2-8 その1 ファデルとロジー
懐かしい人の夢を見て、ミフレシェットは清潔なシーツの中で目を覚ました。
見慣れた天井で、四枚羽根の白いシーリングファンが、行く当ての無い荷物を運ぶ草臥れた馬車の車輪のように、不規則な軌道で回転している。
記憶領域の最適化を行ったせいで、意識の演算が安定していない。
呆としながら、「あの羽のモーターに、油、差さないと……」と呟く。
その声が濁り無く澄みきっていることに、不意に嫌気が差した。
かつての自分が忌み嫌った、何の力も持たない幼い子供の声。
その弱々しい音色には、どこか無理をして整えた響きがある。
決して届かない星の輝きを、無様に真似しようとした、偽物の輝き。
違う、これは自分の声ではない。
「油を……油を差さねぇと」
カーテンを透かす早朝の薄明かりに意識を結び、演算される人格を、ミフレシェット本来の喋り方に補正していく。
上品さや可愛げといったものは、本来の自分には存在しない。
公教育さえ受けていないのだから。下卑た大人たちの会話から学習しただけの、怒りを込めたような荒々しい口振り。それがまさに今の自分を形作ったのだ。
そして、それだからこそ、あの人に腹心の部下として認めてもらえたのだ。
ああ、しかし、と少女は慨嘆する。
自分は、変わってしまったのでは無いだろうか?
油を差さないと、油を差さないと……。
楕円の奇跡を描く四枚の羽根。
攪拌される空気は水を含んだ布のように小麦色の肌身にまとわりつく。
脱輪して幽谷の底へ落ちてしまいそうな、その捻れた螺旋へと、肉付きの悪い細い手を伸ばす。
伸ばしたその手には、まだ見覚えが無い。
皮膚は嘘のように滑らかで注射痕も無い。殴られたり縛られたりした痕も無い。
不死病患者の肉体としては当然なのだが、ミフレシェットは使用している肉体の裸身を見る度に酷くたじろいでしまう。
人工脳髄を差し込む身体を、つい先日、取り替えたばかりだ。大型蒸気甲冑を装備して、実戦を含めた三日間の慣らし運転を終えて、もう神経の行き渡っていない部分はどこにもない。
だが、自由に動かせることと、意識が馴染むことは全く異なる。
宛がわれた新しい体、新しい感染者は、ミフレシェット自身のオリジンと似ていた。
南アジア系の移民と北欧人の混血らしく、ほんのりと日に焼けたような肌をしている。
最後に鏡を見たときは、生前と顔の印象も似ているように思った。
居場所の見つからない迷い子のような顔。
しかし、同じ人間はこの世界のどこにもいない。
永久に不滅であることを約束された身体には、一つとして同じものはない。
「どうしたって、俺の体じゃあねぇんだ」わざと荒い言葉遣いを選びながら、小さな声で唱える。「俺は俺じゃねえ。俺は前の俺じゃ無くなっていく。どんどん変わっていく……」
何もかも、もうどこにも存在しない。彼女の属していたコミュニティは悉く滅び去った。彼女自身の感傷さえも偽物だ。全ては頭部に差し込まれた人工脳髄が演算する幻影に過ぎない。
ミフレシェットは、ミフレシェットではなくなっていく。
かつて確かだったはずの生身の己の名前が消えていくのと同じく、蒸気甲冑を纏った兵士としての自分さえ、変容していく。
少女は自問する。果たしてあの頃目指した自分に、少しでも近づけただろうか。
誇りある極東のスチーム・ヘッド、調停防疫局のエージェント、ローニン。そして沢山の仲間たち。
どこまでも続く北欧の平原を駆けていたあの頃に憧れた、強く気高い自分に……。
望まずとも意識は変容を続ける。無限に続く坂道を転がり落ちる石の如くに変形していく。生前の肉体と同じような体格、同じような人種、同じような性別でも、違和感は影のように付きまとう。
かつてはアルコールの類や刹那的な快楽に溺れ、益体の無い暴力に明け暮れていた、場末の酒場で雑用係として飼われる根無し草。それがミフレシェットの原風景としての自我だ。細部は、もう思い出せない。それでも、間借りした肉体の履歴と、人工脳髄に収録された人格は、決定的に違うのは分かった。肉体には人生で何をしてきたかが自動的に刻み込まれる。些細な違和感の積み重ねが、自分とこの体の元の持ち主とでは、刻んできた歴史が違うのだと知らせてくる。
そこに言葉を挟む余地はない。異なる二者の間に摩擦が起きるのは必然であり、拭いようのない不和は、少しずつ、仮想された精神を削っていく。
与えられた私室の天井に取り付けたシーリングファンは、任務の最中にとあるクヌーズオーエで拾ったものだ。生前唯一信じた熱情、この人生を憎悪するという情動のよすがを、目に見える形で取り戻したかったというのもある。そうすることで反骨心と、さらなる飛躍を目指す精神の熱が、保たれる気がした。
深夜の酒場、嘔吐物やアルコール、汗と体液、ドラッグの臭気のする掃きだめ。
その天井には、いつでも素知らぬ顔の四枚の羽が存在していた。
不規則な軌跡を描く転輪。脱落して今にも奈落へ落ちて行きそうな……。
