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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-10 清廉なる導き手 その12 最初の導き手

「君は殺害されることを望んでいるのだな。要請は受諾した」


 リーンズィは少女から視線を離すことなく、後ろ髪を撫でてやりながら尋ねた。


「ただ、一つ聞かせて欲しい。この世界が滅びかけているのは、君のせいなのか?」


「この世界が?」少女は身を離し、目を細めた。「どうして今、世界の話をするのですか? 天使様。それに私のせいで滅び掛けていると? 貴女の目にも、私がそれほどの邪悪に見えるのですか? 私が真に神の御名により呪われた人であると、そう仰りたいのですか?」


「いや。そうではない。そうではないのだが……」


 怯懦と絶望が綯い交ぜになったその視線に、リーンズィは少しの間たじろいだ。

 それはあるいは、リーンズィという意識が、生命に限りがある人間を、初めて見たが故に生じた感情かも知れない。肉体に付着した老廃物や血液が、体組織によって分解される兆しがないのは、紛れもなく彼女が不死病に感染していない純正の人間だからだ。

 だからこそ、触れることが恐ろしい。

 不浄にして不朽の肉体には、あらゆる物理的な辛苦を克服する力がある。

 だが不死病患者には、魂がない。

 滅ぶべしと定められた者の魂が無い。演算された紛い物である。

 魂なき言葉には力が無い。

 リーンズィの、一際に幼い魂は、心に触れるための指先を持たない。


 ましてや、死の運命と直面した人間に、どうして触れることが出来ようか。生身の人間はあまりにも脆く、穢れており、追い詰められている。

 これこそが人間の本来あるべき姿だというのに、冷たい大気よりも、悪性変異体の放つ殺意よりも、ただその有様が、リーンズィの心胆を寒からしめる。

 やり直しがきかない生命。

 真実、一回性の命。

 どの未来にも続かない道に立たされた、腐れて消える運命にある儚い肉。

 こんなもの、こんな柔らかいもの、私はどうすればいい?

 内心で救いを求めて誰かに呟く。こうした滅亡の渦に飲み込まれた生身の人間を、ただありのまま救う手段を、調停防疫局の全権代理人たるリーンズィは記憶していない。あるいはユイシスならば、あの統合支援AIを名乗る何者かであれば、もっと上手くやれたのだろうか。

 いいや、私だけだ。ここには私しかいないのだ、とリーンズィの虚ろな脳髄に嘆きの声が木霊する。

 死体の山を見よ。ああ、その人を見よ。その人の生存に濁った瞳に映るお前自身を見よ。お前はただ一人、肉と声を持って、彼女の前で呼吸をしている。

 お前だけが生きている。お前だけが……。

 お前だけが不滅である。


「……順を追って説明する」


 言いながら、内心で己の声に反駁する。説明している時間など無いと。

 いつ<時の欠片に触れた者>による送還が始まるとも知れないのだ。

 もっと直裁に救ってやるための言葉があるはずだった。

 ただ、慰めの言葉を知らないリーンズィにとって、理路を示す以外に、これから己の死と対面する少女を救う手段が無い。


「まず、私が訪れることが出来る場所は……非常に限定されている。君にとってはショックかも知れない。私が訪れるのは、終わりかけた、さもなければもう終わってしまった、そんな世界だけなんだ。この世界も例外では無いと思う」


「終わってしまった世界……?」


「君や、外で銃撃戦をしている人々が残っているにせよ、これまでの法則に従うなら、どのようにしてか、この世界はもうすぐ終わる。分かるだろうか……分かる、かな? ありかたとして、閉じてしまうんだ。可能性の外側に出てしまう……」


 リーンズィは己の弁舌があまりに拙いことに癇癪を起こしそうになったが、擬似的な精神外科的心身適応によって表面上の自制を保った。

 言葉を連ねるしか無いのだ。

 リーンズィはあまりにも幼稚で、世界を知らず、進むべき道を知らない。「あちらへ向かえ」と指差して告げるためだけに、長い時間を要する。時間は限られているのかも知れない。それでも、これ以外にやり方を知らない。

 あまりにも突拍子が無く聞こえたのだろう。

 少女は困惑して、ふるふると首を振った。


「この都市の外側には、もう誰も残っていないというのですか?」


「断定は出来ない。でも推測は出来る。そもそも、この世界で今、何が起きている? 分かるか? ……分かるかな?」


「ああ……天使様、戦争が起きているのです。私も全てを知るわけではありません。ただ、伝え聞くかところによると、世界中で核兵器が使用されて……」


「核兵器というと、高高度核戦争か」


 リーンズィは平静を保ちながら頷いた。


「我々が知る限り、多くの世界で発生した事象だ。遙か上空で核兵器が炸裂し、EMPが……電磁波の嵐が降り注いだのだな。そうして皆が混乱している間に、疫病や戦乱が起こった。そういうことか……そういうこと?」


「いいえ、天使様」少女はゆるゆると首を振った。「空の上で起きたことでは、決してないのです。核兵器はまさしく、わたくしたちの頭上から、地上へと降り注ぎ、突き立てられた炎の剣となり、多くの都市を、人を、営みを焼き尽くしまいました……」


「何だと!?」


 リーンズィは殆ど悲鳴のような声を上げて立ち上がった。

 銀色の髪をした少女が怯えて尻餅をついたのを見て、どうにか精神活動を安定させた。

 腰を落とし、少女と目線を合わせ、エージェントは震える声で問いかける。


「待ってほしい。待って。待って……今、何と言った? 都市が……都市が、核兵器に焼かれた?」


「は、はい。核兵器だと聞いています。私もこの目で見たわけではありません。見ていないからこそ、まだ生きているのですが」


「核兵器が……」


 聖歌隊の肉体を借りたエージェントは、唖然としてその証言を受け止めた。

 リーンズィは、絶望の淵に立たされた少女よりも、あるいは強く動揺していた。

 不死病患者であるが故に体調に変化は無かったが、定命の肉体であるならば失神していたかも知れない。沸騰した生体脳が、混乱する人工脳髄から情報を次々に取り出して、自身の意識さえ無視して言葉を並べていく。


