2-7 その1 絶滅の灼熱
赤土の荒野が、初夏の夕暮れの凪いだ海原のように、果てしなく横たわっている。
海との間に違いがあるとすれば、この荒野には見渡す限りどこにも生命が存在しない。
少女たちはフリアエの指示通りに死の最果てを直進した。
戦乱も疫病も真実途絶えて消え失せた、終末後の静寂。
赫赫たる斜陽、輪郭の見えない茫洋とした深紅の光だけが、淡く散らされた雲を照らしている。
太陽の姿がどこにもないことにリーンズィは気付いていた。
何か終局的な破壊が訪れたらしい。
世界は永遠の黄昏に微睡んでいるようだった。
方位だけを示された旅程は未だ終点に至らず、起伏のほとんどない荒野は何度か陽炎のごとく揺らめいた程度で、変化に乏しかった。
いよいよ自分の足で歩くようになったミラーズも、移動することにまるきり興味を無くしてしまったようで、半自動モードに切り替えている。
『天体観測、環境測定、全行程を終了しました。統合支援AIユイシスより各機へ通達。まことに遺憾ながら、認知機能をロックします』
全天を覆い尽くす赤い光を浴びて歩き続けるうち、不意に淡々としたアナウンスが聞こえた。
擬似人格演算を曖昧な状態で維持していたリーンズィは我に返り、伸ばした両手の先にあるミラーズの両肩を撫ぜて、それからベレー帽を乗せた緩くウェーブのかかった髪から漂う濃厚な花の香りを楽しみ、ようやく覚醒した。
「認知機能をロック? どうしてそんなことをする?」
ライトブラウンの少女は視線を虚空へ彷徨わせながら、僅かに首を傾げた。
その声がやや不服そうだったのは、半自動モードに入って微睡みながら歩いているミラーズの背中を押していることに関係していた。最初は自覚は無かったが、ユイシスの突然のアナウンスに、ミラーズの香りを嗅ぐ行為を咎められている気がしたからだ、と潔癖そうな顔立ちの少女の肉体が結論したのは、ユイシスに返事をして数秒の後だった。
「ああ、こうしてミラーズの匂いを楽しんでいるのがいけないのか? 風が、とてつもなく変な臭いがするんだ。それをミラーズの香りで相殺したいだけなのだが、やはり君の気に障ったのだろうか」
『いいえ、当機もそこまで狭量ではありません。当機が愛するその少女の価値を存分にご堪能下さい』ふふん、と得意げな声がした。『もっとも、彼女の愛は、当機にこそ向けられているのですが。実際、現在も夢の世界で当機のアバターと戯れている最中です』
「ある意味でそれも彼女のアバターだが……」
『ドッペルゲンガーの肝要な点は、同一存在でありながら両者が決定的に他者であるという事実にあります。当機のアバターが彼女そのものだとしても、彼女が世界に二人存在することはあり得ません。ですから、当機のアバターはミラーズと一緒だからこそ、決定的に彼女とは異なる存在となるのです
』
「そういうものか? 何だかズルいことを言っている気がする」
横顔しか覗えないが、目を閉じたミラーズは心なしか幸せそうだった。
荒涼たる景色の中で、そよそよと揺れるベレー帽の羽飾りもどこか長閑さを感じさせた。不死病患者は夢など見ない。見るとすればそれは作為的に構築された幸せな時代の虚像に過ぎない。
偽りの時間に閉じ込められた幼い少女の貌は幸せを象徴する箱庭に飾られた人形だ。
後ろ腰に吊るした刀は儀礼用の装飾品で、きっと血を見たことなど一度も無い。
リーンズィは少しだけ素っ気なく「うん、でも、別に君と張り合うつもりもない」と言いながら、小さなミラーズの体に背後から抱きつき、彼女の豊かな金髪から放たれる花水木に似た香りを肺腑に吸い込む。
「ミラーズは本当に良い匂いがする。精神が落ち着く」
『随分とオリジナルのアルファⅡから個性が変化してきていますね。あの機体なら決してそんなことはしないでしょう。……この遣り取りは以前にもした記憶があるのですが、貴官のその行為は変態っぽくないですか? ミラーズは優しいので、直接的には変態とは言わないでしょうが』
