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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2ー6 その1 果てなき森と赤土の荒野

 無限に連なる反復記号、狂気の切れ端に触れた作曲家の描いたグラフ、黒い音符の非現実的な連なり。 暗い森の迷宮は合せ鏡に映じた飾るべき絵画を失った画廊に似て詰まるところ有り得べからざる無価値な連符であり透明な壁面の連鎖であり静かな奇想曲は無作為に立ち並ぶ数百数千の木々の狭間を擦り抜けなだらかな地形をなぞり穏やかな風鳴りとなって戯れとばかりにライトブラウンの髪を撫でる……。

 

 森の中で、悪性変異体、黙契の獣(ビースト)を見た。

 アルファⅡは反応しなかったが、リーンズィはびくりと震えた。

 ミラーズを庇うように抱きしめて、翠玉の色に回帰した両の眼を瞬かせる。

 かんばせに緊張をみなぎらせ、息を止めた。

 すぐに脱力した。


『視界に捉えた悪性変異体を、症例2号<月の光に吠える者>と判定しました』


「先に報告してくれれば良かった」


『不活性化していることが明白だったため、判定を優先しました』


 汗を拭おうとして、ミラーズを抱いていることを思い出す。そして、もはや汗など永久にかくことはないのだということも。

 何とはなしに、金色の髪を蓄えた少女の頭を持ち上げて、己の額へすり寄せる。

 甘い花の香りで満たし、肺腑を落ち着かせた。

 ユイシスが警告音を発しそうな気配があったので、すぐにやめた。


『……当機の感覚取得のエラーの可能性はありますが、今不埒なことをしていませんでしか?』


「エラーだろう」


『二度目のエラーはありません。ご了承ください』


「ご了承した」


『ミラーズ警察はいつでも貴官を見ています、ご注意を。肉体が少女同士であろうとも、相手が貴官であろうとも、あらゆる邪悪からミラーズを保護します。さらに提言。後ほど、嗅覚情報をライブラリに回しますので、情報共有を密にするよう要請します』


「えっ……ご了承しない」


『何故断るのですか?』


「さすがに匂いの共有は変態っぽいのでは……?」


『行動を実行に移した貴官がそれを言いますか? なるほど、冗談ですか。なるほどなるほど。ユーモアレベルの評価を再修正します。まぁ、貴官の許可なんて無くても嗅覚情報は取得できるので、当機としてはちっとも困らないのですが』


「知っている、だからこそ君に警告している。無断でそれをするのは、ちょっと変態っぽいのではないか……」


『当機とミラーズの間に壁など無いので問題ありませんよ。いいえ、いいえ? なるほど、変態っぽいのは事実かもしれませんね。ミラーズも変態っぽい人は嫌だと言っていた気がしますし。好感度を稼ぐためにもここは露骨に許可を取らないでおくべきですね』


 そういう問題ではない気がしたがリーンズィは敢えて言葉にしない。

 指摘されたとおり、悪性変異体は行動を停止していた。

 皮膚組織は不朽の暗色に変じつつある。

 <月の光に吠える者>は悪性変異体としては最も一般的な形態だ。

 常ならば目に見える全てを引き裂き、脳内麻薬の一切が尽き果てるまでどこまでも走り続ける。


 逆に言えば、排除すべき敵を五感で捕らえられなくなれば、自然と行動を停止する。

 だが、その個体は自然に沈静化したわけでは無かった。

 誰かがここか、あるいは別の場所でそれを成したようだった。

 全身を木組みの檻で固定されているのがその証拠だ。

 無論、檻で悪性変異体を拘束することなど出来ない。

 黙契の獣などと呼ばれているが、その異形すらも実際には仮初めの姿に過ぎない。

 危機が去れば、悪性変異体は極めて緩慢な速度で、安定化のための変異を進める。

 檻は、言うなればその変異の方向性を定めるための柱である。

 遠くない未来、この狼に似た悪性変異体は、全身の細胞が変質を来たし、木の檻に沿って増殖を始め、やがては永久に安定化した、鎮静の塔へと変わるだろう。


 監視機械のリアクションは継続して淡泊だ。悪性変異体、黙契の獣、様々な忌名で呼ばれる怪物すら、無害な障害物と認識しているらしく、黙々とそれらの傍らを擦り抜けて後退していく。

 アルファⅡたちが接近しても、やはり獣は反応を示さなかった。

 最初から無関心を通していたアルファⅡ本体は、しかしただひととき歩みを止め、ヘルメットの黒い鏡面のバイザーで悪性変異体を見た。

 リーンズィはその視覚に同調した。己の両目で捉えようとすると反射的にオーバードライブを発動させそうになった。それはリーンズィではなく、ヴァローナという名の少女の肉体に染みついた恐怖の記憶による生理反応だった。


 まさしく異形である。人狼としか言いようがないねじくれた肉体、その長い上腕を雪面に垂らし、しかし鋸刃の指先は何に触れることも許されない。

 人間の面影を僅かばかり残す面相、狼のような外骨格に取り込まれた、人間だった頃の骨格に、知的活動の光は無い。

 そこには苦痛も、怒りも、恐怖も、困惑も無い。

 ただ空虚だった。呆然と、暗澹たる木漏れ日の空、光零れる虚無の空漠を見上げている。

 名も知らぬ救世主の到来を待つ敬虔なる信徒のように。


 そうした風景はいくらか進む度に現われた。

 二度、三度と<月の光に吠える者>を見かけた頃には、リーンズィも全く動揺しなくなっていた。

 ただ気になったのは、獣が現われるごとに森の空気感が希薄になる感触があったことだ。

 鎮静の塔へと変じつつある彼らを境にして、連続するはずの無い無数の時代、無数の土地が、偽りのテクスチャで無理矢理に接合されているような違和感が生じた。


『あるいは、森そのものが彼らが「再生」する過程で増幅された偽りの土地なのかもしれません』とユイシスが所見を述べた。『上陸する際に観測した、海岸の環境閉鎖鎮静塔の記録を想起してください。塔によって情報改編された空間が確認されたはずです。同様の事象がこの森林地帯でも生じている可能性があります』


