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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-10 清廉なる導き手 その10 朽ちた時代の、幽霊の店で

 調査隊は剣呑な気配をすっかり消し去っていた。

 目に付く限りにおいて、彷徨える不死病患者、呼ばれる名すら持たぬ哀れな者どもを悉く保護し、とうの昔に機能停止した病院や、災禍を経てもなお頑健な構造を保つ建造物へ誘導した。

 一通りの作業を終えてからは、幾つかのグループに分かれ、ヘンラインと呼ばれる重装甲スチーム・パペットが収集していたらしい地図データの検分を始めた。

 収集していたらしい……というのは、リーンズィは、現在はまだ解放軍の戦術ネットワークへの接続を許されていないためだ。動作の未検証なスチーム・ヘッドを接続するのはリスクが大きい、という判断による。ヘカトンケイルたちの検分によれば、リーンズィという知性の在り方は厳密には人間由来ではないため、予測が難しいとのことだ。だから、たいていの情報は、コルトからの伝聞だった。

 ライダースーツのコルトが、コンクリート片をごりごりとこすりつけて壁に地図を描くのを見ながら、ふんふんと頷き、少年めいた潔癖な美貌を、分かったような分からないような色に染める。

 そして、コルトの喉が奏でる、楚々として、それでいて掴み所の無い声に素直に耳を傾けた。

 そうしているうちに、スチーム・ヘッドたちは、めいめい別方向に向かって進行を始めた。


「彼らはどこへ?」


「地区の割り当ての協議が終わったんだよ」ヘルメットを脱いだコルトが微笑む。「ヘンラインはこういうのは得意なんだ。分単位で時間を把握している数少ない機体だもの、時計の針で刻んで、公平に分けてくれる。私たちにも専用の文化探索の区画が与えられたよ。嬉しいね?」


「さすがは百人隊長だ。こういう仕事もスムーズなのだな」少女はうんうんと頷いた。「とてもしっかりした人だと思う。解放軍は素晴らしい組織だ」


「いや、あの機体はかなりボケてるよ? 限界も遠くない」


「え?」


 思いも寄らぬ言葉に、リーンズィは翡翠色の瞳を瞬かせた。


「指揮も統制もかんぺきだった。ボケているとはとても……」


「作戦遂行能力に問題はないけどね。古参のスチーム・ヘッドは、多かれ少なかれ自分の記憶にロックを掛けたり、摩滅した記憶の断片をより合わせて過去を変造し、そしてその過去を真実だと思い込むんだ。ヘンラインはまだ未来を諦めてないけど、過去認識は大分おかしくなってる。たまに話しかけられるんだ、内乱の季節がいかに苛烈だったかを悼む、そんな感じのことをね」


「ああ。突撃隊長キュクロープスを切り捨てた云々の……」


「でも間違いなんだよ。諍いはあったさ。大規模な粛清もあった。全く何も無かったわけじゃないけど、不幸な行き違いが連続して、彼らは血に狂ってしまった。攻略拠点を定めず無制限に進行するべきだと主張して、他のグループの静止を振り切って勝手に奥地へ向かおうとしたのさ。事実として、撃ち合いはあったさ。でもそこまで大規模じゃ無かった。葬られた機体はそこまで多くない。なのにどういうわけか、時計屋ヘンラインの中では、凄まじい内乱があって、半数以上が破壊されたことになってる……」


「君の記憶こそ変造されているのでは?」リーンズィは首を傾げた。


「……SCAR運用システムは眠らない機械だよ。全て正確に覚えている。私は本当のことしか覚えていられない。もっとも、それ以上でも以下でも無い。話す言葉については取捨選択を行う。都合の良い真実は、話半分で聞いて欲しいかな。それにしたって、情報将校だったヘンラインには、混同するにはうってつけな、もっと豊かな過去があったのさ。現実認識を歪めるような、凄惨で……人格記録媒体(アイ・メディア)が壊れる瞬間まで忘れられないような、ね」


 コルトは多脚型の小型戦車とでも言うべき異形の殺戮兵器の装甲をそっと撫でた。


「でも、私の魂はここから一歩も離れられない。過去も未来はありはしない。都合の良い過去を騙り、信じてもいない未来を描く。それは出来る。だけど実際は、どんな夢も見られないのさ」


「うーん。ヘンラインの言うことは真面目に聞いていたのだが……あまり信じない方が良い……?」


「一分間が54秒しか無い柱時計を腕に括り付けた機体をどの程度信じるかは君次第だよ」コルトは肩を竦めた。「まぁ、半々で聞けば良いよ。色んな機体から話を聞いて、重なり合ってる部分だけが真実に近いのさ。真実なんて、そんなものだよ。この永劫に反射を続ける鏡像の都市ではね」



