セクション4 グリフォンは落っこちた その1 クヌーズオーエ解放軍/リーンズィ
乳白色の冠を空に頂く都市の片隅で、少女は猫を追いかけていた。
エプロンドレスの裾を翻し、西へ東へ、北へ南へ。そこかしこに散らばっていく破片が楽しげに地面で跳ねてふわりと浮かび上がり空へぶちまけられて魔法のように建物の形へと組み直されていく。脈動する白い光の下、頭を潰されて横たわる人型の甲殻類じみた兵士の傍を通り過ぎた。すると彼は頭に瓦礫を貼り付けたまま起き上がった。瓦礫が巻き戻って建物の欠けた一角に張り付くのを見送って、兵士は少女に銃のような筒を向けた。そして少女が遠ざかったところで、途中で体の緊張を解いて筒を降ろした。あるいは、後ろ向きに走ってくる彼女に驚いて、銃を構えた。
少女はさかさまの時間の中で沢山のものが息を吹き返すのを見た。壊れてしまっている全てが、まだ壊れていなかった頃へと巻き戻っていくのを見た。
再生していく破壊された都市を走るのは大冒険だ。知り合いの猫を追いかけているのでなければ、少女はきっと怖くて立ちすくんでいるままだった。
大地に再生していく建物に入る。ちょうどよく直っていく階段を飛び降りたり、もうすぐまっすぐに戻ってしまいそうな折れ砕けた水道管を伝って壁を登ったりしているうちに、路上のバラバラの破片にまぎれて、見たことのない見覚えのあるこれから拾うことになると知っている鍵束が落ちているのを見つけた。
それを摘まみ上げてしげしげと眺めているうちに、見る間に破片は集まって小さな箱になり、そして地面をコロコロと転がったあと途轍もない勢いで空へと吹き飛んでいった。爆発か崩落かに巻き込まれてどこか高いところからここまで落ちてきたのだ。
もう壊れていないあの箱の中身は、これから先、今より前、もうずっと空っぽなのだ。少女は不思議な気持ちで手の中の鍵束を見た。今、こうして、箱が箱へと戻ってしまう前に、確かに箱から鍵を取った。だからこれより過去、壊れていない箱の中には、永遠に鍵が無いのだ。
では、この鍵はいったいどこから来たことになるのだろう……?
「それが探していた鍵だよ。彼女たちに会えるよ」と鳴く親愛なる迷い猫のアドバイスを信じて、廃ビルを駆け回り、目当ての中庭を塞ぐ扉の鍵を開く。
そうして硝子越しに見た、トレンチコート姿のひとりの少女と、白銀の甲冑を纏った蒸気の騎士。
ずっと未来、遙かな過去で生まれる彼女の娘たちを想像した。
助けてあげたいと思った。
そこで目が醒めた。
ライトブラウンの髪の少女は、ゆっくりと瞼を開いた。
首輪型に設えられた人工脳髄のランプが明滅する。寝台に横たえた裸の肉体、永久に朽ちないことを約束された肉体が、天然脳髄へと入力された命令に従い、活動に適したレベルまでゆっくりと体温を上げていく。
少女は深く息をした。麗糸の薄布の下で肋骨の微かに浮かぶ胸郭が膨らんで乳房が広がる。降りていた霜が柔らかな体熱に溶けて、透き通るように白い肌を涙のように伝う。流れ落ちた霜は冷厳なる都市の静寂、晒された華奢な体躯が僅かに身震いする。
しかし、それは肉体に刻み込まれた反射に過ぎない。少女は寒さを感じない。苦痛を理解しない。不死病に罹患した肉体によって演算される存在しない少女は、人類が暖炉に薪をくべていた時代を知らない。
目を瞬く。潔癖な造形の、端正な細面。濡れた翠玉の瞳に薄明かりの中で蠱惑的な光が瞬いて、見つめる者に欲動をもたらす退廃の色香が立ち上る。
小さく息を吐くと、しかし清廉なその輪郭がふにゃりとほどけてしまった。
大人びた顔貌、すらりと伸びた手脚からは想像もつかないような、幼気で気怠げな所作で手脚を揺らし、少女はただ呆として薄緑色をした瞳を傍らの窓に向けた。
夜が明け始めていた。歪んだ木の窓枠に嵌まった罅割れた窓硝子から射し込む冬の朝のおぼろげな光は青みがかった色をしており子猫の寝息のように穏やかな隙間風に揺れている朽ちかけたカーテンのほつれかけたハーダンガー刺繍は黎明の静まりきった澄明に仄かに輝きまるでお伽噺の映画に出てくる素敵な魔方陣のように見えた。
「リゼ、ねぇ、私のリゼ」
見蕩れていると、窓と反対側から声がした。
「今日もお日様が昇るのと一緒に起きるのね。最初にその瞳に映すのが私じゃないだなんて、もしかしてお日様と仲良しなのかしら? 妬けてしまうわ、妬けてしまうわ」
無邪気なからかいを含んだその愛おしい響きに、少女、リゼ──リーンズィ、アルファⅡモナルキア・リーンズィは、微笑んで薄く瞼を閉じた。
「……視覚野が一定の光量を捉えると休眠モードが解除されるようにしているのだな。しているの。だからキャリブレーションのためにまず光を追ってしまう」
枕に頭を預けながら己のライトブラウンの髪を掻き上げて整え、ベッドの上で体を転がす。
そして、これこそが今朝初めて見るものだというように目を開いた。
「おはよう、レアせんぱい。ずっと起きていた?」
スチーム・ヘッドは、基本的に眠らない。
人工脳髄が人格記録媒体に従って演算し、生体脳へと入力される電気信号だけが彼らの人格の全てだ。
素体となる不死病患者は永遠の生を約束され、それが故に一切の欲求を喪失している。
食欲も睡眠欲も性欲も、その身一つで永遠を体現する不死病患者の報酬系に関与することは無い。
だがクヌーズオーエ解放軍のスチーム・ヘッドは、自分の人工脳髄を一時停止させる休眠モードを使って、擬似的な睡眠を取ることがあった。
同じ褥に身を横たえているのはやはりレースの薄布一枚を羽織るのみの小柄な少女で、絹糸ですら見窄らしく思えるような、瑞々しい白い髪を豊かに枕に拡げていた。