「……目覚めて最初に見るのが、わたしの顔じゃなくて、つまらない天井なの? 天井はわたしよりも綺麗かしら」拗ねたような声が耳打ちする。「新しい体に違和感があるの、ファデル? 昨夜は全然そんな風には思わなかったけど。ヘカティに看てもらう?」
虚空に向けられていたミフレシェットの小麦色の腕に、細くしなやかな女の腕が巻き付いた。
ふと、総身から緊張が溶けるのを少女は感じた。
ミフレシェットはその腕を抱きしめるようにして寝返りを打つ。
同じベッドのマットレスに横たわる栗毛の少女と目を合わせ、黙って口づけをする。聖歌隊流の挨拶にもすっかり慣れた。しかし、「おはよう、ファデル?」と微笑んでくる、その目も眩みそうな程の美貌に改めて見惚れてしまう。聖歌隊の少女達の美貌は鮮烈だ。何十年の付き合いがあっても、何度でも胸が高鳴ってしまう。偽物の心臓が。偽物の魂が……。
「……おはよう、ロジー」
「具合が悪いわけではないのね?」
聞く者の心の襞を刺激するようなハスキーな声に身を案じられ、「なんでもねぇ。大丈夫さ、ロジー」と極めて穏やかな調子で応える。
自分でも驚くほどに幸せそうな声に、ミフレシェットは我に返る。
そうだ、もう自分はミフレシェットですらないのだ。
ファデル。ファデル・ミフレシェット・キャンピオン――それがかつてミフレシェットと呼ばれたスチーム・ヘッドの、現在の名前だった。
新しい名前のどの部分も、人格記録媒体本体に刻印された、オリジナルの本名とは関係が無い。
スチーム・ヘッドになった時に与えられた『ミフレシェット』の機体名も、いつのまにかミドルネームのような扱いになってしまった。
大主教リリウムが『ミフレシェット』の綴りを覚えられなかったせいだ。
リリウムは彼女に、子供向けの絵本に出てくる、最初の音だけが似ている兎のキャラクターの名前を愛称として与えて、使い始めた。
しかしそれでは大型蒸気甲冑の兵士としてあまりにも威厳が無いと言うことで、その兎の父であるファデルの名を与えられて、今に至る。
直近でいつミフレシェットと呼ばれたのか、記憶がない。聖歌隊と合流してからはずっと『ファデル』だ。
ミフレシェットになる以前の記憶など……もう、日銭を安酒に浮かべて、夜の月に救いを求めた日々は……。
首を振る。そんな記憶はどうでも良い。変わってしまっても良い。今を楽しみ、未来を期待しなければならない。
黴の生えた記憶を払い除けるかのように、ファデルはシーツを広げ、栗毛の少女ごと己らの体を包み込んだ。
薄布越しの朝の光の中で自分よりも少しだけ背の高い少女の額に口づけをして、脳髄に達するまで不朽結晶連続体の根を張る人工脳髄の花飾りを指先でなぞる。
美しいものはこうした機械まで美しく造形されるのだ、と何度目かの感嘆を繰り返す。ロジーの曇りない北欧の海のような青い瞳を見つめていると、不滅の恩寵や神の意志の存在を信じそうになる。
ファデルは基本的に神を信じていない。結局薄汚い路地裏で死ぬはずだった彼女を救ったのは全自動戦争装置という絶滅戦争の化身なのだから。
スヴィストーリヤ聖歌隊の彼女たちは、この不滅の秀美を世界の終わりまで持って行くのだろう。
……自分はそうでは無い。戦争と同じだ。変わり続けるしか無い。
だが、望む方向へ進めているのだろうか。望む未来へと変わっていけているだろうか……。
「……ロジー、あんたはどう思う。俺は、前と変わっちまったかな?」
「前と?」きょとんとして、それから蠱惑的な笑みで応じた。「ふふ、前とはちょっと違うわね。でも、どの『前』なのか分からないわ? はっきり言ってくれないと……」
人工脳髄を撫でられながら、聖歌隊の少女は、こそばゆそうにクスクスと笑っていたが、そのうちに額の赤い花飾りからファデルの指を優しく退けた。
仕返しとばかりに、ファデルの頭に生えたソケットのような人工脳髄を触ってくる。ファデルは抵抗せず、されるがままにして、ロジーのしどけない肢体を眺めていた。珠のような素肌を覆うのは絹で編まれた肌触りの良いワイシャツが一枚だけ。
ファデルがクヌーズオーエから持ち帰って、贈った品だ。純粋な絹は今となっては極め付けの貴重品だ。サイズがあっておらず、ロジーの触れることさえ躊躇われる清廉な美しさを際立たせ、その体の脆い有様を強調してしまっているが、ファデルは、目の前の少女が決して手折られる花の類で無いことを理解している。
数百人の感染者を精密に指揮出来る、数少ない上級レーゲントの一人。
それがロジー。
ロジー・リリィだ。
この艶めいた矮躯が、一つの軍団にも匹敵していると言って良い。
決して知らない仲では無い。偽りの魂と偽りの肉体に閉じ込められた自分でも、彼女との間に育まれた関係性までは疑えない。
肩を並べて、不滅の死地へと乗り込む間柄である。
「だからよ、そのさ、最初に会ったときとかと比べて、何か変になっちまっていやしないかな」
「その話って、この涼しくて気持ちの良い朝からするようなことかしら? 昼と夜をきっちり分ける人だと思っていたのだけど」