 私たちも今日の成果物を楽しもうじゃないか。コルトに誘われるまま、ライトブラウンの髪の少女は心地よい冬の風に吹かれながら、瓦礫の散乱する死灰の都市の散策を始めた。

 全てが残骸だった。大抵の標識は溶けて折れ曲がりピクトグラムが溶け落ちている。

 建造物はどれもこれも崩れかけており、路上に放置された車の残骸の中では、衣服を焼き尽くされた不死病患者がまんじりともせず座り込んでおり、リーンズィが覗き込むと呆然として見返してきた。


「ここいらの車はそこらの建物より頑丈だから、中の方がかえって安全なんだ。連れていく必要はないよ」


 リーンズィは通り過ぎてからもしばらく車に閉じ込められた不死病患者を眺め続けた。

 崩壊した風景に永久に取り残されたその影を見つめた。

 そうこうしているうちに、「ほら、見てごらん」とコルトが店のショーウィンドウを指差した。

 罅が入ったショーウィンドウは、硝子と硝子の間に奇妙な蜘蛛が入り込み巣を作った痕跡のように見えた。冷え込んだ空気を抱える太陽の光に晒されて、ひび割れた世界に潔癖そうな顔をした少女の立ち姿が反射している。

 佳く整った顔を左右に傾け、それからガントレットの指で自分の髪に触れた。

 額の片側に小さな花水木の造花。ほんの数日前まで鮮やかなライトブラウンをしていた髪は、カタストロフ・シフトを起動させ、<時の欠片に触れた者>に灰と崩落の世界へ追放されたときを境に、少しだけ色素が薄くなった。


「どうだい?」


 コルトを見た。長身の黒髪の麗人は、手の中で拳銃を回している。


「うん」リーンズィは大真面目な顔で頷いた。「以前の私の髪型はおそらくボブカットが最も近かった。今は毛先が若干伸びている気がする」


「そうなの?」


「そうだと思う」


 甚だ奇妙ではあった。一般常識として、不死病患者の外見的な特徴は、ステージ1を発症した時点、即ちデッドカウントが始まった段階で固定化される。

 著しい身体的損傷や病変などは、いっそ暴力的と言って良いレベルで再生、あるいは新造されるが、そこどまりだ。生命としてのありかたに関係しない部位に関しては、特に手が加えられないまま不変となる。髪型なども同様だ。自然に髪が伸びることはないし、脱毛処置程度は部位ごと欠損しない限り存知される。

 頭部を焼損しても、発症した段階の髪質と量に再生する。

 スチーム・ヘッドの髪の成長に関しては、伸びるも伸びないも人工脳髄の設定次第だが、とリーンズィは訝しむ。そのような操作を加えた記憶は無い。

 ヴァローナの人工脳髄にも、そうした肉体操作の設定はないらしい。


 腕を挙げて、インバネスコートの下にある手甲とガントレットの境目、脇の部分を確認しても、初めてヴァローナと遭遇したときと同じく、真っ白な無毛の状態から変化していない。陰毛も臑毛も無い。全て、丁寧に剃毛か脱毛をされたと思しき状態を維持している。


「体毛に変化は無いのに、髪の毛だけが伸びて、変色している。これは明らかに異常だ。コルト少尉はどう思う?」


「どう思うと言われてもね」


 コルトはしばし黙り込んだ。

 リーンズィはきょとんとして、返答を待った。コルトの左右対称の美貌を見つめた。

 微笑んでいるのか無表情なのか判別が難しい。

 改めて観察すると、フリアエ系列のクローンなのだから、その冷厳とした美貌はレアと似ている。だが造形が些か異なる。コルトの方が全体的に洗練されている印象だが、あるいは非人間的精神の表れなのかもしれない。

 同じ素体を使っていても、肉体年齢と精神的な要素の差ででここまで顔つきが変わるのだな、と感心した。


「君は確かに……ちょっと変わっているね?」


 コルト少尉は慎重に舌先を運んだ。


「やはり変わってしまっている?」


 リーンズィは困って眉根を寄せた。硝子に顔を近づけて他に変わっている点がないか探すライトブラウンの髪をした少女を見て、コルト少尉はまた沈黙した。


「いいかいリーンズィ。普通、ショーウィンドウを指差して『見てごらん』って言われたら、硝子に映った自分じゃなくて、硝子の向こう側に注目するものだよ」


「そういうものなのか? ……そういうもの?」リーンズィは真剣に驚いた。「知らなかった……廃棄市街地の探索は奥が深い」


「探索の問題では無いよ。生きていた頃、こういうお店に買い物に行ったことはないのかな?」


「かいもの……?」


 少女は首元の人工脳髄に手甲の指先で触れながら、可能な限り記憶を精査した。そのような記憶は全くなかった。模糊とした連想は可能だが具体的な像は一つも結ばれない。

 ユイシスの言葉がリフレインする。


『貴官に過去は存在しません。貴官はそのように作られたスチーム・ヘッドです』


 いや、それはエージェント・アルファⅡだった自分自身の思考だったか?

