セクション2ーX 祭礼
遠い季節、忘れ去られた時間のどこかに、暴風雨の夜があったらしい。教会の天井は抜け落ちていた。降り注ぐ陽光は氷雨のごとく透明で、冷たく清廉に空気を濡らしている。腐り果てて落ちた床板と混じり合う土塊、もはや地面とも床とも呼べない無名の虚無に三々五々、路上にぶちまけられて拾う者のいない遺品のように密やかに咲く花弁の、何と鮮やかなことだろう。
歌声に揺れる紫色の花弁の名前を、もう誰も覚えていない。
花々の見上げる先には十字架、かつて聖性の不滅を祈念して黄金で鍍金されていた受難と勝利と復活の証は、今は黒く煤け、あるいは曇り、あるいは腐食して、廃工場の片隅に放置された工作機械の部品のごとく荒び、無限大であるべき光輝は去って久しく、不滅の信仰は、その祈りの残骸が残るのみだ。
教会は遺棄されて久しい。
さりとて歌声は響く。
無数の顔、無数の視線、無数の声が、調度品の腐れ果てた聖堂に整列し、不格好な十字架へと祈りを捧げている。刑具を模したその象徴が壁に掛けられたのは、ほんの十数分前のことで、白銀の少女が拾い上げるまでは、忘れ去られた罪人の墓標のように、泥濘の中に沈んで、傾いでいた。
十字架を壁に打ち付けているのは釘ではなく、分解された自動小銃から取り出された部品だったが、そのこと自体には何らの意味もない。
祭事に相応しい釘も留め金もないが、銃はまだ残されていた。
それだけの話だった。
文明は失われて久しい。
それでも歌声は響く。
廃教会には歌が満ち溢れていた。神を讃えるための歌が。
壁際に並び立つ無数の顔。老いたるとうら若き。男と女。敬虔なる無知に基づく純粋な無作為によって選別された顔ぶれ。
皆一様にどこかを――ここではないどこかを見つめている。
魂は失われて久しい。
そうまでしても、祈りは不滅であった。
軍隊調行進聖詠服の少女が一人、聖餐台の前に立っている。
壁に掲げられた粗悪な十字架を背にして、一心不乱に声を張り上げて、旋律を伴う聖詠を誦経している。
共鳴する声は渦巻いて、偽りの熱狂を以て神を称え、雷霆の如き賛美で、教会の腐った梁や壁を揺るがした。
虚無と劫掠を否定する信仰は、しかし彼ら自身の心を微塵も動かしてはいない。
歌い手たちの視線はみな虚ろで、どこか一点を注視している。
何も見てはいない。
彼らの祈りに意味はないのだろう。
もはや意味などこの世界のどこにも残されてはいない。
だが、祈りであることは確かだ。
聖詠は、正統なものではなかった。神の御名を戴く如何なる組織もその祈祷に価値を認めない。そもそも荘厳に謳われる文言のただ一説を切り出してみても、言語学的な構造を持った文章としては成立していない。押韻を成立させることだけを目的に、かりそめに生成されたとしか解釈出来ない造語が、難破船の船底に打ち付けられた板きれのように何度も出現して、詠唱の一貫性の致命的な破断を、危ういところで繕っている。
しかしそれは確かに聖詠であり、それ以外の如何なる語を当てはめることも適切ではなく、いっそ冒涜的であるほどに、祈りに満ち溢れていた。
あるいは、祈りだけが存在していた。
人に歌われ、空気を揺らし、誰かの耳に届く。その僅かな時間だけ存在を許される、神を称える以外には何の機能も持たない異形の接触言語。
聖餐台の前、祈りの歌声の主旋律を奏でる少女は輝きに満ちていて、しかし聖職者と言うよりは異邦の丘へ向かう夜行列車の車掌か、さもなければ時代錯誤な装飾に彩られた鼓笛隊の先導者に似ていた。
偉大なる存在の証明とその寵愛を証明するに相応しい白銀の髪、冬の空の陰りがちな目映さだけを汲み上げた清廉にして純正なる真実の光輝。
今にも掻き消えそうな燭台の炎、落ちた屋根から覗き込む寒々しい初春の太陽、打ち砕かれた鏡が乱反射する歪んだ光、その場に存在する光という光に抱かれて、香しく煌めく。
