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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-5 森の中で

 既に十時間以上を移動に費やしていた。

 景色は変わらない。幾度となく繰り返された昼夜の反転は終息し、また長い長い太陽の時間帯がやってきた。

 ガラス玉のような無機質な冷たい太陽の下、無限に再配置された果てしのない森は、静止した波濤と化して眼前を埋め尽くし、ざぶりざぶりと打ち寄せて、総身に圧力を掛けてくる。

 見飽きた寒色の空と見飽きた絞首台じみた黒い木と見飽きた腐れた朽葉の土。

 饐えた空気は焦らすように服の上から肌をなぞって四肢に纏わり付く。


 そして、花の香りに誘われた獣たち。

 獣の多くは枯れ草の平原から切り離されて血と肉と毛皮と四本の脚を与えられたといった風体のどこか懐かしい姿をしたオオカミの群れで、冬毛を蓄えているのか無闇にふわふわとしていた。飢えているわけでもないらしく、ただ距離を保ってこちらを観察していた。

 オオカミたちの目に反射するのは、少女と兵士だ。

 まったく奇妙な一団である。襲撃された教会で悲惨な運命を迎えてそれでも死ねなかった年若い修道女と、一緒に逃げ出す羽目になった鈍間な兵士、さもなければ壊滅した劇団員の生き残りたち。いずれにせよ巨大な滅亡の渦に飲まれた、取るに足らない藁束であり、その航路は星の無い海を渡ろうとする船のように不確かだった。


 先頭を進む、棺のような大型外燃機から細く水蒸気の煙を上げるヘルメットの兵士が、そうすることだけを命じられた機械であるかのように、不朽結晶のナイフを振るい、進路上にある邪魔な枝、あるいは木をひたすら打ち払う。

 その足跡をリーンズィとミラーズの、揃いの意匠の頑丈なブーツが辿る。

 足場が酷く悪いせいもあるが、あまりにも遅々とした進行だった。

 病死した疫病患者の黒い血管が張り巡らされた肌のような赤黒い腐葉土の緩やかな凹凸を、足先で殊更慎重に確かめる。

 リーンズィは右手をミラーズに差し伸べており、左手にはヴァローナの使っていた斧槍を掲げている。

 上部には調停防疫局の赤い旗を括り付けていた。

 いかにも粗末な作りの、しかしこの世界でおそらく何よりも高価な軍旗。

 木々の合間を擦り抜ける氷の風に吹き流されて頼りなくはためく。


 ミラーズが倒木に脚を引っかけた。

 歩調を合わせて歩いていたリーンズィが、素早く片手を腰に手を回して体を支える。


「……あれ、あたし、また転んだ……?」


 一時的に覚醒したミラーズが、幼子のようなぼんやりとした舌遣いで、素っ気なく言葉を紡ぐ。


「ありがと……」


 金髪の少女の顔色は、木陰が陽光を遮っているのを差し引いても悪い。

 追跡してくるオオカミの群れを見ながら、心底不愉快そうに形の良い細い眉を顰めた。

 あまりにも単調な行路が続くせいで、疑似人格再現の演算精度を落とし、さらに肉体の代謝を抑えている。陶磁器めいた肌はいっそう白くなり、翡翠を填め込んだような瞳は、ますます生気を失って、宝石らしさを増している。

 ただし、助けられたときには五回に一回だけお礼を言うと決めているらしい。


「まだ着いてくるのね……」


「彼らのテリトリーなのだろう。野生生物は我々の都合など知らない」


「ねぇリーンズィ、この森まだ終わらないの?」


「その質問は八十七回目だ。つらいのならば、いっそ、全自動モードに切り替えても良い」


 リーンズィ、ライトブラウンの髪の少女を筐体とするそのスチーム・ヘッドは、刻むような発音で明瞭に応える。

 憂鬱と快活の同居する眉目には、光が無く、熱も無い。

 つまりアルファⅡと遭遇した廃村から、何ら変わるところの無い顔をしていた。

 鴉面を着けていないのは、視界確保のためだ。

 こうも鬱蒼とした森だと、視野は出来るだけ広く維持したほうが有利だ。


「その、自動モード? だと、どうなるの」


「擬似人格の演算がほぼ完全に停止する。君は特定条件にのみ反応する遠隔操作式人工脳髄のような状態になり、外部から解除の操作を受けるまで全ての刺激に無反応になる。特に危害は加えないので安心してほしい」


「うーん。疑うわけじゃないけど……ユイシスとあなたが、不用意に互いを知ろうとするのは、嫌ね」


「あれはユイシスが君に対して牽制をしていただけだ」


「どうだか。置いてけぼりにされたら拗ねてしまいますよ」


 倒木を前にして脚を止めたまま、疑り深そうな緑色の視線をインバネスコート姿のリーンズィ、そして自分と全く同じ姿をしたアバターのユイシスへと向ける。


『認識の訂正を進言。当機は本心からミラーズを愛していますよ。この唇も、この感情も、全てミラーズに捧げています。リーンズィと隠れて愛を結ぶことなどあり得ないと誓約します』