「茶化さないでくれよ、俺ぁマジだぜ。いつだって大マジだ。なぁ、お前から見てどう思うよ。前と比べて、違うところはねぇかな。駄目になってたりとか……」
「どんな意味でも、ファデルはファデルよ。もしも体がおじいさんになってしまっても、わたしはすぐにあなたを見つけ出すわ。ふふ。プシュケをこんなふうにいっぱり触られて、のんびりしてる人、あんまりいないもの」
「いや、そうじゃなくてよ……あー、でも他の女も男も、俺も、大して変わらねぇっていうふうにも聞こえるな。そんなふうに牽制されると傷つくぜ。そりゃ、あんただって、俺らの精神的なケアをするのは、殆ど義務とか、任務みてぇなもんだろうが」
「あら、珍しく拗ねたことを言うのね、こうしてあなたを選んで朝を迎えたのに。知らないの、朝は一日に一度しか来ないのよ?」ロジーは見た目にそぐわない艶然とした笑みでファデルの頬を撫でる。「どうかしたの。何か機嫌を損ねてしまったかしら。昨晩会ったとき、首筋にそれまでの痕でも残っていた?」
「おうおう、好きなようにしろよ。好きに言ってくれ」ファデルは不貞腐れた調子を気取って肩を竦めた。「つくづく人を手玉に取るのが上手い女だ」
「ふふ、それだとわたしが悪い女みたいね。ファデルと同じ女の子なのに」
「あんたに俺の繊細な心を真面目に語ろうってのが間違いだったよ」
「どうしたの? 今朝のファデルは本当に可愛いわね」
キジールとリリウムに由来する非現実な顔立ちの青い目の少女は、悩ましげな顔をして、ボブカットに整えた髪をしばし無言で弄っていた。
今は髪の色だって同じなのに、と呟く。
そしてシーツをケープのように羽織りながら裸身を持ち上げて、ファデルにそっと口づけをした。
「でも、そんな軟派な態度で私の愛を独り占めしようだなんて思わないことです。大主教リリウムに仕える聖堂聖歌隊長にして、『癒やしの聖句』を授かりし『神の吐息』の一人、みんなの頼れるレーゲントなのです。衝動を受け止めて、祝福された肉体を鎮めるのは神命です。妬むだけの感情は心を醜く変貌させてしまいますよ、軍団長ファデル?」
「救世の聖女様に惚れると辛いったらありゃしねぇ、素朴な告白でもすぐ説教だもんな。あと、このクールタイムが終わるまでは軍団長呼びはナシにしてくれよな」
少女を抱きしめて、自分よりも鮮烈な不死病患者としての糖蜜のような香りを楽しみながら、遙か遠い時代に寝床にしていた酒場を思い出す。朧気にしか思い出せないが、当時は酷い有様だった。一度も清掃したことが無いマットレス。虱が湧いた不衛生な毛布には汗やアルコール混じりの嘔吐物がたっぷりと染み込んでいた。荒くれの常連客に蹴り起こされる度に、地獄の揺り籠に閉じ込められているような気持ちにさせられたものだ。
だが、そうした風景は、這い回る時の欠片の怪物に砕かれて、世界のどこにも残されていない。懐かしいという感情も湧いてこない。元々懐かしむような記憶では無い。
不穏な気配を察したのだろう、天使の如き声調で静かに歌い始めた栗毛の少女を抱きしめながら、ロジー、ロジーと愛しい名を囁く。
髪の色が同じだと言っていたが、この髪は自分の髪ではないし、何であれ、ロジーの繊細な絵画のような艶やかなブラウンとは、何者の髪でもまるきり違う。
ましてや、本物の肉体で野良犬のように生きていた頃の自分では。
聖歌隊のレーゲントたちは、誰かと恋愛関係を結ぶことはない。こうして彼女を知るスチーム・ヘッドは男女を問わず山ほどいる。かといって、ロジーたちは尊厳を無視された共有財産などというものでもない。リリウムを頂点としたある種の偶像の集団であり、不安定になりがちな継承連帯製蒸気甲冑の装着者を調整する、専門の精神的エンジニアだと言っても良い。
狂おしいほどに魅入られているのだ、ということをファデルは胸の高鳴りで改めて理解する。髪の香りや、肌の柔らかさから理解する。だが、何をしたところで、どれだけ捧げ物をしたところで、この少女が自分の物にならないのだということも、ファデルは明確に理解している。独占できるとも考えていない。
聖歌隊と交す睦言を真に受けるほど、継承連帯の兵士として堕落してはいない。
……ロジーにしたところで、丸きりファデルに心を許しているわけでは無いだろう。
愛を交す夜もある。だが、それは偽りのものだ。
お互いの精神を安定させ、任務を円滑に遂行するための、ぬるま湯の馴れ合いだ。
「……ねぇ、こうやって二人きりなのに、難しい顔をしないでよ」ロジーはいよいよ困ったようだった。「あなたを愛してるというのは、真実の言葉なのに」
「疑っちゃいねぇさ。俺だって愛してる、ロジー」あんたに愛されてないやつぁ継承連帯にいねぇだろうが、とまでは言わない。踏み越えてはならない一線というものは、無分別なファデルの目にも見えている。
どのような間柄であれ、ロジーには心からの親愛と信頼を捧げている。
この問いを向けられるのも、この問いに応えられるのも、古くから自分の調整役を務めてくれているロジー以外には考えられなかった。