「地上で? 都市部で爆発した? 核兵器が? 核兵器が、真剣に戦略攻撃に使用されたのか? ありえない。その可能性だけは常に回避し続けてきたはずなのに。世界同時多発テロ? それなら分かるが。いや分からない。その可能性すら検討には値しない」


「い、いいえ、天使様。大国同士が火の矢で核兵器を飛ばしたのです。報復核攻撃というのでしたか、そういうことがあったのです」


「ありえない。ありえない、ありえない」


 リーンズィの否定は譫言のようだった。

 実際に、譫言めいていた。

 何故ならばこれは実体化した悪夢に他ならないからだ。


「あってはならない。核兵器は明確に危険だった。破壊力が過度に過ぎた。望まれた死を運ばなかった。だから二重に防護を施していた。政治的緊張も技術的発展も常に監視して、無制限の核戦争など起こらないように調停を行ってきた。常にだ。核兵器が誕生したその時から、我々は細心の注意を払ってその未来を回避してきた……不完全な私の記憶にさえ、それが刻まれている」


「天使様……?」


 最初はただリーンズィに縋るばかりだった少女も、異変に気付いたのだろう、汚辱に塗れ、痩せ細った我が身を省みず、どこか気遣わしげな面持ちになっている。

 リーンズィはふらりと立ち上がり、窓枠によりかかり、蒼白の顔で窓外を見渡した。

 重く伸し掛かる灰色の雲に閉ざされて太陽は朧げにしかその姿を示さない。風は灰の臭気を孕んで苦い。塵埃の鈍色に染まる路上に、生き物の姿はどこにも見当たらない。死体、死体、死体、死体。死して目覚める者はない。

 街路樹さえも枯れ果てて久しく、散らす葉の一枚も残っていない。


「核戦争ごときが……そんな……そんなことが……我々は何をしていたのだ……」


 ライトブラウンの髪の少女は喘ぐように息をして、ぎゅっと目を瞑った。

 散発的に聞こえる銃声もどこか遠く聞こえた。

 生体脳が無分別に神経を発火させて、意識を介在しない疑問を吐き出していく。

 何故こうなってしまったのか?

 緊急時の修正プランが実行されていない理由は?

 こうなって何年経った世界なのか?

 この世界の我々は何をしていた?


「我々とは誰だ?」我に返り、呟く。「私たちは……調停防疫局は、望まれない明日を遠ざけるために戦っていたのではないのか」


 いずれにせよ、分岐点は手が届かない位置にあった。

 もう取り返しがつかない。リーンズィの転移がそれを暗示していた。

<時の欠片に触れた者>は危険な悪性変異体の追放先に、必ず滅亡した世界を選定する。

 つまり、この世界にどのような悪性変異体が出現しても問題ないのだ。

 もう滅びるから。人類が、いなくなるから。

 リーンズィは観念して、死に果てた都市を眺めた。

 何が転移してきても、この世界の行く末は決まっている。

 人類は滅びる。

 それで終わる。


「そう……ありえないんだ」冷えてきた首輪型人工脳髄を指先で叩き、必要な情報を、内容を限定されたデータベースから読み込む。「大陸間弾道弾にせよ戦術核にせよ、我々が普及させた迎撃装置の前には無力なはずだ。実体迎撃弾、磁気収束共振、電子撹乱膜……どうであれ、世界中を焼き尽くしてしまうはずがない。核兵器ごときで……人類が……そうか」


 緑色の瞳をまたたかせる。


「それは、私がいた時代の技術水準の話なのだろう」


 ようやく一つの納得を得て、リーンズィは戸惑うばかりの少女に向き直った。


「今は西暦で何年だ?」


「え……っと、最後にカレンダーを見た時は、1970年でした」


「……まだ、二〇世紀なのか。時期からして第一次冷戦期……ミサイル迎撃などまともに出来るはずも無い。そうか、ここは、低劣な兵器をコントロール出来なかったせいで終わる世界なのか。この世界の我々は……そんな早い段階で失敗してしまったのか」


 広がる灰色の街は、まさしくリーンズィにも見慣れたクヌーズオーエである。

 両手の指で窓を作り、聞こえてくる銃声を頼りに射撃位置や交戦中の人数を割り出す。

 赤く変色し始めた瞳を凝らして「見たいもの」を探す。

 求めたのは、命だ。

 ヴァローナの瞳とて万能では無い。

 所詮は人間の生体脳の余剰リソースと時制感覚に依存した機能に過ぎない。

 だからこそリーンズィは確信を持って測定した。

 この都市に残されている命の数を。


 それは鈍い輝きだった。屋根の吹き飛ばされた廃屋、二度と走ることのない車、遺言なく放棄されたせいで誰も処理できないままでいる死体の山。

 そういったものを透かして、まだ終わっていない命をリーンズィは眼差しで捉えた。

 両手で数える程しかない命たち。

 一つ、二つ、三つ、四つ……銃声が響くたびに消えていく。

 外側には何も無い。

 何も、無い。

 愁いを帯びた瞳には何も映らない。リーンズィは悟った。

 この都市の外側には、本当に一つの命も存在していない。


「天使様?」


「私は天使ではない」


「何を見ておられるのですか?」


「分からない」ライトブラウンの髪を揺らして首を振る。「何を見ているのだろう?」


 所詮は幻覚に過ぎない、という思いは僅かにある。

 だが、今この目に見えている彼らこそが、今まさにこの地上から消え去ろうとしている人類だと確信できる。

 僅かな生存者たちが、何のためにこの終末的破局で戦闘を続行しているのかは、定かでない。

 だが理由を考える必要性がない。戦闘を停止させる手段はない。

 よしんば停戦させたところで、彼ら全員の手を引いてどこかへ連れて行くことは出来ない。


 『この先』は存在しない。

 ここが彼らの終点だった。

 やがて爆音が轟き、呆気ないほどあっさりと、命の輝きが見えなくなった。

 最後に、終止符でも打つように銃声が聞こえて、それきりだった。

 金切り声のような風の音が響く。

 もう何も聞こえない。何も見えない。

 リーンズィはあまりの静けさに身震いした。

 永遠に変わることの無い、標本のような破滅に恐怖した。


「天使様?」


「終わった」リーンズィは呻いた。「終わってしまった」


「終わったというのは?」


「人類が絶滅した……」


「まさか、そんなはずは……」


「君が、この世界で最後に遺された人類だ。ここはもう核兵器の濫用と戦乱によって終わってしまった。未知の疫病や怪物の出現は無く、己らが生み出した単なる技術に飲み込まれて、そこから先へ進めなかった。そういう世界なんだろう……」


