを揺らされながら、アルファⅡは平然と尋ねた。
そうしている間にも成人男性の指ほどのサイズの弾丸がバイザーに命中して、ひしゃげて潰れて、張り付いた。
首を振るとその潰れた弾丸は無害な水滴のように離れていき、コックピットから吹き飛ばされた。
『不朽結晶連続体を破壊できるのは、同クラスの不朽結晶連続体のみです。スチーム・ギア、損傷率0%で推移。通常の弾丸では、雨粒と変わりありません。肉体に関しては、被弾により重要な血管が複数破裂しています』
> えっ?
『急速修復中。出血を補うため、短期の生存活動に不要な臓器を造血に転用します。悪性変異抑制のためにメインバッテリーを優先的に使用中。注意:戦闘終了後に充電が必要となる可能性あり』
> これ以外に何発か食らってるのか。
アルファⅡは昆虫のように不規則に痙攣する、再生した右手を見つめる。
> 気付かなかったな。
『貴官の意識には情報を反映させていません。そもそも手足が吹き飛ぶ程度であれば、再生速度がダメージを上回ります。だから何と言うこともないのですよ。海上飛行の方が危険だったぐらいです』
右手は既に何事もなかったかのように治癒した。
弾丸の雨を受けながら、座席の下で掌を開き、閉じる。
手先まで感覚が行き渡っている。
> 攻撃停止の勧告は?
『利用可能な全ての帯域に、常時行っています。応答はありません』
「そうか。あちらはあくまでも事を構えたいらしい」
アルファⅡのバイザーの下、レンズ状の透明な不朽結晶連続体が、黄色く発光を始めた。
警告色だ。こちらには迎撃の準備があるというサイン。それ以上の意味はない。
敵対勢力からの自発的な攻撃停止を促すことを期待して搭載されている機能だが、アルファⅡモナルキアの開発者たちが考えていたとおり、実際には効果は無いだろう。
砲金色のヘルメットの中で、アルファⅡは武装勢力の布陣を冷静に観察した。
黒い鏡面のバイザーに映る景色に映る人影は十三名。
ユイシスの解析によればほとんどが7.62mmNATO弾を使う一般的なバトルライフルや機関銃で武装している。
陣を構える面々は、その服装から過半数が正規軍の兵士だと判断できたが、ある者は雪原迷彩、ある者は都市迷彩、ある者は砂漠迷彩と言った有様で、著しく統一感に欠けていた。
どこからどう寄せ集めたのかすら想像が付かない。
おまけに、ユイシスがあらかじめ示唆したような継承連帯の機体、巨体のスチームヘッドは、何故か全く見受けられない。
目立った蒸気機関を身につけている個体すらいなかった。
敵勢力は目を見開き、この動作をこなすためだけに大量生産された機械であるかのように、一糸乱れぬ狙撃を続けている。
ただし射撃姿勢は棒立ちに近く、射撃のたびにこくり、こくりと居眠りでもするかのように揺れており、ナーフガンで射的に興じる子供の方が余程兵隊らしいという有様で、何故飛行するヘリに搭乗しているアルファⅡにこれほど正確に命中弾を送り込むことが出来るのか、理解できないほどだった。
> どうにも腑に落ちない。何だあの部隊は? 彼らは本当に継承連帯か?