 リーンズィの霧に映じた影のような過去において、アルファⅡとユイシスの区別は限りなく曖昧だ。

 いずれにせよ、『生きていた頃』に該当する知識はそもそも存在しないとリーンズィは結論づけた。


「コルト少尉、私はアルファⅡとミラーズの、その振る舞いと思考の傾向、愛着感情から作成されたエコーヘッドにすぎない。だから、そもそも『生前』という時期が無い」


「それは奇妙だよ。君に生前が無かったとしても、アルファⅡモナルキアの方には人格記録媒体が装填されてるんだろう? つまり、殺されたら死ぬ、そんな普通の人間として生きていた時期があったということだよ。彼の方で一度でも想起をしていれば……あ、そういうことなのかな?」コルトは困ったように首を傾げた。「アルファⅡモナルキア自身が、そうした個人的な回顧を一切していなかった。そう言いたいんだね?」


「肯定する。どうにも、エージェント・アルファⅡは、そのように設計された機体だったらしい」


「らしい、とは変な言い方だね。自分自身の仕様を把握していないのかい?」


「『私』は、私自身の思考を検閲し、仕様についての記録を参照することを禁じていた、と推測される。あるいはユイシスの操作によるものだったとも予想できるが……」


「……君は今、すごく不愉快な可能性に言及しているよ」


「自覚している。私は……」少女の肉体が身震いをした。「エージェント・アルファⅡは、アルファⅡモナルキアの仮想人格、あるいは下位エージェントして作成された存在だった可能性がある。私にはもっと上位の意思決定機構があるのかもしれない」


「カルテジアン・シアターみたいな話になってきた。その件についてはあまり考えない方が良いだろうね。そうした妄想に取り付かれて精神が崩壊したスチーム・ヘッドを私は何人か見てきたからね」


「そうする」


 リーンズィは青ざめた顔をさすりながらこっくりと頷いた。

 ユイシスに認知機能をロックされていた経験を前例として検討すると、思考能力の全権を握っている存在について疑問を持つことは、全く無意味であり、何の益も生まない。

 舞い落ちる葉が己の幹の先端を知れぬのと同じく、枯れた木が森の朽ちたるを知れぬのと同じく、冬を迎えた森が四季の移ろうことを知れぬのと同じく、上位存在の思考を下位から俯瞰することなど不可能なのだ。

 

「とにかく、アルファⅡに記憶が無い以上、私にも当然、無い」


 リーンズィは甲冑に包まれた両手を開き、閉じ、また開いた。

 上位存在について考えてもこの自我が不安定になる以外の効能は無い。認知リソースを投じた分だけ、余計な不安感が増すだけである。

 これは自分自身の手なのだと言い聞かせながら、呟くように語りかける。


「私が記憶しているのは、この肉体に対してアルファⅡモナルキアが転写していた内容に限られる。私は、『エージェント・アルファⅡ』だった頃の私は、個人的な商行為について、少なくとも一度も想起していない……ああ、酷く奇妙だ」


 リーンズィは硝子に映る自分の目を覗き込む。

 緑色の、宝石のような瞳に映る世界を。

 輝ける瞳、生気を宿さない暗い煌めきから連想するものと言えば、ミラーズと見つめ合うときの胸の高鳴りや、森で初めて遭遇した頃のヴァローナ、あの大鴉の狂戦士を初めて見たときに得るべきだった不安感だ。

 生じなかった感情を、想起を通じて初めて、リーンズィは獲得しつつあった。

 だからこそ、欠落した部分があまりにも多いと思い知らされてばかりだ。

 以前の自分には特定の人物や事象について、エピソードを連想する能力自体が無かった。

 スチーム・ヘッドにとって過去は代えがたく重要である。自伝的記憶は人格の基盤であり、人間性のよすがであり、自己連続性の確立に不可欠な要素である。

 だが、エージェント・アルファⅡは敢えてそれを封印していた。

 属人性を消去する目的ならば理解は可能だ。

 調停防衛局は、調停防疫局の理念を体現する機体を作ろうとしたのかも知れない。

 それでも疑問は残る。肉体が死亡した時に再生される記憶についてだ。調停防疫局の職員と思しき人々との対話の記憶。そんな部分にまでマスキングを施していたのは何故なのか?

