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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-7 その2 血の洗礼

 大地すら煮え立つようだった。

 全身を濡らす血と発汗は甘ったるく、外気の異常な高さも相俟って、リーンズィは蜜の風呂に頭の先まで浸かっているような感覚を得た。

 上昇し続ける気温に対処するために、可能な限り互いの血を浴びせて冷却を進める。

 世界は刻々と狂気的な光芒を増し。

 鮮血色の光に包まれた荒野で、互いを互いの全てとする少女達の姿は青い花に似ている。

 血液が蒸発し、体熱を奪い、甘い匂いで周辺の大気を満たす

 リーンズィは大量出血で正気を失いかけていた。

 過酷な環境も相俟って、新しい肉体を得たばかりのリーンズィには負荷が強すぎる。

 花嫁のブーケのように金髪を広げた矮躯の少女、調停防疫局と約定を結んだ彼女だけは保護しなければならない、というノイズのような脅迫観念だけが浮かんでは消える。

 あっという間に処理能力が限界を迎える。

 元よりこのような過酷な環境適応が可能な人工脳髄ではない。

 そもそも、今現在、彼女の身体を操っているエージェント・リーンズィに至っては、ほとんど全ての活動に関して、何の経験も蓄積されていない。アルファⅡとユイリシスならば豊富なデータベースを参照して状況に対応するためのプロトコルを即座に用意するのだろうが、リンクを切断されたリーンズィは、その残滓を有するだけの、どこまでも無防備な一人の少女に過ぎなかった。

 ミラーズを血液の蒸発で冷やそうとしているが、実際には、リーンズィこそがミラーズによって保護されていた。

 噛み切った手から流出する血液を冷却剤として扱う手つきは、ミラーズの方が余程巧みだ。


 ボブカットの髪から垂れた血と汗が額を伝って涙のように荒野に落ちる。

 リーンズィは混濁した意識のまま作業を続けた。

 背徳的な美を集約したあどけない笑みに導かれるがまま、ミラーズの頬の香りに溺れ、彼女を救おうと必死に血を捧げる。

 麻薬的な芳香が危機的状況を欺瞞していたが、それも長くは続かない。

 世界は発火しつつある。


 悪性変異の進行を意味するアラートが耳朶を打ち、混迷が一瞬でリセットされる。

 我に返っても出来ることには大差が無い。

 途切れそうになる息を辛うじて繋ぎながら、ミラーズに血液を与え、あるいは呑んで、水分を回収する。

 互いから失われていく水分を回収する作業には、あるいはそれ以上の意味があるように感じられた。

 血の交換。魂の連結。血を失い、また血を補う度に、リーンズィは己が変性していくのを感じた。

 ミラーズも同様に、冷却と水分補給に腐心している。

 動作はまだ的確だが、肉体の体積が小さい分、大量の出血に伴うダメージは彼女の方が深刻なように思えた。火照ったような表情は消え失せて、もはや青ざめている。

 失血に対して造血が追いつかないのか、上昇し続ける外気に対して恒常性が限界を迎えているのか、判別出来ない。

 ただ苦しげに息をしている。

 リーンズィは、己の胸こそが締め付けられるような気がした。

 自分が何とか彼女を救わなければならないと直観した。

 さらに己の腕の多くの部位を噛み切り、出血量を増大させる。

 血も無限に造れるわけではない。リスクの大きい行為だが、使用している肉体(ヴァローナ)は元々は戦闘用スチーム・ヘッドだ。あらゆる死、あらゆる苦痛を体験しているはずだ。

 デッド・カウントは推定で数百回を超え、再生能力は非戦闘用であるミラーズよりも圧倒的に高い。

 過程で内臓が幾つか転換されて無くなってしまっても構わない。

 この時さえ凌げるならば。不死病患者は何度でも蘇る。

 

「意識を、意識を保たないと。私がやらないと……」


 ミラーズの体を懸命に冷ましながら、リーンズィは彼女に、そして自分自身に呼びかけた。

 焼け石に水、という言葉が脳裏をよぎる。

 何と懸命で虚しい苦闘なのだろうという自嘲の念さえ湧いてくる。

 ミラーズの繊細な肋骨に血の海を作る。

 それが一瞬で蒸発して、大した冷却効果が得られないのを、冷静な思考で観察する。

 噎せ返るような花の香りすらも皮相なものに感じられる。

 不滅の花とて、太陽に焼かれれば枯れてしまう。

 悪性変異が始まってしまう。

 その真実が恐ろしくて、リーンズィは己の全て後を捧げる覚悟で、ミラーズの救護を続ける。


「もう少し、もう少しのはずだ……」


 ああ、しかし、それで何が変わるというのだろう。

 世界のどこに逃げ場があるのだろう?