 リーンズィは悲しげに目を伏せながら再び少女の前に腰を下ろし、そっと少女を抱き寄せて、耳元で囁いた。


「君のせいで傷つく誰かはもう存在しない。皆いなくなってしまったからだ。何があったにせよ、君に落ち度は無かった。あるいは……何も意味がなかった。絶滅という滝壺へ落ちるまでにある些細な分流の一つだった。世界は滅ぶべくして滅び、あらゆるヒトは選択の余地無く死へ落ちて行った。それでも君は、殺されることを望むのか?」


「天使様、天使様が仰っていることを疑いはしません、でも、それでも……」少女は寸時躊躇い、口にした。「わたくしは呪われています。わたくしを傷つけた人々に、血への渇きと狂気を、報復の争いをもたらすのです。わたくしが呪いによって命を破滅させてきたことは、罪です。裁かれるべきです」


「私は裁くことを望んでいない。神でも天使でも無い。君もまた、悪魔でも鬼でも無い。私の世界ではありふれた、単なるヒトに過ぎない」


「人の肉を、食べました。血に狂って死んだ人の肉を、飢えて、獣のように食らいました」


「私は獣を知っている」おそるべき悪性変異体たちに比べれば、少女の所行は野良犬未満だ。「君は獣ではない。単なるヒトに過ぎない。緊急避難による人肉食を咎めることは私には出来ない」


「違うのです。わたくしは、真に罪深き者の末裔なのです」


「絶対的な罪は存在しない。全人類が絶滅した今、相対的に君には何の罪もない」リーンズィは首を振った。「君が死ぬ必要も、君が裁かれる必要も、ここにはもう残っていないんだ。君は生きていても良い。何の責任も無いのだから」

「それでは……さらにおぞましいものをご覧に入れます」

 少女は切迫した様子で立ち上がった。リーンズィが様子を観察していると、躊躇いがちに右手の五指を折り、目を瞑り、窓硝子へと手を打ち付けた。

 砕けた破片が華奢な手指の皮を剥がし、肉を削ぎ、幾つかの血管を切断した。


「っ……」少女は苦痛に顔を歪めながら、ズタズタになった己の手をリーンズィへ晒した。「これが、これこそが真に呪われた命である証です」


 見るも無惨に裂けた手が、歩くような速度で静かに修復されていく。

 雲の向こうにある太陽と月も、これほどまでに遅くは動かないだろう。神経系が繋ぎ合わされ、繊維状に解けた肉が蜘蛛の糸が宙を舞うかの如くゆるやかに接合され、滑らかな肌が溶け合って再生していく。

 一分足らずで、血まみれであること以外は、破壊の痕跡も遺さず元通りになった。

 リーンズィは一部始終を黙って見届けた。

 そして彼女の正体を理解した。

 時間感覚を意識して、<時の欠片が触れた者>が現れてもおかしくない時間が経過していることを確認する。それなのに、兆候は何も見受けられない。


「そうか……そう。蒼い炎の人。君は、私をここに運んだのだな。別の仕事をさせるために……」


「おぞましいでしょう。この力のせいで、死ぬことさえままならないのです」少女は嘆いた。「わたしくしは、摂理に反した存在なのです。他者に呪いを振りまくくせに、自分が傷つけば、たちどころにそれを治してしまう。そしてその力が、わたくしを食らえば病が治ると惑わせる……。わたくしは……人の皮を被った悪魔なのです。吸血鬼なのです。このような血筋のものは、世界広しと言えどもわたくしだけです。わたくしこそが、悪魔が世界を破滅に導いたという証……」


「いいや。それもやはり、君に責任がないという証だ」


 リーンズィは目を伏せて首を振った。


「私は君を知っている。意識できないが、生まれる前から知っているのだろう。基礎的なデータベースを参照しただけで理解できる。君は、ただのヒトだ。……我々が過去に作成した人造生命、カイン型スーパーキャリアのテストモデルの一人だ」


「なん……ですか……?」


 リーンズィは鈍い頭痛と、ある種の幻覚に悩まされながら、淡々と事実を告げた。


「君たちは、私の知る正常な歴史では一貫してコントロールされた存在だった。開発の初期段階から最終段階に至るまで、このような破滅の渦には飲み込まれなかった。だが、この世界の我々は、かくも無様にも、安寧と秩序を永久に失った」


 窓外の廃墟を指差した。

 あまりにもありふれた終点、枯死した枝の末端。

 人類が無価値に死に絶えた失敗した世界。

 装甲された冷たい指先を、つい、と少女に向ける。


「君たちもまた、進むべき道を失った。おそらく規定の管理手順から逸脱していて……未発達であり……交わった人々に、君と同じ形質を与えるまでに至っていない。その低速な再生を見る限りだと、君自身も病の担い手として完成していない。体液を摂取したものの神経系を狂わせる程度に留まっているし、望まれた疫病としても、大した変異をしていない……」


「何を仰っているのですか? 管理? 病? 疫病……?」少女は呆然として問い返した。「わたくしを、ただの疫病患者だと仰るのですか?」


「ただの疫病患者。そう。それが一番君の現状に沿う」


「この呪われた生を、死ぬことさえままならぬ命を、単なる疫病がもたらしたものだと?!」


「そうだ。私もまた、疫病患者にすぎない。見た方が早いだろう。見ていなさい、大声を出さず、眠ってしまった世界を、再び起こしてしまわないように……」


 リーンズィは左腕を掲げた。

 抗弁しようとする少女を無視して、己の右手を肘関節のあたりに宛がう。

 そして、左の腕を、手甲の付け根から無造作に毟り取った。

 心臓の鼓動に合わせて、ただ一拍だけ血液が噴出したが、血管は即座に閉鎖された。


「ひっ……!?」


 少女が押し殺した悲鳴を上げた。リーンズィは切断面同士が繋ぎ合わさろうとするのを丁寧に抑制した。完全に左腕を分離し、床に投げ出した。

 投げ出された左腕、甲冑に包まれた肉塊から神経や筋繊維の束が這い出して暴れ回り、その先端で少女やリーンズィに触れて、もぎ取られた方の腕は陸に揚げられた窒息した魚のようにのたうった。


