2-9 第二十四番攻略拠点 その1
巨人の手に揺られながら、リーンズィは終始不機嫌だった。
とても『歓喜の歌』など口ずさめる心持ちでは無かった。精神のどこにも、それに類する衝動や、何か嬉しいことを書き込むべき余白は存在しなかった。
丁寧に整えられた、不死病によってもはや永久に変化することのない眉根を寄せる。
むくれた頬を傾けて、不機嫌な猫が毛繕いでもするように、艶めく耳元の髪束を、落ち着かない様子で撫でている。
その背後に跪くのはヘルメットの兵士だ。装甲された腕でリーンズィの首輪型人工脳髄を掴み、給電と接触回線による重点的な生命管制支援を行っている最中だった。
首の鉄輪を掴まれて、軽く持ち上げられているリーンズィは、さながらご主人様に首輪を掴まれて、ひょいと持ち上げられた子猫のようであった。
リーンズィに使用している肉体も、その年代の少女としてはおそらく背が高い方だが、アルファⅡモナルキアの兵士としての巨躯には劣る。
リーンズィにはそれも気に入らないのだった。
どこまでも我が儘で、小生意気な猫であった。されるがままにされつつ、しかし確たる意思で以て、自分のあるじと向き合うことを拒否している。
「私は、負けてなんていないのだ……」唇を尖らせながら、虹彩の赤がようやく退色を始めた瞳で、己の右腕に目を落とす。「さらにもう一種、新しい悪性変異を重ねていれば、あのふざけたウサギ鎧を倒せていたのに」
ウンドワートなるスチーム・パペットに切断された右腕は、アルファⅡモナルキアからの直接支援によって急速に再生されつつある。骨格は復元を完了しており、血管と神経網が根を張り始めている。
手甲を装着しているのは、これの関節をロックすることで固定具の代替品として、再生を促進・安定化させるためだ。
脈動する筋肉と皮下脂肪は限定された空間に沿って増殖し、過度に膨脹することなく順調に新造された骨格を覆いつつある。
変異させた部位さえ切断すれば、次に再生した時には、肉体の恒常性に従って正常な状態に回帰する。皮膚組織までもが完璧に元通りになることだろう。
「そうとも、アルファⅡ本体ではないにしたって、アルファⅡモナルキアのヘルメット無しでも、私はちゃんとエージェントとしてやれるのに。それなのに、みんな私のことを侮る……」
ぶつぶつと負け惜しみ以外の何事でもない言葉を繰り返すリーンズィ。
その隣にちょこんと座ったミラーズが、まぁまぁ、と苦笑する。
「拗ねた猫みたいな顔も可愛いですけど、リーンズィ、でもいい加減に気を直した方が良いと思うわよ。あんなに強い大鎧の人と互角にやり合えたんだから、素直に誇ってみたらどう?」
リーンズィよりも小柄なそのふわふわとした金髪の少女は、あやすように語りかけながら、そっと頬に口づけをしてくる。
癒やしの聖句を自己適応しているのだろう、戦闘の疲労はすっかり回復した後のようだ。
リーンズィの、ウンドワートに吹き飛ばされた方の頬は、まだ再生が終わったばかりで、ひどく鋭敏に少女の口づけを感じ取った。
その唇の温かな柔らかさ、消えてしまった傷口を舐めるような舌先が、和毛から漂う甘く狂おしい花の蜜の如き汗の香りが、耳をくすぐる慰めの言葉が、今のリーンズィには却って辛い。
ライトブラウンの髪の少女が反発する前に、割って入る声が合った。
「あまり甘やかしてはいけませんよ、私のミラーズ。そこの駄目なサブエージェント、リーンズィの失策は自明なのです」
「そればかりは同意できないわ、ユイシス。今やリーンズィは我が子も同然。愛しい子を甘やかしてはいけない時なんて、この時代には無いと思うのです。ねぇ、私のユイシス?」
「消極的に否定します。ですが、この場合は、適切な諫言を贈るのも愛情というものかと」