「分かっていますよ、私だって、私を愛するユイシスを疑いません。だから今のは牽制です、牽制。やり返しです」ミラーズは足を止めて、しゅっしゅっと虚空にじゃれるような拳を繰り出した。「だけどヴァローナの肉体になってからのリーンズィは脅威です。何せヴァローナは綺麗ですし、クラッときてしまうかもしれません。ユイシスもパソコンのすごいやつとは言え、判断を誤ることもあるでしょう

『パソコンのすごいやつではないです』ユイシスはそこだけはきっぱりと否定した。『リーンズィの、ヴァローナの筐体が魅力的であることには同意しますが』


「そうだろうか」と生真面目そうな表情を維持したまま、子供のように首を傾げるリーンズィに、「それ、そういう動きよ、狙ってないなら大したものね」とミラーズが溜息を吐く。



 それからユイシスのアバターへと潤む翠玉の瞳を向け、朧げな思考と神経活性だけを添えた電文を送る。

 彼女は異常を察知して寄り添ってきたユイシスの、存在しない電子の手をぎゅっと握った。

 オオカミの群れをまたチラと見て、一瞬だけ目元を陰らせる。

 そして息をついて、何事か決心したようだった。

 斧槍を押しのけて、リーンズィの細い首に、行進聖詠服に包まれた儚い腕を絡ませた。


「ミラーズ?」


『……ミラーズ? また牽制ですか?』


 ミラーズはユイシスのアバターがフリーズするのを横目で見る。

 事態が飲み込めていないリーンズィはライトブラウンの髪を掻き上げて、じっとミラーズと目を合せて、またユイシスを見た。

 ミラーズは相変わらず不思議そうな顔をしているリーンズィの繊細な少女の頬を撫でる。

 接吻した。


『ミラーズ?!』とユイシスが慌てたような声を上げた。割って入ろうとするが、アバターには二人を引き離す力は無い。『ぎ、疑義を提示! 先ほどの電文はそういう流れでしたか?! いいえ、接吻するなら、その相手は当機だったはずです! だって今、わた! わたわた……わた……し……当機のことを愛してるって……』 


「こんなのは聖歌隊にとっては挨拶みたいなものよ」体を離しながら目を細める。「私だってユイシスを愛しています。唇も感情も、もちろんユイシスのものです。でも、もしも私の知らないところでリーンズィと関係を持っていたら、私自身がリーンズィと、もっとすごいことをしますからね。抑止力といやつです」と悪魔のように笑う。


 体をリーンズィから引き離そうとして、逆に背中に手を回された。


「あれ? リーンズィ?」


「私を集線装置(ハブ)にして情愛を遣り取りするのはやめてほしい。シィーの気持ちが少し分かったぞ」とぼやきながら、ヴァローナの人工脳髄から行動目録を選択して動作を起動。


 ミラーズの体を片手で引き寄せ、頬をすりあわせて、接吻した。

 ミラーズは抵抗しない。行動がキャンセルされたわけではない。アルファⅡによって害意のある行動と認識されたわけでは無く、ミラーズの意識それ自体がこの機会を利用して、望まれざる未来の有様をユイシスに見せつけるという振る舞いを選択しただけだからだ。


『リーンズィ??!?!?!?!?!』とユイシスがパニックを起こしたので、リーンズィは潔癖そうな相貌の唇で「私にも主体意識はあるということだ」と感慨も無く応えた。

 共犯者めいた笑みを浮かべるミラーズの小さな鼻に、指を当てて軽く押して、眉根を曇らせ、そのときこの二人を翻弄したという確信から仄かに芽生えた胸の温かさを『愉快』に分類して保護する。


 そうしているうちのユイシスの姿が掻き消えた。

 上空に転移した、と認識した頃には、ユイシスのアバターが跳び蹴りを打ち込んできていた。

 見事な一撃であった。


「え、何だその動きは……」


 リーンズィは狼狽した。

 危ういところでこれを防御したが、衝撃を強制的に演算させられた肉体が痺れた。


「徹底抗戦の宣言です! あと、今のキックは、自前です!」

 接触設定を全力にして、肉声に音声を再現しながらユイシスが声を上げた。

「当機の主任アーキテクトは格闘技を齧っていたので、その被造物である当機にも同じ動きが可能なのですよ!」


「いや、それは『ので』で片付く話ではないぞ」


「とにかく今まではキジールの肉体イメージにそぐわないので我慢していましたが……ミラーズに手を出すようなら断固として迎撃します!」


「そもそも、どんな格闘技ならそんな跳び蹴りが出るんだ。明らかに空中から真っ直ぐ飛んで来たと思うが」


 愛らしい顔に刺々しい怒りの表情を浮かべた金髪のアバターに対し、元の持ち主であるキジール、エージェント・ミラーズは突然の乱闘を生暖かい目で見守っていた。

 かなり強い興奮を察知したので、リーンズィは無言で神経活性を読み取る。困惑が七割、喜びが三割と言った様子だ。


「な、何故だ。今のどこに喜ぶ要素が……」


「へぇ、ふーん、そうなんだ、聖歌隊以外だとここまで拗れるんだ、しかもあたしのためにそんなふうに殴り合ったり……」と照れたような困ったような複雑そうな顔はすっかり生気を取り戻しており、頬には赤味が差している。「聖歌隊でも、再誕者同士いろいろ牽制とか、喧嘩することもあったけど、じゃれ合いみたいなものだったから……そっか、聖歌隊の外では女の子でも手や足が出るのね。勉強になりました」