「て、天使様、私は、ああ……ああ……」少女は目を回した様子だった。「私は、霊を見ているのですか? 天使様が、自分の腕を、そんな……」


「私の腕を見なさい」


 リーンズィはインバネスコートのマントをたくし上げて、己の左腕の切断面を示した。既に再生は開始していた。視界に『急速再生:集中実行中』の字が点滅する。

 切断面から新芽が芽生えるがごとく骨が延伸を開始し、見る間に補強されていく。

 新造された神経束と血管が蔦のように白磁の骨の艶やかな表面を伝い、傷口が波打ち、新たに編まれた肉と皮が覆い被さった。


 半ば以上元通りになった段階で、もぎ取られ、名前を失った甲冑の左腕は、恒常性から切り離され溶けて消えた。

 活動を停止し、自己破壊を始めた。

 体外へ排出された血は蒸発し終わって、煙も残っていない。

 このようにして、自傷からものの十数秒で、リーンズィの肉体に真新しい左腕が現れた。

 少女の再生とは比較にもならない。ヴァローナの人工脳髄から動作データを呼び出し、弦楽器を爪弾くときの繊細な動きで左手の状態を確かめる。

 完璧だった。腕を失う以前と現在で、リーンズィの肉体には一つの変化も起きていなかった。

 新造された腕を、息を呑んで硬直している少女へと静かに伸ばし、その体温で以て頬に触れる。


「この通り、骨も肉もある。霊では無い。天使では無い。これは不死の病だ。何と言うことも無い。呪いでも祝福でも無い。目の前にいるのは、君と同じ、人間の一人だ。神が在るとするならば、君と同じ子の一人だ」


「これは、これは現実なのですか?」


「もちろん現実だ。そういう肉体、そういう病なのだ。不死病と名付けた。我々は、心臓に杭を打たれて、頭を落とされても……」新しく造り出された真っ白な腕を、今度は己の首に当てる。「そのまま放置されていれば、一昼夜も経たず元通りになるだろう。そして誰も傷つけることはない。ただ、不死である。それだけだ」


「天使様は……永遠の命を持っておられるのですね。私の父も母も、バラバラにされて、最後には死んでしまいましたが……」


「そこまで不完全な不死なのか、君たちは」


「わたくしは、分かりません。だって、まだ死んでいませんから」少女は弱々しく笑った。精一杯の強がりなのだろう、とリーンズィは思った。「でも、きっとわたくしも、同じでしょう。天使様と違う……偽物の不死です」


「何も違わない。私と君は、同じだ。故郷を供にする存在だ」


 ライトブラウンの髪をした少女は淡く笑みを含み、潔癖そうな美貌を崩さないまま名も知れぬ少女を抱擁した。美しい、というマスキングされた状態でも伝わってくる視覚的直感に反する、汚濁した体表、凝り固まった垢の、吐き気を催す臭気。

 それを離すまいと、確かに抱き寄せる。


「私の肉体の命は、おそらく永遠だろう。だが天使ではない。悪魔でも吸血鬼でも無い。君と同じ人間にすぎない。過去同じような病に冒されていた人間はいただろうが……所詮は、こんなものは、君の患う先天性疾患の発展系に過ぎない。私の世界では、誰もがこの病に感染している」


「それほどに、ありふれていると……?」


「そのせいで酷く混乱しているが。戦争が起きて、歴史が無くなってしまうほどに」


「でも……これがただの病なのだとすると……わたくしの血に触れた人は、みな血に狂ってしまいました。あれは、では、いったい何なのですか?」


 リーンズィは頷いて、不完全なデータベースから基本的な情報を読出した。


「それが君に与えられた病の特性だ。争いを起こすためのメカニズムだ。君たちカイン型の体液には、エンドルフィンの過剰な放出を促す物質が含まれている。脳下垂体や他のパーツが、そのような働きをするんだ。君が強く危機感を抱けば、その物質はより多く分泌される。だから君を害そうとしたものは、皆正気を失ったのだ。君を傷つけたものは……狂わされ……七倍の傷を報復として撒き散らす。そうだろう、カインの末裔と名付けられた者よ」


「……やはり、わたくしが、カインと同じ呪いを持つ者と、知っていたのですね。人類最初の殺人者の末裔だと」


「いや、繰り返しになるが、君はそのようにデザインされた一族の末端に過ぎない。聖書に現れる彼らとはさほど関係が無いのだ。歴史はまだ……一代か、二代だろう。君はカインの末裔などでは無い。ないよ」


「それでは、まるでこの身が人の手で作られたものであるかのようではありませんか」


「まさしく君は創られた。そういうこと……」リーンズィは頷いた。「君たちは自然に発生したヒトではない。我々は同じ者を祖とする兄弟であり、姉妹である。創世記に登場する最初の罪人、カインについて、君の一族は忘れられない。何故ならば君はその呪いを引き継いだ者として振る舞うことを強要されているから」


「……わたくしには理解が……」


「それで良い。この年代、まだ遺伝子編纂の技術は公開されていない。空想科学の熱心な読者でもないと、これは思いつきもしない」


 少女は落ち着かない様子で、何度も自分自身の体を触り、確かにそこにあると納得しているようだった。


「とにかく、君は被害者であるにせよ、本質的に加害者では無い」


「ですが、この姿をご覧ください。私は、他の人々と同じ時間を生きていません! こんな人間がありえるのですか?」


「……私には君の外見が理解できない。おそらく、君が我々の組織の機密に関わる機体だからだろう……認識出来ないようになっている」


「そうですか。ならば、申し上げます。人は皆、わたくしを年若い娘として扱います。でも私はもう60にもなる老婆なのです! 精神はずっと若いまま、肉体も老いることがないのです、変わらないのです! そしてわたくしが留まれば、どんどん土地が枯れていくのです。これこそ、生まれながらの罪人である証ではありませんか? カインの末裔……さもなければ、殺人者カインの証ではないのですか?」