よほどウンドワートとの戦いに巻き込まれて参ったのだろう。
無言で大きな足音を立てて歩き続けるポーキュパインは、ただそれだけのために作られた機械のようだ。
その周囲をふわふわと漂っていたユイシスが、ゆらりとした動きで飛来して、逆さまの姿勢でリーンズィと目を合せてきた。
何だか咎められているような気がしてリーンズィは気まずそうに目を逸らした。
逆さまの少女の両手がリーンズィの潔癖そうな顔を掴んで、ぐいと正面に向けさせる。
現実には、人工脳髄に干渉を受けたライトブラウンの髪の少女が、自発的に顔を動かしただけだったが。
「咎められているよう、ではありません。当機は貴官を咎めています。警告します。貴官の思考傾向は極めて危険な状態にあります」さらりと思考を読んでくる仮想の少女の、呆れ果てた声が耳に痛い。「ただ一種の悪性変異をコントロールするだけでも非常な危険が伴います。極めて安定化の容易な<不滅の青薔薇>でさえ発症させるリスクは甚大なのです。二種使えば、という仮定は妄想じみており、大変非現実的です」
「で、でも……だって、そうしたら勝てたと……」
「勝てませんでした。それが現実です」
「し、しかし……」
ミラーズから退廃と慈愛の色彩だけを取り除いたような美しい顔をしたユイシスは、表情の質という点でミラーズと決定的に異なる。
基本的にその淡泊な面相を彩るのは、嘲笑と呆れだ。
「でも、じゃありません」ミラーズが囁く。
「しかし、でもありません」ユイシスが叱責する。
同じかんばせに、静謐な冷淡と媚笑の温和。
正反対の表情を浮かべる二人に囲まれ、非難する声と窘める声を同時に浴びせられ、リーンズィには言葉もない。
大好きな顔が、二人して自分を責めてくる。どうしていいか分からなかった。
俯くリーンズィの鼻先をつんつんと指先で軽く突くのはユイシスだ。
「自覚していないようなので忠告しますが、さらに悪性変異を重ねれば勝利条件を満たせていた。そう仮定すること自体が危険なのです。その可能性を検討するだけで、貴官の価値評価基準から、通常ならば選択が許可されない絶対禁忌が、非推奨な選択肢のレベルへと凋落していきます。さらに遡及的に言及すれば、たった一種の悪性変異すら、貴官の人工脳髄では精密にコントロール出来ていないのです。勝てたもかもしれない、という予想は欺瞞に満ちています。それどころか、ウンドワートが貴官の右腕を切断しなければ、貴官は指先から爪先まで全部位を<不滅の青薔薇>に変換されていたでしょう。現実は、これです。現在の貴官は右腕を破壊された無力な女の子です。敗北し、ウンドワートに慈悲をかけられて、貴官は異形の怪物になる運命を免れたのです」
う、とリーンズィは目を伏せる。
結局ウンドワートは、肉体の一部を変異させるというリーンズィの切り札すら、難なくいなしてしまった。まるで未来が見えているかのような精妙かつ高速な動きで、リーンズィ自身にすら掌握不可能な速度で殺到する青薔薇の槍衾を完全に捌ききったのだ。
その上で身体的限界を迎えようとしていたリーンズィから『不滅の青薔薇』そのものと化した右腕を切り飛ばし、肉体に絡みつく汚染部位までも瞬く間に取り除いた。
飛散した青薔薇は予定されていた通り枯死して安定化し、自動的に鎮静塔の形成を開始したが、リーンズィが変異した右腕に拘泥していればどうなっていたか。
その末路はユイシスの指摘したとおりだ。
「断言します。あれは『互角の勝負』などではありませんでした。ウンドワートが手加減をしていなかった瞬間は、モナルキアが観測した限りでは0.001秒にも満ちません」
手加減をしていなかった時が、それでは逆に、あったのか?
