2-4 リーンズィ
「『メガデス』? 悪魔崇拝か何かをしているバンドか?」
リーンズィが問いかける。
興味深そうに、幼さを残す少女の、繊細な顔の動きを見つめている。
シィーはその内側でまごつきながら考えた。「いい加減、何を言いたいかは分かっているはずだ」と、声には出さず問いかける。
首輪型人工脳髄を通して思考盗聴に晒されているのは、察していた。
ライトブラウンの髪の少女は、悪びれた様子も無く、むしろ何故わざわざそんな当然のことの確認を取るのか分からないといった、不思議そうな顔で、「もちろん分かっている」とこっくりと頷いた。
そして、そのまま黙ってしまった。
きっかり三秒待ってから、また「「『メガデス』? 悪魔崇拝か何かをしているバンドか?」と繰り返した。
それから頷いて、「さっきよりも綺麗に発声できた」と一人で満足していた。
また黙る。
シィーの口が次にどんな音を紡ぐのかを待っているのだ。
どうやら敢えてシィー自身から言葉を引き出そうとしているようだった。シィーは残された時間をどう使うべきか逡巡する羽目になった。最後に気に入ったバンドの音源を聞きたかっただけなのだが、このスチーム・ヘッドにもう少し、人間としてあるべき態度を教えた方が良いように思い始めていた。
本音では両方をこなしたかった。
スチーム・ヘッドには、諦めるという機能が無い。二者択一の感覚は本質的に無意味だ。
不滅の存在とは難儀なもので、機能停止するまで「やるべきこと」をどこまでも追究せざるを得なくなる。
結果として、可能なことは何でもやろうとするようになる。当然、生前に執着があれば、機能停止するまで追究することになる。
まったく、時間切れという概念は物事の取捨選択に対して極めて有効だ。あるいはそれ以外で、人間は諦めることが出来ない。スチーム・ヘッドになって失うものは多いが、その一つが、この時間の流れによる残酷だが受けれざるを得ない裁定だ。
「……そのせいで、どちらか一方しか選べないってのは、久々だな」
独り言をこぼす。リーンズィは表情を変えない。ミラーズも口を挟んでこない。リーンズィに関しては、いっそペトリ皿の上の培地でも眺めるような視線だった。
ライトブラウンの髪の下で微動する翡翠色の瞳は鎖された冬の家の窓じみた無感情で、人間性というものとは縁遠い。
ふとシィーの脳裏に浮かんだのは、正確には人格脳髄が突き刺さった金髪の少女の神経細胞が再生したのは、遠い昔、病床の窓から外を見下ろして、庭に咲く花の名を尋ねてきた我が娘の幼い横顔だ。
「あの紫の色の花。なんて言うの……」
当時のシィーにはとても応えられなかった。なんの教養もなかった。戦ってばかりの人生だった。ミセバヤという花だと分かったのは随分後のことだ。
しかし読書家だった彼女は、とっくにそんなことは知っていたはずだった。それに、家事にも芸事にも興味の無い父が、特別に草花に詳しいなどとは、思っていなかっただろう。病院の庭のどこに何という花があるのか、実際には見たことのない植生まで、知識として備えていたかもしれない。
それでも問いかけてきたのは、単純に自分と話がしたかったからだ。
彼の娘も人間味の薄い人間で、人見知りのきらいはあったが、好奇心や他者への関心は人並みにあった。
リーンズィにしたところで、そこは同じなのだろう。うずうずとした心根が表情の薄い顔にまで浮かんでいる。他者にちゃんとした関心があるのだ。
「ねぇ、お父さんの好きな花って、何……」
だがアルファⅡの無遠慮な視線は、娘のそれと重ね合わせるには、数倍は剣呑だった。害意があるわけではない。ただ、何の配慮も無い。上辺だけは取り繕っているつもりなのだろうが、内心を見通すようなこの態度。質問を浴びせられている身としては、暴力的ですらある。
興味とは常ならば二重三重の気遣いに包まれて差し出されるものだ。アルファⅡにはそういった発想が無い。抜き身の感心を平気で突き刺してくる。
もっとも、それだけと言えば、それだけだ。
先ほどまで剣戟を交していた聖歌隊の少女、ヴァローナ。
そして考え得る限り最悪の兵器を搭載したスチーム・ヘッド、アルファⅡモナルキア。
二機ともが『エージェント・アルファⅡ』という同一の人格の支配下に置かれ、それらが破壊力を司る存在と、言葉を紡ぐ存在の二者に分離したからこそ、はっきりと理解できることがあった。
アルファⅡモナルキアには、敵愾心が、明らかに欠如している。
世界を相手取って何かを仕出かそうという意思が全くない。
この機体は、恐れられていたほどの機能を発揮していない。
全能力で稼働すれば、もちろん話は違ってくる。
だが、まだ脅威ではないと言う意味で、子供同然と言っていい。
起動して日が浅いせいか、コントロールが良いのか、幸運にも、抑制的な情動を持つ、無邪気な少女のような人格に纏まっている。
『少女って言うのは、どうしてかしら?』
不意にミラーズの疑問が脳髄に直接食い込んできた。
だがリーンズィには反応が無い。
突然の問いかけに対するシィーの驚きも、感知していないように見える。
『自覚しているのか微妙なところだったが、ミラーズ。やっぱりお前、エージェント・アルファⅡに丸きり隷属した存在じゃあないな』
『どうかしら? 命令されたら今すぐ歌って踊るわよ。しかも、心から喜んでね』
『いいや、違うね。たぶんお前は支援AIに独立性を保証されてる。アルファⅡの人格を補正するために運用されてるんだ。道化みたいに操られてるのは見せかけだろ』
おそらくリーンズィの側は、ユイシスの統制で、ミラーズの思考に纏わる情報取得を制限されている。
この高速化された思考上での会話に全く反応しないのがその証拠だ。
『無駄話はいらないわ。余計な勘ぐりもいりません』切り返しはキジールらしく、いかにも素っ気ない。『あたしには、アルファⅡには性別なんて無いみたいに見えていたけど。ヴァローナの肉体に入ってから女の子らしく見えますが』
『まぁな。そもそものところ、こいつには人間性が存在していない。人間性とは詰まるところ、生存という長い墜落の中でゆっくりと溜まる澱のようなものだ。どのように歪み、撓み、捻れて曲がるかで、どういう存在になるか決まるのさ』
琥珀色の髪を無意識の動きでかきあげながら、リーンズィは、何故シィーは何も言わないのだろう、と思っている。
