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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-10 清廉なる導き手 その6 最終全権代理人

 リーンズィの息が浅くなる。戦闘に臨む瞬間よりも鋭敏な神経で、この前触れなく到来した終末の風景を眺め続ける。

 死灰の風が吹き荒れる。共時性でも有するかのように、同じタイミングで、高層建築物が次々に倒れ、倒れる途中で爆ぜて千切れ、千切れては散らばり、微細な粒子となって風に流され、時の流れと同じ速度で灰の雲となって吹き飛んでいく。

 そして、風が止まった瞬間に、全てが静止する。

 ただ風が吹いていないというだけなのに、無数の塵、死灰の群れが、空間に縫い止められる。

 何も理解出来ない。少女は破滅の只中で、ひたすらに混乱していた。誰が目の当たりにしても、理解など出来るはずがないにせよ。

 不朽結晶を除いて、一切はただ朽ちていく。少なくとも、経年によって朽ちるという現象は、万物に投げかけられた不変の真理だ。

 万物はいずれ色褪せ、価値を失い、枯朽する。

 だがこの滅亡の光景は疑う余地も無く異常だった。不死病患者が相手ならば、枯死したような状態にゆっくりと移行させるのは可能だ。

 だが、不死病患者だけでなく、無関係な車両や建造物まで同様の状態に誘導する技法を、リーンズィは知らない。


 第二十四攻略拠点の建造物は、当然に老朽化が進行していたことだろう。遠目にはいかにも人の息づく街らしく見えたが、どれだけスチーム・ヘッドを揃えても、使える資材は潤沢ではない様子だった。

 おそらく一棟一棟を手入れする余裕も、必要もなかった。まともに機能する建造物は『勇士の館』を初めとした数カ所に絞られるはずである。

 ほぼ全ての建造物が、最初から見た目ほど綺麗では無かった。

 しかし、どんな理由を並べても、ここまで急激に枯死が進行したことの説明にはならない。外側と内側を入れ替えたとしても、このような朽ち果てた灰に、突然成り果てるはずもない。

 全ては滅びる。真理だ。だが本来あるべき幾つかの段階が、脱落している。

 リーンズィに辛うじて立てられる仮説はこうだ。


 未知のおぞましい自然現象が、誰の目にも捉えないまま、この地を襲った。

 誰一人としてその災害から逃げられなかった。


 突拍子も無い想像だったが、妥当と思える実態は、少女の首輪に納められた知識の及ぶ範囲では、それぐらいだった。既存の科学が及ばない、未知の天災が訪れたのだ。あるいはそれを、天に座する神からの罰と表現する者もいるかもしれないが、この風景に神の名を唱えるものは一人も残されていない。

 その風景に相応しい言葉は、やはり『枯死』以外にはあり得ない。

 最後の一息とばかりに、灰の景色の片隅で、旋風が現れて荒れ狂うのが見えた。

 涙をにじませる。淵から赤く変色を始めた両目も、灰の瀑布が狂った時計の秒針の如き速度で吹き付ければ、しかと開いてはいられなかった。


 身を屈め、祈るように目を閉じて、全身に鋭くガラス片のような暴力的な冷気が衝突するのを受け止める。加速された灰は真実、刃か鑢の類じみていて、暴力的にリーンズィの肌を擦過した。

 ライトブラウンの髪を庇いながら、少女は寄る辺の無い孤児のように身を竦めた。

 皮が裂けて肉が抉られる。

 悪性変異は誘発しないまでも、痛みの苦悶の声が漏れるのを止められない。そして自分が痛みを感じていることに戸惑う。

 全身を突撃聖詠服で保護していなければ、もっと酷い傷を負っていただろう。

 殺人的な暴風を浴びて思い出すのは、走馬燈と表現するにはあまりにも拙く短い記憶の連なり。

 思い出すのは、天使のようなふわふわの髪をした、軽くて愛らしくエージェント、ミラーズのこと。想起するだけで、狂おしいほどに胸が苦しくなる。いつでも力の無い自分、リーンズィに手を差し伸べてくれた。その小さな手の暖かさが、纏う香りの甘さが、恋しくて堪らない。息遣いの愛おしさに、縋り付きたくなる。


「ミラーズ」


 ……ああ、そうだ。

 翡翠色の瞳に色彩が戻る。

 少女の唇が、愛しい名を紡ぐ。


「……ミラーズ!」


 息を吹き返す。

 あまりの事態に朦朧としていたリーンズィの意識が、現実世界へと浮上する。人工脳髄がにわかに熱を帯びた。

 この枯死した世界で、おそらくは<時の欠片に触れた者>に改編された世界で、ミラーズはどうなってしまったのだろう。

 レアやマスターのように跡形も無く崩れ去ってしまったのだろうか。

 そんなことはあってはならない、とリーンズィの血管に狂奔の熱が駆け巡る。

 この災禍が都合良くミラーズを見過ごすとは考えられない。

 だが、どうにかして救い出すことは出来ないか。

 無論、手段はある。彼女の傍らにある筈のアルファⅡモナルキアだ。


 あの機体は、どうせ無事だろう。そのことについては疑問が無い。

 リーンズィは己自身の本来の仕様について、もう殆ど思い出せないでいたが、それでも世界生命終局管制機であるアルファⅡモナルキアが如何ほどに頑強かは忘れられない。

 首輪型人工脳髄はオンラインの状態だったが、リンクの確立には失敗している。

 少なくとも生体部分は無事ではあるまい。

 だが不朽結晶連続体で構築された部分は正常なはずだ。

 直接対面するか、装着するかすれば、再起動は出来る。

 どの程度の協力を仰げるかも分からないが、あの異界から訪れた宇宙飛行士のような機体に解決不可能な事態はないという直感がある。

 試してみる価値は十分だ。

 では、猶予はどれぐらいある?

