2-11 ヴォーパルバニー その1 鏃は星に憧れる
瞼を取り除かれた美姫の死んだ眼球のような煌々たる月が、歴史無き都市の向こう側へと沈んでいくのを、飛行服風の装束で身を固めた少女が眺めていた。空を遮るものは何もない。見知らぬ天体が、巨大なメカニズム、不可視の歯車で組まれた大時計のように、人知の及ばぬ遠大な時間を刻んでいる。
少女は胡座をかいて飛行服の両足の間にヘルメットを置き、顎先をスカーフに埋めて、じっと果てしのない大宇宙を見つめていた。準不朽素材で揃えられた服の下で、成熟が始まる段階で意図的に成長を止められた肉体が、静かに呼吸を繰り返している。
少女に天体観測の趣味は無かった。星空自体は好きでも嫌いでも無い。古い時代の船乗りのように空を見上げるのは、時間に流されるばかりの己自身の現在地を知るためだ。歴史的な、空間的な現在地ではなく、己自身が錨を降ろしている場所についての、観念的な座標。ただ呼吸をするのにも、よすがが必要だった。信じるものが無ければ人工脳髄に演算された魂もやがては燃え尽きる。
この凍てついた不死の時代、この地上、この都市で、改竄されていないものなど一つも思いつかない。地図も方位磁針もあてにはならなかった。星座にしたところで、少女に装填された人格記録媒体の知識とは、食い違う部位が相当にある。夜間には都市が静まりかえり、灯火の殆どが落ちるおかげで、絶景は天上にこそ描かれる。それは神々が宝石を散らして飾り付けた輝ける星の海であり、永久に朽ちることが無い祝福された栄光の光であって、眺めていて飽きると言うことがない。定命の肉体で放射性物質を含んだ砂塵の舞う荒野を駆けていた頃からは考えられない開放感がある。それは事実だ。
だが、少女は天体観測をしない。もう分からないが、かつては好きだったのかもしれない。だが、敢えて観測しない。詳しく検討することを、意識して拒んでいる。それが異様な空だと知っているからだ。歳差の影響か、より広大な視点での差異からか、北極星の周辺からして天体の動きが異常なのだ。
「あれがデネヴ……こっちがベガだろ。で、ポラリスが何か変な場所にあるんだよな。今の北極星は『羊飼いの星』だろうって技術者たちは言ってるが、でもそうなるの千年ぐらい先の話じゃなかったか?」
少女はいつもその辺りで追求をやめる。
この世界は、疑いようもなく発狂してしまっていた。
夜空を眺めて星座をなぞっても、分かるのは手の施しようがないという遣る瀬ない事実だけ。
だが、星空を愛すること、それ自体は手放していなかった。空と自分との関係だけに限って言えば、決定的な改竄は免れているに違いない、と少女は考えていた。少なくとも、決して手が届かない大宇宙と対峙するときの孤独、その孤独が内包するロマンシズムだけは、どのような病理も及ぶまい。
無論のこと、それさえ保証は無い。
少女がそうであってほしいと考えているだけで、現実は異なるかも知れない。どこにも保障など存在していない。どんな些事であっても、無事でいることを許されない。
つまり、こんなのはちっぽけな慰めなのだ、と少女は平坦な心で考える。束の間の猶予を与えられていた平和な時代の残影、自分がフィルムの向こうにあるフィクションとしてのみ受容していた美しい星々。偽りの映像に感涙したときの心の安らぎを、この日、この時、発狂した都市において、いっそ機械仕掛けであってほしいぐらいに異様な星々に求めている。
否、そうではないのだ。理解を拒む様態であっても、どうしたところで星空とは美しいものだ。絶対に手が届かない……全速力で百里を駆けても、僅かばかりも近付くことは出来ない。
だからこそ美しい。遠くから見ていることしか出来ないものは、大抵いつでも、美しい。
