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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-10 清廉なる導き手 その7 ブラン・ニュー・デイ

 エージェント・リーンズィが目覚めて、四日目の朝。

 モーニングセット移動販売所の簡易座席に腰掛けた少女は、ライトブラウンの髪を触りながら、湿り気を帯びた空気の匂いを楽しんでいた。

 誰の目ともリンクしていない状態でこのような朝焼けを見るのは初めてだった。

 昼と夜との中間点。生と死の流転する黄昏の色。

 濃紺の空が大洋ならば、千切れ飛ぶ淡い雲はさながら海に散らばった鯨の死骸だ。仄暗い海に、朝の光を浴びた雲が鮮血の色に燃えている。攻略拠点の静かな朝で、朝焼けだけが鮮烈だった。


 何故このような色なのか。幼いリーンズィはふわりと思考を巡らせる。

 どうも、夜のうち、雨が降っていたらしい。

 明け方までの時間を半自動で過ごした少女の意識に、昨夜の記憶は殆どない。何度か我に返った覚えはあるのだが、防音防弾の分厚い窓から、薄手のカーテンを透かして、幽かに雨の足音が漏れ聞こえてきた。そんな印象が、朧気に残っているだけだ。


「ここまで冷えるクヌーズオーエは初めてだろ。寒くないか?」


 魔法瓶からマグカップにコーヒーを移しながらマスター。

 リーンズィは微笑を浮かべながら「ああ。寒冷な気候には慣れている。気遣いに感謝する。体調は良好だ」と応え、沈黙した。


「どうした?」


「……これは私らしい言葉ではない」


 少女は呟いた。


「またそれか。確かにちょっと報告文みたいだが、お前の言葉なのは間違いないだろ」


「ううん。ヴォイドみたいだからダメだ。うーん……よし。ありがとう。少しも寒くない。とても気分が良い。……こうかな?」


 小さく首を傾げながら、行儀良く両手でマグカップを受取るリーンズィに、マスターは「お前が『らしい』と思うんなら、『らしい』んじゃないか?」と応えた。


「冷たいようだが、自己連続性について意見が出来るほど、俺はお前のこと知らないからな。ヴァローナっぽいかどうかなら、まぁ、辛うじて分かるが。あいつも何回かここにコーヒー飲みに来たし。毎回格好付けてブラック頼んで、この世の終わりみたいな顔で飲んでた。でもお前のことは何も分からん」


「それもそうか……これも違う。うーん……」顎に手を当てて、悩ましく声を上げる。「……それも、そう。こう?」


 だから分からんよ、とマスターは肩を竦める。

 リーンズィはコーヒーの液面を吹いて冷ましながら、こうだな、こうね、こう? と何度も頷いた。


「そこまで差があるとは思わんけどな」


「私にとっては、とても重要な差異だ。ヴォイドとは違う」


 音を立ててコーヒーを啜る。味の善し悪しは全く判断出来なかったが、苦く温かな液体が胃の腑に浸みて、インバネスコートに包まれた繊細な少女の肉体を、芯から優しく温める。端正な美貌に、呆けた表情を編んで、ほう、と白い息を吐く。

 この瞬間だけは、少なくともリーンズィの気分は爽快だった。

 不滅であることを約束された、永遠の生命に疲れ果てた肉体に、これほど晴れやかな感情は、どれぐらい生じるものなのだろうか?


 良い景色だ、とライトブラウンの髪をした少女は純粋に思う。

 静けさを湛えた空の深さと、篝火の如く燃え上がる雲。立ち並ぶ建造物の陰影が、神話の時代から投げかけられた巨人の影のようにひっそりと佇んでおり、雨上がりの夜明けは、雨垂れの音に彩られて賑やかで、それでいて普段よりもいっそうの静寂に満ちている。

 全身をしとどに濡らした不死病患者が、雨のことなど聞いたことも無いといった顔で、ふらふらと歩き回っている。路上のあちこちに水溜まりが出来ており、路上のあちらこちらで空を映し、冷たい風の御手がそよぎ、雲が流れて形を変えるのに合わせ、言祝がれた海の囁きに似た細波のごとく、穏やかに輝いている。時折凄絶な赤に染まる水鏡は、天空に座す偉大な何者かの威光に満ちた楽園への扉か、あるいは焦熱の地獄に続くおぞましい孔か。そして空の高みには点のような影、三々五々、群れて飛ぶ渡り鳥たち。南西へ飛んでいく。

