2-9 第二十四番攻略拠点 その6
勇士の館の玄関をくぐると、脳髄を掻き回すような大音声が波濤のようにのし掛かってきた。
猛烈な油の臭気、噴き出す蒸気は肺腑を汚す。
リーンズィは反射的に足を止めて、身を強ばらせた。本能的な忌避感からか、手で行き先に蓋をして、ミラーズの歩みを阻んだ。ただ、彼女の方が余程落ち着いていた。
逆に手を掴まれて引かれ、屈まされた。
金髪の少女は漆黒のベレー帽が落ちないよう抑えながら、少しだけ背伸びをして大鴉の少女にそっと口付けをして、髪に手指を絡ませて撫でた。
リーンズィは慣れ親しんだ芳香の中で落ち着きを取り戻した。
ブランケット姿のファデルは半ば呆れた様子で二人を眺めていたが、口を差し挟むことはなかった。
リーンズィが怯えたのは、自分が集合住宅のふりをした機械仕掛けの怪物の腹、さもなければ侵すことを禁じられた領域に入り込んでしまったような気がしたからだ。それは床に書かれた進入禁止の警告の語句や様々な方式で描かれた同様の意味のピクトグラムからくる暗示だったのかもしれない。
少なくとも、首輪型人工脳髄に収録された模糊とした記憶を参照した限りにおいては、勇士の館なる建造物の実像は、古ぼけた集合住宅の外観から想像した風景とは、些か以上に食い違っていた。
一階から二階までがぶち抜かれ、組み替えられ、組み上げられ、住宅はまさしく工場の如く変容していた。部屋を仕切る壁という壁は打ち壊され、天井は丸々脱落させられて、二階分のフロアが広大な空間として連結されており、あちこちに灰錆びた金属の管材が這い回り、ひと目では用途を理解出来ない奇妙な機械が至る所で押し殺した作動音を上げている。
原始的な圧搾機と思しき装置には蒸気機関が連結されており吹き出す蒸気からは濃縮された花の香りがした。
不死病患者の血肉がどのようにしてか利用されているようだった。
ユイシスが『推測:人間の血液を熱媒体とした交換機』と、からかうような口調で囁いてきたので、内心で少女は言い返した。そんな趣味の悪い機械があるだろうかと。『アルファⅡモナルキアの仕様の非人道性がようやく分かってきましたね。良い傾向です。我々は人道の真逆を進んでいるのです』と嘲笑された。
その倒錯的に機械化された領域では、つい先ほどまでファデルの蒸気甲冑を整備していたスチームヘッドたちが頻りに行き交っていた。
無数のレンズの反射光、蜘蛛の如く広げられた無数の腕、無数の声が、組み上げられ、分解された銃火器、強化外骨格、パペットのパーツの上を渡っていく。壁に設けられたバルブを操作して、蒸気機械に対して微細な調整を加えたりしているようだった。
フロアは古い時代のどこかに存在した工場生産拠点の影法師であり、そういった意味で実体としての人間が居住する環境では無かった。無制限の労働、無制限の奉仕、無制限の苦闘。永遠に朽ちぬことを約束された生命、その呪わしい生涯に相応しい、永遠に消えることの無い労働の灯、あるいはもはや行き先の無い哀れな技術者たちの魂を祀るための祭場。
そういった無為な営みを支えるための無謀な改築で生じた構造上の荷重を解決するためだろう、あちこちに支持具が挿入されていた。それらの大抵はコンクリートで外形を整えられた、主無き大型蒸気甲冑の残骸である。技術者と生産物の形骸が行き交う空間を支える、魂までも使い捨てられた成れの果て。リーンズィは勇士の館とは戦闘用スチーム・ヘッドの待機所なのだろうと漠然と考えていたが、死ぬことを許されぬ憐れな者どもが創造の真似事をし、不死であるべき息絶えた者の骸があたかも名も歴史も無い器物の如く扱われているのを見て、分からなくなった。
そこには全てがあった。
生産工程の全ての循環と生産物の終点が押し固められていた。
全人類の果たす大任。何の成果にも繋がらない。底の無い空漠のような歓喜。
そうして視線を巡らせていると、唐突に生気の無い枯れた青空と死んだ灰の建物が現れる。外壁の一面までもが、物資の搬入出の都合であろうが、跡形もなく取り払われているのだった。機械仕掛けの胎内、機能しているのか否かすら判然としない様々な機械と不死であることを約束された技術者が蠢く場所を、晴天に晒された寒々とした冬の廃墟が覗き込んでいる。
脈絡の無い風景が途切れることなく外側に繋がる様は、いっそ現実離れしていた。
ファデルもミラーズも先に進むよう促してくるが、リーンズィにはこの歪な風景に飛び込んでいく勇気が無かった。あたかも植物園に立ち並ぶ木々に怪物の影を見る幼子のごとくに。
すると、背後に柔らかな感触が寄りかかってきた。ミラーズかと思ったが違った。アバターを展開したユイシスだ。
『報告。展開しているスチーム・ヘッド部隊から、動的な反応を検知できませんでした』ユイシスが怜悧な声音で走査の状況を告げる。『特定方向からの侵入者に対して認知機能を制限されているものと予想されます。なお、本発言は現在の貴官にこれの意味するところが理解可能かの負荷テストも兼ねています。勿論分かりますよね』
どういうことか、と尋ねる前に、ファデルがリーンズィたちを見て閃いたようだった。
ようやく合点がいったという顔で、技術者たちを無視してすたすたと歩き始めた。
何もわからないまま恐る恐る付いていくと、技術者たちは無意識にか反射的にか、巧みにリーンズィたちを避けて通り抜けていく。
「こういうことだからよ、こいつらに気を遣わなくたって良いんだぜ。勇士の館は攻略拠点の外で活動してる連中のホームだ。神聖にして侵すべからずってな。最近はプライバシーだって大事にしてほしいやつが多い。だから、誰がいつ出入りしたか記録しないように、技術担当官どもは自分たちの認知機能にロックをかけてんのさ。その上で自動回避のプログラムを組んで無意識のレベルで俺たちを避けてくれる……」
