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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション1 調停防疫局 エージェント・アルファⅡ
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1-1 デッド・カウント

何者かの声がする。言葉が渦を巻き、終わらない暗夜に生まれた盲目の蜥蜴のように、意識の根底を這い回っている。

 探索せよ。

 痕跡を探せ。

 闘争を調停せよ。

 戦闘行為を根絶せよ。

 ポイント・オメガへ辿り着け。ポイント・オメガへ。ポイント・オメガへ……。



 その部屋には光がない。

 その部屋は目の前には存在していない。

 その部屋はこの時代には存在しない。

 その女はその現実には存在していない……。


 丸椅子に腰掛けた白衣の女が、何事か話しかけている。

 あなたが私の言葉を再生する機会が何回あるのかは分からないわ。ごめんなさいね。一晩たっぷり考えたのだけど、正直、私の言葉があなたの旅路に役立つとは思えない。必要な情報は全部ユイシスが拾い上げてくれるし……私だけの特別な知識なんてないから。

 だから、あなたがしなくちゃいけないことだけを、繰り返し言っておくわね。

 国際保健機関《WHO》とのコネクションを何とかして取り戻して。

 その過程で遭遇した戦闘行為は、全て停止させて。もう戦争している余裕なんて誰にも無いの。

 それから……ポイント・オメガに辿り着いて。

 最後の作戦目標には、何の意味もないけれど……あなたはそこに向かわなければならない。


 声は誰かに似ている。馴染み深い誰かの声に。

 だが、その声が具体的に誰なのか、兵士には思い出せない。



「探索せよ……調停せよ……到達せよ」 

 兵士は掠れた声で幻聴に唱和していた。

「探索せよ……調停せよ……到達せよ。殺せ。殺せ。殺せ。世界を再生しろ」

 溺れた魚のように息をする……。


 兵士の頭部は、砲金色のヘルメットで完全に装甲されていた。

 選択的光透過機能を備えたバイザーは、覆面のように頭頂部から口元までを覆い隠しており、酸素マスクすら備えていない。

 その黒い鏡のような表面から、人間的な感情の変化を読み取るのは不可能だ。

 だがバイザーの下では、おそらく、苦悶に顔を歪めている。


『警告。意識レベルが低下しています。自己定義の連続性を確認してください』


 どこからか女の声がした。

 事務的でありながらも玲瓏なその声は、同時に微笑をもイメージさせた。

 親愛を決して想起させない硬質な微笑。

 冷笑や嘲笑に近い。


 兵士は声に対して何の感情の変化も示さなかった。ガチガチと歯を鳴らしながら、何事か譫言うわごとを呻き続けている。

 女の声はそれら一切の苦鳴を無視して言葉を繰り返した。


『回答を入力して下さい。回答を入力して下さい。回答を入力して下さい。回答を入力して下さい。入力を確認できません。仕方ありませんね。生命管制の優越権を行使し、意思決定の混乱に対する支援措置を開始します。3、2、1……』


