2-10 清廉なる導き手 その5 カタストロフ・シフト
泣き言半分、事実報告半分と言った大鴉の少女の独白をひとしきり聞いたレアは、うんうん、と深刻そうな顔で頷いた。
「……ということなんだ。レアせんぱ……先輩?」
言いながら、リーンズィは首を傾げた。
せんぱい。なかなか馴染みのない響きだ。
気持ちとして、発音がしにくい。
「せんぱいはどう思う?」
「せんぱい……せんぱいですって! 聞いたマスター?」
「そんなにはしゃぐなよ、みっともないぞ」
「こんなのはしゃぐわよ。うう、わたしにもついに後輩が出来たんだ……」
あまりにも嬉しそうなので、リーンズィも少しだけ気分が和らいだ。
「……レアお姉さんと呼んだほうが嬉しいか?」と清明な声で問いかける。
「えっお姉ちゃん?!」
「お姉ちゃんではないが」
「あー……あー、ダメ。それはダメ」レアはすっかり赤面し、薄く汗まで浮かべながら首を振った。「わたしには刺激が強すぎるわ。今はまだ、せんぱい呼びで良いから」
「まだって、お前、後々お姉ちゃん呼びに変えさせる気なのかよ」
「何よ。良いでしょ良いでしょ。わたし、一番末の機体でね……本当はもっと量産型とか産まれるはずだったんだから……ああ、お姉さんぶれるって最高! 無条件で存在を承認されるってなんて気持ちが良いのかしら!」
マスターは終始呆れていたが、白髪の少女は意に介した様子も無く、頬を赤らめたまま陶然としていた。
リーンズィは首を傾げた。
せんぱいと呼ばれるのがそんなに良いことなのだろうか。
お姉さん、というのもよく分からない。見た目上はリーンズィ、即ちヴァローナの方が大人びているため、仮に姉とした場合、レアは年下の姉という論理的にあり得ない存在になる。
しかし大概の機体は自分よりも年上なので別に不自然では無いのだな、などとリーンズィはぼんやりと考えた。
肉体の外観があてにならないのがスチーム・ヘッドの奇妙なところだ。
それだけに姉や兄と慕われると嬉しがる機体が結構いるのかもしれない、と心の中のメモ帳に所見を書き連ねる。
「まぁ、それはそれね。リーンズィの状態についてはわたしにも考察が出来ると思う」
レアはすぐ平静に戻った。
白く小さな指先を顎先に当てて思索に耽るその横顔は、幼い見た目からは想像も付かないほど理知的で、いかにも年長者らしい貫禄が備わっている。端的に言って美しかった。
大鴉の少女は鼓動が早まるのを感じた。見た目にそぐわない落ち着いた部分があるという点が、どこかミラーズを想起させる。リーンズィはこの白髪の小柄な少女に親しみを覚えつつあった。
つい先ほどの、あの棘のある態度でさえ、純粋に戦闘用スチーム・ヘッドとしての心得を教授するためだったと本気で信じ始めていた。
「リーンズィ、あなた、見捨てられたとかそういうのじゃないわよ。これはぜったいね」
「でも事実、リンクが切断されていて……」
「それは仕様なの。その首輪型の人工脳髄、隷属化デバイスでしょ。これは断定できるけど、あなたはそれのスタンドアロンモードで稼動しているわ。スレイヴユニットを完全に独立した個体として稼動させるための機能ね。この攻略拠点で言うと、コルトなんかもSCAR本体から独立して活動するとき、よく使ってる。というか仕事の時以外はコルトはだいたいスタンドアロンね」
「そういうものなのか?」リーンズィは翡翠色の瞳を丸くした。「しかし、私の思考の大部分は本体側で演算されているはずで……」
「初期の段階では、そうでしょうね。色々な優先権も本体側に備わってるわ。でも考えてみて。例えばオーバードライブに突入するときの思考まで、本体側で演算してるわけじゃないでしょ?」
考えてもみなかった指摘に、ライトブラウンの髪の少女はきょとんとした。
「……そうなのか?」
