2-8 その2 街道を進む巨人の肩で
巨人の肩の上は、中々に見晴らしが良好だった。
ライトブラウンの髪を梳かす風は、霜が渡る草原の寵愛を受けて冷たく暖められ、耳の端を撫でて微熱のような情愛までも彼方へと連れ去っていく。数日ぶりの明瞭な脳髄。それが酷く可笑しくて、心地よくて、アルファⅡモナルキアのサブエージェント、リーンズィは、ようやく馴染み始めた少女の肉体で、静かに歌を口ずさむ。
「ふろーいで、しぇーね、げってーふんけん……」
巨人の歩みに合せて、インバネスコート型の突撃聖詠服の裾が羽ばたくように広がる。少女の愛らしい柔和さと少年の潔癖な凜々しさが同居するアンビバレントな美貌。背丈に恵まれており、毅然として佇んでいればただそれだけでシネマ・コンプレックスの壁に飾られる宣伝広告になるだろう。
左手で巨人の右肩に設けられたハンドルに掴まる姿は、さながら森の番人を止まり木に選んだ、大神が気紛れに使わした大鴉のようだ。ただし少女に思考はなく、記憶は無く、神はなく、魂は首に嵌められた金属環の人工脳髄に与えられた紛い物に過ぎない。
火照った肉体に寄り添った、純粋なよろこびの感情だけが本物だった。
視界の端に、首輪型人工脳髄に、ミラーズからのメッセージが届いた。
> 遠くへ、どこか遠くにいる人のところに届くようにって思いながら、お腹を使って声を出すの。
ミラーズ、その原型となったキジールには識字能力が無い。
それ故に、どのような内容であれ、メッセージが届いたのならば、それは巨人の左肩に掴まったヘルメットの兵士、アルファⅡモナルキア本体が翻訳した言葉にすぎない。
だが、あの麗しい少女から自分に向けられた言葉だということ、ただそれだけでリーンズィは歓喜を覚える。言われるがまま、声を伸びやかに導こうとする。
辿々しい口調で精一杯歌いながら、朝露に濡れる自由な甲冑の右手で己の唇をそっとなぞる。凍てついた冬の湖が指先にあるかのような冷感。氷色の透明なルージュが自分が微笑んでいることを教えてくれる。
何もかもが美しく見えた。
ヘカトンケイルを名乗るスチーム・ヘッドの少女に生体脳を弄くられ、脳内麻薬を過剰に放出させられた影響にすぎなかったが、リーンズィの目に映る風景の素晴らしさを否定することは誰にも出来ない。
厳かな木々の連なりは、雪を傘にして夜を過ごし、ついに訪れた朝を言祝ぐ修道者のよう。
幾重にも続く枝葉の群れ、その変化に乏しい色合いさえも氷柱の冠で朝日の輝きを照り返し世界に光ある無声の賛歌を響かせている。
氷面の化粧の下で煌めくのは時の移ろう狭間の色彩であり生と死の間に葉を揺らす赤錆びた葉は何故にそのように色づくのか愛すべき歓喜の新しい命の始まりに仄かに色づいたのかあるいは古い命を手放すときの美に身を任せ穏やかに枯れつつあるのか。
春の先触れとも冬の訪いとも知れぬ森林地帯を突っ切るようにして作られた街道には無数の足跡や轍が作られていて、ずっと進んだ先には確かに人の営みがあるのだと知れた。
冷たい冬の風景が、こんなにも、息づいてキラキラと光って見える。
「びゃーべとれーてん、ふぉいえーる、とぅるけん……」
肺腑を膨らませていた気体が、口元を過ぎるなり、かつて明け方に見た淡い夢のような白息となって早朝の雪原へと消えていく。音程は未だに取れないままで、きっと本来の肉体の持ち主であるヴァローナは恥ずかしがって嫌がるだろうということがリーンズィには分かる。
それでもこの歓喜を声として世界に響かせたくて仕方ない。
なるほど、気分が良いとはこういうことなのだ、とリーンズィは自身の歌声が弾んでいる事実から推察する。
ずしん、ずしんという足音に掻き消される少女の声に、他ならぬリーンズィ自身が聞き入っている。
がくん。
巨人の歩みと発声が重なる。
舌を噛みそうになったので、リーンズィはその研ぎ澄まされた思考能力を駆使して、一瞬だけ歌うのをやめた。
「ん、よし。……とぅるんけん、ひむり、しぇーだいん……」
事件の発生を無視して危険行動を続行しようとした少女の耳に、仮想の警笛の音が届く。
『警告します。よし、ではないです』
ふわふわとした金色の髪を翼のように靡かせながら中空に現われたのは、ユイシスのアバターだ。
