2-10 清廉なる導き手 その3 こちら移動式モーニングセット提供所
手探りで通路の突き当たりに辿り着いて、少女は指先で触れたドアノブの冷たさに小さく声を漏らした。そのとき、ようやく自分が手甲を身につけていないことに気付いた。
格闘戦の要となる大事な装甲部品だ。
取り乱して、首輪の側面を撫でて、それから胸に掻き抱いたウサギのぬいぐるみの香りを嗅いだ。
焦げた中にも、不死病患者によって丁寧に扱われた品物特有の、甘い芳香が芳しい。その香りに埋もれて荒れた息を落ち着けた。
ミラーズに優しく抱擁された記憶が蘇り、心臓が鈍く震え、熱くなる。
勇士の館の廊下にも窓はあるが大半は鎧戸が下ろされている。振り返れども振り返れども、待ち受けていたのは部屋の窓辺で見た景色よりもずっと深い沈黙の黒。過ぎてきた曲がり角の奥に目深に帽子を被った背の高い男の影が過ぎったような気がして身を強ばらせる。男は帽子の下にある蒼く燃える眼球でリーンズィを見ていた。蒼く燃える眼球は七つあり、手には炎上する球状世界の模型が握られていた。
「げ、幻覚、幻覚だっ」と少女は上ずった声で唱えた。
ぎゅっとぬいぐるみを抱いて、繰り返す。
「だいたい、この照度では身体強化したスチーム・ヘッドでも視界を確保出来ない……! 論理的に考えて、見えるはずが無い、だからそんなものは、存在しないっ」
目を瞬かせると、やはり男などどこにも存在しない。
何も見えない。何も。見えるモノは一つも無い。
リーンズィ自身が看破した通り、廊下は煙る暗闇の深度に揺らぎ、己のブーツの足先さえも覚束ない。
異様な存在がなくとも、この世界はリーンズィに非友好的だった。
極度の緊張が、常ならぬ異常な知覚体験をさせているのだろう。リーンズィは肋骨の奥で激しく脈打つ心臓を、服の上からぐっと押さえつけて、分析の真似事をして、意識を変性の状態から引き戻そうと努める。通常ならばユイシスが施す精神外科的心身適応によってノイズとして切除されてしまう情報だ。
加工されていない抜き身の生理的恐怖に、リーンズィは適応出来ないままでいた。不朽結晶製の聖詠服は、朽ちる定めにある万事を拒絶する。刃も、銃弾も、血も肉も。
しかし心まで硬く鎧ってくれる道具ではない。
窒息しそうな夜闇を意識すればするほど、押し潰さるような感覚が身震いを誘う。逃げることも進むことも出来ない。引き返そうにも自分の部屋の位置に自信が持てない。
帰り着いたとして、ミラーズやアルファⅡモナルキアに、仲間として受け止めてもらえるか、自信が持てない。
そうした判断にすら当然、根拠は無い。
漠然とした恐怖感、見放されたのだという絶望感には証となるものは無い。
真実、この暗闇で、リーンズィには何のしるべも無い。
それだから、ぞっとするようなドアノブの手触りだけが確かだった。
冷え込んだ感触はきっと、館の外側から漏れてきた世界の輪郭だった。
手の中に世界はある。少なくとも、その切れ端は掴んでいる。
少女は決心をして、ノブを捻り、押し開いた。
目の奥がぱっと華やいだ。
ドアの向こうには、糸を辿るような幽かな薄明がある。
最初に翡翠色の瞳へ光を入れたのは、あまねく黎明に淡く白ばんだ空だ。聳え立つ家々、ちぐはぐに改築された摩天楼どもに切り取られた空は地上のことなど一度も気にしたことが無いといった具合に澄んでいて、羊か兎のような形をした柔らかな雲が、温かな火を孕んで、優しい輝きを放っている。
リーンズィは胸いっぱいに空気を吸い、深く、深く息を吐いた。
湖畔に浮かぶ溺死体じみた真っ白な顔に、僅かに赤味が差した。