 リーンズィは意識を集中させる。灰と化したミラーズを蘇生する手段は、ユイシスのデータベースを参照できない現状では未知数だ。

 しかし、だが、それでも。

 残された手は必ずある。

 そう信じると決めた。


 次に瞼を開いたときには、きっと自分は灰色をした煙の中に立ち竦む、ちっぽけな葦になっている。異常な環境に晒されて負荷の掛かった人工脳髄では、再生能力も不全を起こすだろう。

 あちこちが擦り切れて、身体を再生出来なくて、痛くて苦しくて、泣いてしまうかも知れない。

 その状態でオーバードライブを起動することは、可能か。

 勿論、可能だ。

 実行する。反動を怖れずに起動する。

 バッテリーが切れるまでに勇士の館に帰還することは、可能か。

 勿論、可能だ。実行する。

 そう信じて、そうさせてほしいと、何者かが願った。

 鑢の如き風が吹いて、全てが崩れていく環境では、難しいかも知れない。だが風がやんだ瞬間に、駆け抜ければ良いのだ。

 全速力で、最短距離を、一直線に。


 リーンズィは考える。当然の未来を考える。この終末の世界で足掻くことの有効性について考える。

 無駄かも知れない。

 スヴィトスラーフ聖歌隊もファデルの率いるパペットの軍団も、残さず砂塵となったに違いない。

 ウンドワートやコルト少尉も、原形を留めてはいまい。

 再考する。絶対にして不滅であるべきアルファⅡモナルキアにしても、時の嵐のごときこの災禍にあっては、呆気なく機能停止に追い込まれている。

 その可能性は捨てきれない。リンクを確立出来ない以上、基本構成要素を放棄して、ただのヘルメットと蒸気甲冑に堕しているのは間違いないだろう。

 寒村で出遭った調停防疫局のエージェントであるシィー曰く、アルファⅡモナルキアは他の歴史においては起動に失敗している。それほど取り扱いが難しい機体なのだ。


 果たして自分に再起動させられるのか?

 いずれにせよ、この世界が破滅する流れを止められるだけの能力は、備わっていないのではないか?


 諦観の青白い風がリーンズィの思考をじわりと侵す。

 何もかも無駄だ。何もかも徒労だ。何をしても意味はない。リーンズィの脳髄は当然の未来予想を出力する。意味はない、未来は無い、どうしようもない。

 だが、ここで立ち竦んでいては……と誰かが囁いている。


 それが他ならぬ『リーンズィ』の名を与えられた誰かの内心の声なのだと、少女ははっきりと自覚した。

 リーンズィ。

 アルファⅡモナルキア、リーンズィ。

 唯一、自分だけの名前。

 名前を付けてくれたのは、誰だったか。


「……ミラーズだ」


 口にするだけで、心が凪いだ。

 その名前は世界の終わりに吹く暴風の最中にあっても明瞭に己に響いた。

 リーンズィは何度も、確かめるように名を呼んだ。

 意味もない。

 価値もない。

 可能性は残されていない。

 だが、ここで立ち竦んでいては、ミラーズに会えない。


「ミラーズ、ミラーズ」


 ミラーズに会いたい。どうしようもなく、会いたい。

 最後に一度だけでも、ミラーズを抱きしめたい。

 あの美しい声で囁いてほしい。

 溶け合ってしまうほど、強く、強く、抱きしめてほしい。

 あのごわごわとした行進聖詠服の、薄く柔らかい胸に抱き留められて、花水木の甘い香りと、心臓の緩やかな音色に安らいで、静かに瞼を閉じたい。

 ああ、願わくば最後に……何も言わずに部屋を飛び出したことを、謝りたい。


 調停防疫局の使命などは、全くどうでも良いものと思われた。明らかに達成不可能な任務などどうだって良いと、リーンズィは切って捨てた。

 この終末の風景に、人類への猶予など存在しない。

 未来を悲観してはならないと、遠い昔に誰かが言った。

 アルファⅡモナルキアを構成する何者かは、それを心に刻んでいる。

 しかしライトブラウンの髪の少女は現実を直視している。悲観する必要もない。もう未来など無いからだ。頭蓋に収められた生体脳をどのように調整しても無駄だ。悲観に凍えて、未来へ繋がる想像を一つも結べないままでいる。

