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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション4 殺戮の地平線  世界生命終局管制機 アルファⅣ<ペイルライダー>
166/197

幕間 Into That Good Night マルボロ(3)/虹のたもとまで

年末から自我が停止していました。

本年も終わるまでよろしくお願いいたします。

 二人が猫に追い付くことはなかった。

 馬は怯えることなく木々を擦り抜け、草間を進んだ。

 静寂の支配する森。昼間だというのに妙に薄暗い。

 どうにも厭な心地がして、抱えている少女に「何か匂いがするか」と尋ねた。

 不死病患者の嗅覚は同属と異物に対してのみ鋭敏で、他の部分では生者に劣った。


「マルボロからは煙草の匂いがするよ」


「俺じゃなくて。森はどうだ?」


「プロトメサイアの都市と同じ匂いがするね」と少女は静かに答えた。


 プロトメサイアの都市。クヌーズオーエに構築される予定の理想都市アイデスのことであろうか、と男は思考を巡らせる。

 まだ実現していない都市であるため、具体的に例示されるのは奇妙だ。

 しかしそのアイデスにしたところで、継承連帯が過去に造り出してきた人類の居住地と比較したとき、天地ほどの差があるのかと言えば、当然無い。

 それどころか、うわべに関しては殆ど見分けが付かないに違いない。

 少女は先ほどプロトメサイアと遭遇したせいで、そちらに思考を引っ張られているのだろう。


 継承連帯が計画する都市は、どのような題目を掲げていても、極めて画一的だ。工業的かつ人工的な街並み。空論を寄せ集めた完全環境計画都市(アーコロジー)。半永久的な都市運営を標榜する、現実に持続可能であることを一度も実証されていない砂上の楼閣。

 生命の質感を欠いたコンクリートの連続体。

 より大きな檻。より大きな牧場……。

 この森は、それらの管理された都市群と何ら変わらない。

 すなわち、少女は、そう看破したのだ。

 まさしくその通りだった。死んだ土。死んだ木々。形象だけを整えられた骸の森。

 耳を澄ましても鳥の囀りが聞こえてこない

 目に見える限り一匹の虫も見当たらない。

 森に見えるが、森ではない……。

 大地に対して息衝いている物体が、存在していない。


 西欧文明において、森とは人類がいつか支配するべきものだった。

 聖典は語った、「大地を支配して動物と植物を貪れ」と。

 馬が蹄を鳴らすこの森は、その理念の究極系だ。

 自然に作られた命が一切ない。

 人類文化を仮初めに継承するために作り上げられた紛い物の自然。神たる戦争装置が認めない生命に、もはや居場所などありはしない。生態系を維持する最低限の生物すら排除されている。

 この森も管理が途絶えれば簡単に腐り果てて消え去る運命だ。

 あるいはいずれ樹脂によって塗り固められ、滅びることすら許されず、墓標のように半永久的にこの地に留められるのかもしれなかった。


 これは、現在の人類文化の在り方そのものだ。

 未来など無い。

 象られた嘘だけがある。

 こんな場所に来るのではなかった、と男は思い始めた。

 少女の熱を胸に感じながら、沈黙のうちに森を進んだ。

 馬の息遣いだけがやけに大きく聞こえる……。

 死んだ森。虚栄の森。命なく未来なく……。

 灰色の影はそこかしこに見え隠れしていたが、そのどれもが猫では無い。

 せめてもの希望にと、猫を探す。

 猫を探す。猫を探す……。

 灰色の喜びを、幸せの形を探す……。

 終わりの森。滅びる森。

 熱なく、自由なく……。

 全ては虚構。

 猫などどこにもいない。


 来るのではなかった、と男は繰り返し思う。

 つい、勢いで牧場から離れてしまったが、それは柵を馬が跳び越えたとき、自分が少女の代わりに受け止めた衝撃で脊髄と腰部骨格が破損し、苦痛を緩和するために脳内物質が大量に放出されたからだ。

 人格の演算が正常化して醒めていくにつれて、男は少女を連れ出したことを間違いだったと考えるようになっていった。

 死灰じみた冷たい森。

 木漏れ日もない、この死んだ森。

 鬱蒼と茂る葉の下では馬上から見える全ての影が心許なく、不確かであった。

 闇の谷を歩いているかのようだった。

 鼓動は馬の心臓に一つ。

 馬に跨がる二人にそれぞれ一つ。

 たった三つだけの心音。

 それが、偽りの木々に飲み込まれて、消えていく。

 何も、何も聞こえない……。


 人類は後継たる生物を定めないまま絶滅という終末へと突入した。

 不毛な物資争奪戦によって日常が戦争になり、溢れかえった死なない怪物たちがその存在で以って世界の領有権を主張し始めた頃、全自動戦争装置が管財人(トラスティー)となって、人類の負の遺産を全て引き受けた。