「証にはならない。私には君の姿が分からない。だが……君に刻まれた徴は分かる。君はきっと、美しいのだろう。輝かんばかりの美貌なのだろう……」


 生身の指先で、少女の頬ををつうとなぞる。左腕に触れた皮膚組織の表面で汚れが分解され、真っ白な肌が現れた。リーンズィはその部位を凝視する。


「他の死者、あるいは生者に比べて、君の皮膚組織はあまりにも滑らかすぎる。曇り一つ、染み一つない。神がそのように御慈悲を与えられたのだ。永遠に地上を彷徨う罪人である君が、迫害を受けて傷つけられないように、神の聖性による絶世の美、誰しもが触れることさえ躊躇う非人間的な輝き……人が害意を忘れるほどの、呪われた美貌を与えたのだ。君はそう記憶している。だが……それはいつわりの記憶だ。そうした人間がかつていたことは、部分的には事実だ。君がその存在を元に製造されたのも事実だ。それが故に断言できる。君は、無実だ。兄弟を殺した罪など君には存在しない」


「それでは土地が枯れてしまう理由が……」


「君の不老を維持するにはエネルギーが必要だ。試作型なので、そのエネルギーは土地から収集する。それだけだ……真に肥沃な土地や都会ではさほど問題にならなかったはずだけど」


 リーンズィは体を離して、少女の瞳を直視し、戸惑う彼女に向かって、何度も頷いた。幼子をあやすようにして、再生した生身の左手で優しく、優しく、壊れてしまわないように、汚れた白銀の髪を梳いた。指先が触れると汚物は分解され、指が通り抜けた後には綺麗に取り除かれている。


「責任は創造者たちにこそある。あるいは、その後継である私にこそある」


 リーンズィは必死に言葉を紡ぐ。理路を紡ぐ。それしか出来ないからだ。救い主ならざる身、天使ならざる身、ヒトとしての記憶すら無い彼女には、それしか備わっていない。祈りを知らない。神を知らないからだ。祝福を知らない。命を知らないからだ。

 だからこそ、今、ここにしかない存在、終わってしまう存在のために、言葉を連ねる。


「君は無実である。君には、如何なる咎もない。世界の滅亡も、君の信奉者たちが死体の山となったのも、君の血による罪ではない。君は真実、善き人として、この誤った世界を生き抜いた。それでもまだ、自分の罰を望むのか?」


 稚拙な論理は、それでも正確に少女の懊悩を射貫いたはずだった。

 リーンズィの予想に反して、銀色の髪をした少女は、まさしくこの時になって、ようやく世界の滅亡を受け入れたと言った表情で肩を落としていた。

 そうして、「やはり天使様は全てを見通しておられるのですね」と涙を零し始めた。


「わたくしの血ではなく、行いにこそ罪があると、見通しておられる……でなければ、わたくしを善き人などとは、決してお呼びにならなかったでしょう……」


 そんなつもりは全くなかった。それらしい言葉を連結させただけだった。


「何故? 他に言うことがあるのか?」リーンズィは、アンビバレントな美貌から微笑を失った。彼女の予想では、少女の罪はこれで精算されたはずだ。


 しかし少女は、ついにこの時が来たとばかりに、悔悟を始めた。


「天使様の仰る通りなのです。わたくしは、別に、どうだって良かったのです。父も母も死にました。ええ、不死などではなかったのです。戦乱の中で、自ずから死へと向かっていったのです。しかし、わたくしは、……わたくしは、人々を謀っておりました。不死を偽り、救世主を偽り、土地が枯れるのを黙して見過ごし、人々をこの地、最果ての街にまで先導したのです。せめてこの呪われた身で、救済に務めようと……わたくしの血が、少しばかりは、薬として役立つのは、それは事実なのです。それを悪用して……」


「その志は正しい」


「志など! ……本当はなかったのです。懺悔を聞いて下さいますか、天使様」


「何度でも言う。私は天使では無い」


「では、天使を演じて頂けませんか? わたくしには、もはや天使様しかいないのです……」


 少女の哀願に、リーンズィは沈黙する。


「もちろん、皆を助けたくなかったわけではありません。ただ、本心を、この卑しい本性を吐露すれば……いつわりの善行を通して、神様が、ようやく自分を解放してくれるかも知れないと期待したのです。わたくしの献身を、聖なる御名が褒め称えてくださり、五体を揃えたままでは永遠に地に伏せることを許されない我が身を、特別に健やかに赦して下さる。そんな都合の良い未来を期待したいのです。途中までは、希望を生むことは出来たと思います。けれど、結果は、こうです。所詮は偽りの大志、わたくし自身も救世の熱と淫欲に惑わされ……血に狂った人々を凄惨な死に貶めただけでした」


 少女は血に穢された己の肉体を晒し、また無数に積まれた死骸の山を示した。


「大勢をこんなにも無残に死なせてしまった。原因を創造者たちに求めて、不敬ながら、天使様、あなたがたに求めて……わたくしの罪は、汚れた舌は、紡いだ惑わしの言葉は、決して消えることはありません。これは血によらない、わたくしだけの罪です。……悪を裁かれたいと思うことは、悪なのでしょうか?」


 リーンズィは沈黙した。吟味を重ねた上で、頷いた。


「それは何というか……犯罪とかの話では?」


「かもしれません」


「ならば裁判官や警官、弁護士に尋ねた方が良い」


「えっ……?」


 少女は呆気に取られた。


「あの、天使様……?」


「私はやはり、天使ではない。そして天使にも君の罪は分からないだろう。天使は天使だ。猫が人間の罪を知るか? 知るかな? 知らないだろう。同様に天使も人間の罪を知らない。人間の罪は人間にしか裁けない」リーンズィはあっけらかんとして答えた。「より厳密に言えば、私は現地の法制度を知らないので、君の法的な立場について一切判断出来ない」


「しかし、わたくしは、裁かれたいのです。いつわりの希望を振りまいた罪を……」


「ならば尚更に裁判官を探すと良い。世界は終わった。私は君個人の罪に関与出来ない。この歴史は、鉄と火、病と兵器、人間の悪意で閉じられた。頼みの綱の神様とやらも、君たちに何もする気が無いらしい。だから自分で適切な裁き主を探すしかない」