「自分でもそのような印象はある」少女は頬が熱くなるのを感じた。初めての感覚だ。「でも、これがしたくて仕方ない」歩みを速めて緋色の空に燦然と輝くミラーズの金色の髪を胸に抱く。リーンズィは、ミラーズの後頭部のふわふわとした髪へ整った鼻を埋め、そして口の端を僅かに上げた。「ヴァローナの肉体に意識を転写するまで、こんな感情はなかった。おそらく彼女の人工脳髄が私の意識に干渉しているのだろうな。彼女はミラーズが好きだったのだろう。それにつられて私もミラーズを好ましく感じている。そして、好かれるつもりがないからこういうことが出来るのだ」
『ミラーズは貴官のことも嫌いではありませんよ』
「夢の世界で彼女を独占していると余裕が違うな」
甲冑の指で、ミラーズのお腹をさすりながら、少しばかりいじけた様子で溜息をつく。触れたとき、金髪の小柄な少女がくすぐったそうに喉を鳴らしたが、リーンズィを意識してのことではあるまい。おそらく封鎖された意識の世界でのユイシスとの遣り取りに由来している。肉体の反応はその副産物にすぎないはずだった。
「彼女にこんなことをしても、君は全然気にしないわけだ」
『この地位は正妻の特権ですからね。より公正を期して正姉妹、いいえ、偽姉妹、真姉妹、真なる連なる姉妹の特権と換言しましょうか。当機はミラーズの鏡像、ミラーズは当機の鏡像なのですから、どれほど深く繋がっていても、それは自明の権利として処理されます。即ちミラーズの心は当機の心であり、逆もまた然りです。ミラーズが拒んでいないのなら、当機もそれを追認します』
「……やっぱり、なんだかずるい」リーンズィの潔癖と柔媚の同居する顔に翳りが射した。「つまり私は、一生君に勝てないということでは?」
『張り合うつもりは無いのでしょう?』ユイシスはミラーズの生き写しのようなアバターを表示して、妹をからかうような調子でリーンズィの鼻先をつついた。『当機には肉体が無いのですし、リーンズィの感覚取得も控えている状態なのですから、彼女の意識を独占することぐらいは許諾して頂ければと』
「独占するも何も、ミラーズはアルファⅡモナルキアに従属しているにせよ我々個々人の所有物では無いと思うが……」
そんなやりとりをしている間にも、時折強い風が吹いた。
空気は煙たく、硫黄のにおいを孕んで逆巻いている。
リーンズィは咳き込んで、鼻先をミラーズの頭に寄せた。
『自分の汗でも空気浄化作用はあるかと思いますが』
「ミラーズがいい」
この空間の風は酷く不快だった。奇妙な粘性を帯びており、生暖かく、頻繁に目に塵が入る。
不朽結晶の装甲に包まれた指先で慎重に眦を擦りながら、半自動モードで稼働中のミラーズを押して、一定のペースを保って歩く。
「それにしても、先ほどの件だ。認知機能のロック。必要性を感じないのだが、何故だ? もう全自動戦争装置と交戦の可能性は無いのだろう。これ以上の機能ロックは無意味では」
『肯定します。短期間に連続しての能力制限は非推奨行動であり、当機としても不本意です。しかし生命管制統括としてこの処理を行わざるを得ないと判断しました』
アバターを消去したユイシスは、破滅の預言書を読み上げる巫女のような静かな声で告げた。
『直面する危機は全自動戦争装置との対立以上に実際的なものとなるでしょう。対抗するために、リーンズィとミラーズの思考能力を一部制限しますが、これは精神外科的心身適応の範囲外の事象に対抗するための処置です。ご容赦ください』
「容赦するもしないもない。どうせもう、私の本体が、アルファⅡモナルキアが決定しているのだろう」
『しかし、ミラーズに全自動戦争装置の存在を認知してもらったのと同様に、貴官にも事態の趨勢を飲み込む義務があるのです。リーンズィ、復唱してください。何があっても大丈夫』