 アルファⅡは彼らについて、個人をまともに同定していなかった。

 しかしシィーから得たレコードを参照すれば、一度は調停防疫局の局長が記憶に現れていたことに気付く。

 これにはリーンズィも驚愕をした。

 それなのに、アルファⅡは一つの情動も得ていないのだ。

 そんなことが有り得るのだろうか? リーンズィは考え込む。


「まぁ、スチーム・ヘッドなら本来そんなものだよ。不死病患者の肉体で読出す必要がある日常記憶なんて殆どない」


「とにかく、ショーウィンドウの向こう側を確認する。ちゃんと対応出来なくて……すまない、ごめんなさい?」


「いいよ、いいよ。謝る必要なんてない、君には何の責任も無いんだから」


 コルトは今度こそ微笑と分かる優しげな顔を作った。


「喋り方だって、無理をして変えなくて良いよ。同期して、別個体や本体と記憶を均す必要が無いんなら、個性なんてものは、放っておいてもオリジナルからどんどん乖離していくさ。たとえば私とヘカトンケイルたちもそうだね。他には……あの、赤い目の……君はあの子をレアって呼んでいるんだっけ」


「レアせんぱいと呼びなさい、と言われている」


「あの子も私と同じ素体だけど、みんな性格が違うでしょう。そういうものなんだよ」言い切ってから、コルトは怪訝そうに尋ねてきた。「……ごめん、ところで、今なんて? レア先輩って言った?」


「せんぱい、だ」


「なに。その甘ったるいアクセント、指定されてるの」


「うん」リーンズィは不思議そうに頷いた。「良くないことなのか? なの?」


「そう……あいつ、調子に乗ってるなぁ」


 ふっと表情を消して呟く。

 先ほどまでの口調にも、声音にも、大差は無い。

 ただ感情の温度が一辺に消えて失せた。

 砂漠を渡る風のような乾いた威圧感に、リーンズィはたじろいだ。


「良い傾向じゃないね。リーンズィ、あの子のことをあんまり言うことを聞く必要はないよ、こういう場合、必ずエスカレートしていくから。身の危険を感じたら、遠慮無く、即座に私に通報するように。規則は大事だからね。私は過ちを見過ごさない。懲罰担当官である以前に、あの子の姉として、すぐ処罰しに行くよ」


「? スチーム・ヘッドに身の危険は無いが……」


 不死病患者はその通称の如く、不朽にして不滅の存在だ。

 悪性変異の可能性を除けば、その肉体の永続的な健康と衛生は、死を赦さない病によって完璧に保障されている。


「命に関わる問題だけを危険と認識しているみたいだね」


 コルトは肩を竦めた。


「生命の危機と社会生活を贈る上での危険は別物だよ。そう心得ておいた方が良いよ。だからこそ、私たちSCARスクワッドのような機体を、全自動戦争装置がわざわざ発注したんだからね。いいかい。ピンときていないかも知れないけど、レアには些か暴力的な性向がある。殴られたり、脅されたり、嫌な場所を無理矢理触られたり、そういうことをされたら、即刻通報してね」


 嫌な場所、とリーンズィは内心で復唱した。

 何を言いたいのかは分かる。口腔を始めとする粘膜のことだろう。

 しかし。

 しかし、何故とリーンズィは沈黙する。

 ……()()()()()()()()()()()

 何故コルトが、リーンズィたちの生活について、これほど詳細に知っているのだろう? 

 初対面での尋問から今日という日に至るまで、リーンズィは一度もコルトと会話をしていなかった。

 会話しても普段の生活について詳細に口にするはずが無いし、実際のしていない。

 他のアルファⅡモナルキアが情報を提供しているのだろうか? 


「コルトはヴォイドやミラーズたちと連絡網を?」


「ないよ? 私が自分から所在地を知らせてるのはファデル軍団長だけだよ。今回だって私からファデルにアサインを要求した案件だし。後は……電子戦に優れた機体なら、一方的に位置を知ることは出来るかな」


 例えばアルファⅡウンドワートとかね、とコルトは含み笑いをする。


「君たちの首魁がどうしてるのかは知らないし、知ったことでもないよ」


「……?」


「あ、万が一の事態に備えてアドレスを交換したいのかい? 非常時はどこでも良いから緊急コールをかけてくれればすぐ向かうから大丈夫」


 そんな話では無かった。

 とにかく何故こんなに色々と知っているのか。

 事情を察しているだけ、と考えるにはあまりにも口調がはっきりとしすぎている。

 違和感と疑問を封殺しながら、ライトブラウンの髪の少女は、ゆっくりと話題を運んだ。


「レアは……それほどに私に好意を寄せてくれている?」


「好意よりは支配欲に近い感情だろうけどね。あの機体が愛だの恋だのといった繊細な関係を望んでいるわけがない。君を好きなときに弄んで負荷を発散させたいと身勝手に願望しているだけさ。聖歌隊のレーゲントすら、その辺の問題は上手に立ち回れてないんだ。レアには百年かかったって他者との繋がりを昇華できないよ」


 コルトの言葉は、どれもこれもが如何にも酷薄だった。薄らと浮かんだ笑みに変化はない。

 穏やかと言って良いほどだ。だが、節々から滲む嘲弄や侮蔑の態度に、リーンズィは敏感だった。

 というのも、ユイシスがそのような発言をよくするからだ。

 ヴォイドと同じ意識を持っていた頃は明確には感じていなかったが、リーンズィはそういう意地悪で俗悪的な物言いが好きでは無かった。

 顔貌が若干不満げに歪んでいるのに気付いたのだろう、コルトが小首を傾けた。


「おや、どうかしたかい」


「レアせんぱいを悪く言い過ぎだと思う」


「でも客観的な事実だからね」


「事実かどうかは知らない。でも、言い方は悪い。さっきからレア先輩が極悪非道の悪者みたいな言い方をしている。それが客観的かも疑問だし、なんだかコルト少尉は、憶測だけでとても酷いことを言っているように思う」