 正確な現在地は分からない。

 目指す方位への確信も無い。

 それでも引き返す気にならないのは、帰る道すら分からないという実状もあるが、監視機械の歩みにあまりにも迷いが無いからだ。

 己らの感覚は信じられなくとも、監視機械の足取りには奇妙な確かさがあった。


「機械よ、機械よ、どこへ行く。私たちの狂気が分かって恐ろしいか……」と冗談めかして問うと、監視機械は無線通信で「理解しません」と答えた。


「え?」


『おや』


「質問を入力してください」


 リーンズィはびっくりしてしまった。 


「会話が出来るのか?」


「理解しません」


「自動音声か……」


「あなたは、理解しません」


「何を言ってるんだ?」


「理解しません。これは自動音声です」


 リーンズィは首を傾げ、追究をやめた。そう言えば通信できるかどうかは一度も試していなかった。もっと早くその可能性に行き着くべきだったなと嘆息する。

 

 やがて監視機械がアームを伸ばした。

 何も掴めずに空を切る。

 監視機械は機体全体を盛んに動かして、円筒頭の設けられた単眼を向けて、あちこちを走査していた。

 新しい道、足場に出来る木を探しているようだった。

 枝を掴み損ねては、姿勢を変え、導き手を失った盲目の修道者のように、呆然とアームを空中に彷徨わせている。

 事実、彼の進行を助ける存在は、その先に何も存在していない。

 そこから先には木が存在していない。

 人の手が加えられた痕跡。

 一定のラインから先にある木は、全て根元から切り倒されていた。

 大半は枝葉をつけたまま、放置されているが、木材として加工が進められているものも散見される。

 文字通りの『伐採』が進められていた。


 ただし、その広大な伐採の景色は、ある地点で唐突に遮断され、黒々とした手つかずの森へと、再び接続している。

 突拍子も無い幻のような空白地帯。

 柔らかな陽光を翳らせるものはなく、雪花の死化粧もあちこちで剥げて、枯死した土を晒している。

 僅かに溶け残った積雪も無遠慮な日光の下で形を失いつつあり、淡く立ち上る水蒸気が微風にそよぐ斜幕となって、生命の抉り取られた断層を、慎み深く朧気に揺らしていた。

 その帯状の空間が百メートル程も続いている。


 アルファⅡの黒い鏡像の世界で、監視機械はついに試行を断念した。

 擬装用に張られた獣の皮を撓ませながら、異形の機械は多脚を複雑に連動させながら、鈍間な速度で戻ってきた。

 砲身はこちらを捉えたままだ。


 リーンズィは胸に抱いていた金髪の少女の衣服の、最下段の留め金を外した。

 自由になった両足を下に、体をそっと降ろしてそろりと地面に着けた。

 金髪の少女は瞑目したまま雪の大地に二本の脚で降り立った。

 呼吸するたびに衣服の張り付いた胸が上下しなければ、聖なる者に連なる命無き聖母の彫像に見える。

 リーンズィが斧槍を取り外し、旗を広げているうちに、ミラーズは目を開いた。

 たましいのない翠玉の瞳を監視機械に向けて、目にもとまらない速度で鞘から折れた刀を抜き放って構えた。

 アルファⅡは既に左腕のガントレットを盾に、ナイフを強く握り、既に格闘戦の構えを見せている。


「こちらから攻撃はしない」


 凜然とした少女の声が、リーンズィの意思の声が、虚ろに響く。


「どこの誰だか知らないが、君も攻撃はするな……」


 斧槍を差し向けて、調停防疫局の、剣に絡みつく二匹の蛇の旗を掲げる。

 攻撃的態度と見做されるか、降伏と見做されるかの曖昧な境界線。

 ……監視機械は、アルファⅡの前で進行を止めた。

 神話にも現われない怪物、あるいは神話に現われる天使のような異形を軋ませて、木々の上から単眼でリーンズィたちを見下ろした。

 そして一言、「終点です」と言った。


「終点?」


 リーンズィが怪訝そうに問い返す。

 脳裏で『笑顔です。こういう場面では、愛想を良くした方が有利ですよ』とユイシスが進言してきたので、挑発するような、余裕満面の微笑を作った。

 呆れたような声が聴覚を刺激する。『良い笑顔です。ただ、愛想は良くないと評価します』


「やぁ、機械くん。終点とは、いったいどういう意味かな?」とヴァローナの人工脳髄を参照して声音を作る。「分かるように言わないと、私たちには分からないよ」


『愛想が良くないですが、改善する気が無いのですか?』


「おかしいな、これは愛想が良いモードではないのか? ヴァローナ由来なのだが」


「音声入力を確認……フリアエ?」


 機械の単眼が瞬き、問うてきた。


 誰か囁いてくるのをリーンズィは聞いた。自分でも分からぬまま、問いに応える。「フリアエ……? ウラヌスの娘か……? そうか、いや、まさか、君の主人は、この森の先には……」