その疑問は口に出さない。
ウンドワートの激昂と鎮静の落差があまりにも激しすぎたため、リーンズィには大体の事情が察せられていた。奇妙なラグをヴァローナの眼球が捕らえていた。
おそらく自分の本体たるモナルキアが、感知できない領域で、ウンドワートとの交渉と調停を成立させた。
「うん。分かってる……私は結局何も出来なかったのだ……」
殺意を唐突に霧散させたウンドワートは、予定調和的にリーンズィをいたぶった後、『話にならん、話にならんよ。始末するにもまだ足りぬ』と飽きたような言葉を妙に芝居がかった声で言い放ち、不滅の青薔薇を切除するだけ切除して、攻撃を中断した。
そして重外燃機関の格納スペースから少しばかり焦げた白い兎のぬいぐるみを取って投げ、『そのぬいぐるみ一個がオヌシらの価値じゃな。そのくだらんぬいぐるみを後生大事に抱えて生きてゆけ、ワシの寛大なる心を忘れぬようにしてのう!』などと吐き捨てて、電磁装甲に迷彩を発生させて、雪の溶け残る森へと姿を消してしまった。
何も言い返せないまま、その間抜けで平和な、ふわふわとしたぬいぐるみを存在しない右腕で受け止めたようとしたとき、リーンズィは正気を失いそうなほどの敗北感に嗚咽した。
そう、何もかも一方的だった。
自分の抵抗は無意味だった。
視線を落としたリーンズィの目に薄らと涙が浮かぶ。
何ら激しい感情ではない。サイコ・サージカル・アジャストは起動せず、ライトブラウンの髪の少女は過度に表情を変化させない。
ただ平坦な失意によって、肉体の酷使によって変色した赤い瞳を、涙に滲ませている。
「わ、私は確かに無謀な……勝ち目の薄い選択肢に縋ったのかも知れない。あのモードが危険だというのも分かっていた。悪性変異体に体の一部を任せるなんて正気じゃない……」
言い訳じみた言葉の端々から漏れるのは打ちひしがれた少女の落胆だ。
「でも……必死で……ミラーズも私も酷い目に遭わせると、あのスチーム・ヘッドは、パペットは言った……モナルキアまで破壊すると……そこで何もしないなんて、そんなの、私が存在する意義がなくなってしまう。調停も出来ない。どこにも行けない。ポイントオメガなんて、全然分からない。でも、だから、せめて皆を助けたかった。私は今まで一度だってミラーズを助けられていない。このままだとユイシスにだって愛想を尽かされてしまう……いらないエージェントだって、思われてしまう。皆に失望されたくなくて……」
「リーンズィ? あたしたち、決していらない子だなんて……」
ミラーズの言葉を制して、リーンズィ唇に指を当てて黙らせたのは、逆さまのままのユイシスだ。
目を丸くしたリーンズィ目の端から流れた涙を、ユイシスが拭い取る。
もちろん、物理実体を持たないユイシスは、現実には何も出来はしない。
涙は頬を伝い、顎先から堕ちた。
だがリーンズィが感じるユイシスの熱は本物だ。
ミラーズ譲りの甘い芳香も、まやかしだと分かっていても、否応なしに誤認してしまう。
そして頬と唇に軽く接吻された。
そうなってはもう、渦巻いていた怨念じみた思考も霧散してしまう。
「驚きましたか? 今のはミラーズがキスをして黙らせる予徴を察知しての先制攻撃です。恋敵への予防的措置ということですね」
「恋敵へのキスを防ぐために先にキスをするというのは普通ではないと思う……」
強がるリーンズィに、ふふ、と電子の少女は悪戯っぽく笑う。
「リーンズィ、貴官の神経活性は当機が随時モニタリングしています。貴官が何を希望し、何を求め、何を恐れているのか、当機には分かります。そして何を望んでいないのかも。リーンズィ、貴官の中で調停防疫局のエージェントとしての意識は、かなり低い水準にありますね? 危険な領域だと表現できます。貴官は自分の任務を把握していますか?」
エージェントをエージェントたらしめる任務。
全ての争いを調停すること。
旧WHO事務局の安否を確認すること。
ポイント・オメガなる謎の地点への到達。
忘れてしまったわけではない。
だが、リーンズィにとっては、それらの本来の任務は、どうにもあやふやになってしまっている。
実行しなければならないという意識はあるのだ。