「聞きなさい、聞きなさい。自分の仕様を把握しておかないと、いつか痛い目を見るわよ。オーバードライブ時の演算まで肩代わりするというのは、まぁ、出来ないことは無いわ。メディア入り人工脳髄を何個も積んでるなら機体に限った話だけど」
「特殊仕様機限定の曲芸だわな」とマスター。「お前らなら出来るだろうが」
「わたしたちは格が違うのよねー、格が」
「否定はしないがよ。確かに別格だ」
「そうでしょうそうでしょう? もっと普段から誉めても良いのよ」
誉められると機嫌が良くなるタイプなのだろう。レアはフライトジャケットの下にある愛らしい胸を如何にも得意げに張った。
ただ、それも一瞬で褪めた様子だった。
「でも、そんなのは確かに曲芸の類ね。実戦で多用する技法じゃない。負荷が大きくなりすぎるし、何よりオーバードライブ中の戦闘では、僅かな通信タイムラグだって怖いんだから。ワンテンポ遅れたオーバードライブ随伴機なんて足手まといよりもっと酷いもの。それなら、個性の確立が進んだスレイブユニットを、一個の人工脳髄と見做して、独立させた方が、総合的にはパフォーマンスは上がるわよね。もちろん幾つかの権限を与えないといけないから、日常では意に沿わない行動を取るようになるでしょうね。だけど戦闘では遙かに有用になるわけだから、単独でオーバードライブさせて、後はそれぞれ同期するだけで良いの。そういう処理は、大局を見据えれば選択としては自然なのじゃ……」咳払いを一つ。「……選択としては自然なのよ」
リーンズィは黙考しながら、スープを啜り、そして首をまた傾げた。
「しかし、それでは私がコピーのようではないか。私はアルファⅡモナルキアから送信されていた人格の、その残響だけを首輪に記録された、エコーヘッドになっている……そういうことなるのでは……」
「え? そうね。たぶんそうだと思うけど?」
「私は、やっぱりコピー?」
動揺したリーンズィを宥めるように、レアが身を乗り出して、机の上に膝をついた。
手を伸ばし、つ、と指先を這わせて、無遠慮にリーンズィの口元から首筋までを撫で、首輪型人工脳髄に触れた。
ぴくり、と震えた首筋が僅かに赤らんだのを見て、白髪の少女は愉快そうにする。
「自覚が無かった? 仕方ないわ、仕方ないわ。隷属化デバイスは本来そういう代物だもの。敵の人工脳髄からデータを引き抜いて、コピーして、情報を吐かせて、あとは適当な行動指示を与えて、敵陣に帰還させて暴れさせる。これが本当の使い方。その過程で相手の擬似人格演算にエラーが噛んだら面倒だもの。まぁ仲間や子機を増やすのにも使うわ。簡易なバックアップ・システムとしての用途も想定されてるわね」
「つまり、アルファⅡモナルキアから転写された人格を、隷属化デバイスに記録したのが、私……」
「十中八九そうでしょうね。活動していて、何か変わったことはなかった? たとえばとても気分が昂ぶっているとき、自己連続性が曖昧になったとか、そういう体験。エコーヘッドは擬似人格演算が高負荷になった瞬間を狙って作るのが定石なんだけど。拷問しながら転写を進めるなんて事もあるわけ」
「それは……」首筋を撫でられてこそばゆいが、リーンズィ懸命には記憶を探った。「……たとえば無理矢理エコーヘッド・システムを立ち上げようとするとどうなる? 私が本来持っているべき知識と、実際の知識の間に、齟齬が出て、人格が破綻するのでは?」
「そこは逐一データリンクをやってれば幾らでも繕える。でも一時的な人格の崩壊は現れるでしょうね。顕著なのは情動失禁とか、世界がお終いになった、みたいな錯覚に襲われたりとか。身に覚えは無い?」
「……ある」
思い返せば、ウンドワートとの戦いや、城門前の遣り取りで、何度か異様な感覚に襲われた記憶があるのだ。