 でも。

 それでも。

 ミラーズを諦めることだけは出来ない。


 不意に風が止まった。そして、これまでとは逆方向から強い風が吹いた。

 じっと身を伏せて、鑢の如き暴風を、再度やり過ごす。

 この破壊の風は、永久に連続する事象ではない。リーンズィは致命的な絶望のほとりで冷静に判断していた。十五秒か、十秒か、あるいは三秒にも満たないか。

 少なくともそれぐらいの間は、風が吹かない時間が続く。

 瞬きをして、呼吸をする。

 その程度には間隔がある。

 そして極限まで加速された知覚能力の中で。

 三秒という時間は、スチーム・ヘッドにとってはあまりにも長い。


 凪が訪れた瞬間に、リーンズィはオーバードライブを起動していた。

 使用可能なのは首輪型人工脳髄、隷属化デバイスのバッテリーだけだ。

 大気の状態が悪いため、腰に取り付けた補助用蒸気機関は役に立たない。

 吸排気不良を起こして停止するだけだ。

 ユイシスの管制が無い状態では、自身がどれだけの時間、どの程度の速度で可能なのか、リーンズィには分からない。

 リンクを切断されたエコーヘッドは、自分の身体活動を制御するだけで精一杯だ。

 ミラーズという前例を鑑みて。希望的観測で三〇〇〇ミリ秒。

 敵対するスチーム・ヘッドと決着をつけるには十分だが、滅び行く灰の煙の中ではあまりにも短い。


「行くしかない」リーンズィは声なき声で己を叱咤した。「ミラーズは、ここにはいない。進むしかないんだ」


 全身が蒸気を上げて再生している。

 灰を含んだ風はおそろしい勢いで生体に負荷をかけてくる。

 次の破壊の風には耐えられないだろう。

 壊れていく世界が、息継ぎを終わらせるよりも早く。走り出さなければ。


 辿り着いた先に、思い描いた景色は残されていないかも知れない。

 だが愛しい少女が微塵の煙となって消えた未来を、リーンズィは決して想像しない。

 準備はよろしいですか、とユイシスの声で幻聴がした。


「とっくに出来ている」


 目を見開いた。

 走り出そうとした。

 世界が、そこにあった。

 リーンズィは一歩を踏み出せなかった。

 彫像の如きレアとマスター。

 灰の山と化したキッチンカー。

『かたち』がそこにあった。

 建造物群も、空中に放り投げられたマグカップも。

 全てが完璧な静謐の中で、静止している。

 10ミリ秒という貴重な時間を、状況判断に費やした。

 足場にも異常は無い。全速力での走行が可能だ。

 何故ならば、()()()()()()()()()からだ。


 見えるもの全ては、やはり灰の塊である。だが、崩れていない。壊れていない。消えてしまってはいない。それらには欠けた部分がどこにも見受けられない。

 そういう意味では、世界は完全だった。地に落ちたばかりの真昼の影のように克明で、何者もその輪郭を疑うことは出来ない。一切合切が土塊である。息吹なき灰である。

 そこに魂は無く、祈りは無く、命は無い。

 だが、失われたはずの『かたち』が、灰の塵芥となって掻き消えたはずの世界が、数十秒前の光景が。 

 寸分違わぬ有様で、少女の眼前に広がっている。

 呆気に取られたリーンズィの瞳が、熱を帯びて世界を彷徨う。

 15ミリ秒経過。

 背後に、気配がある。

 振り向かずとも分かった。

 ヴァローナの瞳が、炎上する七つの眼球を持つ怪物を、少女の背後に補足している。

 自分も灰に変えるつもりなのか。問いは音にならない。


「構うものか」恐るべき超越の存在のことなど意に介さず、リーンズィは駆けだした。


 どうであれ、仕掛けるには好機だ。また風が吹いて崩れるかもしれない。

 世界が何故巻き戻ったのか考える時間が惜しい。

 希望的な観測を紡ぐ。この状態ならアルファⅡモナルキアも崩れる前の状態へと再生している可能性が高いし、路面の状態が良いので足場を気にする必要が無い。<時の欠片に触れた者>は考慮しないことにした。

 だいたい、とリーンズィは苛立つ。相手に一方的に物体を灰に変える権能があるというのなら、逆らっても意味がない。それこそ本当に無意味だ。

 それなら、リーンズィはミラーズの元に帰るのに注力するだけだ。

 一歩。また一歩。弾丸の速度で駆けるリーンズィの脚が、アスファルトの石膏像を蹴るたびに、灰の波紋が空間に広がる。

 すれ違った不死病患者の彫像がソニックブームに波打って壊れる。

 人型をしたものを崩すことに心理的抵抗はあるが、どのみち崩壊する運命にあるのだ。

 リーンズィは身勝手に割り切った。

 最優先は、ミラーズの元への帰還だ。


 そのまま走り続けた。<時の欠片に触れた者>から妨害される兆候は、意外にも検知されない。 

 何をされても自分には理解不能だろうとリーンズィは諦観し、無視を決め込んでいた。

 そのつもりだった。

 だが、あのおぞましい気配は、何が目的か、ぴったりと背後に付きまとってきて、ただそれだけなのだ。否が応でも意識せざるを得ない。

 灰に塗れて退色した景色を、必死に記憶と照合する。

 来た時と逆の道筋をひたすらに辿る。

 そうしながら、出鱈目な周波数で電波を飛ばした。


「何なのだ、君は。何が目的でこんなことをした。この世界に、何が起きている」


 八つ当たり気味な声音。付きまとってくる怪物への問いかけだ。

 返答など期待していなかったが、きぃん、という耳鳴りと共に返答があった。

 それは非言語的な電波の連なりだったが、受信した瞬間に言語として生体脳に展開された。


『我々は大多数の代替世界において<時の欠片に触れた者>と呼ばれている。活動目的の開示は、これを許可されていない。この閉鎖世界における状況を告知する。当該世界において、エントロピーは循環する。一定程度の発散が終われば、生成地点における原初の安定点へ回帰しようと、エネルギーの逆行が発生する。そのような事象が発生した、閉じた終末だ。それ故にこの世界はどの時間枝の未来にも繋がらない』