言いながら、しかしファデルは足を止めて、ハンドサインでリーンズィたち三人に制止を促した。がちゃん、がちゃんと喧しい足音を立てながら、大きな鉄板を担いだ技術者が、ゆっくりと目前を通っていく。
「無視しても良いという話だったのでは?」
「……まぁ、無意識にどうこうって言っても限界があらぁな。見たまま大変そうな仕事を邪魔すると、大抵は良くない結果になる。こんなところで無駄にデッドカウント増やしても良いことはねぇし、色々邪魔になる、譲れるときはこっちが譲るんだ」
そのフロアの片隅には、隔離された区画が存在していた。エレベーターシャフトだ。そこに行くための工場見学だったのか、あるいは勇士の館というものを知らしめるための旅程なのか、とリーンズィは曖昧に思案する。
受付机の代わりのティーテーブルの前には、黒髪の女性のスチーム・ヘッドが腰掛けていた。
戦闘服を着た若い女性だった。黒髪は瑞々しいが伸びきっていて、どこかで見たような美しい顔立ちには、生来のものであるのであろう整った顔貌ゆえに、飾り気の文脈が自然に生起していた。
それにしてもとにかく俯きがちだった。そのせいでヘッドギア型人工脳髄が酷く目立っていた。
背負った中規模の蒸気機関からしゅんしゅんと蒸気が噴き出している。
ただし、運動補助用の強化外骨格以外には装備が見受けられない。
「彼女は何をしている?」
『検出中。床下に磁気反応を確認しました』
ユイシスが床を透過して、存在が想定される物体の形状を、赤い輪郭で視界に投影した。
この建築物の送電用のケーブルのようだった。
女性の蒸気機関はこれらのケーブル群と接続しているらしい。
リーンズィは無害な機体だと判断したが、どうにも彼女の所作が気に掛かった。
ティーテーブルの上。擦り切れたカードを組んでは並べている。
三つの山札、十枚ほど横に並べられた絵札の群れ。
視覚に納めた時にユイシスが『遊興目的のタロットです』とアナウンスしたが、リーンズィが絵柄を視認した途端に『不明なカードゲームです』と訂正を行った。
リーンズィには理解が難しかった。ミラーズも不思議そうに盤面を覗いている。棍棒、剣、貨幣、家屋、豚、人、歯車、十二個の墓。何らかのプレイング・カードであることは確かだったがタロットでもトランプでもなかった。幾つかの種類の異なるカードを混ぜ合わせた結果なのかも知れない。
まじまじと観察していると、ファデルたちの接近にようやく気付いたのか、女性がふいと頭を上げた。
そして会釈した。言葉は無かった。ファデルは「よう」と気さくに挨拶し、リーンズィとミラーズは、顔を見合わせてから、控えめに挨拶を返した。
それで終わった。そのスチーム・ヘッドは、またルールの分からないカード遊びに戻った。
何も見ていないし、何も聞こえていないと言った素振りだった。
ひょっとしたら自分が何をしているのかと理解してないのかもしれない。
エレベーターの管理係というわけでもないらしく、呼び出しの操作は、最初から最後までファデルが実行した。
遊んでいるカードゲームのルールが気になったリーンズィがミラーズと一緒になってチラチラと背後を振り返っていると、ファデルが不意に頷いた。
「言いたいことは分かるぜ。あんなスチーム・ヘッドは珍しいってんだろ」
小麦色の少女は洞察力に優れるらしい。大鴉の少女は、素直に目を丸くした。
「私の考えていることが分かるのか?」
「ああ。戦闘用の蒸気機関なのに武装してねぇのは奇妙って顔だな」
「ん? うん……」
言われた内容が、気になっていたことと全然違ったので、リーンズィは思わず生返事をしてしまった。
リーンズィは成長しつつある自我を懸命にコントロールして、相手の内心を尊重するよう務めた。肩越しに振り返って「ん? そうだろ?」と疑いもせず笑いかけてくるファデルの心情を慎重に吟味し、端正な顔に無表情を装って、こっくりと頷いて返事をした。
「うん……まぁ……奇妙かもしれない」
「だろうな。あの規模の蒸気機関ならオーバードライブ積んで装甲板も貼り付けてるもんさ」
そういうものなのか? とユイシスに問いかけると、十分なデータ蓄積が完了していないため判断は保留しますという素っ気ない返事が来た。
リーンズィはユイシスの意地悪ポイントを記録していくことに決めた。
「あいつは特別なんだよ。伝令用のスチーム・ヘッドでな、電磁嵐が吹き荒れたりしたときには、電波が通じなくなるだろ。そしたら、あいつがオルガンを弾いて、情報伝達のためにそこいら中を走り出すって寸法だ」
操作盤のスイッチが点滅し、ドアが開いた。
促されるままエレベーターに乗り込み、カード遊びを続けるスチーム・ヘッドを格子戸の向こうに見送って、つらつらと言葉を続けるファデルの話を興味深そうな態度をどうにか維持して聞いた。
「世界がこうなる前じゃ考えられない贅沢な使い方だ。クヌーズオーエ解放軍の攻略拠点は、どんなトラブルにも対応できるよう万全に備えてる。スチーム・ヘッドの数が揃ってるから、こうやって通常軍ならあり得ないような分担も出来るってわけだ」
「そうか。色々工夫があるのだな」リーンズィは色々工夫があるのだなと思った。「ところで彼女は何をしていたんだ?」
今度はファデルがきょとんとする番だった。
しばしの沈黙。設備が悪いのか、エレベーターの上昇は酷くゆっくりとしていた。唸り声を上げるモーター。ファデルの頭に突き刺さったプラグ型簡易人工脳髄がコイル鳴きを起こしている。