「教えてくれよ。あんたぐらいしか分からねぇんだ。俺は、前から変わってねぇよな?」
あるいは、原初の聖句で精神を支配されているのかもしれないが。
ファデルにとってはどうでも良かった。この幸福感だけを頼りにいつまでも戦える気がしていた。関係の非対称性や真贋など、本当は対して気にしてはいない。
しかし、と演算された精神に影が過ぎる。
しかし、もうすぐ彼らがやってくるのだ。
だからこそ、こうして答えを求めずにはいられない。
只ならぬ気配を察したのか、ロジーはベッドの上で居住まいを正した。
「……からかってしまってごめんね。何か込み入った心配事があるのなら、わたしにいくらでも相談して?」咳払いを一つ。栗毛をかきあげ、ファレルの手を胸に引き寄せて、少女は語りかける。「長い付き合いでしょう、わたしたち。あ……わたしたち、というのは、聖歌隊と継承連帯っていう区切りじゃ無くて、わたしとあなた、ということね。わたしは、あなたのこころのありかたをちゃんと分かっていると思うわ。あなたも、そうね、わたしが何も出来ない女の子じゃないってことは、分かってくれている。そうでしょう……?」
「ああ、そうだとも。よく分かってる」ファデルは頷いた。「命を預け合う、上級聖歌指揮者と蒸気甲冑軍団長だ。分かってるさ」
鏡像連鎖都市クヌーズオーエ。
第二十四番攻略拠点に設けられた『勇士の館』で、新たな名を与えられたミフレシェットは、決して過去を振り返らないし、悔やまない。
ただ都市を攻略し、ロジーを愛するためだけに全存在を捧げている。
尊敬した唯一の兵士と駆け抜けた地獄は、単純に屍山血河の戦場だった。
今回のクヌーズオーエは全く異なる。途方もなく果てしがない。その一言に尽きる。苦しい戦いではあるが、明確に目指すべき到達点があり、仲間はそれこそ数万にも及ぶ大軍となっている。
大主教リリウムを初めとした聖歌隊の再誕者や、近隣の時間枝から流されてきたらしいスチーム・パペットやスチーム・ヘッドたち。脱落者も時には出る。
だが、不安に思うことは少ない。
ファデル・ミフレシェット・キャンピオンには、栄光ある戦いに参加できているという確信と喜悦がある。それに、届かない思いでも、愛する人も出来たのだから。
……恐ろしく気がかりなことがある。攻略拠点の郊外、野戦病院として利用されている廃教会に現われたというスチーム・ヘッドたちのことだ。
ファデルの真剣な眼差しに、ロジーも神妙そうに瞳を揺らめかせながら、応じてくれた。
「……昨晩から言いたいことがあったのだけど、さっきも言いたいことがあったんだけど。今は、それどころじゃないみたいね。ねぇ、わたしに思いの丈をぶちまけて?」
「ありがとよ。その、今日、新入りの連中が、修理受けた連中と一緒に来る予定だろ」
「新入りって言うと、フリアエ様に恩赦を授けられ、四番目の御使い様に導かれてやってきた、例の三人よね。彼らのことが気になるの? あまり聞いたことのない組織の。ちょうてー……あなたの昔話に時々出てくる……最高の兵士だっていう、シィーさんの……」
「調停防疫局だよ」
「そう、それです。わたしも彼らは気にしているわ。隊長格らしい人が、よりにもよってケルビム・ウェポンを背負っていて、しかもアルファⅡって名乗っているらしいのもそうだけど、最後の旅に出たはずのマザー・キジール、それに行方不明になったリリウムの使徒ヴァローナに、首輪を付けてやってきたのでしょう? 尋常の出来事ではないわよ」
「やっぱり只者じゃねえよな」
ファデルの不安げな声に、ロジーはベッドの上で片足を曲げて抱え込みながら、「そうね……」と物憂げに頷いた。アイスブルーの視線が虚空を彷徨っている。すらりとした脚をまざまざと見せつけるような挑発的な動作だ。ファデルは美しさに感心する程度で、さほど注視をしない。
過負荷で暴走した兵士を誘導して、自分を襲うように仕向けるときにも見せるポーズではあるが、実際のところは沈思しているときに特有の仕草だ。
プライベートを知る人物ならば、自室に保管している兎のぬいぐるみの代わりに、自分の脚を抱いているだけだと分かる。
「わたしたちでもあなたたちでもない、新しい軍団が一つ増えるようなもの、だものね。ヘカティの采配で、一応はあなたの部下という扱いになるみたいだけど。機械も神も信じていない彷徨える亡霊たち。三人とも曖昧な存在で、三人だけで結びついてて、鉄にも愛にも興味が薄い。わたしだって、手綱を握れと言われれば困ってしまうわ。手に負えないと思うのなら、これから一人軍団の『赤涙将軍』ウンドワート卿に引き取ってもらうよう掛け合ってみてもいいけど」
「ウンドワートの旦那とはむしろ会わせたくねぇなぁ」
「そうよね? ウンドワート卿はつまらない争いを起こしそうだものね。ううん、必ず争いを起こしますね 。ファデルとしては、そこも心配なんでしょう?」
