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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-10 清廉なる導き手 その2 夜明け前に少女は

 墓場に満ちる濃霧の如き、噎せ返るような夜の帳に、祝福された薄明が降り始めた。

 夜明けに焼かれた空が緋の色に焦がれたのは吐息にも似た一刹那のこと。夜闇は程なくして濃淡の無い漆黒を取り戻す。やがて空を渡る淡雪のような雲が、姿の見えぬ日輪の鞴から火の白を吹き込まれて蒼褪め、産み落とされた不安げな種火が、風の冷たさに頼りなく身じろぎをする速度で、幽かに色づく。消えかけた焚き火を抱え込んだ世界。

 夜の終わりが優しく、穏やかに、清明な声音で囁きかけてくる。


 リーンズィは、ベッドに体を横たえて、首を傾け、薄目を開いてその風景を眺めていた。

 スリープモード解除のプリセットに従い、日の出を感知して目覚めたのは数秒前のことだが、何もする気になれなかった。


 奇妙な倦怠感が全身に絡みついていて、呼吸をすることさえも煩わしい。

 不死の病に冒された少女の肉体は聖詠服を剥がれ、鉄板の仕込まれたブーツも取り除かれて、今や一枚の布も身に付けておらず、夜露に濡れた無形のベールが、隙間風の指先で素肌を撫でるのに任せている。あまりにも無防備で、無警戒だった。

 本来ならばすぐに起き上がるなり、統合支援AIに状況を確認するなりして、状況を把握するところだったが、それさえも億劫だった。


 ふわふわの羽毛枕が首を支えてくれるのに任せて、リーンズィはただ呆然としながら、歩くような速度で褪めていく、その暗夜の影を追った。

 自分がこうしてベッドに横たわっている理由も、背を向けた場所から聞こえてくるささやかな寝息も、何もかもが夜闇の残渣に紛れて、曖昧だった。

 ずっとこの輪郭の曖昧な世界で息を殺していたかった。


 そうしているうちにも、目前の世界は色づいていき、明るさを増していく。不意に一筋、きらきらと輝いて、線を引くものが現れた。

 薄らと開かれた瞼が二度、三度と瞬きをすると、淀むところの無い翡翠の色をした瞳が煌めいた。

 リーンズィはじっとその瞳を見つめた。

 そこには娘が気怠げに身を横たえている。程よく筋肉のついた手足はしなやかで、年頃の少女としては筋出力が高い方だろう。しかししなやかな肉体は細く、焦れるほどに華奢だった。

 少年のような毅然とした潔癖な顔立ちと、仄暗い淫靡さを漂わせる翠色の眼差し。相反した色合いを併せ持つ少女の顔には、見覚えがある。

 リーンズィは奇妙な親近の念を感じながら、その少女をしばし見つめた。

 上体をもたげて首を傾げると、ショートボブで切り整えられた髪を揺らして、その少女も首を傾げた。

 霞がかった意識を徐々に覚醒させる。

 触れようとして手を伸ばし、少女の首に首輪型人工脳髄を見つけたとき、「ああ、これは私だ」と少女は小さな声で呟いた。

 夜が終わる薄明に照らされて浮かび上がり、鏡のように磨き上げられた窓硝子に映った自分自身の裸体を、リーンズィの人工脳髄はようやく『私』と同定した。


 調停防疫局のエージェント、アルファⅡモナルキアが一人、リーンズィは、何故自分が知らぬ間に横たわっているのか、昨夜までのレコードを精査し始めた。

 そうする過程で胸にわだかまるどんよりとした気持ちに気付いて、落ち着かなさそうに唇を舐める。


 ミラーズこそが最初の大主教リリウムである、と分かったところまでははっきりと思い出せた。

 だが、彼女の娘であるとされるリリウム・シスターズが数十名も存在し、うち何人かは実際にミラーズが出産していると聞かされた辺りから、記憶が怪しい。


 他ならぬミラーズの口から「ロジーは私がお腹を痛めて産んだ子供の一人なのですよ」と聞かされたときには、頭を金槌で殴られたような錯覚があったのだ。


「実子なのか。キジールの。不死病感染前に、そんなに何人も……!?」


「分かってないわね。それは、私たちの長姉にしてスヴィトスラーフ聖歌隊の最初の戦士、真なる神の矛にして、キジール様が真に神に愛されし子であることの証言者である。定命の頃の実子はヴァータ姉様だけよ」と鼻を鳴らしながらロジーは聖詠服の胸を張った。「私たちは、キジール様が神から不死の恩寵を授かった後に身籠もられて、褥を濡らす血で不死の洗礼を受けた新しい生命。新しい神、新しい世界、聖父様との約定による、神の愛の新しい証明のために魂を与えられた存在と言っても過言では無いわね」