あの時、アルファⅡモナルキアの本体側から一方的にエコーヘッド化の指令が下されていた仮定すれば、急激に自我が不安定になったことに説明が付く。
ずず、とスープを啜る。
おいしいかどうかはまだ分からないが、少なくとも体が温まるのは心地よい。
歯ごたえのある鶏肉やとろとろに煮込まれたニンジンの甘みも、少しずつ理解出来るようになっていた。
「……つまり、私はとっくに本体から切り離されていたと言うことだな。全く気付かなかった。認知機能をロックされていたのだろう。意思決定の主体である私を無視して……」
「悲観しない、悲観しない。通常の処理が適応されてないのは確からしいわね。でも指摘されれば解除される程度の緩いやつなんて、ロックというには甘すぎるわ。本格的なやつは音すら認識出来なくなるんだもの」
リーンズィは唸った。言われてみれば、否定は出来ない。
例えば、アルファⅡモナルキアに危害を及ぼそうとしたときのミラーズがそうだ。
認知機能を厳密にロックされているなら、設定に反した行動を取ろうとすれば、直前の記憶ごと思考を書き換えられてしまうはずだ。
「分かるわよね? 本来なら疑問も持てないのがロックの怖いところよ。だから、『知らない間にエコーヘッド化されてた』っていう事実をあなたに看破して貰うのが目的……とわたしは見るわね。あ、スープ無くなった? おいしかった? マスター、わたしのマグカップにココア注いで、この子に渡して」
「ココアぁ? お前その新入りにどれだけ奢る気なんだ? 先輩呼ばわりされてそんなに嬉しいのか?」
「人類文化、人類文化。デザートには甘い物飲まないとね。後輩と妹にはいくらでも教えてあげないといけないし、あといくら可愛がっても法律違反にはならないのよ」
ふふん、と上機嫌に白髪の少女は笑う。赤い瞳に優しい光を湛えて、マスターから回ってきた湯気を立てるマグカップをリーンズィに手渡した。マグカップには刃物を持った可愛らしいウサギの剣呑なレリーフが彫られており、レアの美的センスが伺われた。
「可愛いマグカップだ」
ミラーズが喜びそうだ、と漠然とイメージしながら、賞賛の言葉を作る。
「可愛い?! 本当に?! これ自慢の一品なの。上手にレリーフが出来たやつなの! やっぱり分かってるわね、リーンズィは! ココア全部飲んで良いからね!」
「全部はいらないが……ん、おいしい」リーンズィは自然と微笑んだ。「甘い物は味が分かる」
「ココアの香りのせいね。不死病患者の体臭って大抵は甘いから、それで落ち着くんだと思う。うん、顔色が随分良くなってきた。それで、わたしの推測を話したいんだけど、聞ける?」
「聞かせて欲しい、レアせんぱい」リーンズィはマグカップで手を温めながら頷いた。「私の能力では限界があるのだ。先達であるせんぱいの意見が聞きたい」
「うんうん。もっともっと頼りなさい」とレアは満足げだ。「おそらくだけど、あなたは何か新機能の実験か、そうじゃなかったら、特殊なエコーヘッドを製作する試行の、最終プロセスに使われてる」
「だが私は許可を出していないし、他者を使っての人体実験は違法だ」
「アルファⅡモナルキアも、リーンズィ後輩も、基本は同じ個性なのよね。区分上で同一人物。なら同意も告知も必要ない。倫理規定にも抵触しないはず。だって自分自身への施術なんだから、そんなのいちいち自分自身に許可を取る意味はないわ。たぶん自害に類する行為は禁止されてるけど、でも自分に悪性変異体への変化を促す弾丸を打ち込むのだって、セーフなんでしょ? そういうことが実際に出来るんだから」
リーンズィはハッとした。確かにウンドワートと戦闘になったときそのような試みを行ったが、特別な認可を得るための処理はしていない。
「どうであれ私は私だから、無許可でどのような操作を加えても問題にならないのか」
「そういうことね」