細い息を背後に引きながら歩む少女の影法師。かつん、と無骨なブーツが外階段のフロアを鳴らす。補強に補強を重ねられて随分と歪な外観をしていたが、崩落する心配は無さそうだった。どの床面を見ても無数の爪先に擦られて磨り減っていた。ただ、幾つかの段は最近に再塗装を施されたらしく奇妙なほど新しく見えた。
手摺りの向こうには、紺碧色をした沈黙の降りた大通りがある。
ずっと背後で、外に出るとき使ったドアが独りでに閉まった。鉄扉を振り返ったのは数秒のこと。かつん、かつんと、不朽結晶製の鋼板を仕込まれたブーツが、小気味のよい足音で階段を刻む。少女はライトブラウンの髪を風に任せながら、手摺りに素手を滑らせて、ゆっくりと館の下へと降りていく。
タングステン合金弾さえ徹さない突撃聖詠服も、冷厳な空気を完全に遮ることまでは出来ない。体を湿らせていた汗が結露して、露出した腕の柔肌には朝露が降りる。体感気温はどうしようもなく下がっていた。それでも視界の明るさと眺望の良さにリーンズィの気分は若干の和らぎを得た。
階段の最後まで、ついに誰にも出遭わなかった。
ふらふらと大通りに出た。息を押し殺した青黒い光の静けさ。平等の天秤を頂く女神の盲目の眼差しが、あまねく全ての上に注いでいる。目に映る一切合切が霧に包まれたかのように仄暗く、得体の知れぬ影のように見えた。無数に設置された街灯は一つも点灯していない。逍遙する人影は疎らで、大半は不死病患者だった。管理外なのかそのように設定されているのかは分からない。陳腐な映画のゾンビさながらに、漫然と、のたりのたりと歩みを進める様は、しかしリーンズィとそう大差ないように思えた。私にも彼らにも魂なんてものは無いのだ、と少女は少しだけ自嘲をした。いつわりの、いつわりの魂。
どこにも向かう先なんて無い。
朧気な光の中をライトブラウンの髪の少女は歩き出した。行く当ても無かったが立ち止まっていると落ち着かない気分になった。誰にも出遭わない。あるいは、もう、あちらこちらの建造物の中では、スチーム・ヘッドたちが出陣の準備を始めているのかもしれないが、攻略拠点の夜明け時は活動を開始するには早すぎる時間のようだった。
死して蘇った、死から拒絶された、憐れな不死病患者どもが、数えるほど僅かに、無目的そうに歩いているのを見た。
街路にレーゲントが佇んでいるのが見えたので、立ち止まった。
夜警かも知れないし、自分と同じように暗い街へさまよい出た類なのかも知れなかった。
いずれにせよ、誰かと話したい気分では無かった。
レーゲントの顔かたちははっきりとは分からない。
ただ、動きに見覚えがあった。
観察していると、そのレーゲントはソプラノの声で楽しげに歌いながら、数匹の猫に纏わり付かれたり、その猫を持ち上げたり下ろしたり、猫と一緒になって転がったりして、遊んでいるようだった。
氷雪の粒子を呑んで銀灰色に煌めく濃紺の街並みを背にして少女が小動物と戯れている風景は、気鬱に塞ぐ印象派の画家が昼の冬庭で寒々とした空気を吸いながら手慰みに描いた空想の落書きのように、胸の休まるような牧歌的な色彩と、不吉なほどに場違いな印象を湛えていた。
自分も何かしようかとリーンズィは考えて、試しにウサギのぬいぐるみを挙げたり下ろしたりしてみた。特に何の感慨も無い。そうして、自分には何も無く、そして何も無いのだということに、彼女は改めて打ちのめされた。酒場で地図と有り金を盗まれたことに気付いて踊り子を眺めている以外には何も出来なくなった行商人のように途方に暮れ、その猫のレーゲントをぼんやりと眺めた。
暫くすると通りの向こうから異音が聞こえてきたので、今度はそちらに眼差しを向けた。