「いいえ、過言ですよ」とミラーズが付け足した。「あれ? 聖歌隊としてはそういう扱いなのでしたっけ。みんな可愛かったことしか思い出せないわ」


「ふ、不死病の患者が、どうやって子供を……」とリーンズィが気色ばんだところで、ロジー・リリウムが侮蔑を含んだ視線を向けてきたのだ。それも何となく覚えている。


「そんなの、神前で褥を供にする以外にあると思うの? 不死の恩寵のことを何も理解していないのね。不死病患者(アカフィスト)の女性が子供を作れないのは、胎児が病として誤って『治癒』されてしまうからよ。大抵のアカフィストは、確かに、新しい命を授かれない体かもしれないわ。でもキジール様は違うの。真なる愛と信仰に満ちた御言葉は、蒸気機関には頼れないけど今の大主教リリウムと比較してもなお強いわ。だからこそキジール様の御言葉を、神の国に座される尊き御方はしかと受け止めて下さるの。神の愛を知るその最中も、妊娠してから出産するまでの十月十日も、真摯なる御心で絶え間なく『癒やしの聖句』を唱え続ければ、恩寵の拝領を遅らせて頂くことは出来るの。最初に大主教の名を賜った方なら、それぐらいは造作も無いことなのよ」


「そ、そんなこと出来るわけが……仮に、仮に妊娠出来たとしても、母子感染で子供にもすぐ不死病が……」


『否定します。不死病の抑制が可能である場合のみ、理論的には可能です。シンプルな理屈ではありませんか、少しその熱々の頭を冷やしてはどうかと進言します。幸い、外気温は低いままのようですので、風邪を引かない考え足らずは外に出た方が丁度良いかと』


 冷静に注釈を入れてきたのは、ミラーズと全く同じ顔をしたユイシスのアバターだった。


『完全に無毒化された不死病は、最初の生命活動の停止と同時に不死の特性を発言する、特異な身体状態に過ぎません。出産時点で胎児の肉体が無事ならば、母体が不死病患者であったとしても胎児は通常と同様に出生すると予想されます。ただし、その時点で既に将来的な不死病の発症が確定している状態ではあります。しかし、なるほど、愛しいミラーズと当機の間にも子を設けられる可能性が……?』


「あはは。無理ですよ、私の愛しいユイシス。あの頃でさえ、最初から最後まで一秒も途切れることなく聖句を紡ぎ続けるのは大仕事だったもの。……リーンズィもびっくりしてるみたいだけど、ロジーの言うことはちょっと大袈裟だから。全部は信じなくて良いわ」


 最初のリリウム、金色の髪をした小さな少女は、困ったように苦笑した。

 やんわりとした否定を受けた栗毛のロジーが、拗ねた様子で身を屈めて、いかにも子供らしく抱きついてきたので、ミラーズは表情を和らげて彼女を抱いてあやした。

 それから目を伏せているリーンズィへと言った。


「でもロジーが私の娘というのは真実です。キジールだった頃の私が、リリウムの名を譲ったレーゲントとの間に設けた……スヴィトスラーフ聖歌隊を拡大させるために授かった、聖なる子供たちの一人。女の子と女の子だから、身籠もること自体は学者さんの手を借りたわ。不死病のせいなのか聖句の力なのか、そういう加工がされてたのか分からないけど、どの子も実際に産まれてくるまで十月十日もかかりませんでしたし、成長も早かったのです」


「ま……待ってほしい。理解が……理解が追いつかないのだが……そ、そのリリウムとやらは……君がリリウムの名を譲ったその相手というのは」ライトブラウンの髪の少女は青ざめて問うた。「どこから来たの、だ……? 彼女はまた別のところから来た聖句遣い、レーゲントなのか?」