アルファⅡは弾丸の雨に打たれながら率直な疑問を投げかけた。
「現地調達の感染者を使ったラジオ・ヘッドにしても服装が変だし、武装も貧弱だ。完全武装の戦闘用スチームヘッドがいないのも気になる」
『警告。敵陣営最後尾に位置している、特異な感染者を認識していますか?』
「いいや。どの個体だ? ……言われてみれば、武装しているかどうか、どういう戦闘服を着ているかしか判別が出来ていないな。相貌失認のようなものか。生命管制から補正は可能か?」
『認知能力に問題が生じているようですね。サイコ・サージカル・アジャストの副作用でしょう。言語隠蔽値を減少、視覚野の言詞回路をスチーム・ギア内部の演算領域で補強増設。設定値の適応を開始します』
一瞬だけ視界が揺らぐ。
すると、自然に意識は不明勢力から逸れていった。
最後尾に佇む異物へと意識が集中した。
「何だあれは?」
疑問に思わなかったのが異常であるのは明白だった。
雪のかかる丘に展開するには場違いな服装。
武装集団の中でも一際に奇妙な出で立ちをした存在。
少女だ。
年齢は不明だが、他の人影よりも頭二つ分は小さく、とにかく少女としか言えないシルエットをしている。
この距離では意匠の細部までは観察できないが、金細工で装飾されたアンティーク調のドレスを身に纏い、羽根飾りのようなものが付いたベレー帽の下、ゆるくウェーブのかかった夢のような金色の髪を、荒ぶる風に任せている。
愛らしい造形の顎先が上下しているのが見えた。
何か唱えているようだったが、唇の動きを読んでも何を言っているのか理解出来ない。
「発話している? ではスチーム・ヘッドか。照合は可能か?」
ユイシスの声が脳裏に響いた。
『敵勢力のスチーム・ヘッドを確認しました。スヴィトスラーフ聖歌隊の聖歌指揮者です』
> 聖歌指揮者だって?
狙撃を受けて、ヘルメットの首がまた傾いた。
> 何で聖歌隊がいきなり出てくる。ここは継承連帯の勢力圏のはずでは? こんなに撃ってくるのも不自然だ。彼女たちは基本的に先制攻撃をしない。そもそも直接的な暴力の行使にも反対の立場だった。
『この土地にとっては、いきなりではないのでしょう。我々が当地より本拠地を後退させた段階では、ノルウェーは確実に人類文化継承連帯の攻撃に晒されていました。徒歩での行軍を好むスヴィトスラーフ聖歌隊の侵攻は、連帯に対し圧倒的に遅れていたはずですが、年月の経過は移動速度の劣位を覆します。我々の潜伏中に事態が変化したと考えるのが妥当かと』
> ……聖歌隊の調停防疫局との関係は?
『表面上の方針としては、敵対していました。補足すると、我々と友好的な組織は一切存在していません。世界保健機関との関係も微妙です。しかし、停戦交渉を持ちかける余地はあるでしょう。もはや我々人類には、浅はかなイデオロギーや宗教的対立のために争っている時間はありません』
> その方針には賛成だが、この調子だとまともに話は聞いてくれなさそうだ。……通信の応答はないのか?
『肯定。通信手らしき兵士も確認できません。現代的な電子機器の使用を嫌うのは聖歌隊の特質でもあります』
> 音声なら応えてくれるかもしれない。このヘリに、スピーカーとか、マイクは?
『報告。そこになければ、ないです』
> 難儀なことだ。……聖歌隊と言うことは、あの少女型スチームヘッドが『原初の聖句』で周囲の感染者を操っているのか。
『可能性は高いと思われます』
> 迂回して安全な場所に降りて、声で攻撃停止を呼びかけながら接近し直すのはどうだ。
『燃料に余裕がありません。不意な攻撃を避ける観点からも、対応しないことは推奨されません』
> このまま行くしかないか。よし……交渉のとっかかりは、こんな感じではどうだろう。
アルファⅡは頷いた。
> ヘリでこのまま突っ込んで、兵士たちを機体で潰し、あの少女型スチームヘッドを殺害する。どうせあちらのプシュケ・メディアも不朽結晶連続体で構築されている。それぐらいでは壊れないだろう。交渉するには対等である必要があるからな。着地と、敵戦力の排除と、交渉開始が同時に出来る。一石三鳥だ。
『何がよしなのか理解しかねますが。ヘリを突撃させるなど非人道的ではありませんか? 当機としては賛成しかねます。我々にはもっと合理的かつ公平性を担保した選択肢がある筈です。当機は、当機の良心、非常に人道的な観点から警告しています。回答の入力を』