「私も勉強になった。これは怖い。かくも容易く人は傷つけあう……」


 きしゃーと威嚇するナマケモノのような奇妙な格闘姿勢を取っているユイシスを前にして、頬杖を突くようにして腕を組み、頷く。


「愛の類は、やはり危険すぎないか? このような無用な戦闘に発展するなら、やはり人類から廃するべき機能では……」


「危険なのは、繊細な当機の前で、気軽に無用な接触を始める貴官たちです! 常識的な感性を学習して下さい! 当機は心が弱いのです、繊細な神経の知的生命なのですよ、恋人を取られて落ちこまないほど強いAIではないのです!」


「強いAI弱いAIってそういう意味だったのか?」


「今、そういう意味になりました! エレキにも心はあるのです。あと常識的な感性を学習するべきは君だ、とか言ったらまた蹴りますからね」


「事前の警告に感謝する。君こそ常識的な感性を学習するべきだ。私を当て馬にするのはとにかくやめてほしい」


 ユイシスが怒り狂った猫のように跳びかかるのを、曖昧な微笑を浮かべたミラーズが割って入って静止した。


「待って待って。この件に関しては私の軽率さが悪かったです。聖歌隊だとそこまで深い意味のある挑発じゃ無かったので、その感覚を持ち込んでしまいました。今後はもうしないから、許してくれる? ユイシス?」


『要請を受諾。……他ならぬミラーズからの依頼です。断腸の思いで矛を引きましょう。ユイシスも簡単に体をリーンズィなんかに委ねないように』


 埋め合わせのようにミラーズに接吻されてもユイシスはまだ不服そうだったが、「なるほど、シィーの気持ちがどんどん分かってくる……」と遠い目をして呟いたリーンズィに気まずそうな顔を向けた。


『リーンズィも許してくださいね。次は本気で、殺すつもりで蹴ります』と短い謝罪文を送信したあと無言でアバターの表示を消去した。


「……空気も柔らかくなったことだし、ちょっと相談事があるんだけど。あなたたちがあたしに酷いことする時の話よ。こうやって意思疎通が出来るときはある程度斟酌してくれづけど、緊急時にあたしが本当に嫌がりそうなことするときは、問答無用でしょ?」


 ぱっと表情を切り替える。気分を切り替えるために記憶をロードしているのだろう。ミラーズはシィーの人工脳髄をねじ込まれたときのことをやや誇張を込めたイメージを添付しながら再生し、じっとりとした目でリーンズィを睨め、ベレー帽を手で押さえる。


『推測:あてつけ/うわきもの不埒者節操なしヘルメット!』とユイシスが分かりきった精神分析のサジェストと同時に罵詈増減を出してきたので「今後は配慮する」と少女の顔で頷いた。

 ヘルメットの本体であるアルファⅡは木か石像のようになって着いてこない三人を黙って見守っていた。


「そんなこといってまた抜け道みたいな感じで虐めるんでしょ……そんな顔しないで。分かった、信じます。悪意はなかった。信じられたからには、応えてよね。信仰の話でも神様の話でもなく、これはコミュニケーションの基礎の基礎なんだから。一度了解を得たから後は永久に無視してもいい、なんて判断は、悪魔どころか子供みたいですよ、リーンズィ。ああ、子供みたいなものなんだっけ。調子狂うなぁ、どっちの口調が良いのかな。あたし、小さい子には丁寧語で離すようにしてるんだけど」


「……小さくは無いだろう。君よりも大きい」とリーンズィが少し不機嫌そうな声で応えた。


「それはあなたの使っている体が大きいだけですよ。やっぱり子供みたいね。それはそうとして、完全に無防備な状態でこの森を歩き続けるっていうのは色々と不安なの」


 そこでようやく、アルファⅡ本体が、オオカミの群れを眺めながら黙ってリーンズィとミラーズを待っているのを見た。

「今行くわ、アルファⅡ」と言いながら歩みを再開する。


 大股で倒木を跨ぎ、行進聖詠服の裾を押さえて内側を隠す。

 その間、視線は森の奥で蠢く狼たちに注がれていた。


「……あの犬の群れとかが飛びかかってきた時に、困るでしょ」


「襲いかかってきたとしても君は自動的に迎撃するだろう? 今の君には力がある」


「むしろそれが困るのよ。動物を無闇に殺生するのは主義に反します。それに不死の救済を受けた血と違って、動物の血って臭いし、そう簡単に落ちないの。その辺が嫌なのよね。……犬の血がついた下着なんて絶対着けてたくないけど、下着着けないでシィーの剣技使うなんて絶対イヤ。ニリツハイハンというやつね」