「そうかな。でも、君だって身に覚えはあるんじゃ無いかな?」


 リーンズィは言葉に詰まる。潤む赤い瞳の美しさ、縋り付いてきた儚い手指の動きを思い出す。

 今朝、強引に何かに誘われたのは、間違いなく事実だ。ああした言動が全くの白紙から生まれてくるとも考えにくい。レアにそうした欲求が存在するのは疑いようも無い。

 だが、そうした欲求を常日頃から抱いている、それしか考えていない、とは到底認めがたい。

 リーンズィにとってレアは、尊大な部分もあるにせよ、愛して敬うべき人なのだ。ユイシスからそのように設定されている。設定されている。から。そのように。設定? 誰によって? 

 リーンズィは首を傾げた。自分が考えていたことを忘れた。


「うーん、でも、君の言うことも正しいね? こんなことは憶測で語って良いことではない。これは道理だよ」コルト少尉は小さく頷いた。「ちょっと待ってね。確かめてくるから」


「確かめてくる?」


 コルトは数秒間、朽ちた木の洞の真っ黒な瞳を虚空に向けた。そうして頷いた。


「……うん。確認したよ。あの子が君にそういう関心を抱いてるのは確実だね、やっぱり」


「見てきたような口ぶりだが」


「見てきたよ?」黒髪の美女はさも当然のように答えた。「私には全ての通信に対する検閲権があるんだ。監視対象としては、勿論あの子も例外じゃないよ。むしろ彼女は要注意人物の一人さ。たまに電子的に不可視化するし、精一杯誤魔化してるつもりだろうけど、私とヘカントンケイルの監視網からは逃げられない。今、あの子のネットワーク接続の履歴を見てきたところだよ」


「今……見て来た?」


 リーンズィは困惑した。常時そうやって監視が可能なのか。

 それはもう攻略拠点のインフラ一つを掌握して、常にコントールしているようなものではないか?


「予想通りだったよ。あの子のこれまでの動画コンテンツのダウンロード購入履歴をチェックしたんだけど、過去にヴァローナみたいな高身長のレーゲントのコンテンツを好んで買っていたし、よりにもよってヴァローナ本人、ああ、かつての君の肉体の持ち主だね、彼女が残した特定の映像コンテンツに至っては、この24時間でも結構な回数を再生してるよ。そういう嗜好があるのは知ってたけど、今回のは明らかに君を意識してのことだよ。本当に気をつけるのをオススメするね」


「そ、そうなのか……」


 このひと、怖い。

 リーンズィは純粋にそう思った。

 生まれて初めて人間を恐怖したと言って良い。

 もちろん、レアが怖いのでは無い。

 レアの内心について話す、この機体が怖い。

 コルト少尉が怖い。

 いかにも穏やかそうな顔をした目の前のスチーム・ヘッドが、本当に怖い。


 正直なところ、レアが自分に対してそういう欲望を抱いていると聞かされても、然程の驚きは無い。今朝の動きは性急に過ぎるとリーンズィでも思うが、しかしどのような形であれ好意があるのは、ここ数日で確信していたし、ヴォイドは論外として、ミラーズを除けばレアぐらいしか頼るものがいない彼女には、彼女からの親愛が本当に心地良かった。

 だから、改めて本人の口から率直にそのような欲求について聞かされても、嫌悪も違和感も湧かない。

 むしろ愛情の受容体が発達していないリーンズィとしては、どんな行為も嬉しいぐらいだ。

 だいたい、とリーンズィは考える。レア自身は口にするのを避けているが、毎朝リーンズィが住む『勇士の館』の近くで遭うのに、どう見たってあの『勇士の館』には住んでいないのだ。だから彼女が、毎晩『勇士の館』のレーゲント、あるいは技術者……マスターが口を滑らせたところによるとヘカトンケイルに、欲望の発散を求めているのは自明だ。

 自然と、そうした解放への欲求がとても強い人物だと言うことは推測出来る。レア本人にも自覚はあるだろうが、一瞬一瞬に関して言えば、熱の籠もった目をしたのも今朝に限った話では無い。