 彼女は遺産を精算し、全てを自分の戦争を継続するための資源へと変えつつある。

 皮肉なことに原初の始まりから敵を倒し、経済を安定化させるよう命じられてきたこの機械の展開する戦争が、地上に残された戦争の中で、最も人間らしかった。

 とは言え、戦争は戦争に過ぎず、どちらかが敗滅するまで終わらない終末戦の最中であり、枯死した未来の待つ鋼鉄の線路の上であることに変わりはなく、あらゆる命は戦争のための資源となり、ことごとく消費されるだろう。

 骨の髄、灰の一片が燃え尽きるまで。


 見せるのではなかった。

 男は、不死の心臓に憂鬱の影が訪うのを感じている。見せるべきではなかった。

 外には少女の知らぬ希望がある。

 まだ見せていない風景がある。

 だがそれは、男の妄想、妄念、願望の類だ。

 真実は異なる。

 外にあるのは虚無だけだ。

 人類文化だけではない。

 ことごとくが死に絶えて、虚構の豊穣が据えられている。

 賛美するに足る生命の栄華すら、既に柵の内側にしか無い……。


 皮相なことに、外側の外側に行き着けば、比類の無い生命の豊かさがそこに広がっているだろう。

 スヴィトスラーフ衛生帝国の作り出した怪物たちは、防衛ラインの向こう側で戦争装置の砲火に晒されて、無限の死と再生を継続している。

 それはどうしようもない命の奔流だ。濁い荒れ狂う大河の如き不滅。

 血と肉と汚泥に形を変えられた『生命』。

 それだけが、どこまでも、どこまでもある。


 この不死と破滅の時代、人類の行く末は二つに一つだ。未来の無い不死の怪物に成り果てるか、戦争装置の資源として歴史を繋いでいくか。

 後者の方が、滅びるよりは良いだろう。

 ただし好悪で言うならば、男はどちらの未来も気に入らない。

 いくらかの変容を遂げて尚、彼は極めて古い価値観の人間性を維持していた。人間は自由に地球を闊歩するべきであるし、くだらぬ制約で人倫を歪められてはならない。

 何より子供たちは、未来に希望して生きるべきだった。

 至って素朴な物の見方であるが、それ以上の価値観の更新が出来なかった。


 男は背後を振り返る。

 柵は遠い。

 見渡す限りの凍てついた現実。

 不規則行動を繰り返すメリットが考えつかない。


「心音が迷っているね」不意に少女が言った。「ここに来たことを、すっかり後悔しているというわけだね。馬が勝手に柵を跳び越えたんだ。後悔するも何も、君に選択肢はなかったと思うけど」


 それもそうだ、と男は息をつく。


「……猫なんて見なけりゃ良かったな」


「でも猫はいただろう?」


 確かに猫はいた。

 だが、あの猫も、生きた本物の猫だった可能性は低い。

 この森を見よ。書き割りじみた、形ばかりの生存。呪わしい形骸の森である。

 そこに、ずんずんと、躊躇なく進んでいく猫など、ありえようか? 

 本能的に忌避して離れていくのが自然な行動だ。

 猫は、本当にいたのだろうか? 

 本当の猫が……?