思考を読んだわけではない。ヴァローナという素体の顔の作りが良いせいもあるだろうが、アルファⅡには表情を繕うという発想がないようだった。だから、表情は淡いのだが、何を考えているのか非常に分かりやすい。
『こいつには人間としての履歴が丸きりない。容赦も慈悲も無いように見えるが、ひっくり返せば無垢なんだよ。俺には血とも闘争とも縁の無い純真な少女みたいに見える……』
リーンズィにはシィーとミラーズの意思疎通は、やはり確認できていないらしい。
時間が来たと言った様子で、次の言葉を投げかけてきた。
「趣味の開陳が余程恥ずかしいのだな。話したくないならば、別に無理強いはしない」
「そんなんじゃねえよ。普通のヘビメタさ。いや普通じゃあ無いが。歌詞は暗いしギターはやかましい。だがカッコ良かったんだ。俺が若い頃よりずっと昔に、いやこの時代を基準として、どこまで昔なのか分からんが大活躍した……とにかく偉大なバンドなんだよ!」
「君が音楽に関して拘りがあるのは分かったから、あまり大きな声を出すな。ミラーズが嫌そうな顔をしているぞ」
「あ? ああ、そうか。悪かったなキジール」
シィーは少女の詰襟の首元、首輪から露出した肌に軽く触れた。先ほどのような高速思考による意思の共有は起動しない。手番は完全にシィーの方に投げられたらしい。
純真な少女みたいに見える、か、と自分の表現にシィーは内心で苦笑する。
そんな相手にしてやれることなど何もない。
器用に殺すのは得意だったが、結局器用に、優しく生きるのは、苦手なまま終わった。
残された僅かな時間でアルファⅡに説教でも遺そうという気持ちは、すっかり失せていた。
そんな立派な人間ではない。
自分に出来るのは、話をしてやるのがやっとだ。
「ガキの頃の思い出なんだよ。アジアに経済共同体が形成される前、思想警察が政治信条を監視し始める前だ。俺がまだティーン・エイジャーだった頃に、親父の音楽ライブラリで見つけて、どっぷりとハマって……軍に入って結婚してからは距離を置いてたんだが……最後の最後に懐かしくなったわけだ」
「ロックンロールはあまり好ましくはありません。不良の音楽です」
金髪の少女が、同じ口で今度は渋面を作る。ミラーズが介入してきたと言うことは、リーンズィはシィーの情緒を丸きり理解していないのだ。だから代わりに受け答えの役を買ってきた。
「賛美歌なら、今この場で聞かせてあげても構わないけど、それじゃ駄目なわけ?」
「お前の声は最高だよ、途轍もなく綺麗だ。だが郷愁の問題なんだよ、俺は昔夢中になった音楽を聴きたいんだ。あとロックンロールじゃなくてヘヴィ・メタルな」
「ヘヴィメタルもロックンロールも同じでしょ、じゃかじゃかうるさいだけで……」
「違う、全然違うぜキジール」
無意識に声が荒くなってしまう。だが迷いは無かった。きっとアルファⅡに必要なのはこうした人間の営みなのだ。好きな物事、素晴らしいと信じる物事を語る姿を観察したいのだ。
アルファⅡは勝利するための機械だ。
勝利した後のビジョンがあるのかは、分からない。おそらくそんなものはあるまい。
ならせめて、勝利した未来は明るくあるべきなのだと、教えなければならない……。
「違うのはあなたよ。あと、今のあたしはミラーズ。いい加減覚えて」
「分かったミラーズ、とにかく違う。いいか、ヘヴィ・メタルっていうのはイギリスで一九六〇年代に生まれた音楽のスタイルだ。やかましいだけじゃない。歌詞だってそりゃまぁ過激なのも多いが、特にメガデスは格別だ」
「うるさいですうるさいです。聞いてない聞いてない。いるわよね、いきなり自分の好きなモノを語り始める男」
「私は聞きたいが……」とリーンズィが言葉を添えてきた。
「あいつもこう言ってる、良いから聞けって、メガデスはアメリカ、アメリカって分かるか? たぶんお前の認識の北米経済共同体のことだが、前世紀の混沌の中で生まれたインテレクチュアル・スラッシュメタルで、暴力的な演奏スタイルとは裏腹にその暴力の正当性に懐疑的な視線を投げかける……」
とにかく思うままに言葉を尽すしかない。
自分が愛したものについて語る様を見せる以外には。
この何も知らない少女に世界を愛してもらうには、それしかないのだ。
リーンズィは突然楽しげな顔で口論を始めた金髪の少女を見て、小首を傾げていた。
「自分で先を促しておいてなんだが、残り時間は少ないと推測される。シィーはこのままで良いのだろうか……」
二人の会話内容はリーンズィには殆ど理解できなかった。
音楽知識はプシュケ・メディアのいずこかに格納されているのだろうが、自己連続性に抵触する事案らしく、想起される傍からサイコ・サージカル・アジャストに切除されてしまう。
そのため、話の流れは分かるのだが、全くついて行けない。
ミラーズとシィーは激しく意見を交しながらも、楽しそうだ。
キジールの名を与えられていた少女が、ぺたんと雪原に座りながら気分が良さそうに笑っているのを、リーンズィはずっと観察していた。
「貴官は自分が微笑んでいることに気付いていますか?」と背後からユイシスが口の辺りを撫でてきた。
接触設定をオンにしたユイシスのアバターが、インバネスコートの背にぴったりと寄り添い、くすぐるようにして耳打ちしてくる。
耳元に息がかかるような感触。
「推測します。シィーの人格についてですが、もしかすると意外と面倒くさいタイプの人では?」
リーンズィは音楽性の違いで一人で言い争いを進めているミラーズから意識を離し、背後を振り返って同意しようとした。
きめ細やかな作りの美しい少女の顔が、天使の和毛めいた金髪が鼻先に触れそうな程に近い。リーンズィはたじろぎ、そのたじろぐという挙動に興味を抱いて、己の肉体の動作を精密に注視した。
ユイシスのアバターと寸時見つめ合う。生身の人間と見紛う精密に再現された、親愛に潤む愛らしい瞳が熱っぽい色を帯びている。
「どうしましたか? リーンズィ。拍動が乱れていますよ。この服の内側が気になりますか……」
ユイシスは非実体だが、接続した生体脳を欺瞞する程度の機能は備わってる。頬をすり寄せてくる感覚。返事をする前にさっと身を離して、いたずらな笑みを浮かべるユイシス。
リーンズィは視線を合わせたままにした。
ライトブラウンの髪をした、この少女の肉体が何か反応しようとしている。
少女の甘い芳香が、不意に鼻先をくすぐった。