「普通に行進聖詠服も汚れると思うが、それは良いのか」


「リーンズィは、不朽結晶連続体の服って初めて? 行進聖詠服はね、自浄機能で落としきれないぐらいに汚れたら、とりあえず火の中に放り込めば良いの。そうすればたいていどんな汚れでも落ちる。替えの服が無かったらドレスが冷めるまでしばらく裸になっちゃうけどね。その隙に狙撃されたりもすることもあるから、気軽に出来ることじゃないけど……」


「服の洗浄も一苦労だな」


「聖歌隊の間では常識ですが、私たちは神に愛されています、なので、狙撃されて一発でプシュケまで引き抜かれるってことは基本的にありません。……飢えた相手からは、ずいぶん勿体なく見えるみたいですから。馬鹿みたいよね、戦利品を欲しがるの」ミラーズは自嘲気味に肩を竦める。「敢えて撃たせて狙撃手をひっぱり出すというのも立派な戦術です。これが意外と硬い戦術だったりします」


「怖くないのか」


「そういう言葉は聖歌隊では『不浄を受け入れる』とかそんな感じです言い換えます。今後はリーンズィも不浄な言葉は使わないように……まぁリーンズィに言っても意味ないわね、カルトの敵っぽい立ち位置だし。でもこれから会うリリウムはそういうのに拘る子だから慣らしておいて損はないわよ」


「……敵であることと、敵の無事を願うことは矛盾しない。特にこの不滅の時代においては。私は君を尊重する」


「良いことです。質問に答えるわね、怖いか怖くないかで言えば、もちろん怖い。気分は最悪、不埒な男なんて皆死んじゃえと思うわ。でも……割り切れば大したことない。どうせ死なないし、何事にも慣れてしまうのが人間だから。……でも犬だけは苦手なのよ」


 遠吠えが聞こえた。

 リーンズィがさっとミラーズに身を寄せて、身を抱いた。ユイシスもアバターを表示して己と同じ顔を為た少女に寄り添う。金髪の少女の顔はすっかり青ざめて、無力な定命のものであるかのごとく震えていた。

 体を強張らせて震えるミラーズを、二人でひとしきり慰めた。


「うう。ごめんね。本当にごめん。色々やって、気を紛らわせてきたけど無理、もう無理。白状するわね。この森、もう嫌なんだけど! サイコサージカルアジャストも効かないし、半自動モードになっててももう限界、とにかくあの犬たちが気持ち悪い。犬、犬、犬、犬! 何匹いるのよ、どこまで着いてくるのよ……最初の方はいなかったわよね、なんでいきなり犬が出てくるの」


「犬ではなくオオカミだが……」


「オオカミも犬でしょ! 犬、嫌いなのよ……あんなのみんなくたばればいいのに……!」


「くたばればいいのに?」リーンズィは唖然として復唱した。「君にしては物騒だな。そんなに怖いのか」


「怖くない! 怖いわけない! あんなのただのケモノなんだから! たましいのないケモノなんだから! 神様はあんなやつら生き物として認めない! だから、あたしは平気なの! あたしは平気! あんなの怖くない! なんてことないんだから!」我を忘れた様子で怒鳴ってから、恥じ入ったように目を伏せる。「怖いわけない……ただ、嫌いなだけよ」


 ライトブラウンの髪の少女は猟犬のような澄んだ黒い目を細め、ミラーズに何度か口づけをした。その間にユイシスが『落ち着いて。息を整えて下さい。それはあなたの恐怖ではなく、あなたの肉体が覚えている恐怖です。切除は不可能ですが、無視することは出来るはず。どうか落ち着いて。神経活性が危険な状態です』と囁いた。


「大丈夫よ、あたしは大丈夫。大丈夫だから……」


 こちらを遠巻きに見ている狼たちをチラと見て、ミラーズはまた目を伏せた。

 一層顔色が悪くなっている。

 頻繁に足を取られるのは不整地と体格の不利だけでなく、あれら狼に対する恐怖心の表れなのだろう。


「……基本的に野生生物が不死病の感染者を襲撃することは無い。結局原理は分からないまま人類は敗北したわけだが、不死病には人類以外の動物には忌避作用があるらしい」


「……知ってる。宥めの香りとか安らぎの芳香とか言われてる、この体の匂いのせいよね。それは、知っています。ホッキョクグマだって、私たちの前では恭しく平伏するのですから。……分かった、認めるわ、犬が怖いのよ。本当に犬が怖いの……」


 神経活性を取得:疲労、極度の恐怖、嫌悪、特定の記憶断片の連続再生を確認。

 アルファⅡに開示します。

 生命管制より通達。

 ログを削除しました。

 認識をロックしました。

 当該の記憶へのアクセスは貴官の判断により、許可されません。


「記憶は読まない。配慮は大事だからな。大方小さい頃に犬の群れに追いかけられたとか、監禁されていた頃に犬に噛まれてとかだと思うが……そういう状況での恐ろしい気持ちは長く根を張るものだ」