震える空気に舞う小汚い埃の欠片すら彼女の髪に触れれば白に染まり、天使が送り届けた栄光ある翼の和毛へと変わった。崩落した壁から差し込む光に照らされた顔貌には殆ど非現実的な美貌が備わっていた。スラヴ系の特徴を思わせる顔貌はしかし、実際には如何なる民族の血を引いているのか不確かで、触れるだけで取り返しのつかない傷がついてしまいそうな白い面貌の上には、神秘的な怖気さえ覚えさせる、酷く儚い笑みが浮かんでいた。
快活に見開かれた瞳は神話の時代、究極的に清浄な海を漂っていたひとかけらの流氷から削り出された宝玉の青さを宿し、罪人ならば一瞥されただけで恥じ入り死を選ぶだろうという程に真っ直ぐに透き通り、潔白な慈愛に満ちあふれており――
つまり、一切の人間的感情を備えていなかった。
その肉体に魂はない。
さりとて、祈りはこの地に響く。
この最果ての地に。
終端の時代に。
神を讃え、ゆるやかにリズムを取り、暗夜の黒に星の如き黄金を散りばめた軍隊調行進聖詠服の裾を揺らしていた少女は、ひととき歌うことをやめた。
己の蒸気機関の始動装置へ優しく接吻した。
悩ましげに息を送り込む。幕を上げるようにスターティングレバーを引く。機関を始動する……。
排気孔から粘性の血煙が吹き出したのは一瞬のことだ。
やがて透明な蒸気が噴き出した。それを確認して鍵盤へと滑らかに指を走らせる。アコーディオンに似た形状の機構の内部を、高熱の蒸気が駆け巡る。
永遠に朽ちぬことを約束された金属の管が高らかに歌声を上げた。
サイズに見合わないほどの暴力的な音声が、うらぶれた廃教会に、千年王国の幻影を、在り在りと描き出している。
それは盲目の神に捧げられた無声の頌歌だった。
祈りではあるのだろう。
この最果ての地に捧げられた、祈りではあるのだろう。
不滅の聖性を体現する白銀の歌い手――。
その演奏を眺めている麗人が一人。
ライトブラウンの髪を持つ少女が、興味深そうに目を細める。
跪いて、身を丸めていたが、背丈は白銀の少女よりも高く、おそらくは同年代の少女よりも幾分か長身だった。
ある種の潔癖さと従順さを兼ね備えた目鼻立ちは、余分を削ぎ落とされた獰猛な美しさで、余人の知らぬ未明の谷を滑空する大型鳥類を連想させて気高い。
その勇壮な印象を裏切る線の細い頬に浮かぶのは、慢性の憂鬱だ。
翡翠色の瞳は、神経質な性格に由来するのであろう思慮深げな天然の陰影に彩られ、背徳的な艶めかしさを漂わせている。
あるじ亡き戦地を忠実に走る軍用犬か、あるいは孤高の原野を渡る鴉のような気高さに満ちた顔立ちのその少女は、しかし目の前で行われている荘厳な祭礼から、わずか十数秒で興味を失ったようだった。
物憂げに伏せられた視線に、特段に飽いたような色はない。
翡翠の瞳はただ他に何か気になることを見つけた様子だった。
演奏に興じる白銀の少女から渡されていた聖典――正確には聖典の語句らしい文字がデタラメに並べられただけの、劣化の進んだ見すぼらしい藁半紙を眺め、文字を目で追った。
破綻した言葉で語られる破綻した教義からも注意が離れたようで、今度は藁半紙を裏返しにした。
気分が移ろったというよりは、見るべきものを全て見たので本の頁をめくったというような、ひどく機械的な反応だった。
聖典の裏側、すなわち藁半紙の表面――粗末なチラシの本文に目を通した。
それから、教会を打ち鳴らす聖なる音、聖なる声、神を称える言葉の一切が耳に入っていないという様子で、淡々と音読した。
「ノルウェー国家安全保障局より、チョコレート糖衣青酸カリ最終配布のお知らせ。十分な在庫がありますが、次回の配布は予定されていません。別途自決手段を希望される方は係員にお尋ね下さい。拳銃、神経ガス等少数の用意あり。配布開始、二〇六八年、六月二十三日……午前九時より。皆様、どうかよき終末を。これは、何だ」