 ミラーズが動かなくなる。

 だが噛み切った腕は再生していない。

 彼女はきっとまだ諦めていない。

 リーンズィを助けようとする意志が傷口の再生を阻害している。

 傷口から零れる血。

 一滴も無駄には出来ないと、リーンズィは小さな手に縋り付いて啜った。

 そうしながら、取得できる限りにおいて、身体状態を確認する。

 不滅の肉体であってもここまで体外が加熱され、そして血液の流出が継続すれば、人間存在として遠からず終焉を迎える。ナトリウム等の排出や回収は人工脳髄が制御しており、神経系は正常で、人格の擬似演算や身体操作にはまだ支障が出ていない。

 だが、身体冷却のための水分消費に、再生能力がまるで追いついていない。

 血液や汗と言ったものは、短期間の活動に不能な臓器を転用すればある程度供出が可能だ。

 だがその足掻きも永久には続けられない。

 水分の流出は深刻だ。

 脾臓や胆嚢といった臓器の分解で補える限界点を超えつつある。


「まだなの、か、アルファⅡ……?」


 旗を掲げた逆光の影に少女は問いかける。


「……この灼熱は、夜明けの一瞬だけというわけでは……ない……のか……」


「謝罪する。見通しが甘かった。そうだと考えていたが、違うらしい」


 ヴァローナは肩越しに振り返る。

 二連二対のレンズを黄色く変色させた兵士は、灼熱の地獄で平然としていた。

 狂気じみて巨大な太陽に、巨躯と不朽結晶のヘルメットの歪曲した影が佇んでいる。

 高く掲げた旗の、刃に絡みつく二匹の翼ある蛇の図案。

 この機体がこの旗を掲げている限りはきっと大丈夫だ。

 無根拠な安堵にリーンズィの琥珀色に変色した瞳が潤むが、それすらすぐ蒸発して消えてしまう。


「まさか、だまされ……たの? フリアエに……」


「これは気象の問題だが既存の常識が通じない。一概には言えないがここは都市焼却機フリアエを信じるしかないだろう。そのうち状況は好転する。それよりも、ミラーズの状況はどうだ。私からは君が陰になっていて見えないし、私の方でもユイシスの解析が読めない。それどころではないからな」


「ミラーズは……」朦朧としており、呼びかけても意識活動の兆候は薄い。こういう状況には慣れているような素振りをしていたが、嘘だったのだろう。リーンズィを安心させようとしていたのだ。「……無事ではなさそうだ。生命維持に処理能力を全て費やしている……素体が小さいせいで、私よりも……耐久力が……」


「事態は深刻そうだな。私にしても、もはや冗談の一つも出てこない」


「……日よけになってもらうのは良いが、そちらに問題は……?」


「アルファⅡモナルキアに対して懸念は無用だ。私と君では生命管制のレベルが違う。既に自己破壊プロセスを実行して、この環境に合わせて身体を再構築している」


「……ずるいな。涼しい顔をして……」


「君も涼しい顔と言われる部類の造形だと思うが。いや、冗談だ。こういう冗談でいいか?」


「え、ここで聞かれても困る……」手から血を啜り、己のひび割れ始めた唇を舐める。「適応状態の共有はしてくれないのか?」


「もちろん、この適応を独占する意図はない。ユイシスが適応の詳細を君たちに合わせて改変しているが、まだ時間を要する。全く規格が異なるボディだ、下手に同期させても毒になる。ただ、転送開始まで、君たちはもたない可能性が出てきた」


「で、は……では、移動を、再開するか……? どこか、大きな、遮蔽物を探さなければ、ミラーズが……でも、で、……でも、何も見えない、何も見えないのと言うのに……ミラーズ、大丈夫か? ミラーズ……感触はあるか……?」