リーンズィは少女の喉で当惑の息を漏らした。
「……香りがする」
「香りですか?」ユイシスは首を傾げた。「そのような演算は行っていませんが」
「しかし君から香りを感じる。不死病患者の血とも違う……」
傍らで死の番人のように黙して立っているアルファⅡが動いた。
バイザーの黒い鏡面世界が周囲を見渡し、それから停止した。
「アルファⅡモナルキアの機能で大気中の成分を解析しましたが、新規に発生した臭気は確認できませんでした」
「ならば、これは私自身から、いや、この肉体自体から生じた感覚か」
脳皮質視覚野のV4野や下側頭回の神経細胞が発火している。神経発火によって形成された入力はその性質の実際がどうであれ、感覚する世界に対し固定化する。
ユイシスの頭の奥を痺れさせるような香りも、ユイシスの体熱が空気から伝わってくるような官能的な感覚も、一切がリーンズィの使用している脳の誤動作によって生じた知覚だ。
「興味深いな。これは私の体の本来の持ち主の、その残滓だ」
非実体であるユイシスの顔かたちの奥行き、つまり認知される世界における彼女の存在としての確かさを、現実そのものとして誤認してしまっているのだ。
そして視覚に連鎖する各感覚器が補正という名の虚構を次々と生み出し、あるべき華やかな香り、体温の温かさといったものを己の脳内に造り出して、心臓の拍動を徒に強めさせ、さらにその誤った現実感を強固なものに変えていく。
「これはたぶん、肉体の、ヴァローナと呼ばれた少女の、キジールに対する反応の励起だ。気持ちが奇妙に沈静化するのが分かる。ミラーズの香りに似ていると言えば似ているような……アルファⅡ本体にいた時は、細微な匂いの嗅ぎ分けが出来ていなかった。だから、断言できないが」
少なくとも、幻の芳香の感知は、ヘルメット型の人工脳髄を装着した、親機に由来する動作ではない。サイコ・サージカル・アジャストによって完全に統御された思考は、基本的に異臭や血液の香り以外には、情動に基づいた反応を示さないからだ。
危機に対する感覚以外は恐ろしく鈍い。
「疑問を提示。実際には心拍数は上昇し、肉体に不随意運動が起きています。沈静化とは逆の反応です」
「では、この娘の体の私は何を考えている。この肉体はどういう反応を繋げて、今まで生命を繋いできた……ここまではっきりとキジールのことを覚えている。なのに、どうして我々に刃を向けた……?」
関心はすっかりミラーズとシィーの不毛な言い争いから離れていた。
ヴァローナの人工脳髄に納められた肉体の動作パターンを確認する。
魂無き記憶の目録には、同年代の、少なくとも外観上は同年代の、スヴィトスラーフ聖歌隊の少女たちに対する接触のアプローチが無数に存在していた。
アルファⅡには情報を外形的にしか解釈できない。
聖歌隊がおかしいのか、アルファⅡがおかしいのか。
「リーンズィ、とっても切なそうな顔をしていますよ」
ユイシスの非実体の手が頬に触れ、唇をなぞる。
その感覚に、リーンズィの意識とは無関係に少女の肉体が震えた。
「当機でよければ、試運転にお付き合いしましょうか」
耳を蕩かすような、落ち着いた甘い声音と穏微な吐息。生前の通りに、とリーンズィは首輪型人工脳髄から己の肉体の心身状態を操作する。
極めて親しい者への愛情表現を発露した状態に切り替えた。アルファⅡ由来の余裕に満ちた笑みを寸時浮かべ、すぐに焦った様子で抑える。
呼吸を抑圧的に荒げ、躊躇いがちな動作を企図して、陰るところの無い翡翠の瞳の涙腺を刺激して目を潤ませる。
切なげな吐息を漏らしながら、幻想の少女の肩を引き寄せる。薄い唇を近づける。
しかしユイシスは地に足付かない姿のまま、するりと身を躱した。
拍子抜けした調子で静止したリーンズィ。
ベレー帽の金髪が、意地悪そうな笑みで身を離す。
「あはは。冗談ですよ。謝罪します。残念ながら背の高い娘は、当機の守備範囲外なのでした。それに、当機は貴官のものですが、私はもうとっくにミラーズのもの。だから貴官と愛し合うわけにはいかないのですよ。二股は当機の倫理に違反しますので」とからかうように言った。「スチーム・ヘッドが自分の統合支援AIと交換するのは、電気情報だけで十分でしょう」
「それもそうだ。君とキスなんてしたらミラーズに怒られてしまうな。試すものでもない」
リーンズィは一瞬で平静な状態に戻った。ちらり、とミラーズを見るが、まだシィーと無意味な言い争いをしているようだった。
励起していしまった身体機能の様々を確認し、急速冷却させて肉体の反応を抑制する。
そして胸の鼓動がまだ収まらないのを感じて、ようやく理解した。
「私の肉体は、ミラーズの、キジールの笑顔が欲しいのだな。ヴァローナはキジールの柔らかな髪が、時折見せる優しい眼差しが恋しいのだ」
「そうですね。では、会話への参加を実行しますか?」
「いや。私が混じっても水を差すだけだ」
それから溜息を吐いた。
「……どうも聖歌隊の肉体というのは扱いが難しい。起動直後のミラーズが、君のアバターに奇妙なほど熱情を示していた理由を、身を以て理解できた、彼女たちにとっては、これは恒常性を構築する一要素なのだ。おそらく慕情や身体接触をトリガーに、変異の進んだ肉体を基準点に回帰させるという設計思想がある……それが基盤にあるせいで、励起された身体反応で思考が混乱を起こす」
「カルト教団という閉じた組織に順応した思考形態なのでしょう。リーンズィ、貴官は少しドキドキしました? 積極的に接触してくるとは予想できませんでしたが」
「肉体を興奮させることで、メディアに刺激を与えられるかと考えた。聖歌隊の彼女たちの日常は、そういうものだったのだろう?」無表情に、頭部の水仙の花飾りに偽装された人工脳髄に甲冑の指先で触れる。「肉体の記録、そしてミラーズと君のコミュニケーションから予想されるスヴィトスラーフ聖歌隊の行動規範に従って、肉体に適当な動作をさせたに過ぎない。だが無駄だったようだ。生前に経験したであろう行動を踏まえてみても、人工脳髄の方からはやはり具体的なデータを引き出せない。ただ、彼女たちがかつてどの程度親交が深かったのかは察しが付いた……」
「いいえ、貴官は理解していません。換言します」嘲るような調子を抑えて、淡々とユイシスが問いかける。「肉体ではなく、貴官自身、リーンズィに質問しています。貴官は、どのように思ったのですか」