「心配は心配だぁな。まぁ新入り連中も、あの旦那と同じ調停防疫局なら、喧嘩ふっかけられてノされちまうタマじゃないと思うが……俺ぁよ、調停防疫局には昔散々世話をしてもらったからよ」ファデルはしばし瞼を瞑り、二刀を携えた一機のスチーム・ヘッドの背中を思い描く。「聞き飽きた名前だろうが、“ローニンの旦那”だ。シィーっていうんだが」
「あの、変な剣だけで、黙契の獣も大型蒸気甲冑兵士もみんな倒しちゃったっていう?」
「俺が知る中でも五指に入る兵士だった。副官みたいに扱ってくれて、実の子供みたいに可愛がってくれた。俺は戦うとき、いつでもあの人をイメージしてる……」
脆弱な装備で常に最前線を進み、あらゆる敵を容赦なく斬り倒した。おぞましいカースド・リザレクターも暴走したスチーム・パペットも死者の軍勢も、彼の前では問題にならなかった。ミフレシェットでは、彼と戦ってもおそらく勝負にならなかった。ファデルとして経験を積んだ今なら、少しは彼に追いつけているだろうか。
重ね重ね、記憶に焼き付けられた理想像をなぞる。完璧にほど遠い装備で、完璧に近い結果を出していたという点では、極めつけに優秀な兵士だ。過去を思い出すことは無い。シィーについても思いだすことはない。何故なら、いつでも心の中にある。ファデルが理想とするのは、彼のような勇猛な指揮官だ。
不死病の災禍が世界を覆った後、未熟な少女の肉体で蒸気甲冑に放り込まれ、そらでもミフレシェットとして正気を持ったまま戦うことが出来たのは、ひとえに出逢えたシィーが公正な勝利というものを味合わせてくれたからだった。
他の兵士から二段も三段も下に見られていたミフレシェットの実力を見抜き、指揮系統を是正し、全てが円滑に回るように整えたのもシィーだ。勝利に次ぐ勝利。
天井のシーリング・ファンをチラと見る。
こんな不規則な楕円とは違う。永遠に終わることの無い完璧な輪のように思えた。
いつわりの魂に居場所を与えてくれたのが大主教リリウムなら、消えかけていた魂の炎に息を吹き込んでくれたのがシィーである。彼が他のスチーム・ヘッドたちと一緒に<時の欠片に触れた者>に飲み込まれて姿を消してしまった後も、彼と駆け抜けた激戦の日々を忘れたことはない。
熱のこもった少女の語り口に、ロジーは栗毛を弄りながら、何かもの言いたげに耳を傾けていた。聞いていて面白い話ではないだろう。ここらで話はやめておこう、とファデルははにかんで首を振った。
「とにかく、俺は前と変わっちまったんじぇねぇかなって、不安になるんだよ。俺ぁ、ローニンの旦那のことが大好きだった。心の底から尊敬してた。たぶん、父親みたいな人だった。ちょっとでもあの人に認められたい、追いつきたい、遠すぎる背中に触れてみたいって必死だったのさ。ローニンの旦那がいなくなっちまった後も、俺ぁずっと努力を続けてきたつもりだ。でもよ、分からなくなったんだ。俺はマジにそこまでやってこれたんだろうか。あの人に恥じない自分になれたのか……ダメなやつになってないか」
調停防疫局のエージェントを名乗る兵士たちの素性は知れない。
<時の欠片に触れた者>を追跡している異形の騎士団のほうが「よく見る」という意味では身近なほどだ。
シィーや彼の部下だった何体かのスチーム・ヘッド以外にその組織の所属員とは遭遇できていない。
鏡像連鎖都市に流れ着いて以来、一人も見ていない。だが、記憶の中にいる彼らが、全員が特異な技能を備えた凄腕の兵士だったのは確かだ。
今回現われた三人も、きっと図抜けた力を持っている。
ファデルにとっても畏怖すべき存在である都市焼却機フリアエ、そして忌まわしき<時の欠片に触れた者>にまで存在を承認されている。
どれほどの実力者か底が知れない。
もしかするとシィーよりも、もっと上位の立場という可能性もある。
「あの新入りどもと会うのがよ、本当のこと言うと怖いんだ。みっともないし、情けないよ。でもさ、シィーが育てたのがこんなロクデナシなのか、失望した、なんて言われたらと思うと、怖くて、怖くて……」
「なんだ、そんなことで怯えていたのね」
ロジーは溜息をついて、胸を反らした。
「その時は、わたしがビンタします。三人ともビシバシです。マザー・キジールでもヴァローナでも、アルファⅡでも、心ないことを言う人にはお仕置きです」
優しく小麦の肌に触れてくる手を受け入れながら、「いや、ビンタて……」と驚いてしまう。
「だって当然のことじゃない? わたしはファデルがどれだけの努力を重ねてきたのか、息の掛かる距離でずっと見てきたわ。ファデルは変わりました。本当に変わったわ。ずっとずっと、より輝かしい方向へと変わり続けてる。わたしは聖歌隊の一員として、このクヌーズオーエで何百人ものスチーム・ヘッドと心を重ねて、内奥に触れてきました。それでもファデルが一番輝きを増してるって確信してる。だから断言するわ、ファデルは最高の蒸気甲冑兵士よ。わたしが大好きな、わたしが心から大切な、わたしたちの騎士様。だいたいね、わたしの言葉は神の息吹なの。それをあしざまに否定する人は、盲目の葦、主の教えに背く者です。だからビンタです、ビンタ。制裁です」
