2-10 清廉なる導き手 その8 望まれた朝のために
「ミラーズ?」
リーンズィが我に返ったのは、ふわふわと揺れる金色の髪に抱き寄せられたときだ。
脇に押し退けられたレアは、蒼白の顔をしたまま、耐えがたいといった面持ちで二人の接触を凝視していた。暗い熱情が疼いていた瞳は一層猛々しく燃え上がり、視線の先にあるものを焼き尽くしてしまいそうな程に赤く輝いている。
「そう……そうよね……あなた、私の邪魔を……しにきたのね……」
震える声を絞り出したレアに、ミラーズは余裕たっぷりに視線を向ける。
「それで、そんなふうに、私に見せつけて……」
「いいえ?」
ミラーズはリーンズィから身を離した。艶然と笑んで、軽く一歩、レアへと近寄った。
白髪の少女は咄嗟に席から一歩離れた。
藪から現れた大型の肉食獣を目にした猟師の如く後退り、怯んで息を吐く。
その隙に、ミラーズは硬いブーツを鳴らし、さらなる一歩を踏み込んだ。
レアは今度こそ圧倒された。見開かれた目は、ミラーズだけに釘付けになった。
赤い瞳は、未だ褪めぬ黎明の青と爛々と輝くミラーズの翠玉の瞳を映して小刻みに揺れている。
呆然として傍から眺めているリーンズィにも明らかなほどに、劣勢だ。
「言ったでしょう? ロジーの管理する『勇士の館』からの帰り道です。それ以上でも以下でもありません。この出会いに他の意味はありませんよ。ねぇ、レアせんぱい?」
「そっちがどこから来て、何をして来たのかなんて、言われなくたって分かるわよ。その百合の花みたいな匂い、リリウムどもの特徴よね。どうせならそっちに移住すれば良いんじゃない?!」
「何が良いの。何も良くないわ。リーンズィは私のもの」
不意に無表情になったミラーズに、レアは怯懦の色を見せた。
そのタイミングで、ミラーズはさらに距離を詰めた。腕をたぐり寄せて、重心をくるりと反転させ、レアが声を上げるよりも早く互いの位置を入れ替えた。そのままそっと薄い胸を押して、逃げようとしてたレアを席の元の位置へと押し込めた。
「あたしも愛を知ることには寛容な方よ。ましてやリーンズィは、あたしやユイシス、眠りかけのヴォイドのことしか知らないまま生まれてきたんだもの。人生の手習いとして、あなたのような優秀なスチーム・ヘッドの友人なり恋人なりが必要よね」
「あなたが口出しする話じゃないでしょ?!」
「間違ったことを口にしているのは私も分かっていますよ。でも私たちのリーンズィに乱暴をしようと言うのなら、見過ごすわけにはいかないの」
ミラーズは恋人同士の距離に滑り込み、レアの首筋に腕を絡め、強引に体を抱き寄せた。
同年代の少女が仲睦まじく抱擁している有様に見えなくもないが、スチーム・ヘッドの外観年齢はさして重要な問題ではない。万事は装填されている人格記録媒体の質で決まり、性別に関係なく、事前の同意無しに相手のボディに触れることは、宣戦布告にも等しい行動として解釈される。
そしてどうであれ、先手を取った方が圧倒的に有利だ。
「やましい気持ちがあるんでしょう? だからこんなことをされても、あたしに抵抗出来ない。あたし、つまりミラーズのほうが偉い、ミラーズのほうがリーンズィに相応しいって理解しているんだもの」
「……っ」レアは羞恥に頬を染めて、唇を震わせた。「わっ、私を誰だと思って……!」
「あら、もう一度身分を示す名乗りをした方が良いかしら?」
金色の髪をした少女は、レアの処女雪のような首筋に唇を当て、フライトジャケット風ミリタリーコートの上から背筋をなぞった。逃げ出そうとするレアを、しかし抱きしめて離さない。
「あなたがどこの誰で、どれだけの戦果、どれだけの名声を得ていたとしても、後ろ盾の数では負ける気がしないわね。このままあなたに何をするか知りたい? 知ることを、知りたいかしら? ええ、こちらのほうでは、あなたはあたしに絶対勝てないわ。多くを知らないあなたではね」
「やっぱり、わっ……私が、私が、誰だか、分かっていて……全部分かっていて……」
ミラーズは殆ど取り合わず、力なく藻掻くレアの背中に指を這わせ続けた。