異音はどんどん大きく、重くなり、そのうちに整備不良の小型自動車が部品を落としながら走っているかと思わせる極めて不安定な音色になった。
暗い空に立ち上る、なお黒い煤けた煙のおかげで、蒸気機関を積んだ某かの機械が接近しているのだと理解出来た。
猫のレーゲントが全く気にせず遊び続けているので、リーンズィも特に警戒しないことに決めた。
これからどうするかを考えることの方が余程重要だった。
でも、何が近付いてくるのかは、どうしても気になる。
見えてきたのは、奇妙な車両だ。荷台のような大道具を積んでいる三輪バギーだったが、近付くにつれてフレームにあり合わせの駆動部品を詰め込んだだけの恐ろしい工作物であることが段々と分かってきた。車輪にはスチーム・パペットの何らかのリング状部品を転用しているらしく、前進する度にサイズの合わない古びたゴムタイヤがゴリゴリと石臼を回すような音が轟く。蒸気機関をエンジンにしているのだろうという予想は大凡正しかったが、中規模の蒸気機関がフレームの外側に明らかに無理矢理設置されていた。何時爆発してもおかしくない。
知識が無いまま、形だけ整えて、とりあえず動くようにした。リーンズィにはそのように思えた。とにかく意図の分からない部品が満載されていて、細部が識別出来るようになった頃には、リーンズィは困惑と興味で、考え事どころではなくなっていた。
三輪バギーの本体には潜水士めいたヘルメットのスチーム・ヘッドが跨がっていた。
彼は猫のレーゲントに手を振るなどしながら(無視されていた)、アクセルを緩めることなく近付いてきた。とは言え、恐ろしく緩慢な走行速度だ。牽いているのは荷台ではなくキッチンカーのジャンクだ。
どこに注目しても今にも爆発事故を起こしそうな恐ろしい外見だったが、移動販売をしている車だということは辛うじて判断出来た。
どのみち自分とは関係が無い、とリーンズィは興味が無い風に装いながらも、感心して、自省して、腕を組んで細い顎に指を這わせ、ふむ、と考え込んだ。
「どう考えても軍事行動の一環では無い。クヌーズオーエ解放軍というからには、スチーム・ヘッドは戦うばかりが任務だと考えていたが、そこは人類文化継承連帯に連なる組織と言うことか……。スチーム・ヘッドも商いをしているのだな。どうやら思ったよりも多彩な行き先があるらしい。いっそ彼らに紛れ込んで、普通の人間の、かつて生きていたような商い人のような真似をして、調停防疫局なんかとは関係ない仕事をしてみるのも良いのかもしれない……」
などと空想を巡らせているうちに、三輪バギーが目の前で停車した。
潜水士に似たヘルメットの販売員が「お、やっぱり噂のアルファⅡじゃないか」と陽気に声を掛けてきた。
そしてリーンズィの抱えているウサギのぬいぐるみを見て「ははぁ、なるほどなるほど」と頻りに頷いた。
リーンズィはびくりとして、それから「……私は君の考えているアルファⅡではない」と控えめな声で返事をした。
販売員は鷹揚に手を広げた。
「大丈夫だって、余計な詮索はしない。そうさ、俺の前では誰であれ、何であれ関係がないんだな。だって、それが俺の流儀だ」
「そうか」既に余計な詮索なのでは? リーンズィは訝しんだ。
「でも一つだけ確認させてくれ。その大事そうにしてるぬいぐるみはウンドワートに貰ったんだよな?」
やっぱり詮索してくる。リーンズィは不親切な人リストにこのスチーム・ヘッドを登録した。だが問いかけに応えないほど淡泊な気持ちにはなれない。
男の余裕に満ちた態度のおかげだろうか。
「……不本意ながら、そうだ」