「何って、そりゃ……待機任務だ。起きてるように見えるが、あれは半分寝てるような状態だぜ」
「半自動モードというやつですね」ミラーズが視線を虚空に向けながら呟いた。「あれが眠りなら、目を開いている間こそ悪夢だわ」
「レーゲントが暗いこと言うなんて珍しいな! さっきのあいつに関しては、ここの電気供給も仕事と言えば仕事だな」
「情報提供に感謝する。いや、しかしだな、私が気になったのは現在従事している任務のことではなく、カードで、こう……」
甲冑の手でパラパラとめくるジェスチャーをする。
ミラーズも小さな手でそれに追従した。「そうそう、これよね。タロットなら聖歌隊にいたころに嗜んだけど、そうじゃないみたいよね? ルールがかなり違うように見えるわ」
「何にせよ、一人で長時間やる遊戯でもないだろう。どういう意味がある?」
「……前にはあいつにもカード仲間がいたんだよ」ブランケットを被った少女はそれきり言葉を濁して、首を振った。「どうしても気になるなら、自分で訊いてくれ。クヌーズオーエで他人の趣味の話を聞くってのは、それなりにデリケートなことだからよ。ましてや他人のなんて、特にペラペラとは喋れねぇ」
「仲間がいた……ですか」とミラーズが小さく目を細める。
リーンズィは「なるほど、確かに直接聞けば良いな」と一人で納得し、それ以上は訊かなかった。
誰かが囁いている。エレベーターは軋み音を鳴らしながら上昇を続ける。ただ定められた地点へと向かって、ロープは巻き上げられていく。そこに人間の意思は無く、目標はなく、夢想はなく、願望は無い。エレベーターとスチーム・ヘッドの違いは一つだけ。エレベーターは上下にしか動けないが、スチーム・ヘッドはどこにでも行ける。大きな差に思えるかもしれないが本質的には全く同じだ。どこに辿り着いても何も起こらないし何かが変わるわけでもない。その程度の違いしか存在していないのだと、リーンズィの背後で誰かが囁いている。お前たちはどこに辿り付くわけでもないのだと。ライトブラウンの髪の少女は自分自身の本体を見遣った。囁き声の主が他にいるとは思えなかったがアルファⅡモナルキアは不動の姿勢を維持していた。その黒いバイザーの下で息をしているのかすら判然としない。
かつて自分がこの精強な男性の肉体を操っていたという事実がリーンズィには信じられない。リーンズィは自分自身を覗き込む。見知らぬ惑星に漂着した不安な宇宙飛行士のような無表情なヘルメットの黒い鏡面世界に、自分がどこにいるのか尋ねたくて仕方がないといった面持ちの少女が佇んでいる。迷子の少女だった。
七階でチャイムが響いてエレベーターの扉が開いた。
丁度、粗雑な仕事で貼り付けたらしい壁紙の前を、自動小銃を肩にかけた、兵士と思しきスチーム・ヘッドが通り過ぎるところだった。自動車の残骸から引きずり出したものを再利用しているらしいバッテリーを腰部に取り付けていて、そこから人工脳髄の給電しているようだった。
リーンズィの鋭敏な嗅覚が異臭を捉えた。鼻先を掠めるのは、煙の香り。リーンズィが嗅ぎ慣れぬ香りに悶絶して眉根を寄せている間に、ユイシスが目前の兵士のヘッドギア型人格再生装置に『解析:不朽結晶連続体』の文字を表示する。
兵士は装甲されていない口元に、包装の草臥れた煙草をまさに咥えており、手にはオイル式のライターを握っている。火はつけていないようだった。
一度エレベーター前を行き過ぎてから立ち止まって振り返り、口から煙草を離して、エレベーターから降りてきたファデルたちに手を挙げて挨拶をした。
「ようファデル。昨夜はロジーで、今度は知らない美人、それも背の高いのと低いのとで二人ってか。また女か? 仕事の荷が勝ち過ぎて欲求不満か? 清廉なる導き手の祝福者らしくなってきたな」
「何の話だよ、マルボロ。っていうかあんたこそ、また煙草か。嗅ぎ回る野郎と煙臭いのは嫌われるぜ」
森林迷彩の兵士はにやりと笑って肩を竦めた。
「これだって文化だろ。滅びゆく儚い文化の一つだぜ。それに、だ。これが最後の一本さ」
小麦肌の少女は唇を尖らせた。
「何回も聞いたよそりゃ。昨日も最後、一昨日も最後じゃねか。最後の最後はいつ来んだよ。とっとと煙草やめろや、兄弟」
上下関係はあるようだが、ファデルに軍団長なる役職者としての威厳はどこにもなかった。ファデルはだらしのない兄を叱りつける妹めいていた。ただ、リーンズィにもミラーズにも、二人に浅からぬ関係であることは知れた。
「まぁまぁ。生前に比べれば禁煙家だよ、俺は。毎晩禁煙してる。もうこれで何万回ぐらい禁煙してんのかね。俺ほど禁煙してるやつは他に知らないぐらいだ」
「知らないもクソもねぇよ、まだ煙草をやってるのは、あんたと、他にはもう一人ぐらいじゃねぇかよ。そもそもスチーム・ヘッドが煙草吸っても意味ねぇんだよ、ニコチンだってまともに効かねぇのに」
「違いない。でも中毒だ、これは。魂が煙草の煙に巻かれてる。死ぬか世界が滅ぶかすれば俺も煙草をやめられると思ってたけど、どうやらそうでもないんだ。まったく恐れ入るぜ、俺は何が好きでこんな葉っぱに縋ってるのやら」
言いながら兵士は、ゴーグルと一体化したヘッドギアを、リーンズィとミラーズ、そしてアルファⅡへ向けた。
「よう新入りども。忠告しとくが、俺みたいに館の廊下で他のスチーム・ヘッドに気安く話しかけるのはナシだ。人とすれ違っても見ないふり、知らないふりが無難だぜ。それがここのマナーだ」
得意げに語る兵士に、ファデルは露骨な呆れを浮かべる。
「お前なぁ……じゃあ話しかけてくるんじゃねぇよ。悪影響じゃねぇかよ。何なんだよ、禁煙するから乳首でも吸わせてくれって言いに来たのか? 戦術ネットワークにでも申請してろよ」