 彼らはどこから来たのだろう。どこへ行くのだろう。

 この鏡像の如き時間の回廊の中に、目指すべき場所でも存在するのだろうか。


 生体脳が奇妙なほど冴えているのは、空気が冷えて、身体が引き締められるせいだろう、とリーンズィは推測する。

 翡翠色の瞳が揺れる。

 視線を彷徨わせて、見たいものを見ようとする。

 あの白髪赤目の、先輩を自称する小さなスチーム・ヘッドを探す。

 今朝はまだ、姿を見かけていない。

 不機嫌そうに、少しだけ背を丸めて歩く大人びた横顔を脳裏に描きながら、彼女がいつもそうするように、一気にコーヒーを煽ろうとした。

 熱くて噎せてしまった。コーヒーがマグカップから零れた。


「おいおい、安い飲み物じゃないんだ。そりゃ宝石をぶちまけたのと同じだ」


 口元を伝う茶色い液体は不死病の恒常性に拒絶され、体表から見る間に蒸発していく。それでも熱までも瞬時に消し去れるわけではないし、横隔膜の痙攣もすぐには治まらない。


「けほ……」少女は呻いた。「あつい……」


「覚えとけ、熱湯を飲むのはちょっとした自傷行為だ。そしてスチーム・ヘッドが自傷するのは困難だ。肉体が反射的に抵抗してしまうからな。一気飲みするのには、それなりに覚悟っていうか、専用のマインドセットが必要だ。お前みたいな、自我が確立して間もない機体には無理だ。ガキは真似しない方が良い」


「大人の真似をしたくなるのが、子供というもの……ミラーズもそう言っていた」


 快復して、リーンズィは平然と口を拭う。

 レアの正体は依然として知れないが、相当に強力なスチーム・ヘッドなのは確かで、それも非常に親切な心があるらしい。

 初めてカタストロフ・シフトを稼動させたときなどは、安否を問うメールをアルファⅡモナルキアへ何十通も送ってきたらしいし、次の日には外部からどう見えたかを纏めたレポートを紙で手渡してくれた。

 ミラーズもファデルも彼女について曖昧なことしか言わなかったが、いずれも評価は高いものだ。

 リーンズィに彼女を疑う余地は無く、事前の印象もあってレアのことを尊敬すべき人物と認識した。

 そんな彼女から立ち振る舞いを学習しようというのが、現在のリーンズィの腹積りだ。


「学習して、成長していかなければ」


 ファデル軍団長の他、マスターやレアには、リーンズィがエージェントとして完全に独立したことを伝えている。

 エージェント・リーンズィは正式登録されたようだが、まだ試験運用中の身だ。アルファⅡモナルキアとしての自我が成立しているため、問題を起こしても抹消されるような事態にはならないが、無から創造されたに等しい人格にどの程度の任務がこなせるのか、リーンズィ自身にすら疑問だった。

 それを確かめるために、軍団長たちは一定期間全てのネットワークから切断した状態で様子を見ることに決めた。

 今のところ然程の支障は出ていない。


「それにしても、レア先輩はこの苦痛に慣れているのか。大人なのだな」


「かもしれないな、自分自身を傷つけても何とも思わないやつを大人って呼ぶならな」


 やはりせんぱいは凄い人だ、と呟きながら、リーンズィは攻略拠点の風景を眺めた。それからレアを名乗る尊大なスチーム・ヘッドに、少なからず好意を抱いている自分を改めて認識する。

 大方のところ、理由は自己分析している。

 レアの背格好がミラーズに似ているせいだ。

 そのことは本人に言わないように、とミラーズに釘を刺されているが、どうであれレアのことをリーンズィは好いていた。

 レアのことを考えているだけで、荒涼とした景色も輝いて見えた。

 少女は残りのコーヒーを少しずつ飲みながら、初めての雨上がりの朝を楽しんだ。マスターもそれを知ってか、言葉を掛けてこない。

 いずれにせよ、リーンズィの気分は、非常に良かった。

 