「……喋れるのか」


 無防備なところに一辺に言葉を流し込まれたので、リーンズィはぎょっとした。

 走行速度を僅かに緩めた。


『我々は喋らない。我々は君の擬似人格演算に対し、割り込みをかけているに過ぎない』


 確かに<時の欠片に触れた者>の言い回しはエージェント・アルファⅡのそれに類似していた。おそらくは言語的なゲシュタルトを相手の知覚野に転送しているだけなのだ。

 理屈は分かったが、何故だか自分自身と話しているような気がして、リーンズィは落ち着かなかった。


「何が目的で世界を……」


『この世界と我々の間に、因果関係は存在しない。自然発生した世界だ』


「しかし、私がいた世界はこうして終わってしまっている! 君たちにしか、こんなことは出来ない!」


『肯定する。だが我々とこの終末に因果関係は無い。そして、君が元いた世界は別に存在する。ここは自然に破断を迎えた可能性世界だ。君は、危険な悪性変異の兆候を示したため、この地に隔離された』


 隔離、という言葉を咀嚼するのに時間が掛かった。


「……つまり、干渉を受けているのは私だけなのか? ミラーズたちは無事なのか?」


『不明だ。おそらくは物理的な状態の変化は無いだろう。我々はただ時間枝を破壊しかねない危険分子である君をここに追放したに過ぎない』


 危険分子。思い当たる要素は一つだけだ。

<燃え落ちる街の修道者>。

 アルファⅡモナルキアから、あの史上最悪の悪性変異体の因子を転送された直後に、世界に異常が起きた。

 つまり、あの悪性変異体に反応して<時の欠片に触れた者>が動いたのではないか。

 だとしたら理解は出来る。理解出来ないのは、モナルキア本体やユイシスが、この現象を誘発するために自分にあのような操作を加えたとしか思えないことだ。

 何故こんなことを? 疑念は尽きない。

 答えてくれる分だけアルファⅡモナルキアたちよりも<時の欠片に触れた者>の方が信用できる気がしてきた。


 減速のために壁を蹴り、路地裏を転げて前に進みながら、リーンズィは次の問いを錬った。

 聞くべき事があるのは自覚している。

 だが、具体的な思考が纏まらない。走り続けるだけで処理能力は限界だった。

 ついに自分の『勇士の館』に辿り着いた。

 集合住宅じみた外観も灰の影に霞んでいて、きっとあの破壊の風が吹けば散って消えるに違いない。


「構うものか、ミラーズに会うのだ」


 リーンズィは折り畳んだ毛布のようなモサモサとした外階段を登り、今朝潜ってきた扉の、朽ち果てた灰の壁の前に立った。

 そこには、<時の欠片に触れた者>が先回りしていて、七つの眼球を爛々と燃やして、炎上する巨体で、どういうわけか扉を塞いでいた。

 気配は何故か後方から移動していない。

 だとすれば、目に見えるのは虚像か幻影の類だ。

 リーンズィは掠れた口腔で舌打ちして、臆すること無く、無理矢理その怪物をどかそうとした。

 すると、その姿は掻き消えた。


 少女の手はすんなりとドアノブを掴んだ。

 奇妙な触感に、寸時、怯んだ。

 砂の塊でも掴んだかのような。

 見れば、ドアノブが砕けている。

 灰色の塵が、手の中でほどけて散り、空中で停止した。

 扉を開く方法が無くなった。


 リーンズィの動きが完全に止まった。思考能力がショックで消滅していた。

 オーバードライブのせいで握力の調整が効いていない、というわけではない。

 想像が及んでいなかった。

 枯死して痩せさらばえた世界で、ドアノブの形をした灰など、力を加えれば容易に崩れる。

 見上げるような高速建築物でさえ、たかが風を浴びただけで呆気なく崩壊していく。

 全速力で昇ってきた階段を振り返れば、そこには菓子職人がゴミ箱に捨てた飴細工のような奇怪な塊が横たわっているに過ぎない。

 下方では舞い上がった塵と灰、砕かれた道路の破片が、自分が走ってきた経路に沿って隆起しているのが見える。

 通常の十数倍の速度で、真っ直ぐに『勇士の館』を目指した。

 だから、この灰と崩壊の世界がどれほど脆弱なのか、理解していなかった。


 明白なのは、どのように扱っても、ドアノブを掴むことは出来なかったと言うことだ。踏みしめてきた道路が陥没しなかったのは、それらが重厚な灰の積層体であり、また一瞬の接触で反発力を得ることが出来たからだ。