キジール譲りのあどけなくも端正な顔を、どうしようもないものを憐れむのような呆れの一色に染めて、呼びかけてくる。
『神経活性を取得。脳内麻薬がまだ抜けきっていませんね。あのヤブ・スチーム・ヘッドにはさらに抗議が必要でしょう』
「助けてもらった身分だ、生体脳や肉体をいじられてもあまり文句は言えない」
『否定。当然に言えます。彼女の使っている医療用義脳は明らかに不必要な影響を貴官に与えています。衝動的な行動が生じる事情については理解します。しかし舌部を損傷する危険性が高まっていますので、歌唱の中断を強く推奨します』
「大丈夫。大丈夫だ。今のままなら、きっとずっと歌い続けられ」ずしん。「ぅああ……!」
舌が噛み切られた。抑揚のない呻き声と共に口から血が零れた。
破損した舌部の細胞組織が解けて繊維化し、即座に破損部位を修復させる。
口元を汚した血を、リーンズィの人格らしからぬ艶やかな仕草でぺろりと舐め取り、ユイシスへ笑いかけた。
『媚びた仕草をしても無意味です。ストライクゾーンから外れていますので』
「そんなに媚びた動きをしていたかな」
そうしている間にも視界が揺れる。体が乱暴に揺さぶられる。
ぷしゅー、と巨人の背中の排気管から、駆動用の蒸気流の一部が放出される音がする。
ヴァローナの肉体が取っ手に掴まっている巨人、一機の継承連帯製蒸気甲冑は、二本の足で歩行している。歩兵役の機体とセットで行動するようには設計されているのだろう、巨人にはパペット・デサント(甲冑跨乗)用の設備こそ用意されているものの、衝撃吸収装置のような大層なものは積んでいない。
人間の五倍ほどの背丈がある蒸気甲冑が歩けば、頂上付近の震動は凄まじいものになる。
生命管制のおかげで三半規管に影響は出ていないし、がくんがくんと頭が上下する感覚に対しては、予め少女の肉体の方が適応を完了させていた。
通常の活動については何の問題もない。
だが、発声と舌の動きと腹膜の活動、そして体外で他の機体が発生させる不随意の震動とを上手く同期させられるほど、リーンズィの首輪型人工脳髄は高性能ではなかった。
『この状況で歌うのは推奨出来ません」
「さっきは噛んでしまった。でも、もう大丈夫だ。そもそもユイシスが不用意に話しかけてきたせい噛んだのでは?」
『いいえ。どのように思考しても、貴官が警告に従わなかったせいかと』
「そういうものか?」揺さぶられながら、いつもの癖で首を傾げる。
『それ以外のなにものでもないかと。あと、いくら使用している素体の顔かたちが良くても、当機のツボをついたつもりで子供のように首を傾げても、判定は変わりませんので、ご留意を。当機はもっと小さな少女が好みなので。あとその仕草は出し惜しみしましょう。価値が下がります。加えて警告しますが、口元を血で汚損している状態では、全てのアピールに猟奇性が付与されてマイナス補正がかかりますので注意してください。現在の姿はこんなこのような具合です』
ユイシスのアバターが切り替わり、ライトブラウンの髪をした少女が虚空に現われる。口が揮発しきらない血で染まっているため、現在の姿ではゾンビ映画のポスターにしかならない。
「しかし、『気分が良い』ので、歌いたいのだ。うん、気分が良い。気分が良いのは、とても良い。気分の良いことは、続けるべきでは」
『貴官は良いかもしれませんが、移動に協力してくれているスチーム・パペットから苦情が出ているのですよ』
金髪の少女へとアバターを戻し、ユイシスが溜息のモーションを実行する。
『舌を噛まれるとぎょっとするので、せめて鼻歌に留めて欲しい、とのことです』
「苦情が……。そうか……下手だからダメなのだろうか……」
しゅんとんしたリーンズィに反応したのか、慌てたような弱ったような、何とも頼りない男の声が脳裏に響いた。
『いやいや、そうじゃないんですよ。本当にそういうのじゃないんで。お願いしますよ、舌を噛まれたりすると心臓に悪いもんで』
リーンズィを肩に乗せてくれているスチーム・パペット、ポーキュパイン068からの無線通信だ。