少女は調整を重ねられた非人間的な美貌、呆れるくらい量産されたその顔貌に、幽かな寂寞を滲ませて、息をついた。天体観測は、昔から本当に、趣味では無い。愛していても、好きではない。現に、今も少しずつ寂しくなってきていたところだ。あるいは、それは外気温のせいなのかもしれない。氷点下を下回り、飛行服風のスーツの表面を雫が伝い、具足で装甲した脚、そしてその間に置いたヘルメットには、薄らと霜が降りている。吐く息は凍てついて、月光と星明かりに白く浮かび上がり、水蒸気となって金色の前髪を濡らす。
「何も変わらない。どこにも進めない。星を見たって意味はないぜ、目印になんかなりはしないんだ。なぁ、お前……」
か細い声で、そんなことを呟く。
こんなとき、古馴染みのガソリンスタンドの店主でもいれば良いんだが、と思うのだが、少女にそんな知り合いはいない。過去にも、現在にも、おそらく未来にもいない。赤茶けた荒野に敷かれた舗装道路のイメージはある。しかし、それは幻だ。情操教育のために視聴させられた映画から取得して、原風景として自意識の中に組み込んだ、何の意味も来歴もない、虚像にすぎない。
言ってしまえば、そういう妄想の世界で楽しむ行為こそが、少女の趣味だった。
星空は良い。何故なら、色んな映画で美しいものとして扱われていたから。きっと世界で一番良いもので、だから永久に滅びない。古の羊飼いたちは夜空に星座を結んで空想を育んだ。言わば夜天の光とは自然の銀幕なのだ。
「言ってみろ弱虫小僧、どっちが北だ? どっちが南だ? 馴染みの北極星が何で回るようになってしまったんだ? 少しでも何か分かっているか? おい、道標はどこだ? 楽園まで後何マイルだ? どこまで行けば標識が見える? この道はどこまで続いている?」
芝居掛かった口調で世界を罵るのが段々楽しくなってきて、少女はいよいよ益体もない夢物語を楽しみ始めた。
「国道の脇、ガソリンスタンドの売店で軽食や飲み物を買い込むだろ。それで俺は、長い長い道を大型トラックで走っているわけだな」
くだらない空想だ。十四歳程度で女性としての成長を、十六歳でそれ以外の成長をも止められた矮躯にとって、空想の中にある大型輸送車両の運転席は広すぎる。
元より叶わない夢だ。
叶わないからこそ、少女はより深くその妄想に潜っていく。
「ラジオに相槌を打ちながら、ハンドルから片手を離して、こう、ぬるい缶コーラを煽る。壊れたスピーカーからはブンツク言ってるダブステップ! 冷めたタコスを齧って、マズいって唸り、さて国境まであと何マイルだ? ああ、この夜が明けるまでに検問につくのだろうか! 次の街ではどんな荷物を積もう。どこを目指して走ろうか……うん、ハードボイルドで気ままな生活だ。まぁ俺のガキみたいなボディだと中々無い仕事だったかもしれんが」
少女は唐突に醒めて、月夜に白く溜息を吐く。
「というか俺の時代、もう民生の物資輸送は無人車が主流だったし……かつての運転手たちは俺の時代、何して生きてたんだ? ああ、戦場っていう職場があったか。でもそれではロマンが無いよなぁ。つまらなかったぜ、戦場。あんまり面白くなかった。今の方がマシだ……」呟いているうち、気になる光を夜空に見つけた。「流れ星だ!」
上体を反らすと、重外燃機関を懸架する強化外骨格の背骨に組み込まれたモーターが駆動音を上げた。
グローブの手指を折り曲げて窓を作り、きらきらと輝く瞳で、地の果てへ落ちて行く光を捉えた。
流星はすぐに燃え尽きて、永遠に見えなくなった。
「皆幸せになりますようにみんな幸せになりますように皆幸せにありますように。よし三回言えた! ……今の見られたら何歳児だよって笑われそうだなぁ」兄弟や姉妹、あるいはそうであったかもしれない仲間たちを思い浮かべる。「コルトには『病気かい?』って言われるかも知らん。ウンドワートは……いや、あいつはこういうの案外好きだろう。リーンズィは……逆に流れ星に願い事をする習慣を知らないかもな」少女は仄かに微笑んで嘆息する。「あいつら、今日も来るかな?」