「いや、俺ぁやっぱり煙草が良いね。だから新入り連中に、煙草があったら売ってくれって言いに来たのさ。煙草は貴重だ、ただでさえ貴重なのに、誰も市街地から持って帰りたがらない。臭いが酷い上に、買い手が殆どいないからだ。だが俺は高く買うぜ、新入りたち。覚えておいてくれ、買い手はここにいるってな」
ファデルは兵士を見上げながら、仕方なさそうに苦笑した。
そしてリーンズィたちの方を振り返った。
「あー、真に受けなくていいぞ。煙草なんざ、こいつ以外まともな買い手いねぇからな。持ってきても買うとなったらマジでこいつだけ。このヤニ臭いロクデナシは古株で、皆からはマルボロって呼ばれてる。アメリカ製の煙草の名前だな」
「市街地漁りとしてはスペシャリストってね。仕事を一緒にやる機会も近々あるかもな」
「司令部直轄の機体でも、自分でスペシャリストとか言ってるんじゃねぇぞ。恥ずかしくねぇのか? メディアの奥までヤニだらけなんじゃねえか。こいつはよ、信じられるか、煙草のために毎日大枚使ってんのさ」
「……嗜好品のために大枚を使うのはダメなのか?」リーンズィは人生の先輩からの言葉を仮想のメモ帳に必死に書き留めた。「マルボロはダメ、と……」
「何か記憶すること間違えてないか嬢ちゃん」
「マジでマルボロは駄目な大人の典型例だ。その図体で子供だってんなら、せめてこうならないように成長してほしいもんだね」
「ミラーズ、本当にこういうのを『駄目な大人』というのか?」
「そうですね、我が主にして我が子、リーンズィ。昼間から煙草を片手に歩き回るのは悪徳の栄えというもの。姦淫よりも尚酷い。ですが、慈愛の心を持って穏やかに改悛を促すのですよ」
煙草の兵士は憮然とした。「お前らさては初対面の先輩相手でも結構失礼だな?」
「尊敬に値しないあんたが悪い」ファデルは溜息をついた。「ほらマルボロ、新入りの前で禁煙でも誓えよ」
「いいや、誓わないね。座右の銘はキープ・オンリー・マイ・ラブだ。メディアが壊れるまで煙草吸うぞ俺は」にか、と白い歯を見せてリーンズィたちに言う。「一番好きなのはクールなんだが、こっちじゃ全然見つからないから渾名がマルボロになっちまった。マルボロで良いから、どうかよろしくな。よろしく三人とも。……三人で良いんだよな。誰が代表だ?」
現在の事実上のリーダーは当機では? とアピールしてくるユイシスのアバターをぞんざいに追い払い、大鴉の少女リーンズィは、ショートボブで切りそろえられたライトブラウンの髪を触りながら、ミラーズから深層学習で伝達された通り、魅力的に見えるよう、はにかんで前に出た。
「私がそれだ。よろしく、マルボロ。……それと、差し出がましいようだが喫煙は自傷行為だ。不死病患者と言えどもそれには変わりない。精神の健康には十分に気をつけることだ」
「おおう、失礼を通り越してお医者様目線か? ……待てよ、その声、知ってるな。聖歌隊の……」
兵士の生気の無い口元、髭の一本も生えていない奇妙な顔貌に、軽い驚愕の表情が貼り付く。
「あ! その体つき、肩幅、聖詠服のデザイン! お前、リリウム大主教のところのヴァローナか?」
リーンズィは首を傾げた。
「その指摘は正しい。でも驚くのを理解しない。顔を見れば分かるのでは? ヴァローナは有名だと聞いていたが、彼女を知らないのか?」
「有名っちゃ有名だが、俺が会ったのは片手で数えるほどだ。それに、普段はあの中世の医者みたいなマスクだったし、マスクの下は画像であっても金払わんと見れなかったからな。しかも割と高いんだよ。まぁリリウム関係のデータは大体馬鹿高いんだが。だからあんたとは実質初対面だ。あんただって俺のことなんざ覚えてないだろ」
「実質でなく初対面だが」
「しかし驚いたな、攫われて壊されたと聞いたが、無事に帰ってきたのか」
リーンズィの隣で、ファデルは矮躯を竦めて、無念そうに首を振った。
それから己の額を指で叩いた。
「いや、ヴァローナは五体満足なだけだ。メディアがイカレちまってる。今はこの新入りが統御しているみたいだが、手綱を放したらもう、ただ殺すだけの白痴だよ、スチーム・ヘッド見たら手当たり次第攻撃するんだと」
「何だって? あの無闇に見栄えを気にするヴァローナが、そんな荒くれになっちまったのか」
「それを止めて沈静化したのがこいつら。今管理してるのはこいつ、リーンズィっていう女の子だが」
「ああ、要は人格記録媒体差し替えてんのか。人格絶対違うだろと思ったがマジで違うわけな。その首輪が上位のメディアか? コルト少尉と同じ人工脳髄っぽいな」
『不明な名称を検知』ユイシスが警告を発する。オフィサー・コルトの文字が警戒リストの高い順位に配置された。『警告。個体名マルボロの発言は、同系統の技術がクヌーズオーエ解放軍に存在している旨を示唆しています。ウンドワートのような敵対的機体の出現に備えてください』
名前に反応したのはファデルも同じだった。
素早く周囲を見渡して、兵士と視線を交した。
兵士は無言で頷いて、ライトブラウンの髪の少女に改めて問うた。
「それで、お前はどこの誰だって?」
リーンズィは一瞬だけ湧き上がった警戒心を抑制して、少女の声で、厳かに、歌うように名乗った。
「……我々は調停防疫局のアルファⅡモナルキア。私はそのエージェントの一人にして意思決定の主体となる擬似人格、リーンズィだ」
ライトブラウンの髪の下にミラーズから学習した微笑を形作る。
「ただし、私は端末で、後ろの重外燃機関搭載機が我々の本体に相当する」
「待て待て、調停……何だ? 聞いたことないぞ。アルファⅡって言う割に、サー・ウンドワートとも大分違うし、何なんだ?」