「ええと、ヘカントンケイルがあなたの専属だったかしら。あたしがヘカティの代わりに、今この場で、あなたを『めちゃくちゃ』にしてあげてもいいのだけど。あなたが私のリーンズィにするつもりだったのと同じようなことを」
「違うっ」レアは弾かれたように顔を背け、肩越しにリーンズィへと涙の滲んだ目を向けて、それから目を伏せて、何度も首を振った。「違うっ、違うの、違うっ! 私は、そんなつもりじゃ……この子に、私の大切な後輩に、そんなことするつもりじゃ……」
「……じゃあ、どんなつもりだったのかしら?」
ミラーズが耳元で囁くと、レアは耳まで紅潮させて、目を伏せて、硬く口を閉ざし、それから追い詰められた赤い目でリーンズィを見た。それから再び抵抗する素振りを見せたが、ミラーズの胸に抱かれている今は、座り込むことすら許されない。
「本心じゃ……無かったの。そんなことをするつもりじゃなかったの。ねぇ、私を信じて……私を許して……お願いよ、リーンズィ……」
懇願する声に、ライトブラウンの髪をした少女は、ようやく自分が成すべきことを理解した。
二人の間に割って入らなければならない。
一時は剣呑な雰囲気だった移動販売車が、今や尋常ならざる雰囲気に飲まれて沈黙している。
レアとリーンズィを止めるつもりでいたらしいマスターですら、判断しかねた様子で、ずっとその場でフリーズしていた。
この場で自分が止めなければ、事態がどのように推移するのか知れたものでは無かった。
「良いだろうか、ミラーズ」
「どうかしたのかしら、リーンズィ?」
レアを拘束しながら、修道女もかくやという清廉な微笑を湛えて問い返してくるミラーズに、リーンズィはゆっくりとした発音で語りかけた。
「ミラーズが思っているようなことは……よく分からないが……まだ起こっていないし、きっと起こらなかった。レアせんぱいは疲れていただけなんだ。だから、戯れるのはそこまでに……」
「もちろん、こんなのはお遊びですよ。あなたが懇意の方がいらっしゃると聞いたので、ご挨拶に来ただけ。ねぇ、こんなのはただのご挨拶ですよね? レアせんぱい? いいえ……」
そうして誰かの名前をレアに耳打ちする。
目を薄く開き、哀願するように息を吐いたレアの頬に軽く口づけをして、ミラーズは踊るような所作でその体を解放した。
すとん、と腰を抜かして座席に体を落とした白髪の少女を、リーンズィの両手が慌てて受け止める。
だが、震える赤い目の少女は我が身を抱くようにしてリーンズィを拒んだ。
「そんなに怒らないでくださいね、レア。あなたのことは悪くは思っていないのですよ?」ミラーズは嗤う。「リーンズィと親しくしてくださっているのには、とても感謝しています。リーンズィの最初のお友達ですものね。けれど、私たちのリーンズィを強引に自分の物にしようというのなら、私にも幾らでも贈る言葉があります。あなたたちの仲を引き裂くかもしれない言葉を。あなたも知っていますね?」
「違うの……」
レアは、誰にも顔が見えないよう顔を伏せたまま首を振った。
「違う……私はそんなやつじゃ無い……私だって、違う誰かになれるんだから……」
「弁解を聞く必要を感じません」
「お願い、お願いよ、もう一度チャンスを……」
「一度も二度も無いわ。だって……私はあなたを信じますから」
皺一つ無い行進聖詠服を見せつけるように、くるくると回りながら。
ミラーズは、唐突にそんなことを言い放った。
レアは、天使のように微笑む少女を呆然として見上げた。
「……どういうことよ」
「可愛らしい戦士様。リーンズィがあなたを信じているのだもの、私が疑うことなんて何もありはしません。ただ、あなたの善性を信じます。あなたこそ、どう思っているのですか。どうして心にそのような邪念を抱くの? あなたはリーンズィを信じている? 信じていたいですか? 信じていてほしい?」
猫を撫でるような優しい声音で囁きながら、身を屈め、朝日を浴びて輝く足跡の無い雪原にも似た美しい髪に指を通す。
「ねぇ、レア……あなたは、リーンズィの信じるような人でいたい?」