「う、ん……?」


 呼び覚まされたミラーズが、焦点の定まらない目でリーンズィを切なげに見た。

 すぐに目を閉じて、リーンズィの手を握り、傷口に口づけする。

 血を啜る。

 絶え絶えに言葉を紡ぐ。


「む、無理……世界がぐるぐるしてる……立ち上がるのは……駄目かも……」


 少女たちは、空から降り注ぐ沸騰するような熱を感じながら、絶望的な怖気に身を震わせた。

 道標などどこにもない。

 ここにあるのは、破滅だけだ。


「ほかに、みちは……? プランは……」


「これ以上のガイドは、あるいは無意味か。私も演算能力をユイシスに譲ることにしよう。もしも次に私が発話したら、それはコロネーション(戴冠)・プロトコル実行の合図だと解釈して欲しい」


「……そちらのからだを、みすてるのか……? 同じ不死病の……かんじゃだ……」


「いいや。この肉体の持ち主は君たちを守るのだ。我々や君よりも以前からの、調停防疫局のエージェントだ。彼は調停防疫局のエージェントとしての使命を全うする」


「わたし……」喉がひりつく。己の血を飲み、リーンズィが抗弁する。「わ、わたしたちも……えーじぇんと……だろう……」


「否定する。戴冠するまでは、君たちは徴用されただけの、ただの感染者だ。意識を転写されていたとしても責任は我々にしかない。少なくとも最初の犠牲は、この肉体で購う。どうか持ちこたえてほしい」

 

 気休めにしかならないが、とアルファⅡはナイフを抜き取った。


「スヴィトスラーフ聖歌隊風に言うならば……これは、君たちのために流される調停防衛局の血、契約の血である」


 そしてヘルメットの下に刃を宛がい、己の頸動脈を掻き切った。

 アルファⅡモナルキアは特殊仕様のスチーム・ヘッドだ。

 一度起動してしまえば、その性能は向上し続ける。

 重外燃機関の冷却に大量の血液を消費する仕様上、特に肉体の造血能力は極めて高度に適応が進んでいる。切り裂かれた首から噴き出す血はまさしく恵みの雨となってリーンズィたちに降り注いだ。

 目が醒めるような赤い色。

 花の香りがする、生暖かい不死の契り。

 リーンズィがひとときの冷却剤散布に溜息を吐いていると、金色の髪をした乙女が目を覚ました。

 譫言を言いながら血を掬い取り、リーンズィの額を指でなぞった。

 押し当てられた指の生温い感覚。

 それは何かの洗礼なのかも知れず、祝福なのかも知れなかった。

 リーンズィが意味を問う前に、ミラーズはまた意識を失った。


 冷却用の血液をスプリンクラーのように噴射した後、それきりヘルメットの兵士は沈黙した。

 日差しは一分一秒ごとに光量を増大させていく。

 反射光に網膜を焼かれるせいで、一瞬でも瞼を開いていることが困難になった。兵士の作る影には、煮え立つ空気が容赦なく注ぎ込まれ、リーンズィもミラーズも焼け付く空気から懸命に酸素を取り入れ、火傷しそうな息を吐く。

 数分間降り注いだ血の雨のおかげで多少は限界点が遠のいたが、リーンズィからは脾臓も膵臓も既に失われた。肝臓の他、生存に直接必要ない臓器を転換して、冷却につぎ込む。

 それでもやはり体組織の加熱に追いつかない。血液を冷却剤として互いに融通するのも不可能になった。

 閉ざされた視界に表示されている文字を、痙攣する瞳が追う。エージェント・ミラーズ、悪性変異進行率57%……エージェント・リーンズィ、悪性変異進行率70%。

 危険な領域だが、肝臓が消滅する程度ならばリカバリーは可能だ。

 腎臓や肺を失っても、脳髄や心臓といった部位が健在ならば対処できる。

 ただし、さすがにこれらバイタルパートに影響が及ぶと、悪性変異は致命的に進行してしまう。

 リーンズィは造血が完了した分の血液を、腕の傷口から、ミラーズの体へと浴びせた。

 いっそ体組織表面の維持を放棄することも考えるが、それもリスクは大きいと思い直す。

 不死病患者とは、言ってしまえば恒常性という一枚の布袋に収まった存在だ。皮膚組織は恒常性の最も外側に位置する部位であり、最も表面積の大きいある種の器官だと言っても良い。これらは過剰なほど精密に連携している。