祭礼の空気とはあまりにも似つかわしくない文言が、憂鬱さを讃えた鎮静の繊美な佇まいからかけ離れた、やけに決断的な語調で舌先から紡がれた。
ライトブラウンの少女は首を傾げ、朗々と語りかける。目には見えぬ何者かに向けて。
「二〇六八年とは、いつだ。私がアイスランドに運び込まれたのが二〇四八年。ならば、今はいったい何年なんだ? 西暦ではない可能性があるのか? ユイシス、解析はまだか? 緯度・経度の正確な測定はまだか? 大規模な極運動の変化が起こった能性はないか? 解析しろ、解析しろ、解析しろ……」
意にも介さないという様子で魂無き信徒たちは聖詠を続けていたが、銀髪の少女の指は止まり、大聖堂のパイプオルガンもかくやという威厳に満ちた演奏は、ぷっつり途切れてしまった。
竪琴を弾く聖母のごとき面影は失われ。
いまや白銀の少女は絶句して、淡い色合いの唇をひくひくと震わせている。
「あの、あのですねーっ!」
思わず、と言った調子で大きな声を出した。
聖性からはかけ離れた、人なつっこそうな、年相応の少女の声だった。
がらんどうの、真実朽ち果てたその聖堂に、澄んだ声はよく響いた。
「……それはいけないのではありませんか?! リーンズィ! 」
リーンズィと呼ばれた少女は、跪いた姿勢からゆっくりと立ち上がると、ライトブラウンの髪を揺らし、まるで分からないという様子で首を傾げた。
「いけない、というのは? 現在の暦を知ろうとする試みは、君たちの教義における禁忌か? この座標を割り出そうとする我々の試みは禁忌か? 何がいけないんだ?」
「おや、おやおや! わたしが、大主教たるこのわたし、リリウムがじきじきに説法しなければ、分かりませんか? まさかまさか! 分かりますね? 分かりますでしょう?!」
リリウムと名乗る白銀の少女に向けられたのは、無表情な否定だ。
「分からない」
「常識で考えて下さい! 今そういう場面でしたか?! そういう剣呑な、冷酷極まることばを読み上げていいような? たとえば、チョコレート糖衣青酸カリであるだとか! 拳銃だとか! 神経ガスだとか! いいえ、いいえ、いいえ! 百歩お譲りして、聖典をひっくり返したことは、許しましょう。けれども、あまつさえ祭礼とは関係の無い、神の愛を蔑ろにするような文章を音読するなんて、許されると思いますか?!」
ばっ、と両手を広げて、小さく胸を反らし、じっとりとした青の視線を、ライトブラウン髪の少女へと投げかけた。
「これは、祈りの時間なのですよ!」
「しかし、許されないことだろうか? どういった理由で?」リーンズィは無表情に応えた。「祈りは私の状態に関係なく進行するだろう。私が祈らずとも、祈りは存在している。祈りを否定する議論に、私は参画していない。ならば、それは祈りの肯定ではないのか?」
リーンズィの凜とした顔立ちは、銀髪の少女以上に無国籍的だった。
死の谷の影を歩む者特有の、どこか穢れた空気が身の回りに渦巻いていたが、絵画の中の聖人にしか現われないような超然とした気配があり――人間味がないという点では、銀髪の少女と全く変わるところはない。
「神を試すべからず、です! いいですか、今回の祈りの主役は、今回、あなたなのです! そのあなたがそのように不信心な態度を取るのは、問題でしょう!」
「そうなのか?」
「そうなのか? ではないです! 嘆かわしいことです! わたしはハリストスの教えをその身に刻んで欲しい一心で、あなたの魂に安らぎあれという心でもって! その聖典を託したというのに……!」
「聖典か。私には史料の一つにしか見えないが」
リーンズィは腐食の進んだ取るに足らないチラシの表と裏を何度もひっくり返して首を傾げた。