「そうかぁー。あいつも、もうそこまで……成長したなぁ。感動的だよ。友達第一号じゃないか?」
リーンズィには何のことやら理解出来なかった。
一人で何らかの何かを分かった様子で、そのスチーム・ヘッドは三輪バギーから降りた。
そしてバギーの蒸気機関を停止させた。
どるん、どるんと名残惜しそうな音を立てて歪な車体は完全に停止した。
「うん、何故止まる?」
「良い質問だ。そう、本来このメインストリートは駐停車が禁止されている。到着して一日二日でこの攻略拠点の規則を把握してるなんて、さては優等生だな? でも俺はこの時間帯限定で営業許可を貰ってるから、どこで止めても大丈夫なんだ」
「いや、そうではなく」
何の話をしているのだ、と言いかけたが、不意に訪れた飢餓感に口を噤む。
食欲をそそる香りだ。キッチンカーから、芳醇な甘い香りがしているのだ。
リーンズィの精神は移ろいやすい。アンカーを降ろし損ねた嵐の日の貨物船のように。
販売員の言うことよりも、彼の扱う商品のほうが気になり始めていた。
意識の空白を突いて、ヘルメットの奥からくぐもった低い声が問いかけてくる。
「それであんた名前はなんて言うんだ? モナルキアは何人かいるんだろ。なんて呼べば良い?」
応えるつもりは無かったが、甘い香りに誘われて無意識に名乗っていた。
「リーンズィ」
「よろしくリーンズィ。今後とも贔屓に頼むよ。それで、紹介で買いに来てくれたのか? それともお遣いか? いやどうでもいいか。何にする? 何を買う? 久々の新規顧客だしサービスするぞ」
「いや。……さっきから何の話だ?」
「何って、だから、俺に用があってここで待ってたわけじゃないのか」
「私は君を知らない」
「あれ、そうなのか。あいつから名前聞いてない? 俺のことはマスターと呼んでくれれば良いから」
「マスター? だれの主人なんだ。私は君の部下ではないが」
「いや、店のだよ。見ての通り、店のマスターだ」
「理解しない。どこに店がある?」
「これだよ、このバギー。キッチンカー付いてるだろ? 立派な店だよ。この手塩に掛けたオンボロが俺の店さ」
販売員は三輪バギーの座席を軽く叩いた。
そして何度か咳払いした。
「口上とかあげていいか? 宣伝文句みたいなやつ。恒例のやつなんだけど」
「こんな暗い時間帯に私一人に口上を上げて意味あるのか」
「おおう、辛辣。でも俺の心は真っ昼間だよ。これ言うとき割とウキウキするし」
全く口の減らないスチーム・ヘッドだった。
この奇妙な街で移動販売店を営むにはこれぐらいの図太い神経が必要なのかも知れないし、あるいは不死病に罹患したことで箍が外れているのかも知れなかった。
「……私に君の自由を制限する権利は無い」
「それじゃあ改めて。おほんおほん! 遠かったら口コミサイトで見よ、近い人はオルガン音で察せ! これこそは攻略拠点を旅する軽食店、知っている人には知っていて欲しい感じの、隠れた名店……」
「自分で隠れた名店とか言う手合いは信用するなと教えられている」
きらきらしているからといって、素敵に思えたからと言って、感嘆に飛びついてはいけませんよ。
かつてのミラーズの言葉が脳裏に木霊する。
そのミラーズの残滓さえ胸の襞を刺激するものだから、リーンズィはふいと目を伏せた。
空のごとくにころころと変わる表情の由縁を、知ってか知らずか、販売員は良く回る舌で言葉を続ける。
「言ってくれるねぇ。アルファⅡって名前のやつは皆そうなのか? 顔に出やすいし嫌いじゃないけどな、あんたら。じゃあ知る人ぞ知る普通の店でいいよ。とにもかくにも、この名だけは覚えて帰ってくれ。この移動販売店は……全拠点で営業許可を得ているという意味では唯一の移動販売所! クヌーズオーエ公認移動式モーニングセット提供所だ!」