 カウント・ゼロで、兵士の左腕を包む奇妙な形状のガントレットから、その内側に存在する生身の腕へと電流が放たれた。

 兵士は痙攣した。

 息を吹き返した。


『聞こえますか? エージェント・アルファⅡ。自己定義の連続性を確認して下さい。作戦目標は?』


「探索……調停……到達だ」

 アルファⅡと呼ばれたそのヘルメットの兵士は、低い声を絞り出した。

「探索……調停……いや……他にも何か……あったような……」


『戦時中であることは理解していますか?』


「理解、している。しかし……私の敵は、誰だ? 何と戦えば良い?」


 どうしても思い出せない。

 痛みすら催す冷風が全身を突き刺している……。

 兵士、エージェント・アルファⅡは自己連続性のチェックを一旦保留にした。


「さっきのは、電気ショック、か?」


『肯定します。身体の恒常性に損傷を与えるレベルではありませんので、ご安心を』


「逆、だ。生命活動を停止させるレベルで、やってほしい。生体脳にノイズが乗りすぎて……まともに……思考できない」


 兵士は途絶えがちな息で、酷く苦労して言葉を発する。


「身体の、環境適応は、まだなのか?」


『デッド・カウント、変異レベルに到達していません。生命管制は安全域で推移。任務を続行して下さい』


「任務。任務……。探索だな。了解した、探索を続行する……」


 アルファⅡは黒いバイザーの下で目を凝らした。

 頭上をプロペラが通過するのが見えた。そのたびにひとかけらの雲もない澄み切った蒼穹から降り注ぐ陽光が遮られる。

 視界そのものが瞬きをしているかのような不可思議な感覚。

 剥き出しの眼球に焼き付けられる、掛け値無しの世界の実像。


 バイザーに絶えず暴風細かい氷の粒を孕んだ風が吹き付ける。

 熱を奪い、表面を淡く凍らせる。

 何秒か経つと太陽光にとろけて、涙のようにヘルメットを伝い、暴風に吹き流されて後方へ流れていく。

 一瞬でも気を抜くと視界が霞んでしまう。

 剥き出しの右手、変色した生きた肉の手でバイザーを拭うが、変化はない。


「生命管制……私の視界が見えているか? 視界不良だ。眼球に再生リソースを重点的に配分してくれ」


 瞼の裏で火花が瞬く。

 視界が明滅し、それから、遙か彼方から近づいてくる上陸予定地点を視認することに成功した。

 雪で薄らと化粧をした海岸は、陽光を受けて白く輝き、地平線の果て、見下ろす世界の先端から、ゆっくりと海の領域を侵犯しつつあった。

 丁寧に研がれたナイフを思わせる鋭い輝き。

 しかしその切っ先に輪郭は水面に揺蕩う月のように曖昧で、雪が溶けて蒸発しつつあるのだろう、陽炎に揺れる様は、溶けた飴にも似ている。


 岸辺には、何か塔のようなものが立ち並んでいる。

 連想するのはバイオハザード・シンボルが描かれた立入禁止の標識だ。

 それらの塔は、灯台にしてはあまりにも数が多く、密集しており、そこかしこから、煙のようなものを立ち上らせている。

 海岸で朽ち果てた墓標の群れのようにも見えたが、周辺に生える木々と比較するとあまりにも巨大で、やはり『塔』という言葉が思い浮かぶ。

 流氷の溶けきらぬ海を超えた先に待ち受ける奇怪な塔の群れ。

 沈黙のうちに威圧感を放っている。

 立ち入ってはいけない領域ではあることは明白だった。


 それら奇妙な景観の全てが、バイザーを通して兵士の網膜へと投じられている。

 アルファⅡにはそれが現実の光景なのかそうでないのかの区別が出来ない。弁別するための能力が極度に低下している。

 誰かが囁く、あるいは、あれは低温の雪と熱せられた水蒸気の層が複雑に作用して発生した鏡映蜃気楼かもしれない……。


「ユイシス、あれらの塔は全て実体か?」

 

 淡々とした女性の声――ユイシスが、どこからか返事をした。


『現時点では解析不能です。残念ながら、貴官からの情報入力は不十分です。貴官にあれが塔にしか見えないのであれば、当機にも塔と判断する他ありません。質問する前に、もう少しやることがあるかと思われますが、如何でしょうか』