「世界は、世界は、実際の所、神の怒りに焼かれたのでは無いのですか?」


「……? 君自身が核兵器に焼かれたと言っていたはずだが」


「そう、そうですが……しかしわたくしは……見たのです、無数の目、無数の炎、無数の人ならざる……いいえ……妄想だったのかも知れませんが……」よほどショックだっただろう、少女は朦朧とし始めていた。「では、どうすれば良いのでしょうか? どうすれば、罪深い我が身を納得して、死んでいけるのでしょうか? それとも、こうして裁かれないことが、不滅のあなたさまにさえ応えてもらえないことが、わたくしへの罰なのですか……?」


「どうして死ぬことに拘るのかが分からないが……君はどうしたいのだ? どう、したい? どう、なりたい? 死なないといけないの?」


 リーンズィは少女の手を取った。

 そして強く握った。


「生きたまま裁かれたいというのならば、手段はある」


「世界は滅んでしまったのでしょう……?」


「そう。でも私の世界はまだ滅んでいない」


 ライトブラウンの髪の少女は、精一杯、優しい声音を作り上げた。


「私と一緒に来ることを提案する」


「天使様と……?」


「上手く行けば裁判官と会えるだろう」コルトの無機質な美貌を思い浮かべた。「私のすぐ傍にいる人だから」


 それは少女を発見したときから考えていた手段だ。

 そしておそらくは、未だに干渉してこない<時の欠片に触れた者>が描いたプランでもある。

 終局世界からの送還の巻き添えにして、この少女をこの世界から脱出させるのだ。


「前もって言う。きっと後悔することになる」リーンズィは少女の目を見据えて語りかけた。「君を私と同じ不死にする。君は本当に自分の命を終わらせることが出来なくなる」


「天使様と同じからだになるのですか?」


「うん。私と同じになる。そして私と一緒に私の世界へと旅立つんだ。永久に死ねないからだになることを、受け入れられる?」


「天使様の御国には……同じ病の人々が大勢いると仰いましたね」


「そこには君と同じ死から見放されたものがたくさんいる。君の血に惑わされることもない。みな君の病よりも遙かに重篤で、改良の進んだ疫病に冒されている」


「夢のような……夢のようなお話です。でも、どうしてそのようなことを提案して下さるのですか……?」

「分からない」リーンズィは首を振った。天使にも赦しにも思うところは無い。「でも君を助けたいと思う」


「わたくしは、代償に何を差し出せば?」


「代償はこの世界だ。君は充分に償った。この辛苦の世界で、汚濁に苦しみ生き抜いた」


「……清廉でいらっしゃるのね。わたくしも、捧げられるものはこの肉しかありませんが」


「清廉。清廉か」リーンズィは黙考した。「覚えておいて欲しい。確かにこの世界は殺戮と汚辱に満ちているのかも知れない。だが清廉なる導き手は存在するのだ。世界を何とかしたいと、よりよく変えて頂きたいと望む導き手たちが」


「清廉なる導き手。それが、あなたさまの御名なのですか」


「違う。だが、私が導き手なのだとすれば、君の前に最後に現れる一人ではない。私たちは遍在する。もしもここから、この破滅の宇宙から逃げ出すことが出来ないなら、一縷の望みを胸に、東を目指すと良い。そこには歌を愛する民がいる。彼女たちは歌い続ければきっと世界は救われると信じている。あるいは、西を目指すと良い。そこには永遠に朽ちぬ鎧に身を捧げた兵士たちがいる。彼女らも、彼らも、無限の献身で世界をよりよい方向に変えられると信じているはずだ」


「でも、もしも出会えなかったら」


「清廉なる導き手のありかたを、君に託す。君が世界を導くんだ」


「わたくしに、天使になれと仰るのですか?」


「難しい話じゃ無い。隣人を愛し、恋を育み、高らかに喜びを歌い、静けさに現世の過酷を慰める。君の声は人の心を弦にして掻き鳴らす。きっと共鳴は広がり、清廉なる導き手は増えていく。君という希望を胸に抱き、彼らは喜びの歌とともに闇夜を渡る鼓笛隊となるだろう」


「……わたくしに務まるでしょうか。この、血と汚辱に満ちたわたくしに」


「もっとも不浄なのが、真に聖なるものだ。不浄を受け入れれば、自然とそうなる。きっと上手くいく。何があっても……だいじょうぶだ」少女騎士リーンズィは頷いた。「思うがままに、魂の平穏を歌うと良い。君の声は美しい。呪詛よりも聖歌が似合うだろう。君の望んだ景色に辿り着くんだ。そこが素晴らしい世界だと信じて、荒野の果てまで歩き続けるんだ」


「最悪の時は、一人で荒野を進めと仰るのですね。酷いお方です」

「さあ、答えを聞かせて欲しい。私と来るか? 来ないか? 不死になるか、ならないか? 成功するとは限らない。救いは訪れないのかも知れない。でも、私はこの可能性に賭けたい」


「……わたくしは、天使様についていきたいと思います。あなたさまの熱を、もっと感じていたい」


「ありがとう。要請を受諾した」


 リーンズィはミラーズ由来の蠱惑的な笑みで少女の頬を撫で、そっと少女に口づけをした。

 そして少女の口の中の肉を噛み切った。

 震える少女を抱きしめて、舌先で傷口をなぞる。

 そして、糸を引く唇を外し、今度は生身の左手を少女の口に添えた。


「私の肉を食べなさい」


 少女は赤らんだ顔のまま、鼻先を擦り付けるようにしてリーンズィの左手を吟味し、躊躇いつつも、薬指の第一関節から先を口に含んだ。

 上目がちにリーンズィの顔を伺い、頷くのを見て、一息に指の肉を噛み千切って、嚥下した。


「なんて甘くて、優しい味のする……」


「君は不死の病となる。これより一度の死を迎えた後、この病は完成する。君は永久に死なない体になって目覚める……」


 そして身体情報はリーンズィの不死病に準拠した者に置き換えられる。

 同様の恒常性を持つ存在として<時の欠片に触れた者>に認識されるようになるだろう。


「不死になって、何か変わるのですか?」


「言い忘れていたが……不死病患者には本来、自我と呼べるものは存在しない。不死病患者は完璧な肉体を持ち、少しの傷なら一瞬で再生するようになる。外的要因以外に反応する理由を持たない。三大欲求が喪失する。ただ生きているだけだ。私はこの首輪と頭の花飾りに偽りの魂を封じ込めている。それで喋ったり、こうして君の体を温めることが出来る」