 変質・壊死させる部位を狭い範囲に留めるのは至難の業で、操作に失敗すれば、各所で連鎖的に崩壊が始まる。

 そうなれば生体脳髄にまで影響が出かねず、この場合も悪性変異の進行は止められなくなるだろう。


 思考の迷妄を無視して、空からは無限の灼熱が墜落してきて地表で潰れ何もかもを塗り潰す。

 緋は火に連なり、凄惨なる死の近親者として懸濁した水源の澱のように漂って空気を満たし、少女達を溺れさせていく。

 ここで私の、アルファⅡではない私の旅は終わってしまうのだろうか。

 いったい何を調停すると言うんだ? 

 無力な金髪の少女に血を与えながら、リーンズィは自問する。

 何を調停すれば、どうなる?


 二つの小さな肉体を飲み込んでいく、光で編まれた血河の奔流。

 この世界は何千年も前に終わった後なのだということが、失血の冷たさに震えるリーンズィには、もうはっきりと分かっていた。

 明確な言葉として思考してしまえば、逃れられぬ絶滅が己らの身にも降りかかってくる。

 そんな実感があるものの、ミラーズを救いたい、彼女だけでも助けたいと願っている間だけは、少しだけ気にならなくなった。

 そして、だしぬけに、それこそがユイシスの施した認知機能ロックなのだと気付いた。


 この世界にいれば星ごと終焉を迎えかねない。

 そう確信してしまえば、精神外科的心身適応では処理出来ない、人格を崩壊させる規模の絶望が襲うだろう。

 あれは、そうならないようにユイシスが配慮をしてくれたのだ。

 だが、もう気付いてしまった。

 この状態でいつまで発狂しないでいられるものか。

 一秒ごとに、ミラーズに割くためのリソースも、リーンズィの肉体を維持するためのリソースも喪われていく。風景が色褪せる。強迫観念じみた恐怖感が増していく。

 怒り狂って膨れあがった太陽は地表を残らず焼灼すると決めているようだった。

 その見境のない暴虐は、やがて自分も、この儚く小さな少女の骨肉すら灰にしてしまうのだろう。

 リーンズィは血液の提供をやめた。限界合った。

 息を浅くしながら、生体脳に異常を来しているらしいミラーズを抱きしめた。

 自分には何も出来ない、というアルファⅡ総体からは完全に独立した諦観が生まれ、胸をかきむしりたくなるような痛みに喘ぐ。

 絶対にミラーズを失いたくないという感情が眦にこみ上げてくるが、ミラーズの体から漂う芳香によって、平静な状態へ回帰する。

 何を不安がっているのだ、とリーンズィは己の首輪型人工脳髄、そしてヴァローナの花のような人工脳髄へと問いかける。

 一秒単位での延命だとして、それが何の失敗だというのだ。

 一秒でも良いから可能性を繋がなければならない。

 たとえ無駄だとしても、投げ出した先にミラーズの安寧などない。

 浮かんだのは、ユイシスの言葉だ。


「なにがあっても……大丈夫。私たちは大丈夫だ、ミラーズ」


 灼熱を感じる。

 不滅の衣服を絶望感が貫いて、心臓を押し潰す。

 二人の少女は発狂した太陽の下であまりにも無力だった。

 破滅の光芒が降り注ぐ世界で、瑞々しい花の香りのする互いの存在だけが最後の拠り所だった。

 リーンズィとミラーズは意識活動をほぼ停止したまま、不安を押し殺すために互いに指を絡める。

 震えるミラーズの指を擦って慰める。

 強張るリーンズィの腕を、ミラーズが無意識にそっと撫でる。

 

 果たして、報いは訪れた。

 不意に光と熱さが和らいだ。

 即座に擬似人格演算を休眠から回復させたリーンズィが、恐る恐る目を開いた。

 雪解けの草原を吹き抜ける風のような、冷たい声が脳裏に響いた。


『ユイシスより報告します。フリアエにより予報されていた雲状生体機械群の到達を確認しました。上空の赤色巨星様不明熱源体の閉塞を視認しました。今後は気温の大幅な減衰が期待されます。アルファⅡから取得した適応状態の転写まで三〇秒。持ちこたえてください』