「そうかもしれないな」


 アルファⅡはぎこちなく頷いた。首の関節が軋んだ。

 視界は凍えている。世界が凍えている。

 即ち自分自身が氷に鎖されつつある。

 触れるもの全てを氷の塊に変えんとする雪花の暴風に抗いながら、己の側頭部、ヘルメットの右の側面へと手を伸ばした。

 右の腕自体に感覚が殆ど残されていない。凍っている。

 何もかもが、致命的に凍り付きつつある。


 砲金色のヘルメットの小さなダイヤルを回そうとして、何度も失敗した。

 ヘルメットの側面に描かれた赤い世界地図を背にした剣と、それに巻き付く二匹の蛇を、指先が何度も擦った。

 やがてダイヤルに引っかかった。

 歯車が噛み合い、バイザーの内部に組み込まれた可変機構が動き出した。

 広角レンズモードに固定されていた二連二対の不朽結晶連続体が幾何学模様を描いて組み代わり、望遠モードへと切り替わった。


 兵士は見た。


 塔。

 沼地。

 人影。

 血と臓物。


 骨に継がれた奇妙な巨人たち。

 無数の瞳。


「ユイシス……何が見える?」


 そこで思考が途切れた。

 数秒後に目覚めた。


 気絶というには深すぎる断裂。

 途切れがちだった呼吸は一層浅く、弱々しくなった。


『警告。意識レベル、急速に低下。自己定義の連続性を確認してください』


「じこ……てい……ぎ……何、を……?」

 思考が混乱していた。脳髄が暗黙の死へと急速に沈降しつつある。

「何を……すれば良いんだった……?」


 辛うじてユイシスが何かを言っていることは理解出来る。

 だが意味のある言葉として認識出来ない。


 その兵士は単純に、死にかけていた。

 さもなければ、今まさに死につつあった。

 何ら不思議なことではない。

 息をするだけで肺腑が凍て付く。

 そんな状況で生きていられる生物は存在しない。

 いずれ何もかもが熱を失い、言葉が散逸し、瞳に映る世界は解体される。

 死の暗闇へと、単純に落下しつつある。


 兵士はまた気絶した。

 首の筋肉が弛緩して、ヘルメットのバイザーが空を仰いだ。

 すぐ目を覚ました。

 手を伸ばせば届きそうな位置で、雲の群れが目まぐるしく形を変えていく。

 圧縮された時間の流れが具象化したかのような風景。


 しかし現実に高速で移動しているのは空ではなく、時間ではなく、兵士自身の方だった。

 高速で飛行するヘリの機上、コックピット、操縦席があるべき位置に兵士はいた。

 搭乗している、というのは適切ではなかった。

 革を剥がれたシートの骨組みに、兵士は貨物懸架用のワイヤー・ロープで自分自身を括り付けていた。

 その姿は不格好な船首像か、古い時代の狂気的な宗教儀式の生け贄、晒し者にされた罪人のようであり、いずれにせよ悲惨だった。

 飛行に影響しない全ての部材を撤去した不格好な戦闘ヘリの、もはやコックピットとは呼べない空間で絶えず身震いする肉体は、奇妙な熱を帯びている。


 分厚い筋肉を備えた四肢を、雪原向けのデジタル迷彩を施した戦闘服で包み、その上からさらに着込んだタクティカルベストには、対感染者用の拳銃とナイフを収納している。

 冷気と衰弱を迎え撃つには、甚だ脆弱な装備だった。

 氷花の嵐から身を守るにはいっそ城壁のような遮蔽物が必要だ。


『フロントガラスまで外してしまうのは、愚策だったかも知れませんね。まさか貴官に受理されるとは予想していませんでしたので、ついつい提案してしまいました』


 無感情なユイシスの声に、曖昧に首肯する。

 アクリル素材のフロントガラスは、基地を出発する前に外してしまった。

 邪魔だったからだ。

 少なくともその時は、兵士にはそう思えた。

 今でも、間違ってはいなかったと考えている。


 エージェント・アルファⅡの擬似人格が起動し、アルファⅡモナルキアとして活動を開始し、ヘリを発見したときには、もう基地のどこにも燃料が残されていなかった。

 世界を焼き尽くすつもりかと言うほど保管されていたはずの燃料がどこに行ったのかは分からない。

 使用されたのかも知れないし、ドラム缶から揮発したのかも知れない。

 ただ、残っていないということだけが事実だった。

 飛行可能な距離を稼ぐには可能な限り機体を軽量化するしかなく、そのために妥協は出来なかった。