「しかしレアせんぱいは事情通だな……私はウンドワートとの戦闘について、誰にも具体的な内容を話していないのだが。彼に対してそういう戦術を用いたのは本当だが」
「え゛っ」レアが呻いた。あからさまに視線を彷徨わせながら、「わっ……わたしはぁ……ほら……幹部だから? 色々な情報ルートがね? あの……あったりなかったり……う、ウンドワートとかいう暴力大好きなやつに酷い目に遭わされた……って言うのも……聞いたり聞いてなかったり……」
「ウンドワートには顔面を肘でパンチされたりした。痛かったし怖かった。ミラーズにも酷いことを言った。とても口では言えないような酷いことだ」
「そっ、そうなのね……困ったやつねそのウンドワートとか言うやつは……わたしもあいつは本当に最悪だし強い以外何にも良いところ無いし早く死んだら良いのにって思うわ……」
頷きながら、リーンズィは怒りの記憶を思い出そうとしたが、しかし以前ほどの悪感情が無いことに気付いた。
色んな機体からウンドワートを擁護するような言葉を聞いたせいだろうか。
「ただ……ずっと手加減をされていたような気もするのだ。彼を慕う声も沢山聞いたし……根は悪い機体では無いのだと思う。あれもスチーム・ヘッドとしての教育的指導だったのかもしれない」
「っ……」レアは複雑そうな顔をした。「手加減……手加減ね……そうね……」
「彼ともいずれちゃんとした交流を持ちたいものだ。同じアルファシリーズのスチーム・ヘッドなのだから、情報も交換したい。別れ際にはこのぬいるぐるみもくれたし」机の脇においたウサギのぬいぐるみを撫でる。「鮫が歯で噛むことしか出来ないように、殺し合うことでしか相手を知れないのかもしれない」
白髪赤目の少女は曖昧に笑いながら「そ、そうね……」とリーンズィを直視せず何度も頷いていた。
「でも、暴力は良くなかったし、わ、わたしからも言って聞かせておくわ」
「もしかすると知り合いなのか? そうか、顛末を彼から直接聞いたのだな」
「うん……知り合いと言えばそう……かしら……聞いたと言えば、そうかも……」
レアを凝視していたマスターが、睨み付けられて、さっと視線を逸らした。
「は、話を戻しましょう。そう、行き違いというのはどこにでも起こるものよ。直接話せば解決することだって沢山あるわ」
「よく言うなお前……」マスターがぼそりと言ったので、レアが無言で威嚇した。
「レアせんぱい? どうかしたのか?」
「何でも無いわ。そうね、いっそのことその首輪をオンラインモードにして、直接ことの経緯を聞けば良いんじゃないかしら。全然大したことの無い連絡ミスで、今はオフラインでちゃんと動くか実験してるだけなのかも」
「でも私に無断で行う理由が分からない」
「あなたがミラーズちゃんを古参の娘たちに寝取られてショックを受けているときに、アルファⅡモナルキアとミラーズだけで取り決めしてたんじゃ無いの?」
「ねとら……?」謎の単語に大鴉の少女は首を傾げた。「理解しないが、一理ある意見だ」
「リーンズィ。あなたたちアルファⅡモナルキアには、群体っていうか、ちゃんとした仲間がいるのよね」レアは小さな体をもっと小さくして、自嘲するように囁いた。「仲間は大切にしないとダメよ。強くて役に立つのが一番だけど、強くも役にも立たなくなったら、そういう機体はそこで終わり。クヌーズオーエでの戦いはずっと続くんだもの。仲良く出来ない機体が本物の弱者なの」
「そういうものか?」
「そういうものよ」」
レアは黎明の空、灯が強まり始めた彼方を指差した。
「あれが見える? あの暗い塔が」
翡翠色の瞳に映るのは、世界を真っ二つに分断するような、長い、とても長い塔だ。リーンズィはその異様な物体の存在に気付かなかった自分自身に困惑した。