 霞む瞳で宙を捉える。

 空を、炎の海が覆っている。

 雲だ。燃え上がる雲の海だ。雲ではない。空を覆うのは雲でなく微細な塵の群れであり、肺腑を侵すそれら死灰の群れが、怨嗟の斜幕となって星の宙空を巡り、地表が炎に包まれるのを慈悲深くも阻んでいる。

 おそらくは十億単位の死灰によって、世界を焼却する炎が遮られている。

 やがて煮えたぎる世界のかまどに蓋が落とされた。

 世界の赤が一気に褪せた。

 風景は視覚が可能なレベルにまで光量を落とした。

 吹き抜ける塵混じりの風が唾液と汗にまみれた全身を刺激して身もだえをさせる。

 風はやがて暴風となり、限界点に達していた二人の少女の体をなぞりあげて冷却していった。

 やがて気温が急激に下がり始め、体表の加熱が緩やかに停止していった。

 ヘルメットの兵士の作る頼りない影に隠れたまま、リーンズィは半ば以上機能停止したミラーズの、細い肉体を抱き起こした。


「……う。ここは、今度こそ天国かしら」掠れた声でミラーズが問うた。


「天国まではまだ遠い」リーンズィは微笑を作った。「まだ、まだ遠い」


 体を冷やす風は思わぬ汚濁を遺していった。

 全身が塵埃に塗れた。

 出口のない煙突を落下していく掃除夫のように黒く汚れてしまった。

 雲状生体機械群なる存在は、上手く太陽を隠してくれたが、手ひどく汚染された風も運んできたらしい。しかも刻一刻と汚染が重なっていく。

 覚束ない手先で着せあいをした。

 だが留め金が上手く触れない。二人とも裸体にマントを羽織っただけのような姿になった。

 不埒ですね、などと笑い合う余裕もない。

 荘厳だった行進聖詠服の装飾は数百年を風雨に晒されたかの如く煤けており、何か打ち壊された戦争記念館に置き去りにされた将軍の衣服に似ていた。

 永遠に清らかであることを約束されたはずの、麗しい少女達の肌にすら塵が付着しつつある。

 不死病患者の浄化能力をもってしても、肉体が汚染されていくのを止められていない。

 彼女たちは、それほどまでに弱っていた。

 鮮血色の熱波が過ぎ去っても、世界には世界が終わる日のような陰鬱な光が満ちている。

 外気も体温も危機的な一線を下回った程度で、まだ油断はならない。

 ライトブラウンの髪の少女は腰を下ろしたまま、膝を抱えたまま熱っぽく息をしているミラーズから、そっと体を離す。

 ミラーズもリーンズィも、悪性変異の進行は停止し、低速で回復を始めている。

 身体運動を減らし、ただエネルギーの産出を抑えて、体温を下げることに努めた。



 高すぎた外気と体熱のせいで、平衡感覚を初めとする複数の機能が混乱したままだ。

 全身から甘い匂いのする汗が止めどなく垂れ落ち、あるいは蒸散していくが、その端から剥き出しの肌に塵が張り付いていく。

 ミラーズが呆としながら手を伸ばし、リーンズィの顔を拭ってくる。

 リーンズィは無心で彼女に甘えた。

 人工脳髄が頻りに点滅を繰り返しているのを、アルファⅡの鏡像のバイザー越しに確認する。

 自己破壊プロセスを実行して、身体を破壊的に環境へ適応させたアルファⅡから、この炎熱の環境への適応プログラムが転送されいるのだ。

 身体機能が向上していくのを途切れがちな擬似人格で感覚する。

 ミラーズはまだぼんやりしているが、いずれすっかり正気に戻るだろう。

 ライトブラウンの髪の少女は楽観に目を細める。

 ただ、自分たちエージェントへのアナウンスを再び停止してしまったユイシスが不吉だった。

 熱で目が余り見えなくなっていることに気付く。蜃気楼か何かだと思っていたがそうではないらしい。

 視覚補正のリクエストを送ると『協力を要請。ミラーズの看護をお願いします』と声が聞こえた。


『ミラーズの肉体は、ここまで急激な環境変化に慣れていません。貴官の回復が早いのは、やはり戦闘用スチーム・ヘッドとしてデッド・カウントを積み上げてきた実績があるからでしょう』