 コーヒーを飲み終えてもレアは来なかった。心細くなってきた少女は、持ってきたウサギのぬいぐるみを抱いて、特に意味もなく弄び、ふわふわの手触りで心を慰める。


「どうする、今朝も何か食べるか? メニューはジャムと食パンの切れっ端、あとは鶏肉のスープだが」


「レアせんぱいに合わせる。そうだマスター、今日は代金を持ってきたぞ、持ってきたの」


 リーンズィはふと思い出し、革製の雑嚢からコーラの瓶を引き抜いて、テーブルに載せた。


「よく分からないが、それなりに価値があると聞いている。これで足りるか?」


「まぁレアの後輩相手に金を取る気はないがよ……おっ、まさか瓶コーラか!?」


 マスターは突如興奮し、キッチンカーの簡易厨房から離れた。

 わざわざテーブルまでやってきて瓶を持ち上げた。

 朱色の雲に、黒い液体の充填された硝子瓶を翳し、ヘルメットの下にある両目で凝視する。

 ポリ製のラベルは退色を始めていたが、コーラ瓶を抱えたシロクマの絵柄がはっきりと分かる程度に状態が良い。

 製造メーカーと思しき月のシンボルだけ鮮やかな蛍光塗料で着色されている。


「こいつはルミナス社の医療用ポーラ・コーラだ。しかも、たぶん賞味期限が切れてない! 上物ものも上物だぞ! どんな市場でも俺のコーヒー三杯分ぐらいの値段はする。朝食には足りんが」


「えっ、足りないのか?!」


 足りる流れだったのでリーンズィは戸惑った。


「適正な価格ならな。はー、こりゃ良いな。滅多にお目にかかれないやつだ。ファデルが頭を務めてる互助組合と契約したと聞いたが、さてはその報酬だな?」


「うん、そうらしい……ファデルが、何かの手付けでくれたと聞いている」


 伝聞形なのは、ヴォイドが勝手に組んだ契約だったからだ。

 意思決定の主体を無視して手続きを進めた、アルファⅡモナルキア・ヴォイドを僭称する不審で不躾なエージェントはともかく、リーンズィも、ファデルのことは信用出来ると考えている。

 間違った選択では無いはずだと、事後的には納得したが、それでもヴォイドは気にくわない。


「マスター。私はファデルやロジーから、これ一本あれば大抵何とでも交換出来ると聞いた……のだが……のだけど、もしかして、そうではない?」


「いいや、そうだよ。あいつらは正しい。俺の出すモーニングが『大抵』のうちに入らないってだけだ」


「薄々勘付いていたが、マスターの品は高級品なのだな……」


「もちろん、世界がこうなる前なら、二束三文の食事だ。だが今は飯なんて食わなくて良い。無理して食べるやつの方が稀だ。仕入れも調理も移動販売もやってるのは俺ぐらいだ。だから、人類文化継承連帯のルールに従って、商売として値段を付けるならこうなる」


 リーンズィはしょんぼりとして頷いた。特に異論は無い。

 ここ三日ほど、クヌーズオーエ解放軍の攻略拠点をうろついた結果として、消耗品ほど値が張るという事実をリーンズィは確認していた。それでも需要が高い商品、例えば弾薬や質の悪い肌着などは、一定水準で価格が安定している。そういう協定が結ばれているのだそうだ。

 しかし、それ以外はほとんど青天井だった。瑞々しい生花や、必ずしも必要でない煌びやかな服飾品。そして何らかの理由で供給がないせいで、需要がなくても相対的に貴重な商品。

 こういった物品は、大抵法外な値段で取引されている。

 それらよりも高い商品というのは、あとは不朽結晶連続体で構成された物品ぐらいしか無い。


「朝食まで含めると、もう一本ぐらい必要……?」


 ネットワークから切り離され、アカウントに接続出来ない今、クヌーズオーエで使える電子トークンでの支払いは出来ない。お小遣いとして渡されている瓶コーラは限られている。背の高い少女が尚もしょんぼりしながら雑嚢を探ろうとするのを、マスターが手で制した。


「一本で十分だ。俺も好きなんだよ、ポーラ・コーラ。いいや、誰だって大好きだ。市場に流れたら確保するのがまず難しいし、転売されていく過程で四倍ぐらいの値段につり上がることも珍しくない。ファデルの贈答品なら質も100%間違いないし、競り落としたりする手間ナシって考えると、まぁ朝食までセットで交換するのは妥当だ。最大現に値が上がったケースを想定すれば、もう一食分タダにしても良い」