しかし、世界が理解の及ばない次元で破局を向えつつあるらしいこの状況では、何事も本質的ではないように思える。
任務に対する絶対的な疑念を拭えない。
だって、その先が何も見通せないのだから。
「……笑いたければ笑ってほしい、処罰するなら処罰するといい」
鴉の如きインバネスコートの少女は膝を抱えた。
「そうとも、私はもうエージェントとしての仕事なんてどうでもいいと思っているのだ。調停せよと言うが、何を調停すれば良いのだ。私たちに出来ることなんてないだろう? それにWHOの事務局なんて、どこにある? この無秩序に接ぎ木された世界で、当初の任務の達成は事実上不可能になってしまった。誰が見たってそうじゃないか。エージェントとしては落第だ。だから、少しでも、少しでもサブエージェントとしての有用性を示さないと、好きな人たちを、ミラーズを守るぐらいは出来るということを証明しないと、私は早晩モナルキアにデリートされてしまう。この私を末梢されてしまう……」
「それ故に自暴自棄になって、危険な選択肢を選んでいると? 貴官の思考はあまりにも短絡的すぎますね」ユイシスは溜息をついた。「真実、無用なサブエージェントだというのならば、貴官はとっくに機能を停止しています。アルファⅡモナルキアは貴官を高く評価していますよ」
最後の部分は酷く空虚に聞こえた。
鉈を振りかぶられているかのような悪寒に、リーンズィの顔を構成する冬の猛禽類、あるいは猟犬のような静かな勇ましさが、明確に怯懦の兆候を示した。
「……そういう言葉が出てくるときは、返す刃で大抵真逆の非難が出てくる。過去の具体的なエピソード記憶が無くたって、それぐらいは分かる」
ユイシスは聞き分けのない子供をあやすようにもう一度口づけをした。
今度は相手の呼吸を乱し、整わせ、己に従わせるような、丁寧な感触だった。
少女は上気した顔でその接吻を受け入れ、そしてごしごしと自分の口元を擦った。
「リーンズィ、それはちょっと失礼じゃないかしら」
「人工知性としてもショックなのですが……」
「私も、ユイシスは嫌いじゃない。でもあんまり好きにされたくない」
「アルファⅡよりもかなり気難しい人格になりつつありますね。それでは、準備はよろしいですか? モナルキアの変性同位体たる貴官に告白します。アルファⅡモナルキア本体も、実際は貴官と同じ葛藤に行き当たっているのです。そして貴官ほど明瞭な意思決定を未だ確立できていません」
そんなことがあるのだろうか? リーンズィはあからさまに当惑した。
アルファⅡモナルキアは完璧な演算能力を備えた、リーンズィが模範とすべきエージェントだ。
それが葛藤して、自分と同じようには、動けないでいる?
「つまり、迷っている……? 本当の私が? 私と違って。ありえない、彼はもっと完璧なのに」
「彼は任務と規範というフレームに束縛されていますから、貴官のようにミラーズや当機を行動原理の中核へ設定出来ません。無意味と分かっていながらも、ミラーズ恋しさに奮起できる貴官との差異は深まりつつあります」
「でも、私の愛着や思慕は滑稽だろう。そんなのは紛い物だ。いつわりの魂が見ている幻覚。自覚しているんだ、こんなの、一方通行な空回りで、届くわけがなくって……惨めなだけだ。そんなところを誉められたって……」
「いいえ、いいえ。愛していますよ」ミラーズが囁く。「私の主にして最後の我が子、リーンズィ。確かに、いつわりの魂に植え込まれた愛着かも知れません。でも、この感情は疑いようがないのです。その気持ちだけは確かだと信じてくれますか……? 信じて、もっと自分を大切にしてくれますか……?」
ミラーズがリーンズィの首に手を回すのに合せて、モナルキアがさっと身を引いた。
行進聖詠服の薄い布に肉を浮き上がらせながら、ぴったりと身を寄せてくるミラーズの、翠玉の、どこまでも深く沈降するような瞳の色彩に、リーンズィは飲み込まれそうになる。
そのとき、ポーキュパインが『おーう! やっと来てくれた! ファデルー! 助けてくれー! 俺の手の上がまたレーゲント劇場になってるー!』と声を上げた。