色素の欠乏した深紅の瞳、人工的であるが故に不純な翳りの無い無上の紅玉を蠱惑的に細めながら、アリス・レッドアイ・ウンドワートは肋骨の浮いた裸の胸元にリーンズィの腕を引き寄せた。
「リゼ後輩の無防備な寝顔を眺めるのは、わたしだけの特権だもの。一晩中だって独り占めにしていたい。それは、当然の気持ちよね。寝顔だけじゃないわ。手の指も、耳のかたちもその……胸の奥にある鼓動も、何もかも全部。わたしだけが見て、感じて、味わって良いのよ。ええ、夜闇の帳にだって、わたしの邪魔はさせないの」
アリス・レッドアイ・ウンドワート──レアに宿る才能は特異なものだ。電磁場を掌握し、励起し、あまつさえ可視にして操作可能な現象として取り扱う。電磁波を第六の感覚器官として利用するため、彼女の世界に真の暗闇は存在しない。
リーンズィには想像も出来ないことではあったが、レアは目を閉じていても開いていても、すぐそばにあるものの形を、はっきりと、探られている当人でも知らない深度まで見透せた。たとえ盲目の闇の中にあろうとも、レアはリーンズィの臍の形まで手で触れるかの如く知覚することが出来た。
「お互いがお互いの全てだと、私は昨夜も心の底から感じられた。レアせんぱいは違った?」
「いいえ、いいえ。わたしだって、そうだもの」レアは紅潮した頬と首筋とをわざとらしく逸らした。「それだって、当然の気持ち。だけど、だけど──あなたにだから言うわ。不安なのよ。もしかすると、忘れてしまうんじゃないかって」
レアは、物憂げに呟きながらリーンズィの手をそっと握った。矮躯の胸元、心臓のある位置に引き寄せて、そして己の首に嵌めた首輪型人工脳髄、偽りの魂を演算する自分の急所へと、愛する者の指先を導いた。
「ここから……わたしの姉だって言い張っていたあの偏屈な女の思い出が消えてしまうんじゃないかって。寝ることの真似事だって、したいとは思えないの」
「だけどレアせんぱい、記憶野の整理をしないと、思い出は変質してしまう。形を変えて、どんどんこうあってほしかった過去へと歪んでしまう」リーンズィは穏やかな声音で囁いた。「忘れないでいたい、と願うことは、間違いではない。だけど、本当に覚えていたいのなら、目を閉じた方が良い」
何ら特別な指摘ではない。スチーム・ヘッドならば誰しもが抱える問題だ。
不死病に冒された天然脳髄に欲求は存在せず、全ては暗闇の洞で瞑想する僧侶のように凪いでいる。
人工脳髄も、人格記録媒体も、ある種の完成に至った無欠の肉体からしてみれば、苦しみを再生する病巣でしかない。当然、不死病の影響は演算された精神にも及ぶ。
スチーム・ヘッドとしての稼働時間が長くなればなるほど、己の記憶が、かけがえのない故郷が、愛おしい家族が、歪み、霞む。そして忘れてしまいたい不都合な事実から順番に、不死病によって削除されていく。
好ましくない過去が消えて無くなること。それは決して福音ではない。不完全さまで含めてこそ、過去は形の無い杖と成り得え、目を開いて荒野を歩き続ける助けとなるのだ。
それを分かっているせいで、尚更にスチーム・ヘッドは休眠と記憶の最適化に拒絶感を示す。死すら失った肉体に、思い出まで欠けては、滅びるしか無いと分かっているから、恐ろしくて眠れない。
しかし、人格を維持したいのであれば、むしろ休眠するべきだった。最適化のせいで喪われる記憶、色褪せてしまう感情も無いではない。だが、不死病の侵食による精神汚染の無秩序な進行に比べれば、最適化による記憶の消去など、軽微なものだ。むしろ最適化には記憶を不死病から保護する側面の方が強い。
資源の節約も大きな理由の一つだが、クヌーズオーエ解放軍が夜間の休眠を奨励するのにはそうした事情もある。
「ええ。ええ。分かっているわ。だけど……次の朝起きたら、コルトのことを丸きり忘れてしまっているかも知れない。だって、薄情な、敵を倒すことしか取り柄のない、出来損ないの私の人工脳髄だもの。いったいどんなふうに記憶を取捨選択するか分からないから、怖いの」
「夢の中で会えるかも知れない。私は時々コルトのことを夢に見る」
レアは悲しげに笑った。
「夢を見られるスチーム・ヘッドはあなたぐらいよ、リゼ後輩」
生前という概念を持たず、あらかじめ人間存在であることを否定された、不死の肉体に演算された架空の少女──アルファⅡモナルキア・リーンズィも、決して自然に眠ることは出来ない。しかし、不死病罹患以前の記憶が論理的に存在せず、生命としての根源的な苦痛を知り得ない彼女は、記憶が全て不死に依拠しているがために、少なくとも不死病の進行による人格の摩滅は発生しない。
それでも敢えて休眠モードに移行するのは、レアや他のスチーム・ヘッドと生活リズムを揃えるためだが、不要な休眠を重ねるうちに異常が生じるようになった。
リーンズィは、夢を見るのだ。
休眠時に出現するその体験が厳密に何なのかは、リーンズィ自身には説明出来ない。体感を伴うものであるにも関わらず、不規則で断片的な不正なデータの羅列に過ぎないことがユイシスの解析によって判明している。
休眠した際、最適化され不滅者に取り込まれた際に見る幻覚が最も近い。最適化されて軽量化するはずの記憶が、何らかの理由で逆に増殖し、僅かに冗長化してしまうのだ。
明確に異常な状態だったが、記憶領域にまだまだ余裕のあるリーンズィにとって実害は無いため、やはり何か夢のようなものという他なかった。
「……コルトは壊れて消えてしまったわけではない。少なくとも、そう簡単に私たちの記憶からは消えない。私の中には、まだ確かに彼女はいる」