「リリウム、聞いて欲しい。我々は重大な事実を発見したのだ。裏面の文章には非常に高い価値がある。二〇六八年か。この記述が正しいならば、我々がアイスランドに逃れてから最低でも二十年が経過していたことになるが、誰にも全く、そんな自覚はなく……」
「そういう話もしていないのですが! 真面目に奉神礼に参加してくださらないと困るのですが! いいえ、いいえ、いいえ! あなたがそういう存在であることを、神の恩寵から零れ落ちた魂であることを失念していた、私の落ち度でしょうか?」
リリウムはがっくりと肩を落とし、それからふるふると首を振った。
「救いの訪れていない時代の、使い古しの紙を使ったのも、配慮が足りなかったのかも知れません。けれども、ええっと、あのですね、わたしは、この祝福の時代で、なおも使命の囚われ人として、罪業の惨禍に身を投じている、その気高い姿勢に、せめて神の御慈悲があるようにと……」
銀髪の少女は熱心な身振りで、とにかく悲しみの感情を表現しようとしていたが、動きがあまりにも大袈裟で、何か前衛的な劇団の奇妙な踊りのようだった。
そして虚空へと指をさして、熱心に弁を振るった。
「ユイシスさん! これは笑い事ではないのですよ! 今まさに信仰が試されてようとしているのですから! そう、わたしは、これしきのことで怯んではならないのです! 我らが神よ、親愛なる聖父よ! ご覧あれ、私の心の動かざることを……! どうかお聞き下さい、御言葉に傅く献身を、御言葉を受け入れる知恵を! 御言葉を……御言葉を貫く力を、このわたしにお与えください!」
「ユイシス、彼女には何か見えているのか? 君の他に、支援AIがいるのか」
リーンズィもまた、虚空へ問うた。
「……見えていない? 支援AIもいない? そうか。人間、どこまで行っても色々あるようだな。こういうのはどうなっても治らない」
「ええ、ええ! わたしの信仰は、悪徳と厭悪の中で穢されようと、必ずや成聖の血と肉に天国を相続するでしょう!」
あんまりな言い方に、リリウムは少し自棄になったようだった。
「うう、聖父スヴィトスラーフ様、わたしは、わたしはこの未明のともがらを、どのように導けば良いのです? どのようにして神の御国の威光で、かの者の蒙を導けば良いのですか? ああ! これはどのような試練なのですか……?」
「これは……良くないのではないか? 神経活性の情報を取得しろ。興奮、混乱、怒り、憐憫? 脳内麻薬の数値が異常だ。やっぱり、良くないなこれは」
リーンズィは視線をうろうろとさせて、何者かの言葉に聞き入って、一人で頷いていた。
「それでいこう、ユイシス。聞いてほしい、リリウム、大主教リリウム。スヴィトスラーフ聖歌隊の一翼を担う者よ。要するに、私がこの聖典と真摯に向き合って、内容を頭に入れさえすれば良いわけだろう」
リリウムは眉を顰めて、恨み言を操るのをやめたが、まだ不服そうだった。
「……そういう、神性を軽視する即物的な物言いをする場面でもないと思いますが!」
「良いから、聞いてほしい、リリウム。私の人格記録媒体にチラシの裏の……聖典の文章自体は記録されたわけだから」
ライトブラウンの髪に覆われた側頭部を、それから首に嵌めた輪のような機械を、こんこん、と指で叩く。
「神の言葉であるところの聖典は、文字通り私の血肉とか……知らないが……そういうのになったのでは?」
「ん? うーん……」
大主教を自認するらしい白銀の少女ははっとした。
「そう! そうですよ! あなたは今、案外良い線を行っていますよ!」
不滅の聖性を、そのわちゃわちゃとした身振りから思い出すことは、もはや不可能かも知れない。
ただ、魂無き信徒たちは、二人のやり取りを無視して、虚無的な祈祷を静かに奏で続けている。
「それで、リーンズィ、あなたはいったい何を掴んだのでしょうか?」