「……そこまで言われると照れちゃうな」ファデルは熱弁に小麦色の肌を赤らめていた。「違う、照れちまうな。照れちまうよ……」
「無理をして荒くれ者の真似をしても、あなたの光輝に満ちた精神をくすませるだけです。むしろ、心をそこから退かせた方がいい。そもそも、シィーさんという方のことを、意識しすぎよ。出遭った頃の淀んだ目をしたミフレシェットはもういないのです。わたしの愛しいファデルがいけないというのなら、誰だって不合格の失格者なんですから……だから、もっとわたしを見て? 記憶の中にしかいない人なんかじゃなくて、いま目の前にいて、触れられるわたしを見て……」
恥じらいも衒いもなく言い切った栗毛の少女は、ふぅと息をついて、ファデルと深く口づけを交した。
「……少しは落ち着いた?」
「うん。おかげで、きっと大丈夫だろって自信が湧いてきた。ロジーは俺の星空だよ。天然の航海図だ。いつも行き先を教えてくれる……」
そして、手が届かない。永久に、見上げる星として輝き続ける。
自分が如き卑しき兵士では、天使のようなこのロジーと、本質的に魂の交歓を迎える未来はやってこない。
せめて、あの人と並べる未来にこれただろうか。
あの人の仲間に認められる力がついただろうか。
しかし、しかし。どの言葉も、本質には迫っていない。
本音を曝け出すなら、調停防疫局のエージェントたちの言葉を通して、エージェントたちよりもロジーに失望されてしまう未来。
それこそが、より差し迫った恐怖だった。
シィーの仲間たちに見限られるのはまだ耐えられる。でもロジーが自分から興味を失ってしまったら、精神は一挙に瓦解する。
城壁が堅硬なのは守るべき美姫や宝玉を内に宿し、守り抜くという誇りに支えられているからだ。
それが抜け落ちてしまえば、自分はどうなってしまうのだろう
そこまでの恐れは、とても口に出来ない。
そんな臆病な姿を、赤い白百合の少女には見せたくなかった。
「それじゃあこの話はここまで。いいわよね。良い。はい、異論は受け付けないから。それでね、えっと……」
少女性の権化とでも言うべきその少女は、途端に落ち着きを失った。ワイシャツの裾を無意味にぐいぐいと引っ張って身だしなみを整えたようとした。どうやっても太股を大胆に晒した姿が変わることは無い。怪訝そうな顔をしているファデルの前で、宝石から切り出したような光を湛える美しい髪を指で梳かし、壁掛けの時計を気にしながら、焦って言葉を紡ごうとした。
不意に、ファデルの両手を握り、緊張した様子で持ち上げた。
降ろした。また持ち上げた。
ふにふにと揉みながら、耳までを赤くして視線を彷徨わせた。
目が合った、と思った瞬間に目を逸らし、何か重大な決断をしたような大儀な動きで、ゆっくりのまた視線を合わせてくる。
ごく稀にしか見せないロジーの狼狽した行動に、ファデルの鼓動までもが乱れ始めた。これまでにベッドの上で向き合い、抱き合い、いくらでも空々しい愛の言葉を囁きあった仲だ。
こうした極端な感情の発露が大主教リリウムとロジー・リリーの差異ではあり、可愛げという名の魅力でもある。いざ目の当たりにするとこちらまでドキドキしてしまうのが問題だが。
「それでね、あの、わたしがさっ、昨晩から、えっと、あなたの不浄を晴らしてる間も、気持ちを確かめ合ってる間にもずっとずっと言いたくて、言いた、かったことなんだけど、でもファデルはすぐに記憶領域の最適化に入っちゃうし、それでね、それで雰囲気が、その……」
「あ、ああ」
「あのね、あの、他のレーゲントやリリウム様やヘカティから賛同はもらっていて、あとはファデルさえ首を縦に振ってもらえれば全部手配が終わるんだけど……や、あの、手配が終わるって言っても、そんな事務的な、味気ないものじゃなくて、その、それは便宜的なものでね、あの、あのあの、あのね、何も決まってなくて、ふぁ、ふぁ、ファデル次第なの。ファデルがわたしのことどう考えてるか、知ってるのよ、でもね、そうじゃなくて、そうじゃないってことを証明する機会が、あの、ううん、ファデルはもしかしたら嫌がるかも知れない、でも、でもね、でも、もしもそうじゃないなら、ファデルがね、ただ、うんって頷いてくれるなら、なんだけど……」
まくしたてるような饒舌とつっかえつっかえの間を往復する、ロジーの全く意味のわからない言葉の羅列に、それを聞かされる淡い褐色肌の少女までわたわたとし始めた。愛らしい頬を真っ赤にしながらベッドの上で無意味に右往左往するロジーなど見るのは初めてだ。
「……落ち着け落ち着け。どうしたってんだ? そんな大事な話なのか」
「わたしにとっては、とっても大事なことなの!」食いつくようにぎゅっとファデルの手を握り、打って変わってしょげてしまって、手を緩める。「でもファデルには、どうでもいいのかもって、怖くて……」
「どうでもいいわけない。ロジーの頼みを断るもんかよ、何でも聞いてやるよ」