リーンズィは慈しむようにレアの髪をかき上げ、世界の全てに忘却された秘境の原野に降り積もった処女雪のように滑らかな額を撫で、接吻した。
「演算された私たちは、忘れることだって、本当は簡単には出来ない。忘れることなんて、怖がる必要はない。思い出せなくなったとしても、それはずっと記憶媒体に刻まれている。怒りも、悲嘆も。愛おしさも……」
「違うわ、違うわ。愛おしくなんてないんだってば」レアはむくれながらもリーンズィに接吻を返した。「だけど何だか……私の世界そのものが、欠け落ちてしまったような、そんな気がするの。コルトがあんなふうになってから、ずっと」
「大丈夫」リーンズィもまた接吻を返す。そうして、優しくあろうと努めて、囁いた。「何があっても大丈夫……」
夜明けの街に澄み渡った歌声が遠く幽かに響き始める。
聖歌隊のレーゲントたちによる巡回聖歌だ。
何の意味も成さない、音楽理論すら伴わない、韻律と美声によってのみ成立する聖歌。鎮静と陶酔を与えるその原初の聖句の特性は、大主教リリウムの率いる<清廉なる導き手>によるものだ。韻律の継ぎ接ぎによってのみ成立した賛歌に混じって、「にゃー」とか「なーん」とか「にゃわん!」とかいった、音楽ですらない猫たちの鳴き声が聞こえてくる。一部、猫と犬の区別がついていないようだったが、ほぼ猫、おそらく八割ぐらい完璧に猫であった。
レアは溜息を吐いて、リゼに目配せをする。
リーンズィはもう一度接吻をした。
そして白髪の美姫を抱き上げて、二人でベッドから降りた。
レアは、リーンズィに縋りながら、苦々しげに溜息を吐く。
「……嫌になるわ、嫌になるわ。ロングキャットグッドナイトは、どんな気持ちでいるのかしらね。コルト・スカーレットドラグーンと並び立つ、この荒くれ無敵集団クヌーズオーエ解放軍の監視役。方向性は違ったかも知れないけど……志を同じくする機体が、もう口も利けなくなってしまった。悲しくないのかしら?」
「ロングキャットグッドナイトの猫たちは、コルトのために鎮魂歌を歌っているのかもしれない」リーンズィは少しだけ考えた。「……もしかすると、猫たちはああして鳴いているとコルトが戻ってくると考えているのかもしれない」
「……どういうこと?」
「コルトは人目に付かないところではずっと猫をわしゃわしゃとしていた。猫たちもきっと、コルトが大好きだった。……だからああやって鳴いていれば、コルトが自分を撫でに来てくれるんじゃないかと、ふわふわ毛皮の奥にある小さな心臓で、今も夢見ているのかも」
レアは少し笑った。
目を伏せて、リーンズィから顔を背け、自分のまなじりをさりげなく拭った。
それから「私たちも行きましょう。体を動かせば、気も晴れると思うから」とリーンズィの腰を抱いて促した。
背の高いリーンズィが、コートハンガーから、自分とレアの不朽結晶服を取り上げて降ろす。
そうして膝を折り、仕えるべき姫にひざまずく騎士のようにレアと向かい合い、二人分の衣装を埃一つ無いカーペットの上に置いた。
リーンズィがレアの衣服を、レアがリーンズィの突撃聖詠服を手に取る。
互いに手を伸ばし合い、時折肌をくすぐりながら、決して朽ちることのない布で相手の裸体を包んでいく。
鴉を思わせるインバネスコートに身を包んだリーンズィは、ベッドの下からタイプライターじみた入力装置を備えたガントレットを引き摺り出して、これは自分自身の手で己の左腕に嵌めた。
潔癖と退廃、清廉と淫靡、緊張とふにゃふにゃ、相反する幾つもの表情を持つ不可思議な少女も、壁に立て掛けた不朽結晶の斧槍を掴めば、途端に冷たい空気を纏う。
異邦の騎士。戦争の根絶と世界平和を願った狂える調停防疫局の全権代理人、アルファⅡモナルキア・リーンズィ。
体幹の最低限の急所を防護するだけの、手脚が付け根まで剥き出しになったレオタード状の防護服を纏ったレアの姿は如何にも頼りない。だが軍用のブーツを履いて襟を詰めたフライトジャケットを羽織れば、クヌーズオーエ解放軍最大戦力と目される戦闘用スチーム・ヘッド、『アルファⅡウンドワート』としての猛々しい気風が、発育の悪い痩身に満ち満ちる。細められた赤い瞳は燃え盛るようで、夜明けの薄明かりに火の粉の如く燐光を放っていた。先ほどまで気弱げに愛を請うていた少女は、もはやそこにはいなかった。
二人は無言でドアの前に立ち、フレームの歪んだ扉を半ば蹴飛ばすようにして開けて、廊下に出た。
別段、どんな扉も蹴っ飛ばしているわけでは無い。この部屋の扉は真新しいにも関わらず波打って歪んでおり、開閉には常に暴力が必要だった。
廃滅の都市の、忘れ去られたホテル。
クヌーズオーエに出現するうちでは最も高い階数を持っているこのビルは、何もかもが、そのような有様だった。
黎明の光に淡く白んだ廊下を、高さの異なる肩を並べ、歩幅を合わせて進んでいく。
建材は新しく、木板の床は軋み音一つあげない。だが床板の下に基礎が存在しないことを二人はよく知っている。リーンズィたちは新品のドアが取り付け前の状態で廊下に打ち倒されているある一室の前を通り過ぎた。ある部屋には扉が存在しない。室内にはレアと使った部屋と同じくベッドフレームと剥き出しのマットレスとレースのカバーが積まれていて、しかし掛け布団やシートが用意されていない。
廊下の壁にしても、壁紙は途中まで貼られた段階で放置されているか、全く仕上げが進んでいない。
乱造されるクヌーズオーエの生成プロセスは定かでは無かったが、ここに住まうお手伝いの精霊、あるいはたまたま訪れた奇跡の大工たちは、仕事を途中でやめてしまったらしい。