「いいえ? 私が聖父スヴィトスラーフと設けた最初の子ですよ。自然妊娠です」


 リーンズィはくらりとした。

 聖父なる人物と子供を作ったという事実で意識が飛んだ。限界だった。

 そこから後の記憶は、文字通り記録としてしか残っていない。


「不死病を研究していたあなたたちには、興味深い話かも知れないわね。一番最初の娘であるミチューシャ……えへん、地下街にいた頃に、あの口だけの憎たらしい不信心な男との間に授かった我が仔ヴァータが、私の力を部分的に濃く継いでいたのです。おかげで原初の聖句の才能はどうやら遺伝するらしいって分かったの」


 慌てて、ロジー・リリウムが耳打ちした。


「キジール様、聖句の件は聖歌隊でも最上級の秘匿事項ですよ。こんなどこの馬の骨かも知れない者たちに教えては……」


 ミラーズは目を細めた。


「どこの馬の骨か、と言いましたか。元を正せば私もまた、どこの馬の骨とも知れない身ですよ」


「えっ。ち、違うのお母様、私は、そういうつもりじゃなくて……」


「そうでなくても、彼女たちは今は私の骨であり、血であり、魂のあるじです。私たちを救うために限界を迎え、あえなく黙契の獣へと堕ちてしまったヴァータ、あの子を救い、そして私を新しい旅に誘ったのが、まさしく彼女たちなのです」


「恩義はあるかもしれませんけど……でも……聖句は私たちの、聖歌隊の大切な……」


 ミラーズが淡々と言葉を重ねると、ロジーは途端に弱気になった。


「元を正せば、今の私は、かつての私が彼女たちを通じて見ている夢のようなもの。しかも私の現在のた偽りの魂は、彼女たちの脳に間借りしたものなのですよ。つまり、彼女たちはその気になれば私の心など余すことなく覗くことが出来るということです。それを敢えてしない相手を、信じるべきでは無い、ロジーはそう言いたいのですか?」


 怒気の欠片も込められてはいないが、静かに威圧されて、ロジーはしゅんとした。


「い、いいえ、お母様が認められてらっしゃるのであれば。今となっては解放軍の幹部なら誰でも知っていることですし……」


 小麦肌の少女が口を挟む。「そうだな。幹部って言や、アルファⅡモナルキアだって一人軍団(アウスラ)になることが内定済だだ。実績はまだ無いが立場上は幹部だろ。知る権利はある」


「……私だってそれぐらい分かってるわよ、ファデル」


「だいたいね、ロジーくん。隠匿すること自体が無意味だよ。私たちフリアエ直轄機が皆似た顔をしている事実から、モナルキアは私たちがクローニングされた同一人物だと推測済だろうからね。君たちリリウムシスターズが同系統の顔をしている理由に辿り着くのも時間の問題だと思うよ。敢えて邪魔をする必要は、私も感じないかな」


「そ、そんな、コルトさんまで……」誰よりもコルトからの追い打ちが効いたようだった。「私は、た、ただ、お母様を想って……」


「皆さん、それ以上の言葉は不要です。ちょっと怖い言い方をしてしまいましたね。気を悪くしないで、私の愛しい娘、ロジー。ただ彼女たちも私の娘だと分かって欲しかったの」


 涙目で震える娘に優しく接吻をしてから、リーンズィたちに言葉を続ける。


「……それでね、原初の聖句を遣う才能は遺伝するって分かったから、力の濃い聖句遣い同士で交われば、もっと強い聖句遣いが産まれるんじゃないかっていうことで、そういう計画が立ち上がったのです」


『なるほど。自然な流れですね』


 硬直したままピクリともしないリーンズィに代わってユイシスが相槌を打った。


「その第一段階として、私に匹敵する聖句遣いだった聖父様との間に産まれたのが、我が子リリウムなのでした。……本当に天使のような子を授かったものだわ」


 聖詠服の裾のあたりを掴みながら語る金色の髪をした少女は、少しだけ誇らしげであり、少しだけ恥ずかしそうでもあった。


「あの子が長じて、私たちを超える『原初の聖句』を示すようになったから、『妹たち』を増やす計画が聖歌隊で可決されて……そうそう、そうよ。そうです!」


 何かに思い当たったらしく、ミラーズは目を輝かせた。


「やっぱりそう! 調停防疫局(・・・・・)! 断片的にだけど、まだあたしの記憶にも残ってる、スヴィトスラーフくんのツテで、えへんえへん……聖父様のツテで、あのとき、確かに助けてくれたのよ。そうよね、ええ、そうだったわ。だって、あたしたちだけで、あんな計画は実行できないもの。あの頃はスポンサーも少なかったし。えっと、確かあれはWHOの……」