少女はミラーズの手を払い除けた。
そして顔を上げた。
忌々しそうに自分で白髪をくしゃくしゃと指で梳かし、沈んだ声で応えた。
「……そうね。あなたの言いたいことは、分かるわ。そんな考えを起こす私が悪かったのよね」
「ハレルヤハ。分かってもらえた様子で何よりです。最後に一つだけ教えてあげますけど、ごめんなさい、は口で言わないと誰にも伝わりませんよ。さぁ、もう私の口出しすることはありませんね。リーンズィ、ご挨拶も終わりましたし、私は先に帰っていますね」
「う、うん……」
リーンズィは曖昧な顔で頷き、吹いてくる風に心地よく冷やされていく肉体を知覚し、そうして自分が多量に汗をかいていたことに気付いた。
まるで激しい戦闘でも巻き込まれたかのように全身が気怠い。
不死病患者の肉体は簡単には疲弊しない。それがために不死の軍隊に不休の労働力として活用されていたのだから、この疲労は、まさしくリーンズィ自身の精神活動から生じたものであった。
頭の上にベレー棒を乗せた小さな影が遠ざかっていく。
レアは見送ることも無く、手を振ることも無く、別れを口にする素振りも見せなかった。
地平線で溶けかけた太陽、遙か彼方か投げかけられる黒い塔の影の下で項垂れて、半ばテーブルに突っ伏すようにしながら、体を時折震わせて、はっ、はっ、と短く呼吸をしていた。
頭をかきむしり、熱病患者めいた視線を虚空に彷徨わせ、「私は違う、私は違う、私の名前はレア、私はあんな乱暴者とは違う、私は良い先輩になるの、私だってなりたい自分になれる……」と譫言めいた言葉を繰り返している。
「とりあえずマスター、せんぱいにコーヒーを……」
「お、おう、そうだな……」
同様に疲れ果ててた佇まいのマスターが、ふらふらとキッチンカーの簡易厨房に戻った。ほぼ同じタイミングで「キング・オブ・キングス、ロード・オブ・ローズ♪」と機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてきた。
ミラーズだった。何かの理由で戻ってきたのだ。先ほどとは別人かと思うほど機嫌が良く、哀れにも再び硬直してしまったマスターの前でぴたりと止まった。
マスターが「助けてくれ」と無言で視線を向けてきているのを感じたが、リーンズィは無言で首を振った。
「あなたにはご挨拶がまだでしたね。私はアルファⅡモナルキアのエージェントの一人、ミラーズです。いつもリーンズィがお世話になっております。この子はご迷惑をかけてはいませんか?」
「あ、ああ、どうもご丁寧に……」ヘルメットの男は、自分よりも圧倒的に小さなその少女に、恭しく頭を下げた。「行儀良くは……してると思いますが」
「丁寧語を使う必要はありませんよ。私はこんな口しか聞けない人間ですが、ペーソダス様も一つの部隊の長ではありませんか。ファデル様に従ってはおられますが、本来なら私どもと同じ立場なのでしょう?」
「いや、ここでは一介の商売人なんで……」マスターは声を潜めた。「何か御用でしょうか?」
「ええ。レア様の芳しい香りに宛てられて、すっかり忘れてしまっていました。コーヒーの良い香りがしますね。あたし、コーヒーが大好きなの。是非一杯飲ませて欲しくて」
「それは良かった。じゃあリーンズィに保温ポットごと持たせてお贈りしますので、後ほどお部屋でゆっくりと味わって下さい」
「こちらで頂くことは出来ないのですか?」
「今日は、あなたに散々やり込められて、そこの座席で丸まってるやつの貸し切りです。そう決めました」
マスターは決然として言い切り、頭を下げた。
レアはミラーズの接近にすら気付かず、苦しげに呻き続けている。
「不義理は承知です。ですが、俺も古くからの仲間をこれ以上追い詰めたくない」
「それも……そうですね」金色の髪の少女は微笑んだ。「彼女は良いお友達を持っていますね」
「いいや、あいつに友達はいませんよ。俺だって友達じゃあないんです。リーンズィが第一号になれるかどうかってところで。まったく、気位ばかり高いやつで……今日のことは止められなかった俺にも非があります、ここはコーヒーで手打ちにして頂ければ」