 今朝はあまりにも直裁だったので、リーンズィも少し戸惑ってしまったが。

 しかし、レアはそれを隠したいのだ。

 あまり知られたくはないのだ。尊敬される先輩でいたいのだ。

 少なくともリーンズィには、そうした強烈な衝動を、あまり悟られたくないと思っている。

 それが分かるからこそ、コルトの言動は受け入れがたい。レアのことは、レア自身から聞きたい。レアの意思で、レアの声で、レアの仕草で聞かせてほしい。

 全く関係の無い機体から、レアのそういった内心や空想について開陳されるのは、到底受け入れられない。

 嫌悪感も相俟って、確信する。

 異形の機械を連れて逍遙する姿は甚だ異様であり、なるほど処刑専用機に相応しい、近寄がたい、禍々しい威圧感を纏っている。

 他者の内心を他人に易々と開陳してしまう、このコルトというスチーム・ヘッドに、気を許してはならない。多少なりとも不思議な性格をした人物だとは思っていたが、ここまで歪な倫理観の持ち主だとは思っていなかった。

 稼動時間の短いリーンズィでも、どう考えてもそのような検閲権や、他者の秘密を気軽に他人に漏らすべきではないと理解できる。余計な諍いや警戒を避けるため、本来なら検閲している事実さえ、言外に匂わす程度に留めるだろう。

 だがコルト少尉には、そうした感覚が、おそらく存在していない。

 隠すべきと言う発想もない。自分が処刑や検閲を担当しているという事実を軽視している。

 それだから、軒先でも覗きにいくように、気軽に他者の内心を確認しに行って、また違う誰かに、その内心を世間話のように語る。

 コルトとのこの会話は、リーンズィにとって、クヌーズオーエの郊外で、アルファⅡウンドワートに襲撃されたとき以上の戦慄だった。

 ヘンラインもコルトを怖れている様子だったが、コルトがこんな感性の持ち主なら納得だ。

 恐怖からノルアドレナリンをだくだくと垂れ流す生体脳で、リーンズィは一瞬でそのようなことを考えた。

 硬直しているライトブラウンの髪の少女に向かって、コルトはうんうん、と何度も頷いた。


「そうだよね、君に共感は出来ないけど、分かるよ。怖いよね。遭遇して間もない、レアとか言う変で意地っ張りで強引なスチーム・ヘッドに、心身を狙われてるんだから。でも大丈夫だよ、君みたいなスチーム・ヘッドを守り、暴走したスチーム・ヘッドを破棄するために私がいるんだ。急にこんなことを聞かされて、怖かったね、ごめんね? レアは私が見張っているから」


「うん、はい、そうなのか……」


「まぁ、レアも性格は良くないけど悪人じゃないから。これからも気長に付き合ってあげてくれると私としては望ましいよ」


「はい、うん、そうなのか……」


 コルトが励ますように肩に手を置いてきた。

 リーンズィは特に訂正することなく機械的に同調して頷いた。

 怖いのは君の方だ、と言わないようにする程度の自制心は、リーンズィにもあった。


「私はカウボーイだからね、皆を守るのが仕事なんだ。ウンドワートと同じさ。何も信じてないし、何も尊いとは思えないけど、ルールだけは私を導いてくれる。実は、私のことが怖いんでしょ? 処刑専用機である私が、本当は怖いよね?」


「……怖い、かもしれない」


「だろうね。でも私はルールに外れるようなことは、絶対にしない。この使命の元に、君を絶対に守ってあげる。だから、私を信頼してくれて良いよ。私というルールの代理人を、信じてくれて良いよ。極論で言えば、私を信じる必要は全然無いからね」


 そうして語りかける笑みは、人間離れしているのに、本当に温かくて。

 信じてはいけないのに、リーンズィはつい、頷いてしまう。

 リーンズィを悩ませたのは、コルト少尉とて邪悪な人間性の持ち主では無いらしいと言うことだ。

 他者の内心の自由に配慮しないかと思えば、脅かされている少女の恐怖心に寄り添うような態度を見せる。

 あるいはコルト少尉には自分自身という『個人』の意識が薄いのではないか。

 コルトの大本体であると推測される、SCAR運用システムを横目で見ながら想像する。

 つい先ほどまで四本脚に取り付けられたタイヤで移動していたその歪な機械は、今はスパイクを突き刺して壁を登攀している。

 第二十四攻略拠点でも、小さな虫、例えば蜘蛛のような生物は発見できるが、SCARの動きはそれらの昆虫と同じぐらい意図不明である。

 よじよじと精一杯に壁を這っている姿には、言い難い愛らしさはあるが、大凡人間性というものは感じられない。

 不死病患者の肉体に納められた精神性は、この飄々とした黒髪の女性の肉体と、四脚を備えた異形の大量破壊機械。

 そのどちらに由来するのだろう?