『ではミラーズの歴史にも我々、調停防疫局が存在したのですか?』


「いいえ、そのままの組織はありませんでした。名前がちょっと違ったと思います。でも同じような人たちがいたはずなのです。ちょっと待ってね、記憶の残響を復元きるかもしれないから。えっと、何だったかな……えっとえっと……うーん。リーンズィ、それっぽい単語を挙げてくれない? ヒントになるかも。リーンズィ……あら? リーンズィ、どうかしたのかしら? 大丈夫? 顔が真っ青だけど……」


『やっと気付いたのですか』ユイシスは仕方なさそうに溜息をつき、ふわふわの金髪を掻き上げた。『生命管制ユイシスよりエージェント・ミラーズへ通達。エージェント・リーンズィは、現在、思考機能を停止しています』


「え? どうして? あなたがロックしたの?」


『否定します。彼女が自分で止まったのですよ』


 リーンズィは真実、一切の認知機能を停止させていた。

 サイコ・サージカル・アジャストが最大レベルで作動しており、あらゆる情動が消え去っていたためだった。


 その後、会合はなし崩し的に解散となった。

 コルトはリーンズィの急変を気にすることなく窓を開けて、そこからひょいと飛び降りて姿を消した。階下から「ええええコルト少尉?! 自由落下はやめてくださいって!」と悲鳴が聞こえた。

 一方で、自分のせいでリーンズィが壊れたのではないかと思い詰めて震えながら原初の聖句を唱え始めたロジーを、あんまりリーンズィたちを邪魔しちゃ悪いとファデルが抱えて引き摺っていった。


「あう、あうあうあうあう……こんなつもりじゃ……り、リーンズィさんが起きたら、また、また謝りに来ます、お母様……」


「気にしないで構いません。あなたのせいでこうなったわけでは無いみたいですし、それにこれは、どうやらリーンズィに宛てられた試練でもあるのですから。そんなことより、今日は会えて嬉しかったですよ、ロジー」


「わ、私も、私も嬉しかったです、マザー・キジール……ごめんなさい、嬉しすぎて、気が動転してしまったみたいで……」


「ほらほらロジー、もう行こうな。ミラーズ、ユイシス。リーンズィはマジで大丈夫なのか?」


 ドアの外に聖歌隊の少女を押しやりながら、ファデルが問うた。


『推測。一晩も経過すれば再起動するのでは。寝る子は育つと言いますので、この機会に精々育ってもらうのが良いかと』


「本当に気にしないで。リーンズィは強い子です。何があっても大丈夫だから」


「なら良いけどよ。あ、そうそう、もうすぐ日が落ちるが、ここの攻略拠点、照明関係は節約してるんだ。日が沈んだら大概の場所は真っ暗になるから気をつけてくれ」


 扉を閉めながら一息に言い切り、頭を下げる。

 それをユイシスが呼び止めた。


『意見具申。アルファⅡモナルキアには、発電による支援を行う用意があります。電力不足と言うことであれば、当機らに要請にしてください」


「申し出だけありがたくもらっとくよ。いや、単純に照明器具が足りてねぇんだ、変な話だけど」

 

 小麦肌の少女はブランケットの下で肩を竦めた。


「電球は、鉛筆や白い紙と同じぐらいの珍品だからな。昔馬鹿安かったものほど、どこでも買えたものほど、貴重になっちまってるんだ。困ったもんだよ、電気と銃とスチーム・ヘッドはいくらでもあるんだがなぁ……」


 夜になってからはミラーズとユイシスの会話も殆ど無かったようだった。

 少なくとも音声で会話したログはあまり残されていなかった。

 リーンズィはアルファⅡモナルキア本体にベッドまで運ばれたらしい。ログを参照した限りでは、ミラーズに介抱をしてもらったようだが、リーンズィには全く記憶が無い。

 おそらくは人工脳髄が状況へ適応するための処理で限界に達していたからだろう。


「……状況への適応? そんなこと……」


 薄暮の暗がりの中で、裸の少女は眉を潜める。

 そんなものは、数秒もあれば完了するはずだからだ。

 本当に人工脳髄の再起動に一晩もかかったのかは疑問だったが、昼間の自分が生身の人間ならば昏倒に近い状態に追い込まれていたのは事実だ。


「私は……いったい何について、それほどまでに負荷を……」


 誰にも聞こえないよう、乾いた口の中で囁き、黙考する。

 ミラーズ、ひいてはその前身であるキジールに実子が存在した。

 それは分かっていたことだ。直接的に尋ねたわけでは無かったが、朧気に理解していた。ミラーズは、子を持つには若すぎる外見年齢ではある。多くの聖歌隊員の母親代わりをしていたのであって、基本的に実の母親ではなかったというのも事実だ。