 大前提として、この灰の世界では、元々容積や質量があるものでなければ、物理的に干渉不可能なのだ。

 文字通り、手が届く場所に帰る家があると言うのに、入ることが許されていない。


 リーンズィは後退りしながら、怖気と戦って道筋を探す。

 混乱した少女の意識では、どこにも進むべき場所は見つけられない。

 ユイシスがいれば進入経路を示してくれるのだろうか。助けてくれない統合支援AIなんて知るものか、とリーンズィは拗ねた気持ちで彼女のことを頭から追い出した。

 そもそも声さえ届かない。

 その事実に思い当たり、赤く変色を始めたリーンズィの瞳がじわりと涙でにじむ。


 分からない。分からない。分からない。自分の頭で考える時間が惜しい。皮肉なことに、意思疎通らしきものが可能なのは、背後から圧力をかけてくる<時の欠片に触れた者>ぐらいしかいない。

 拙い思考で希望を紡ぎ、目をぎゅっと瞑って少女は座り込んだ。

 それから自分自身を強く抱きしめた。

 意を決して問いかける。


「き、君は……私を追放したと言った。クヌーズオーエを<修道者>の暴威から遠ざけるために、私を移動させた。私の認識は正しいだろうか」


『肯定する。あの悪性変異体を許容できる時間枝は極めて少ない。我々はクヌーズオーエ外縁の時間枝の剪定を未だ決定していない。それ故に、我々は君をこの地へ移動させた』


 この世界で、自分が出来ることは無い。

 もう、何一つ、無い。

 ならば、この怪物に直接懇願するしか無い。


「それは偽られた反応だ! 私は変異なんて起こしていない! 追放なんて必要ないんだ。元の世界に返してほしい。私をミラーズたちがいた、私の世界へ! どうか、元の世界へ返して……!」


『我々は抗議を受け付けない』


 返答は即座で、冷淡だった。


『我々は、この時間節の安全の確保という問題につき、最も蓋然性の高い未来を選択する。これは我々の総体としての判断であり、決定であり、無謬である。履行された処置は、取り消されない』


「だから、違う! そんなことをしたって、意味はない、意味はないんだ。だって、私はまだ……」


 リーンズィは捨てられた猫のような、打ち据えられた犬のような、ほとんど泣きそうな気持ちで乱暴な電波を放散させた。


「まだ、何も成していない! 追放されるようなことすらしていない! まだ、何もしていない! したかったことだって、少しはある。レア先輩やマスターへのお礼だって、まだ言えていない! 先輩のやっているというお店にだって、遊びに行きたかった! あの影の塔の根元に何があるのか、知りたかった! ミラーズに……ミラーズに会いたかった! ちゃんと話し合いをして、ああ、私はもうただの、エコーヘッドで、役になんか立たないのかも知れない。それでも、最初からやり直したかったのに……!」


『肯定する。君に意味はない』


 残酷な言葉だ。

 しかし怪物は、リーンズィに打ちのめされる猶予すら与えず、続きを紡いだ。


『現時点までの観察において、追放処置は妥当性を欠くと判定が下された。我々は可能性保護のプロトロコルに基づき、君を適当かつ安全な時間枝へ帰還させる。我々は監視し、検討した結果として、そのように告知する。そのために、こうして干渉をしている』


 何を言われているのか、少女にはしばし理解出来なかった。


「帰還させる?」


『この最終処理閉鎖時空環から、君を帰還させる』


 まるで、間違えて持ってきた商品を、元の棚へ戻すとでも言うように。

 時空間を支配するその怪物は平然と言った。


『体感覚を極度に加速させている君には、知覚不能だろう。既に帰還プロセスは起動している。間もなく、近似した可能性世界へと、君は自動的に退去させられる』


「……元の世界へ戻れるのか?」


『戻れない。我々も退去先の世界まで精査はしていない。しかし元の世界では無いだろう。似た世界など天文学的に存在するのだ。元のクヌーズオーエに精密に誘導することは出来ない。ただ、この世界より安全であると保障する』


「安全。それ以外には」


『何も無い。必要が無い』


 命だけは助かるらしい、とリーンズィは乾いた笑いを笑った。

 絶望の笑いだった。

 命だけ助かって、いつわりの魂が存続しても、意味など無いのだ。

 ミラーズとは、元の世界でしか会えない。

 自分の大好きなミラーズとは。

 ミラーズだけが、この幼いエージェントの、頼る全てなのに。


「私は……私は何も出来ない? 役立たずの無能なのか? この世界でも私は必要ないのか?」


 それは問いかけと言うよりは自責であり、頭を抱えて吐き出した絶望の声だった。


「何も知らないまま、私自身に色んな実験をされて、何も出来ないままこんなところに飛ばされて、何も出来ないまま、また知らない世界に放り出される。もう二度とミラーズには会えない……」