『聖歌隊の人らが歌ってるのを邪魔するのは、俺としても気まずいんですがね、でもまぁこれ、要人護送みたいなもんですから、攻略拠点に着いたとき、もしリーンズィさんが血まみれになってたりすると、俺も軍団長になんて言い訳したらいいのか……だいたいね、そこ、落ちたら危ないんですよ、せめてミラーズさんと同じように、手の上に乗ってもらえませんかね』
「しかし、ミラーズが眠っている。邪魔は出来ない」
ヴァローナは表情を曇らせて即答した。
ポーキュパイン068が本来武器を握るべき両手は、現在は寝息を立てるミラーズを乗せる寝台になってしまっている。
『起こすのは無理なんで? スチーム・ヘッドは眠らないでしょう』
「うん。でも休息させないといけない。私のために、移植用の臓器を無理矢理新造したせいで、身体が疲弊しているんだ。その上色々と、術後の問題解消のための手伝いをしてくれた。今は回復に努めさせている。やっと休息に入れたんだ。邪魔をしたくはない」
『いや、しかしですね、疲れるのは俺も同じなんですよ。継承連帯製蒸気甲冑は生体CPU代わりにしてる感染者が、それはもうストレスに弱いもんでして』言いながらヘッドパーツをぐりぐりと動かして、十数機のセンサーパーツを取り付けられた顔と思しき部分を向けてくる。『こんなデカい体を無理矢理自分の身体と定義して運用してるわけじゃないですか。熟れたトマトの皮ぐらいのメンタルでして。あなたみたいなケルビム・ウェポン積んでるバクダンみたいな機体を運んでるだけでも結構ピリピリするんですよ』
巨人の頭部に突き立てられた偏光体光学素子群が、一斉に輝きの向きを変え、左肩の取っ手に掴まったアルファⅡモナルキアを横目で確認する。
ヘルメットとガントレット、そして棺のごとき重外燃機関を装備したアルファⅡモナルキア本体は、冬の森で死に絶えた昆虫のような有様で張り付いてて、ぴくりとも動かない。
衣服は継承連帯製の準不朽素材の迷彩服に取り替えられて清潔で、姿勢にしてもリーンズィとそう大差は無い。
だが、ポーキュパイン068は、見るのも恐ろしいといった具合にすぐ視線を外した。
『その上皆さん方の身の安全も危ないとなると、胃が痛くなってしょうがない。まぁ痛むような胃なんてもんは、とうに無いわけないですが。慣用句ですね。とにかくリーンズィさん。どうかどうか、頼みますよ』
「うん。気持ちは分かる、と私は考える。私も体がまだ妙に熱くて、困っている。この上に何かトラブルがあったら、とても困ってしまうだろう。そういう状態を泣いている子供にムチというのだったか」
『リーンズィ、泣き面に蜂では?』ユイシスは仮想身体の背中から『減点です』とだけ書かれた看板を取り出した。『そのような低品質なギャグではユーモアレベルの評価は上げられませんよ。ポーキュパイン068へ謝罪します。ケルビム・ウェポンというのが何かは当機らには理解できませんが、アルファⅡモナルキアと関係していることは推測できます。心労は甚大なものなのでしょう』
『いやぁ、そのうち上のもんから説明あると思うんですが、機密扱いのマジで危ない兵器なんで。俺は暴発に慣れてますんで言うほどじゃないですがね。三回は生体CPUの全身欠損を食らいましたかね……それで発狂もしてませんし……人工脳髄の強度を買われて皆さんの運搬役を任されてるんでして、まぁ俺に関してはそこまで気にしてもらわなくても』
スチーム・パペットほどの兵器を容易に狂わせるらしいケルビム・ウェポンというのが、リーンズィには分からない。
全身を不朽結晶連続体の装甲に包んだ巨人は、事実上無敵の存在だ。存在を崩壊させるための手管は幾つか思いつくが、物理的な致命打を与えられるような兵器は、今もかすかにノイズに茹だった少女の脳髄では、とても思いつかない。
ユイシスの方でも情報収集もあまり進んでいない。
教会はある種の治療施設であり、様々なスチーム・ヘッドが集まっていた。情報を収集するには最適な場所だったはずだ。
しかし、過酷な臓器交換手術を終えたリーンズィの介抱と人工脳髄の調整に、モナルキアやミラーズも含めて三日三晩かかりきりになってしまった。
そして、ある程度快復した今日には、急に出立となった。首斬り兎なる単語が忌まわしそうに何度も呟かれるのを訊いたが、誰も具体的な話は一切しなかった。