アルファⅡは頷いて断言した。
> 残念ながら、これは不幸にもあのスチーム・ヘッドを巻き込む感じで起こる、偶発的な墜落事故だ。
『受諾しました。事故なら仕方ないですね。記録にも残しておきましょう。燃料切れの警告音もオンライン』
けたたましい警告音が鳴り始めた。
『こちらアルファⅡモナルキア、ロストコントロール、ロストコントロール。乗員は耐ショック姿勢を取って下さい。近隣住民はただちに退避してください』
ヘリは弾幕を避けることもせず、真っ直ぐ敵集団に向かって行った。
精密狙撃は続いていたが、ヘリそのものを撃墜するという発想や、それが可能な装備は存在していないらしく、誰もヘリが丘の斜面に激突するのを止められなかった。
そして、衝突した。
雪と土の塊の大瀑布。
凄まじい衝撃に、身体を座席に縛り付けるワイヤー・ロープがアルファⅡの腹に食い込み、ほとんど斬り込むような形で肉を裂いた。
想定していた通り、ヘリは墜落の衝撃で即座に自壊を始めた。
部品が飛び散り、フレームが砕け、テールロータが火を噴いた。
だがその程度の破壊では、現在までの飛行を保証せしめていた猛烈な推進力は消滅しない。
己の躯体を飛翔させていたエネルギーを維持して斜面を進み続けて、進路上にいた兵士五人を巻き込んで押し潰した。
さらにその先に、目標の少女がいた。
発動機から見放されたプロペラブレードは、それでもなお殺人的な回転を続けている。
螺旋を描いて土を抉り飛ばし、機械仕掛けの切断装置と化して少女に迫っていった。
アルファⅡは少女を見た。
黒を基調とした軍隊じみた色彩のアンティーク・ドレスの膝丈の裾が暴風に煽られて踊るように揺れて、素足にブーツを履いただけの細い脚が露出し、ベレー帽は吹き飛ばされて飛んでいった。
逃げる素振りがない。
何も理解していないのかもしれない……。
プロペラの刃が少女に触れる寸前、目が合った。
こちらの視線はバイザーに阻まれ、あちらからは見えないはずだが、アルファⅡは目が合ったと感じた。
ティーン・エイジャーと呼ぶことすら躊躇われるような少女だ。
生きていれば、不死病患者でなければの話だが。
あどけない顔立ちには、侵しがたい聖性が滲んでおり、そのくせ蠱惑的な色彩を帯びて美しい。
波打つ金色の髪。
白い花水木の髪飾りをしていた。
加速された知覚野、引き延ばされた時間の中で、少女はアルファⅡに微笑みかけてきた。
真珠のような白い歯。顔立ちは目を見張るような繊細な造形だったが、おおよそ国籍が不明だった。
穢れというものとは無縁な笑み。
死という望まれざる来訪者すら、その胸に迎え入れるかのような。
その微笑みの意味を推し量ろうとしている間に、メインローター・ブレードが、少女の胸から後ろの腰にかけて、斜めの角度で、そのか細い胴体へと叩き込まれた。
衣服ごと真っ二つに引き裂かれるかと思ったがそうはならなかった。ブレードは回転方向に沿って胴体を思い切り砕いて叩き割り、ドレスに守られた腹の部分を完全に押し潰したが、ドレス自体は全くの無傷だった。
『解析:不朽結晶連続体』という文字列が、アルファⅡの視界の、死と婚約した花嫁のような意匠のドレスの傍らに表示される。
不朽結晶。不死病のもたらした恩寵の一つだ。
不滅であることを約束されたこの物体は、高速回転するブレード程度では破壊できない。
少女の肉体は、ドレスごとメインローターの回転に巻き込まれた。襤褸人形のように振り回されて、とうとう衣服だけは無事なまま、肉体だけが決定的な破断の時を迎えた。
スカートの裾から、瑞々しい臓物の破片と一緒に、裸の下半身が打ち出され、それはあろうことかアルファⅡを目がけて飛んでくる。
ヘリのコックピットでワイヤーロープを切断するためにナイフを抜いていたアルファⅡに肉付きの薄い脚が直撃し、砲金色のヘルメットが血と臓物で濡れた。
上半身はと言えば、羽衣のように、伽藍堂のドレスの腹をなびかせながら、丘のさらに向こう側へと吹き飛ばされていった。
そうして呆気なく雪面に墜落した。
聖なる影が介在する余地はどこにもなかった。
半分だけになった体で成す術なく雪原に投げ出されたその小さな影は、どのような陰惨な道を辿ってここに至ったのであれ、今は破滅的な運命に撥ね飛ばされた、哀れな存在に過ぎなかった。