少女は流れ星を愛している。
一目散に駆け抜けて、来た道を決して振り返らず。
祈りと願いを引き受け、綺麗に尽きて、燃え果てる。
そのように望まれて消え去ることが出来れば、どれほど幸いだろう。
少女が根城としている『勇士の館』の屋上には、他には誰もいない。いつもこうして過ごしているわけではなくて、夜は休止モードを入れてやり過ごし、夜明けの三時間ほど前から『仕事』の準備を始めるのが常だ。
今夜はファデルからの連絡を待っていたのだ。
とうとう連絡が来ないままこんな時間になってしまった。
本来、多忙な身分である。偵察軍のトップを務め、自身も卓越した性能を持つ彼女の予定表が丸々空いている日など、ここ数百日はあり得ないことだった。
夜半には解放軍司令部から具体的な任務参加要請が回ってくるのが常である。
クヌーズオーエ解放軍という巨大な歯車に組み込まれた少女は、秘匿されたメカニズムについて想像する。解放軍は、この局面で自分を取り除いておいて、いったいどういうタイミングで使うつもりなのだろう。
そんなのは決まっている。本物の鉄火場へ飛び込ませるつもりに違いない。
本当に算段が何も無いのだ、とは少女も考えていない。むしろこれは前兆に違いない。
前回の襲撃から、解放軍全体に今こそ<首斬り兎<を仕留めるべきだという空気が強まっている。新しいアルファシリーズのスチーム・ヘッドが合流したのが好機だと考えているのだろう。
少なくとも『ウンドワート卿』が必死に索敵と捜索を行っているのには、そういう事情があるのだと、多くの機体が勘違いしている。
飛行服の少女の見立ては違う。ウンドワートの行動は単純で、実際には出会いの善くなかった後輩に良いところを見せたい、汚名を濯ぎたい、という卑俗な動機に従っているに過ぎない。
もちろん、味方をこれ以上失望させたくないという強迫観念もあるのだろうが、ウンドワートには何の責任も無いし、誰にも失望はされていないので、そちらはどうしようもなかった。
やりたいようにさせるしかない。
戦術ネットワークを参照しながら、ふむむ、と少女は腕組みする。
直接の連絡や通達がなくても、他の調査隊や一人軍団たちの予定から、ファデルたちの作戦立案を推測するのは可能だ。
「コルトのポジションが何も決まってないのはいかにも怪しい。あの人もめちゃくちゃに首を突っ込むタイプだが、わざわざ丸一日も空けてるのは変だ。しかも俺たち偵察軍トップ3もフリーのまま。まぁ、『首斬り兎』にも、こっちの新入りの性能はまだバレてないだろうし。タイミングは良いのかもな」
偵察軍の他の弟子たちは、全員ファデルからの要請に基づき、『首斬り兎』が先日現れた区画とその周囲を重点的に巡回している。
あの襲撃があった日から、彼らは一度もここには帰還していないし、一睡もしていないはずである。
それは、該当地区へ出撃している全軍がそうだ。第二十四攻略拠点では文化的生活のために夜間は活動を停止する決まりだが、外に出た部隊は夜間も当然に任務を続行している。
少女のもとに送られてくる弟子たちの日報に目を通した限りでは、どの機体も『首斬り兎』の発見・特定には成功していない。ただし、少女はそれが失敗だとは思っていなかった。機動力に優れた偵察兵たちが、昼夜を問わず駆け回っている。
そんな中を無事に逃げ果せるのは不可能だ。偵察専用の機体をここまで多く仕上げたのはつい最近のことだ。戦闘の経験値が足りていないのは確かだが、それでも十分な頭数はまさしく代えがたい力であり、そして敵側に多くを知られていないということは、それだけで優位に立つ材料になる。