「モーニングセット提供所……」
リーンズィはそれまでの懊悩をコロリと忘れて、奇怪な言葉の響きに小さく首を傾げた。
「不死病患者に食事は必要ないはず」
「そうだよ。ま、ただの嗜好品だ。胃にモノを落とすのも、戦闘後ストレスの解消には役立つ。モーニングを摂りたいってやつはあんまりいないけど」
「それはまた儲からなさそうな仕事だ」
「いやー儲からないよマジで。メシ、誰も欲しがらねぇから毎日赤字だよ。金あってもあんまり意味ないけどなぁ。このオンボロをゆっくり転がして、昔やりたかった喫茶店の店主みたいなことが出来る。それが一番の報酬だよ。スチーム・ヘッドなんてそんなもんだ」
そういうものか、とリーンズィは納得した。
「思うに、ここが固定のルートなのか」
「まぁそんな感じだが……なんでそんなこと聞くんだ?」販売員は戸惑ったようだった。「まさか、知らないのか?」
「じゃあ、もしかして、あの……あそこの、ずっと遊んでいる猫のレーゲントも客だったりするのか」
「え? 猫のニンジャ?」
「ニンジャって何だ。どこから出てきた」
「現れないのがニンジャだけどな」
販売員はちらりと振り返り、薄明の薄煙で飛び跳ねているレーゲントを見た。
「あー、あいつ? ロングキャットグッドナイトか。あいつは違うよ。いつも見かけるし、たぶん昼夜問わずの通行管理官なんじゃないか? 俺も詳しくは聞いたことない。あいつ、猫を恋人にしてて、人間には全然愛想ないから知らん」
「え。うん? ロングキャット……?」リーンズィは戸惑って眉を潜めた。「いま、あの、四つぐらい英単語が聞こえたが。名前か? あの猫のレーゲントの?」
「そうだよ。ロングキャットグッドナイト。渾名だけど自称もしてる」
「ショートドッグ・バッドモーニングとかもいるのか?」
「そこまではどうだか。それにしたって、どうしたんだ、さっきからあんた、この店のこと全然知らない感じだけど。マジで知らないのか? 紹介とかそういうのじゃないのか?」
「うん。全然知らないぞ。マスターだったか。勘違いさせてしまったのなら謝罪する」リーンズィは曖昧に微笑んだ。「こうして気に掛けて話しかけて貰っているのに、申し訳ない……」
「知ってて待ってないと、こんな時間帯にこのルートには立っていられないだろ」
「本当に偶然居合わせただけだ」
販売員のスチーム・ヘッドは空を仰いで溜息をついた。
未だ目覚めぬ世界は、黎明の紺碧の澱に淀み不透明に煌めいている。
不死病患者の姿すら疎らで、軍勢が活動を開始する時間から大きく外れているのは、最早疑う余地が無い。
「偶然で歩く時間帯じゃ無いんだよな。しかもそのウサギのぬいぐるみ……ウンドワートじゃん。それ持っててこの場所、この時間帯だ。やっぱ偶然は無いよ」
「本当に偶然なんだ」リーンズィは困った。「君はやけに拘るスチーム・ヘッドだ」
「スチーム・ヘッドは拘ってなんぼだろ。うーん待て待て、やつとも長い付き合いだ。詮索はナシと言ったが喫茶店の店主なりに、俺なりに考えてみるが……喧嘩したとか、じゃないか?」
「うっ」ライトブラウンの髪の少女はぎくりとした。ミラーズたちとの一件を見透かされた気がしたのだ。懸命に取り繕って首を振る。「け、喧嘩はしてない……」
「いやいや、そのリアクションでは隠せないぜ。どうだろうな。何で喧嘩したのか。夜更け……勇士の館……あっ、もしかして拒まれたとか? いや、意外とがっつかれて抵抗してしまったとか」