「この聖典は私たちが想像しているよりも遙かに真理に近い場所にあるということを、共通の認識としなければならない。聖句は絶対だ。そして聖句が刻まれた以上、この安楽死薬配布のビラも聖典の一部として属性を獲得するわけだ。それを音読したということは、究極的には祭礼に参加したとみなして良いのでは?」
「……なかなか良い発想です! それです、それでいきましょう! ハレルヤハ! あなたの内にある聖なる教えの萌芽は、主の威光のもとに枝を伸ばしています!」
リリウムはリーンズィに抱きつこうとして、聖餐台に阻まれてつんのめった。
その拍子に火の付いた燭台が倒れそうになったので、銀髪の少女は慌てて手を伸ばして台を支えた。
熱した蝋に手を焼かれて「あつっ、あっ、熱いですね!? 平気ですがっ!」とよく分からない悲鳴と強がりを発した。
「聖性とはこういうものかと感じたのは私の間違いだったのだろうか。ユイシス、解析を」
しばしの沈黙。
「そうか。この娘の……残念さというのか? これは我々の共通見解として記録しておこう」
「こほん。取り乱してしまいました。さぁリーンズィ、我らが来たらざる同志、殺戮の地平線から訪れた煉獄の代弁者よ! 時は満ちました。あなた自身の痛悔機密と参りましょう。これまでにあなた冒してきた罪の告白をなすのです!」
言われて、しかし、リーンズィは静謐な無表情を崩さない。
「しかしリリウム、疑問に思っていたのだが、私は信徒ではない。こういった儀式は信徒でなければ無意味だと記憶している」
「再誕者リーンズィ! お聞きなさい……」
少女に目に、暗黙の真理を語る奇怪な神聖の輝きが再来した。
そして歳を経た神父のドッペルゲンガーであるかのように厳かに呼びかけた。
「あなたが使っている肉体は我が同志、使徒ヴァローナの所有物です。であれば、あなたは使徒ヴァローナの、神の花嫁としての性質を通して、既に神の御胸にあると言えます」
「言えるかな……?」
「言えるんです! あの、あのですね。わたし、確信しました、話の腰を蹴るのは……悪い癖です! 話の腰を、こう……えいっ、えいって」
銀髪の少女はぎこちない動きで、何も無い空間を蹴るジェスチャーをした。
「それはいけないところだと思いますよ!」
「話の腰を蹴るという表現は初めて聞いたがそういう表現があるのか?」
「ええ、ええ、そうです! そういうところ! そういうところですよっ! これはわたしにとってもギリギリの妥協なんです。もしも受け入れられないと仰るなら、わたしもこのお話はなかったことにしても良いのですよ? 組織間の婚姻儀礼は、お互いに悪い話ではないと言うことで同意したのに。嘆かわしいことです!」
「これは……よくないのでは? 神経活性情報を取得しろ。極度の興奮。怒り。不安……悲嘆」
少女は眉を潜めた。すぐ無表情に戻った。
「うん。分かった。私が悪かった」
降参した、という調子でこっくりと頷き、両手を挙げる。
「別に張り合う気はない。私はただ、こういう行事には不慣れで、混乱してしまったんだ。許してほしい。許してくれる?」
「ええ、ええ、もちろん許しますとも!」
豊かな白銀の髪と、黒と金に彩られたウエストポイント帽が、舞い遊ぶ小鳥の羽のように弾んだ。
「赦しを与えることこそが、大主教たる我が身に与えられた神命なれば!」
つぼみが綻ぶような、見る者を惑わせる艶やかな笑みを浮かべる。
「さぁ、わたしの身を通し、父なる御名の元へ、告白を。この地に至るまで、あなたはどのような旅路を辿ってきたのですか? どれほどの罪を犯してきたのですか? 主は全てを見ておられます。そして、真に悔い改める者には、必ずや慈悲を給うことでしょう……」
リーンズィは、気高い横顔に、そのとき初めて笑みを浮かべた。
