セクション4 鷲獅子は舞い降りた/越冬隊練兵越冬隊練兵④
リーンズィとレアは夜の明けきらないうちに廃ホテルから都市へと降りて、集合地点へと向かった。
事前に取り決めがあったわけではない。来訪者であるアルファⅢグリフォンが、次回の会合についての相談が纏まる前に、文字通り飛んで帰ってしまったためだ。
だから、いつ、どのようにグリフォンがやってきても良いように、と二人は考えた。
二人だけの時間を大事にしたい気持ちはある。それでも、不安定な経路を辿ってやってくるグリフォンをこそ気遣うべきだった。
FRF中枢と、現在のリーンズィたちが駐留しているクヌーズオーエの間で、厳密にどれ程の時間流速差があるかは不明だ。
百倍近い、と言っても所詮は推定値で、不確定要素は常にある。グリフォンの旅路においては、さらに時間流速の乱れは顕著になるに違いない。複雑怪奇に入り組んだ奇異なる都市の迷宮、その只中で、時間流速差が千倍、一万倍に達することはないと、何者に断定できようか。
もっとも、グリフォンが第三宇宙速度を超過した状態で大雑把に方向を定めて飛び立てば、道程での時間流速差は些細な問題であるというのも事実だ。というのも角度次第では大気圏を離脱しかねないほどの速度であり、どんな距離どんな時間流速差でも一瞬より短い時間での通過が可能ならさほど意味は無く、彼女はスペースデブリになる可能性をこそ恐れるべきかもしれない。
一方のリーンズィたちの時間は、おおむね一定の速度で流れており、大きな異変も、統治体制の転換も起きていない。
究極的には大目的を持たないクヌーズオーエ解放軍には、そもそも急ぐ理由が無い。誰もが理由を求めている。生きているための理由を。死から見放された状況への赦しを。
スチーム・ヘッドにとっては、不眠不休でも、何百時間待つことになっても、一切問題が無い――不滅で、無価値で、永遠にそこにあるだけの存在なのだから。
泰然と構えてこそ、クヌーズオーエ解放軍だろう。
ともかく、リーンズィとレアは、日が昇るよりも早い時刻に住処を出た。手を握り合うでも、抱き合うでもなく、ただ寄り添いながら、何となく、前日にグリフォンと遭遇した地点に向かった。ゆっくりと。互いの全てを確かめるような速度で。
まだ暗い。夜明けと呼ぶには、まだ暗い。この世界は夢を見ているのかもしれない。夢すら見ない不死の輩どもを抱えて、何もかもが仮初めに眠っている。明けない夜を夢見ている。
だがこの街も不死ではない。いつか終わりが来る。目を覚まして、そこにあるのは、何もかもが崩れかけた都市であり――朽ちかけて、壊れかけて、まるで生きている人間のようだ。
スチーム・ヘッドとは違う。眠ることの出来ないスチーム・ヘッドとは違う。この都市は、壊れつつある。いつかは、消えて無くなる。本来あるべき人間存在の生命の相似形を示すこの街は、だから、不死の憐れな者どもと違って、夢を見ることもあるのだ。やがて朝露とともに地上から消え失せる夢。誰も知らない人々の二度と帰らない無価値でかけがえのない日々。
目的地に着いても――予想通りではあったが――グリフォンの姿はまだ無かった。
レアが星の瞬く夜空に溜息を吐く。寒さへの生理反応。もしくは倦怠から発された嫌気の吐息。
リーンズィはレアを見た。それから周囲を見渡して、遺棄されていた車両の扉をこじ開けた。
少女の体躯に似つかわしくない膂力で座席のシートをフレームごと毟り取った。それを歩道の片隅に置く。表面が何カ所か破れていて穴の中では小さな虫が湧いた痕跡があったが残らず干からびて死んで砕けつつあった。軽く叩くと埃と一緒にリーンズィの目には映らない世界へと消えていった。
即席の粗末なソファの出来上がりだ。
リーンズィはそれに腰掛ける。
アリス・レッドアイ・ウンドワート、白髪赤眼の気難しい美姫が、フライトジャケットを羽織った薄い胸の前で腕を組んで、じっとりとした目でリーンズィを見下ろした。
「リゼこうはい、わたしの席が無いみたいだけど?」
「ここにある」リーンズィは己の膝を軽く叩いた。「レアせんぱいの専用席」
レアはしばし硬直した。
薄闇の中でもはっきりと分かるほど、首筋から頬、耳に至るまで、余すことなく紅潮させた。
周囲を確認した。
誰も居なかったので、黙ってリーンズィの膝の上に座った。
後ろから抱きすくめられて「中々悪くないリクライニングね」と淡く笑いながら首を逸らし小さな頭と艶やかな髪をリーンズィの首元に擦り付けた。それから濡れた流し目で言葉無く唇をねだった。
そうして互いの感触を確かめていると「なーん」と声がした。
――戒めの猫、ストレンジャーである!