「いいえ、ご馳走になるなんてとんでもありません。私にしたってちょっとやり過ぎたかも知れませんし……私からも謝罪をさせて頂かないと釣り合いません。ユイシス、お会計をお願いできますか」
コーヒー入りの保温ポットを受取りながら、ミラーズは不慣れな手つきで空中を指で推し始めた。投影された映像に、ハンドジェスチャで操作命令を与えて、自分のアカウントからトークンを支払おうとしているのだろう。
「ええと、ここをこうして、こうして、決済よね。ありがとうユイシス、後はボタンを押すだけ……え? 何これ? 画面に変な字が出てきました。これは何なのですか、ユイシス? 使いすぎアラート機能? でもコーヒーを買っただけですよ? えっ、こんなに高価な物なのですか、コーヒーって?!」
「豆から挽いた本物のコーヒーですから……珈琲豆は、人類文化継承連帯がわざわざ指定して保護している品物です。普通は流通にも乗らない」マスターは息を吐いた。「失われていくものにこそ、この先の未来では必要ないものにこそ、最も高い価値がつけられる」
「ふうん……これをレア様は、毎日リーンズィに?」
「そいつは、それぐらいでしか格好を付けられないと思ってるんですよ。自分の好物で後輩を染めたいというのもあると思いますが」
ふむむ、とミラーズは愛らしい顔に影を浮かべた。「ちょっとやりすぎたかも。彼女にはいずれもっと違う形でお礼をしないといけませんね……」
ライトブラウンの髪の少女に手を振り返す。
今度こそミラーズは帰って行った。
マスターは背中が完全に見えなくなってから、「調査に出てるときの方が楽だわ……」と溜息を吐いた。リーンズィは申し訳ない気分で頭を下げた。
「うちのミラーズが迷惑を掛けてすまない……」
「いや、いいさ。誰かが止めないといけなかった。今後これより険悪な事態にはならないだろうし、固定客が増えるのは俺にとっても嬉しいことだ。しかし、あれが旧世代のレーゲントの実力か……あいつが手も足も出ないで、こんな……暴力に訴えずにここまでやれんのか……怖いな、ロジーやらラーテやらの手管は知ってるつもりだったが……大主教リリウムの生みの親って噂はマジっぽいな……」
ライトブラウンの髪の少女はますますしょげてしまった。
「レアせんぱいをいじめていただけのような気もするが……」
「いじめじゃないわ……あれはね、攻撃されてたのよ。立派な戦闘行為よ……」
レアはようやく顔を上げた。
非現実的な美貌にはしどけなく汗に濡れた髪がかかったままで、頬は上気しており、目も潤んでいたが、正気は保っているらしい。
「指向性を与えた『原初の聖句』で、対象の思考と感情を固定・増幅させながら、ボディタッチと言葉で意識を誘導する。私もこの装備じゃ抵抗できない。もうレーゲントじゃ無いって言うけど、あれは上級レーゲントも顔負けね。全盛期にはどれだけ撃墜数を出してたのか、気になるぐらいだわ」
「ミラーズは原初の聖句を使っていたのか?」
「無自覚の可能性もあるわね。息をするような自然さで、人間の精神を操作する音を会話に組み込める。あれは魔性を持った女よ。大企業の一つか二つは食い潰してるんじゃないの……」
「お前が素直に負けを認めるとは珍しいな」
「勝負じゃないし。負けてない。まだ負けてないもん」レアはむくれた。「……それにしてもリーンズィ、あなたミラーズの前だとそんな顔するのね?」
「そんな顔?」
「目をキラキラさせて、恋する乙女って感じよ。ミラーズになら、いつ、何をされたって構わないって言う顔。そこまであなたを仕上げてるなんて、はっきり言って嫉妬するわ」
リーンズィにはまるで自覚が無かったが、指摘されても不思議には思わなかった。思考様式の要素の大部分が、ミラーズへの愛着感情から作成されていることは客観的な事実に過ぎない。
生みの親にも等しいミラーズに全幅の信頼を置くのも当然である。
がりがりと頭を搔きながら、レアは荒く息を吐いた。