 リーンズィは己の歯が鳴る音を聞いた。

 そうして理解する。精神外科的心身適応では処置できない恐怖。

 切除不可能な根源的な感情


「まさか……まさか……誘い込まれていたのか? そういうことなのか? 最初から……」


「理解しない」単眼の監視機械が告げた。「あなたは理解しない。『エウメニデスの影を恐れたまえ。これは僕たちから調停防衛局への忠告です』」


「理解しない」リーンズィが復唱する。「……協定に従う符丁の入力を確認。私は理解しない」


『コマンド入力を確認。認識阻害プロトコル、特定条件下で自動適応します』


「何だ……? 今、私は、何を……? 協定? コマンド入力……?」


「あなたは理解しない」単眼の機械がまた同じ音声を発した。


 リーンズィは滑らかな白い喉を晒すようにして首を傾げる。


「……何の話だ? 全く分からないぞ」


『妖艶な動作ですね。しかし性的な挑発は無効ですよ』


「その指摘も今関係ないと思うが……性的だったか?」


「終点です」


 機械は取り合わず、無感情に繰り返した。


「だから、終点とは?」


「理解しません。本機は当該の鏡像分岐宇宙連続体に仮設置された誘導端末です。本機は質問を理解しません。再度アナウンスします。終点です。本機は、理解しません。あなたは、理解しません。終点です」


 無数のアームが四方へ伸びた。

 少女達が緊張して武器を構えるのを無視して、監視機械は適当な木々の枝を折り、葉を千切り、己の毛皮の裂け目へと飲み込んでいった。呑気な所作である。

 ユイシスの熱源解析が正しければ、内部に燃焼機関を備えているらしい。

 おそらくは単なる燃料の補充だった。

 監視機械はひと心地ついたような素振りで、全身からぷしゅーと生ぬるい蒸気を排出した。

 全身を震わせて発電を開始し、胴体部から黒煙を吐いて動かない。

 それだけだった。


「う」自動モードを解除されたミラーズが呻いた。「……あれ、いつのまにか武器持ってる。何かあったの? さっきの監視してるやつが襲ってきたの?」


「いや。終点だそうだ」


 発電を続けている監視機械を、つい、ついと斧槍の穂先で指す。


「ふうん」感心なさそうに返事をする。「何だかリラックスしてるみたいね。こうして見ると意外と可愛いかも」


「可愛いか?」


『可愛くは無いと思いますが』


「そうかしら。それで、終点って? 何が終わったの」


 ミラーズは刃を腰のホルスターに戻そうとして、失敗した。

 刃先が鞘に上手く入らない。何度か入れ損なって、リーンズィの視覚補助を受け、三度目でようやく収納に成功した。

 それからブーツで雪の腐葉土を踏み分け、切り倒された木々が打ち捨てられた土地を見渡して、息を飲む。


「綺麗に伐採されてるわね。どこかに仕事熱心な樵のひとでもいるのかしら? こんなご時世に感心なことです。祝福してあげないと」


「ユイシス、動体は存在しないか?」


 アルファⅡ本体のバイザーが世界を捉える。


『動体検知、熱源解析、音紋解析、電磁波解析、いずれも反応無し。いかなる存在の形跡も確認できません』


「見た感じだと、もうちょっと進めばまた森ね。何が終点なのかしら」


 ミラーズはひとしきり伐採地を見渡した後、うーんと喉を鳴らし、考えるのをやめた。

 そして両手を挙げて、つま先立ちになってリーンズィに密着し、何気ない様子で少女の首の後ろに手を回した。

 リーンズィは事情が飲み込めず、肉体に染みついた聖歌隊の記憶に従って、金髪の少女の腰を抱き、そっと接吻した。なるほど、聖歌隊では挨拶のようなもの、だったか、と内心で呟く。

 ミラーズはきょとんとした顔でそれを受け入れ、くすぐったそうに目を閉じて応じた。

 それから、息を整えて、繊美な顔に不思議そうな色を浮かべた長身の少女の唇に、そっと指を当てて、困ったように笑った。


「違いますよ、リーンズィ。今のは行進聖詠服の留め金を直したいから抱き上げてほしい、というサインです。あなたとユイシスとあたしの仲だし、分かるかなと思ったけど」


『当機は分かっていましたが敢えて忠告しませんでした』


「君に分かって私に分からないわけがないのだが……」


『分からないようにしていたのですよ。ロー・データ収集機会でしたので』


「二人とも、こういう機微を読み取れるようにならないとね。大主教リリウムの周りには信奉者が一杯いるし、レーゲントだってたぶん沢山いるわ。聖歌隊にそういう習慣があるのは本当だけど、あたし以外にもこんなことしてたら変な人だと思われちゃうわよ」 


 改めて抱き上げられながら、小さな肩を竦める。

 リーンズィが手早く留め金を閉めた。

 ミラーズが頬に口づけをした。


「ありがと、もういいわよ」と囁いて、雪の上に降りる。「基本はこの程度。深く口づけを交すのはもっと後の段階です。誰だってそうでしょう?」


 話をしている間に、監視機械が活動を再開した。

 後は知らぬ存ぜぬ、アルファⅡたちのことなど一度も見なかったというふうに、来たときと同じルートを辿って、微睡むような速度で、ゆっくり、ゆっくりと、元いた森の奥へと進んでいった。