 しかしキジールとヴァータの関係が実の親子であることは、出会った時点でほぼ自明だった。

 だからそのことに関しては、意外なことは何も無い。

 大主教リリウムの初代だったのは驚いたが、驚いただけだ。

 さして重要な事案では無い。

 リーンズィは手先で髪をいじりながら思案する。ショックだったのは、キジールには、不死病患者になってから聖歌隊で産んだ娘が複数いた、そのことだろうか。違う、とリーンズィは目を閉じる。

 これに関しては予想していなかったが、アルファⅡモナルキアが製造された歴史においてもスヴィトスラーフ聖歌隊には性的な価値観や生命に関する倫理観が破綻していた部分があった。

 キジールが生まれた歴史で、そのような生物実験のような行為が蔓延していたとしても然程不思議では無い。他者を操れるほど強力な聖句遣いは、リスクを冒してでも増産する価値がある。

 推測出来る可能性だ。

 それに聖父スヴィトスラーフは意図して口汚く表現すれば間違いなくカルトの長だ。信徒であるキジールにも手を出していただろうし、ユイシスの提唱した仮説、不死病の抑制が可能ならば妊娠出産も可能という予測が正しいなら、彼との間に子供がいても奇妙では無い。

 いいや、いいや、とミラーズは目を閉じた。

 そんなのは些末ごとだ。

 答えは、実は最初から理解している。

 私はもっと現実を直視した方が良い、と言い聞かせる。


 取られた、と思ったのだ。


「私は、ミラーズを取られたと……そう感じたのだ」


 ロジーとミラーズ。二人の少女が、真剣に心から通じ合っているのが、ひと目見ただけで分かった。

 互いを思い合い、愛し合い、かけがえのない存在だと感じているのがはっきりと理解出来た。

 自分とミラーズがいくら情愛を重ねても、そんなものはままごとに過ぎないのだ。

 支配と被支配、後天的に付与された関係性では無い、血を分けた母と娘の姿。

 強制力を介さず交される愛情が真実そこには存在していた。


 そこに自分などが入り込む余地など無かった。どのように検分しても、自分は後から付け足された異物に過ぎなかった。

 私はミラーズが好きなのだろう、とリーンズィは熱っぽい溜息を吐く。

 好きとか愛していると言った感覚は、リーンズィにはまだ正確には理解出来ていない。

 だが、ミラーズの特別でありたい。そのような意識が悪性の腫瘍のように、演算された魂に強烈に巣くっている。

 否定するのは、もう不可能だ。囁かれる愛の言葉がどうしようもなく心の襞を刺激し、唇を重ねただけでくらくらしてしまう。

 私はミラーズを求めている、とリーンズィは暗闇に目を落とす。

 だがミラーズとの関係はどうしようもなく偽物だった。

 不格好に歪められた親子、恋人、徒弟、適切な言葉を見つけられないが……紛い物だった。

 何もかも無価値で、自分が思い違いをしていただけだった。

 あるいは、そう振る舞うことで自分勝手に充足を得ていただけ。

 ロジーとミラーズが交わす真の情愛に比べれば、小さな舞台小屋で恋人ごっこを演じる木彫りの人形の方がいくらかマシなぐらいだ。


 ああ、最初から、私はミラーズにとって、何でもなかったのだ。

 そう直観して、ある種の喪失感を覚えたのだろう。


 人工脳髄が安定化した今ならば理解出来る。

 現在のリリウムが、スヴィトスラーフ聖歌隊の教祖との間に産まれた娘であると言う事実にも、結局のところ、打ちひしがれた。

 聖父スヴィトスラーフなる人物がどのような人間なのかリーンズィは知らない。だが、ミラーズは彼に、リーンズィにかけるのと変わらない、あるいはもっと実感のこもった、甘く優しい言葉を囁いていたに違いない。