「了解。なにがあっても大丈夫」少女はミラーズの髪に顔を埋めたままこっくりと頷いた。「……何が起きる?」
『説明の必要を認めません。当機はこれより、アルファⅡモナルキア、サブ・エージェントたるミラーズ、リーンズィの生命管制に全力を尽します。どうか当機を信頼してください。そして夢の中でしか彼女を幸福に導けない当機の代わりに、ミラーズを助けてあげてください。大丈夫、私は貴官も愛していますよ』
そうしてユイシスは声までも消え去ってしまった。
十分もしないうちに異変に気付いた。
リーンズィの手甲から、ぽたぽたと汗が滴るようになってきた。
不死病患者の肉体の恒常性は生物学の領域を越えて頑健である。オーバードライブへの突入などの異常事態や、体に重い負荷がかかった時以外は、汗をかくことなどない。
だが、事実として発汗が著しい。ミラーズの髪も汗に濡れ始め、いっそう濃く甘い、花の蜜のような狂おしい香りを振りまいている。
先導するアルファⅡに照会して外気を確認すると、華氏一二〇度を越えている旨の表示が視覚に表れた。
不死の兵士であるべき少女は焦燥して息を呑んだ。
時間が経つにつれ、気温が上がりつつあったのは感じていたが、これ程まで気温が上昇しているとは考えていなかった。
不死病患者に特有の温度感覚の鈍さのせいだ。
首輪型人工脳髄は、寒冷地に合わせてチェーンされた肉体を、短時間でこのような酷暑の環境に対応できるよう調整できるほど高性能ではない。気温は過酷さを増し、ガス交換のために胸を膨らませるのが苦しく、乳房の下に大量の汗が溜まるようになったのが酷く気に障った。太股を伝った汗の悉くがブーツに流れ込んでいく。
泥濘地帯を踏破しているような心地だった。
ああ、この風景は夕暮れなどではなかったのだと理解したのは、紫色の閃光が天地の狭間に瞬いたときだった。
それを口火にして、世界の明度が増していく。
急速に加熱された空気が地表からの熱と挟まれて撓みあるいは潰されて歪みレンズを作って方々の風景を歪ませる。一切合切がただ一道に、恋に焦がれた少女のように加熱されていく。
リーンズィは何度も振り返り、光の射す方向を探した。
無駄だった。輝きの強くなる方角は定まらない。
リーンズィたちが目指す方向を除いた全ての方角が、溶け落ちて赤熱していく。
神の遺した綴織を焼却して作られた絶滅の暁。
定命の人間ならばとうに昏倒しているほどの酷暑。
目の前の空気が歪み、息をするだけで苦痛が生じる。
生理的な違和感に少女の肉体が竦むのをどうにか宥め賺し、リーンズィは歩いた。
恐怖というものを知らない機体、アルファⅡモナルキア本体が残した足跡を命綱にして、目に染みる極彩色の赤い荒野を歩き続けた。
しばらくして、先導をしていた兵士、アルファⅡが足を止めて、くるりと振り返った。
事前に共有されていない動作だったため、リーンズィも慌てて止まった。
ミラーズの動きも肩を抑えて停止させた。
赤熱した世界に佇むその兵士は、世界を救う何者かと言うよりは、やはり見知らぬ星に漂着した宇宙飛行士、あるいは望まれない来訪者のようだった。
その二連二対の不朽の眼球を収めたバイザーを、リーンズィとミラーズに向けた。
黒く歪んだ鏡像の世界に佇む大鴉の如き少女が、気高さを忘れて弱り果てた様子で大粒の汗を流し、震えているのを見た。
背を押されている小さな少女の金髪が、しとどに濡れて垂れているのを見た。
「ここが限界か」と兵士は言った。
襤褸切れの衣服を鮮血色の風景を靡かせたその姿は、致命の時を告げる死神じみて不吉だった。
ライトブラウンの髪の少女はその行動に酷く驚いた。
「私? 私に意識を転写しているのに、喋っていいのか? 自己連続性に破綻が……」