「調停防疫局だ」リーンズィはゆっくりとした口調で繰り返した。「国際保健機関の武装外局だ。そして我々はあの不調法ウサギとは一切関係ない」
「は?」
「……私はそんなにあの殺人ウサギと似ているだろうか。心外だ」
「いや、そうじゃなくて、何でWHOが武装するんだよ」
「WHOは武力を持っているのが当然では?」
「いや、必要ないだろ。銃じゃなくて診察器具や薬を持てよ。そういう機関だったろ」兵士は閉口した。「そもそもだ、WHOって継承連帯設立時に国連ごと合流してるはずだろ。それ考えると、サー・ウンドワートともやっぱり何か関係が……」
「私のいた歴史ではWHOは独立していたし、あのピョンピョン卿を私は知らない」
「……知ってて言ってるんだと思うが、あんまりウサギウサギ言うとあいつ機嫌悪くなるから控えめにな」ファデルが割って入った。
「しょうがねぇって。聞いたぞファデル。こいつら外で喧嘩売られて散々嬲られたんだろ」
「そうは言ったって、気安くていいと思うぜ。姉妹機だろ、ある意味で、こいつら。本体のヘルメットもそっくりだ」
「断じてあんな姉妹は知らない」
リーンズィは若干苛立ちながら即答した。
「アルファⅡは、アルファⅡモナルキア以外存在しない」
「そうか、仲悪いのか? なら何も言わんが。まぁ出自は分かった、WHOね、だから煙草がどうのこうのうるさいのか。知らないタイプだ、本物のニューフェイスなわけだ。遅くなったがクヌーズオーエ解放軍にようこそ。煙草関係以外は上手く付き合おうや」
「感謝する。禁煙の相談ならいつでものる」
リーンズィと兵士は緩く握手をした。
マルボロは視線をやや下げて、黙りこくっている金髪の少女へと微笑を向けた。
「そっちの……レーゲントは誰だ? 会ったこと無いよな」
ミラーズはベレー帽を脱ぎ、幼さの残る顔立ちを精妙にコントロールして、見れば心を動かされずにはいられないような、ある種の陰鬱さすら醸し出す、美麗な微笑で応じた。
「ええ、無いでしょう。私が大主教リリウムから離れたのはずいぶん前のことですから。私はミラーズと申します。かつての名をキジールと言いました。現在はアルファⅡのサブエージェントの一人です。二度目の死を経て、楽園の扉を潜るために新しい生命を得ました。かつてレーゲントであり、今はレーゲントではない者です」
「ん、やっぱリリウムの関係者なの?」
「どう見えますか?」
「分からん。顔が似てるけど、その辺は上級レーゲントには割と多いしな。そういうシリーズの機体だし」
「つまり、私もリリウムの娘たちか、と言いたいのですね?」
「そこまで知ってってることは、やっぱ本物の上級レーゲントの成れの果てか。それにしたってこんな若いレーゲントは知らないぞ、聖歌隊で再誕の機密を受けられるのは16歳からだろ? あんたはそれ以下に見えるが」
「ええ。我々はそのように定めました。けれど、私はとても古いレーゲントでしたから」
麗しい退廃の少女はベレー帽を頭頂から降ろして、秋の風に揺れる稲穂のような髪を掻き上げ、艶然と口元を緩めた。
「それほど疑わしいというのなら、ああ、私の矮小なる血と肉で、レーゲントとして如何にして救いを与えるのか、知りたいのでしょうか?」
返事はあっさりとしていた。
「いいや。色々試したが俺はやっぱり人体より煙草だな。煙草の香りだけが俺を世界に繋ぎ止める」
逡巡も躊躇も感じさせない断言。ミラーズは表情を消した。
無碍に扱われたことよりも、自らの方法論が全く通用しないらしい状況に、戸惑いとも新鮮さとも付かないものを感じているようだった。
「おっと、ミラーズの嬢ちゃんが魅力的じゃないって言いたいわけじゃないし、当然そういう誘惑に対しての軽蔑もしてない。古い時代、そっちの世界で、聖歌隊がどうやって厳しい戦局で戦果を挙げてきたかは聞いてるしな。そういう所作の癖は生き残った古参の証だ。だが、自分を切り売りするのは、クヌーズオーエ解放軍じゃもう古いぜ」
「そのようですね」ミラーズは目を伏せながら嘆息した。「ではこの新しい時代、祈りなき富の御国で、あたしはどう振る舞えば良いのかしら? 新しい退廃の時代に相応しいものって何?」
「急に砕けたな。そっちが素か? 再誕者っていうか、古いスチーム・ヘッドらしい二面性だな……そっちで振舞ってれば、それで良いんじゃないのか」
「あたしは、そうかもしれないわ。でもこの子は目覚めたばかりの再誕者なの」見上げながら、リーンズィの手をそっと握る。「あたしに教えられるのは古い世界のことだけ。新しい世界に相応しい、新しい在り方があるというなら、我が子にして我があるじ、リーンズィにどうか教えてあげて? もちろん、望む形のお礼をするわ」
「お礼って、そんなの礼をもらうほどのことじゃないが……いや、そうか。相応しい、新しい在り方、か」
兵士は押し黙った。内心にある柔らかく傷つきやすい記憶の回廊を丁寧になぞり、何事か意味のある言葉を吐き出そうとしているようだが、二、三度言いかけては言葉を詰まらせ、やがて首を振った。
「まぁ……新しいものなんて、ありはしないな。偉そうに言ったが、望ましいもの、なんてのは、やはりもうないな」
「ではどのような振る舞いが適切なの?」
「無い。何も無い。ここは永遠に連鎖して増殖し続ける都市だ。合わせ鏡の、無限に連なる写像に、異なる新しい像が映り込む、そんなことあるはずないだろ? だから、相応しいものは詰まるところ、何も無い。新しいものなんて何も無いんだ。強いて言うならあるがまま、朽ちるがままだよ。それが正しい在り方だ」
「呆れた。それ、定命の人々が生きた時代とどう違うの」