ホールでレアが通電させると停止していたエレベーターが動き出した。
チリン、と控えめにベルが鳴り臼で木の実を磨り潰すような鈍い音を立てながら扉が開いた。
二人を内部へと招き入れた籠の四方には壁が存在しない。天井面では切れかけた蛍光灯が剥き出しのシャフトの内壁を不機嫌そうに照らしている。
降下が始まってしばらくすると、二人は突然ホテルの外側へと放り出された。
籠が落下したわけでも外部へと繋がっているわけでもない。レアもリーンズィも未だエレベーターの籠の中だ。
しかし高層階と最下部を除き、そのホテルには躯体しか存在しなかった。酷いところでは鉄筋が組まれているだけで基礎工事が全く行われていない。エレベーター・シャフトも未完成の区域では外枠を組んだだけの状態で放置されていた。
何故この状態でエレベーターが動くのかは謎だったが、何の支えも持たない非常階段が当たり前のように空中に静止しているのに比べれば、些細な問題だろう。
鉄の白骨、その隙間を吹き抜ける風に衣服の裾をはためかせながら、リーンズィとレアは空が色づいていくのを眺めた。薄れ始めた朝靄の中には未完成のまま放置された無数の建造物が並んでいる。見渡す限り何もかも、崩れないのが不可思議なほどに欠けていて、不安定で、あるべき部位がことごとく抜け落ちている。
生きながらに串刺しにされて肉を剥ぎ取られた罪人が並ぶ処刑場のような光景。
このクヌーズオーエは、始まる前に終わっていた。
一切合切が未完成で、壊れかけている。
リーンズィとレアがねぐらにしているのは、決して眺めが良いからではなく、他に好んでここで過ごそうという機体がいないからだ。建物が崩れない理由が「今、崩れていないから」以外に考えらないこの不自然極まりない都市で、どれだけ調度類が豪勢でも、高層階を使わないのは道理だろう。
完成すらしていない状況は、朽ちかけているよりも尚悪い。
ただ、リーンズィとレアのように、自分たちの時間を、本当に自分たちだけのものにしたい少女たちにとっては、全く都合の良い隠れ家だった。
夜明け時の都市を二人でゆっくりと歩いた。
一時間ほどで、この都市で唯一外観に異常の無いショッピング・モールに辿り着いた。
リーンズィの知る限り、内部はやはり未完成なのだが、少なくとも基礎が存在している程度には状態が良く、外壁だけは相応に堅牢であるため、現在は仮設司令部としての改装が進んでいる。
駐留を選んだほぼ全ての機体が、ここを夜営の場所にしていた。出歩いて旅の宿を決めていた機体も当初はいたが、それも崩落に巻き込まれて目覚める経験が三回を超えれば、ショッピング・モールに戻ってくる始末だった。今ではモールの外側で寝泊まりしている機体は希であった。
リーンズィとレアが目指したのは、ショッピング・モールではなく、それに隣接した多目的広場だ。
そこには既に大勢のスチーム・ヘッドやスチーム・パペットが集まっており、だらけた様子ではあるが等間隔で整列している。
合流してきた一人軍団の二人のために場所を空けて、口々に挨拶や会釈を向けるが、さほどの緊張感も無かった。
「おはようさんです、お二人さん」
よく知らない戦闘用スチーム・ヘッドが気安く挨拶をしてきた。
「おはようなのだな、おはよう、みんな」
リーンズィはひらひらと手を振った。
「おはようね」レアは威厳を見せたいのか仏頂面で挨拶に応じる。それから愛想を気にしたのかリーンズィの真似をして手を振った。「それにしても、暇そうね、暇そうね。今日もこんな時間からみんなして集まるだなんて」
「ウンドワート卿だって毎回参加してるじゃん」
「リーンズィもね。いつも二人一緒です」と聖歌隊のレーゲント。
「ということは、へへへ、夕べはお楽しみでしたね」レアが目元を鋭くするよりも速く、周りにいたスチーム・ヘッドが無言でその兵士のヘルメットを叩いた。「痛ったい! ええ!? もう良くない!? もう誰がどう見てもそういう関係なんだから! 触れないでいるのは逆に失礼だ!」
「駆け出しのヤンキーかよ、やめろよ」
「『ウンドワート卿』が俺らと同程度のカスみたいな感性してると思ってんのか? 不死病かかってんのも頭おかしくなっていってんのも、ウンドワート卿に下ネタぶつけていい理由にならねーんだぞ」
兵士たちはそうだそうだと軽口を叩く。
「っていうかさぁ、こんな年下の娘に変なこと言って恥ずかしくないのかよ? 最悪だぞ?」
「でもさ、ウンドワート卿、オレらと年齢そこまで差無くね?! いや見た目チビのガキだけど、稼働時間はオレらと同じで百年単位だろ!?」
「誰がチビのガキじゃと……?」レアは声を低くして電磁場を操作し、暴言を吐いた機体の片腕を肩関節から焼き切った。「次言ったら腕切り落とすぞ」
「もう切れてるし!」
その機体は驚いた素振りで落ちつつある腕を無事な方の腕で掴み、すぐに傷口に押し当てた。デッドカウントが相当進んでいるのか、血が吹き出たのは一秒にも満たない時間だった。
「いやーやっぱ怖いっスわ半端ねッスわウンドワート卿、すんませんした」
「ホントすいませんウンドワート卿、ご迷惑をかけて……俺たちからもあとで注意しておくんで……」
レアせんぱい、レアせんぱい、と真剣な眼差しのリーンズィに諌められて、さしものアリス・レッドアイ・ウンドワートも「別に良いけど、別に良いけど……。ええ、切ったのはやりすぎたわ、悪かったわね」とバツが悪そうにそっぽを向いた。
などと談笑しているうちに、広場の最前に置かれた朝礼台の上に──
ひとりの、小柄な影が現れた!