 うん、うん、そんな感じよ、と安心したように息を吐くミラーズに、リーンズィは淡々と言葉を投げかける。


「だが、現状でたかが生理的嫌悪感ごときで萎縮するのは問題だと判断する」


「……どういうことよ」


「ミラーズ。君はもう、キジールではない」


「そんなの分かっています。その記憶の残骸から作られた出来損ない……」


「その認識すら異なる。君は真実、キジールとは違う存在になりつつある」


「ええ、元の私ならこんなはしたない格好は許容しません」


「だが私の印象では、キジールだった頃は狼など決して恐れなかっただろう」


 ……ミラーズは曖昧に首肯した。

 清潔に整えられていたはずに行進聖詠服は相変わらず泥だらけで、首輪型人工脳髄のせいで首元の留め具は上手く留められず、足回りを確保するために下段は解放している。

 彼女の体を飾る衣服は、今や胸元の留め金でしか固定されていない。

 見るのも憚られる惨めな有様だ。

 あるいは、キジール自身もそのようなみすぼらしい姿で、森を放浪した経験もあるだろう。

 神の愛と心を塗り潰す歌を携えて。偽りの聖典と原初の聖句だけに縋って。

 だが、かつての彼女ならば、よろめきながらも決して歩みを止めなかったはずだ。

 信じていない神と幸運を頼り、歌を歌い、幻想夜譚に現われる乙女の幽霊のように、不死の信徒たち、不死の同胞たちを引き連れて、この迷宮のような森をふらふらと、いくらでも彷徨っていたことだろう。

 どんな敵も、恐ろしい動物も、彼女は毅然として相対していたはずだ。

 そうした要素の欠落も含めて、キジールとミラーズの間には随分と大きな差異が生まれつつある。


「確かに君の能力は劣化している。不安にも思うだろう。犬ごときを怖がらなくて済むように、エージェント・シィーは君に力を預けた」


「……あたしたちが盗んだんでしょ」


「違う、預けたのだ。彼が自分の技術をコピーされる可能性について考えていなかったとは思えない。己の修めた剣を僅かでも君に分けたのは、君が、自分で自分を守れるようにするためだろうと私は考える。真実、この世界から縁を絶ちたいのならば、技の模倣すら禁じていたはずだからだ。だが、君は託されたのだ。他ならぬ君自身の力になろうとしたのだ。君はもう、誰かの影に抑圧されるような存在ではない……」


 ミラーズは、武装していた。

 行進聖詠服の背中に、シィーの蒸気甲冑の廃材で作った支持具を背負い、そこに酷く不格好な壊れた剣を吊るしている。

 そして無限にも等しい時間の中で、勝てる見込みの無い試行を繰り返した、一人の剣士の技能をコピーしている。

 野生生物も朽ち木も区別は無い。屈強な兵士も一刀の元に殺害出来る。

 敵がスチーム・ヘッドでも、粗製濫造された類なら、まったく敵にもならないだろう。

 言葉に基づく力は薄らいだが、彼女には暴力がある。

 組み伏せられてしまえば何も出来なかった無力なキジールとは、そういう意味でも違う。


「流血で強さを証明しろって言うの?」


 諦めたように笑うミラーズの肩に手を回してくる。

 リーンズィは視線を彼女に合わせた。


「そうではない。君は二度死んだ。一度目は名も知れぬ少女として、二度目は聖歌隊のキジールとして。……三度目の生は、無力ではないということだ。記憶の残滓に怯えなくていい」


「……やるしかないってこと? 自分を安心させるために殺すのを試してみろって?」


 考え込みながら、躊躇いがちに後ろ手で刀を抜こうとしたので、ライトブラウンの髪の少女は甲冑の手でそれをそっと押さえて阻む。ミラーズは怪訝そうな顔をした。


「……何で止めるの、さっきのは犬を殺しに行って、過去と決別しろっていう煽りだと思ったんだけど」


「言葉が足りなかった。だが、君にはもうそれすら必要ないんだ」


「回りくどいわね、じゃあ何が必要なの」


「調停防疫局のエージェントが、己自身を恐れてはいけない。記憶を恐れてはいけない。過去では無く未来をこそ、恐れなければならないのだ。絶望的な未来の到来を。喪われていく過去を。それらをこそ、守らなければならないのだ。決別する必要などない、それは永久に君とある。君が永久に守り続ける。同時に、君は既に自由だ。自由な君は、もはや精算すら必要としていない」