「何もかも違うさ。不滅の世界で、裁き主はどこにもいない。だってそうだろ、審判の時が来たってのにどこにも神様はいないじゃないか。神様はこう仰ってるわけだ、『お前らは誰だ? 私のメモ帳には載っていないが』ってな。行き先がどこにもない時代。そんな時代が他にあったか? あらゆる罪が裁かれない。裁かれないと分かってしまった。裁かれないならば、かくあることが正しいと定められる。そうとも、姦淫が性根なら、それでも良いのさ。神はそれを裁かない。俺が煙草の煙に夢を見るみたいに……」
言葉の最後の方は殆ど唸り声のようだった。ふつりと糸が切れたように兵士は黙った。そして森林迷彩の背を向けて去っていった。
リーンズィはそれをずっと視線で追ったが、兵士はついに振り返らなかった。
兵士は廊下の角を折れて、ユイシスの音紋解析に従うならば、避難用の屋外階段の扉を強引に押し開き、そこから出て行った。
はたと思い当たり、ファデルに問う。
「……エレベーターは、もしかするとあまり使われていないのでは? 彼はそんなもの知らないって歩み方だった。最下層フロアの工場設備も危険だったし、常用ルートではないのだな?」
「あ? ああ」ファデルは何か考え事をしていたようだった。「そうだな。普通は屋外の階段か、直接壁を登攀して窓から出入りするかの二択だ。技術者連中もそうだったろ。エレベーターが動くのは新入りが来たときぐらいだ」
「最初から階段で良かったのでは」
「じゃあリーンズィ、あたしを抱き上げてみて?」
ミラーズが両手を伸ばして囁きかけてきたので、リーンズィはその通りにした。
細い両手が首の後ろに回った。
二人は一度だけ軽く接吻を交した。
「な、何で今キスしたんだ……?」
ファデルは顔を赤らめた。
「あら、そんなに不思議だった? やはり聖歌隊も随分変わったのですね。恋する二人が見つめあったら、これくらいは普通でしょう」
「おかしいとは言わねぇけどよ……あんたら、人格の根っこは繋がってるんだろ?」
「繋がっているからと言って、求め合わない道理はありませんよ? それで、リーンズィ、この姿勢で壁や階段って登れる?」
「不可能では無いと思う。だが非推奨だ。バランスを崩したら君が痛い目を見る」
「つまり、そういうことですね、ファデル。私が段差に弱いと言うことを察して、覚えていてくれたのですね? 粗野な喋り方なのに、なんて紳士的なお方」
ファデルはまた顔を赤らめた。今度は照れた顔だった。
「あんたらも知ってるみたいだが、ローニンの旦那の仕込みだよ。これでも俺は気を利かせてるんだぜ? 心を配りすぎて在庫が足りねぇくらいだ」
「……今も、私たちの他にも、心を配る宛てがあるようだな」とリーンズィ。「どうも落ち着きが無いように見える。マルボロが『コルト少尉』と言ったあたりから様子がおかしい」
「そっちも意外と気がつく子だな」ファデルはブランケットの下で体を屈めた。「痛まないはずの胃が痛い。また面倒なことになるかもしれん……」
「コルト少尉とやらはウンドワートのような危険人物なのか?」
「いや、ウンドワート卿と比べればずっと落ち着いた人だ。栄えある『一人軍団』の最初の一人だ。一つの軍団に匹敵する、一線を画する性能のスチーム・ヘッドだな。特別すぎて他の軍団には組み込めないって意味だが。武器も凄いが冷静沈着で、何があっても……殆どの場面では、何があっても簡単には心を動かさない。本当に強い人を三人挙げるなら、三人目があの人だね」
「そうか。きっと素晴らしい戦士なのだろう。いつかはお目に掛かりたいな」
「いや、すぐにお目に掛かることになるね、こりゃ」
「どういうことだ?」
「煙草だよ」ファデルは溜息を吐いた。「マルボロ以外でもう一人だけ煙草を愛好してるスチーム・ヘッドがいる」
「それがコルト少尉か。しかし何故その機体の名前が出てくる」
「あの人は吸いはしないんだが、火と煙を好む。煙草の匂いも好きで、灰皿の上で煙草に火を着けるんだ。そしてあの人は多分……あんたらに用意した部屋に勝手に入り込んでる」
「何故そんなことが分かる?」
「マルボロのやつだって馬鹿じゃない、勇士の館の掟だって熟知してる。どいつもこいつも花や果物みたいな体臭になった今となっちゃ、煙草なんて嫌われものも良いところさ。外で堂々と持ち歩くのは良いが、館の通路で見せびらかすもんでもねぇ。だがあいつは、敢えてそれをした」
「理解した。そうまでして伝えたい事柄があったということなのだな」
「煙草をわざわざ見せびらかした理由なんて、それぐらいしか思いつかねぇしな。コルト少尉には他言無用だと言われたんだろうが、上手いこと言わずに、アイテムで伝えてくれたわけだ。不味い事態を嗅ぎ取ったんだな。あいつは鼻が利くんだよ、煙ばっか吸ってるくせにきな臭いのには敏感なんだ」
ファデルは重い足取りで廊下を先導し始めた。
仄かに漂い始めた臭気に、すんすんと鼻を鳴らして、顔を顰めた。
「……煙草じゃないな。でもあんたらのための部屋で誰かが何か焚いてる。絶対コルト少尉だ。俺にもあの人は追い出せねぇ。あっちはあっちで軍団長相当だ、指揮系統では対等なんだ。あんたがたの部屋にはこのまま案内する。撃ち合いとかにゃならんと思うが、一応覚悟しといてな……」
「覚悟と決心が多い一日だな」
「ああ。死ぬまでがそうだよ」小麦色の肌の少女は不意に冷たい声で言った。「そして私たちは死ねない」
部屋は東側のもっとも角の部屋にあり、既に「アルファⅡモナルキア」の札がかけられていた。
ただし鍵はピストルか何かで撃ち抜かれたように破壊されてた。
ファデルが先に立って扉を躊躇いがちに開くと、すぐに寝室があった。
角を折れてリビングに入る。奇妙な構造の部屋だった。