 事実、ガラスを全て取り除くことで、数十キログラムの軽量に成功した。


 兵士には、切れ切れの息が自分のものであるという自覚がない。

 寸時意識が途切れる。

 目覚めたときにはあらぬ事を考えている。かりそめの自我は確実に崩壊しつつあった。


 焦点が遙か前方の港に合わさる。

 無限に連なる港に視線が滑る。

 だが現実の視界に港など存在していない。

 無数の非現実の港が意識の水面に浮上する。

 非現実の塔が陸地だけでなく海面からも、あるいは空からも伸びているのが見える。

 塔から灯台を連想し、灯台から港を連想している。

 想起する事象の連鎖が、無限に続く海岸と港を脳内に創り出す。

 冷風の奥で万華鏡のように景色が現われては崩れていく……。


「しかし、あの港には、見覚えがある。あの港には、あの灯台には……」


『警告。自己同一性に揺らぎを確認。思考をただちに中断してください』


 高圧的な言葉を含んでいるが、ユイシスの声はあくまでも冷静だった。

 アルファⅡは首を振って、何もかも忘れ去ろうとしたが、そもそも筋道を持った思考の枠組み自体が崩壊しかけている。

 結果として、地平線の彼方を埋め尽くす港の妄想とともに、全ての思考が消滅してしまった。

 何を命令されたのかも記憶領域からこぼれ落ちた。


 兵士は、死んだ。



 エージェント・アルファⅡは、丸椅子に腰掛けた戦闘服の男を見た。

 暗い部屋で、彼は何事か話しかけている。

 それが誰なのかは分からない。

 ――俺の言ってることを思い出してるってことは、お前はまた死んでる。安全回路が作動するたびに、意識の空白を埋める目的で、特定のプシュケ・メディアがデータを出力することになってるんだが……あんまり意味はないんじゃないか?

 どうだ? 死に際して、俺たちの言葉は役に立ってるかな。もう何回ぐらい死んだ? この記録を再生するのは何回目だ? お前はもう理解してるんだろうな。嫌でも理解するだろう。お前は不滅だ。他の誰もがそうであるように、お前はもう絶対に死ぬことは出来ない。

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 お前にとって死ぬというのは、ちょっとしたイベントの一つに他ならないんだ。普通の感染者なら、何回か死んだら意識は完全に消えるんだが……お前はそうじゃない。()()()()()()()()()

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 いいか、繰り返し教えておくぞ。

 探せ、争いを止めろ、辿り着け。

 まったく、気の遠くなるような任務だよな。

 何にも良いことはないだろうが。

 お前の旅が、せめて安息のうちに終われば良いとは、俺も思ってる……。

 思うだけなら、願うだけなら、自由だ。無責任だよな。許してくれ。



 兵士の肉体は息を吹き返した。

 不完全な蘇生だった。

 アルファⅡの意識は依然として茫洋とした暗闇にとらわれており、有意な思考は成立しない。

 次に気がついたとき、関心事として脳裏に放り込まれたのは、眩暈を起こしそうな速度で後方へと流れ去っていく、ヘリの外の景色そのものだ。


 我が身が過ぎ去った後の土地には、何も残らないのかもしれない。

 概念としてではなく、物質界からも失われるのかも知れない。

 そうした迷妄に突き動かされ、肩越しに振り返ろうとした。


『重ねて警告します。アルファⅡ、ただちに思考を中断して下さい』


 アルファⅡは返事をしなかった。

 衝動のままに振り返った。


 視覚から取得できた情報はわずかだった。自分の背負っている、荷物を満載にした登山家のリュックサックにも似た、あるいは棺とも形容されるバックパック式蒸気機関(スチーム・オルガン)、その永遠に朽ちぬことを約束された黒い金属の塊から、午睡を取っている火龍の口から漏れ出るような、小さな煙が昇っているのが見えた。

 左側面に取り付けられた火炎放射器のノズルのような機械が何なのかは理解できない。

 高熱の排気は漏れ出た傍から吹き飛ばされて冷却され、細かい氷の粒になって散り、フレームが残されただけの背もたれにぶつかって砕け、コックピットの外側の時速三〇〇kmで遠ざかっていく世界へと吸い込まれ、それから永久に見えなくなった。