ファデルが逆に手を強く握ると、ロジーはいっそ泣き出してしまいそうだった。
「頼みじゃないの。頼みじゃないの、ファデル。ふ……ファデル」苦しそうに熱い息を吐く。何か一世一代の大勝負に出るような落ち着きのなさだ。「これはね、リリウム様の発案なんだけど、継承連帯と聖歌隊の団結を、あっ違う、そんなじゃなくて、それは建前でっ。でも、リリウム様が新しい機密を独学で習得なさって、だ、第一号として、もしもファデルが良ければ、ふ、ふぁ……ファデ、ファデルと、わた、わたし、で……」
涙を浮かべ始めた少女が、感極まった様子で、最後の言葉を口にしようとしたとき。
コンコン、と部屋のドアがノックされた。
返事をする前に、じっとりとした目をした黒髪の少女がいきなり部屋を覗き込んできた。
ゴシック調の行進聖詠だが、実態としてはレオタードに近い。準不朽素材のフリルや薄布の飾りで裾を仕立ててドレスに偽装しているだけだ。鎖や飾緒などを中心にした飾りの数々。
胸元には不朽結晶連続体のプレートがぴったりと張り付いており、豊かな胸の形をこれ見よがしに浮き上がらせている。鼠径部の肌まで露出した扇情的な意匠は、時として春を鬻いで喜捨を促すスヴィトスラーフ聖歌隊のレーゲントとして、負の方面で極めて『それらしい』ものだ。
「ロージー。時間が来た。あら、ファデル……まだいたのね。かわいそう」
愛想というものが完全に欠落した、冷めた顔立ちの少女が呼びかける。左の顔面を白と赤の花が覆い尽くしているのが不吉だった。感情の希薄な掴み所の無い声が響く。
「……まだ早いわ」
「早くなったの。時間は早くなるの。ヘカティ13が予定を切り上げて来るぐらいの事態になったのよ。他にも応援が来るけど、次の『勇士の館』では貴女一人で五人もメンテナンスしないといけない。例の『首切り兎』が出たせいで、十五人も重欠損者が出たから。小隊の生き残りも皆、激情と破壊衝動で狂いそうになっている。担当のレーゲントたちは重労働ね。兵士たちを正気に戻すのは骨が折れるわ。ええ、ええ、ロジーお姉様も調子は良く無さそうね、見れば分かる。でももう待てない」
「……分かったわ、シァカラーテ。はぁー……わたしって、きっと星に愛されてないのね。それとも、これも試練なのでしょうか」
「お姉様、あと十秒なら待つけど」
「雰囲気が大事なんです! 十秒なんて無いのと同じ! 皆も心配だし、すぐに着替えて、わたしも向かうわ。首切り兎の被害は? 全損した人はどれくらい?」
「三人だけ。ヘカトンケイルと上級レーゲントを集めれば皆復元できるからそれは安心して。ああ、たぶん現場入りしてすぐ奉神礼になるわ。丁寧に身支度をして」
「うん、分かった。……そういうわけだから。ごめんね、ファデル。大事な話がしたかったんだけど、それはまた今度。明後日の夜はまた非番よね? そのときに、その、続きを……」
「あ、ああ」
「おやおや、かわいそうなファデル・ミフレシェット・キャンピオン。でも、これは嫌がらせや妨害では無いから、安心して。私も愛しい姉には嫌われたくないし。賛成してる。あなたとお姉様がこん……」
「待って待ってまだ何も言ってないのラーテちゃん待って」
シァカラーテこと、上級レーゲントのラーテに縋り付いたロジーが、そのままぐいぐいと胸を押して、年上の姉を、ファデルの私室の外へと追いやる。
そして、錆びた音が聞こえてきそうな動きで振り返って戻ってきて、自分の行進聖詠服をソファから取り上げて、焦りを満面に湛えた引き攣った笑顔を向けてきた。
「ちょっと、行ってくるわね」
「が、頑張ってな」
顔の左側を人工脳髄の花で埋めた美女が、部屋をまた覗き込んできた。「ああ、ヘカティ13の到着が速まったのに合わせて調停防疫局のエージェントたちの合流の時計も早くなる。軍団長ファデルにも準備をおすすめしておく。生身で会うの? それとも着ぐるみを着て?」
「あ、そりゃそうか。もちろん蒸気甲冑で行く。とっとと暖機しないとだな……」
黒髪の上級レーゲントは、冷たい声のまま花に覆われた顔の片側に手を当てて、「アデュー」と気の抜けた平坦な挨拶をし、ロジーに押されるがままに出て行った。
「大変な一日になる気がしてきたなぁ……」
かくして、甘く流れるべき爽やかな朝は、混乱の渦に呑まれて過ぎていった。
それにしてもロジーは何が言いたかったのか。
いかにも重要な話なのだろうが、ファデルにはまるで見当がつかない。
『勇士の館』の駐機場では、ファデルのために設けられた専用スペースに円筒状の頭部を保つ巨大な蒸気甲冑が鎮座していた。ファデルは衣服を一切纏っていない。あられもなく裸体を晒したまま向かったが、作業用スチーム・ヘッドたちはそれを日常的な風景として受け入れ、事務処理や機体のチェックを滞りなく終わらせた。
蒸気機関の炉心に火を入れて出力が安定するのをしばし待つ。不死病患者を搭乗させることを前提とした動力炉は核分裂を利用しており、まともなシールドも備わっていないため、生身の人間ならば数分の搭乗で死に至る。