丁寧に貼り直された壁紙。窓のそばにある、経てきた年月の厚さにくすむローテーブル。灰皿の上では煙草の代わりに香木に火が付けられている。
微睡みの海を渡るような甘い香りがリーンズィたちを迎え入れた。
その窓際で冬の日の寂しい光を浴びて、彼女は待っていた。
布を張り替えたばかりのソファに腰掛けるスチーム・ヘッド。
運動補助用の簡素な蒸気甲冑。その下にはライダージャケットのような準不朽素材性の防弾服を身につけて、肢体を各所のベルトできつく締め付けている。
膝の上には選択的光透過性を備えた白いヘルメットを載せ、どこか空疎な気配を滲ませる黒く艶やかな髪を垂らして、手の中でシングルアクションの回転弾倉式拳銃と思しき武器を弄んでいる。
ユイシスにより即座に『不朽結晶連続体』の解析結果が添付された。
「あ。あの人、ちょっとかっこいいですね……」
危機感を感じさせないまま、ひそひそと耳打ちしてくるミラーズは、
心なしか目を潤ませていた。好みのタイプなのだろうか、とリーンズィは心臓がちくちくと痛むのを感じた。
「カウボーイなんて初めて見ました。そうそう、朧げに覚えています、初恋は映画の西部劇の俳優で……」
「カウガール、だよ」
良く通る、それでいて酷く静かな声で女性は言った。部屋はしん、と静まりかえった。
「性自認は曖昧なんだけどね。でも見たとおりに考えるなら、私はカウガールなんだろうね。気分はイージーライダーなんだけど、思った通りに見てもらうのはとても難しい」
女性は、首輪型人工脳髄を取り付けた首筋を見せつけるようにして反らしてリーンズィたちを見て、それから右手に拳銃、左手にヘルメットを抱えて立ち上がった。
まだ少女と言っても通りそうな艶色の良い肌。肉体の年齢は成人を迎える前に凍結した様子だったが、女性としては背が高く、リーンズィと比べても遜色が無い。
血の通う人間とは思えない、左右対称の冷たい美貌。
命を吹き込まれた彫刻や、絵画の中から抜け出してきた淡雪の乙女のような非現実的な気配を纏っている。
背丈に反して与えられる印象は脆く儚げで、虚ろな瞳に映る世界は物憂げに揺れている。
その世界にはまず諦念があり、その真っ黒な思念の敷物の上に、アルファⅡたちが立たされている。
リーンズィは無意識に身構えていた。
脳裏に過ぎったのは、都市焼却機フリアエの端末や、車椅子のスチーム・ヘッドであるヘカントンケイルだ。いずれも年恰好は違うが、顔立ちがよく似ている。
それぞれが異なる成長段階のクローンなのかも知れなかった。
異様だったのは、超越的存在にも等しいフリアエや、狂気に落ちたヘカトンケイルとも違う、その言葉だった。呟くようにして繰り出される言葉は悉くが暗澹たる諦観を孕んでいて、美しい声は脳を揺らしてサイコ・サージカル・アジャストまでもを突き抜けて、精神を波立たせる。
手招きするような囁き声。
まるで夜の沼のような暗い誘いだった。
「挨拶が遅れたね。お邪魔しているよ、知らない世界のアルファⅡ」
女性はリボルバーの弾倉を無意味にからからと回して、暗黒へ放り出されたかのような空虚な瞳をリーンズィたちへ投げかけた。
「私はコルト。登録名はコルト・スカーレット・ドラグーン。皆からはコルト少尉って呼ばれてる。それで、誰がアルファⅡモナルキアなんだい?」
「私が意思決定の主体だ」リーンズィは鋭い口調で詰問した。「いったいここで何をしている?」
「顔を見たかったのと、あと、軍曹・ウンドワートが迷惑を掛けたようだから、まずはその謝罪をしようと思ってね」
女性は目にも止まらない速度で回転式拳銃を向けた。
自分自身の頭へと。
米神に押し付けて、引金を引いた。
銃声が轟いた。
「コルト少尉?! 何を……」
悲鳴を上げたファデルが咄嗟に女性の体を支えようとしたが、その女性は倒れ伏せることすらなかった。飛び散った血と脳漿は、床に飛び散ることもなく機能拡張された神経組織に絡め取られ、銃弾が飛び出した傷口へと一切合切、失われるべきだった全てを巻き戻した。
床も天井もカーペットも一滴の血も浴びなかった。
夢か幻のようだったが、実際に現実では無い。
それらは全てアルファⅡモナルキアが仮想空間で予測演算した事象だからだ。
次に瞬きをした時にはコルトは拳銃を頭に突き付ける寸前で、自害を実行してはいなかった。
リーンズィ自体、こんな機能が追加されているとは、実際に発動するまで全く知らされていなかったが、照会するとアルファⅡモナルキア本体の機能と分かった。
アルファⅡウンドワートの未来予測演算を参考にして、ユイシスが実装したらしい。
リーンズィは得られた演算結果から即座にオーバードライブを起動して、室内で制動が効く程度の加速度で銃を取り上げにかかったが、それでも、信じがたいことにコルトなる女兵士の方が動作が速い。
どのように身体を扱えば、最大の効率で、拳銃を動かせるのか熟知しているのだ。
自害を防げなかったためその演算結果は破却された。
次に目を開いた時には、同様にオーバードライブで背後に回り、銃身を打撃して射線をズラしたが今度は調度品に穴が開いてしまう。銃を握る腕を折るか切断しても良かったが、せっかく与えてもらえるらしい自分たちの新しい住処を初日から汚すのは不愉快だった。
最後の試行を終えた頃には首輪型の人工脳髄が凄まじい熱を発していた。白い肌に汗を浮かべながらリーンズィは加速された世界で慎重に打撃して銃身を逸らして、撃針が雷管を叩く寸前に、銃口を完全に計算された角度に向けさせた。
オーバードライブ解除。
撃針が降りて銃声が轟き、連動してミラーズがひょいと身を躱した。