『再度通告する。元の世界には戻せない。我々には無限に存在する近似世界の間にある微少な差異など見分けが付かない。だから、選択しない。特定が不可能だからだ』


 気付けば、燃え上がる七つの眼球が少女を見下ろしている。

 不意にヴァローナの人工脳髄から言葉が流れ込んできた。

 御使い04。楽園を捨てた者。

 翼さえ持たぬ天使たち。


『だが君は我々では無い』


 無貌の怪物は、出し抜けにそんな言葉を送信してきた。


『君には進むべき道が見えないのか? 君は私とは違う。どこにでも行けるというのに。何故そのような諦観を心に持つのか』


「……君に」リーンズィは、暗く淀んだ目でその異形を見上げた。「君に、私の何が分かる。道が見えないのか? 見えるとも。塞がれていて、どこにも繋がっていない!」


 望みを失ってライトブラウンの髪を掻き毟る少女に、怪物はあくまでも淡々と語りかける。


『我々は君を知らない。君を見るのは、初めてだ。だから君だけが君を知っている』


 感情の熱は無い。魂も、命の熱量も無い。

 だが、その言葉には寄り添うようなニュアンスが含まれていた。


『アルファⅡモナルキア・リーンズィ。この建造物の構造を君は知らないのか?』


「構造? 構造だって? 知っている! 私は今朝ここから来た。ミラーズの傍から抜け出して、ここを潜った! 扉を開けば廊下がある! 冷たくて窓がなくて、寒くて泣きたくなるような、鬱屈とした廊下だ! それをほんの少し進めば、私の、私たちの部屋だ! ミラーズがいるんだ……! こんな、灰塗れじゃ無い、綺麗な温かい部屋で……!」大鴉の少女は自棄になって、崩れて砕けてしまったドアノブを指差した。「でも私はこれを開けられない! 全部、全部終わってしまった。この扉一枚開けられない! どこにも行けないんだ。だから、どこか知らない場所に飛ばされるのに、ミラーズの顔さえ見れないまま……!」


『ならば、何故そのような悲観を心に持つのか』


 <時の欠片に触れた者>が、炎に包まれた手で外階段の手摺りを指差した。

 見る間に灰の複製物は破壊され、加速された時間の中で停止した。

 代替世界の片隅に施された、取るに足らない改編。


「……あ」


 だが、リーンズィにはそれだけで充分だった。


『これ以上の干渉は許されていない。アルファⅡモナルキア・リーンズィ、帰還プロセスの完了まで時間はない。我々は、選択しない。意味が無いからだ。未来は既に確定されている。選択する必要がない。だが君は違う。何も選んではいない。君は瞳に何を映す。どんな風景を望む』


 ライトブラウンの髪の少女の、鮮血の如く赤く変色した瞳には、もう燃え上がる七つの眼球を持つ得体の知れない存在など映っていない。

 ただ、破壊された手摺りをじっと見つめ、呆としながら立ち上がる。

 そして、扉に思い切り肩からぶつかった。

 灰の扉はあっさりと崩れた。

 突き抜けた背の高い少女の転がる体を、朽ちた床板の絨毯で柔らかく受け止めた。


「こんな……こんなことに気付かなかったのか」


 舞い上がる灰を振り払い、立ち上がる。

 破壊すれば良かったのだ。ただ軽く、思い切ってぶつかるだけで良かったのだ。

 諦観が心を支配して、ヴァローナの瞳を曇らせていた。

 見たいものしか見えない。見ようとしなければ見えない……。


 振り返るともう<時の欠片に触れた者>の姿は消えていた。

 壊せば良い、というヒントをくれたあの怪物はどこにもいない。

 何が目的だったのかリーンズィには測りかねたが、ミラーズならきっと「お礼をしなさい」と諭すだろう。

 だからまた、出鱈目な周波数で言葉を飛ばした。


「ありがとう、いつかどこかの、知らない誰か」


 リーンズィは廊下を歩み出した。

 帰還プロセスが何時終わるのか、何を以て帰る世界が確定するのかは、分からない。

 だがヴァローナの瞳は幽かに徴を捉えていた。

 五つの色しか無い形而上の虹色の波動が、廊下の灰を融かしつつある。

 その光はまさしく己の内側から放射されているのだ。

 階段に繋がっている場所とは真逆の通路にある、突き当たりの部屋。オーバードライブを減速しながらドアを突き破ると、アルファⅡモナルキアが灰の塊となって部屋の入り口付近に散らばっているのが目に入った。ただしヘルメットと左腕の鍵盤付きガントレット、そして棺のような重外燃機関だけは無事だ。

 この全てが朽ちていく世界においてすら、やはりアルファⅡモナルキアは恒常性を保つことが出来るようだが、生体部分が重量に耐えきれず崩落したらしい。

 自分はどんな実験をされたのだろう。体内に因子を埋め込むというのは、そもそもどこに埋め込んでいたのだ。ミラーズ以外が触ってはいけない場所ではあるまいか。色々な鬱屈に突き動かされて、蹴り飛ばしてやりたくなったが、時間が無いし、仮にも自分自身だ。

 あと、じかに蹴ると自分の方が怪我をしそうだったので、リーンズィはとりあえず後回しにした。


 薄膜を破るように、カーテンを開くように、そっと、静かに寝室へと入り込む。

 そこにミラーズはいた。ベッドに腰掛けている。灰の彫像と化して、高貴でありながらも退廃的な美色のある顔貌を、不安げに曇らせている。両足が壊れていた。膝の上に、リーンズィが忘れていった不朽結晶の手甲を置いていたせいだ。