あまりにも巨大なため、リーンズィは特有の空の色彩なのだと誤認していたほどだ。
「見える。重要な施設なのか」
「重要も何も、あれが諸悪の根源って言えばいいのかしら。ダークタワー。クヌーズオーエの中心部に屹立してると推測されてるの。わたしたちは、あれに近付くためずっとずっと戦い続けてる」
「正常な形での進展はないがね」
食器を片付けながらマスターが会話に加わった。
「まぁ、あれのおかげで資源には困らない。ほどほどに探索に参加しながら、無限に組み替えられる回廊世界でダラダラして、遺留品を物色してるやつが大半だ」
「待って待って。ピクニックじゃないんだから、気軽そうな印象を吹き込まないでくれる? 攻略拠点は安全だけど、あっちはれっきとした危険地帯なんだから。際限なく追加され続ける不死病患者、密集する悪性変異体、<時の欠片に触れた者>に王立渉猟騎士団……そしてダークタワーの冒涜的な信奉者ども、タワーズ。他のことを気にしながら戦う余裕なんて無い」
赤い瞳が、真っ直ぐにリーンズィを射貫いた。
「だから個人的な問題は、今、この場で解決しなさい。即断即決は基本。それができないならいつか不本意な形で壊されることになるわよ」
「……問題を解決する?」
「そう。迷わない、迷わない。首輪をオンラインにして、自分の本体に直接時事上を問い質すの。それぐらいの決然とした姿勢で臨まないと、今後の戦いは苦しくなると思うわ。守ってくれる強い人も勿論いる。それしか出来ないって言うどうしようもない機体がね。でも、いつだって守ってくれるわけでも、毎回ちゃんと間に合うわけでもないんだから……」
言葉の最後の方は少し声が小さくて、意気消沈した様子だったが、リーンズィは深く考えなかった。
言われるがま、首輪型人工脳髄のモード切替を行った。
そして呼びかける。
「……こちらアルファⅡモナルキア、エージェント・リーンズィ」
『あっ、リーンズィだわ!』と無線の向こうでミラーズが声を上げた。『心配しましたよ。何をしても起きてくれないし、ちっとも反応してくれないし。おまけに、私が目が覚めたらどこにもいないんですもの。勝手にいなくなってはいけません。大事な話があったんですよ?』
「う……」
やはり自分の早とちりだったのだ。
羞恥に襲われて、少女は両足をもじもじとさせて、ブーツの爪先を擦りあわせた。
「それは……あの……」
『だが却って都合が問い』
無機質な男の声がした。
リーンズィには、聞いた覚えがある。
背筋がさっと冷たくなった。
『こちらアルファⅡモナルキア。エージェント・アルファⅡだ』
「違う! アルファⅡは私だ」
『同意する、君は紛れもなくエージェント・アルファⅡの複製人格、リーンズィだ。自力でオンラインモード切替を選択したと言うことは、君は自我を完全に確立させたと推測できる。その機能は不完全なエコーヘッドでは起動出来ない』
『ちょ、ちょっと、いきなりすぎるんじゃないの! まずは事情を説明して……』
「やはり私をエコーヘッド化していたのだな……!」
語気を荒げたリーンズィをレアが「リラックス、リラックス」と宥めて聞かせた。
素直に頷いて、少女は問いかける。
「とにかく説明してほしい。私に一体何を……」
『これより最終動作テストを開始する。テストが完了したとき、君は名実ともにエージェントとして完成する。エージェントとしての正式登録は、それまで保留となる』
通話もそこそこに、首輪型人工脳髄に圧縮データが送られてきた。
しかも勝手に解凍された。
内容を確認する前に、体が熱感に襲われた。
「何だこのデータは……!? あ、悪性変異体?! 悪性変異体の変異因子?!」
短い添付メッセージには、『体内に仕込んだ菌株の活動を活性化させた』とある。いつ仕込んだ? 機能停止しているとき? あるいは……もっと以前に?