「そんなに、この……コーラとかいう甘いコーヒーは人気なのか?」


「いや甘いコーヒーって何だよ。コーラはコーラだよ。生きてたころ、一回ぐらい飲んでないか?」


「生前の記憶というものが私には無い。色も黒いし、シュワシュワして甘いコーヒーではないのか?」


「だからコーラはコーラだって。コーヒーとは全然違う。炭酸で、しかも無闇に甘いのが良いんだよな。生きてた頃の味がするっていうか。俺の生きてた世界にポーラ・コーラなんて商品は無かったが。攻略拠点でははっきり言って最高級の嗜好品の一つだよ。大人気だ。お前だって飲むと懐かしく……ならないか。生前の記憶は存在しないんだったな」


 少女はこっくりと頷いた。

 リーンズィはアルファⅡモナルキアの擬似人格、エージェント・アルファⅡをコピーし、本来は備わっていない様々な要素を付け足す形で産まれた人格だ。スチーム・ヘッドとしてのバックグラウンドすらも曖昧だった。

 生きていた頃の知識など当然備わっていない。文字通り、存在しない。

 コーヒーは好んで飲むが、それもミラーズやレアの趣味を真似しているに過ぎない。嗜好品に関しては、人格として歴史の浅いリーンズィにはまだ理解できない世界だ。

 このぬいぐるみには愛着が湧き始めたが、と考えつつ、ふわふわもこもこの若干焦げたウサギを弄ぶ。これも高級品らしい。気前良くくれたウンドワート卿もやはり良い人なのでは?

 どうであれ、瓶コーラがそれほど人気なのは、実感では理解出来ない。ただ、ひたすら嬉しそうにしているマスターを見ていると、どれほど素晴らしいものとされているのかは伝わってきた。

 自然と、その瓶コーラでも支払いには足りないというマスターのモーニングセットに意識が移る。


「マスターのモーニングセットはそのレベルで、つまり瓶コーラと同じぐらいの価値がある、ということになるか? なる? 人気が無いという点を除いて」


「そうだな。一つだけアドバイスすると、その最後の方の言葉も除いた方が良いぜ」


「事実では?」リーンズィは周囲を見渡した。「レア先輩と私以外お客がいない」


「たまにいるさ。半年に一人ぐらいだが。大抵は値段聞いて引き返すけど」


「そんなに高いものをレア先輩は毎日……」


 どれほどの財力なのだろう、とリーンズィは感心する。

 瓶コーラを譲渡しに来たときのファデルも、コーラが好きなのだろう、かなり名残惜しそうにしていたが、解放軍の中心的幹部となると、これぐらいは幾らでも手に入るのか。


「毎日……? ああ、勘違いしてるな」


 マスターは簡易厨房に戻り、瓶コーラの王冠を早速指で弾き飛ばして、ヘルメットの口元から瓶を差し入れて、軽く煽った。かぁー、と満足げに息を吐く。


「この強炭酸、たまらんなぁ……。そうだな、簡単に言うと、あいつにとっての瓶コーラが、俺の移動販売所なんだよ」


「つまり?」


「あいつもたまにしか来ない」


「そういうものなのか?」リーンズィは言い直した。「……そういうものなの?」


「俺の扱ってる食材も仕入れは難しいし、クソ高い値段で売らざるを得ない。だからあいつだって胃に物を落とすのは、よっぽどタフな仕事をして、生体CPUである感染者(リアクター)にめちゃくちゃな負荷が溜まった時だけだ。任務を終えて帰還し、『勇士の館』でメンテナンスを受けて、夜が明ける前にここでメシを食い、スッキリして寝床に帰る。これがあいつ……レアの基本ルーチンだよ。ここのところは例外だ。激務続きだし……これは邪推だが、お前に会いたいというのもあるんだろう」


「そう都合良く、マスターの店と任務とのタイミングが合う?」


「俺が合わせてるのさ。あいつは常連だし、クヌーズオーエ探索でも古い付き合いだ。多少は優遇もするのさ。連絡があって、商品の在庫があったら、俺は必ずこのルートを通るようにしてる」