不死の肉体ならば適応さえすれば無視できるリスクだが、こうした合理性を追求したせいで露骨になってしまったアンバランスさも、継承連帯製蒸気甲冑が非人道的と呼ばれる由縁だ。
タイミングを見て、少女は頭に突き刺された遠隔操作式人工脳髄からハッチ開放の信号を送信した。5mの巨人の胴体が音を立てて開く。あらかじめ設定された動作の通り屈んで手を差し出し、足場を形成した。少女の儚い体はひょいと飛び乗って素早く装甲を登り、バイタルパートへと肉体をねじ込んだ。
途端、元より少女の肉体を収める程度のスペースしか無い空間で全身があらゆる器具で拘束され、ヘッドセットが強引に頭に被せられる。息を吐く暇も無く四方八方から人工脳髄のプラグが掘削機械の回転音を上げながら頭蓋骨に迫り、貫通して生体脳髄へと到達した。
電流を流し込まれ、児童向けの棺桶のような狭苦しいバイタルパートで少女が短い悲鳴を上げたときには、その肉体の制御は蒸気甲冑に全てを侵奪されていた。
己の手を動かすよう意識するだけで三倍以上にスケールアップされた蒸気甲冑が蒸気を吹き、金属質の五指に神経が十他科のような錯覚と、一気に数千の臓器を押し込まれたかのような不快感が脳髄を痛ませる。
不朽結晶連続体で構築された破壊の巨人、蒸気駆動とデジタル制御をミックスして、動作の精密性と機械的なパワーの両方を高次元で纏めたハイブリッド型スチーム・パペット『ミフレシェット』。
その『怪物』という名前の元となった異形の円筒状のセンサーユニットからは、大凡想定される限りの環境情報を取得可能だが、ファデルは機能を絞って視覚素子だけを有効にして、金属質の巨大な五指を開いては閉じる。
一挙動ごとに猛烈な違和感とストレスが生じる点も含めて、動作は快調だ。
これこそがファデルの真の姿であり、彼女の人工脳髄の『本体』を格納した蒸気甲冑だった。ロジーと交流していたファデルの生身も、所詮はこの機体から遠隔操作される子機に過ぎない。
人類文化継承連帯の価値観においては、搭乗者はこれら不滅の戦闘機械を構築するシステムの一部であって、尊重されるべき個人では無い。
何せこの大型蒸気甲冑に乗り込んでいる間、接続された肉体は指の一本も動かすことが出来ないのだ。
他の陣営のスチーム・ヘッドはまず人工脳髄を備えた不死病患者がおり、その能力を拡張していくという形で発展していった。
ある場面で全身甲冑型のパワードスーツが登場し、台頭していくのも不自然な流れではない。
だが、人類文化継承連帯の発想はそれらとは些か方向性を異にする。
全自動戦争装置は、最初に圧倒的な性能を備えた巨大な蒸気甲冑を作成し、システムの中心を不死病患者ではなく蒸気甲冑と蒸気機関に置いた。この思想の異質な部分は、最初から不死病患者を交換可能かつ電子的に破壊される恐れの無い演算装置として扱っている部分だ。
戦闘能力は確かに他の追随を許さない次元に達したが、不死病患者の生体脳も人工脳髄に収録された意識も、スケールアップした身体と、機械に置き換えられた上に異常な数を追加された臓器のコントロールに長時間堪えられるほど頑強では無い。限界を超えて稼動し続ければ、遠からず生体脳が発狂し、そのフィードバックで人工脳髄も不可逆的に損耗する。不滅である筈の精神が破壊されてしまう。
もっとも、破壊されたならば、交換すれば良いのだ。この不滅の時代にあって『魂の尊厳を省みない』。それが人類文化継承連帯の打ち出した方針だ。『いつわりのものであろうとも魂の尊厳までは穢させない』というスヴィトスラーフ聖歌隊とは真逆である。
『さぁて、シィーの旦那……俺ぁここまで、どうにかやってきましたぜ』
蒸気甲冑で合成した音声は、シィーに範を取った男性のものだ。気弱そうな気配など微塵も無い。蒸気甲冑という丸きりの異物を己の肉体として認識させられるストレスを過剰な脳内麻薬の投入で抑えつけながら、ファデルは平静を心がけた。接続して活動し続ければ半年で廃人になると言われる機体で、どうにか戦い抜いてきた。そして自分にはもう失う肉体自体が存在しないのだと、理屈ではなく実感で完全に理解している。ミフレシェットになる以前の自分はもうどこにもいない。
こと戦闘においては、ファデルに怖いものなど何もない。ただ、愛しいロジーさえ守り通せれば。
ハンガーから幾つかの武器を取って、各部にマウントした。
ああ、調停防疫局のエージェントたちに実力を示すにはどうすればいいだろう。活性化した蒸気甲冑が暴力的なプランを無数に提示してくるが、ファデルは高揚しつつも冷静に非現実的な案を棄却していく。
シィーの真似をして作った大剣を握りながら嗤う。
『調停防疫局のエージェント。今の俺にとって、果たして、どの程度のもんなのか……』
脳裏に浮かぶのは、愛する少女の青い色の瞳。
その信頼に満ちた透き通った輝きだ。
『変だな。あんなに怖かったのに、会うのが楽しみで仕方ねぇや』