ヘルメットの兵士は首を振り、ガントレットの左腕で光を照り返した。
「問題ない。現在は私と君の間に、知識・認知機能の面で著しい不均衡が生じている。その差異を以て一時的に我々の自己連続性は個別に保障がなされ、互いに独立しての発話と思考が可能になっているのだ。アルファⅡとしての機能を制限されてる君には実感しにくいだろうが」
「そういうものか……?」
少女は目に入りそうな汗を人差し指で拭い、首を傾げた。
「なるほど。客観的に見ると、さりげなく動きがあざとい。学習の成果か。その調子で対人交渉術を磨いてほしい。相手の脆弱性を突いて陥落させられるようになれば有利だ」
「いや、私はこの肉体で何の学習をさせられているんだ……? それで、私、アルファⅡ、いったいどうする。どういう事態が起きる? 嫌な予感がする。理性では無く肉体の直観だが、そちらの私とて、生身の肉体を借りている身だ。何も感じないわけではないだろう」
兵士はくぐもった声で「いいや、私は既に情報を得ている。だから何も感じない。我々は朝に備えなけばならない」と返した。
「朝に備える?」
「リーンズィ、ミラーズの両名に通達。行軍停止だ。まさかここまでの路程で、クヌーズオーエへの接続面を発見できないとは予想外だった。せめて遮蔽物を確保したがったが、これも期待できない。遺憾ながらここで状況に対処する。私の後方で待機してほしい。都市焼却機フリアエの情報に虚偽がなければ、それも半刻足らずの辛抱となる。ユイシスが全力で君たちをバックアップする。聖歌隊風に言うならば、君たちの前途に安らぎのあらんことを」
「何を……」
リーンズィが続きの問いを口にする前に、兵士は空模様を観察して方位を定めた。
グリッドに沿うような精密な動きで歩き始め、リーンズィの背後に立った。
そしてその巨躯でもって、旗を結びつけた斧槍を掲げた。
「何をしているんだ、私は?」
兵士は応えた。「影を作る。私が盾になる。フリアエは、埋葬対象のいない墓を掘るしかなかった。それと同じようなことだ。エージェント・アルファⅡは、この環境ではそれしかできない。最悪の場合は非常事態と判断し、そちらの肉体に対してコロネーション・プロトコルを実行する」
コロネーション・プロトコル。
それは即ち、『アルファⅡモナルキア』の本体を別の不死病患者へ移管するための手続きだ。
同時に、現在まで使用しているメイン筐体を何らかの形で使い潰すことをも意味する。
「そこまでの危機になるのか?」
「ならないことを期待する。そちらのサイコ・サージカル・アジャストは不完全だ。あまり考えないほうがいい。ミラーズまで引き摺られる。二人とも美しい貌をしている。それ以上曇らせてほしくない」
「自分で自分に歯の浮くような世辞を言うのは、どういう気分だ?」
「私は君ではないので、分からない。現在は思考を共有していないし、あらゆるリンクを切断している。君はヴァローナの人工脳髄まで演算に組み込んでいるから、別の人格だ」
リーンズィは冷や汗が出るという感覚を思い出した。
「まさか我々は、完全に独立して駆動しているのか? この『私』は、隷属化デバイスの中に封入された人格……?」
「その通りだ、アルファⅡには三人分の人格を演算する余裕がない。とにかく朝に備えてほしい」
「朝が来る……?」少女は我知らず息を殺した。「ああ、ああ、そうか、現在の気温は?」
「摂氏では六〇度だ」
「……朝が来るとどうなる?」
兵士は頷いた。「……フリアエの観測では、人類はこの環境では生存できない」
そして帳が開いた。
リーンズィは兵士の背後で世界が発狂するのを見た。