「おはようございます、鎧の方々」
質素な行進聖詠服を纏ったその小さな影は、ぐぐ、と背伸びをし、かたわらの猫を高く空に掲げた。
「あいさつは大事です。おはようからおやすみまで人々に寄り添う大いなる聖なる猫は、姿は見えなくとも、いつでもあなたのそばでふわふわのぬくぬくで、にゃー、にゃーと歌っておられるのです。なので、あいさつされると、とてもとても喜ぶのです。人の平和に寄り添うふわふわの猫なので。おはようございます、おはようございます……」
歌うようにして語りかけるのは、スヴィトスラーフ聖歌隊の猫福音派を自称し、この世界のどこにもいない聖なる大きな猫に忠誠を誓う狂えるレーゲント、ロングキャットグッドナイトだ。
名前とは裏腹に、猫っ毛をしている以外には何一つ猫らしい要素は無い。
眠たげな無表情の麗しき少女は、さらにぐぐ、と猫を持ち上げる。
「おはようございます、鎧の方々。おはようございます、大きな鎧の方々。おはようございます、歌を供にする方々。おはようございます」
百機近いスチーム・ヘッドが揃わない声で「おはようございまーす」と気の抜けた返事をした。
これを聞いて、ロングキャットグッドナイトは、ごまんぞくした。
「わたしキャットは喜びに満ちています。夜闇に遊ぶ猫たちも、どれだけ眠い朝だとしても、新しい一日を祝福し、にゃーにゃーとあいさつを欠かしません。聖なる猫はあなたがたに告げます、皆様が、この小さくも弱々しい猫たちを……最も小さい温かな命を愛するとき、その愛は確かに、聖なる猫をごまんぞくさせるのです。そして皆様の互いを思いやるあいさつは、確かにそこに猫たちの歓喜と同じ温かさを持つのです」
スチーム・ヘッドたちは少女の歌うような説法を黙って聞いていた。
意味は、誰にもよく分かっていない。ロングキャットグッドナイトに恭順して不滅者に成り果てた者たちすら、正確には理解していないだろう。
どれだけ真剣に聞いても理解出来ない謎に満ちた猫説法であり、まともに聞いているものは最早いないのが現実だったが、敢えて茶化す者もいなかった。
そうしながら、スチーム・ヘッドたちはどこからか現れた何十匹もの猫たちが己らの足下を楽しげに練り歩くのをぼんやりと目で追っていた。
「それでは、今日も大きな聖なる猫に捧げるための、よろこびの踊りを始めましょう」
猫たちが一斉に「にゃん、にゃんにゃ、にゃん、にゃん」とリズミカルな鳴き声を上げ始めた。猫がそのような異常な行動を取ることに疑問を持つ者はいない。猫たちは不滅者たちの見る夢であり、人に夢見られる幸福な猫そのものなのであるからして、多少の不自然さは見慣れた物だ。
列に混じっているスヴィトスラーフ聖歌隊のレーゲントたちも、手拍子をしながら軽やかな歌声で唱和し始めた。奇妙な鳴き声も、歌に混じれば聞くに堪える旋律となる。
敵を殺すことしか能が無いスチーム・ヘッドたちは、猫と輝ける美少女たちの奇妙な合唱を聴きながら思い思いに体操を始めた。
あらゆるパフォーマンスが完璧な状態から一切低下しない不死の肉体でどのような柔軟を行っても、当然ながら意味は無い。しかし、軽く関節をほぐす行為は快の信号を発生させる。肉体へと僅かな喫食と同様に人格演算の安定性を向上させるにはある程度有効だった。
『ロンキャ電波体操』と渾名されたこの一連の催しには猫を持ち上げては降ろすという工程も含まれており、実質的には猫セラピーの一環だった。毛皮と肉のふわふわくにゃくにゃは兵士たちのささくれた心を癒やすのに間違いなく役立っていた。レーゲントたちの歌う沈静化の聖句との相乗作用によって、憤怒を出力し続けている機体をも、一時の平穏に導く。
一日の始まりに人間の真似事をして体をほぐし、猫の癒しに縋り、聖歌隊の原初の聖句に身を委ねる。
これがアルファⅠ改SCAR、コルト・レッドドラグーン亡きあとの解放軍の日常風景だった。
FRFの首魁たるプロトメサイアがコルトを襲撃して、既に二週間が経つ。結局プロトメサイアはシシオーなる高性能戦闘用スチーム・ヘッドの援護を受けて逃走。解放軍は、怨敵を仕果たす機会を逸していた。
ただし、事件の影響は絶大だった。一時は親コルトの端末のみならず、仲間の死に過剰反応する過激派もFRF殲滅を主張した。誰しもがもはやFRFを絶滅させる流れは変えられないと確信していた。本来ならば全軍がコルト・レッドドラグーンの報復のために動き出していたことだろう。
しかし、事はそう簡単では無かった。
何故ならば、ロングキャットグッドナイトが謎の踊りを踊る朝礼台の下には、穏やかに笑うコルト・レッドドラグーンその人の姿があるのだから。
ヘルメットの上に迷い猫を乗せてその胸に抱えて、SCAR運用システムに腰掛けている彼女は、かつての張り詰めた表情、諦観に似た曖昧な微笑を忘れさせるほどに穏やかだった。
破壊されたはずだった。機能停止したはずだった。二度と目覚めないはずだった。実際に、現在のコルトは人語を発さないし、理解することもない。
だがコルト・レッドドラグーンは、現在でも絶対的権力を有する『一人軍団』の地位を剥奪されていなかった。
如何様にしてか人格記録媒体の連続性を破壊された彼女は、もはやSCAR運用システムの後をついて回るだけの木偶に過ぎない。懲罰担当官としての役目を果たすことなど出来ないのは自明だった。本質的には、凡百の不死病患者と同じく忘我の眠りに落ちているに等しいこだ。