「そういうもの?」


「持ちつ持たれつだ」


 というか、他に常連客はいるのだろうか。

 この問いを胸にしまう程度の分別はリーンズィにも芽生えつつあった。


「……レアせんぱい、今日は遅い」


 瞳をくりくりと動かしながら、勇士の館がある方向に視線を巡らせる。

 もうすぐ完璧に朝と言って良い時間帯になる。夜間行動を控えるスチーム・ヘッドたちも、疎らに寝床を這い出す頃だろう。


「そうだなぁ。お前には可哀相だが、今日はもう来ないのかもな。お前もあいつに会いたくて来てるんだろ? あいつのこと好きか?」


「分からない。可愛くて美人だとは思う」


 リーンズィは即答した。マスターは、そうか、と微妙な返事をした。


「日が昇ってから来る可能性は?」目を凝らし、前方に影が見えないか努力しながら、リーンズィが問いかける。「お昼からゆっくり来るのでは?」


「そりゃ無いな。あいつは、まぁお前には気軽に外見を晒してるが、本当は注目されるのが大の苦手で……」


「……私のいないところで私のプライベートは話をするのは感心しないわね」


 背後から気怠そうなレアの声がした。

 いつも急に現れるが、普段とは真逆の方向だ。

 リーンズィは飛び上がって席を立ち、潔癖そうな顔に、人なつこい笑みを浮かべた。


「レアせんぱい!」


 それから、不安げな声を出した。


「どうかしたのか? ……どうかしたの?」


「……その二回繰り返す言い方やめなさい。今朝はイライラしてるの」


 棘のある言葉のあと、充血した赤い目がぎょろりとマスターを捉えた。


「コーヒー」


「おい、お前、大丈夫なのか、それ」


 マスターも鼻白んだ様子だった。


「耳が聞こえなくなった? 聞こえないのね」


 レアが吐き捨てる。


「コーヒー! 聞こえた?」


 何もかもがおかしかった。

 リーンズィとマスターが訝しんで視線を交している間に、いつもはリーンズィの正面に座るレアが、今日ばかりはライトブラウンの髪の少女と肩を並べるようにして、わざわざ腰を下ろした。殆ど密着するような距離感にリーンズィは身じろぎする。

 布の向こう側にある体熱まではっきり知覚出来る。

 だが、同時に胸に去来するのは不安な感情だ。熱病に浮かされたように小刻みに震える小さな体。

 漂っている甘い香りは嗅がなくとも分かるほど濃厚だ。

 いずれも不死病患者としては不吉な兆候である。


「まだ聞こえないの? コーヒー! 四度目を言わせたら首刎ねて、出来の悪いヘルメットを……蹴っ飛ばすわよ」


 怒鳴り声にも覇気が無い。マスターは怯えると言うよりは、ようやく発見された遭難者に水を用意してやる救急隊員のような迅速さで、コーヒーをマグカップに注ぎ始めた。普段なら悪態の一つも返しているところだが、マスターもそれどころではないと判断したらしい。

 それほどまでにレアは憔悴していた。

 永遠に朽ちぬことを約束された不死病患者だというのに、目の下には濃い隈が刻まれ、白髪赤目という、ある種神秘的な雰囲気さえ纏っている年若い美貌が、すっかり台無しになってしまっている。呼吸は絶え絶えで、フライトジャケット風ミリタリードレスの露出した首筋は汗でぐっしょりと濡れ、リーンズィが一瞬だけ視界に捉えた限りでは、ブーツの淵が赤く滲んで、湯気を立てていた。

 服の下で出血しているのだ。

 生命管制に不具合が出て、血尿等が止められなくなっている証拠だ。


「レアせんぱい……?」


 控えめな声で尋ねるリーンズィに、レアは体を押し当てて、見つめているのか睨み付けているのか判断が付かない調子で顔を覗き込んできた。

 ごく短い付き合いでしかないが、現在のレアが異常なのは明白だ。

 疵の無い紅玉のごとき燃える赤目は、リーンズィにある連想をさせた。

 飢えた獣じみた輝きだ。


「何?」


「何ではなく……」いつになく顔が近いので、リーンズィは少しどぎまぎした。「具合が悪そうに見える」


「悪いわよ。ええ、とびきり悪いわ」


「レア、今日はもう一日、完全に休んだらどうだ? ここのところ根を詰めすぎだ」


 マスターが取り置きのウサギレリーフ入りマグカップをテーブルに置くと、白髪赤目の少女は乱暴にそれをひったくって、あっという間に飲み干してしまった。

 唖然とする二人を尻目に、肩で息をしながら「コーヒー」と繰り返す。「早くして」


「ああ、いくらでも注いでやる。でもお前、おかしいぞ。今日は休め。悪いことは言わん」


「休むわよ。ええ、そりゃ休むわよ。これから休むのよ、見て分からない?」がりがり、と頭を搔く。「寝ないで目標のクヌーズオーエに張り付いてたのよ。一晩中ね!」


「レアせんぱいは幹部だと聞いている。何でも出来る人なのだと。それなのに、そんなに苦しくなる任務が?」


「何が幹部よ。何でも出来る?! 冗談じゃないわ! 知ってるのよ、知ってるのよ! 私を馬鹿にして! 能なしだって思ってるくせに。そうよ、私には全部が難しいの! でも、あなたに私の何が分かるの?! 何を分かってくれるの……?!」