いかに拙くとも、見知らぬ偵察兵たちの目に囲まれては、首斬り兎もそう上手くは立ち回れない。
目標は、当該地区に釘付けになっていると見て良い。
対して、少女を初めとする情報軍の主力三機には、何の命令も降りてこない。
ここ数日は不自然なほど自由だった。平時ならば各方面軍から山のように支援要請が飛んでくるのに、今日などは未だに朝から夜まで完全に空白のままだ。
首斬り兎が電子戦に対応している可能性を警戒して、実に迂遠な方法で合図をしていると少女は考える。何もないということは、つまり司令部からのいつでも対応出来るように準備せよという暗黙のメッセージであろう。
いわば、少女たちは自由なようでいて、弓に番えられ、放たれるのを待っている状態である。
やはり大規模討伐の決行は近いと見て間違いなかった。
極め付けに危険な任務になるだろう。いったい何機が正気で帰還できるだろうか。
弱気になって、また星空を見上げると、ひとときの緊張はすぐにほぐれた。
空の歯車は地上の混沌など気にすることなく回っている。
さて、と少女は思考を切り替える。彼女にも矜持とプライペート、楽しみにしている趣味がある。
重要な任務が目前に迫っているからと言って、やりたいことをやらないつもりはない。
走破性と空力特性に重きを置いた流線型の具足を鳴らし、一息に立ち上がると、ヘルメットを被り、外側から内側へと螺旋を回し、頭蓋骨へ浅く固定した。
最後に沈み行く月の行方を追い、夜の闇にぼんやりと浮かび上がる塔を眺めて、ヘルメットの暗視機能や望遠機能のテストを済ませた。
屋上の淵へ歩んだ。雨樋を挿げ替える形で取り付けられた昇降用の鉄骨材を伝って、勇士の館の最下層へ滑り降りた。適度に筋肉のついた腕が、破壊的な負荷により僅かに崩壊しては再生する。
映画を見て散々研究した、それなりに格好良い高所からの下り方、その一である。
鉄骨を軽く掴み、猛烈に摩擦される準不朽素材のグローブには、降下に伴い相当な摩擦熱が生じたが、不朽結晶連続体以外では破壊出来ないのが準不朽素材だ。
伊達に着け心地が最悪なわけでは無い。
「よっ、と」
下降が終わる前に、具足の爪先で軽く鉄骨を蹴り、五体を空中に浮かし、重外燃機関と一体化した可動式姿勢制御装置から圧縮蒸気を噴射してふわりと着地する。
速度を付けたまま落着すると、具足が相当うるさい音を出す。
今この勇士の館に在駐しているのはバリオスとクサントス、つまりが少女の愛弟子が二人だけだが、年少者への気配りが出来てこその模範的アメリカ市民だ。
もっとも、少女が生まれた頃には合衆国は既に無数に分割され、挙げ句人類文化継承連帯に統合されていたので、アメリカ国民だった時期は一秒も無いが。
勇士の館の駐機場にはキッチンカーを停めている。
すぐ傍には衛兵の装束を着させた不死病患者が佇んでいる。古き日の、恩師の残骸だ。
ダンディと言っても良い、映画俳優のような顔立ち。
彼が死亡する寸前に、そういう背格好に憧れていたので死後は是非使わせてほしいと依頼したのだった。
苦笑いしながら好きなようにしなさいと言われたのを覚えている。
「何事も無かったか?」
返事は当然ない。不死病によって完璧な安寧がもたらされた肉体に、精神活動が自然発生する余地はない。だが、声に応じてどこかで物音が聞こえたように感じて、少女は耳を澄ます。
気のせいだろうか? 建物が軋む音だったのかもしれない。
今日も普段と同じように人工脳髄を載せ替えようか寸時迷ったが、状況が状況だった。
クヌーズオーエ移動販売所の店主としてのロールを楽しんでいるときに、緊急で出動命令が入りかねない。