しかし、彼女の破損した人格記録媒体は、未だにSCAR運用システムとのリンクを継続している。コルト・レッドドラグーン個人は、あるいは確かに機能停止したと言えるだろう。いっぽうで、アルファⅠ改型SCAR『コルト・レッドドラグーン』は、健在としか言いようがない状態だった。
「コルトは、今の方が幸せなのかもしれない」とリーンズィはレアに零した。「ああやって黙って猫に囲まれて笑っていたいから、眠ったふりをしているのかも」
「そうね、そうね。わたしのあの愚かな姉は、眠り続けてはいるんでしょう」と猫を持ち上げながらレア。「だからこそ不滅者『ストレンジャー』が未だにそこにいて、そこかしこで目撃されてる……」
体操をしているうちに、頭にアルファⅡモナルキアのヘルメットを抱え、背中に大仰な重外燃器官を背負ったふわふわの金髪のエコーヘッド、エージェント・ミラーズも合流してきた。
護衛として配置されているリクドーと、彼女の胎内に巣くう生体不朽結晶生命体とでもいうべきサードも一緒だ。
「おはようございます、リーンズィ、そしてレア」
金色の髪をした天使が蠱惑的に笑いかけると、ミラーズからスキャンした身体データを仮想アバターとして使用している統合支援AIが虚空に我が身を投影して、全く同じ顔で、似ても似つかない皮相な笑みを浮かべてみせる。
『警告。雑事を当機らに任せて乳繰り合うのは職業倫理に反します。恥ずかしくないのですか?』
「私とレア先輩の間に恥ずかしいことなど何も無いのであった」
リーンズィは堂々と応え、レアは赤面した。
『まぁサードたちも楽しんでたけどねぇ』と尻尾の先端の穂先のような刃を震動させてサードがくすくすとした笑いを出力する。リクドーは僅かに赤面して目を伏せた。
「おはよう、ミラーズ、みんな。……戦術ネットワークはどうなのだ。どうなの?」
『報告。現在、やはり戦術ネットワークの稼働状況に大きな変動は見られません』空中に浮かぶ天使の写像が肩を竦める。『コルト・レッドドラグーンの意識は、戦術ネットワークの管理に貢献していなかった。そう結論するべきでしょう』
「あなたが秘密裏に支援しているんじゃないのかしら、ユイシス」レアの深紅の瞳に猜疑が浮かぶ。「あなたぐらいのAIなら、あいつの代行をやるぐらい、なんてことないはずだもの」
『部分的に否定します。当機の介入は皆無ではありませんが、しかし、結論から申し上げて──』
ユイシスは、らしくもなく、一瞬だけ、躊躇するような素振りを見せた。
『コルト・レッドドラグーンは……アルファⅠ改型SCARという<総体>において、監視機構としての優越権を有していなかったと推測されます』
コルトが機能停止してからも、戦術ネットワークには当初予想されていた混乱は一切起こらなかった。
彼女がいなくても、あらゆる遣り取りはシステムによって絶えず監視され、危険思想が成長を始めれば自動的にカウンターとなる風説の流布を初め、情報操作を開始し、熱狂が臨界的に達する前に散らされていく。懲罰担当官としての実務は彼女の端末たちが代行するようになった。
トリガーが不在の現状では、都市焼却は不可能となってしまったが、元よりコルトのSCAR運用能力は限界に達していた。既に喪失していたといっても良い。
何も、何も変わらなかった。
これがクヌーズオーエ解放軍が報復を中止した最大の理由だった。
被害を軽視したわけではない。むしろ正当に評価された結果がそれだった。スチーム・ヘッドの精髄は人格と機能にこそ宿り、そして人格が損なわれているならば機能も停止して然るべきだ。
しかし、コルトを構成していた機能は全く問題なく稼働している。つまり理屈の上では、コルトの人格は無事な状態でどこかにか格納されていると解釈して然るべきだ。「機能停止したのはコルトのインターフェイスであって、彼女自身ではない」。それがクヌーズオーエ解放軍の共通見解だった。
そもそも、完全な形での再起動していないにせよ、コルトは現在も一応活動している。SCAR運用システムに遠隔操作されているにせよ、穏やかな微笑を浮かべて座っている姿は、単なるラジオヘッドの類には見えない。何らかのバックアップが機能していると判断するのが妥当だ。
加えて、ロングキャットグッドナイトが率いる猫の十戒が一機、第一の戒め<ストレンジャー>は、現在も疑う余地がないほど明確に活動を続けている。
なにせロンキャ電波体操の開始前の説法でロングキャットグットナイトに持ち上げられているのがストレンジャーの猫である。
ストレンジャー自体は、どういった経緯で生まれたのか不明な不滅者だった。何故コルトとコルトと同一人物らしき不滅者が同時に存在するのかも長らく謎とされていたが、とにかくストレンジャーが猫の姿で、あるいは処刑人として姿を表して歩き回っている現状において、コルト・レッドドラグーンが機能停止したと断言出来る理由はどこにもない。
事件で唯一の殉職者となったマルボロですら、彼女の手に成る処刑だった。マルボロの最期は自決に近い者だったと複数の機体が証言している。果たしてこの状況で、コルトが機能停止したと言えるのか。マルボロを破壊されたと言えるのか。プロトメサイアがクヌーズオーエ解放軍に致命的な攻撃を行ったと断じて良いのか?