「でもねリーンズィ、忠告するわ。あんなカルト被れを慕っても良いことは何も無いわよ。あなたもさっさとあいつから離れた方が良い。上級レーゲントっていうのは存在そのものが狂気なのよ、関わってるうちにどんどん思考を変質させられていって……」
「おい、レア」リーンズィが言葉を返す前に、マグカップにコーヒーを注いだマスターがその名を呼んだ。「お前はレアだ。違うか? レア先輩なんだろ。じゃあ、『それらしく』しろ。あのレーゲントが言っていた通りだ。『レア先輩』を、やれ。リーンズィの信じるスチーム・ヘッドになれ」
マスターのくぐもった声に、レアは目を伏せた。
「もう一切れ、イチゴジャム付きのパンをやる。お前やっぱり疲れすぎだよ。ちょっとまともじゃなくなってる。さっさと負荷の発散をしてこい」
レアは差し出されたパンを受取ると、無理矢理口に押し込んで、コーヒーを煽って一気に飲み込んだ。
噎せて、涙目で息をする。
「がっつくなよ。時間はいくらでもある。ありすぎる。俺たちは逃げも隠れも出来ない。無限の時間が横たわっている。慌てる必要なんてないんだ」
「そうよね。私たちの命は永久に、永久に終わらないわ。これじゃ、盛りの付いたウサギよね……情けないったら……リーンズィ、今日のことは忘れて。恥ずかしいところを見せてしまったわね」
レアは痛ましい笑みを浮かべながら立ち上がった。細い脚は小刻みに震えており、不滅にして不朽であるべき肉体に異常なまでの負荷が蓄積しているのが明白だった。『勇士の館』まで自力で歩いて行けるのかリーンズィは疑問に感じた。
「レアせんぱい」
リーンズィが、手を掴んで引き留める。レアはビクリと震えて、淡く色づいた唇を戦慄かせて、リーンズィを見た。
「……大丈夫だから。今日のことは忘れなさい、リーンズィ。私とあなたの間には何も無かった」
「せんぱいは、私の『無かったこと』に出来ない。せんぱいは、せんぱいだ」
「そう」
レアは躊躇いがちに視線を逸らし、深呼吸をした。
何か、言葉を思い出しているような素振りだった。
頬を赤く染めた勝ち気な美貌が、リーンズィを見据えた。
「……ごめんなさい、リーンズィ。本当にごめんなさい。今日、私はあなたを傷つけるところだった。イヤだったでしょう? 失望させたわよね。……私を許してくれる? 私を、これからもせんぱいって呼んでくれる?」
「もちろん」
リーンズィは頷いた。
レアは糸が切れたように表情を和らげた。一度だけリーンズィの頬に手を添え、唇を近づけたが、すんでの所で衝動に打ち勝ち、進むべき道へ強引に歩を進めていった。
眺めているだけで心配になる、不安定な足取りだった。
それでもリーンズィの緑色の瞳には、朝の淡い光を取り込んで輝く紅玉の美しさが焼き付いた。
唇ぐらいは許される仲なのでは、と残念に思う。
「レアを許してやってくれるか?」
今日の分は最後だ、と言いながらマスターがリーンズィの前にコーヒーを置いた。
対面に座り、自分用らしい金属製のカップでコーヒーを飲み始めた。
「私は何も怒っていない」
「でも、奪われそうになっただろ?」
「何を?」
「さぁ……貞操とか、かな……?」マスターは考え込んだ。「俺たちに貞操っていう概念はあんまり無いが」
「レア先輩には沢山貰ってばかりだ。私自身をあげても、別に支障は無かった」
「そういう話じゃないんだ」
「マスターはどう思う? 私はどうすれれば良かった……?」
「あれで良かったんじゃないかね」コーヒーで熱された口腔から、白い煙が細く棚引く。「権力を笠にして、可愛い後輩を意のままにする……お前が尊敬するレアを想像してみろよ。そんな蛮行を喜ぶスチーム・ヘッドじゃないだろ?」
「……かもしれない」
「しれない、じゃない。そうなんだよ。お前の中のあいつは、きっとそんなことをしない。だからあいつは精一杯『らしく』振る舞おうとしている」ヘルメットの下で男は溜息を吐いた。「あいつもきっと、思うがままのしてたら、後悔してたさ。恥じ入って、もう二度と顔を見れなかったかもな。今は疲れてるだけなんだ。使命を果たせず、命題をクリアできず、錯乱してるだけだ。だから、お前さんの反応が正しい」