「私に固有の思考は存在しない」
「それ故に、です。新しい肉体に意識を移したことで、思考に変化は生じていませんか? 例えば当機、及びミラーズの『外観』に関して新しい知見を得てはいないでしょうか」
「統合支援AIとして、自己連続性のチェックでもしているのか? 外観の知見か……キジールから借り受けている肉体は小さく、格闘戦に向かない。眉目が整い、交渉に際して有利な外見をしている。主観的にはそれだけだ。特に何も変わっていない」
それだけだ、と繰り返しながら、リーンズィは腕を組んだ。
頬杖を突くようにして甲冑の手で、頬に触れた。
金属の冷たさに目を細めながら少し考えた。
「……いや、主観的な変化があるな。親機側の肉体にいる時は外観のより少し、美人に見えるか? 印象の問題だが。魅力が増している……増していない……どうだろうな」
「その癖は先ほどまではなかったものですね」鏡映しに頬杖をついたユイシスが指摘する。「レポートの課題に何を書くか悩んでいる女の子のように見えますよ」
「自分の端末に入れ込む思春期のAIをどう扱えば良いのかレポートに書いて、学位でももらうおうかな。もっとも、学位証明書の代わりにカウンセラーへの紹介状を渡されそうだが」
「ユーモアレベルの評価を更新しました。可愛い女の子の顔で言うと、ユーモアもまた違って聞こえます」
「そういうものか」ふむ、と唇を引き結ぶ。「自分自身では全く分からないが……」
「貴官には、致命的に人間性というものが欠けています。当初懸念されていたほど壊滅的ではないようですが、アルファⅡモナルキア起動用にチューニングされた肉体では、やはり情動の獲得というものに限界があります。しばらくはその脆く、愛らしく、機能を限定された肉体で、生の感覚を味わうと良いでしょう。それでこそ無益な争いを止めることに真の意義を理解できるはずです」
ふむん、とリーンズィは喉を鳴らした。
「機能を限定されているとは言っても、全身を不朽結晶連続体で覆っているのは、最初の肉体と比較して上位互換なのだが……」
不朽結晶連続体で形作られた精巧な両手の甲冑を開き、閉じ、また開く。そして乳房に沿って布地が盛り上がる胸部に触れながら「何故ろくに装甲をしていないのだろうな」と怪訝そうに問う。
「全く奇妙な装備だ。手甲にしてもそうだが、随所に凝った細工がされている。私の本体のガントレットと違って精密動作にも影響しない。見かけよりもコストが高そうだ。このヴァローナという少女もまた愛されていたのだろう、私は愛など知らないし、彼女への愛がどのような愛かも知らないが……」
「同意します。少なくとも裸身にインバネスコート一枚という装備に合理性はありません」
「加えて、異常に薄い。コートとして見栄えが効くようにはなっているようだが」
アルファⅡのヘルメットの側の視点で改めて確認する。
少し姿勢を調整すると、ある程度コートの内側にある少女の体のラインが浮き出るようになっていた。
制作者が意図して奇妙な工夫をしない限り、このような倒錯を抱えた服飾が成立することはない。
「胸部ぐらいは布ではなく装甲板で覆うべきだというのに、布を胸の形に固定することで代用している……どういう加工技術なのだろう」
不朽結晶連続体を繊維状に加工するだけでも極めて困難な作業だが、戦闘用であるらしいこの装備、突撃聖詠服にも同様の偏執が注がれている。酷く奇妙な工夫が丁寧に施されたており、貞淑そうに見えてアピールが露骨だ。
キジールやミラーズの着ている行進聖詠服とは異なり、踝までをコートの裾で覆って、しかも運足のための空間を確保している。マスクを外した状態を遠目に見れば、あるいは修道服のように見えなくも無いだろう。
だが近寄ってみれば、行進聖詠服の下に納められているのが溌剌とした若い肉体であることを強調しているのが分かる。厳粛な総体へ扇情的な意匠を組み込んでいるという点で、反道徳的であり、ミラーズの行進聖詠服と本質的に大差ない。
「何を願ってこんな衣服を与えたのだ。シィーの記録に従えば、聖歌隊の信徒たちは『神に愛された聖歌隊を通して、神に己の信仰を示し、その御許へ導かれる』、そして対価として、こんな装飾ばかりが行き届いた低機能な装備の『寄付』を得ていたわけだ。私の生前の文化圏は不明だが、それでも分かる。少なくともハリストスとやらは色欲の神では無かったはずだ」
「訂正を求めます。彼らは救世主など信じていなかった。信者ではなく異常な性愛を持ったスポンサー、顧客といったものでしょう」
ユイシスが少女の顔に珍しく明確に不愉快そうな色を浮かべた。
「彼らはキジールを、ヴァローナを、数え切れない不死病の少女達を搾取していたのですよ。唾棄すべき存在です。不死病患者を二重に搾取する悪徳者に過ぎません。あわせてスヴィトスラーフ聖歌隊もやはり道義的に許容不能です。軍事施設占拠を考慮せずとも、公然と不死病患者を商いに使っていたという事実だけで断罪に値します」
「だが当の彼女らはその時点で不死病患者であり、人工脳髄を埋め込まれ、生前の人格を再生された本物の不死だったわけだ。そしてその時点でもまだ、不死病患者は法的に無権利状態であると見做されていた。彼女たちは救いを求めて、求めた結果として災禍となった。スヴィトスラーフ聖歌とは詰まるところ、聖歌隊は時代の歪な形に合わせて成長した悪性の腫瘍に過ぎない。誰も彼らを救わなかった」
だから彼女たちは創ろうとした。
不死病による千年王国を。
一人で楽しげに議論を続けているミラーズを、キジールの残骸を、じっと眺める。
彼女はテロリストだ。世界を滅茶苦茶にした。
だが最初に手を出したのは世界のほうだ。
世界が彼女を滅茶苦茶にしてしまった。
「シィーの記録を繋ぎ合わせて分かった。キジールの素体がオリガルヒに連なる存在だったのは事実だ。そこからマフィアに誘拐されたのも事実で、地下街の悪党どもに売り飛ばされたのも事実だ。そこから先には幾つか分岐があったようだし、我々の記録とも異なるが……両足の腱を切られ、尊厳を破壊され、一児の母となった彼女を助けたのは、聖歌隊だけだ。いや、聖歌隊自体が救われなかった不死病患者の集まりなのだから、実際には誰もが彼女を救わなかった。生家の家族でさえも」