「それがないわたくしはつまり、精神的に死ぬのですね」


「うん、ある意味では。満ち足りた終焉だ。でも、意識を保つための処置が出来る。技術者たちが何とかしてくれるはず。でも、ここから先は、賭になる……申し訳ないとは思う」


「いいえ、それで善いのです」少女は寂しげに微笑んだ。「この苦悩から解放されたいだけなのですから……でも、あなたさまにまた出会えるなら、寂しいことはないのかもしれません」



 背後に燃え上がる七つの眼球の気配を感じた。

 時間が来たのだ。

 慌てて突撃聖詠の前を開き、裸の胸で少女を包み込もうとした。カタストロフ・シフトで転移した先から物を持ち帰れるかは<時の欠片に触れた者>の裁量か、何か未知の法則による。人間を丸々一人連れ帰れる保障はない。だから、自分と可能な限り密着させようとしたのだ。


 服を開いて裸体を晒したとき、胸元から二本足で立った猫のぬいぐるみが落ちた。


「あ、猫の人が落ちてしまった……そうだ、君にこれを上げよう。猫の人なら、きっと君の味方をする。お守りだと思ってほしい」


 リーンズィはぬいぐるみを少女の手に握り込ませた。


「ずっと気になってはいたのですけど、このぬいぐるみはなんなのですか?」


「小さい猫の人だ」


「小さい猫の人」少女は復唱した。「大きい猫の人もいるのですか?」


「いる。そう……神も裁き主もいない。だが猫はいる。そんなことを言う人もいるんだ。どうしても救いを信じられないなら……猫を探すといい。猫は温かくて、息をしていて、いつも私たちを見守っている。猫がいる場所には、きっと、まだ眠っていない人々がいるだろう。歌を歌うものがいるだろう。騎士たちがいるだろう……」


「天使様もそこにおられるのですか?」


「私もそこにいる。天使ではないが」ライトブラウンの髪をした微笑んだ。「君を待ってる」


 裸の胸で少女を抱きしめ、時の嵐に備えた。背後に強い熱を感じる。燃え上がる七つの目を持つ超越存在が立っているのをリーンズィは知覚した。

 いよいよ転移が実行されるのだろう。


「やはりあなたたさまは、御遣いです」顔を埋めた少女は、上目で怪物をじっと見つめていた。「わたくしは、核戦争が起こる少し前に、あの七つの目を持つ熾天使様が、あらゆる都市、あらゆる家々、あらゆる人の周りに、何千、何万と浮かんでいるのを見ました」


「彼らは強大だが、それほど立派な存在ではない。信用は多少出来る。君を大事にしてくれると良いなぁと思う。あの存在は、こういうときは返事はしてくれないけど……」


「そうですか。ふふ、熾天使様を相手にそんなことを仰るなんて」少女はおかしそうに笑った。初めて心が溶けたような声だった。「天使様。いいえ、わたくしの騎士様……最後に、お名前をお尋ねしても?」


「私はリーンズィ……エージェント・リーンズィだ」


 頭部のヴァローナの人工脳髄にデータをバックアップし、己の首輪型人工脳髄を初期化した。

 そして有無を言わさず少女の首に取り付けた。こうすればリーンズィの人格は消えてしまう。

 だが、少女を真に救うにはそれしかないと信じた。仮にリーンズィとともに転送されなかった場合、彼女は不死病の自己喪失に怯えながら嘆き続けることになる。

 それだけは避けなければならなかった。


「リーンズィ様、これは?」


 偽りの魂を失い、演算能力が消失し、脳髄からリーンズィという人格が揮発していく。

 消滅していく意識の中で、リーンズィは解けていく意識をたぐり寄せ、言葉を紡ぐ。


「私の魂を……君に……あげよう。不死の肉体になって、辿り着いた世界にそこに私がいなくとも、その首輪があれば……君は、君でいられる……君の偽りの魂を創り出してくれる……」


「リーンズィ様。リーンズィ様……ああ、確かに覚えました。このご恩は、必ず、神を愛するのと同じように、最大の親愛で、あなたにお返しします。だからどうか、リーンズィ様も、安らかに。ハレルヤハ」