「……つまり、私は贈り物になれない?」
「よせよ。そんなもの、誰にもなれん」
「じゃあ他に贈り物を考えないといけない」ちびちびとコーヒーを啜りながら、リーンズィは思い詰めたような真剣な目をした。「何が嬉しいだろう?」
「今のあいつは何も欲しがらないさ」
「私が一方的に贈りたいんだ。レアせんぱいは好きだ。ちゃんとお礼がしたい」
「そうか。……あいつは良い後輩を持ったな」
「うん。私は良い後輩になりたい」
その時、どこからともなく声が響いた。
「ケンカですか?」
「この声は……!」マスターが椅子から立って、周囲を見渡した。「厄介なのが来た。どこだ?!」
すると、にゃー、と気の抜けた声を出しながら猫が一匹降ってきて、見事に宙返りをしてアスファルトに着地した。
「上か?!」
「上にいる、マスター!」
ライトブラウンの髪の少女は我知らず興奮して指差した。
「はい。私はここにいます」
建造物の屋根の上に、颯爽と立つレーゲントの姿があった。
その猫っ毛を風に靡かせる少女を、二人のスチーム・ヘッドは知っている!
「猫の人だ!」
「ロンキャだ!」
「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです。警告に来ました。まだ朝五時前です。夜間です。夜間なので迷惑行為は禁止されています。夜を守るのが私の仕事ですので。えいっ」
ロングキャットグッドナイトは、猫に引き続いて身を躍らせた。
そして特に受け身も取らずアスファルトに頭から墜落して死んだ。
即死だった。
ぐしゃっ、と頭が石榴となって砕けた。
「猫の人?!」
「ロンキャ?!」
墜落直後の少女はぴくりとも動かなかった。
リーンズィもマスターも不死病患者の性質は文字通り我が身で心得ている。
遅くとも十数秒で蘇生するだろう。
それでも二人が駆け寄ったりしなかったのは、まさか普通に墜落死するとは考えておらず、予想外の展開に虚を突かれてしまったからだ。
見ているうちに、主人の死を理解していないのであろう三毛猫が、間延びした鳴き声を上げながらロングキャットグッドナイトにすり寄っていった。
そして行進聖詠服で装甲されていない部位の薄い肉をがじがじと齧り始めた。
「あっ、猫の人が!」
「起きろロンキャ! 食べられてる! 食べられてるぞお前!」
ロングキャットグッドナイトが死体だったのは数秒のことだ。神経や筋繊維の束が無作為に伸び、猫を払いのけ、飛び散った肉片を引き寄せて結合させるや否や、元の恒常性を取り戻した少女は、何事も無かったかのように起き上がった。
けほけほと咳をして気道に詰まった血肉を吐き出した。
そして口の周りを血で赤く染めた猫を見つめて、抱き上げて、空に向かって高く掲げた。
どういう意図がある行為なのか分からず、リーンズィとマスターは顔を見合わせた。
猫がニャーと鳴いた。
猫を下ろした。
「めっ、です。まだご飯の時間ではないので」
やる気が無さそうに猫を咎め、改めて二人に向き直る。
「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです」
「え? それはさっき聞いたが……」リーンズィは戸惑った。
「そうですか。しかし私の主観ではまだ言ってないので」
「頭とか色々打ってるのだな……」
「打っていたのですか?」
「すまん、聞いても良いか?」マスターも相当に狼狽していた。「お前、今の飛び降り、割と高頻度でやってるのか……?」
「稀に失敗しているようですが、大抵は大怪我で済みます。猫の加護を受けし身なので」
「受け身とかしろよ」
「人間は重力に引かれて堕ちる生き物なので。神の影に侍う偉大な猫たちと同じようにはいきません
」
「いや、出来るからな。今度俺の所に来いよ、他のやつらの教練のついでに教えてやるから……最低限死なないようにする着陸を……」
「覚えていれば御言葉に甘えます。でも、三歩歩けば忘れる猫なのでした。それにしたって、誤魔化そうとしてもダメですよ。ケンカですね? 騒ぎ声がしたので猫を追い、一生懸命ここまで来ました」