リーンズィは蒼白になって席を立った。
レアは怪訝そうだ。
「え、どうしたの、いきなり。何か言われた?」
「本体から変異を促す因子を送信されている! 名称は……<燃え落ちる街の修道者>?! 何を考えているんだ!? 私ごとクヌーズオーエを滅ぼすつもりなのか!?」
「ふうん。聞いたことないカースド・リザレクターね。どういう性質なの?」
「最悪の存在だ! 発現したら、ただのスチーム・ヘッドでは戦闘にもならない! 都市規模での凍結処理が必要なんだ。私の本体は、私を殺戮兵器に変えるつもりなのか!?」
「確かに変異の数値は上がってるけど……」
赤い目をぱちぱちと瞬きさせながらレアは首を傾げた。
「実際の変異は全然進んでないわね」
無線機の向こうで男が告げる。『不活化したデータだ。実際に変異する可能性は極めて低い』
「何故このような危険度の高い因子を! ここには私以外のスチーム・ヘッドもいるんだぞ!」
「落ち着いて落ち着いて」
激昂するリーンズィに対して、レアの方はむしろ冷静さを維持していた。
「一時的に擬陽性の反応が出るやつでしょ? ターゲットマーカーとかにも使うものよ。そんなに心配するようなデータじゃないはずよ」
「万が一の可能性もある! 二人を巻き込みたくない!」少女は焦っていた。「時間がない、私はここから離脱しないと……」
『健闘を祈る』
他人事のような自分自身に「私は君なんだぞ!?」と言い返しながら、リーンズィは慌ててマグカップをレアの傍へと放り投げ、脱兎の如くキッチンカーから遠ざかった。
ふと、お礼を言わないと行けない、という意識が生まれた。
レアせんぱい、美味しい朝食をありがとう! マスターも……
声は、しかし出なかった。
時間が止まったような違和感。
空気が凍り付いたような。
そして炎上する七つの眼球が、リーンズィと名付けられた少女を見下ろしているのに気付いた。
<時の欠片に触れた者>だ。
それが、触れれば手が当たりそうな位置に、唐突に出現した。
リーンズィは息を呑んだ。
心臓が早鐘の如く音を立てる。
リーンズィに認識可能なのは炎上する七つの眼球だけだったが、それが永久に消えない炎に包まれているコート姿の男であること、二本の脚で立っているということは、非言語的なイメージによって朧気に掴むことが出来た。
絶対にして不朽の悪性変異体。
時空間を組み替え、世界を蹂躙し、接ぎ木だらけの回廊を作り上げた超常の怪物。
それが何故ここに? 私に何の用がある?
リーンズィは思考を停止して、自分を見下ろしてくるその七つの目玉を見上げた。
<時の欠片に触れた者>が少女を見た。
見られた、と少女は感じた。
不意に眩暈がした。
見当識を失い、少女はふらついて瞼を閉じた。
大地震にでも襲われたかのように足場が覚束ない。
裏腹に心理は平静だった。
以前のように取り乱すこともない。リーンズィの擬似人格演算はあくまでも凪いでいた。
ただ静かに、直感していた。
終わった、と。
何が終わったというのだ? と他ならぬリーンズィ自身が問いかける。
だが、それは既に承知していた。震える肉体は、ベッドの下の怪物に怯える子供に似ている。
けたたましい鼓動で訴えている。
世界が、終わった。
リーンズィの目は、未だどんな風景も捉えていない。ライトブラウンの髪の少女は、ほんの一時、<時の欠片に触れた者>の前で、眩暈に目を閉じただけだ。
世界が終わったという、その奇妙な確信を補強するどんな要素も、リーンズィの中には無い。
だから、頭に浮かんだ言葉は、結局は脈絡の無い思いつきだ。錯覚やノイズと切って捨てることも可能だろう。
だが、リーンズィは、アルファⅡモナルキアは、魂なき肉体から湧き上がる、そうした理屈の付かない恐怖の感情を、決して無視しない。
スチーム・ヘッドが取得する感覚で最も重要なのが、不死病患者からもたらされる非論理的な感覚だからだ。肉体の理論上生命を脅かされる可能性が無い不死病患者の肉体が、この不滅の千年王国で能動的に発信する危機感。それはどんなセンサーよりも信頼出来る。
危機が迫っている。リーンズィはどうにか膝をつくことだけは避けた。
頼りない少女の肉体、己自身を抱き竦め、深く息をした。
背中でも蹴られたような感覚がした。