「……うん。ハレルヤハ」


 吐き出せたのは、祝福の言葉が一つだけ。

 他には答える余裕は無かった。

 ヴァローナの肉体は神話の時代に創られた天使の似姿のように、静かに微笑むばかりだった。

 世界転移が始まった。猛烈な眩暈と自己解体の悪寒に震えながら、リーンズィは少女が胸元で神への祈りを囁いているのを聞いた。

 ああ、もしも神がいるのなら、と解体されていく自我は思考を紡ぐ。


「この娘の命が、辿り着きますように……新しい空、美しい青、死の灰の晴れた無限の星の下で、愛を歌えますように……罪を忘れ、幸せに生きられますように……」


 それは果たして、何者の願いなのか。

 輪郭を失いつつあり意識が紡ぐ言葉は、やがて歌となり、リーンズィの唇から辿々しいメロディが漏れる。

 それはかつて、ヴァローナが愛唱したとされる交響曲の、継ぎはぎにされた一節。


「ざいと……うむしゅるげん……みりーおーねん……ふろいで……しぇーねる……げってるふん……けん……」


 五色の虹の光の渦が、リーンズィを飲み込む。

 最後に像を結んだ記憶は、天使のように微笑むミラーズの愛らしい立ち姿。

 駆け寄ろうとして、既に自分が何者なのか分からないことに気付いた。

 リーンズィは、そのようにしてその廃棄世界から追放された。

 いつわりの魂ごと、時間の彼方へと消し飛んだ。



「う?」


 リーンズィは廃店舗の一室で目を覚ました。店舗の二階、壊れた廊下の先だ。

 がばりと起き上がる。期待したようなものは何も無い。ベッドには二人の不死病患者が横たわっており、近くにある椅子には拳銃を持った不死病の男が腰掛けている。

 何と言うことは無い、一家心中の末路だった。ベッドに寝かしつけた二人を射殺した後、この男も後を追ったのだ。

 ベッドの小さな患者は、ぬいぐるみを抱えていた。

 どこにでもある終わってしまった家族の絵図だった。

 リーンズィはカタストロフ・シフトで転移した世界の記憶を再生しようとして、自分がまだ首輪型人工脳髄を装備している事実に気付いた。

 あの少女に渡したはずなのに。

 タイミングが無かったので捥いだ左腕ごと置いてきた手甲も何故か装着している。

 リーンズィは違和感の答えを周囲に探した。

 背後から声がした。


「それ、あんまり使わない方が良いね。まさか人工脳髄を無くして帰ってくるとは予想しなかった」


 すぐそばで、いつもの平坦な微笑に多少の呆れを滲ませたコルトが溜息を吐いていた。

 その胸には、あの滅亡した世界の少女に渡したはずの猫のぬいぐるみが抱えられている。


「……どうなっているんだ。いるの。何が起きた」


「混乱するのも無理もないよ。帰ってきた君が自己凍結状態に陥ってたから、私がすぐに復旧してあげたんだ。君が私に事前に予備の首輪型人工脳髄を渡していなかったらどうなっていただろうね。まぁ私もこの超レアな歩き猫ぬいぐるみをもらえたわけだから、お互い良い取引だったよ」


「予備の首輪型人工脳髄……?」リーンズィは己の首を頻りに確認した。失ったはずの魂の演算装置がそこには存在してる。「渡した覚えは……それにそのぬいぐるみは、転移先の世界に置いてきたはず」


「そんなわけないよ? だって、これは君が転移する直前に私に託したんだから。君の認識では違うの?」


「そんなやりとりはなかった……えっと、転移した先の世界に、生存者がいたんだ。私は彼女を救うために、首輪型人工脳髄を……そうだ、彼女は? ここにはいないのか? いないの? いないの、コルト少尉?」


「落ち着きなよ。ここにいるのは私たち二機と三人の不死病患者だけ。そこで心中してる誰かと、顔を合わせたわけじゃないのかな?」


「違う。銀色の髪をした、未活性の不死病患者で……私は彼女に首輪を……」


「細かい部分は良いよ。つまり、転移前と転移後で世界に食い違いがあるんだね」


「うん。つじつまがあっていない……」


「私からは何も変わっていないと見えるよ? まぁ、この世界は何か異常が起きてもすぐに辻褄を合わせて、無かったことにしてしまうからね」


「……何だか途方もない理屈を言っているように聞こえる」


「シンプルさ。<時の欠片に触れた者>がめちゃくちゃにしてる世界だよ? 時間的連続性の可塑性に関しては折り紙付きさ。あの燃える七つ目が私の状態にだけ干渉して、記憶を書き換えている可能性もあるけど、傍証がないから証明のしようがないし。カタストロフ・シフト自体、別世界への一時的な転移と干渉だよ? 通時的な安定とか、まず用意すべき帰無仮説とか、そういうのを蔑ろにする部分があるんだから。そいうものだって受け入れた方が良い」


「そういうものなのか? ……そういうもの?」


「何が捨象され、何が新造されたのか、どんどん改変されていく単一の世界に生きる私たちに推し量る術はないのさ。現実は石碑に彫られた永遠の文字だけど、石碑をすり替えれば世界は書き換わる。単純な話だよ。とにかく、君のその機能は、危険な世界に飛ばされるだけじゃ済まないってこと。ピンチの時以外は使わない方が良いね」


「……あの女の子はどうなったのだろう。どうも、<時の欠片に触れた者>は彼女をどうにかしたいようだった。きっと私を意図的にあの世界に導いた……」


「助かっていて欲しい?」


「うん」リーンズィは不安そうに頷いた。「上手く導けたのだろうか……みんなのように、上手くはやれなかった。コルト少尉やレアせんぱいなら、もっとちゃんと彼女を救えたのかも」


「そっか。君も立派な『導き手』だったと言うわけだね」


「……? 意味を理解しない」


 コルト少尉はリーンズィのライトブラウンの髪を撫でた。


「我が身を顧みず誰かを正しい道へ導こうとしたんだからね。それがリリウムの率いるこの解放軍の重んじる美徳だよ。少し君の評価を修正しないといけないかな。胡散臭いと思っていたけど、リリウム好みの人材だよ。リーンズィは偉いね」


「そう……? そうなの?」


「私には何があったか全貌が見えないけどね。でも、君はよくやったんだと思うよ。きっとあの七つ目もその子を悪いようにはしないだろう、わざわざ君を遣わせたんだから。さぁ、ここにはもう何も無い」外で喇叭の音色が響いた。「集合の時間だろうし、凱旋しよう。ぬいぐるみたちを連れて」


「帰る、か。そうだな。世の中は難しい。レアせんぱいにいろいろ相談したくなった……」


「お疲れ様、というやつだね」


「うん。誰かを救うのはとても難しいのだな。でも、今日は遭えないだろう。また明日か……会えるかな……」


「うーん。実はね」コルトは何でも無いことのように囁いてきた。「夜、あの子は実はお決まりの場所に毛布を被って現れるんだけど。人目を避けてさ。いじましくて可愛いよね」


「えっ……あっ」リーンズィは耳を塞ぐジェスチャーをした。「また何か悪いことを教えようとしている……」


「二人を思ってのことさ。君の住んでる『勇士の館』の裏手だよ。ひょっとすると今夜も会えるかも。私は君への評価をとても改めた。もしかすると、あの白髪赤目の暴れん坊も、導き手の素養がある君の指先には、素直に応じるかも知れない」


 同格の存在だしね、と肩を竦める。


「レアせんぱいと……夜を……一緒に?」


「あれで意外と奥手だからね、思ったほど過激なことにはならないと思うよ」


 ライトブラウンの髪をした少女は、髪を弄びながら考え込んだ。

 SCAR運用システムからふて寝ウサギを一つ取り、貌をほんのりと染めながら、持ち上げたり下ろしたりした。


「えっと……検討、する……」


 かくして、幼き導き手は、名も知れぬ少女の手を引いた。

 その少女の名前を、リーンズィはまだ知らない。


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