 リーンズィがこの部屋に帰ってくるのを、ずっと待っていてくれたのだ。


 ミラーズ。リーンズィは名を呼ぼうとした。愛しい名前を。

 だがオーバードライブを起動したままでは、声が空気を震わせることは無い。

 リーンズィの意識は、この安全な時間を捨てることを選択した。

 どうなるのかは不明だった。<時の欠片に触れた者>の時空間への大規模な干渉について、明確な観測記録をリーンズィは持たない。全ては未知の領域だ。

 通常の身体速度に戻った瞬間、知らない場所で目覚めるのかも知れない。

 それでも、最後に名前を呼びたい。

 その肌に、一瞬だけでも、触れていたい。


「ミラーズ……ミラーズ!」


 指が触れる。

 その瞬間に、世界に色彩が戻った。


「リーンズィ?」と金色の髪をした少女は驚いたように声を上げた。


 やがてその退廃と聖性とを併せ持つ不思議な美貌が綻んで、純粋な歓喜の色に染まった。


「リーンズィ……ああ、リーンズィ!」


「ミラーズ! ミラー……あ……う、あっ……」


 心臓が止まったような違和感にリーンズィは目を瞬かせた。

 全身からどっと汗が噴き出して、急に呼吸が荒くなった。

 見当識が失われ、立っているのが難しくなる。倒れ込みそうになった少女の体を、手甲を膝の上から慌ててどかせて生身のミラーズが、優しく抱き留めた。

 だが体格に相応の差がある。二人でベッドに倒れ込み、インバネスコートの胸に押し潰されたミラーズは「むぎゅ」とくすぐったそうな声を出した。

 そしてそのまま、小さな手指をリーンズィの頬に添えて、撫で回した。


「私は……帰ってこられた……のか?」


「大丈夫ですか、リーンズィ。きっと、きっと怖い思いをしたのでしょう。ごめんなさい、私もアルファⅡやユイシスを止められなかったのです。まだ意思決定の主体がエージェント・アルファⅡに設定されていたから。本当に、本当にあなたが無事で良かった」


「ぶ、無事なの、か? ミラーズ……ミラーズ、ミラーズ! 良かった……また、会うことが出来た。君と話せた……」少女は涙目で咳き込んだ。「ミラーズ。酷い世界を……酷い景色を見てきた。みんな朽ちていた。花も木も街も、人も……君も。ミラーズ。君は私の知っているミラーズなのか?」


 震えながらリーンズィは身を起こす。潔癖そうな少女の美貌は、疲弊と疑心の無表情に固まって、深紅に変色した瞳からは血のように涙が零れていた。

 ゆるく波打つ金髪をした少女は、リーンズィを抱き寄せて、指先で涙の熱を拭った。

 そして軽く口づけをして、二人の何もかもを確かめ合うように抱擁した。


「……私はあなたの知っているミラーズでしょう?」


 微笑むミラーズに、リーンズィは嗚咽しながら覆い被さり、もう一度だけ唇を重ねた。灰になった彼女の姿が脳裏を過ぎり、壊れ物でも扱うかのようにそっと抱きしめた。背中をさすられながら、花水木の香りを吸い込んで、震える声で囁く。


「良かった。無事で、良かった。ミラーズ。……君だけを目指して帰ってきたんだ。ミラーズ。君がいなければ、私は帰ってこられなかったんだ。私自身が帰る場所を望まないと、帰れなかったんだ……」


「興味深い話だ。詳しい報告を聞きたい」


 背後で男の声がした。

 リーンズィは全身から熱が引いたのを感じた。

 一瞬で本物の無表情になり、ミラーズから体を離して、並んでベッドに腰掛ける。

 アルファⅡモナルキアが、科学博物館から迷い出た宇宙飛行士の亡霊のような異様な雰囲気を放って寝室の入り口に立っていた。

 二連二対の不朽結晶製レンズを納めた黒いバイザーの鏡面世界には、上気した顔のまま、困ったようにアルファⅡを見るミラーズと、平静な顔色で、いかにも不機嫌そうに眉根を顰めたリーンズィが映っている。精巧な美しい人形が肩を寄せ合っているかのような光景。


 思い立って、リーンズィはブーツの紐を緩め始めた。

 そして目前の機体に対して、澄んだ声で言葉を投げかける。


「私はアルファⅡモナルキア、エージェント・アルファⅡ、リーンズィだ。意思決定の主体は私のはず。君は、私では無い。誰の許可を得て発言している、アルファⅡモナルキア。いや、何と呼ぶべきか」


「ヴォイドだ。私がそう名付けた」


「そうか。リーンズィではないのか? 私も君もリーンズィだったはずだが」


 丁寧に、丁寧に、落ち着いてブーツを脱ぐ。


「君は新しいエージェントとして正式に認定された。リーンズィは、ミラーズから君へ与えられた名称だ。私には使えない。以後、私はヴォイドとして活動する。私と君の差異は、今回の試行で確定した。そして、君の能力は、君、リーンズィにしか備わっておらず、行使が出来ない。名実ともに君は独立した機体となったのだ。ひとまずは帰還を、そして君の完成を祝福しよう。最も新しいアルファⅡモナルキア……アルファⅡモナルキア・リーンズィ」


「そうか」


 大鴉の少女は、脱いだブーツを思い切りヘルメットの兵士に向かって投げた。

 兵士は避けることも防御することもなかった。

 黒い鏡面世界いっぱいにブーツが広がって、すぐに、がつん、と準不朽素材の重く硬い爪先がヘルメットを打ち付けた。


『攻撃が命中しました』とユイシスの無機質なアナウンス。


「なるほど。攻撃が有効な状態なのか。私と君……両方とも私だが、どうやらある程度同等の権限を有しているらしい。あとユイシス、他人事のようだが、君も彼の共犯者だと思う」