目を潤ませるミラーズの唇を当て損ね、ムッとした顔で正面を見たリーンズィの目に、雪の降り積もる木々から雪を散らしながら猛烈な速度で街道を駆けてくる巨体が映る。
円筒状の奇妙な頭部を持つスチーム・パペット、ミフレシェットだ。
オーバードライブで駆けつけてくれたらしく、全身からは冷却と排気のための白煙を吐き出している。
あたかも神話にのみ現れる霧の巨人の如き威容。
邪魔された、という怒りも忘れ、リーンズィは無意識のうちに感嘆を覚えた。
ミフレシェットは両足を街道に突き立てて急減速し、盛大に雪花の飛沫を上げながら、丁度ボーキュパインの目前で停止した。
そして背中にマウントしていた無骨な大剣を構えた。
『全員無事かぁ?!』
『おいおいファデル、もしかしてずっとオーバードライブ入ってたのかよ、連絡つかんと思ったら……』
『そうせんと間に合わねぇだろうが! ウンドワート卿は? 何もされなかったか!』
ポーキュパインは泣きそうな声を出した。『された! されたって! このレーゲントもどき二人と、変なヘルメットと、なんかいきなり戦闘になって……俺ぁオーバードライブ積んでないから頭抱えてじっとしてただけなんだけどよ……ああ、でも凄いぜ、なんとか凌いだみたいだ! 手からうにょうにょ何か生やしたりして……っていうかやっぱり危険物じゃん、この子ら! 平気で変異体の力使うなんて聞いていないぜ!』
ミフレシェットの方はアルファⅡモナルキアの機能を承知していたらしく、バツが悪そうに大型剣を元の位置に戻して、頭を搔くジェスチャーをした。
『悪いことをしたたぁ、思ってるよ。でも聞いてたら護送拒否してただろ、おめぇ。それに<不死身のアレックス>ならどうにでも出来ると思ってた。だいたい、報酬にやたらめったら色付けておいたし、何となく分かってただろ』
『休日出勤手当だと思ってたよぉ。ファデル、俺を高く買ってくれるのは嬉しいし、純粋蒸気駆動方式だから頑丈なのも確かだけどよ、それにしたって限度ってモノがあるぜ』
『ウンドワートの旦那さえ襲ってこなけりゃ無茶な話じゃ無かっただろ。で、肝心のウンドワート卿はどこ行った?』
『とっくにドロンしたよ。自分のほうが強いって確信したんじゃねえの? そっちのセンサーだと何か気配とか分かるか?』
『分かんねぇ。仮に近くにいても、その気になればあの人は音紋探知まで誤魔化せるんだからな……』
円筒型ヘッドの無数のセンサーが、ポーキュパインの手の上で身を寄せ合っている三人に向けられる。
そして『すまねぇ、俺がついてればウンドワートの旦那も大人しくしてるだろうと思ってたんだけどよ、見通しが甘かったみたいだ。まさか完全周波数欺瞞迷彩まで使って飛び出してたなんてよ……』と円筒の頭をわざわざ下げてきた。
リーンズィは「君には連絡を怠る癖があるのだな」と頷いた。「事前に言ってくれれば、我々も対処のしようもあったのだが」
ミラーズが「こら、八つ当たりはやめなさい」と溜息をつく。「嵐みたいな人だったし、準備していたって結果は同じでした。ミフレシェットさん……ファデルさんだっけ? じかに会うのは初めての人なんだから、あんまり困らせない」
『弁解のしようがねぇ。ただ両方とも事前情報無しで、穏便な形で引き合わせたくてよ』
「私は情報をもらっていても一向に構わなかった!」とリーンズィ。
『でも、それはフェアじゃねえだろ。コンセプトが真逆っぽい同系機なんだから、思うところもあろうし。それにしたって、先制攻撃するために攻略拠点から抜け出してたなんてなぁ……あの人は大のカースドリザレクター嫌いなんだが、それ抜きにしても……ちょっとな』
「問題児なのだな!」リーンズィは頷いた。「あの機体は何なんだ? 何故いきなり攻撃を……」
『悪い人じゃあ、ねぇんだけどな。なんか強さにやたら拘ってて、いや実際強いよ、でも度を越してんだな、執着がな。同系機のあんたがたのことも気になってしょうがねぇみたいだった。何にせよ俺の不手際だよ。あんたらがウンドワート卿とそこそこ戦えたみたいだから良かったが、ここも俺がフォローすべき場面だった。マジで申し訳ねぇ』
「当機があなたをハッキングをしたことがそもそもの発端なのです。気にしなくて良いですよ」とユイシスがアバターをミフレシェットに近づける。