 会話を密かに記録している可能性もあるが、少なくとも興味を示した様子は一瞬も見せなかった。

 やがて完全に見えなくなった。


「……あの子、あたしたちの話聞いてかしら?」


「何の興味も示さなかったように見えるが」


『これでは、森の途切れる場所まで案内してくれただけではありませんか。判断材料に乏しく、当機は今後について補助が出来ません。判断支援を要請』


「信じましょう」と歌うようにミラーズが言った。「信じることは、美しいことです」


「随分直観しているな」


「ええ聖歌隊の再誕者だったあたしとしては、出来ることは一つだけよ」


「つまり?」


「難しい判断はしないということ。あの魂無き者に、しかし善の心があったと信じます……疑うのはリーンズィとユイシスに丸投げするわね」ミラーズが降参するように両手を挙げた。「こういう駆け引き? みたいなのは良く分からないのよね。あたしには隣人を愛するのが手一杯だもの」


「分かった。信じるのは君に任せる」


「でもね、あたしの勘だと、これはただの森じゃない。共有記憶を見たけど、あなたたちの推測は正しいと思います。たぶん黙契の獣たちの原型風景とか、最後に見た者のリフレインだとか、そういうものよ。黙契の獣が沢山いたのよね? きっとこの森は、彼らが見ている永い夢。誰にも妨げられない安全地帯の記憶の再生。こういう合せ鏡みたいな景色には、何となく見覚えがあります。ただ単に引き返しても同じ迷宮に囚われるだけだと思うわ」


『では答えを授けるのは当機の任務ですね。報告します。気流の解析に異常を検知。前方の伐採地帯と新たな森林地帯の間に気流の断層を確認しました。おそらくあの面から先は別の時空間へと「接ぎ木(ドラフト)」されています』


「見た目上の異常はないが」


『ゲート、とでも呼べば良いのでしょうか。あの接続面から外に出た瞬間、違う景色が現われると予想します』


 ふむ、と少女が悩ましげに喉を鳴らす。「先ほどの機械は、『鏡像分岐宇連続体に仮設置された誘導端末』と言っていたか。どこかからやってきた親切な学者が用意した、無害なガイドビーコンという可能性も、あるにはあるが」


「よく分からないけど、そうでもなければあたしたちの誘導なんてしないと思うわよ? というわけで、あたしは改めてさっきの子を信じることにします」


「うん。信じよう」リーンズィはこっくりと頷いた。「どうせ騙されところで失う命も無いのだから。大主教リリウムはこの森を抜けた先にいるという話だったな。では、ゲートから出た途端に、合流する可能性もあるのか」


「どうかしら。森の向こう側に行ってみると言っていたのは、ずっとずっと前のことだもの。さすがにすぐそこ、ではないでしようね。でも、そっか。いきなり聖歌隊入りっていうのも、ありえなくもないです。さっきみたいに節操なくキスしたりしたら問題だから、ちょっとだけ講義をしておきましょう」


 ぱん、と小さく手を鳴らして、「注目してくださいね」と余所行きと分かる微笑で呼びかける。

 リーンズィが頷き、アバターを出現させたユイシスが「承諾しました」と返事をした。


「ええとね、誤解されていると思うけど、聖歌隊の接吻というのも、基本は軽く頬に口づけをする程度です。初対面や短期間過ごした程度であれば、努めて貞淑に振る舞うこと。もっと深く唇を重ねるようになるのはお互いに深く知り合いたいと思ってから。さらにそれ以上となったら、それなりの関係が前提になります」


「それなりの関係とは?」


「親しい間柄なら、って言ってもあなたたちには通じないのよね。えーっと……」首輪型人工脳髄のランプを点灯させ、翡翠色の瞳を瞬かせて記憶をロードする。「はっきりとした記憶があるわけじゃないけど、少なくともユイシスとリーンズィぐらいの関係なら、何かの機会があれば、深く知り合ってても変じゃなかった……はずです」


 ユイシスが嘲るような、抑えた笑い声を上げた。


『あはは。有り得ませんね。仲が悪い双子の姉妹ぐらい互いを嫌いあっているのが当機とアルファⅡです』


「えっ。仲、良くないの? とっても息の合ったパートナーだと思っていました」


「メイン・エージェントと支援AIは一心同体だ。互いを邪魔する余地が無いので、外観上、そう見えるだけかもしれない」リーンズィは小さく首を傾げた。「私には好悪の概念が薄いのでよく分からないが、ユイシスがそう言うのなら、そうなのだろうと思う」


「でも、あたしの気を惹くために愛し合うフリぐらいはしてたでしょ? そこに特別な意味がないとしても、振る舞いとしての愛を作る余地ぐらいはあったはずです。聖歌隊もそう。どちらかと言えばそういう行為は、感情では無く雰囲気で生まれるの。顔を合わせたら喧嘩するぐらい仲が悪い双子の姉妹でも、ごく当たり前のようにお互いを知っていたし、そのことを隠してもいなかったわ。この場合は、歳月が感情の善し悪しを補ったって言えば良いのかしら」


 ユイシスの姿が掻き消えて、鏡像のようにミラーズの前に素足になったアバターがふわりと降り立った。目を覗き込むようにして近付いてくる己自身の鏡像に、親愛の笑みでミラーズが応える。

 二人の少女は互いに抱き合い、金糸のごとき乱れ髪に指を梳かし、お互いの翠の瞳の奥まで見透かすようにしてたっぷりと見つめ合い、抱擁し合い、やがて花開く直前の花弁のような唇を合わせた。


「何故、今? 必要か?」リーンズィが真顔で尋ねた。


「……ん。実演です、実演。ちょっと、昔を思い出して切ない気持ちになっただけ。ミラーズ、大丈夫です」アバターから身を離しながら口元を拭う。「あたしとユイシスみたいに、感情が深く結びついていれば、出会って数時間でももっと先へ進むこともあるの。こんなふうにね。だけど、時間さえあれば、誰でも他のレーゲントを多かれ少なかれ知ることになります」