不意に眩暈が止まった。
リーンズィは翡翠色の瞳を開く。
痛みを覚え、すぐ目を顰めた。
視界の様相が先ほどと異なるのは歴然としていた。
白かった。
有り体に言えば、眩惑が発生しているのだ。
いつのまにか日が昇ったのだろうか。明順応が完了するのを待って、改めて眼球を空へ向けた。
予想した通り、黎明の紺碧は何処かに消え去った後で、世界は昼の時間帯を迎えているようだった。
ただ、その昼の光には見覚えが無い。
怖気を覚えるような光、熔融したあと冷えて固まった鋳鉄の鬱屈とした陽光を照り返すが如き一面の鈍色、曰く言い難い違和感を呼ぶ輝ける奇妙な色彩に満たされていた。
昼だと解釈したのも間違いかも知れないと、すぐに気付いた。太陽がどこにも見当たらない。代わりに、輝く帯状の発光体が、小刻みに揺れながら空を高速で移動している。
「これがクヌーズオーエの標準的な昼なのか……?」
<時の欠片に触れた者>は姿を消していた。
何が起きているのか理解が及ばないが、リーンズィは考え得る最大の脅威が去ってくれたことに一つ息を吐いた。本体から押し付けられた謎のデータのことを思い出し、自己診断を実行したが、悪性変異体の因子は急速に分解されつつあった。レアせんぱいの指摘通り、肉体が変異を起こすような予徴は一つも無い。
リーンズィは改めて安堵し、少しずつ息を落ち着かせていく。
周囲を見渡す。
見覚えのある影はまだそこにいた。
レアとマスターだ。先ほどと全く同じ位置にいる。こうした急激な時間帯変動はクヌーズオーエではよくあることなのだろうか。
脈打つ心臓を抑えながら、問いかける。
「レア先輩、マスター。君たちにも見えただろうか? 今、そこに<時の欠片に触れた者>が……」
返事は無かった。
そこには、誰もいなかった。
命あるものは、存在しなかった。
鈍色をした朧気な光の中で、リーンズィは少女の顔貌を混乱と絶望に強張らせた。
それは、灰の山だった。
人間の形をしてはいる。だが人間ではない。
灰で作られた人形。レアとマスターを象った死灰の彫像、犠牲者に沿って作られた火砕流の空白へ灰を注ぎ込んだが如き、等身大のデスマスクとでも表現すべき異物。
細胞という細胞、繊維という繊維を灰に置換された、かつて衣服を着た人間だった死灰の柱。
数億年という歳月を掛けて河川が削り出した不毛の地形じみた無彩色の朽ちた彫像であり、灰に朽ちた街に、女の金切り声のような音がする不吉な風が吹くたび、彼女たちの輪郭は身もだえするように波打って、霧に煙る海沿いの街に立つ塩の柱めいて、ぽろぽろと僅かずつ崩れ落ちていく。
本当にレアとマスターなのかは、もはや判然としない。だが、レア先輩と呼ばれて頬を染めていたあの白髪赤目のスチーム・ヘッドに関しては、かなりの確度でその成れの果てだと判断出来た。レアの彫像の傍らに浮遊物があったからだ。
マグカップだ。<沈む街の修道者>の因子が起動する寸前にリーンズィが投げ出したものだと推定できた。やはり灰の塊に置き換えられていたが、その表面には刃物を持ったデフォルメされた兎のレリーフが、薄らと見て取れる。間違いなくレアから借り受けたマグカップだった。
灰だらけの地面には、まだ辿り着いていない。
ほころぶように崩壊しながら、空中をゆっくりと、微睡むような早さで極めてゆっくりと下降している。
風が止むと、レアたちの崩壊もマグカップの下降も、同時に停止した。
リーンズィは、浅く息をしながら己の両手を見た。自身もこのように崩壊しつつあるのではないかと危惧したが、特に変化はない。
灰に埋め尽くされた世界では、染み一つ無い白い肌がむしろ異様に思えたが、そうではない。
「しっかりしろ、リーンズィ。アルファⅡモナルキア。エージェントアルファⅡ……」
少女はぎゅっと目を瞑って、早口で自分に言い聞かせた。
「大丈夫、何があっても大丈夫……」
風が吹く。目を開く。状況は変わらない。
レアたちの崩壊が再開したという点では悪化している。
無風状態では静止し、そして僅かでも衝撃を受けると壊れていくようだった。レアもマスターも、どうすればこの状態から再生させられるのか、リーンズィには想像が付かない。
不死病患者が突如としてこのような状態に追い込まれる理由も思いつかない。