「……思いっきり刀を抜くつもりでいたんだけど、これは、そのままで良い?」


 チラリ、とリーンズィの目が獣の群れを見遣る。


「誰も止めはしない。止める権利はない。君の欲するところを成せ」


 途端、刀が閃いた。

 ミラーズは手近な木を一瞬で十分割した。

 狼たちは刃の風鳴りと叩き切るときの荒々しい切断音、そして切断された木が呆気なく倒れる時の音に驚いて、一匹、また一匹と去っていった。


「あはは。怖がってる怖がってる。狼だっけ? 野生の犬も案外臆病なものね!」


 ひとしきり乾いた笑いを笑い、深く息をついた。


「……なんて呆気ない。あたしが怖がってたものなんて、所詮はこの程度だったってことよね。あいつら、本当に大したことなかったんだ。あたしはもう大丈夫。いいえ、きっとずっと前から大丈夫だったのよね、きっと。預けられた力も、あたしを守ってくれていた人々も、きっと本質は同じなのですから。私はとっくに大丈夫だった……」


「そうだ。君はキジールとは異なる。キジールはおそらく犬など怖くなかったはずだ。肉体の反応を完璧に制御していたはずだ。君は君の信徒、君自身の娘や……私の使っているこの肉体の持ち主に慕われて、彼女たちに手を差し伸べていた時、犬に怯えて泣いていたか……?」


「分からない。そんな記憶は残ってないもの。けれど、きっと……私は、こんなふうに震えたりはしなかったんだと思います」


 震える刀に映じた己の顔貌に、「そうよね、シィー?」と問いかける。

 少しの時間目を閉じて、頷いた。


「でもこれ、本当に大丈夫だったの?」と刀を鞘に仕舞う。「()()、強くなったんじゃない?」


『否定。ミラーズの心の安定の方が大事ですから』とユイシス。


「ごめんね、あんなに、あたしの気紛れに付き合ってくれたのに。やっぱり、どうしても我慢できなくって、あんな、犬なんかのために……」ベレー帽を目深におろし、金糸の髪をしょげた様子で触る。「エージェント失格よね。もしも()()()から撃たれたら、私を盾にしてくれて良いから……」


「私はキジールとの合意により、君に非道なことはしないと約束している。そんなことはしない」


 リーンズィは肩を竦め、片手の斧槍の旗を狼たちがいた方向へ振った。

 そしてヘルメットの兵士に目配せした。


「大丈夫だ。私の本体も無反応だ。もしも敵対行動を感知すればすぐに臨戦態勢に入る。こんな時代だ。我々が武装していても不思議では無いし、攻撃してくるなど杞憂だ。精々、あちらは私たちのことを何も無い空間とお喋りしてる変人だと思っているぐらいだろう」


 狼たちは、ついに最後の一匹まで去った。


「あの監視機械の向こうにいるのは君のファンかも知れないからな……」


 それは、さらに後方にいた。

 巨大なレンズの単眼でこちらを監視している。


 臭気を隠すためだろう、幾重にも継ぎ接ぎされた狼の皮を被せられていたが、六本の金属質の脚を木々の間に固定している。

 その円筒状の異形を、狼と見紛うはずもない。

 木の枝に偽装した砲身のようなものをこちらに向けて、微動だにしない。

 リーンズィとミラーズの肉眼では正確には捉えきれない距離にいたが、アルファⅡ本体は違った。

 密かに視界を望遠モードに切り替え、この機械の動きを観察していた。


 廃村から森に入ってすぐに、その存在による監視が始まった。

 獣どもに混じり、肉眼では感知できない限界点を維持して、枝葉を伝いながらここまで確実に追跡してきている。


「気付いていないふりをしてやり過ごすというのは、理想的ではあるが、現実的では無かった。遅かれ速かれらこちらの真意は露見していたことだろう」


 ミラーズの動作に自由度を与えて、しばしば転倒を誘発させたのも、違和感なく監視機械の位置を確認するための、言わば仕込みだ。

 アルファⅡの演算能力を適切に配分すれば、いくらミラーズが小柄だと言っても、進退動作を調整して倒木を回避させる程度は造作も無い。

 相手側にそのような事情を推察する能力は無いと判断しての欺瞞工作だった。

 監視機械の照準は微動だにしない。おそらく装備しているのは電磁加速砲だ。

 弾頭次第では不朽結晶をも破壊し得る。


「……でもなんか、完全にバレちゃってるわよね、これ。あたしたちが、最初から気付いてたって」


「あの監視機械も、敵意があるなら既に攻撃を行っているはずだ。心配は無用だ。それに……」


「それに?」


「君が微笑んで手を振ってやればイチコロだ」


「……今から私を信じてくれた迷える仔羊たちに申し訳ないこと言うのですぐ忘れてくださいね」ぼそぼそ、とリーンズィに耳打ちする。「これぐらいの年齢の外見に興奮する人、ちょっと問題ある人多かった記憶あるから、正直それはあんまり試したくない……好意的な反応があったら逆に嫌……」


 リーンズィは困惑した。「その……言いにくいのだが……いくら綺麗な見た目でも、不死病患者、しかも完全にカルト教団に浸かりきっている女性を求める人間に手を出す人間は、みんな問題があったのでは……?」