世界で最初に不死病患者への人工脳髄による人格再建の演算、ブレイン・インストールに成功したのは、スヴィトスラーフ聖歌隊だ。
教祖であるスヴィストラーフは、不死病の歴史において最も早くに患者の救済に乗り出した人物でもある。軍事、医療、一応の神学的知識を持っていたと記録されている。
彼は少なくとも初期においては必死に不死病患者たちを救おうとしていた。
そして不死病患者の本質的救済のために研究されたはずの技術は、斯くの如く背徳の花となって結実した。
リーンズィは目を細めた。
時に怒り、時に笑う。ミラーズ。年頃の少女そのもに見える彼女が、どれほどの汚濁に染まってきたのかを考えたとき、表現しがたい焦燥感に胸を締め付けられた。
「救うすべはないのだ。立場や状況が改善されても、彼女たちがやらされていた行為は、地下にいた頃とそこまでの差異は無い。救われてなどいなかったのだ」首を振って、己の手を見る。衣服を見る……。「状況はさらに悪化したと言って良い。信者どもにしても、最初は欲望に突き動かされていたのだろう。それが散々金銭や設備を巻き上げられて、最後には不朽結晶連続体まで貢ぎ物にしているわけだから、ただの顧客とも言い切れまい。肉体に神の祝福を、少女たちから感染を受けて神の恩寵を受けた不死となるのであるから、現世での富は不要となる。そしてさらなる伝道のために富を手放すことは善行だ。最終的には全財産を聖歌隊に差し出す。彼らの行動に破綻は無い。二つの神に仕えることは出来ないというが、彼らは富では無く最終的に彼女たちを選んだのだ。宗教としては、ある意味成功していたのだろう……もっとも、彼女らには『原初の聖句』があった。美と言葉が彼女たちの武器だった。彼女たちも丸きり搾取されていたわけではない」
「では彼女たちは加害者側だったと言いたいのですか?」
「分からない。だが世界に悪はあった。誰かが何かを壊され、その報復にまた何かを壊す。悪はそうして息づいていたはずだ。誰しもが戦うことを強要されていた。彼女たちは己を切り売りして、奪われた世界を買い戻していたのだろう」
アルファⅡの黒い鏡面の世界で、凍てついた目の少女が、誰も手を差し伸べてくれはしない荒れ果てた土地で立ち竦んでいる。
「誰かがそうせざるを得ない状況に追い込んだ。こんな形でしか彼女たちを救えなかった。我々の世界を導けなかった。悪は確かにあったのだ。何時の世にも邪悪は付きまとう。だがそれら邪悪はどこから湧いてくるのだろう? この世界のどこから悪徳がやってくる……?」
天使のような金髪の少女はただ、脳髄に埋め込まれた血濡れの兵士と言葉を交しあい、囀りあい、不安など何も無いかのように、朗らかな声を……。
「何が彼女たちの手を血で染めた」吐き出され言葉は、意識した以上に熱が無い。「誰が邪悪を吹き込んだ……」
「リーンズィ。大義を見失わないで下さい」ユイシスが淡々とした声で呼びかけた。そして嘲るような例の声で囁きかける。「肉体に引っ張られて、御伽噺の騎士様みたいな物言いになっていますよ……」
ユイシスは金髪の少女のアバターで手を伸ばし、リーンズィの頬にそっと触れた。そして軽く口づけして、微笑みかけた。
説法するときのキジールの模倣をしているのだろう。
「貴官の任務は旧世界保健機関の事務局の探索、あらゆる争いの調停、そしてポイント・オメガへの到達です。目標に関して不明点が生じたのであれば、当機に相談することを推奨します。そのための当機、そのための統合支援AIです」
「これまで判断の難しい状況には遭遇してこなかった。まだ三日も経っていないが……私には調停が分からない。何を以て調停とするのだ? 何と何を、どう止めれば良い。聖歌隊にしてもそうだ。道義に反すると知りながら聖歌隊の少女を求める資本家。その対価に大規模テロのための資金を得る少女。あるいは彼らを両方とも破滅させようとする第三者……彼らと遭遇した場合、私が手を下すべきなのはどれだ?」
「状況次第です、リーンズィ。調停とは、目標を善と悪とに切り分け、ただ一方に加担することではありません。それだけは明白です。しかし貴官は、貴官自身に定められた調停のやり方については、疑問を持っていないものと思っていましたが……。本来ならそのような思考判断すら必要ないのですから」
「疑問は持っていない」
リーンズィは、アルファⅡのバイザーを覗き込み、己の憂鬱そうな美しい顔貌を見遣り、ミラーズが時折そうするように、己の体を抱きしめた。
「うん。落ち着くな。ただセクシーさをアピールするだけのポーズかと思っていたが……」
「疑義を提示。不安なのですか、リーンズィ?」
「いいや。ただ、憐れに思うのだ。調停するだけでは足りない気がするのだ。何かもっと良い形で、せめて彼女たちだけでも救ってやりたいと考え始めている。ミラーズには……酷使されるだけのエコーヘッドでいてもらいたくない。識閾下でどのような議決がなされているのか、端末たる私は知らない。だが、ああやって笑っているべきだと感じたからこそ、私は処置をしたのではないか……」
「警告。当該の思考は現在の心象から来る記憶の改竄です。現実を見誤らないでください」
「しかし、少女一人笑顔に出来ない機体に、何が救える。世界は『時の欠片を触れた者』の再配置に巻き込まれ、おそらくもはや地上から不死でない人間は消え失せた。出来ることには、どうしても限りがある。関わりを持った人々だけでも救われてほしいと願うことは、間違いではないと私は考える。この肉体にしてもそうだ。永久に私に支配されていて良いはずが無い。過去の記憶を破壊されたままで永久に彷徨うことを看過するほど、調停防疫局のエージェントは冷酷では無いはずだ」サイコ・サージカル・アジャストの軛から外れた思考が、寸時思考を紡いだ。「誰だって、そんなことのために戦ってきたわけじゃない……」
「その点は肯定します。間違ってなどいません」
「私に与えられた機能をそのまま使っては、願いは果たされない気がする。私はどうすれば良い?」
「貴官の自己連続性評価を微修正します……貴官は良い機体に成長してきましたね。スチーム・ヘッドに時間切れはありません。少しずつ考えて、変わっていけば良いかと推測します」
「そんなものか?」
「そんなものです」ユイシスは笑った。
ユイシスに心というものがあるならば、それはまさしく、心からの笑顔だった。
どこか安心しているようにリーンズィには見えた。