「理由が分からない。教義のためか?」


「ああ、『汝の敵をこそ愛せ、愛する者はさらに愛せ』みたいなやつ? そういうカルトだからって言う面も否めないけど。でも、本当はもっと現実的な話。再生の祝福を授かった人間は子供を作れなくなる……二人には言わなくても分かるわよね」


「不死病患者の生殖能力が不活性化することは知っている」


「癒やしの聖句でも扱えるなら別なんだけどね。これは実際に生きていないと分からないけど、長いあいだ再誕者として過ごすと、あるとき性愛の価値が真の意味で大したことなくなったことに気付くのよ。残るのは親愛ぐらいなもの。そしていつしか、大切な人と同じ映画を見るのも、同じ歌を歌うのも、同じ肌を重ねるのも、どれも時間を積み上げるという点で何も変わらなくなる。これは再誕者になって時間が経つほど傾向として強くなっていきます」


「つまり、性交に特有の価値がなくなる?」


「あのね、そこまで直裁に言うとさすがに侮辱になりますよ、リーンズィ。そういう単語は軽率に使わないのがスヴィトスラーフ聖歌隊の流儀です。ああ、でも懐かしいかも。ヴァローナ、その肉体の本当の持ち主と、全然面識は無いのよね? あの子も結構似たようなこと言ってた気がする。……話を戻すわね。聖歌隊はそういうこと普通にする集団よ」ミラーズは幼い美貌に翳りを見せた。「だけど時と場合が、さらに本当に大事になるというのは、押さえておいてね。依存し合ってる子も多いから、そんなところに無神経に割って入ったら、蹴ったり殴ったりは無くても、それなりの事態にはなります。命の危険が無くたって、ピンチのとき助けてくれないぐらいの破綻はある。表面上は仲良くしてくれてもね。昨日まで睦言を交し合っていたのに、そういう感じでいざって言うときに拗れてしまうのを何度も見ました。ここまでは分かりますか?」


 リーンズィは押し黙って、「分かるが、分からない」と生返事をした。


『煮え切らない回答ですね』


「煮え切らないだろう。えっと、つまり、本質的な態度を言語化することはあまりないが、事象の裏側で相当に関係が拗れている場合がままあるということだろう……? それは……聖歌隊というのは、組織としてかなり難しいのではないか?」


「うーん……聖歌隊を厳密な組織として捉えようとするのがまず間違い、かしらね」


「どういうことだ、スヴィトスラーフ聖歌隊は、正教会系の組織では無いのか? 全ての関係者から絶縁されていたとは聞いたが。そちらのルールがある程度残っているのでは……」


「それも誤解ね。正教会との関係性を指摘されたことはあるけど、宗教団体であるとすら言ってなかった……と思うわ。神の言葉を人に伝えるための集団じゃなくて、神の御国を実現するために行動する集団だから、これはもう宗教を超越している、みたいなうたい文句で……」


「カルト宗教では?」


『カルト宗教ですよ』


「あ、あのね、カルト、カルトって言われるのも結構つらいから、あんまり連呼しないでね。全部は信じてなかったけど、少しは信じてたし……。とにかく同じように世界から疎まれて、同じように破滅して、同じように聖歌隊に取り込まれた。そんな寂しい女の子が、教義と聖父スヴィストーリヤ、そして七人の大主教に従って、何となく同じ方向に進んでただけなのよ。かなり難しいって言うか、調停防疫局とか、なんだっけ、人類文化……あの大鎧の再誕者たちの組織みたいに、秩序だって無いのです。幹部以外はプシュケも与えられていないんだから、外からは数十万、数百万の軍勢に見えても、実体としての構成員はそんなに数がいなかったわけ」


「数十万や数百万の軍勢……? 私の記憶だとそんなはずは……」リーンズィは首を振った。「まぁ、いい。しかし待ってほしい。それでは、スヴィトスラーフ聖歌隊というのは、単なるスチーム・ヘッドのサークルのようなものだということになってしまうが」


「限界まで卑俗に落として説明すると、答えは『そう』なんでしょうね。その、カルト的教義を信じるか支持するか、どの大主教に従うか……組織らしい部分ってそれぐらいじゃないかしら? ちなみにあたしは聖父スヴィトスラーフへの愛と我が子たちへの愛、そして世界への八つ当たりが行動指針でした」


『論点を整理します。スヴィトスラーフ聖歌隊が血のカルト、退廃した組織だという安易な理解には、修正が必要のようですね』


「外の人が一生に一人と決めた人にする口吻も、あたしたちにとってはちょっと丁寧な挨拶みたいなもの。淫らなカルトだって言われてたのもあたしは知ってるし、説法の通じない時はそっちで信者を引っ張ってたのも事実だから、否定はしません。でもそんな集団でも、人間関係はちゃんと存在するんだって言うのは覚えておいた方が良いわね」


「む、難しすぎる……上手くやれる気がしない」


「そのうち慣れるから、大丈夫です。みんなそうでした。あ、でも、リーンズィは定命者として生きていた頃は、男性だったのでしたか? アルファⅡは男の人ですものね。抵抗感の根源にはそれもあるのでしょうか、スヴィトスラーフ聖歌隊は聖父様以外みんな女性ですし……」