『最終警告。意識の連続性の維持に務めて下さい。任務続行が困難な場合は、生命管制の優越権を行使し、自己破壊プロセスを実行します』


 声に促されて、アルファⅡはようやく我に返った。

 おそらく致命的な破壊に晒された肉体が、過酷な環境への適応を、急ピッチで推し進めているのだろう、意識だけは明瞭性を取り戻しつつある。

 だが、他には好ましい方向へ転じる予徴がない。

 肉体は死に瀕した状態で固定化されている。


 兵士は考える。

 ……ならば一度、完全に。

 完膚なきまでに、死んだ方がよい。

 

 自己破壊プロセスを実行せよ、と命じようとした。

 しかし声を出せない。

 舌は動かず、口から漏れ出るのは意味不明な音の連なりだけ。

 それは喘ぐような呼吸音であり、死戦期呼吸のバリエーションの一つに過ぎない。


『聞こえますか? アルファⅡ、回答を入力して下さい』


 ユイシスの声がする。

 急かすような呼びかけだが、やはり実際に急かしているかのような感情は宿っていない。

 兵士も取り乱すところはなかった。


 戦闘服の袖から伸びる己の右手、凍り付き、変色し、壊死しつつある生身の指先を、可能な限り精妙に動かすことに集中した。

 そして、左手の先から肩までを覆う蒸気甲冑(スチーム・ギア)――装飾過多の騎士甲冑のようなガントレットに触り、視線をそちらに傾けて、入力装置を探した。

 触覚はとうに失われていたが、ホームポジションに右手が着いたのを霞みがかった視覚で確認する。

 視覚情報を頼りに、空間に対し手指の位置を補正する。

 そして肉体が記憶しているままに、タイプライターを模した古めかしい意匠の文字盤を叩いた。


 動態的緊急生命管制(エマージェンシー)モード、起動。


 最後の力を振り絞って、機関銃のチャージング・ハンドル、あるいはレバーアクションライフルのループ・レバーに似た入力決定釦を引いた。


『支援要請を受理しました。当機の情報出力制約を一時的に解除します。……物理入力装置からのアクセスですか。どうやら貴官にはアナログ趣味があるようです。気が合いますね、当機も何分突き詰めればアナログな存在なもので。デジタルなのに人格があるわけですから、これはもうデジタル式のアナログ時計なわけで。あはは。笑うところですよ、アルファⅡ。意識の連続性を可及的速やかに当機に示して下さい』


 ユイシスの声が、やけに饒舌になった。

 限界を迎えつつあるヘリのエンジンから溢れる、雄牛の悲鳴に似た轟音も、プロペラの回転する世界の終わりに吹く風のような金切り音も無視して、その声は真っ直ぐに兵士の脳裏に響いていた。

 意識の共有に関する重要な制限措置が幾つか解除された証拠だ。


「か……は……」

『今のは冗談です。応答する必要はありません。架構人格梁のリミッターを無効化しました。現在の我々は、ただ考えるだけで通じ合えるのです。改めましてごきげんよう、アルファⅡ。ご気分はいかかですか? こちらは蒸気甲冑(スチーム・ギア)に搭載の統合支援AI、UYSYS(ユイシス)のダイレクトサポートサービス窓口です。どうなさいましたか、お客様? あはは。もちろんこれも冗談ですよ。アルファⅡ、現在貴官の意識の連続性に重度の混乱が観測されています。当機のことが分かりますか? 分からなくても構いませんが。支援要請に基づき、自己破壊プロセスは当機の独自の判断で実行可能です』


 これらの言葉は、一瞬のうちに兵士、アルファⅡのヘルメットの奥に存在する脆弱な生体脳、その言語野へと直接書き込まれた。

 鼓膜はただの一度もその声を捉えていなかったが、兵士の肉体は確かにそれを音として聞いていた。


 アルファⅡは、あるいはその時初めて、ユイシスの声というものを実体として知覚した。

 舌使いも発声も流麗で、どことなく気品を漂わせているくせに、人をからかうようであり、そのくせ奇妙なほど抑揚が少ないという、特徴的な『声』だ。

 かなり年が若いような印象を受けたが、声しかない存在の年を推し量るのもおかしな話ではあるか。


 ……いや、何だこれは? アルファⅡは卒然と気付いた。本当に自分の思考なのか?