「……君の方が適任だろう。君が、私の体を奪えば良い。私は何だか罪悪感が湧いてきた。私は、あまりにも無力だ。彼女をあまり助けてあげられているとは思えない……」


『殊勝な機体ですね。そう、当機が正式な恋人なのですから、貴官は身を引くべきです。アルファⅡと違ってかなり謙虚な感性が芽生えている点は評価しましょう。ただし、当機は権限のレベルで肉体を与えられていない身です。当機には、本当の接触は許されていません』


 嘲りの音色は、彼女自身に向けられているようだった。


『アルファⅡにそのような動作をさせることは可能ですが、同じ女の子であるリーンズィに介抱を任せた方がマシというというものです』


 打って変わって暗澹たる黒雲、血染めの塵埃の海を仰ぐライトブラウンの髪の下で、荒野を映して琥珀色に変じた瞳が瞬く。

 ユイシスの支援により補正された視覚で、ミラーズをじっと眺める。

 起き上がってはいるが、意識が戻ったのは先ほどの一瞬だけだったらしい。

 矮躯を縮こまらせて、ぜぇぜぇと苦しそうな息をしながら、項垂れている。


「ミラーズ? ミラーズ?」と呼びかけながら肩を揺すると、また荒野に倒れ伏せてしまった。


 仰向けの肉体、行進聖詠服の下、慎ましげに自己主張する薄い胸が、呼吸に合わせて細かく上下している。


「リーン、ズィ……?」と少女の唇から声が漏れた。「あたしを、見ているの? ねぐるしくて、とても寝ていられないわ。ふふ。たくさん、血を分け合いましたね。シィーが言っていたとおり。あなたはまったく純真に、わたしに尽してくれました……ごめんね、役立たずのまざーで、ごめんね……」ろれつ回らないらしい舌が、桃色の唇の下で蠢く。「ねぇ、あたしはどんなすがたをしているのかしら。みぐるしくは、ない?」


 ヴァローナよりも頭一つ小さいその儚げな少女の顔には、疲労が色濃い。

 不死病の病変、この殺人的暑熱への適応が進んでる証拠。

 悪性変異が進行している兆候でもあった。

 ただ、自己破壊プロセスからもたらされた適応情報が確実に身体を改編しているはずだ。

 アルファⅡが棒立ちになっている点を見るに、さほど危険な状況では無いのだろう。

『適応』は順調に進んでいる。しかし、意識の変性はどうにかして停めなければならない。

 スチーム・ヘッドは不滅だ。不朽結晶連続体で形作られた人格記録媒体に収録されたデータも、基本的に外殻部分が破壊されない限り損失することは無い。

 ミラーズの首輪型人工脳髄などは、この世で最も強固な物質と言っても良く、当然暑熱などはものともしない。

 だが、こういった継続的なダメージで多大なストレスが発生した場合には、内部のデータが苦痛という単一の情報で塗り潰されてしまうことがある。

 彼女を混沌とした闇に任せてしまってはならない。

 ミラーズ、ミラーズ、とリーンズィは必死に呼びかけ続ける。

 そのたびにミラーズは寝言を言うような調子で返事をした。

 その調子です、とユイシスが無声通信を飛ばしてくる。リーンズィは頷いて、言葉を重ねる。


 それにしても、とライトブラウンの少女は視線を逸らそうとした。

 それでもすぐに吸い寄せられる。

 ミラーズがやけに美しく見える。慎ましい胸の膨らみや、なだらかな腰の曲線と、申し訳程度に隠された下腹部。ヴァローナの人格記録媒体のせいだろうか、大粒の汗に彩られたミラーズの肢体に注目してしまう。

 あの地獄のような焦熱の中で、リーンズィの中で何かが確実に変化した。

 退廃の神に魂を売り払った人形師が命と引き換えに彫り込んだ秀麗な眉目は人間離れした美しさを宿したままだが、回復が進み、暑気にあてられて乙女のように顔を赤らめた有様は、酷く生命の輝きを感じさせる。