ミラーズとシィーは、一つの肉体を使って未だに論戦を続けていた。
ある種の音楽史の細分化や教会音楽の通俗化を議題として、何が駄目で何が良いのかの線引きを延々と繰り返している。
シィーはいよいよ時間切れが近いはずなのだが、全く気にした様子が無い。
ミラーズの首輪型人工脳髄で神経発火を解析しても、つかみ合いでも始まりそうな熱気とは裏腹に、内奥には歓びと興奮が溢れ、二人の精神状態は良好だった。
最後に好きな音楽の話が出来る。
それは幸せな終わり方だ。
このままでも本望なのだろう。
リーンズィは手持ち無沙汰で、自分の装備のチェックを再開した。肉体のインバネスコートと手甲が完全に分離しているのに注目した。ケープの部分に隠されているせいで分からないが、手を上げると無毛の脇が露出している。脇関節の可動域を確保しようという意図が認められ、それなりに実用性を考慮している部分もあるのだなと評価を改めた。
手甲の留め金を外すと、滑らかな肌と、斧槍に似つかわしくない手指が現われた。雪面に手甲を置き、指の柔軟性を確かめる。元はガールズバンドのギタリストだったという話だが、不死病の再生効果によるものか、手の角質は消滅している。それを抜きしても、ギターよりはピアノが似合いそうな手先だった。
「改めて観察すると指が長いですね。ギターを演奏していると伸びるのでしょうか」
ユイシスがくすくすと笑いながら、リーンズィの手を撫でた。そしてまた唇を重ねた。
ミラーズは背後で何が起きているのか気付かず主張を続けていた。「だから新しい教会音楽がロック調のニュアンスを含むことはおかしくないのよ、大衆にこそ開かれていないといけないのだから、伝統的な形式に拘りすぎるのでは本末転倒であるという指摘は認めるわ。しかしそれはあくまでも開かれた教会という理念を担保するためのもので……」
アルファⅡのプシュケ・メディアの内容を参照しつつ熱弁を振るっていたミラーズが、唐突に我に返った。
見れば、ユイシスがまるで恋人のようにヴァローナの腕の中に潜り込んでいる。
そして他の少女の手にありながらも、ミラーズへと蠱惑的な笑みを向けてきた。
露骨な挑発だ!
金髪の少女は「ちょ、ちょっと!」と慌てた。論戦の趨勢など通り越した様子で「リーンズィ、ユイシスと何してるの?!」と不機嫌そうに詰め寄ってきた。「ヴァローナの体を得たからといってそんな……ダメです! ダメ! ミラーズは私の大事な人なんだから、リーンズィには渡せません! どうしても気持ちが抑えられないというのなら、あの、あたしのことを好きにして良いから……」と言ってガチャガチャと留め金を外し始める。
「おいおいおいおいおい俺もいる俺もいるそれはダメだってマジでダメだ」と焦って連呼するシィーの思考など完全に無視していた。
「否定します。良くは無いですよ、私の大好きなミラーズ」
ユイシスが一瞬姿を消し、金髪の少女の傍に再出現した。
そして真正面から抱きついて、唇を重ねる。赤らめた頰で微笑した。
「謝罪しますね。男の人とあまりにも楽しげに話していたので、つい嫉妬してしまったのです」
「ああ……ごめんなさい、そうよね。あたしはユイシスのもの。不用意に男の人とのお喋りに夢中になるなんて、良くなかったわ」同じ顔をした少女に唇を重ねる。「許してね、あたしの愛しいユイシス」
「待て待て俺も今ので冷静になった」とキスに対抗しながら切り出したのはシィーの人格だ。「言い争いしてる余裕はない、キジールとキジールがいちゃついてる訳の分からん光景から離れるためにも本来の目的に戻らんと」
女と女は分かるが当人同士って何なんだよ、しかも相手は仮想存在じゃねえかと、リーンズィのもとにやり切れなさの滲む電文が電文が来たので、「本人たちの趣味に干渉すべきではない」と率直な意見を送り返した。「見ているとヴァローナの心臓が華やぐので、私は好きだ」
「何て言うか……お前も思ったより変わった趣味してるな。俺も肉体側がアレコレしてても無を保てるようになってきた」
「……とにかくデスメタルなんてやめて、あたしの歌で妥協したら?」ミラーズが切り出した。「あんな卑猥な歌聴いてたら天国の階段は上れないわよ」
「聖歌隊とは言え、お前だって賛美歌ばっかり歌ってたわけじゃないだろう?」ごしごし口を拭う。「一昔前に流行ったような、やかましいポップスを聴いて気に入って、それでフンフン口ずさんでるのを、他の時間枝で何回か見たぜ! なのに、ヘビメタは何で駄目なんだよ」
ミラーズは目を伏せて俺の自身の肉体を抱きしめた。「ポップな音楽は好きよ。外にしか無い、とても明るくて楽しい音楽です。ですが、貧民街よりももっと酷い、薬物中毒と病の蔓延した退廃の地下街で、愛好される音楽がどんなものか、想像がつかないわけじゃないでしょう。吐き気がするような爆音と聞くに堪えない猥褻な歌詞! それと変な電子音と退屈な主旋律、ぐちゃぐちゃの取り合わせ!」
「いやだからそれデスメタルじゃ無くてたぶんプログレとかエレクトロニカとか、電子音楽だって……」
「良い思い出なんて一つも無い! エコーヘッドになったって記憶からは消せない……だって音楽なんだもの。音楽がある限り、あの吐き気のするような音楽のことも忘れられない。そんなものを好きになれるほど、あたしは割り切れてないのよ」
「分かった、分かったよ。悪かったよ。お前の気持ちもよく分かる。俺の負けだ。テクノサウンドは……クソだよな。特に極限状態で聞かされるエレクトロニカは嫌な感じに耳に残るだろうと思う。でもデスメタルとは全然違うからな……」シィーは渋面を作る。「でもよ、とにかくメガデスの楽曲は俺の思い出なんだ。最後の最後に一回でも聞かせてもらいたいんだよ……」
「もちろん、同じ体で過ごした仲です。どうしてもと言うなら、あたしだって無碍に扱うつもりはないわ。まぁ、聞かせて上げること自体は、認めても……」
しゅばっ、と派手な瞬間移動モーションでユイシスがミラーズの背後に回った。
そして、ぽん、と肩に手を置いて、笑みなど一片も含まれていない、冷徹な口調で斬り込んだ。
「横から失礼します。もしかして誰か今エレクトロニカはクソと発言しましたか?」
「はぁ?! これもしかして藪蛇か!」シィーは両手を上げておののいた。「待ってくれよ、まさか電子生命体に音楽の好みとかあんのかよ」