場違いな異物のように、不朽結晶連続体で構築されていたマスターのヘルメットが、首ごと灰のアスファルトへ落下した。リーンズィは悲鳴を上げそうになる。何とか助けられないかと方法を探すが、そもそも状況が理解出来ない。理解出来ないなら、何も出来ない。
でも、何かあるはずだ。何か。何か……。
観察しているうちに、致命的な事実を見落としていたことに気付いた。
「あ……違う、これは、違う……」
視線は、緩慢な落下を続けるマグカップに定まる。
「不死病患者だけじゃない……」
少女は青ざめて、鮮やかな茶色い髪を灰色の風の中に揺らした。
そうあってほしいと願いながら……紺碧の冷たくも優しい光に包まれた景色を思い描きながら。
街を振り仰いだ。
全てが灰と化していた。歪な高層建築物の群れも、立ち並ぶ街灯も、放浪していた不死病患者たちも、ロングキャットグッドナイトが去った後も路上で遊んでいた猫も、区別も容赦も無く燃え尽きていた。何もかもが意味も名も持たない無価値な灰の粒へと零落していた。
目に見える全てが朽ち果てていた。否、とリーンズィは直感する。おそらくこの現象は地平線の彼方、世界の端にまで及んでいる。その想像を肯定するように、両目が急速に熱されていく。脳裏にははっきりと、果てまでを灰に変換された地獄が描かれている。
ヴァローナの瞳に宿っているという『見たいものが見える』という異能には、アルファⅡモナルキアやウンドワートが使用する未来予測演算と似た部分がある。
観測可能な環境から意識の外にあるべき事象を補完し、予測するのだ。
「何が……<時の欠片に触れた者>は皆をどうしたんだ!?」
朽ちた世界で唯一色彩を持つことを許された少女は悲鳴を上げていた。
呼応するかのように強く風が吹き、レアとマスターの残骸が急速に崩壊を始めた。発作的に風から二人を庇おうとしたが、無意味だった。風の流れを塞ぐことなど出来はしない。背中で風を受け止めても、目の前で二人の姿が呆気なく崩れていく。レ
アが自慢していたマグカップがとうとう地面に落ちて破裂してただの煙になった。
リーンズィは灰の川が流れる地べたへと膝をつき、這いつくばり、吹き流されていく灰を、必死にかき集めて、二人の彫像へ返そうとした。
しかし一粒も指に留めることは適わない。
何もかもが徒労だった。何もかもが指先を擦り抜けていく。
出来ることなど何一つ無い。
リーンズィは助けを求めて視線を彷徨わせた。例えばロングキャットグッドナイトのような祝福に満ちた救い主を求めた。
そして無意味だと悟った。
世界に朽ちていない場所など残されていなかった。
標識も街灯も、もう燃え尽きた後の灰になって、風のせいでぐずぐずに崩れていた。崩れた状態で、しかし風が止んでいる時間が地表に墜落するまでの猶予となり、空間に対して縫い止められている。空中に飛び上がっていた猫もやはり奇妙な灰の塊となり、地面で砕けている。
建造物という建造物が、溶けたように歪んでいる。風の中に揺れる砂の塔のようでいて、もはや大地に屹立していた頃の面影を思い出せない程だった。
彼方に見えていた『暗い塔』は永久にその形を残すかと思われたが、それも含めて悉くがその形を忘れ、風に吹かれるまま灰を散らして移ろい、影を落とすように長く長く尾を引いている。風の音色は末期的な肺病患者の呼吸音に似ていて、その濁った音が通り抜けるたび目に映る灰の塔の群れの輪郭が揺れ、鈍く光る光の波となって、少しずつ吹き散らされていく。
確かであると信じられるものは、リーンズィの使用する肉体以外には何も無かった。
少女は灰の風から顔を背け、甘い香りのする己の腕の肌で目鼻を庇った。そして薄目を開けて世界の有様を改めて観察した。頬を撫でる程度の弱い風が吹くだけで、一秒前の姿を保障されているべき世界が輪郭ごと崩壊していく。マスターもレアも既に相当に崩壊が進んでおり、直前までの姿を記憶していなければ、もうそれが人間であったことさえ分からない。
三輪バギーもキッチンカーも、錆びるよりも早くうずたかく積もった死灰の塊に置換され、取り残された蒸気機関だけが忘れ去られた墓標のように埋もれている。
生命、文化、風景。
命と飛べるもの全てが終わりを迎えていた。
世界は、終わってしまっていた。