「何の話だ?」何の話だ? とリーンズィは思った。
「夜明け時でも分かるぐらい暗い顔をしてるんだぜ、あんた。しかもその手、たぶん服を脱いで寝てて、慌てて部屋を出たから大事な装甲を忘れてきたせいで素肌なんだな。それを見逃すこのクヌーズオーエ公認移動式モーニングセット提供所のマスターではないぜ」
言いながら販売員はキッチンカーの側面から手製らしい朽ちた木の折りたたみ式の簡易机と椅子を取り外して、路上に設置した。それから「ささ、座りな」とリーンズィの背中を軽く叩いた。
「しかし私は一銭も持っていないんだ。君の商品を買うことは出来ない」
「初回サービスだよ。どうせ売れないしな。ならせめて顔だけでも売っておくに越したことは無い。それに俺だって泣きそうな顔の子を無視できるほど心が凍っちゃいないつもりだ」
泣きそうな顔の子って……と口ごもるリーンズィを座らせて、販売員のスチーム・ヘッドはマスターの自称らしく手早くキッチンカーの調理器具や保存具を取り扱い、保温容器から湯気の立つ食品を、小さなランチ・プレートの上にちょこんと並べて、俯きがちな少女の目前に置いた。
ひとかけらのクロワッサンは薄明かりの下でも分かるほどに温かで、甘く芳ばしい匂いがした。燻製肉の切れ端とスクランブルエッグは如何にも安上がりな代物で、モーニングと言うよりは酒場で眠ってしまった酔漢に追い出しついでに振る舞われる残飯じみていた。
だが、このクヌーズオーエでは貴重な代物に違いない。
記憶の中では、電球すら貴重なのだとファデルはぼやいていた。だから夜がこんなに暗い。
「……モーニングと言うにも貧相だ」
「量は少ないが、不死病患者は固形物をあんまり食うと吐いちまうからな。それで満腹になると思うぜ」こぽこぽこぽ、と音を立てながら、保温ポットから両手に包丁を持った剣呑なウサギが描かれたマグカップにコーヒーを注いで、プレートに寄り添わせて下ろした。「こっちは本物の豆から挽いたコーヒーだ。たぶんエメラルドなんとかっていうやつ」
「銘柄は大事な部分では?」
「クヌーズオーエは言詞汚染で言語体系が狂ってるからなぁ。パッケージの字が大体変なやつになってるから、味でしか判別出来んのよ。まずは一口飲んでくれよ」
言われるがまま、リーンズィはとりあえず食卓にウサギのぬいぐるみを机に置いた。
その愛らしい所々焦げた丸々とした玩具を眺めながら、ずず、と少女は髪を掻き上げながら、啜って、眉をしかめた。
「……にがい」
「お子様舌だな。ミルクと砂糖は無いぞ」
「大丈夫だ。これで良い」またひと舐めする。「にがいが、旨味も深い。眠気を飛ばしてくれる優しい味だ。体が芯まで暖まる。……きっと、安い商品では、無いのだろう?」
「当然だ。コーヒー豆は秘蔵の品だよ。金が払いたくなったら払ってくれ。いつかそのうちな」
「君を『幸せになりますようにリスト』に移動して登録する。ありがとう」
「俺その前にはどういうリストに登録されてたんだ……?」
リーンズィとマスターがぽつりぽつりと言葉を交していると、「あらあら、珍しいじゃない。マスターのお店にわたしの他にお客が来るなんて、何十年ぶりかしら」と声がした。
「何十年は言いすぎだろ。悪いな。あんたが来るのは分かってたが、どうにも彼女、落ち込んでるみたいでな。どうしても放っておけなくてよ。同席させても良いだろ?」
おそらくマスターは、この客をこそ待っていたのだろう。常連客というわけだ。リーンズィは招かれざる珍客だったのだ。邪魔をしてはいけないな、ライトブラウンの髪の少女は、出来るだけ大人しくしておこうと心を改めた。