苦笑だった。それも、すぐ無表情に戻った。
そうして首に取り付けた金属製の輪に触りながら「リリウム。君は私が、何か……立派な大冒険をしてきたと思っているんじゃないかな」と、どことなく茶化すような口調で言った。
リリウムは小首を傾げた。
「だって、それは、そうでしょう。現代まで活動を継続しているスチームヘッドですから、少なくとも数十年の稼動期間があるはずです」
「まさか。そんなはずはない。生後一週間というところだよ、私は」
「え」
銀髪の少女は狼狽したようだった。
「えーっと、これ、じゃあ、もしてかして痛悔機密とかじゃなくて、聖洗とかになるんですかね……? うう、幼児洗礼はやったことがないのですが……」
「肉体が既に洗礼を受けているんだから良いんじゃないか? 君の論理を適応すると」
「うーん、そう、そうですよね……重要なのはあなたではなく、魂の持ち主である肉体の性質なのですから……じゃあ良いということにしましょう」
「……これが本当に大主教なのか?」とリーンズィは疑問を口にした。何度か瞬きをした頃には、そうした疑念は消え去っていた。「いや。実際的な部分とは関係が無いのか」
大主教リリウム。
その顔と名前を、リーンズィと名付けられた少女は知っていた。
出会う前から、生まれる前から、彼女のことを知っていた。
白銀の少女の顔と名前は、かつて存在した全ての組織が把握していた。
大主教リリウム。
天使の似姿のような可憐な狂信者。
全世界の敵たる『スヴィトスラーフ聖歌隊』。
その幹部の一人。
直立不動の状態で、一秒の休みもなく聖詠を続けている人々――大主教に行動の全てをコントロールされた感染者たちに、そっと目を向ける。
彼らは、本来ならば、自分の意思では指一本動かすことも出来ない。
意思それ自体が備わっていないからだ。
彼らを支配し、敬虔な信徒としての振る舞いを刷り込んで従わせているのは、紛れもなく眼前の、銀髪の愛らしい少女なのだ。
人知の及ばぬ外法の奇跡。
言葉を通じて人間の脳に命令を書き込む異能。
通称を『原初の聖句』と言う。
この常軌を逸した能力こそが、彼女が大主教の位階を与えられている証である。
そして何よりも、重要な事実がある。
この世界にはもはや、善も悪も残されてはいない。
全ては無意味だ。
全ては無価値だ。
リーンズィがその事実を忘れたことはない。
もはや全てが手遅れだ。
だからこそ、目覚めてからこれまでのことを、彼女に余さず伝えようと決めた。
「そう長い話じゃないんだ。最初、私は移送先のグリーンランドのノード基地で目覚めた。そうして飛び立ったんだ。おんぼろの戦闘ヘリに我が身を預けて、極寒の北極海へと飛び立った。気の狂った渡り鳥みたいに……そうするしかなかったんだ」
白銀の少女、リリウムは、真剣な眼差しで、訥々としたその告白を聞いていた。
彼女の首にも、リーンズィと同じ首輪が取り付けられていた。
見つめ合う二人の揃いの首輪は、運命の囚われ人の証にも似て、埃に曇る陽光の下、揃いの婚約指輪のように輝いていた。
「私の任務は三つ、たったの三つだけだ。各地の旧国際保健機関事務局の安否確認。遭遇したあらゆる戦闘への介入と調停。そして……ポイント・オメガへの到達」
あらゆる歴史は朽ち果てた。
あらゆる催事は失われた。
あらゆる生誕は拒絶され、あらゆる葬列が散逸した。
全ての未来、全ての苦難、全ての時間は久遠の地平へ遠ざかり。
神の御国は来たりて、神はこの地にあらず。
目指す先は彼方。
最果てを逃れ、さらなる地平を目指す。
辿りついた先に楽園など無い。
何故ならば、この地こそが既に、楽園だからだ。
命脈尽き果て倒れた後に残される不滅の機械――
蒸気機関。
それこそが、象られた魂の墓標に相応しい。
時は数日を遡る。
永久に遡り続ける……。