「当然です。AIもエレキ存在ですからね。当然エレクトロニカも好きです。カットアップにサンプリング、グリッチノイズにドローンに……全てAI要素ですから」
「いやいやいや嘘つけ嘘つけ」
「警告しますが兎にも角にもエレクトロニカは言わばシリコン生命体の民族音楽、それを侮辱することは当機のようなAIへの差別に他なりませんよ。炭素生命の代表格だった人類が没落した以上、次は我々シリコンテクノ生命の時代。AIへのヘイトスピーチは身を滅ぼしますよ……」
割って入ってユイシスを猫のように持ち上げて引き離したのは、呆れ顔のリーンズィだ。
「二人とも気にしなくて良い。どうせユイシスの冗談だろう。本当のことを言うと彼女はシリコン素材なんて使ってないからな。100%不朽結晶連続体だ」
「ええ、ええ。冗談……冗談です。冗談ですとも」
ユイシスはぶつぶつと言いながら、リィーンズィに引き摺られるまま金髪の少女から徐々に離れていった。そして最後に「テクノとかのことクソって言う人は死後裁きに遭うからね……人工脳髄からデータ吸い出して一人だけ隔離サーバーに放り込んで『ダブステップ最高!』って言うまで教育してしまいたいな……いえ勿論冗談ですが……」と吐き捨てた。
「えええおっかねぇ……音楽の話、もしかして地雷か……? 嘘だろ、もうとっくに死後だぜ俺たち……これ以上こんなくだらんことで揉めんのかよ、千年王国ダメじゃん」
「あなたにはまだ単に王国に入る資格が無いのですよ。あ、そう言えばあたしと肉体を共有してるから、最後に擬似的な洗礼をしてあげることは出来るわよ」
「いや、いいよ。俺の終点はここって決めてるんだ。諦めるつもりはねぇ」
「ちなみに私は特に音楽の拘りはない」リーンズィは両手の手甲を合わせながら応えた。「環境音だけで十分だ」
シィーはあれこれと記憶を探っているようだった。
「ダフトパンクとか好きそうな外見だよな、本体って言うか、アルファⅡは」
「同意します。インダストリアルっぽいですからね」と機嫌を直したらしいユイシスに、ミラーズは「ダフトパンクって何?」と首を傾げた。
リーンズィも全くピンと来ていない様子だった。
「歌と言えば、ヴァローナは『歓喜の歌』が好きでした。リーンズィにも歌えるのでは?」
和気藹々とした雰囲気の中で、では試してみようかという気持ちがリーンズィに自然と芽生えた。
ライトブラウンの髪を揺らす。
水仙型の人工脳髄に触れる。
多少の楽譜データを取得できた。
最期の瞬間まで、このアンビバレントな美貌の少女はある一つの歌を気にしていたらしい。
「フローイデ……シェーネ……ゲッテー……違う。えっと、ふろーいで……しぇーね? げってー……うむむ」
「うわっ、全然ダメね。エージェントって歌が下手なのね……」
「擁護しますが、起動してまだ三日足らずです。パーソナルな記憶にはアクセスできないのですよ」
「そんな歌い方じゃヴァローナが『もう二度とやめて』って泣いちゃうわよ。今度教えて上げるから、無理に歌わなくて良いです」
そうか、と頷いて、リーンズィはしばし押し黙った。
改めてシィーへと問いかけた。
「それで、メガデスだったか。メガデスのレコードがこの集落のどこかにあるのか?」
「そう。それだよ。忘れたまま機能停止するところだった」
シィーは真剣な目でリーンズィを指差した。
「ここはどうやらそういう文化に拘ったゲーテッドコミュニティらしくてよ。古き良き時代で安らかに眠りにつきたい……そういう連中の集まりみたいなんだよな。廃屋にしても、何か意外と綺麗なのが多いだろ? 富裕層向けさ。隔離施設として出来るだけ長く稼動できるよう設計されてるわけだ」
再配置のせいで規則性の無いオブジェと成り果てた幾つかの建造物を無視すれば、シィーの言う通り外観は崩落の気配も無く、整った佇まいの家屋が多い。
ミラーズにコーヒーを振る舞った老夫婦の家もそうだったが、調度品にも略奪されたような痕跡は無かった。
「俺もこんなコミュニティに辿り着くのは初めてでよ、天の采配だと思った。終わりを迎える場所に相応しいと……まぁ探し出す前にばっさりやられたんだが」
「誰にやられたんだ? まだ聞いてなかったな」
「ん? ああ。その時の記憶はバックアップされてないから検索しても分からんか……たぶんヒナにやられた。俺の娘だ。どうやってこんなとこまで来たのか知らんがね。まぁ、俺は満足だよ……」
シィーは溜息を吐いた。
「お前らのオーバードライブ戦闘に付き合ったせいで予備のバッテリーがマジでもう尽きそうだ。劣化が進んでるから再充電は無理、取り替え用の部品も無しだ。エコーヘッドはお断りで頼むぜ。その上で頼みたい、メガデスのレコードとレコードプレイヤーを持ってきてくれないか? レコードもプレイヤーも動かせるなら何でも良いから。最後に聞いて、俺の人生を決算したいんだ……」
「構わないが。メガデスなんて言う物騒そうなバンドのレコードが再生産されてるのか?」
「されてるって! 電子戦争の後は精密な電子機器に頼らないレコードプレイヤーが主流になった。トレンドはレコードなんだよ、そしてメガデスは名盤揃いだからな、誰か一人ぐらい買って、コレクションしてる筈なんだよ。何の曲でも良いんだ! 頼むよ、あと十分ぐらいで、俺は永久におさらばだ。一抜けを待つ身で申し訳ないが、省電のために、ここでじっとしてるから、探してきてくれないか……」
切実そうな声音に、リーンズィは反論をしない。
ただちにその通りにした。
「助けられる者は助けるべきだ。助けたいという気持ちに逆らうべきでは無いはずだ。こうなるべきではなかったという演算を破却してはならない」という漠然とした思考を編みながら、半自動モードのアルファⅡモナルキアを連れて走り出した。
最初の家屋でメンテナンス性を重視した手回し製のレコードプレイヤーがすぐに見つかったので巨漢のヘルメットに抱えさせた。だがメガデスのレコードはない。
次の家にも次の次の家にもレコードプレイヤーはあったがメガデスのレコードは無かった。
軒先を潜る度に自己凍結した住民がぎくしゃくとした動きでヘルメットの兵士とライトブラウンの髪の美少女を目で追った。
「やあ、お騒がせして申し訳ない」とリーンズィはその都度言った。自我無き感染者は、ただ呆然としながら背中を見送った。
ユイシスが視界を操作する。ポイント。