「ああ、猫さんだ。見てご覧よ、マルボロ。そこに、彼女はいるよ」


「猫。猫なぁ」


 馬が足を止めた。何かはいるらしい。

 男は諦観を胸にして、向き直る。

 先ほど柵越しに視認した際には、おそらく、少女に本物の猫を見せてやりたいという感情が、純粋な認知を濁らせてしまっていた。

 改めて観察すれば、違ったかもしれはい。

 それはもしかすると、歯車と発条で動く偽物の猫であったのではないか。

 今度こそ見極められるだろう。

 外側の世界に失望を抱いた、今の人工脳髄であれば。


 果たして、そこには、見知らぬ小柄な少女が、ぽつねんと立っていた。


「は?」


 くせっ毛の愛らしい、飾り気の無い貫頭衣を纏った、清潔な佇まいの娘であった。

 ただし猫らしい要素は無い。

 強いて言うなら、髪の毛が猫っぽいもつれ方をしている。

 立ち姿は完璧で、汚濁とも悪徳とも無縁そうに思える。教会で聖歌を奏でる一団に混じっていても違和感はあるまい。

 整った目鼻立ち、呑気ささえ感じさせる無表情。

 どことなく懐かしさを覚える、清純で素朴な美貌。

 そした、見た目だけなら、馬上の少女よりも幼く見えた。


「ほら、猫さんだよ」


「……これが猫なら俺も猫だろうな」


「そうだよ?」


 そうだよ?ではなかった。

 どうであれ、明確に猫ではなかった。

 しかしこの娘は、猫でもないが、人間でもない。

 そのことにはすぐ気付けた。裾や襟元から覗く肌の、困窮と破滅の時代には似つかわしくないほど瑞々しさ。

 肉体の完全さと矛盾するほどに生気の無い瞳。

 間違いなくスチーム・ヘッドだった。人工脳髄の類が見当たらないが、背骨等を人工脳髄に置換した機体の研究開発が進んでいると聞く。

 生存に直接関与しない臓器を取り除いて、そこにバッテリーまで搭載してしまうため、見た目上は全く機械らしい部分が無い。

 放熱や発電能力において劣るが、静粛性に優れ、市民からの共感も得やすいという話だ。

 無論、そうした機体は極めて高度な技術の産物であって、完成した実機がいるとまでは聞いたことがなく、よほど珍しい存在ではあったのだが、男は自分の直観を疑わなかった。

 それ以前の問題として、その少女があまりにも場違いな有様なので、とにかく唖然としてしまっていた。


「おはようございます」と黒衣の小さなスチーム・ヘッドがぐぐぐ、と伸びをした。「ロングキャットグッドナイトです」


「……ロング……ロング、なんだって?」男は聞き返した。「いや、どこから現れたんだよ」


「わたしキャットの心はいつでも猫と共にあります。なので実質猫と言えますが、同時に猫ではないとも言えます。猫の量子的揺らぎ……コルトはそう呼んでいた気がしますが、猫は科学ではないので、理解しません。量子力学でもありません。同時に、全ては、猫です。猫はいます。猫はお日様の温かさなので、実質全世界に猫が降り注いでおり、人の心にぬくぬくと寄り添っており、ごまんぞくです」


「ああ、はい、諒解です」


 愛らしい外見にそぐわない、淡々として異様な圧のある物言いに、男は怯み、つい事務官と話しているときのような返事をしてしまった。

 謎のスチーム・ヘッドの口から「コルト」の名前が出たのは聞き逃さなかった。それだけは幸運だ。


「……コルト、これ、知ってる人か?」


「難しい質問だね。『そう』『やや違う』『そうではない』で言えば『やや違う』かな」


「お前さんはいつからアンケート用紙になったんだ」


「お二人は、どちらへ行かれるのですか?」


 少女の姿をしたスチーム・ヘッドは、どこか間延びした声で問いかけてきた。

 どこへ? 何故そんなことを問うのか。

 ――決まっている。彼女がそれを問うべき身分にあるからだ。

 継承連帯はこんな子供までスチーム・ヘッドにしているのかと心に澱が積もるような心地だったが、相手がどうしてここにいるのか考えた途端、そんな曖昧なわだかまりは瞬時に霧散した。

 麻酔されていた心臓が早鐘を打ち始める。

 何をぼんやりと対応していたのだ、()()()()()()だ、と理解した。そうに違いなかった。継承連帯が同化・制圧した地域において、他勢力のスチーム・ヘッドなどいるはずがない。

 この娘がスヴィトスラーフ衛生帝国の似非スチーム・ヘッドである可能性も極微だ。男が知る限り、衛生帝国の正式な戦力のうち、生身の人間そっくりな機体は記録に無い。


 論理的に考えれば、目の前の機体は、全自動戦争装置が意図的にこの森に配置した機体だ。

 おそらくはあの牧場の運営に関係している。継承連帯における非戦闘用スチーム・ヘッドの地位を考えれば、後方に配置された彼女は相当な権限を持つものと考えるのが妥当であり、今回のSCARたちの来訪も知っていたに違いなく、そしてこの状況にあっては間違いなく問責の権利を持つ身分だった。