不吉を呼び寄せる言葉であるかのようで、ユイシスは強大な悪性変異体の一種では無いかと推測している。
唯一確実な情報として把握できたのは、この地方に展開している人類文化継承連帯と、スヴィトスラーフ聖歌隊、その合同軍が、『クヌーズオーエ解放軍』を称揚しているらしいということだ。
詳細は不明だが、極めて安定した状態で長い年月を過ごし、限定的ではあるが共存が実現したコミュニティを築いているらしい。
ただ、これもやはり、リーンズィが四六時中不調を訴えていたせいで、情報としては不明瞭な点が多い。
リーンズィはその現実を考えて、不意に目が覚めてしまったような気がした。
そうだ。自分のせいで、リーンズィのせいで、あらゆる行程が滞ってしまったのだ。
のぼせていた気分が不意に沈降を始め、全ての風景が途端に色褪せてしまった。
何もかも、ただのつまらない冬景色に見えた。
自分があの時、<時の欠片に触れた者>に向かって突撃しなければ。
冷静になって、無抵抗で空間転移に巻き込まれていれば。
ミラーズにはきっと頼りなくて幼い、力の弱い娘だと思われているだろう。失望されているに違いない。望まない言葉が次々に人工脳髄から出力され、ささくれだった言葉の本流に胸が押し潰されそうになる。涙腺から熱い液体が滲み始めたのを自覚する。
ポーキュパインに見られないよう、顔を背けながら、無言で巨人の肩から他の取っ手へと飛び乗る。
そのまま、宝物でも運んでいるかのような、巨大な手の上に収まった。
甲冑の掌で目を拭いつつ、ミラーズの隣へ腰を下ろす。
胸にベレー帽を乗せて目を閉じていた少女は、途端にぱちりと瞼を開き、「もういいのですか、リーンズィ」と何を掴むでもなく手を伸ばしてきた。「まだまだヴァローナが泣き出してしまいそうな歌声でしたが、あなたの良き心の純粋な喜びが伝わってくるようでした。元気になって良かった」
袖から覗く白い肌に見とれながら、リーンズィは「だけど、浮かれすぎていた。私の不手際で私たちに迷惑をさせたというのに」
手を取って、許しを請うように緩く手指を絡める。特に意味のない無作為な動作だ。荒野での一件とヘカティ13による施術を受けて以来、美しい金色の髪をしたミラーズの熱を無意識に求めてしまう。
「リーンズィの手甲、冷たくて気持ち良いわ。もう体の熱は取れましたか?」
「疼きが取れない。冷気が服の下に入ってきて、変な気分だ。とても苦しくて、とても肌寒い」ライトブラウンの髪の少女は照れた様子で少女の手の甲に口づけをした。「許されるなら、温めてほしいぐらいに」
ミラーズは、リーンズィの手を掴んで己の体を引き起こし、軽く口づけを返した。
親猫に甘える猫のように、ライトブラウンの髪の少女は積極的に受け入れる。
『え、仲がおよろしいのは構わないんですがね、そこ俺の手の上ですよ? まずいんでは?』
戸惑ったように抗議してくるポーキュパインの足取りは、早足ではあるが慎重だった。
先行して出立した他のスチーム・パペットや、巨大な鉄輪が自走しているとしか表現しようのない奇怪な機体が通ったあとの轍を、転倒しようのないぐらいの確実な歩みで、しかし可能な限り急いで進んでいる。
しかし、接吻を繰り返す二人の少女の儚い熱情の交換に、どうしても気が削がれてしまうらしい。時折足取りが乱れるようになった。
そして何か言いあぐね、左肩に掴まるアルファⅡモナルキアにカメラアイを向けて、それから空中を浮揚しているユイシスへと問いかけてきた。
『ユイシスの姐さん、ちょっとお尋ねしたいんですがね、この人らは、何で思いっきり俺が見てる前で、っていうか俺の手の上で、平気でイチャコラしてるんですか……? そういう文化圏なんで?』
『おや? どういうことでしょう。当機からの質問を許してください、ポーキュパイン086。聖歌隊の流儀ではこれが普通と聞いていますが』
リーンズィとミラーズをほのぼのとしながら見守っていたユイシスのアバターが、空中を移動して巨人と目を合せる。その動きに、ポーキュパインの光学素子群が追従した。
仮の情報共有ネットワークを開設しているため、彼にもユイシスの視認が可能だ。