事実が整理されるにつれ、コルトの派閥でないスチーム・ヘッドは冷静さを取り戻していった。侵攻計画を裏で扇動していたコルトが部分的に機能停止したのを受けて、事件は単に計画を見直すための機会として再定義された。
何千、何万という機体は強行進軍を停止して後退し、これまでに設営してきた補給拠点で次の進軍に向けての準備、あるいは作戦計画の見直しを始めている。
後退を拒み、留まっているのは、全体でもごく僅かで、彼らはコルトの古くからの仲間か、もしくはその信奉者、あるいは友人たちだった。
コルトの喪失を受け入れがたく感じ、怒りと無力感、そして憎悪に苛まれている機体のみが、何もかもが出来損ないのこの都市に陣取っていた。
偽りの安寧、偽りのリラクゼーション、偽りの言葉で人格記録の暴走を抑制しながら、プロトメサイアとの遭遇が発生した未掌握クヌーズオーエ、そのやや後方にあるこの都市を新たな拠点として成立させるべく、独自に活動を進めている。
日々猫を持ち上げ、猫を降ろす。
崩れていないだけの市街を破壊して、僅かばかりの資源を調達し、申し訳程度に拠点の形を整える。
その繰り返しであり、そこに発展的な目標は存在しない。『始まりの街よりも前の街』などと揶揄されるこのクヌーズオーエは資源に乏しく、仮設司令部を要塞化することも不可能と試算されている。他のクヌーズオーエに見られるような文化的な痕跡も殆ど無いため、占領には文化継承の意味すら発生しない。
何もかも、ただの手慰みであった。
「……こんなところで何をしているのかしらね、私たちは」
レアは猫を抱いてモフモフとしながら目を伏せた。レアは、コルトという人格の喪失に怒り狂ったうちの一機であると同時に、精神の冷静な部分で解放軍の暴走を止める側に回った一機でもある。
今このクヌーズオーエに留まっているのは、どちらかと言えば思いを同じくするものたちが暴走したとき、実力でそれを止めるためだ。
リーンズィも立場は似たようなものだが、しかし、感情の整理が付かないでいるのも事実だった。
親しい者を喪う経験は、まだ幼い、真実の不死である彼女には処理しきれない。
長い時間を生き、猫たちと戯れる不死の兵士たちですら、怒りと悲嘆を隠して虚勢を張っている。しかし、いずれはその感情も冷めていくはずだった。この都市を拠点化するメリットも無い。早晩、僅かな監視要員を残して退去することになるだろう。
厳かなるロンキャ電波体操は続く。それは消えていったものたちに手向ける弔辞に似ている。和やかな雰囲気に反するように、各々の胸中には虚しさが渦巻いている。
──突如として、爆音が轟いた。
スチーム・ヘッドたちは一斉に音がした方を向いて猫を手放した。何か爆発物に類するものがこの未完成の都市に落着したのだと全機が瞬時に理解していた。
「砲撃か?」「いつぞやのクズ肉どもが使ってた弾道降下……なんだっけ」「バリスティック・ドロップ・アサルト・シースな。たかが百年か二百年前のこと忘れるなよ」「しゃーなしだ。あいつらもう消えただろうしなぁ。覚えとくのはメモリの無駄だろ」「となるとFRFのカスか? いや、そんか根性ないか。ビル崩落の方がまだありそうだが」「まぁどうあれ臨戦態勢だな……」
声音がにわかに殺気立つ。
戦術ネットワーク上に爆音の発生位置が即座にマークされた。
もっとも広場のすぐ傍であったため、朦々と立ち上る噴煙を見れば厳粛であるべきロンキャ電波体操を妨害した不届き者がどこにいるかは明白だった。
支援をスチーム・パペットと聖歌隊に任せ、銃火器や不朽結晶の刀剣を構えた戦闘用スチーム・ヘッドたちが破壊的抗戦機動アイドル状態で噴煙の中心へと接近していく。
肩を怒らせる兵士たちの先陣を切ったのは一人軍団であるリーンズィ、ミラーズ、リクドーとシーラのアルファⅡモナルキアたち。そしてアルファⅡウンドワートたるレアだ。仮に予期せぬ交戦が始まったならば、大きな被害が出る前に両者を制圧する責務がある。
戦力的に言えば、周囲にウンドワート・アーマーを待機させているレアだけでどのような障害にも対応可能だ。落着したものがなんであれ、この邂逅のもたらす結末は決まっていると言えた。
果たして、爆心地に出来たクレータの中央には──蒸気甲冑の姿があった。
ただし、上半身は完全に地中に埋もれている。赤、黒、金で塗装された装甲は禍々しく輝いて威圧感を放っていたが、しかし誰の目にも脅威には映らないだろう。さかさまの下半身だけがクレーターから生えている有り様は、あまりにも間抜けだった。
手段は不明だが、上空から高高速で路面へと突入し、そのまま埋まってしまったようで、ぴくりとも動かない。
何だこりゃ、と兵士たちは閉口した。戦術ネットワークでの動きを解析したユイシスが、包囲が完成すると同時に攻撃を開始しかねないと警告していたが、皆一様に呆れていた。
状況もさることながら、地上に露出している部位だけでも相当に奇怪なシルエットをしていた。大腿部の装甲が通常より遙かに大きく形成されており、まるで開花直前の蕾のようだ。吸排気装置らしき機構が組み込まれており、そのせいで大型化したものと思われた。反して膝関節から先は極端に細い。内部に人間の脚が格納されているとは到底思えなかった。