二人はびくりとして、それまでの睦言を中断した。
「わ、悪かったわよコルト、公共の場で、その、こういうのは御法度だったわよ」ね、と言い終わろうかというところでストレンジャーはレアの胸の中にぴょいんと飛び込んできた。
そしてレアの足の上で丸くなり、戸惑う少女たちをチラと見て、また「なーん」と鳴いて、ジャケットから覗く、細く温かなレアの太股を枕にした。
数秒もたたないうちに、ねむねむとグッドナイトした。
リーンズィもレアもかすかに微笑んで、視線を絡め、静寂に身を任せた。愛する姉から生まれた未知なる異邦猫を大切に、大切に、大切に起こさないようにしながら、知らない夜空に名前の分からない明星が輝くのを見つめた。死んだ世界死んだ時代、死なずの行進者のための新しい星座たち。星々の輝きを繋いで、永遠に来ない未来への道標を想像する。
やがて地平線から這い出た冷たい太陽が巡る星々を瑠璃色の曙光で塗り潰した。
太陽が昇りきり、スチーム・ヘッドやパペットたちが偽りの人類文化を演じ始めた頃、早々にクロムドッグが姿を現した。
リーンズィもレアも目を丸くした。クロムドッグが早朝から待機している必要はまるで無かった。使節団の一員でも外交官でもない。ただ教官役もしくは評価役に指名されただけの戦闘員だ。
グリフォンの到着次第通信を入れるとの取り決めだったが、指示が無くとも自分が居るべき場所が分かっているようだった。
人を殺す以外には何も出来ないこの不死の、迷いのない堂々とした歩みを眺めながら「世の中には空を見なくたって太陽の位置を知れる人間がいるものよ」とレアが言った。
「星座を見なくたって、方位磁針を見なくたって、自分がどこで何をしているのか、どこで何をするべきなのか、そういうことが分かる連中がいるわ。きっと、あいつも、その一人なのね」
クロムドッグは往来の片隅で猫とほのぼの座っているふたりを見つけるなり、「何かのゲームだろうか」と尋ねてきた。
リーンズィやレアに代わって、目を覚ました猫が「なーん?」と首を傾げた。
「私はゲームに詳しいので分かるのだが……これは猫缶や猫タワーを設置することで家に猫を呼び、もてなして、遊んでもらって、得点としてお礼の『煮干し』を獲得し、プレイヤーはその多寡を競う。そういうゲームのリアル版だな?」
「えっ……全然違うのだな、違うの」
謎すぎるゲームだった。
リーンズィは猫と一緒に首を傾げた。
気の合う二人だった。
「それにしても、お礼の、煮干し……? 猫がどうしてお礼を置いていくのだろう? おもてなすために煮干しを置くのは分かるけれど。逆だと思う、思わない?」
「そのゲームの中では確かにあったルールだ。ちなみに普通の煮干しを集めると……金の煮干しと交換出来る」
「それは煮干しではなく煮干しの形をした金塊なのでは?」
不思議がるリーンズィを余所に、レアはクロムドッグに苦笑を向けた。
「まったく、まったく。エーリカたちっていっつも変なゲームで遊んでるわよね。でも、そうね、どうなのかしら、ストレンジャー? ストレンジャーも、おもてなしをしたら、何かお礼の品をくれたりするのかしら」
ストレンジャーは「にゃ……」と声を漏らし、レアの太股をペロペロとなめた。
「やっ、ダメ、コルトったら、く、くすぐったいじゃない。これがお礼のつもりなの?」
「ただじゃれているだけだろう。猫を集めるゲームのプロである私が見るに、もてなし度が足りないのだ。かくなる上は、私が人間キャットタワーとしての務めを全うするしかない。昔はエーリカの家でキャットタワー役をやらされていたから、こう見えてキャットタワーのプロでもある」
「キャットタワーのプロ!?」リーンズィが戸惑った。
「ああ。彼女の部屋は私が掃除しないと足の踏み場も無かったし、普通のキャットタワーを設置してもいつのまにか衣装を仮初めにかけておくためのスペースとして使い始めたりするので、折角のキャットタワーも、ついに猫たちを満足させるには至らなかった。そこで私がキャットタワーの代役を務めていたのだ」
「特殊プレイすぎるのだな……」
「ねぇ、ねぇ、クロムドッグ。エーリカと別れようとか考えたことないのかしら」
「私はエーリカの右手だ。胴体と別れたがる右手など存在するのか?」
銀白の忠犬は、いかにも不思議そうだった。彼は自分がどこにいて何をするべきなのか確かに知っていた。毎夜占星術を行い朝には作成計画書を眺めて沈思しているのかもしれないが、それでいて、どこにも自分の居場所は定めない。彼の人生についての預言書があったとして、そこには彼自身のための神の言葉は一文字も書かれていない。エーリカのために占い、エーリカのために計画を考え、離れていても常にエーリカとともにあり、神にすらエーリカのために祈る。どこにいても彼の宇宙の中心はエーリカで、絶対に揺らがない。