『いや、まぁ、ある程度はね。それにしたって、聖歌隊のレーゲント同士でも場所は選ぶって言うか……大主教リリウム直轄の部隊は方針として奔放ですけどね、うちみたいな攻略拠点だと、その辺はある程度計画的に、上手いこと解消させるようになってるんで……。むしろ個人的な関係性は保護しようっていう機運もあるんで、さすがにこんな他人の手の上で見せつけてくる人はあんまり、いないですね。眺めは良いですが、眺めてるのは居心地が悪いって言うか』
『そうなのですか。ふむふむ、認識のアップデートが必要ですね』
ユイシスは無表情に頷いた。アルファⅡモナルキアとそのサブエージェントだけで閉鎖された情報ネットワークを強化、完全に秘匿化。侵入対抗変異演算式Ⅰを展開。情報収集用のグループを設定する。
それと平行して、オープン回線で『聞こえますね、二人とも。スチーム・パペット・ポーキュパインが混乱しています。人前でのキスは、これから向かう拠点では犯罪行為に当たる可能性があります、直ちに中止してください』と呼びかけた。
「接吻もダメなの?」ぷは、と息をしながらミラーズがポーキュパインを見上げた。「それとも場所が良くないのですか?」
『犯罪行為でも、ダメでもないんですが。レーゲントならそういうのは道ばたでもしますけど、挨拶程度で終わるじゃないですか。でも皆さん方、なんか雰囲気的にもっと先行きそうだったでしょう。元レーゲントなんでしたっけ? 昔基準だと凄かったみたいですが、クヌーズオーエ解放軍は違うんですよ。俺も嫌とまでは言わないですよ。でも俺の気持ちとしてね、俺の手ももう肉じゃないですけど、長年使ってるボディなんで、くつろいでもらう分には構わないにしたって、ベッドみたいに使われると、なんていうか、戸惑うんですよ』
「なるほど。大型の蒸気甲冑を使っているスチーム・ヘッドの感情については、考慮をしていなかった」形式張った声でリーンズィが頭を下げた。「非礼を詫びる、ポーキュパイン」
『まぁ、分かってもらえたんなら構いませんよ。皆さんが普段はそんなじゃないっていうのも分かりますよ』
> 分かっていませんね。
> 分かってないわね。
> でもそういうことにしておこう。
『ぶっちゃけるとね、ヘカティ13ですが、あいつの処置は雑なんですよ。快楽物質使いすぎなんです。誰でもしばらくは混乱しますからね。術後に影響出るんですよ。普通は調整のためにもう何日かあの教会に滞在するぐらいなんで。移送が早まったのは俺らの側の都合なんで、後遺症に口を挟むのも筋が違うんで……』
後遺症、と復唱して、リーンズィは表情を曇らせた。
頬、唇を指先でなぞる。それから服の上から胸や腹、下腹部に触れて、悩ましげに思い詰めたような白い息を吐いた。
「そうなのか。後遺症、後遺症なのか……では気分が良いのも手術のせいで、私は本当はそんなに気分が良くないのか。せっかく人間の感覚を拡張できたと思ったのに……」
またしょんぼりした様子のリーンズィの頭にミラーズが軽く背伸びをして手を伸ばし、よしよし、ちょっとずつ成長していけば良いんだからね、と慰めるように頭を撫でる。
ポーキュパインは『まぁレーゲント同士で喧嘩してるよりは仲良くしてる方が良いんで、あんまり気にしないでください』とぼんやりとした口調でフォローを入れた。
リーンズィを落ち着かせた後、ミラーズは巨人の頭部を見上げて、帽子を脱いで会釈した。行進聖詠服の足下を開き、白い素足を覗かせたままの奈落の花のような笑み。淫靡と退廃、清楚と明朗の入り交じる表情に、多眼の巨人は一瞬だけ引き込まれて視線を過度に集中させた。だが、興味は間もなく霧散したようだ。
そうした観察結果に基づいて、アルファⅡモナルキアのネットワーク内で、三人が情報解析のために意見を交した。
議題はクヌーズオーエ解放軍についてだ。
敵対的勢力ではないという確証は得ているが、全容がはっきりとしていないこの組織について、少しでも理解を進める。
> うーん、クヌーズオーエ解放軍では身体的接触に特別な意味が残っているみたいね。
> ポーキュパインの視線は不純でした。クラッキングして焼き切りますか?