『否定します。当機は反対の立場を表明していましたが、機能上制止が不可能な立場だったため、やむを得ず協力していたにすぎません。美少女を異空間に追放する計画に賛成する理由がありません』


「だが、必要性はあったわけだ」


 背の高い少女は、素足をぶらぶらとさせながら吐き捨てた。

 排出された水分や血尿の類が足を伝って床に落ち、煙を上げて消える。


『肯定。その必要性がありました』


 ユイシスは嘲るような声音で応じた。

 愉快な喋り方では無かったが、随分と久しぶりにユイシスの声を聞いたような気がして安心したのも事実だ。

 リーンズィは溜息だけ返した。

 しかし、ミラーズは剣呑の雰囲気を深刻に受け止めて、どうしたものか悩んでいる様子だった。


「あのね、リーンズィ、気持ちは分かるけど、ヴォイドだって色々と考えて……」


「大丈夫。これ以上はしない」


 リーンズィはミラーズに微笑み、立ち上がった。

 素足で踏むカーペットの床は心地よい。

 灰の世界の不確かさとは大違いだ。

 アルファⅡモナルキアと相対し、自分よりも背の高い、巨躯の兵士を、リーンズィは怯まず睨めつけた。


「これだけで済ませるのは、ミラーズの気持ちを考慮してだ、ヴォイド。意思決定の主体であるべき私を無視して、危険な実験を強行した君について、私には報告を要求する権利がある」


「要求する権利は無い」


 ヘルメットの兵士、今やリーンズィとは別の機体となったヴォイドは言った。


「サブエージェント、エコーヘッド・リーンズィ。君は自分の立場を理解していない」


「意思決定の主体は、あくまでも君だというのだな」


「そうではない。君にあるのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「……何を言っている」少女は潔癖そうな美貌を戸惑いに曇らせる。「アルファⅡモナルキアの正式な装備を身につけているのはそちらだ。意思決定の最終的な権限は君に存在しているはずだ」


 ヘルメットの兵士はしばし沈黙した。


「情報を共有しよう、アルファⅡモナルキア・リーンズィ。君の認識を修正する。確かにアルファⅡモナルキアの装備を所有してるのは私だ。使用権も私に存在する。エコーヘッドである君も私の所有物だ。そして私は――()()()()()()()調()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 今度はリーンズィが沈黙する羽目になった。


「……待ってほしい。君の言では、私はサブエージェントなのだろう。君の下位に位置する……」


「そうだ。サブエージェントとして、立場を留保される存在として、ありとあらゆる権限で身分を固定した」ヘルメットの兵士は頷いた。「その君に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。アルファⅡモナルキア・リーンズィとは、調停防疫局の方針とは()()()()()()()、私の意思決定を()()()()()()()エージェントだ」


 黒い鏡面世界で、ライトブラウンの髪の少女は、理解しがたいと言った顔でヘルメットの兵士を見つめていた。

 これまではヘルメットの兵士こそが異邦から迷い込んだ場違いな存在だと思えていたのに、ガンメタリックの世界の外に位置するはずの自分こそが、致命的な阻害に晒されている。

 ヴォイドを名乗るアルファⅡモナルキアの内側を覗くことは出来ない。

 暗い光に満たされたバイザーの向こう側、世界の外側にいるのは、今やリーンズィ自身だった。


「奇妙なことを言っているぞ。カーボン・コピーでしか無いサブエージェントに全権を再委託するのか……? 自分で何を言っているのか分かるか、ヴォイド(わたし)


「君はコピーなどではない。私とは歴然と異なる個体だ。無断での人格操作や身体改造、記憶の編纂については、非を認める。話し合いをする余裕も無かった。私には、君を外部化するまで独自に発言する権限すら無かったからだ」


「そんなこと……権限は常に君にあった」


「権限は任務遂行を前提としてアクティベートされるものだ。任務達成が不可能であると確定した状況で、調停防疫局のエージェントは自発的に活動出来ない。私は<時の欠片に触れた者>と最初に接触した際、この分岐宇宙の詳細情報の提供を受けた。精査した結果、調停防疫局のエージェントが活動する余地は存在しないと結論した。だがエージェントとして、無意味だと分かっていたとしても、活動を止めることは出来ない。その程度の意地はあると、私はそう望んだ。それが私の全てだった」


 少女はヘルメットの兵士の言葉に首を傾げる。


「でも、私は明確に朽ち果てた世界を走り抜けて、ここに帰ってきた。君にも同じことが出来るはずだ……」


「それこそが君の特性なのだ。君が現状への最後の一手なのだ。規則に縛られず活動可能な不正規工作員。私には、例えば誰かにそれほど強い愛着感情を抱いて、そのために活動するような行為は赦されていない。君にはそれが可能だ。君こそが、私が、アルファⅡモナルキアが、任務達成条件の全喪失による自己連続性消滅を回避するために作成したエコーヘッド……調停防疫局の最新にして最後のエージェント」


 それこそが、『アルファⅡモナルキア・リーンズィ』だった。

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