『誰だよ。姿が見えねぇが……』円筒型ヘッドがくるくると周囲を観察する。『あ、さっきも何か聞いた声だな。例の少女帝国危険思想AIか?』
「危険思想ではないです。ちなみにあなたにも当機の庭園に入る資格が……」
『で、そっちがヴァローナの後継のリーンズィと……なるほど、あんたがキジールか。何だか変な感覚だな、ナマで見るとロジーにそっくりだ』
ミフレシェットは短い時間、逡巡したようだった。
『まぁ積もる話は後だな。とりあえず俺たちの拠点に案内しよう』
「ところで、君の名前は?」リーンズィが巨人の手の上で首を傾げた。「ミフレシェットではないのか? シィーとは知り合いなんだ。彼のレコードを見させてもらったとき、君の名前はミフレシェットだった」
『そうだ。今はファデルと名乗ってるけどよ。……シィーの旦那は?』
「もういない。任務が終わった。現在は破壊されている。スチーム・ヘッドに死後があるのだとすれば、穏やかに眠っているだろう」
『そうか』
全身を煙らせる巨人は短く答えた。
『……良かったと思うよ。あの人も疲れてただろう……』
ミフレシェットに導かれて辿り着いた先には、壁と門があった。
表面上は木材で構築された城壁のようにも見えたが、実際にはその防壁は、遙か上方まで広がっていた。濃淡の均一な冬国の空が、女王の吐息のような穏やかな風に吹かれるたび、春の先触れに身じろぎする静かな海のようにふわりと波打つのが見えた。光学素子の性質を付与された不朽結晶連続体の障壁が展開されているのだ。それで自然に風景に溶け込んでいる。透明な壁の存在は、雲間に反射した陽光の見せる些細な揺らぎに見えなくもない。そこに何かある、と意識しなければ、異常に気付くのは難しいだろう。
一個小隊規模の兵士が門の傍らに陣取っていたので、ポーキュパインから下車したリーンズィたちは、しばしぎょっとした。全て不死病の感染者だった。
頭部に人工脳髄との類は見受けられないものの、バトルライフルや重機関銃を抱えたその姿は完璧にコントロールされた不死の軍団のそれだ。
言語として成立していない歌詞を、奇妙な節回しで輪唱している。
『原初の聖句を吹き込まれた自律兵士だぁな。号令が無い限りは猫より無害さ』
うつろな目をした死者の軍勢は神を讃えているということ以外何も伝わってこない歪にして無形の聖歌を口ずさみ、リーンズィたちの面相を一顧だにしない。
来たるべき時代の軍隊。
世界に満ちあふれた、どこにでもある人間性の終焉の形。
彼らは自由意思も理想もなく、ただトリガーを引く日を待ち続ける。
木組みの門の前には、剣呑な集団とは打って変わって、素朴ながらも華やかな装いの少女が立っている。黒く丈の長いスカートに、ベストのような赤い上着。庶民的な侍女服のようにも、農村の伝統的な民族衣装にも見えた。
いずれにせよ、ヘカントンケイルやフリアエの子機の端末という前例を知っていれば、さして不思議な服装でもない。
『そいつが今日の門番だよ』とファデルが言った。
「リーンズィは疲れているでしょう? 挨拶するのは、あたしに任せておきなさい」
帽子を被り直し、羽根飾りを見栄え良く整えながらミラーズが前に出る。
「門番の方、お初にお目にかかります。私は調停防疫局のエージェント、アルファⅡモナルキアの……」
「クヌーズオーエへようこそ。ここは第二十四番攻略拠点です!」
門番の少女は元気よく応えた。
「……サブエージェントで、元レーゲント。名をミラーズと申しま」
「クヌーズオーエへようこそ。ここは第二十四番攻略拠点です!」
門番の少女は元気よく応えた。
「あの……」
「クヌーズオーエへようこそ。ここは第二十四番攻略拠点です!」
門番の少女は元気よく応えた。
「何なのかしら……?」
まるで発条仕掛けの機械のようだった。
すす、とミラーズは引き攣った顔で退いて、リーンズィの甲冑の指先を握り、「な、何だか様子がおかしいわ」と耳打ちした。
すると、城壁に隠されていた覗き窓が開かれた。
現れたのは対スチーム・ヘッド用狙撃銃だ。
既に電磁加速用のチャージを終えている。