 そしてついに彼の子供を授かった頃の彼女は……ミラーズでは無かった頃のミラーズは、いったいどんな表情をしていたのだろう。

 予想は付く。きっと幸せそうな顔をしていた。

 心からの愛に頬を綻ばせて、生まれてくる我が子のために歌い続けていたに違いない。

 だが、それが具体的にどんな有様なのかは思い描けない。

 見たことがないからだ。

 リーンズィには何も無い。何も知らない。何も分からない。

 リーンズィには過去が無い。記憶も愛も無い。


 静かに寝返りを打つと、キングサイズのマットレスの上で、金色の髪の少女が寝息を立てていた。

 部屋が暗くてやることがないので、日が昇るまでスリープモードに入ることにしたらしい。

 一糸纏わぬ姿で眠っているだけなのに、薄闇に浮かぶ小さな白い肢体、肉の薄い肌は恐ろしいほど滑らかで、蠱惑的に淡い光を照り返し、乱れた髪が、そのように条件付けをされているリーンズィの少女の肉体に、愛情の熱をもたらす。

 彼女の甘い香りが恋しくなったが、何故だか香りを感じることさえ、酷く躊躇われた。

 代わりに嫌な気持ちのする想像が次々と脳裏を過ぎる。

 きっと同じ光景を何人もが目にしたのだろうと、ライトブラウンの髪の少女は身を起こして嘆息した。そして私が得るのは何もかもが偽物なのだ。

 この金髪の、ふわふわとした髪の美しい少女から、その真の愛を受取ることは出来ない……。


 何もかもは、彼女が「本当に愛した」ものにだけ与えられているのだから。

 私は彼女に愛せよと命じているだけ。何一つ本物じゃない。

 私は偽物にすぎない……。


 マットレスの上にいるだけで息が詰まりそうだった。

 そろりとベッドから立ち上がり、目を凝らして端に揃えられていたブーツを探して穿き、足音を立ていようにしながら、リーンズィは少女の裸体を明け方の澄んだ空気に晒しながら部屋を歩いた。

 入り口に置かれていたハンガーコートから突撃聖詠服を取り上げて羽織り、寝室を後にした。


 居室の出入り口にはアルファⅡモナルキアが衛兵のように直立していた。

 百年も前からそこに設置されていた戦士の像。

 さもなければ死体の回収に訪れた、棺桶を背負った葬儀屋。


 リーンズィはぎょっとした。モナルキアの手が、大型のフルオートショットガンを携えていたからだ。不死病患者の制圧に特化した、散弾を毎分300発発射可能な、極めて威力の高い武器だ。

 装甲無しでは、まともに連射を受けては挽肉になるだろう。

 その対面には椅子が置かれていて、何時の間に拾得したのか、あのアルファⅡウンドワートから投げて寄越された少し焦げたウサギのぬいぐるみが置かれていた。

 リーンズィはその場で捨てたつもりでいたのだが、誰かが独自の判断で回収していたらしい。


 ちょこんと座らされたウサギは時計を抱えていて、カチ、カチと刻む歯車の音色が幽かに響いている。

 これも、自分が何かをどうにかせよと命じた記憶は無い。


「君たちは……私を何だと思っているのだ……いや」


 私は、君たちにとって何なのだ。

 少女は泣き出しそうだった。ひたすらに不愉快で、居心地が悪く、何もかもから見放された実感があった。


 意思決定の主体として設定されている自分が、その権限を剥奪されつつあるというのは、もはや疑いようのない現実だった。

 アルファⅡモナルキアが新たに武装を取得したという記録は、リーンズィには与えられていなかった。

 モナルキアかユイシスか、いずれかが独自の判断で武装を入手したのだ。

 ウサギのぬいぐるみが時計を抱えていたのが前からだったのかどうなのか記憶にないが、少なくともこのようにして飾れと命じてはいない。

 五時三十分という素っ気ない文字盤に、自分自身の、浅ましい嫉妬に燃えた、暗い緑色の眼光が映っている。

 こんなときこそ、アルファⅡモナルキアとして性能を発揮しているときの全能感が欲しかった。冷笑的でありながらもつらつらと冗談を囁いてくれるユイシスの声が恋しかった。ミラーズに、大丈夫ですよと頭を撫でてほしかった。