「いいや、男性だったというわけでもない。この肉体を使用するようになってからは、昔から女性だったような気がしている」


「あれ? そうなの?」


『アルファⅡモナルキアは万能機です。人格の自己認識は性別に対しても完全にアジャストされます。生前の性別という概念は、根本的に存在しません。不適切な記憶は切除され、習慣は抹消され、思想や信条までも漂白されます。性自認まで、含めて当機が万全に調整しています』


「……? 分からないけど、存じました。どちらにせよ、大主教『清廉なる導き手』をやってるリリウムは、聖歌隊でもとびきり寛容な子です。エコーヘッドになったあたしのことも、壊れてしまったヴァローナも、ちゃんと取りなしてくれるはず。何も心配は要りませんからね」


「リリウムという大主教は信頼が篤いのだな」


「あたしも伊達に『マザー』ではない、ということよ。彼女も私の娘なのです、性格はよく知っているわ。それに、あなたたちアルファⅡはレーゲントじゃなくて使徒とか勇士とか……あ、これは聖歌隊の戦闘用スチーム・ヘッドのことね、とにかくレーゲントじゃない枠での入隊になるので、そんなに、規範意識とか気にしなくて良いから」


「ふーむ、とにかく難しそうだな。だが、合流してみないことには分からないということも分かった」


 リーンズィは青みがかった目を細めて、腕を組み、頬杖を突き、深く深く溜息を吐いた。


「このまま足を止めていても仕方ない。境界面を通過してみよ統合支援UYSYSより通達。エージェント・アルファⅡの操作により、認知機能がロックされました。エマージェンシーモードが強制停止されました。コンバットモードが強制停止されました。オーバードライブが強制停止されました。オーバーライド、スタンバイ。戦闘プログラム、レディ。非常時発電が強制停止されました。循環器転用式強制冷却装置が強制停止されました。機関内部無尽焼却炉、閉鎖中。緊急排熱実行中。炉内圧力を減圧中。エルピス・コア、オンライン。世界生命終局時計管制装置、スタンバイ。アポカリプス・モード、スタンバイ。アポカリプスモード、レベル3までの制限を解除済です。特定条件下に置かれた場合、全自動報復管制を起動します。視覚ログを削除しました。思考ログを限定的に削除しました。これらの機能制限および全自動報復形態への移行準備は、当該領域通過するまで継続されます。繰り返します。支援UYSYSより通達。エージェント・アルファⅡの操作により、認知機能がロックされました。エマージェンシーモードが強制停止されました。コンバットモードが強制停止されました。オーバードライブが強制停止されました……



 両手に刀を構えたミラーズがオーバードライブで加速した勢いのままオーバードライブで加速で勢いのまま加速したオーバードライブで加速オーバードライブ、認知機能がロックされました。ログを削除します。オーバードライブは、起動していません。戦闘行為は、発生していません。


 両手に刀を持ったミラーズはバランスを崩し、その勢いのまま、晒した白い脚をもつれさせて転げた。

 緊急回避のために刀を投げ飛ばし、「あれっ、なんで、あたし武器を……」と不可思議そうに呟きながら、地面に掘られた穴へ頭から突っ込んだ。


「きゃあああ?! わぷっ?!」


「気をつけてほしい、そこら中、穴だらけだ」


 リーンズィは吐き気と思しき感覚に悩まされながら、斧槍を納め、ミラーズを助けに向かった。

 私は理解しない。

 私は理解しない。

 私は理解しない……。

 装甲された腕でしかとミラーズの手を掴み、穴にはまってしまった小柄な肉体を引き上げた。


「あ、ありがと。びっくりしたわ。あたし、どうしたのかしら。いつのまに……あれっ、聖詠服の下のところも、また開いちゃってる。ああもう、土が変なところに……あんまり見ないでね」


 ライトブラウンの髪の少女の首に手を回し、抱き上げてもらいながら、恥ずかしそうに留め金を戻した。

 そして自分が全力疾走した直後のように息を荒げていることに気付き、何度か深呼吸して、乱れた髪を整えた。


「帽子……あたしの帽子を知らない?」


「途中で拾ってきた。のだと思う」


「ありがと。途中ってどこ?」


 金髪の少女の頭にベレー帽に乗せて、丁寧な手つきで爪先を地面に降ろす。


「……いつ走り出したんだっけ。全然記憶に無いわ。というか、どうして走っていたの? 首輪の電池も減ってるし……」


『認知機能をロックしています』ユイシスが応えた。淡々としたアナウンスに感情は無い。『エラー。記憶の参照は、許可されていません』


「どういうこと? どうしたのですか、私の可愛いユイシス?」


『エラー。認知機能をロックしています』


「ユイシス? ユイシス……? ねぇ、どうしたの?」


「気にしなくて良いと言うことだ」背の高い少女は身を屈ませて、己のライトブラウンの髪をかき上げながら、ミラーズに軽く口づけをした。「大丈夫。君を不安にさせるものは何も無い。そんなことよりも、周囲に気をつけた方が良い」