> 気持ちは分かる。でも焼き切るのは良くないと思う。
アルファⅡモナルキアであれば、その点に関しては絶対に同意など示さなかったはずだ。
ミラーズとユイシスは別回線で意見を交した。リーンズィを少しでも安定化させることがミラーズとユイシスの間でのみ共有されている目的としてあった。理由は不明だが肉体がライトブラウンの髪の少女となって以来、リーンズィの擬似人格演算にはノイズが現われるようになってきた。
奇妙なことに、アルファⅡモナルキア側でもそれを補正しようとしていない。
おそらくは正常に動作していない、という動作が正常なのだろう。ユイシスも事情を把握してるのだろう。現状のままでは可哀相だというミラーズの意見はあまり尊重されていない。
三人の議論は極めて短い時間で、とにかくポーキュパインには多少なりともいやらしい感情が存在している、ということで総括された。若干不名誉な扱いをしていることをおくびにも出さず、ミラーズは可憐に微笑んでみせる。
「そんな風に言ってくださるなんて、お優しい方なのね。重ねて非礼を謝罪します、ポーキュパイン様。どうか許してくださいませ、私たちはまだ何も分かっていないのです。クヌーズオーエ解放軍の価値観は、私たちの物差しとは少し違うのですね」
『事情もあるんでしょう。長いこと……三人? 四人? で旅されてたんでしょうし、その時の気分が抜けきらないのは仕方ないですよ』
「いいえ、一週間ほどの付き合いなのですが、リーンズィにそういう教育をしたのは私なので、少し責任を感じているのです」
「違う。私が子供っぽく求めすぎたのが誤りだった。今、情動の補正パッケージの作成を進めている。クヌーズオーエ解放軍の風紀にもすぐに馴染めると思う」
「勢いの良いことを言って後悔するのはあなたよ、リーンズィ。部屋が割り当てられたら、ベッドだって別々にするからね」
「……ユイシスと一緒が良いのだな。どうせ私はユイシスには勝てない。覚悟はしていた……」
「いいえ、いいえ。風紀の問題です。それに、親離れは早く済ませないと」
『え、一週間とかの割にめちゃくちゃ意気投合してますね……』
ポーキュパインには表情が存在しない。何も読み取ることは出来ない。だが、声音やリアクションから価値観を推し量ることは可能だ。
「これから沢山のスチーム・ヘッドに出遭うのだろうな。私に上手く出来るだろうか」
「リーンズィが頑張れる子だというのは、あの荒野と教会の手術台でちゃんと見届けたわ。あなたが本物の有志だって、きっと皆認めてくれる。あたしを色々と心配してくれている見たいだけど、あなたこそ本当に起きていて大丈夫なの? 無理してない? 不浄を受け止めるのは出来ないけど、膝枕ぐらいならしてあげられるわ」
リーンズィは無言で、しかし躊躇うことなく横たわり、自分よりも一回り小さな少女の膝に頭を乗せた。ミラーズはクスクスと笑いながら髪を指で梳き、文法と単語の崩壊した子守歌のような歌を発し始めた。
巨人は、そんな二人にじっと視線を注いでいる。
『どうかしましたか、ポーキュパイン086?』
ユイシスの淡々とした問いかけに、光学素子群が一斉に移動する。
『いや。この人、本当にレイヴン……ヴァローナさんじゃあないんだなって……』
発話中に現われた単語をピックアップして、アルファⅡの共有領域にユイシスが所見を列挙していく。
> この機体はヴァローナを知っています。ヴァローナとリーンズィが全く違うことを看破しており、しかし抵抗感をそれほど示していません。
> 解放軍では、ある程度は身体の乗り換えが許容されているのだろうか。
> スヴィトスラーフ聖歌隊の基準だとあまりない事態なんだけど。聖歌隊の再誕者は基本的にプシュケと肉体が一対一対応ですし。