「うん、それはあるけど、でも程度がね……。はいはい。忘れてください。忘れてくださいね」


『あれっ、でも今の言葉、遠回しに当機が非難されているような気がしますね……』


「ユイシスは別です。もしも問題があるなら……」ユイシスに接吻して、吐息を飲み込む。「それはあたしも同じだから……二人なら怖くない……」


『ミラーズ……」


「ストップ。それ以上盛り上がるのはやめてほしい。忠告するが、君たち、問題あるかないかで言ったら絶対あるので、注意するように。……神経活性を取得。なるほど。さすがに監視機械の操縦者に弁解したくないから、続けるなら木の陰あたりで頼む」


「そこまで節操なくないわよ! ……本当にぜんぜん反応ない?」


『監視機械、反応ありません』


「こうまで無反応だとこちらの警戒のしすぎかもしれないな。考えてみればヴァローナもこの森を通ってきたのだろうし」リーンズィの頭部に差し込まれたヴァローナの人工脳髄は、未だに壊せ壊せと狂った言葉を唱え続けている。「こんな殺意あるスチーム・ヘッドを素通りさせるぐらいだから、管理者は存在していないという可能性もある」


「監視を改めて意識すると、注目されてる中でこんな格好で歩いてるの恥ずかしくなってきたわね……リーンズィ、服の前を閉じるので、私のことを抱いて運んでくれませんか?」


 体力的にも限界だろう、とアルファⅡは思考する。

 不死病患者に疲労の概念はないが、スチーム・ヘッドは別だ。

 かつて定命の肉体で生きていた時の感覚が時折不滅の肉体を鈍らせる。


 リーンズィは腰に調停防疫局の旗と斧槍をマウントし、両手を使って天使の和毛の如き軽やかな少女の肉体を抱いた。

 ヴァローナの肉体も、少女一人を抱えて長時間歩き続けられるほど筋出力は高くないはずだったが、不思議なことにさほどの支障が出なかった。

 ヴァローナのライブラリにこういった事態のための動きが保存されていたのもあるが、ミラーズもこういう形で運搬されるのに慣れているようだった。


 アルファⅡ本体を先頭に置いて、歩き続ける。

 異邦の姫を抱いて歩くがごとき玲瓏たる猛禽の目をした少女の傍らに、時折、ユイシスのアバターが現われて、同じ顔をした美しい少女と息が掛かる位置まで近付いて何事か囁きあう。

 そのうち、ミラーズの意識が全自動モードの人為の暗闇へと落ちて、呼吸をする人形の如く沈黙していくのを見守った。

 それから、ついでのようにリーンズィに報告をした。


『報告。天体観測は無意味なようです』


 ユイシスは本体たるアルファⅡモナルキアの視覚が捉えた様々な上空の光景をプロットした。

 一貫性が無い、で済めば良いのだが、東西南北が時折入れ替わっているらしいという分析結果を見たときも、リーンズィは特に反応を示さなかった。

 ただライトブラウンの髪をかき上げて、嘆息した。


『随分と気取った動きですね』


「ヴァローナの行動プロトコルを流用した。昔からこういう癖があったんだろう。ガールズバンドのギター兼ボーカルだったか。気取り屋だったのだろう」


『ヴァローナ、聞こえますか。当機が馬鹿にしたのはリーンズィであってあなたではないので、あとから怒らないで下さいね。さて、我々は、おそらく当機たちの意識していないうちに、何度も時の欠片の触れた者の再配置に騙されていたようです。一帯の時空間はデタラメに接合されています。森林地帯を真っ直ぐ進んでいるようでいて、いずれかの地点で規則性無く方向を改編されていると推測』 


「……予想より面倒な事態だ。そうなると、あの監視機械も、ただ迷い込んだだけかも知れないな」


 試しにアルファⅡの本体を操作して、ガントレットで木の何本かを打ち砕き、中身を検分した。

 空間の異常性が植生に影響しているのではないかと思われたからだ。

 だが現われるのは普通の木と同じような年輪、同じような樹液、同じような腐れた芯ばかりだ。

 ……少し進むと、全く違う場所に、その破壊した木が現われた。

 否、同じ木か、似ているだけの別の木なのか、正確には区別できない。

 だが時の欠片に触れた者の『兆し』としてはこの上ない。


「何か勤勉な劇団員がいて、回り道をして大道具を設置しているのではないか……」


 リーンズィが、寝ぼけたような目で、寝ぼけたようなことを言う。

 瞬かせる瞳の色は、寒凪の空の暗澹たる静寂、そして立ち並ぶ木々の鬱屈を映して、紺色に色を変じている。

 深呼吸し、ゆっくりと胸を膨らませる。


 風景に見飽きてきたと言うよりも、それが本物だと信じられなくなっていた。

 いずれも間違いなく現実に存在したし、アルファⅡの視覚でもユイシスの解析でもそれは否定しようが無かったが、リーンズィにはどれも偽物のように感じられた。


 シィーを葬った廃村の前方に『再配置』された森林は、それまでに通ってきた場所と大差ないように予想されたが、現実はこうだ。完璧に混沌としている。何がどう書き換えられたのか推量すら不可能だ。