「どうしてここにおられるのですか? どちらへ行かれるのですか?」


 少女は、朗々とした、それでいて平坦な声で、あたかも子守歌でも口ずさむように問いかけてきた。


「猫は元より綿雲に乗って眠り、気になる星座に猫パンチをするご自由気ままな存在です。でも、みなさまは? みなさまは、とても高い柵に囲まれていたはずなのでした」


「私たちは柵を跳び越えてしまったんだ」腕の中で少女が平然として言った。「すごかったよ。馬が、木板の一枚一枚を駆け上がっていってね。気付けば柵の外だったのさ」


「ほ、本当なんだ、衛兵さん。とても信じられねぇと思うが、馬を走らせていたら、びっくりするほど高く跳んで……それでつい、こんなところまで来てしまった」


 全て事実だが、男は大層焦っていた。

 荒唐無稽が過ぎる。起きたことをそのまま話したところで、誰が素直にそうですかと納得するだろう。よしんば馬の真実を信じてもらえたとして、そこから先は事情が異なる。

 牧場から離れる進路で意図的に馬を進ませてしまったのは、単なる事実であり、男の明白な落ち度だった。

 第三者が見れば、育成中の重要個体が、管理区域の外に無許可で連れ出されているという状況である。

 何故か軽く考えてしまっていたが、資源の強奪を企てたと解釈されても反論が出来ない。

 即座の処断が言い渡された場合、男には、合法的に対抗する手段が無い。

 厳しい判断を覚悟した。

 しばしの沈黙の後、小さな衛兵は頷いた。


「そうですか」素直に納得した様子だった。


「信じてくれるのか?」


「猫は、深い堀も高い塀も、軽々と越えてしまいます。彼らの冬毛はもこもこで、これは空に浮かぶ綿雲と同じものです。ふわふわぷかぷかと空に浮かんでいくのが自然なので」


「なんていうか、猫じゃなくて、いや猫でもそうはならねぇと思うが、馬の話なんだが……?」


「では、猫の心なきお馬が、柵を越えますか。越えません。真っ直ぐに走って飛び越えようとしても、高い柵には絶対にぶつかってしまいます。でも、心の中に猫が居るのなら、猫のもこ毛が、雲の鎧のように馬を守り、空へと浮かべて、柵の向こう側に運んでくれることはあるかもしれませんので。お馬が柵を跳び越えたというのなら、それはあなた方の心の中の猫が、あなたたちの愛する馬に、猫の如き力を与えたのでしょう。ハレルヤハ」


「お前さんはいったい何を言ってるんだ?」


 男は困惑して衛兵を見ていた。

 少女の堂々たる態度と、あたかも世界の真実を語るかのような口ぶりで騙されそうになるが、全く意味の分からないことを言っている。

 だいたい、馬は猫では無いのだから、猫のような動きが出来るわけがない。

 正直なところ、男としては、「心の中に猫が居るのなら……」のあたりからついて行けなくなっていたが、最大限度譲歩して、馬が猫を心の師に据えて修練を積んだのだとしよう。

 それでも馬に猫の真似は出来ない。例えば人間であっても、蛇拳を修めたところで、赤外線を視覚化出来るようにはならない。蛇が暗所で獲物を見つけられるのはピット器官の働きだった。動きや精神性を真似をすれば人間に同じ器官が生えてくるわけでは断じてない。暗視装置でも付ければ話は別だが。

 同じように、仮に馬が猫を師と仰いでも、猫の敏捷性を獲得することなど出来まい。


 あるいは、言葉通りに理解してはいけないのではないか?

 男はロングキャットグッドナイトなる守り人の真意を探そうと躍起になった。

 おそらくここが生死の分かれ目なのだ。

 また、相対者の性能についても、必死に推測を巡らせた。何とも頼りない体躯の、女性の不死病筐体。肉体の筋肉量では勝っているはずだが不思議と自分が勝利する未来が見えない。

 整った目鼻をしているが、そのせいで余計に表情が読取りにくい。淡々とした口調に似つかわしくないほど言っていることがめちゃくちゃなのに、それでいて宣教師のように確信に満ちた語り口をしている。無表情さも奇妙な説得力も戦闘において有利だ。謎めいていると言うだけで相手の判断力を鈍らせ、行動のミスを誘発する。

 特務用の機体であろう、と戦力を分析する。

 非武装のように見えるが油断は禁物だ。

 当の男が、言ってしまえば本質的には旧型機に偽装した戦闘用スチーム・ヘッドだ。己の肺を炉として、不死病筐体の能力を何倍にも増幅させることが出来た。

 外観的な形式は何世代も前の型落ちだが、先手を取れるなら、現役の戦闘用スチーム・ヘッドを破壊するのも難しい仕事ではない。


 男だけではない。古い時代のスチーム・ヘッドであれば、どんな機体でも牙を隠しているものだ。

 自分と同じく、と男は沈思する。この幼い体躯の衛兵もそうかもしれない。

 男は緊張した面持ちで衛兵の次の言葉を待っていたが、彼女は一向に口を開かなかった。

 どこか「ぽえー」とした気配すら感じさせる和やかな眼差しで男を見ていた。


「……信じてくれるってことで良いのか?」


「あなたには、出来ないことが、出来ますか?」


 ――馬が高くジャンプして、柵を越えるなどということが、現実に有り得るのか?