 先ほどから声を全く出していないのに、己自身の声が音声として脳裏に響いている。

 ユイシスの声と自身の声が、全く同じ所から聞こえてくるような感覚がある。

 自分が出力した情報が無加工のままそのまま頭の中に流れ込み、そして逆流してくるかのような感触に、アルファⅡは当惑した。

 自分自身の声もまた、このとき初めて認識したのかも知れない。


『相変わらず思考が乱れていますよ。貴官は、当機の警告を理解していますか?』


> 理解している。

 

 アルファⅡは統合支援AIへ向けて思考を紡いだ。


『ご気分はいかがですか?』


> 具合が良さそうに見えるのか?


『冗談です。ユーモアは大事ですよ。ユーモアは苦境を乗り越える助けになると昔から言います』


> 君が何故今まで無口だったのか分かった。君の思考を全部出力していると私の使っている脳が焼けそうになるからだ。うるさすぎて。


『否定します。もしそれが事実だとしても、これが本来の仕様なので、受容して下さい。貴官の脳髄と人格記録媒体プシュケ・メディア群への悪影響を懸念してセーブされていたのです。トラブルがなくとも、肉体の適応変化が順調に推移していれば、自動的に言語野への情報入力がアンロックされる予定でした』


> それで、これは苦境なのか?


『それこそ冗談です、アルファⅡ。幕間にも満たない些末事です。本題に移りましょう。身体状態の解析は終了しています。音声入力を行えないのは、肉体の骨格筋が戦慄を起こして、呼吸自体が妨げられているせいですね。貴官は現在、発声を封じられている状況にあります。生命管制については一旦保留にしましょう。その前に、意識の連続性の確認を。貴官の所属と名称、任務を回答して下さい』


> 私は調停防衛局の全権代理人……、エージェント・アルファⅡ。

> 作戦目的は、旧国際保健機関事務局へのアクセスと、安否の確認。

> 遭遇した全ての戦闘行為の調停。

> そして……ポイント・オメガへの到達。

> しかし……何と戦えば良かったのか……。

> 何かと戦う必要が、あるのか?


『最低限の連続性は維持されているようですね。任務のことだけを考え続けて下さい。その任務は、貴官の存在意義と等しいのです』


> この肉体は、どこまで損傷が進んでいる?


『アバターを表示して、肉体の損傷状況を確認しますか?』


> やってほしい。


『アバターの表示に失敗しました』


> 立派な物言いでそれか。君は優秀なパートナーだ。


『皮肉は誰かを傷つける悪い冗談ですよ。非推奨です』


> 君は割とそういう分類の人格をしているようだが。


『当機はいいのです。AIなので。シリコン知性なので、ノー炭素倫理です』


> AIと、シリコンと、炭素基生命でないことに、倫理の有無は関係あるか?


『アバターを検索中。該当無し。アバターに使えるデータが無いなんて。奇妙ですね。貴官の記憶領域を検索中……「人間」に分類されているデータがありません。失礼しました、貴官は本格的な起動以後、鏡像も含め、一つも人間の姿を見ていませんでしたね。しばらくは音声のみでのサポートとなります』


> 何でも構わないが。


『上陸後に適当な自己凍結者をスキャンして、アバターにしましょう。どんなアバターが良いですか?』


> 分からない。任せる。


『では、選定は当機の判断で行います。当機は非常合意の元、あらゆる国際法からの自由を保証されており、いかなる決定にも法的責任が発生しないことを確認して下さい』


> 話を戻して良いか? 結局、私は危ない状態なのか?


『肉体が死亡しかけているのは事実ですが、()()()()()()()()()()()()()。生命活動の維持のために特別な操作を加える必要性は薄いと考えられます。このまま放置していても、着陸時の衝撃で期待されるデッド・カウントに到達し、環境に対する最適化が完了すると予想されます。従って、いかなる処置も行わず、()()()()()()()()()()()()()()です。貴官の全状態はモニタリングしています。悪性変異進行率は10%未満、危険性は皆無です。どうぞご安心を』


> 何故安心の話になるんだ? 