「まぁ、それはそれとして、だね。リラクゼーションは大事だよ?」


 コルトは伸びをして、ショーウィンドウの店に向き直った。


「ハック&スラッシュだ。私の直観だとこのお店は当たりだよ。硝子の向こうに何が見える?」


 リーンズィはひび割れた硝子に目を凝らした。


「朽ちた布の服と……新品同然のレギンス? 準不朽素材だろうか。そう言えばミラーズが下着丸出しで刀を振るうのは恥ずかしいので履き物が欲しいと言っていた」


「それじゃあやってみようか。えいっ」と気安い声でコルトがショーウィンドウを叩き割り、陳列棚からレギンスを掴み取った。「持って帰って良いよ」


「……泥棒では?」


「ここに存在するだけでは、どんな品物も無価値と同じさ。私たちが価値を見いだして、手を伸ばしたときだけ仮初めの価値が現れる。ほら、良いお土産が出来たね?」


 そういうもの? と困惑しながらリーンズィがレギンスを受取り、無意識ににおいを嗅いでいると、背後に気配を感じた。

 いつのまにやら忍び寄ってきていたらしい。

 見れば、すす、と無邪気そうな笑顔のレーゲントがコルトにすり寄るようにして近寄ってきていた。無邪気そう、と感じたのはそこに偽りの影を見たからだ。

 しかし頬を彩る幽かな恥じらいの色までもが偽りではあるまい。


「ご機嫌よう、コルト少尉お姉様」


 コルト少尉お姉様、とリーンズィは口の中で復唱する。

 長いし少尉お姉様という言葉の並びには違和感があるが、特に誰も気にしていないらしい。


「コルト少尉お姉様もお召し物を?」


「ううん、この子に『ショッピング』を教えてあげてるんだ。何も買ったことがないそうだから」


「そうなのですねー。新人のレーゲント崩れでしたっけー?」


 汚濁した視線が不意に向けられたのでリーンズィはたじろいで、手短に自己紹介をして頭を下げた。

 相手は名乗らなかった。


「少尉お姉様、良ければ私たちも」


「ごめんね、今はこの子にかかりきりなんだ。ほとんど子供みたいなものだからね。この後で良いなら護衛をしてあげるよ」


「そうなんですねー、残念かもー」


 ついに少女は一瞬もリーンズィと目を合わせなかった。リーンズィは我知らず身を竦ませた。軽く小突けば手折れてしまいそうな儚い体躯がおそろしく頑健な要塞のように思われた。

 遠巻きに眺めていた少女たちと合流して、そのレーゲントは去っていた。


「少尉は人気者……?」


「高身長の女性スチーム・ヘッドは珍しいからね」短い黒髪を触りながらコルトは例の曖昧な笑みを浮かべた。「そういう意味では需要があるのかもしれない。あまりそうした交友は持たないんだけど。興味が無いから、応えてあげることは出来ない。悲しいね?」


「そういうものか? ……そういうもの? あのレーゲントから凄く怖い目で見られた」


「嫉妬というやつも知れないね。私には分からないけど」


「うーん。私にも分からない」


「いや、分かるよ。どうせすぐ分かる。揉め事というのは結局嫉妬と情欲だよ。無関係ではいられない。特に君はまだ空っぽだから、きっとそれを良いことに自分好みに調整したがる子が出てくるよ。付け込まれないようにしないと、ね」


「……もしかしてレアせんぱいの話をしている?」


「おっと、失礼した。『もう』いたんだね」


 コルトは肩を竦めた。リーンズィがムッとして言い返そうとしているうちに、黒髪の乙女は商店の門戸を押し開くために長い足を撓めた。


「それじゃあお待ちかね、本格的な文化収集の時間だよ!」


 そうして思い切り蹴った。

 砕け散る音がした。

 それだけだった。隙間からバリケードらしき家具が覗いていた。

 コルト少尉は無言で脚を引き、直立しようとしたが、脚の骨が折れていたせいで転びそうになった。

 よろけたところをリーンズィに抱き留められて、「うわぁかっこわるい」と赤面して、曖昧な笑みで呟いた。「私もレアのことを言えないな。もうやっちゃって良いよ、SCAR」


 どこを目指してか、懸命にスパイクで壁を昇っていた大量虐殺兵器が、呼びかけを受けて投身する。

 煤けたアスファルトが砕け散り無機質の飛沫をぶち上げる。着地するや否や、蒸気機関から黒煙を噴出させ、爆音を立てながら怒り狂う闘牛の苛烈さでバリケードに突撃し、今度こそ障害を木っ端微塵に打ち砕いた。

 四足獣とヤドカリの鋼鉄の私生児といった外観のSCARは、破壊した後には興味を示さず、すぐそばの壁にスパイクを刺してまたよじ登り始めた。やる気を感じさせない低速なので、何となくいじらしさのようなものを覚えないでもないが、行動原理が不明なため、ますます昆虫じみている。


「あの、コルト少尉。これは好奇心なのだが、あれは何故上のほうに行きたがるのだろう……?」


「見渡しが良いというのはアドバンテージだからね。あの子も私だけど、生体に縛られない分、私よりシンプルかつ合理的に活動するんだ」


 リーンズィの腕の中で、黒髪の女は春の気配に綻ぶ花の笑みを見せた。


「そんなことより、砕けた私の脚の心配はしてくれないのかい、リーンズィ後輩?」


「……脚は大丈夫?」この機体にまともに取り合ってはいけない。しかしリーンズィは意地悪をしたくなって、潔癖そうな美貌にそぐわない、いかにも人なつこそうな媚笑で囁いた。「コルトせんぱい?」