 レアは駄々っ子めいて大声を出し、懇願するような顔でリーンズィの素肌の腕に縋り付いてきた。

 リーンズィはただただ、対応に困った。レアは小さな体を反らし、呆としながらライトブラウンの髪の少女に視線を注いでいた。

 それから我に返り、体を離して、軽く息を整えて、何度か頭を振り、気まずそうにリーンズィから目を逸らした。

 汗に濡れた髪が、紅潮した頬にはらりと張り付いた。


「昨日は……ヘカトンケイルから提供された統計から、『首斬り兎』の使いそうなルートを幾つか割り出して、迷彩を完全稼動させた状態で、一晩張り込んでたの。成果無しだから、何もしてなかったのと同じよ……情けないったら……」


「あの雨の中でか?」


 マスターは呆れ声を出して、新しく注いだコーヒーを置いた。


「いくらお前でも、変動する環境で何時間も完全迷彩を保つのは無茶だ」


「値打ちが無いの! 値打ちが無いの、私には。これくらいしないと……いらないって言われてしまうわ」コーヒーを一気に煽り、咳き込みながらマグカップをテーブルに叩き付ける。「コーヒー!」


「その前に胃に物を入れろ。被害妄想が強くなりすぎだ、お前は良くやってる」


「あなたの言葉なんていらないわよ……!」


「俺だけじゃない。皆言ってるさ。お前は良くやってる。ちょっとは気分を落ち着けろ」


 マスターは歩み寄り、レアの背中を強く叩いた。


「ほら、お前の好物だろ。疲れてるだろうと思って奮発して用意した。奢りだ。たんと食え」


 たっぷりと苺ジャムの塗りつけられた食パンの切れ端は、朝の弱い光の中で宝石のようにきらきらと輝いていた。レアの瞳と同じ色の輝き。

 レアはマスターを見た。

 そして視線を落とした。

 躊躇いがちに口に運び、苦労して喉の奥に押し込む。


「味がしないわ」レアは呻いた。「……折角のジャムなのに」


「口にジャムが付いてる」


 リーンズィがレアの頬に手を添えた。幽かに少女の熱い体が震え、じろりとリーンズィを睨めつけたが、手を払うことはしない。


「……放っておけば分解されるわ」


 返事をせず、ライトブラウンの髪の少女は心配そうな顔のまま身を屈め、レアの肩に手を当て、ミラーズがするようにして、レアの頬に付いたジャムをなめ取った。


「ん……」レアがくすぐったそうにした。「リーンズィ……?」


「うわ、何してるんだ?」


 マスターが動揺していた。


「……? スヴィトスラーフ聖歌隊ではこのようにするのが常識だと聞いている」


 不思議そうな顔をしたのはリーンズィの方だ。

 驚いて硬直しているマスターと、目を潤ませて沈黙しているレアを交互に見る。


「常識では無い……?」


「あー、レーゲント特有のな……待て、それはもう常識じゃない。あのマザー・キジールとかいうやつから教わったんだろうが、今はおおっぴらにそういうことをやるのは控えようということになってるんだ。分かるか。親しい間柄で、しかも人目に付かない場所でしかやらないんだ」