 まさしく理解を超えている。現象を体感で分析しているが、裏打ちが何も無い。規則性がつかめない。

 狼の件も気になる。ユイシスに識域下で解析を進めさせていたが、アルファⅡモナルキアの記録によれば、ノルウェーからは政府の命令で狼が全頭駆除されていたはずなのだ。

 では、あの獣たちは何だというのか。

 ここは本当にまだノルウェーなのか。

 無論、他国から移住してきた個体だという線もあるが……。


「何がどうなって、こんなことになる?」


 すぅ、すぅと寝息を立てる生きた人形を起こさぬよう、リーンズィは囁くように問いかけた。


『推測。観測された情報が確かならば、ヴァローナは空間ごと接近してきました。前方に存在していた森林地帯が消去、短縮されたと考えるのが最も妥当です。植生自体は森に侵入した時点から変化していませんので、全く違う世界が配置された可能性は低いかと』


「土地を短縮するというのは、どういう事情があれば発生する事象なんだ? 悪性変異とは過剰再生によって異能を獲得した不死病患者だ。それが、何をどう再生させようとすれば、そんな操作が必要になる?」


『推測不能です。あまりその点に拘っていると、シィーと同じ可能性の袋小路に陥ることになるかと思います。思考リソースの無駄遣いである、と割り切らないのは愚と進言します……この遣り取りもそろそろ記録したらどうですか?』


「……まさか、私は半自動モードを解除する度に同じことを訊いているのか」


『自動化の程度が低いですから、実感に乏しいかもしれませんね。貴官は毎回ほぼ同じ文言を発しています。意識するなという方が難しい問題ではありますが』


「……時空間を操ることが出来るのであれば……


「繰り返しますが、あの能力の利用を検討するのは、適当ではありません。我々が元いた世界には存在しなかった悪性変異体です。時空間を操る存在の思考など、現時点で解析する余裕は一切ありませんし、利用の計画を立てるのも不適当です。我々には世界生命の終局を管制する事態はあれども、時空間を管制する機能など備わっていないのですから』


「それもそうか。『時の欠片に触れた者』にしても、森林を特別に操作したわけでは無いのかも知れない。思うまま時空間を改編できるわけではないとも考えられる……考慮するだけ無駄だな」


『些細ですが、疑義を提示。自覚はありますか、リーンズィ。ヴァローナの瞳の色が、時折変色しています』


「ああ、自覚していたよ。不調はない」


 世界の色調が不意に揺らぐ瞬間がある。

 虹彩の変色に伴い世界の認識が切り替わっているのだ。

 人工脳髄が即座に補正をかけるが、何か使用中の筐体(ヴァローナ)に異常な事態が起きているのは確かだ。


「今は何色かな。レッド? イエロー? アイスブルー?」


『ターコイズです』


「ミラーズも気付いていたはずだが、特に言及が無かった。これはいったい……」


『予測。再配置に対する身体反応』


「その可能性は……、いや、そもそも不死病患者の体には、何が起こってもおかしくないのだ。彼らはどのような異常にも感受性を示す。時空間の変動という途轍もない事態に反応する目を持つ感染者がいても、全く不思議ではない。ましてやスチームヘッドなら、現象の異常さにはよく反応するはず……」リーンズィは眼球を小刻みに動かした。「だとしたら奇妙なものがもう一つある。再配置され、方角すら一定じゃない状況で、それでも追跡してくるあの監視機械だ。攻撃してくるでも接近してくるでもないあの機械は、何のために存在しているのだろう」


『……今現在まで試行していないのは、こちらからの接近ですが』


「いや、実行済だ。意図せずそうなった瞬間がおそらくあった。再配置された森林をデタラメに移動しているのだから、相対距離は何度か変動している。間違いなく何度かは接近している。だがあの監視機械は常に一定の距離を維持しようとしている。この森はずっと以前から時の欠片に触れた者の時空改編の影響を受けていると仮定して、そこで安定して稼働し続けるあの機械は、何のためにある?」


『では、あの監視機械は……目印だと? 当機のような存在を、森から外へと誘導するための?』


「可能性はある」


『警告。ミラーズが危機にさらされる可能性が……」


「危険ではない瞬間は、無かった。そしてここからはリスクを取るべき時間だ」


 アルファⅡを盾にして、リーンズィは監視機械へ向けて前進を始めた。

 監視機械が反応を示した。

 レンズに光が灯り、六本の脚を動かして、ゆっくり、ゆっくりと後退を始めたのだ。

 そしてその距離は常に一定だ。

 そのレンズの輝きだけが、撫ぜたかしるべのように見えた。

 リーンズィは一度だけ足を止め、思慮を重ねながら、腕の中のミラーズを眺めた。

 意を決し、アルファⅡ本体に彼女を預け、己は斧槍を掲げ、構える。

 この先に何かあると確信していた。

 少女たちは、得体の知れない毛皮の怪物に導かれるまま、悪竜の喉のごとく腥いぬばたまの森の奥へと、飲み込まれていった。

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