 己が血を流している時よりもはっきりと鼓動の高鳴りを実感させた。

 汗を含んだ金糸の髪束から豊潤な香りがする……。

 まだ行進聖詠服の留め金を封じていない。抱きしめるだけで軋み音を立ててしまいそうな体が、何の遮りも無くリーンズィに向けて開かれていた。

 炎上する雲の落とす影の中に晒された無防備な姿は扇情的だ。

 しかしリーンズィはその姿を扇情的と認識した自分自身を今更ながら疑う。

 ヴァローナの人工脳髄からのフィードバックか、さもなければ精神外科的心身適応の異常動作だ。


「……ん。ちょっと適応が進んできたかしら。舌が動くようになったみたい。目はよく見えないけど、ふふ、視線は感じますよ、リーンズィ。体が熱くなるのはこの荒野のせい? それとも、あなたの感情のせいかしら。共有ネットワークでそんなに愛を叫ばないで、照れてしまうわ」


 翡翠色の双眸を潤ませ、胸元を隠すようなからかいの素振りをして、少女は囁く。


「……そんなにじっと見て。本当に、あなたもどうかしてしまったのかしら。リーンズィらしくないわ。この熱で、あたしもどうにかなってしまっているけども」


 そして掠れた声で奇妙な韻律の歌を歌い始めた。

 ある程度は意識が回復してきているようだ。


「……その、どういうわけか、君がおそろしく綺麗に見える」リーンズィは衒うでもなく囁きを返した。「お姫様みたいに見える」


「……無知は財産でしたっけ? お姫様みたい、ですって。シィーにもそう誉められたことがあるらしいですね。ふふ、無知は財産。そうですね……」


 ミラーズは煤けた頬で微笑んだ。

 汚されて尚光輝を喪わないその美貌に、リーンズィは胸騒ぎを覚えた。

 そして、この高貴で、愛らしくて、か弱い少女が、塵に穢されていることが、不意にリーンズィの気に障った。

 緩く癖のついた金髪に指を通す。

 だが、己の指も黒く染まりつつあることに気付いて、躊躇った。

 ミラーズの髪がもっと酷く穢されてしまう気がした。

 そんなリーンズィの思慮を、精緻に読み取ったらしい。

 薄らと微笑むと、大鴉の少女の、普段は不朽結晶に拘束されている長い指の先をそっと口に含んで、塵を舐めとった。

 リーンズィの体がぴくりと震えた。

 ミラーズが自分の指も同じように差し出してくる。

 心臓の音がやけに大きく聞こえる……。



『はいはいはいはいはいはいはいはいはいはい、児戯はそこまでです。これ以上は人様に見せるものではありません。ただちに中止してください。当機体の個人的な感情でもそれ以上は看過できません。絶対許しませんので』


 ミラーズと瓜二つの少女、ユイシスのアバターが冷淡な口調で割って入った。

 物理演算を最大にして二つの首輪型人工脳髄にアクセス。

 実体が無いとは思えないほどの干渉力で、強引に二人を引き離した。


『苦しい思いを為た対価は支払い済みの筈です。やめなさいやめなさい、離れて離れて。ミラーズはともかく、時と場所を考えなさというアルファⅡの忠告を忘れたのですか』


 ユイシスが冷たく二人の脳内物質を操作し、接触を打ち切った。

 アルファⅡとのリンクが再構築されたしく、脳内物質のパラメータが数秒で平常値に戻った。

 未知の感覚は波が引くように遠のき、リーンズィは「私は何をしていたのだろう……」と疲れた様子で呟いた。


「ざんねん。続きはまた今度にしましょうね」と蠱惑的にミラーズが微笑する。


「……いつのまにかリンクが復活している。いや、ずっとか。ユイシス、ずっと見物していたのか」


『警告。苦しい思いを耐え抜いたご褒美をあげただけですので。決してミラーズを貴官に譲ったわけではありません。記憶してください、当機は持ち物が少ないので、独占欲が凄いのですよ? このまま貴官がミラーズを求めるなら、戦争になってしまいます』


 瓜生二つのユイシスとミラーズが見つめ合う。

 視線を泳がせて言い訳を口にしようとしたミラーズの唇を、穢れない在りし日の偶像が無理矢理に塞ぎ、リーンズィに見せつけるように接吻した。

 現実にはミラーズが一人で皮膚感覚を操作され、神経を刺激されているだけだ。

 リーンズィは無力だった。どんな手段を使っても、ミラーズの気を惹くことは不可能だと思い知った。ユイシスは一次元上の世界であの美しい金髪の少女と愛し合っている。

 自分に出来ることは、何もない。


『リーンズィ、これ以上があるとは思わないことです。……あと当機だって、三人分の生命管制を頑張ったのですから、当機をのけ者にするとは遺憾です。重ねて断固抗議します』