「そう、そうね。こんなにデコボコな地形なんだもの……」


 ミラーズは刀を拾って、ホルダーに戻そうとしたが、ついに出来なかった。

 迷子のような声でユイシスの名前を呼んだが、応答が無い。

 アルファⅡ本体は二人を無視して進み続ける。いつから? リーンズィには思い出せない。

 そしてアルファⅡモナルキア由来の機能が全く使えないことに気付いた。

 視覚の同期さえ不可能だ。ミラーズは納刀について結局リーンズィの手を借りることになった。


「何が起きてるの? 何? 何なのこれは……」


「理解しない」リーンズィは呟いた。「私は理解しない……」


 前方を、棺のような重外燃機関から不完全燃焼の血煙を吐くヘルメット兵士が歩いていく。

 世界は赤茶けて色褪せ、太陽はまさに地平線に没そうとしている。

 得体の知れぬ神威の死と殺戮が吹き荒れた後であるかのごとき、凄惨な、そして何も無い風景。

 墓場であった。

 厳冬に凍り付いた弱々しい太陽、その夕焼けの血を徴として与えられた、数え切れない木組みの十字架。墓穴が掘られている。工場生産されたかのような簡素な木組みの十字架が、掘り起こした後の盛り土に例外なく突き刺され、腐ってバラバラになったものが散見された。

 そのような墓だけが、ただある。

 見渡す限りに、墓穴と十字架が立ち並ぶ。

 花畑の如く。

 色褪せた赤土の荒野、その全てを埋め尽くさんばかりに。


 何者も埋まっていない墓が、正確な測量が行われたことを暗示する等間隔、同じ深さ、同じ大きさの墓穴が、地の果てまで、視界が霞む遠さにまで、数百、数千、数万の単位で用意されている。無言にして静謐、永久の安寧。

 存在しない死者の幸福だけを祈念する公園墓地じみている。

 他方で、ある一面には(エラー。エージェント・アルファⅡの操作により、貴官の認知機能はロックされています)が聳え立って雲を貫いていた

 ……リーンズィは眩暈を覚えた。今、自分は何を考えていたのだろう?

 左側の方向を見た瞬間に何かノイズが走った記録がある。

 リーンズィは疑問に感じ、左側を

(エラー。認知機能をロックしました)

 リーンズィは前方を見た。

 無人の墓だけが存在する世界を、血煙を吐く機械の兵士が歩いて行く。

 単なる墓場というよりは、虐殺の地平線と言った方が適切な、酷く血生臭い光景であった。


 アルファⅡの黒い鏡像の世界に、しかし埋まった墓穴は無い。どれだけ進んでも一つも無い。埋葬されるべき死者がいない。幾つかの場所に、時間から投げかけられた影のように茫洋とした不死病患者が直立していたが、その生命は当然継続しており、葬儀が行われた様子も無かった。

 ただ、その風景の片隅に存在する(エラー。認知機能がロックされています)だけがどうしようもなく不吉だ。

 だが、何が不吉なのか、リーンズィには正確に理解できない。


「私は理解しない、私は理解しない……」


 何も理解しない。

 疑念が湧き上がっては消えていく。

 リーンズィはやがて考えることそれ自体を己に禁じた。


 そして黙々と歩き続けるアルファⅡの大きな背を追いながら、ミラーズに問いかけた。


「この墓は、スヴィトスラーフ聖歌隊の風習だろうか?」


「不死の恩寵を受けた人々に墓など必要ありません。こんなふうにお墓を掘る人は、聖歌隊にはいないわ……」


 背後を振り返る。

 そこには森があった。

 木の一本、枝の一本も間引かれていない冬の原生林。

 境界面と目された箇所を通った途端、何の予徴も無く世界は塗り替えられた。

 そういうことなのだろうが。


「急にこんなふうになるなんておかしいわよね。ねぇリーンズィ、目を見せて?」


 言われて、長身を屈めてリーンズィがミラーズと視線を合わせる。


「ん、緑色がちょっと赤みがかったぐらいね。じゃあこの荒野は御遣いとは関係なくて、森の方が影響が強かったのかしら。あっ、もうあたしの目の色が移っちゃった。……ありがと、良いですよ」


 薄い唇へ接吻をして、小さな手でリーンズィの肩を叩いた。


「そうだ、森の中でユイシスとも協議していた。この肉体の眼球には、何か特殊な機能があるのか? 森の中では何度も色が変わっていたようだが」


「体質っていうのかしら。それはね、<見通す者の恩寵>って言うの。特別と言えば特別です。ヴァローナの瞳は、見ている景色によって色が変わるのよ」


『推測。光を反射しているだけでは?』


 突如響いた普段通りのユイシスの声に、ミラーズが安心した表情を見せた。


「違いますよ、ユイシス。景色の色だけじゃなくて、時間や空間の変化も映すみたいなのです。普段はあたしより薄い緑色だったと思うけど、今はこんなに天地(あめつち)が赤いから、瞳の色が濃くなってた。あたしが覗き込んだせいで、もうあたしと同じ色になってしまったけど。それで変わる程度なら、その程度の力場しか存在していないということね」


「そんな症例は聞いたことがない」


「再誕者になってから無理をして、視力が不安定になったことがあるみたいなの。それで、視覚を安定化させるための適応って言うのかしら、それがリリウムが聖句を使って起こしたのね。私たちは『祝福を与える』と言っていましたが、その結果そうなったと聞いているわ。御遣いの奇蹟には特に敏感に反応したから、特に選ばれし者の力なのでしょうってリリウムは誉めてたわね。シィーの言っていた御遣い、えっと、<時の欠片に触れた者>だっけ? たぶん、そういう大きな存在が通った後には、色が凄く変化するはずね」


「興味深い。しかし、それではこの異様な光景は、悪性変異体と関係ないと?」


「全然関係ないわけじゃ、ないのでしょう。でも、黙契の獣が掘ったお墓じゃないというのは、はっきりしてると思う。獣もそうだけど、そんな御遣いがいるなんて聞いたこともないし」