「もちろん」受けて、黒髪の美女はクスクスと喉を鳴らす。「なるほど、先輩っていうのは良いね。くすぐったいね、肋骨の溝を、優しく舌先でなぞられてるような気持ちになるよ。でも、今のはあの子に聞かれたら怖いね」


「今後もリーンズィ後輩と呼ぶと言うなら、レアせんぱいに言いつける」


「おや、怖いことを言うね。……このお店はどうやら女性向けの衣類・雑貨のお店みたいだし、レアが喜ぶものもきっとあるだろう。改めて文化収集の時間だよっ」


「その、さっきから……文化収集というのは?」


「ああ、人類文化継承連帯の掲げるお題目さ。クヌーズオーエ解放軍は失われ行く人類文化の、その残滓を収集・保存するために、果てしなく続くこの都市を荒らして回るのさ。気に入ったものがあれば持ち帰り、自分のものにして良いことになっている。売るも愛でるもその機体次第。まぁ保護指定物もあるけどね……とにかくショッピングを楽しもう。君には文化的な行動の経験値が全然足りてないからね」



 コルトが球形の小型照明装置を店内に投げ入れた。手招きされるがままにリーンズィは打ち砕かれたバリケードから店内を見渡した。

 何もかもが、リーンズィたちのあずかり知らぬ時の流れに削られていた。未だ残留する混乱と絶望の気配。蒸気機関機械の膂力の前には藁の楯も同然だったが、スチールラックやソファで簡素なバリケードが築かれていた。

 ここに誰かが立てこもっていたのだ。

 花の香りがした。薄暗い店内の空気を吸った途端にリーンズィは臨戦態勢に入った。


 不死病患者の甘い体臭だ。室内には陳列棚が並び天井も低い。ハルバードは使えないだろう。安普請の合板の天井は方々で崩落しており、こぼれ落ちた石綿が冬至祭の飾り付けとなって垂れ下がっている。とにかく足場が悪く、視界も優れない。打ち捨てられた文明の器物たち。新しい時代には不要だとされた苔むした円筒形カップ、稚拙に繋がれた模造宝石のアクセサリー。埃にまかれ不出来な透明人間のように姿を浮かばせる硝子製の猫や兎たちの彫像。

 肝心の目標の姿は見えない。レジ・カウンターの内側、開かれた生産機械の札入れに紙片が押し込まれている。リーンズィは何気なく内容を確認した。未知の言語だった。コルトにも読ませたが「言語学者じゃないからね」と首を振った。完全な理解には専用の解析エンジンが必要だろう。


 店内の片隅、トイレと思しき場所から物音がした。

 コルトと無声通信で段取りをした。

 数秒の後、ライトブラウンの髪の少女は足音を殺して身を躍らせた。重厚なブーツの爪先がふわりと羽根のように瓦礫を踏む。甲冑の両手を格闘の型に固定しながら、突撃聖詠服の鴉羽のマントで球形照明装置の仄かな光を遮り、店舗を月夜の影のように駆ける。

 一拍の間を措いてからコルトも拳銃を構えて進入してくる。

 ハンドサインを受ける。


 慎重にトイレのドアを開き、覗き込んだ。朽ちたドレスを着た女が便座に座り込み、言葉無く座り込んでいた。自衛用と思われる小口径拳銃を片手に、何も無い空間に向けられた瞳には魂が無い。足下にはメモ帳が散乱していて、やはり言語学的に一文字たりとも読み取ることは適わなかったが、慟哭をぶつけたのであろうその荒々しい筆致は雄弁に絶望を語る。


「読まれることを想定してないような殴り書きは、それだけで強烈な言葉になるのだよ」


 同意見だった。致命的な諦観と絶望を読み取るのは容易だった。ここで何があったのかは、朽ちて黴や粘菌の苗床になりつつある柱のみぞ知る。トイレにまで追いやられ、ギリギリの精神状態で拳銃自殺したのではないかという予測は立つ。そこに至る経緯を知る術は無い。バリケードを形成したいたと言うことは、外の不死の災禍を怖れてこの店に閉じこもり、いっそ歩く使者になるよりはと、自害したのかも知れない。

 結局はそれも無駄だったのだが。

 今となっては、悪性変異の兆候も無い健全な不死病患者だ。

 絶望すら彼らには遺されていない。

 何もかも消え失せたのだ。

 彼女を自殺に追い立てた、狂気じみた恐怖さえ、大脳の脳溝に飲み込まれて。

 停止した精神活動という暗黒の海底へと落ちて、ひしゃげて。

 もう、この世のどこにも無い。

 ただ哀しみのひとかけらも、ここには無い。

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