 過酷な生命管制処理から解放されたユイシスには、相当度の余剰演算能力が戻ってきているようだ。

 アバターをふわふわと宙に浮かせて、腰に手を当てて不機嫌そうに口を引き結んだ。


『ただ、当機を仲間に加えてくれるというのであれば、やぶさかではありませんよ』


「凄い精神力だ、私の口からはまず出てこないと思う、それ……」リーンズィは意図せずして聖詠服を羽織っただけの自分の裸体を隠し、その行為にしばし驚いた。「あ、そうか。これが恥じらいの感情か」


『この数十分で貴官の精神性はまた変容したようですね。好ましいことです。好ましいことなのでしょうか……。うーん、情動育成のためにさらなる入力実験を……いえいえ、貴官の精神発達度ではここが限界です。そんなことより……前方に未確認生命体を確認。直ちに警戒にあたってください』


 地の果てに奇妙な形をした何者かが三々五々歩いているのを見て、リーンズィもミラーズも身を伏せて息を殺した。

 黒々とした焼灼された大地に朧気な形を残す建造物の隆起の狭間。

 アルファⅡの二連二対のレンズが異物を見る。

 共有された視覚に、リーンズィは戦士の眼差しを宿らせた。

 重外燃機関に火を入れたアルファⅡから斧槍を受取り、臨戦態勢に入る。

 未知の悪性変異体だった。

 一体では無く、群れを成している。それらは例外なく黒焦げて捻れた異形であり落雷に打たれて朽ちた霊樹に似ており細長い手足を枝のようにあちこちにのばしており、不揃いな脚をもつれさせながら塵埃に閉鎖された空に腕を伸ばし只人の目には見えぬ星を掴もうとしてよろめき続けている。

 思い出したように近くの個体に思い切り体をぶつけているのは、攻撃なのか、変種の意思交換なのか。

 アルファⅡとのリンクが再開したというのに、全く解析が出来ない。


「まさか、争っているのか?」


 リーンズィは衣服の胸元を正しながら冷たい眼差しを向けた。

 腰部の蒸気機関に火を入れる。燃料は不足している。どこまでやれるか。


「調停を……私は、彼らを調停しないといけない。私は、私はそう、そのために作られた……だって、それをしないなら、私に価値なんて……」


「でも、そこまで深刻には見えないわよ? じゃれ合ってるみたいに思えます」


『同意します。警告、落ち着いてください、エージェント・リーンズィ。悪性変異体同志が戦闘をすれば、あの程度では済まないはずです。推測……手先に熱源を感知する器官があって、ひたすらにそれを求めて歩き回る個体群。それで偶然進路が重なったとき、ぶつかるのでしょう』


「どのような環境に晒されればそのような個体が発生する……いや、何故あの程度で済むんだろう」


 ミラーズもリーンズィも、この世界の実状は、世界を焼き尽くした暴威の残滓から辛うじて逃れているにすぎないと理解していた。

 人間の手ではもう見ることも触れることも出来ない無限の大宇に存在する恐ろしく巨大な赤く燃える天体に、そう遠くない未来に飲み込まれるのだ。

 雲状生体機械群が何なのかは分からないが、こうして暑熱を遮断するために機能しているにしても、根本解決にはならない。

 朝は朝ではなく、昼は昼ではなく、夜は夜ではない。

 空を覆う雲は世界を焼き尽くしたあとに残された灰なのだと知った。

 ならば、あの凄絶な灼熱の環境に晒されれば、より異常な個体へと変化するはずだ。

 ざざ、とユイシス経由で無線連絡が入った。

 リーンズィは逡巡し、その通話回線を開いた。


「フリアエか? 酷い目に遭った。クヌーズオーエへの接続面はいったいどこに……」


『お嬢様ガタ。言語は通じテイルカ?』


 調子外れの合成音声に面食らう。

 その問いかけを解析するが、敵意は感じられない。


「……うん、通じている。名を聞かせてくれないか?」


『やはり言語体系はふりあえと同じか。コチラは……衛星軌道開発公社セブンス・コンチネントの……システム球殻巡回修復保全係』


 声は淡々と、不可思議なことを告げる。


『コノ太陽系(システム)の第三エネルギィ受信局の管理を請け負っテイル』


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