空が炎上していく。目に見える全てが赤熱して血を吐き大地へと朱色を零し零れた朱色は大地を燎原に火の走るかのごとく世界をさらなる真の色、殺戮の子午線へと変容させていく。新しい死と新しい血、あるいはこれまで見て見ぬ振りをされてきた流血の歴史が、一挙にこの赤土の荒野へと流れ込んできたかのようだった。何もかもが失われた世界が透明な鮮血に染まりその強烈な輝きに目が眩んだ。何も見えない。全てが赤い。何もありはしない。赤だけが世界にある。リーンズィは顔を背け、視界の片隅で地平線を捉えた。陽光と呼ぶにはあまりにも熱く暴力的な色彩。直視すれば眼球が沸騰しかねない。
墜落するヘリの機上で、地軸に異変が起きている可能性には気付いていた。迷宮の如き森の中でも方位など無意味になったことは知れた。だがこの分岐宇宙、あるいは代替世界では方位の異常など、もはや些末ごととしか思えないほど決定的な破局を迎えているらしかった。単純な地殻変動があった程度では、このような破局の風景は現われないはずだった。
「う……?」
ミラーズも、身を焦がすような暑さに目を覚ました。
「熱い……? ……痛っ、目が痛い! えっ、何も見えない! 赤い?! 全部赤い! リーンズィ! ユイシス! 何が起きてるの?!」
「大丈夫だ。落ち着いて。落ち着くんだ。私はすぐ後ろにいる」
リーンズィは鮮血の暴風に目を細めながら、じたばたと暴れる小さな肉体を胸元に引き寄せ、囁いた。
己の身体から放出される花の芳香を嗅がせて沈静化させる。
一般に不死病患者の放つ芳香はそれだけ商品になるほど優れている。それが新たなる感染者を生むための罠だとしても。
「目を不用意に開けてはならない、ミラーズ。夜が明けたらしい。ただそれだけだ」
そうして光源に向かって背を向けたまま、アルファⅡの作る影へと、慎重に体を収めた。
庇うように抱きしめて、姿勢を低くする。
ミラーズは汗の滴る甲冑の腕に縋りながら、洗髪される幼児のように目を恐る恐る開き、「どういうこと?」と戸惑いの声を上げた。
「ずっと夕方だったんだから、夜が来たんじゃないの? あ、いつのまにか一晩も歩き通したということかしら? それにしたってこれは変よ」
「違うんだ、ミラーズ。あれは夜だったのだ。夜通し歩き通したのは、そうだと思うが。あれはずっと夜だった。おそらくこの世界の夜は、暗くないのだ」
「……気付かなかった。ここはどこなの? 土の質が、フリアエお姉様の掘っていた場所と違うわね」
「そうなのか? じゃあ知らない間に時空間の継ぎ目を通っていたのか……?」
「ずっと、ずっと……あの明るさで、夜? ああ、だから朝がこんなに暑いのね」ミラーズは奇妙な理屈で納得を得たようだった。「ああ、熱い……熱いわ。磔にされて火にかけられているぐらい、熱い。これが朝? 整えられた空も太陽も、ここには、ない、ではありませんか……」
けほけほと咳き込む。その口中には唾液が存在していない。
帽子を下ろして胸に抱え、細い指先でリーンズィの唇を探し、切り整えられて永久に伸びることのない爪の先で撫で、口を開くように促す。
リーンズィがされるがままにしていると、ミラーズは背をリーンズィに預けたまま、手探りで唇を合わせた。少女の精悍な顎先を抑えたまま、執拗に水分を舐めとって嚥下し、息を整える。
「ふう。ここは、空気が乾燥しすぎね。気をつけないと声が枯れてしまうわ」
「い、今のは?」日光を受けて赤く燃える髪をした少女は、毅然とした気配をいっとき失って、とろけたような、呆けた顔をした。熱い息を吐き、口を押さえる。「いきなりだったので驚いてしまった」
「え? 口づけなんて挨拶じゃない。まだ慣れないのですか?」
「でも、普段とは全然違う……びっくりした……」
「驚かせるつもりはありませんでした。リーンズィは変なところで純真なのですね、気をつけます。でも、この暑さだと躊躇していてはなりません。水分は貴重です、出来るだけ融通し合わないとね」
「水分補給か……」