「ケンカ……」ライトブラウンの髪の少女は、視線でマスターに問うた。「ケンカだった、かな?」
「そうだな……ケンカと言えばケンカだったかもな」
「やはりそうでしたか。もう治まっているようなので何よりです。互いを許し合えたのは祝福すべきでしょう。ハレルヤハ。しかし夜間の迷惑行為は禁止です。リリウム様がそのようにお定めになりました」
お決まりの文句を言いながら、すんすんと鼻を鳴らす。
「……キジールの匂いがします。キジールがいたのですか? セラフィニアに知らせないと……ずっと寂しがっていて……」ぼそぼそと呪文を唱えるように少女は呟き始めた。「ヴァータ……キジール……また四人で一緒に……聖父様のところへ……聖歌隊を……ああ、どうして……キジール……」
リーンズィは目を丸くした。
「猫の人。キジールを、聖歌隊だった頃の彼女を知っているのか?」
ロングキャットグッドナイトは応えなかった。
正確には、自分自身が何を口にしているのか分かっていなかった。
キジールの名を呼ぶ声はいかにも頼りなく、意思に基づく発話と言うよりは、夢見の幼子の寝言のようであった。
「でも、猫はいます!」
猫を掲げる。それが回答だった。
何に対する『でも』なのか、リーンズィには意味が取れない。
「そうでした。ケンカなのですね?」ロングキャットグッドナイトはまたも生気の無い瞳で猫を掲げた。「次回からはペナルティがあります。猫も三回目のパンチで爪を出すと言います」
「言うのか。言うの……?」
「俺も初めて聞いたぞ」
「ここしばらくで、私キャットを二度も怒らせたのはあなたたちだけです。覚悟して下さい。私も夜を守る聖なる猫の使者として使命がありますので。あーっ、待って下さい……!」猫が逃げ出した。「それでは皆様、良い朝を。ロングキャットグッドナイトでした」
走り出した三毛猫を追って猫のレーゲントは姿を消した。
ヘルメットの男はその方角を見ながら椅子に座り、コーヒーを飲もうとして、「冷たっ……」と一人ごちた。
「何か疲れたな、この朝は……俺この後任務なんだけど……休みに出来ないかな……出来ないよなぁ」
「マスター、聖なる猫とは?」あまりにも気になる単語だったのでリーンズィは尋ねてみた。「そういう何か……すごい猫がいる?」
「なんだ。猫好きなのか? 俺は今、猫が人間食ってるところ見て、若干嫌になったけど」
「可愛いとは思う。すごい猫がいるなら見てみたい」
「いや、知らんな。あいつに直接聞いてくれ。でもあいつおかしいし……たぶん妄想だろ……」マスターはふと思いついたらしく、誰を警戒してか、小声で尋ねてきた。「なぁ、気になったんだが、あいつ、人工脳髄つけてなくないか?」
「……省サイズなのでは?」
リーンズィは髪を掻き上げ、小さな水仙の造花、聖歌隊の人工脳髄を露出する。
「私の頭にもヴァローナの人工脳髄が刺さったままだが、こうして髪に隠れる程度のサイズだ」
「あー、そうかもな。ロンキャは髪の毛もくしゃくしゃだし。造花の部分が無ければ、見えないかもしれんな」
リーンズィも、言われてみれば、と疑問に感じた。
ロングキャットグッドナイトなるスチーム・ヘッドの、その頭部にあるべき人工脳髄を視認していなかった。
原理上、不死病患者は人工脳髄無しでは自発的な意思で活動できないため、どこかにはあるのだろうが、あのレーゲントに限っては何だか例外のように思えて、リーンズィはその非論理的な思考に落ち着かない気持ちになった。
キジールのことを知っていた点も非常に気に掛かる。
いったいどういう関係だったのだろうか?
今は、考えるのはやめにしよう、とリーンズィは溜息を吐く。
あまりにも多くの『初めて』が一度に起こりすぎた。これ以上無闇に考え続けると生体脳髄への負荷になりかねない。アルファⅡモナルキア本体からの代理演算に頼らない思考に、リーンズィもヴァローナの肉体もそれほど慣れていないのだから。
何とも奇妙な出来事が続く朝だった。
そうした事実について、またマスターと幾つか言葉を交し、やがてリーンズィも販売所から立ち去った。