にわかに緊迫したリーンズィがオーバードライブを発動使用したのも束の間、スコープと一体化した戦闘用ヘルメットを装着したスチーム・ヘッドが、大儀そうに顔を出した。
それから、寝ぼけたような動きでリーンズィたち三人のアルファⅡを見下ろして、ミフレシェットとポーキュパインを見て、狙撃銃のコイルへの給電を停止した。
『物騒なことするんじゃねぇ!』
「受付が三回以上歓迎の声を上げるのは、定型の受け答えをしないやつが来たって言うサインだ。警戒するに決まってんだろ」
『ああ? 俺ら見りゃ、敵じゃないのは分かるだろ』
「分からないって。だって寝てたし」
「作戦中のスチーム・ヘッドが眠るわけが無い」リーンズィが両手でハルバードを構えた。「回答如何では反撃も辞さない」
「冗談だって。最初から弾入れてないし。遠くから見てたよ、受付嬢にビビるところまで」
何とも気の抜けた返事に、リーンズィは眉根を寄せて穂先を下げる。
「やって良い冗談と悪い冗談がある、それぐらい私にも分かる。それに、何なのだ、この少女は。人工脳髄の故障か?」
ピリピリとした気配のままの問いかけに、狙撃戦仕様のスチーム・ヘッドは鷹揚な仕草で頷く。
「ああ、その子自体は、聖句吹き込まれた、ただの感染者さ。城壁管理用の端末だよ。言葉はそれしか発さないんだ。受付って言うと語弊あるが、ここがどこで何なのかをアナウンスするのが仕事なわけだな。そういう風に、聖句でプログラムされてる。で、俺が本物の、ここの門番の係ね。第二十四番攻略拠点城壁管理係のエルモだ」
エルモはのんびりと、それでいて淀みなく舌を回しながら、同じ視線の高さの巨人に話しかける。
「しかしファデル、えらく早い帰りじゃないか。予定と大分違うから、驚いたのは本当だぜ」
『あれだ、ウンドワートの旦那がやらかしたんだよ』巨体が呆れのジェスチャーを作る。『そっちで何かやらかしたわけじゃあねぇだろうな。旦那が来ても通すなって言ったろ』
「お前が出て行ったのが、開門の操作をした最新の記録だよ。いつものことだと思うがね、どうせまた検疫とか無視して城壁飛び越したんだろあのウサ公」
「ウサ公」リーンズィは復唱した。
「で、お前の足下にいるのが新しい、違う世界のアルファⅡ? どの感染者がそれだ?」
カチカチ、とヘルメットと一体化したターレット式レンズを回転させ、エルモと名乗るそのスチーム・ヘッドは喉を鳴らした。
「ああ、ヘルメットのやつがやっぱりそうか。その放熱量、俺が狙撃銃を出した瞬間からオーバードライブを起動させてたな。他の二人が悠長にしてたのはそっちのヘルメットの機体が本命だからか」
リーンズィは無言だ。
そのような認識は無かった。
ウンドワートとの戦いの時から奇妙に感じていたが、この時確信した。
アルファⅡモナルキア本体は、どういうわけか積極的に情報を共有するつもりがないらしい。オーバードライブが起動していたというのも、言われてからユイシスに照会して、やっと確認出来た。
ミラーズは「いつのまにそんなことを。あなたもあんまり好戦的な態度を見せない! あのウサギの人と同じになりますよ!」と叱っていたが、自分の本体が、自分の意思決定とは全く関係なく行動しているという事実に、リーンズィは薄ら寒いものを感じる。
「なるほどなぁ、反応も速いし外見のデザインも似てる。そりゃピョンピョン卿も荒れるわ。ワシの色違いは認めぬ! とか言いそう。ブランドイメージが崩れるとか何とか言われなかった?」
「ピョンピョン卿」不意に聞こえてきたフワフワとした単語をリーンズィは復唱した。「ピョンピョン卿……? ブランドイメージは……いや、そういうのは最初から無かったし、言われなかったが。そもそも私としては彼に対する印象がとても悪い」
エルモはぶつぶつと殆ど一人言のように言葉を続けた。
「たぶん裏ではそういうこと考えてたよあの人は。ブランドイメージが落ちることを本気で怖がってる。<首斬り兎>の迎撃にまた失敗したから不安定なんだ。変に抱え込みすぎなんだよな。強くないと疎まれると思い込んでるんだろうな。そもそもなんで俺らみたいな古参とも打ち解けないんだ? 打ち解けたくない事情でも……」