「そうか……」そして視線を背ける。「駄目だ、あれをどうしても意識してしまう」


 リーンズィは沈黙しながら、(エラー。認知機能がロックされています)を見た。


「どうしたの? とても不安そうな顔をしていますよ」


「理解できない。ミラーズ、何か見えるか? この光景の左側のあたりに何か?」


「お墓以外だと、大きな岩? 山かしら? とても大きな塔……? 何かは、あるけど、あたしには良く分からないわね。……どうかしたのですか?」少女の儚いかんばせが、憐れみの色に染まる。「気を確かにもって。酷い汗ですよ。どうかしたのですか、我が子リーンズィ。何が、あなたをそのように恐れさせるのですか。大丈夫、安心して、私があなたについていますよ」眦を下げ、そっとリーンズィの手甲を握り、その表面を優しく撫でた。「もしかして、大きなものが怖いのですか? 私がそちらの方に立って、遮って歩いてあげましょうか。あなたを怖がらせるものから、あなたを遠ざけるために。いいえ、いいえ、あなたのほうが背が互いので、あまり意味はないですね……ではこうしましょう。私を抱き上げて、目隠しにしても構いませんよ。私はずっとあなたを怖がらせる者を見張っています。あなたを最後まで守ります」


「大丈夫だ、ミラーズ。問題ない。感謝する」


「……本当に顔色が良くないわよ、リーンズィ。あたしに出来ることがあるなら何でも言ってね。誰かを助けることがあたしの喜びなんだから、遠慮しないで。淫売だとか、偽聖職者だなんて笑われても、この心だけは本物のつもりだから、疑わないでくださいね」


「重ねて感謝する。君を疑うなどあるはずがない。ユイシスが愛するように、私も君を愛している」


「急にそんなこと言い出すなんて、ますます変ね。……今生はユイシスに捧げるって決めたから、あなたの愛には応えられませんよ」


「ああ、どのみち、それどころではないようだ。見えるか? どうやら、どうやらここには……、そうだ、思い出した、あの監視機械だ、そうだ、あの監視機械がいっていた。彼女は……(エラー。認知機能をロックしました)……何だったか。そうだ、ここには墓守がいるようだ」


 私は理解しない。

 私は理解しない。

 私は理解しない。

 リーンズィは唱え続ける。生命管制が血流と脳内物質を操作し、神経活性を調整して、少女の青ざめた顔を平静に戻した。そのように振る舞う必要がある。

 ミラーズは理解していない。真実、理解していないのだ。

 だから自分の認識で引き摺ってはならないのだと思考を反芻する。


 問題は幾つかある。自分が何を理解しないようになっているのか、確信が持てないことだ。

 行動のログから、左側を意識するとノイズが生じるよう処理されているのは推測できる。

 だが(エラー。認知機能をロックしました)リーンズィは全てを忘れた。

 何なのだ、という困惑と、サイコ・サージカル・アジャストが及ばない領域に残された、言い知れぬ不安感、そして意味不明な行動のログばかりが積み上がる。

 ミラーズは無邪気にきょろきょろと辺りを見渡すばかりで、リーンズィの異常には気付いていないようだった。


「墓守様? どこにいるのですか?」


「……あそこだ」


 大鴉の少女が指差した先に、一つの動く影があった。

 夕焼けの空へと透明な蒸気が薄らと伸びている。


「再誕者……スチーム・ヘッド……?」


 墓地の終わり。

 まっさらな赤土にスコップを突き刺し、土を掘って、また突き刺しているのが見える。

 耳を澄ませば、小さなエンジンの音が、風に乗って聞こえてくる。

 それは、ずっと前からこちらの存在に気付いていたようだった。

 指差すのと殆ど時と同じくして、視線がこちらに向いたのを感じた。

 言語化不可能な恐怖にリーンズィの少女の肉体が震える。


 言語化不可能? 本当に? 


 リーンズィは戦慄く口元を隠すために装甲された手で顔を覆った。

 不明な目標なら、ユイシスが即座にポイントしているはずだ。

 だが、今回はそれすらない。

 ユイシスと自分は不可分の存在。ならば、自分はあの存在を知っているのだ。

 現状とは矛盾している。自分は目標を理解しているのに、理解できていないのだ。

 つまり、正体を理解した瞬間に、思考が霧散しているのではないか?

 ……ここまでは思考可能だ。リーンズィは掌の中でログを辿る。

 これ以上を思考すると、ここまでの思考も消去される。

 理解しないのが正しい挙動だ。そう確認する。


「リーンズィ? リーンズィ? 大丈夫? 本当にあの山が怖いの? あたしが視界を遮ろうか?」


「大丈夫だ。大丈夫だ。少し……少し、時間がほしい」


 そのスチーム・ヘッドは、二人が足を止めたのを見て、穴を掘る作業をやめた。

 猪武者のような足取りで前進を続けるアルファⅡと、言葉を交し合う二人の少女を交互に見遣り、最後には少女の姿をした二人の不死病患者にだけに意識を注ぐと決めたらしい。


 軽い身のこなしで墓穴の淵から這い上がった。

 そして、友人にでも合図をするような気軽さで、ゆっくりと手を振り始めた。


「良かった。あの墓守様、歓迎してくれるみたいね。何かこの場所についても知ってるかもしれないわ。もしかすると、リーンズィが休めるスペースも貸してくれるかも。早く行きましょう?」


「ああ、ああ。しかし、私は……私は理解しない……私は理解しない……」


 あの影に見覚えがある……。

 私は理解しない。

 私は理解しない。

 ただ名前が思い浮かぶ……。


 フリアエ。

『都市焼却機』フリアエ……。



 理解しない。

 その名前の示すところを、私は理解しない。

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