素直に趣味に興じられないことに歯がゆさを覚えつつ、今日は一日ボディを乗り換えないで過ごすことに決めた。
しかし料理を一人でやるのは大変であるため、外燃機関に積んだ無線で目の前の不死病患者を操縦して、手を増やす。
一存で、電灯は使用しない。いつも通り、ヘルメットの暗視装置を頼りに料理を仕込んだ。
不死病患者は睡眠を必要としないが、普通の人間を模した生活習慣を維持することは精神の安定に寄与する。偽りの眠りでも、眠りは眠りだ。
可愛い部下を騒音で起こしたくはない。
腐ってはいないが生身の人間が飲めば間違いなく体調不良になる水を料理鍋に注ぎ、ステンレス製プロパンガスボンベの残り少ない中身を惜しみなく使って火を焚き、湯を沸かす。
そこに調達が難しい上に人気のない冷凍肉や乾燥野菜を適当に入れて、煮込む。
灰汁取りはこまめにしているし、塩コショウを入れて味見もしているが、材料が材料なので大した味にはならない。
何よりヘルメットの少女はレシピの類を一切見たことがなかった。料理について真実素人である。
自分自身、まともな料理を作れるわけがないと理解している。
偵察軍のトップであるからこそ蒐集できる希少価値の高い粉末状のコンソメを適当に入れて、それなりに味を調えるのが関の山だ。
「バカ舌どもは喜んで飲んでくれるが、美味しいのは俺の味付けじゃなくてこのコンソメなんだよな……」
ボヤきながら鍋にグローブの手を突っ込んでスープを掬い、ヘルメットの下から舌で舐め取る。
「まぁ、バカ舌は俺も同じか」
雑に美味である。
でも、もうちょっと野菜とかも煮込んでまろやかにするか、と萎びたニンジンや黒ずんだキャベツを投入する。
あとはひたすら煮込んで掻き混ぜる作業だ。
何者かの気配を感じて、少女はまた周囲を見渡した。
「物音がするような……」
不意に機関音が轟き、駐機場のライトが一斉に点灯した。
「そうか、起こしてしまったか?」
少女は暗視装置を停止させ、困ったように唇を引き結んで、闖入者を探した。
「あっ、マスターマスター! おはようっス!」と駐機場の窓から声がした。「今日は自分らに仕事無いんスか?」
快活そうな笑みが似合う、少女の不死病患者が這い出してきた。
頭部にはヘルメットと一体化した人工脳髄。
偵察軍のスチーム・ヘッドだ。
師の装備を模した、へカントンケイル謹製の準不朽素材の具足をガチャガチャと言わせながら、歩み寄ってくる。
「おはよう、バリオス」鍋を掻き混ぜるのを不死病患者に任せ、手回しコーヒーミルに豆を詰めていた少女が、そちらを見遣る。「起こしたんなら悪かったな」
「いやいや、今日寝てないんスよー、今日の任務の予定全然来ないから何でだろ何でだろって気になって良い匂いッスねー何作ってるンすか? 今日って結局どうなるんスか? それ何作ってるんスか? 何でだろって。あれ、何か息苦しくないスか?」
「お前さ、いい加減一つ一つ喋らんか? 早口すぎて酸欠起こしてるぞ」
マスターと呼ばれたそのヘルメットの少女は呆れた。
「クイックシルバーにバラされた体は平気か?」
「平気っス、もう傷一つないらしいっスよ!」
「バリオス! マスターの邪魔をするな!」と怒鳴りながら、同じ窓から、同じ装備をした少女が現れた。「また酸欠起こしてるじゃないか! みっともない姿を晒すんじゃないぞ、まったく、酸素濃度調整がヘタクソなのに、なんであんな良い成績出せるんだ。不思議でかなわん!」
「お前も声がデカいぞー、クサントス。あと挨拶な」
「はっ。失礼しました、我が師、マスター・ペーダソス。おはようございます」指摘されて、軍人然とした少女が敬礼した。「バリオスがご迷惑をお掛けしたかと存じます」
「いや……まぁ俺もそんな繊細な作業してないし。バリオスはよく分からんよな。何であれだけ動けるのに酸欠起こすのか、何で言語野にしか異常出ないのか」