 いくつかの手段で本体に情報の照会を求めたが無駄だった。ユイシスも応答しなかった。ミラーズは何か知っているかもしれない。だが起こすのが恐ろしい。


 リーンズィは底知れぬ不安感に苛まれていた。誰からもお前などは必要とされていないと嘲笑われている気がした。どこにも居場所がなかった。この部屋から出て行きたいという焦燥に駆られ、インバネスコートの留め金を上から順番に留めていった。

 コートの前を完全に閉じ、不朽結晶製繊維の冷たさに震えながら戸口に立ったところで、ライトブラウンの髪の少女はようやく異常事態に気付いた。


 咄嗟に首輪型人工脳髄に触り、息を呑む。

 機能していない。

 アルファⅡモナルキアに意識の大部分を代理演算されてるはずののリーンズィは、今や自分自身の首輪の中だけでその機能を完結させられ、完全なスタンドアロンの状態で稼動していた。

 自分は今、アルファⅡモナルキアとも統合支援AIユイシスとも、まさしく有効なリンクを確立していないのだ。それどころか、エージェント・アルファⅡと何の関係も持たない、全く別の個体として処理をされていると言って良い。

 モナルキア総体へアクセスできない無力な少女には、一体何時からそのような状態にあったのか、見当も付かない。

 ぞっとするほど冷え切ったドアノブに手を掛けながら、自分自身の本体である筈の、選択的光透過性を持つバイザー、その内側に収められた二連二対の不朽結晶製レンズを覗き込む。

 咎める声は無い。助言の一つもありはしない。見返しているのは薄暗がりの中で慄然と目を見開いている少女の怯えたような表情。

 無機的なそのヘルメットの下で、自我が無いはずの大柄の兵士が何を考えているのか、リーンズィにはもう分からない。


 間違いなく言えるのは、今この瞬間、かつて『私』だった何かは、この私に全く関心を向けていないということ。

 眩暈にも似た感覚がリーンズィの背中を押した。

 一切合切の価値が認知宇宙から剥奪されて崩れ落ちた。

 端正な顔が悲嘆に染まり、眦に涙を浮かながら廊下へ転がり出た。


 途端、廊下の静寂と暗黒が押し寄せてくる。リーンズィは上ずった声を出して踏みとどまった。こんなにも闇が恐ろしいと思ったのは初めてだった。アルファⅡモナルキアには暗視機能が備わっている。ユイシスは既に音紋走査や熱源探知を駆使してこの勇士の館と名付けられた集合住宅の全容を把握しているだろう。

 だがリーンズィはもうそのどちらにもアクセスさせてもらえない。

 後退りして、部屋に引き返し、何か自分を守ってくれそうなものを探した。

 何も無い。突撃聖詠服に据え付けの蒸気機関も、マウントした斧槍も、脅かされた自己連続性を守ってはくれない。

 どんな暴力も自分の価値を保証してくれない。

 自分を見てくれているのは時計を抱えたウサギのぬいぐるみだけで、自分が自由に出来そうなものも、それぐらいしかなかった。


 ウンドワートからの施しものになど頼るのは癪だったが、得体の知れぬ街の暗闇へ逃げ出す供が他に見当たらない。

 大鴉の少女は美しい顔を沈痛に歪めながら、無垢そうな真っ黒な瞳をしたウサギのぬいぐるみを持ち上げて、有りっ丈の想いを込めて抱きかかえて、お前などいらないと暗黙裡に大合唱するその部屋から、逃げるように転げ出した。


 まだ醒めぬ夜の闇が、冷たい手つきで肉体を苛む。

 リーンズィは見知らぬ土地に放り出された迷子であるかのように、親から捨てられたことを悟った力も名前も無い少女のように、ふらふらと廊下を歩いて行った。

 せめて誰かに縋りたかった。誰かに大丈夫だよと言ってもらいたかった。君は必要なんだよと。

 でも、誰もいない。誰もいなかった。

 青褪めた美しい少女の顔貌には、空虚な滑稽さを嘲笑う自虐的な表情が張り付いていた。自分の周りには、最初から誰もいなかったのだ。

 このアルファⅡモナルキア、エージェント・リーンズィは、きっとそういう存在だったのだ。

 エージェントという身分さえも怪しかった。

 勝手に思い上がって、自分こそが本物だと勘違いしていただけだと、強迫観念的に確信していた。


 自己否定の熱に浮かされて少女は彷徨った。

 仲間はただの一個だけ。

 焦げ付いた、見窄らしいウサギのぬいぐるみを抱きしめて。


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