そうして、ふと眼下のアルファⅡたちを思い出したかのように声を明るくした。
「おっと、そうか、ウンドワート卿に絡まれたってことは、殴り合いをした後なんだ。あの人自分で最強最強言ってただろ」
「しつこいぐらい言っていた」
「あれ事実だから。生き残るなんて、やるじゃんか」暢気にぐっと親指を立てて手を伸ばしてくる。「良くコテンパンにやられなかった。開門するからちょっと待っててな」
反射的にリーンズィが親指を立てるジェスチャーを真似する。
ミラーズもよく分かっていない様子で追従して、アルファⅡモナルキアもついでのように動作をトレースした。
一連の動きを予想していなかったのだろう、エルモはヘルメットの中で忍び笑いをしたようだった。
「ピョンピョン卿と違ってノリが素直だ。アルファⅡって言っても同じじゃないわけだ。あっちも、もうちょい素直ならなぁ」
『グリエルモ、無駄話もいい加減にしとけ。病み上がりの、しかも戦闘直後のスチーム・ヘッドを野外に突っ立たせるのは良くねぇだろ。しかもウンドワート旦那を向かわせたちまったのは俺らの責任だろ』
「はいよ、ファデル軍団長殿は真面目なことで。言われなくてもそろそろ開門用のエンジンも暖まったころだし……」
「あ、待ってほしい、結局この少女は何なのだ?」
リーンズィは同じ歓迎の単語を繰り返す少女を見ながら、眉を潜めた。
開門のためにエンジンが必要という事実から、このタイミングを逃すと中々城壁の外には出られないと見越しての問いかけだった。
「これをさせることに、何か意味があるのか。感染者への虐待ではないのか? 調停防疫局のエージェントとしてそれは見逃せない」
「お、そういうの気にするタイプの組織の人か? レアだなぁ。ああ、まぁ、意味はないよ。でも虐待じゃなく正当な労働なんだ。三交代で、荒天時は全員引っ込める。ちゃんとした雇用だ、このクヌーズオーエでは有り触れた……」門番のスチーム・ヘッドは肩を竦めた。「だいたい俺たち、いや彼女たちはゾンビなんだぜ、死なない哀れな者ども相手に虐待なんて、ナンセンスさ」
「ゾンビではない。死ねない病に冒された、人間だ」
「ハレルヤハ、そうなんだよな。理解が早い。そう、人間……ゾンビじゃ無くて人間! そこが大事なんだな。人間だから、働きもすれば、給金ももらうのさ。特に俺は方針としては君に割と近いと思う。被雇用者である彼女らには三時のおやつも食わせてるぜ」
「……本当だとして、意味のあることとは思わないが」
「あるとも、だって、彼女たちには無くても、俺らにはあるだろ? 感染者たちは自我を凍結されてて、昔のことなんて一つも思い出せない。覚えてるかも定かじゃないし、自分の意思ってもんがない。だが俺たちは違う」
エルモは不意に声のトーンを落とした。
何か無常の暗黒を前にした老人のような声音だった。
「摩滅していても、俺たちには生前の記憶がある。生前の生活が恋しくなることもある。だが戻れない、帰れない、死ぬことさえ出来ない。どうにもならないんだ。そんな状態じゃ早晩おかしくなってしまう。それを食い止めるためには、不滅である自分ではなく、可塑性のある環境のほうを変えなければならない。つまるところ、死にきれないで蠢いてるゾンビは、実際は俺たちのほうさ。昔は感染者がゾンビ扱いで、俺たちはそれをコントロールする役として使われていた。でも真理は逆なんだな。俺たちをコントロールするために感染者たちが使われている。スチーム・ヘッドなんてものは、どいつもこいつも出来損ないだ。感染者たちのほうがよほど人間らしい。そうとも、ただの病人なんだからな。しかし俺たちはどうだ? 儚い生前の記憶を頼りに、わけもわからず彷徨って、ただ生前の真似事をしてるわけだ……他の感染者まで巻き込んでな。これをゾンビと言わずなんという?」
『おいグリエルモよぉ、そういう暗い話は非番の時にやれ』
「暗い話か? それもそうか」
門番のスチーム・ヘッドは頬杖を突いて、自嘲するように吐き捨てた。
「歓迎するぜ、永久に死ねない兵士ども。さぁアーシャ、もう一度歓迎の言葉を頼む」
「クヌーズオーエへようこそ。ここは第二十四番攻略拠点です!」
門番の少女は元気よく応えた。