飛行服の少女――偵察軍を統括するスチーム・ヘッドは凛とした声で優しげに頷く。
『少尉』コルト、『軍曹』ウンドワートに連なる機体。
『曹長』の称号を戴くペーダソスは、おおらかな態度で部下たちに話しかける。
「お前はお前で、元々はあの筋肉隆々の大男だろ? それが、そんなちっこい体に乗り換えてるのに、やたら馴染んでるし、不思議だよなぁ。あ、楽にしていいぞ」
「はっ、努力しておりますので」軍人然とした少女は規律正しく両手を後ろに組み、軽く両足を広げた。「しかしながら、お褒めに与り光栄です」
「思うんスけど、クッさんにはそっちの才能があったんじゃないスかねぇ」
「何の才能だ! あとクッさん言うな!」
「クサントスは身体操縦が上手だよな。絶妙に使いこなしてる。居住まいとか……」コーヒーミルのハンドルをよっせよっせと回しながらペーダソスが同意する。「なんかこう……良いところのお嬢様っぽさがあるよな」
「この素体の貌が良いだけでしょう。何せ斃れたレーゲントたちから譲り受けたものでありますから」クサントスは高貴さを漂わせる顔立ちに、憮然とした表情を貼り付けたまま返答した。「私見を述べれば、バリオスのやつが飛び抜けて粗雑なだけであります」
「それはある」豆を挽く作業で少し汗を搔いてしまった。螺子を抜き、ヘルメットを外して、髪をかきあげながらペーダソスは小さな歯を見せた。「バリオスは全体的に雑だ」
「酷いっスよマスターまでぇ……自分なんてそういう選手だったの二年だけで、そのあと三年寝たきりだったんスよ? 職業軍人だったクサントスと違って、加減分からなくて酸欠起こすのも普通っスよ」不服そうな顔をしたのは一瞬だ。「あっ、その取っ手をグルグル回すやつ、代わらなくて良いっスか」
「ん。助かる。ちょうど手が痛くなってきたところだ」
嘘である。パワーアシスト用の強化外骨格に支えられた不死病患者の腕が、これしきで疲労するわけが無い。
だが、コーヒーミルの取っ手を回転させるバリオスは「いえいえー。グルグルするっスよー!」と至って上機嫌だった。
「気が利くのはいつもバリオスだ、クサントスも見習えよ」
「バリオスに遅れを取るとは……善処します……」クサントスは無念そうに顔を歪ませた。「自分も何かお手伝いすることは?」
「そうだな。水入れた鍋を運ぶとか、やるか? 身体操縦は上手でも身体出力の調整はまだ上手くない。ちょっとした訓練だな」
「……どうしても、男性のボディは使えないものですか」
「股ぐらに余計なもんブラブラさせながら、重くてトロいボディで壁やらなんやら飛び回るのキツいぞ? みんなお前のボディを羨んでる」
「……」クサントスは沈黙した。「オーバードライブ使うともげましたからね、実際……」
「そうそう。あれ痛くなかったのか?」
「痛いというか……心理的ダメージでありました」
「そうか……」
「マスターマスター、これいつまで回せば良いんスかねー?」
「んー? ぜんぜん分からん。適当にやってくれ」
「了解っス」
「それで、マスター・ペーダソス。任務の件なのですが、実際、我々三機が温存されているとなると……」
「ああ。決行は間近だろうな」
ペーダソスはパンをアーミーナイフで乾燥肉を切断し、水で戻しながら頷いた。
「首斬り兎との決戦は近いぞ。心しておけよ、俺たちがどれだけ上手く立ち回るかで、未帰還機の数が変わる。きっとそういう戦いになる」
バリオスとクサントスは、魂なき虚ろな眼窩に、覚悟の鋭さを宿してその言葉を受け止めた。
未知の敵との戦闘では、情報をどれだけ正確に掴めるかが明暗を分ける。
彼ら不死の偵察兵は、まさしく血河の地へと最初に撃ち放たれる嚆矢である。
帰還は、これを期待されていない。