ミラーズはおかしそうに笑ってリーンズィの頬から汗を舐めた。「こんな荒れた野の真ん中に、お水はないでしょう? そういう時は親しい再誕者と体液を交換するのが普通です。そうしないとあっというまに干上がってしまいますよ」
「普通。普通ではないと思うが」
「普通じゃないのはこの朝の方ですよ。リーンズィ、フリアエと遭ったときと同じぐらい、自分が怖がっているのに気付いてる?」
「私は怖がっているのか?」
ミラーズはまた口づけをして、自分よりも幾分背の高いリーンズィの頭を撫でた。
「こんなに体を強張らせて、怖がっていないわけがないでしょう」
「……そうなんだ、非常事態らしい」迷子になった猟犬のように眉根を下げて、少女はミラーズにおずおずと口づけを返した。「ユイシスが全力で生命管制をしてくれているが、不死病患者でなければ数分持たない事態になるそうだ」
「再誕者の肉体でも、もうとっくに耐えられる温度ではないわね」ぱちん、ぱちんと胸元で音がした。リーンズィにはよく見えないが、行進聖詠服の留め金を外していると分かった。放熱効率を上げているのだろう。
「日光浴は体に良いと言うが」とヘルメットの兵士が首を傾げる。「君たちには悪いようだな。どんどん普通じゃなくなっていっているぞ」
「あれっ、そっちのアルファⅡも喋れるの?! ……けほっ、けほっ、リーンズィ……」
ミラーズはヴァローナに接吻した。
「えへん。えへん。あーあー。よし。いいですか? 意識がリーンズィと同じだとしても、覗き見は感心しませんよ。互いを知るための夜でもありませんし、覗かれて困ることでもありませんが、リーンズィはまだ乙女なのです。恥ずかしがりやなのです」
「君は乙女になったのか、リーンズィ」
「どうだろう」酷暑とキスに晒されて、少女は火照った顔をしている。「ユイシスとミラーズと比べれば乙女かも知れない」
「そうか。君も大変だな。……ああ、私はただの日傘だから気にしなくていい。君たちだけでは深刻になりすぎるからな。現在は冗談を担当している。冗談は大事だとユイシスに教わった。適当にアナウンスをするから、何か方策があるなら二人で進めてほしい」
「ミラーズ。あっちの私は我々を保護するための独自行動の最中らしいが、いっぱいいっぱいのようだ」どこかまだ照れた仕草で、大鴉の少女は花飾の人工脳髄を触った。「しかし、キスをじろじろ見るなんて。端から見るとここまで空気を読まないのか、私は……」
「そうだな。私もその空気を読む機能とやらを獲得したい」
「はいはい、静かにしてください。今はリーンズィの綺麗な声以外聞きたくありません。男の人の声っ
て暑苦しいし……リーンズィ、唾液ではすぐに追いつかなくなります。こういう状況では血を使うのが一番手っ取り早いわ」
リーンズィは頷いた。体液の流出は問題だが、体外温度の異常な上昇の方が致命的だ。
手甲を外し、土の上に放り捨てる。手を噛み切って再生を抑制し、出血させた。ミラーズも同様に己の手を噛み切った。
その手で互いに触れあい、特に重点的に脳を収容する頭部に血液を浴びせた。
不死病患者の体液は体外へ出ると恒常性から切り離され、数秒で蒸発を始める。こうした特性はほとんどの場合大気を汚染させる以外の意味は無いが、蒸発する際に当然に熱を奪うため、ミラーズの提案したやり方は理に適っていた。
力加減を掴みかねているリーンズィとは異なり、ミラーズの冷却作業は相手から不安を取り除くことを意図して優しい。リーンズィは頭の芯が痺れて呆するのを感じて戸惑った。微笑しながら見守るミラーズに対して急に恥じらいのような感情が湧いてきて、自分が何を見ているのか、瞳に映る少女がどれほど美しく思えるのかを隠すために、さっと視線を背けた。
二人の少女は、己らの糖蜜のような香りのする血で、お互いを冷やし合う
生暖かいのは一瞬だけだ。すぐに蒸発し、独特な冷感が異様な体温上昇を相殺する。