「私とレアせんぱいは、親しい間柄では?」リーンズィは不服そうに尋ねた。「マスターしかいないから人目もないと言える」


「だから俺は人目だよ! 俺とお前は親しくないし、人目がないとは言えないって!」


「リーンズィ」


 不意に、白髪の少女、レアが消え入りそうな声を出した。


「これから、時間ある?」


 探るように、リーンズィの腕に手指を絡めてくる。

 リーンズィは不可解そうに白髪の少女を見つめた。

 紅玉の瞳は霞がかっていて、朝の光を取り込んで燃え上がるようだった。


「時間は、あまりない。コルトから市街地調査の研修を受ける予定だ」


 コルトの名前が出た瞬間に、如何にも不愉快そうな熱がレアの顔貌を横切った。

 あるいは躊躇、逡巡の類だったのかも知れない。しかしそれも激情の渦に飲まれて消えた。

 レアはフライトジャケットの胸でリーンズィ腕を抱え込むようにしてさらに身を近づけ、首を抱き寄せ、息が掛かる位置にまで顔を近付けた。


「その前に、その前に……少しだけでも、時間が取れない?」


「お、おい……落ち着け、レア、落ち着け」


 狼狽したマスターが声を潜め、どうしたものかとぎこちない身振りをする。


「自分が何してるか分かってるか?」


 赤目の少女には何も聞こえていないようだった。

 あどけない美貌を熱に任せて、ただリーンズィにだけ視線を注いでいる。


「レアせんぱい?」翡翠色の瞳は、煌々と輝く紅の瞳に吸い寄せられて離せない。「何を?」


「ねぇ、ねぇ。リーンズィ……一緒に、めちゃくちゃになっちゃおう」


 これはマズい、とマスターが口走った。


「待て待て、レア、正気に……!」


「――あら、ここがリーンズィがお気に入りの、例の移動販売所かしら」


 穏やかな、それでいて場の空気を鋭く打つような。

 誰しもが意識を集中せざるを得ない、美しい声がした。


 出し抜けにリーンズィの意識はレアから引き剥がされ、そちらへと向けられた。

 勲章のような装飾をあちこちにぶら下げた、丈の合っていない行進聖詠服。

 天使の和毛のような緩やかな癖のある金髪。退廃と超然が組み合わさった、未完成ながらも完璧な美貌の少女。慈母を想起させる甘やかな微笑に、冷たい氷雪の欠片を取り込んだような翠の瞳が彩りを添える。


「ロジーのいる勇士の館の帰りしなに寄ってみたら、思わぬ場面に出くわしたものね。リーンズィ、おはようございます。お邪魔だったかしら?」


「……っ! 誰?!」


 ライトブラウンの髪の少女を見つめていたレアが忌々しげに眉を潜め、突き刺すような殺伐とした視線を、その闖入者へと投げかけた。


「この子は私と話をしてる最中なんだ……け、ど……」


 そして、見る間に青ざめた。

 絶望的な悲壮感さえ漂わせながら、リーンズィを抱き寄せる手を、あえなく解いてしまった。


「……嘘でしょ。ど、どうして? どうしてこんなところに……」


「初めまして、で良いのでしょうか。そういうことにして欲しいですか? ええと……リーンズィは貴女をレア様とお呼びしているのでしたっけ。いつも話を聞いていますよ。とても頼れるせんぱいがいると。思った以上に可愛らしい人なので驚きました。まさかこんな姿をしていらっしゃるなんて。ふふ。せんぱい?」


「や、やめ……」白髪の少女は息を詰まらせて立ち上がった。「やめて……言わないで……」


「どうしたのかしら? おかしなことを言うのね、この女の子は」


 黄金の髪をした少女は密やかに笑う。頭の上に載せたベレー帽を降ろし、勲章の付いた胸に抱き、短いスカートの裾を軽く摘んで、片足をすらりと後ろに引き、洗練された所作でもう片方の足を僅かに曲げた。


「お初にお目に掛かります。私はアルファⅡモナルキアのエージェントが一人、スヴィトスラーフ聖歌隊の元大主教にして、軍団長ファデルの同盟者……エージェント・ミラーズです」


 それから、虚空に手を向けて、「こちらは、アルファⅡモナルキア統合支援AIのユイシス。そのアバターです。私と同じ外見をしているのは彼女の趣味。ふふ、私も彼女には逆らえないの。何もかも知り尽くされていて……」何も無い空間に口づけをして、レアに翡翠色の視線をぶつける。たっぷりと間を置いてから、「ああ、アルファⅡモナルキアが取得したデータは全て彼女が管理しています。私も閲覧可能なの。この言葉だけで、あなたに伝わると良いのですが」と囁くような声音で言った。


 レアは、言葉も無い。

 金髪の少女の唇が言葉を紡ぐ。

 軽やかで透明な声には、しかし、どうしようもないほど嗜虐的な色が滲んでいた。


「ふふふ。私の大切なリーンズィが、いつもお世話になっているようですね。私もお話に加えてもらえますか? 赤い目をしたウサギさん?」


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