私もそうなりたいな、とリーンズィはレアを、クロムドッグの戯言に苦笑している愛しい人を、氷砂糖のように甘く美しい人をその胸に抱いたまま、視線を送る。暗闇のなか目を瞑って歩いても絶対にレアに辿り着いてそっと彼女にかんばせを撫でられるようになりたかった――彼女の右手よりも確かな何かになりたかった。
アルファⅢグリフォンは前日からほぼ二十四時間が経過した時点で出現した。
まず遙か上空に矢のような速度で甲冑の影が差し、凄まじい速度を叩き出した状態で通り過ぎていった。リーンズィもレアも粗末で腐れた廃材の再利用品ソファから立ち上がり身だしなみを整えた。猫はソニックブームの轟音に驚いたのかびくりと震え不機嫌そうにそのままどこかに駆けて行った
程なくして、グリフォンは飛び去った方角から、ふよふよ、すいーっ、と戻ってきた。
一度は減速ミスをしたものと思われたが、それを即座にリカバリできるというのが、むしろ彼女の練度向上を雄弁に物語っている。
過剰すぎる加速能力に振り回されることは無くなったようだ。
前回と同じ地点にカシャンと具足の爪先を鳴らして降りてきて、カーテシーを思わせる優雅な所作で着地することさえして見せた。
リーンズィは右手を挙げた。
「こんにちは、アルファⅢグリフォン。挨拶は大事だ」
「ご機嫌麗しゅう、アルファⅡモナルキア・リーンズィ様。アルファⅢグリフォンが……この私が! 最強のメサイアドールとなったこの私が、戻って参りましたよ!」
えっへんと胸を張る姿は、内側に収められた肉体が少女であることを思えば、可愛らしいと言えば可愛らしいが、さしものリーンズィもレアも顔を見合わせる。
ネレイス=グリフォンが、以前より増長しているのは明らかだった。
レアは露骨に眉根を寄せる。
「どうしたのかしら、どうしたのかしら。弱気で未熟な可愛らしい子ウサギが、なんとも傲慢な態度になったじゃない」
「たっぷりとお時間を戴いたおかげで、慣熟訓練が完了しました」グリフォンは誇らしげだ。「模擬戦は百戦百勝。名実ともに皆様に釣り合う機体に進化したかと。これで私も自信を持って皆様と交渉を――」
と、グリフォンは見慣れないスチーム・ヘッドをようやく発見したらしい。あるいは、野次スチーム・ヘッドの一機にすぎないと認識していたのか。
ヘルメットに備えられた光学素子の群れを、折目正しい直立姿勢で待機しているクロムドッグに向けた。
「そちらの方は……?」
「私は浄化チーム進行阻止班、エーリカ隊のクロムドッグ。今回、君たちの性能試験に抜擢された」
「……クーロン様は……?」
「所用で外している。だが問題無い、私もこの分野では経験がある。100%任務遂行可能であると自負している」
「ふむ……」とアルファⅢグリフォンは思わせぶりに喉を鳴らす。「特別に経験豊富な不死者様である……という認識でよろしいでしょうか」
「私ほどになれば、組織の運営についてもアドバイスが可能だ」
グリフォンがピクリと反応した。「た、例えばどのような?」
クロムドッグは淡々と答えた。「帳簿の数字が合わない場合、合わない数字を9で割ると、桁数の入力ミスを見つけやすくなる。これはボードゲーム大会の幹事、そのプロとしての知見だ」
異形の機体が一瞬バランスを崩しそうになったのは見間違えではないだろう。グリフォンが応答するのに多少の時間が必要であった。
「く、クロムドッグ様とおっしゃいましたか。あの……それは……組織の運営というか……ごく小規模な経理業務に関する、一般的な小技ではありませんか……? それと、ボードゲームと聞こえたような気がするのですが……」
「ボードゲームと言ったため、正確な理解だ」
グリフォンはしばし沈黙した。
ややあって、リーンズィとレアに、それとなくバイザー越しの視線を向けてくる。
全身を蒸気甲冑で固めているというのに、いかにも不安そうなのが伝わってきた。
「だ……大丈夫……なんですよね?」
「……た、たぶん大丈夫よ」レアが曖昧に頷いた。
「部分的に大丈夫なのだな」リーンズィも頷いた。
クロムドッグも鷹揚に頷いた。何故頷いたのかはよく分からない。
ただグリフォンは追従して、「だ、大丈夫なのですね」とぎぐしゃくとした動きで頷きを返した。
兜で顔を完全に隠しているというのに、愛想笑いが透けて見えるかのようだった。