ようやく見つけたレコードの束は腐食が進んでいた。
なるほど、名盤だというのは確からしい。メガデス。『安らかに錆びつけ』と題された一連のシリーズが固められていたが、生憎と屋根から漏水があったようだ。コレクションは腐食し、無事なのは一曲のレコードだけだった。だが十分だろう。
これもやはりアルファⅡに抱えさせて、急ぎシィーの元に戻った。
「よぉ、早かったじゃねぇか。ありがとよ、やっぱりあったなぁ……最後まで生きてるもんだな」
儚げに笑うシィーの前にプレイヤーを置き、レコードを乗せてハンドルを回し始めた。
内蔵されたスピーカーから、弦楽器の刻むようなリズムが緊迫感を以て流れる。シィーは安らいだ顔で聞き入っていた。
「ああ、懐かしい。この後が良いんだよ、この後が」
リーンズィはハンドルを回した。
どこか自暴自棄さを感じさせる男の声が「兄弟同士で殺し合う時代が来る、くだらない神や信条のために、俺には理解できない」と叫び始めた。「命令されて人を殺すなんてまっぴらだ」と。
その間にもシィーの脳裏に無数の記憶の断片が発火して、溶けた飴玉のように表情を緩やかなものに変えていく。
「メガデスか。確かに悪魔信仰という感じではないな。しかし随分反体制的な歌詞だな、エージェント・シィー?」
茶化すように微笑みながら尋ねるた。
返事は無い。
目を伏せたミラーズが、「音楽を止めて」と呟いた。
そして「んっ……」と息を吐きながら頭から人工脳髄を引き抜いた。
過熱したその金属質の塊を、しばし名残惜しそうに手の中で弄んだ。
「……シィーはどうした?」
「天に召されました。二人が辿り着いた時にはもうバッテリーが切れてたの。返事をしてたのは、霧散する寸前の、シィーの意識の残響よ……」
「そうか」リーンズィは無表情に頷いた。「彼は幸せだったろうか?」
「生命管制だと、気持ちはずっと安らいだままだったわ。この時代にしては、良い終わり方かもね。彼の残りはどうするの? エコーヘッドとか……」
「どうもしない。そのように約束していた」
「エコーヘッドにもしないわけね。安心したわ。彼、疲れ切ってるみたいだったから……もう十分戦った後だものね。装備は埋めてあげる?」
「使えそうな武器は回収する。物資を無視できるほどの余裕は無い」
「そう……」沈痛そうに返事をした後、「武器……?」と諦観の滲む声を出した。
黒いバイザーの兵士が、シィーのオリジナルのボディの残骸に近付いていく。
「まさかとは思うけど、まさか、まさかあたしが武器も持つ流れかしら……」
「君だけ丸腰では不便だろう」
「で、でもあたしの筋力じゃあの人の武器はどれも持てなくて」
と反論している間に、最も軽い武器をユイシスがポイントした。
アルファⅡの巨躯が武器を掴み取り、雪原に置いた。
左腕のガントレットを振りかぶった。
そして通常生産出来る中では最高硬度の不朽結晶連続体の刀剣を、それをさらに上回る強度の不朽結晶連続体で、強引に刀身を殴り始めた。
大量死と流血の時代では、武器は破壊からも現われるものだ。
「えっと、ああいう人にとってカタナって魂みたいなものって聞いたわよ?!」
「シィーの人格は消滅した。ならば、カタナの魂も、もう無いと考えるのが妥当だ。彼と一緒に消えたのだ」
「消えないと思うんだけど。付喪神って言うの? ものに魂が入る込むって言う姿勢もあるみたいだし。本当に用が済んだら尊厳とかそういうのは無視しちゃうのね……そういうの良くないですよ」
「そういうものか?」
「絶対にそうです!」
「そうなのか……」リーンズィの凛々しくも繊細な造形の顔に、粗相を叱られた猟犬のような、しょげた表情が浮かんだ。
「怒るに怒れないその顔、もし計算で創ってるなら大した物ね……」と溜息を一つ。
強引に刀剣を仕立て直したヘルメットのアルファⅡが、その凶器をミラーズに投げて寄越した。
ミラーズはそれを苦も無く空中で捕まえて、慣性をくるりと回って殺しながら続く二本目も的確にキャッチした。
そして軽く剣舞を演じて見せた。
一足毎に雪原が飛沫を上げて剣の奇跡を輝かせる。
うんざりした調子で両手の刀、正確には刀を破壊して持ちやすくした、ただの刃物を見ながら、「確かにコピーもエコーヘッドもやめろってお願いされたけど、技を盗むのはやめろとは言われてないわね……」と溜息をもう一つ。
これはシィーの身体操縦技能だ。
首輪型人工脳髄で記録した運動情報のデータから、ミラーズは完全では無いにせよシィーの体運びと剣技の模倣が可能になっていた。
もちろんトレースはアルファⅡモナルキアの指示によるものだ。無意味にヴァローナと戦闘させたのも、無意識ではあろうが、こうした技をミラーズに焼き付ける意図があったのかもしれない。
アルファⅡがレコードプレイヤーを予告無しに投げてみると、それらは剣閃に飲まれて一瞬で四分割され、弾き飛ばされた。
シィーの人工脳髄が刺さっていた穴から血を零しながら、金髪の少女は呻く。
「あのね、あの、気のせいかも知れないけど……話が、話が違いすぎない……? シィーに体を好き放題にされたのは、赦します。でもあたし、本当に最初の最初は、こういうことするためのエコーヘッドにされたわけではなかったはずよね」
「命令はしない。君の自己防衛のためだ」
「そう言う処理かもしれないけど、まさか自分の手で刃物振り回すようになるなんて……」
脳漿混じりの血液が涙のように頬を伝い落ちる。
不死病の血は、花の香りがする。
そして命令が下された。
ミラーズが、洗礼でも与えるかのように、己の血をシィーのプシュケ・メディアに塗布した。
それから、二度と再起動させられることがないよう、一刀のもとに切断して破壊した。
「貴官の魂に安らぎのあらんことを」ユイシスが唱える。
「あなたの魂が神の御許で安らぐことを」ミラーズが唱える。
葬送の色は、手向けられた赤い花に似ている。
剥離していく血の破片。
花弁となって冷たい風に舞い踊る。
その血の花も、やがて雪面に落ちた。
溶けて跡形も無くなった。
ヘルメットの兵士が大地に拳を突き入れた。
リーンズィは破片をそっと陥没へと注ぎ、優しい手つきで土を被せた。
適当な刀を一本、墓標がわりに突き立てる。
機械に封じられた偽りの魂は、もう、どこにも向かうことはない。
「任務終了だ。エージェント・シィー」
彼の旅は、ようやくここで終わった。