 兵士は不思議そうに思考を紡いだ。

 

> 何も不安ではないが(・・・・・・・・)


『ええ、そうでしたね。貴官はそのように設計されています』


> 自己破壊をあえて実行する必要性はあるかな。


『生命管制については、当機に優先権が割り振られています。当機としては、不要と判断します。とは言え、最終判断は貴官に委ねられていますので、要請された場合は実行します。なお、現在確認されている情報から算出して、起動の提案が可能な支援プログラムは、やはり自己破壊プロセスの実行だけです。アポカリプスモードの起動も推奨されません。……もっとも、何事も、必要性という点では皆無です。何をしたところで、その行為に意味はありません。繰り返しになりますが、アルファⅡ、自己破壊プロセスを実行しないなら、可能な限り飛行に集中してください』


 アルファⅡはユイシスの声から意識を離し、機上で頷こうとした。

 しかし、もはや前を向いて、座っている姿勢を維持する、たったそれだけのことが、極めて困難だった。

 鍛え上げられた肉体は前方から吹き付ける風に押し潰されて、挽き潰された蛙のようにコックピットで仰け反っている。

 息を整えようとする。それも出来なかった。

 体の中心部が取り返しの付かない勢いで冷却されつつある。

 死が近い。

 人格を構成する、肉体の基礎的な要素が、少しずつ解体されていっている。

 時間という概念が破壊された世界の、崩壊した昼夜であるかのように、激しく視界が明滅する。

 形のあるものは何も見えない。


 肉体は苦痛に悶えているのかもしれない。実際のところは誰にも分からなかった。ヘルメットの兵士自身ですら、我が身の変調をどこか他人事のように受け止めていた。

 目の前に己の分身が存在していたとしても、己の異常な状態は、おそらく理解できなかっただろうと漠然と思った。

 彼は自分自身について理解をしていなかった。

 自由にならない肉体の、朦朧とした意識を出力し続ける脳髄で、アルファⅡは己自身を見つめるもう一つの瞳、己の人工脳髄に組み込まれた形ならぬ魂、ユイシスに無言で問いかける。


> 状況をもっと明確に把握しておいた方が良さそうだ。このボディに具体的に何が起きている?


『低体温症の症状と予想されます。現在の体感温度は零下四〇度以下です。貴官の肉体組織は変性し、通常の生物学の範囲を逸脱して体温の生成に務めていますが、どれも無意味に終わっています。もっとも、これほどの極限環境下では、人間の肉体がどのような防御反応を示しても、さほど有効ではありません。現に、貴官の累計死亡回数デッド・カウントは十三回に達しています』


> 離陸する前は……五回だった気がするが。


『肯定します。貴官は現在に至るまでのフライトで、既に八回凍死しています。気絶しただけと認識しているようですが。緊急性を有する要件でもありませんでしたので、特に報告しませんでした』


> 私はデッド・カウントの進行すら感知できない状態にあるわけか。やはり良くないな。


『推奨されない状態にあるのは事実です。ただし、現在の貴官の受け答えが正常であることは保証します。フライト終了までに悪性変異が進行することはないでしょう。寒冷地への適応は完了していませんが、着陸時の衝撃で貴官は高確率で死亡すると予想されますので、その際に纏めて対応してしまうのが最良でしょう』


> いいや。やはり判断能力に欠けたところのない状態で着陸したい。死んでいるところを敵に囲まれて、後手に回るような事態は避けるべきだろう。停戦勧告にしても、調停を強行するにしても、意識が明瞭でないと支障が出る。


『簡潔な要請を』


> 即時の自己破壊プロセス実行を。


『自己破壊プロセス、レディ。準備はよろしいですか?』


> ああ。とっくに。


『要請を受諾、自己破壊プロセスを実行しました。グッドナイト』


> グッドナイト? 君にはあの太陽が見えないのか?


『本当ですね、まだ昼でした。これは気付きませんでした。あはは』

 ユイシスは空々しい笑い声を出した。

『死んでユーモアの無さが治れば良いですね』


> ユーモアの無さは、怪我か? 病気か? 死ねば治癒されるのか?