> ヘカティ13は生殖細胞を欲しがっていた。肉体のクローニングが出来るのかも。
> そんなはずは……前例はあるけど、そんなことが出来る子が他に現われたのかしら。ちょっと気になるかも。
三つの異なる視座の討論を統合しつつ、統合支援AIユイシスは保護者のように振る舞いながらポーキュパインと会話を続けた。
『あなたと当機たちも、出遭ってそれほど時間は経過していないはずですが。この短時間でリーンズィとヴァローナの差異を検証可能なのですか』
『そりゃ、全然動きが違うんでね。リーンズィさんの慣れてない感じのパフォーマンスも新鮮で良いんですけど、もうヴァローナさんではないんだなと実感すると、ショックがね……』
> ヴァローナはそんなに人望があるのか……。
> 綺麗な子でしたから。リーンズィが肉体を操ると、ちょっと可愛い系になってしまうけど。
> 聖歌隊では性的接触が基盤の組織だと聞いていたが、ポーキュパインからはそうした前提をあまり感じない。しかし、前情報では性行為には意味があるらしい、と。そうなると、娼館のような施設があるのだろうか。私も真逆そこに?
> ふふ、殿方が怖いのですか?
> むしろミラーズを取られたくない。
膝枕をしていたミラーズが顔を赤らめて、「そういう不意打ちは悪い子のすることよ」と耳打ちすると、リーンズィは「冗談だ。君はそもそも私のものではない」と素っ気なく返した。二人の視界にユイシスからのメッセージ、『あまり調子にのらないように!』。
『ヴァローナとは親しかったのですか?』
不意に水を向けられてポーキュパインは狼狽えた。『まさかまさか。大主教リリウムの護衛ですよ、雲の上の人ですよ。ただのファンです。でも、電子ポスターを部屋に張ってましたし、解放軍の本部が公式で売ってる映像記録も、トークン注ぎ込んで全部購入してたぐらいで……』
『その映像記録というのは、説法や聖書朗読の映像ですか』
『そういうのも含めて全部ですよ。ああ、もしかしてボディを譲渡されただけで、スヴィトスラーフ聖歌隊の、以前の具体的な布教活動はご存知ない感じで? 俺のいた時間枝にも聖歌隊はいなかったんで、実際は知らないんですけど、昔はこれから攻略する都市をハックして、色んな映像をアップロードしまくるサイバーテロをやってたみたいなんですよね。その残品とかを、今は嗜好品として流通させてるんですよ』
『なるほどなるほど。質問です。その具体的な内容は?』
すす、とユイシスのアバターが巨人の顔に近寄って耳を側立てると、光学素子が違う方向を向いた。
『何故目を逸らすのですか? もしかするとモラルに反するようなやつですか? 生身の人間しかいない旧世紀で配布したら犯罪になる類の?』
『いや。映像記録は、映像記録ですよ』
> 推測。ポルノでは?
> ポルノなのか?
> まさか、神聖な映像です。迷える仔羊が、不滅の楽園へ迎えられる様子を映すのですよ。私、かつてキジールだった私が映っているのもあるかもしれないわね。
> どういうことですかミラーズ。そこのところもう少し詳しく教えてもらって良いですか。見たい……いや許せない。ミラーズがそんなことをされているなんて粛正でしょう、これは粛正です。電子攻撃を行ってクヌーズオーエ解放軍とやらのスチーム・ヘッドを全て破壊することも検討しましょう。
> 髪の匂いを嗅いだだけで変態っぽいと言っていた君はどこに? ロケットに乗って宇宙に飛んでいったのか? いつ帰ってくる? ヘカトンケイルに改造でもされたのか?
> それはそれとして、この男性人格からは追加の情報を取得できそうですね。
ミラーズが邪悪な笑みを浮かべた。