ファデルは状況が飲み込めず何かを言いかけたまま硬直。
そしてスタンバイしていたアルファⅡモナルキアが、飛来した弾丸をガントレットの左手で受け止めた。どのような弾丸が装填されているか不明だったため、リーンズィが知る限り最高の盾で受け止めることにしたのだが、弾丸はガントレットの手の平で呆気なくひしゃげた。ただの鉛玉だ。
モナルキアは潰れた弾丸をそのまま自分のポケットにしまった。
「ちょ……コルト……リーンズィ! 何やってんだあんたら?!」ファデルは叫んだ。「ちょっとでも穏便にやっていこうっていう意識はねぇのか!?」
「同じにしないでほしい、ファデル。私はコルト少尉の自害を止めただけだ」黒髪の女の背後でリーンズィが低い声を出した。「……コルト少尉、それ以上何かすれば、生命保護のために頸椎を粉砕する。……これはジョークだ」
矛盾したその言葉に、コルトはくすりとも嗤わない。
「君にも謝罪するよ、ファデル軍団長。色々なことについてね。君の立場を蔑ろにするわけじゃないけど、ここは<一人軍団>の権限、そして解放軍の立法に携わった一人としての権限を行使させてほしい。私はこのアルファ型スチーム・ヘッドと話がしたい」
大鴉のスチーム・ヘッドに背後を取られても、拳銃を握った黒髪のスチーム・ヘッドは平然としていた。
「リーンズィくんか。君もやっぱりあの子、ウンドワート軍曹と同じ規模の未来予測が出来るんだね」
言葉はあくまでも淡々としていた。黒髪のコルトは一連のアルファⅡモナルキアの尋常離れした機動に対して、別段驚きもしていなかった。
このようにアルファⅡが行動することを予測していたのだろうが、握った拳銃から硝煙を吐き、敵対者に死角を取られた人間にはあり得ない表情だった。
死の気配にも銃声の爆轟にも震えない、永久に満たされない完全なる空虚。
「……君は、本気で自分の頭を撃ち抜くつもりだったな」
「うん、その反応だと予測演算された未来で僕はしっかり死んでいたみたいだね。ちゃんと再生しながら陸に打ち上げられた魚みたいにのたうって苦しんでたかな? その光景を憐れんで、この件は手打ちにしてくれないかな」
コルトはそっと自分の首輪型人工脳髄に触れて、倦怠感に満ちる乾いた笑いを笑った。
「もっとも、私を演算しているのはこっちの非侵襲式の人工脳髄だからね。頭を何で撃ち抜いても本質的には意味はないのだけど。でも、私はあんまり死んだことがなくてね、再生も遅いし、痛覚もしっかり残ってる。本気で自分を苦しめようとしたんだってことは信じてほしい」
「嘘だと判断する。痛覚を敢えて明瞭に残しているスチーム・ヘッドなんていない」
「いいえ、リーンズィ、この方は嘘をついていません」コルト少尉に注がれていた陶然とした視線は、今や冷え切ったものに変じていた。「あの目を見なさい、あのような暗い目をするのは、一つの信仰も持たない者だけです。この方は真実しか口に出来ません。……だって、偽証すべき相手がいないのだから」
ミラーズはこの黒髪の女性を敵と見定めたようだった。
リーンズィは敵とまでは見なしていなかったが、脳内の危険リストの上位、ウンドワートの次の位置にコルト少尉の名を書き加えた。
「分かってもらえたようで嬉しいよ」平坦な笑みを浮かべたままコルトは言った。「分かり合えるって嬉しいよね」
「違う。私は嬉しくない」
リーンズィは溜息をついた。コルトの目が真っ直ぐに覗き込める位置に移動して、意図して大袈裟に表情筋を操作して、端正な顔を不愉快の色に染めた。
「苦痛を伴う自傷行為は許容されない。たとえそれが贖罪のつもりだとしても、二度と私の前でそんな行為をしないよう要請する。全ての生命は安寧のうちに保護されなければならない」
「安寧のうちに保護されなければならない、か」黒髪の女はライダースーツの腕を緩く交差させながら、少しだけ愉快そうに表情を崩した。「調停防疫局らしい物の言い方だね。調停防疫局。とても懐かしい響きだ」
「コルト少尉、その口ぶりは……我々を知っているのか?」ライトブラウンの髪の少女は気色ばんで目を見開いた。「調停防衛局を? その拳銃、考えてみれば不朽結晶の火薬式拳銃なんて他の組織では……君も……私たちと同じ、エージェントなのか?」
ライダースーツの女は月の無い夜に輝く上弦の月のように目を細めて、あは、と密かに笑った。
「おかしいね、まだ分からないのかい? お互い、大差はないデザインだと思うんだけど」
コルトはおもむろに補助演算用人工脳髄が仕込まれた不朽結晶連続体のヘルメットを被った。
頭部を装甲し、腰に拳銃を吊るした、西部開拓時代の騎兵のようなその出で立ちを、兵士と表現しない者はいないだろう。
選択的光透過性の黒い鏡面世界の奥で、白い燐光を放つ不朽結晶連続体のレンズにリーンズィたちの姿を捉えた。リーンズィの瞼の裏に幾つかの情景が浮かんだ。
だがそれらの記憶をリーンズィは事後的に消去された。
リーンズィは、初めて自分の記憶にある誰か、生まれる前から知っていた誰かのシルエットを認知した。
その生産活動に連動して、玄関に控えていたアルファⅡモナルキアが前進してきて、その白いヘルメットのスチーム・ヘッドと対峙した。
コルトは見知らぬ土地を彷徨う騎兵隊員に似ていた。
アルファⅡは見知らぬ星に不時着した宇宙飛行士に似ていた。
即ち、ここに存在するはずが無い者ども。
あり得ざる、という一点で繋がる、人間性に背を向けて平穏を望んだ愚者たちの末裔。
「……私は、君を、君の影を見たことがある……?」
リーンズィは呆然として呟いた。
「君は……アルファⅠだな? アルファⅡモナルキアの祖にして姉妹機。アルファⅠサベリウス……!」