リーンズィは装備の異様さよりも、その材質に息を呑んだ。『警告。目標の装甲に超高純度不朽結晶を確認しました』とユイシスが耳打ちをしてくる。レアも整った顔を不快そうに顰めていた。
見るからに特殊仕様の機体だった。FRFのスチーム・ヘッドの主な任務は市民の統治や都市の運営であり、大抵の機体がプレーンな外観をしているとかつてコルトから聞かされていた。
クヌーズオーエ解放軍の機体ではないかとも疑われたが、戦術ネットワーク上には該当する機体が記録されていなかった。
「何なんだよこいつ」「アホの投身自殺か?」「飛び込み水泳をやったのかもよ、地上で」「見事に埋まっておるのう」「まぁ……出てきたらボコすか?」「首刎ねてサッカーやろうぜ」「待てよ、並の不朽結晶に見えないぞ。こいつは意外と固そうだ」「変な装備だけどマジで何なんだ?」「この棒切れみたいな足じゃ立たないよな」
などと臨戦態勢を維持したまま、兵士たちは努めて呑気に遣り取りをしていたが、件のスチーム・ヘッドが穴から這い出てくる兆候が全く無い。
痺れを切らしたレアがアルファⅡモナルキアたちにハンドサインを送ると、これをリクドーが受けた。レインコートに似た不朽結晶繊維服をはためかせながら慎重に接近していき、謎のスチーム・ヘッドの両脚を掴んで、力任せに穴から引き摺り出した。
現れた上半身にはアルファシリーズに属する機体に特有の意匠と重外燃機関が装備されていたが、リーンズィにもレアにも全く見覚えが無い。しかし、兵士たちは誰がこの場を取り仕切るに相応しいか瞬時に理解したようだった。
ミラーズたちとアイコンタクトを取りながら、リーンズィが誰何する。
「警告する。警告をします。所属と目的を言うのだな、言ってください。貴官は我々クヌーズオーエ解放軍の主権領域を侵犯している」
応答は全く無かった。
凄まじい速度で突入した衝撃で、何らかの不具合を起こしているらしい。ヘルメットから血と脳漿が零れている点から、単純に生体脳髄を破損している可能性があった。
リーンズィも仕方なしにクレーターを降り、左腕に装備したガントレットの鍵盤を叩いてスタン装置のチャージを開始。
リリウムの聖句を参考にした再生強制促進用のパルスを設定して、致死電圧に達したところで不明スチーム・ヘッドに触れた。
電流が流れ、ゴムが千切れて弾け飛ぶような音が響いた。「にゃあああああああ!?」と悲鳴を上げながらそのスチーム・ヘッドは飛び跳ねた。
否、倒れ伏せた状態のまま真っ直ぐ上方へと飛び上がろうとした。
「うわっと!? なになになに!?」
すんでの所でリクドーの腕と彼女の尾骨から伸びるサードが不明機体の脚に絡みつき、巴に投げ飛ばす要領で相手を再び大地へと叩き付けた。
目標が「ぎいっ!?」とか細く鳴く一方で、サードは『と、飛んだようこの機体! 圧縮蒸気も使ってないのにぃ!』と興奮した様子で蛇腹の刃である己が体を揺すっていた。
兵士たちもあまりの異常事態に唖然としていた。特別な道具なしで音もなく浮き上がるスチーム・ヘッドなど誰も見たことがなかった。
「う、うあ……ごぼ……」
赤黒のスチーム・ヘッドは吐血しながらも覚醒したらしく、仰臥した姿勢のまま周囲を見渡した。
「こ、ここは……? クヌーズオーエ解放軍の占領する都市……で合っていますか……? 総統閣下の観測が正しければ……そのはずなのですが……」
「こ、肯定する」リーンズィは警戒と戸惑いが半々の声音で問うた。「貴官は? 所属と目的を言うのだな。言ってほしい。貴官は我々クヌーズオーエ解放軍の主権領域を侵犯しているが……なんだか大変な状態に見える」
「ああ……運が良かったようです」
「残念ながらすごく運が悪そうに見える……」
「いいえ、運が…‥良いのです。こんなにすぐに……お目通りが……叶うとは。お久しぶりです、リーンズィ様」
「……初対面では?」
リーンズィは首を傾げた。見たことがないのは勿論のこと、声も全く覚えがない。
「あなた方の主観では……きっと十年以上も前に少し話した……だけのことですから……覚えておられなくても仕方ありません……。私は姿形も変わっておりますし……」
「うーん。十年前、私はどこにもいなかったと思うのだな?」リーンズィはますます首を傾げた。「とにかく、突然撃ち合いになったりしなくて嬉しい。さぁ、所属と目的を言ってほしい。我々は……」一度言葉を区切り、リーンズィは友軍兵士一同を見渡した。「敵対を望まない。ごあんしんだ」
「私、は……。今は、アルファⅢバアルの改修機……アルファⅢグリフォン……」
スチーム・ヘッドは、倒れ伏したまま呼吸を整え、答えた。
「FRFの最高戦力にして、プロトメサイア総統閣下に『越冬隊』プロジェクトの全権を委任された特使です。支援要請を受諾してくださったアルファⅡモナルキア様に全都市の代表として……ご挨拶に参上しました」
それを聞いて、兵士たちはひたすら困惑した。
最高戦力。特使。全都市の代表。大仰な言葉の連続だ。
せめて、まともに立ってさえいるならば。
叩き落とされた羽虫のようにぺしゃりと地面にへばりついたまま粛々と語るその姿には、どの単語も、全く似つかわしくなかった。