「気にしない気にしない。知らない人なんて、そんなの気にしない。わたしもモーニングをわざわざ食べる、目利きで奇特で『分かってる』スチーム・ヘッドとは、話してみたいところだし。同好の士って嬉しいじゃない?」
「あんた友達いないもんな」
「一言二言多いのがあなたね。そんなだからお客が増えない。お客が増えて嬉しいでしょう。増えないのはあなたの営業の仕方が悪いせい。つまり口が悪いせいね。そろそろ口の利き方を改めたら?」
「あんたに言われたくないな。しかし今回は、俺よりもたぶんあんたのほうがもっと嬉しがるよ。喧嘩したんだろ? さ、ここで仲直りをしていけよ」
「喧嘩ぁ? 誰と誰がよ。どういうこと? もしかして、わたしの顔見知り……うえっ」
一歩引いたような、押し殺した声。
リーンズィが挨拶ぐらいはするべきかと思い直して向き直り、その少女の姿に息を呑んだ。
純白だった。可動部確保のためにあちこちを切り抜かれて、どこか色気の漂う準不朽素材性の白を基調としたフライトジャケット風のミリタリーコート。腰や肩が露出しているが、一目で不死の兵士に向けて作られた後方勤務用の軍服と分かる。
グローブには時計の歯車の上を走るウサギが刺繍されていた。
膝丈の裾の端から、初雪の白もかくやという白く細い脚が伸びて、軍用の強化ブーツに飲み込まれる。
何より目を引くのが、その顔貌だ。色素の欠落した肌にかかるプラチナの髪束、赤く燃える炎のような瞳は、闊達そうな眼窩に納められ、永遠に朽ちることのない美を焚き火の如く湛えている。年の頃は十代の半ばだろうか。
氷の塊に幽閉された、古の王国の忌まれた姫のように見えた。
名のあるスチーム・ヘッドであることは明白だった。纏っている気配が違う。雰囲気としてはレーゲントの中でもうら若い、いつわりの永遠の乙女のような、いっそ超越的な雰囲気がある。
だがレーゲントではなかった。真っ先に想起したのはコルト少尉で、人間くさい表情をしていたが、顔の造作事態は自然には生まれないほど整った細面だ。
それで、彼女がフリアエ系列のクローン体で、おそらくはそういった存在の直轄機であると知れた。
「おはよう、継承連帯のスチーム・ヘッド」リーンズィは腰を上げて立ち上がり、まず小さく頭を告げた。「私は調停防疫局の……」
「知ってるわ、知ってるわ」白髪の少女は、整った口元を歪ませながら、追い払うように手を振った。「調停防疫局ね。どんな天秤も真っ直ぐに保っていられない憐れな人たち」
「その指摘には反論が出来ない」
「……ああそう、そうなのね。あなたという人って、いつもいつも寝ぼけたことばかり。自分というものが、誇りと呼べるものがないの? 罵詈雑言に、憎まれ口の一つや二つ返せないと、戦闘用スチーム・ヘッドはやっていけないわよ」
赤目の少女はバツが悪そうに溜息をついた。
がじがじと頭をかきむしる。
「……アルファⅡモナルキアのところの、リーンズィだったわね? おはよう、お元気、気分は良いかしら。怪我をしたって聞いたけど、もうすっかり大丈夫みたいね。だけど、これだけは伝えておく」
少女は透き通る白の美貌に、挑発するような笑みを浮かべた。
「あなたを、まだ認めてないわ。あなたたちアルファⅡモナルキアは……この世に存在して良い機体では無いと思う」
血の滴る宝玉の如き二つの眼球が、ライトブラウンの髪の少女を射貫いていた。
生まれて初めての、純粋な嫌悪の表情に、咄嗟に言葉を返せない。
あれだけ甘く、幸せな気持ちにしてくれた温かなパンの切れ端が、リーンズィの口腔で、冷えて固まったガムのように固まり、苦々しくリーンズィの胃の腑へと流れ込んでいく。