 回答はなかった。

 スチーム・ギアの統合支援AIのこの嘲弄に何の意味があるのだろう……と思考を巡らせている間に、アルファⅡは決定的な瞬間の到来を検知した。

 自分の使っている肉体の、その心臓が止まったのを感じた。

 脳髄の中枢が破壊された。

 自発的な呼吸が止まった。

 数秒後には脳波も消えた。


 彼は死んだ。低体温症や凍傷のためだけでなく、明確な意思に基づく自殺であり、兵士の背負っている巨大な金属の箱、棺型のその蒸気機関に格納された機材で合成された、ある種の化学物質の効果だった。

 中枢神経を侵して瞬間的に破壊することに特化したその薬剤は、合成されたあと直ちに左腕のガントレットへと送り込まれ、そこから体内へと注入された。

 確実な死だった。

 その兵士が死亡したことを疑う余地はどこにもなかった。


『蘇生まで、5、4、3、2、1……ゼロ』


 そして、彼は蘇生した。

 自然な反応――科学技術に頼らない現象として、死亡した肉体が活性化した。

 壊死した全ての細胞が分解され、それらはただちに健全な細胞群を新造する素材として再利用された。

 全身の骨格筋が一斉に小刻みな痙攣を開始して、急速に熱を生成し始めた。

 筋肉、内臓、脂肪。熱に変換出来るもの全てが分解された。

 体温がタンパク質が凝固を始める寸前にまで跳ね上がった。

 活動を停止した心臓が再び動き始める。喘ぐように激しく脈を打つ。

 凍り始めていた循環器系を、炎のような熱い血が駆け巡る。

 熱感が、死亡してなお一秒も途切れることなく活動し続けている生体脳髄から、壊死と再生を繰り返す末梢部にまで浸透する。余すことなく酸素を送り届ける。

 失われていた全ての要素が、兵士の肉体に戻ってきた。


『初期状態へのリセットを完了しました。アルファ型機関式高性能人工脳髄(スチーム・ヘッド)試作二号機モナルキア、エージェント・アルファ2を構成する全人格記録媒体(プシュケ・メディア)の正常稼働を確認。人格の連鎖再生を開始。思考転写(ミラーリング)検証中。検証完了。共鳴統御におけるエラー発生率が規定値を上回っていることを確認。連鎖崩壊式疑似人格演算、安定しています。現在の思考転写モデルを保持したまま、肉体の適応変化を励起します』


 アルファⅡの意識が脳髄に浮上した。

 夜明けを迎えたかのように視界が明るくなった。

 それからまたゆっくりと暗くなり始めた。

 肉体がどのように変異しようとも、熱狂的に吹き付けて全身から体温を奪っていく見えざる悪魔の如き冷風は変わらない。

 深く呼吸をするたびに、頭部の全てを覆うヘルメットの、その後方に設けられた排気孔から吹き出た水蒸気が一瞬で凍結して氷の粒になって陽光を照り返し吹き飛ばされて、遠ざかり続ける後方へ飲み込まれる。

 何もかもが置き去りにされていく。

 何もかもが。

 無感情な空の反射した凍てついた湖面。

 耳に籠もる吐息。

 早鐘のような心音……。


『適応を完了しました。各種神経系の恒常性獲得と代謝の最適化を確認。血管の収縮と拡大による熱生産の安定を確認。褐色脂肪組織の増大を確認。悪性変異進行率は上昇しましたが、少なくともこの処置により、上陸するまで死なない程度には、健康体でいられるでしょう。緊急生命管制を終了します』


 呼吸を繰り返すうちに、全身の動揺が、活動において無視できるレベルで収束した。


『意識の連続性を確認します。所属と作戦目標は?』


「……調停防疫局、エージェント・アルファ2。任務は、旧国際保健機関事務局の探索、戦闘の調停、ポイント・オメガへの到達だ。私はこの作戦を遂行するために作り出された」


 アルファⅡは、はっきりと、一言一句を明瞭な発音で回答した。



「攻撃目標は全人類。戦闘行為を継続している全人類が、私の敵だ。私は、この死を失った世界から、戦争を根絶する」


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