 そういう問いかけだと男は理解した。

 即ち、お前自身はそれをどう思うのだ、という冷徹な切り返し。

 糾弾の言葉をぶつける前段階であろう。

 心臓の脈動から剣呑な気配を察したらしい少女が、ようやく窮状に気付いたらしく、男を安心させるように細い背中を預けてきた。

 男は少女が落ちてしまわないように左手で強く抱きしめた。

 何となれば、逃走すると決め込んでいた。

 男は、不死である。

 不死であり、兵士である。

 生きていた時間よりも死を失って戦っていた時間の方が長い。

 不死が蔓延していない時代においては、彼は無敵であった。輸送機から挺身降下して要塞に攻め入り、司令部を制圧して、一世代進んだ敵性スチーム・ヘッドを単独で破壊した経験すらある。

 生前修めた格闘技と不死病の特性を併せた独自の戦闘技巧は未だ健在だ。新鋭機を容易く下せるほどの優位性はないにせよ、度重なる改修で支援ユニットのモジュールを増設した現在のマルボロなら、破壊的抗戦機動(オーバードライブ)も限定的ながら使用可能となっている。

 永遠には無理だが、一度や二度なら逃げ果せられるだろう。


 だが、胸の中のこの少女はまだ、多少強化されているだけの人間だ。

 最悪の場合、ここで殺処分されることもありえる。

 継承連帯における人間の地位は極めて低い。

 危険思想を植え付けられたと見做されれば即射殺。あるいは過酷な拷問による思想洗浄と無期の奉仕刑が待っている。

 どちらの道でも最悪だ。進む未来に人間としての尊厳は存在しない。


 真相を信じてもらえればそれで良いが、物的証拠の無い真相は常に状況を悪化させる方向に働く。

 元々は、気の迷いでの散策だった。それが真相なのだ。

 脱走する気など毛頭無かった。それが真相なのだ。

 翻意などありはしない。それが真相なのだ。

 ひたすらそう訴えるしかなく、しかし結局真相というものは、相手がどう思うかで決まる。

 証拠もなく主張を繰り返す相手を、衛兵は決して信じないだろう。


 男は算段を立てる。逃走の算段を。

 この馬にはどれだけのポテンシャルがあるのだろう? 戦闘慣れしているスチーム・ヘッドなら、外骨格が無くとも、人間の限界を遙かに超えた速度で走行が可能だ。この素晴らしい馬は、その限界を超えて走れるのか? あるいは自分が飛び降りて足止めをすれば、人間の十六倍ある心臓が少女を連れて、安全な土地まで駆け抜けてくれるか?

 ……安全な土地? 男は自嘲する。安全な土地だと? 安全な土地なら背を向けた方向にある。

 あの牧場ほど不自由で、未来がなく、それでいて安全な土地など、ありはしない……。


 最善手は、ひとまず誠実に回答することだった。

 男は騎乗の状態を保ち、いつでも飛び降りられるように神経を集中させながら、他流試合に臨む剣闘士のように、自分より一回りも二回りも小さいその衛兵に応えた。

 馬に柵を跳び越えることが出来るかどうか?


「……出来ないことは、出来ないと思う。だが、出来た。それは本当に起こった」


 自分の言っていることは非現実的である。そう認めるに等しい愚直な応答だ。

 だが、声音には最大限の誠意を込めた。

 鬼が出るか蛇が出るか。

 沈黙。

 小さな衛兵は鷹揚に頷いた。


「出来ないことは、出来ないのです。でも出来てしまっています」


「ああ。これがおかしな事態だってのは同意だ。しかしどうか許してくれ、良からぬ企てがあるわけじゃねぇんだ。偶然なんだ……すぐ牧場へ戻るから」


「いいえ、謝罪の必要はありません。わたしキャットは疑問です。出来てしまっていることは、出来ること。許すも、許さないも、ないのでした。何故なら、出来たことは、出来てもおかしくないので。それに、道端の日向でポカポカしていた猫は、すっくと起き上がり、時として驚くような速度で壁を蹴って雨樋を伝って屋根の上に駆けるものです。まったく不思議ではありません」


「……? どういうことだ?」


 トートロジーめいた、そして煙に巻くような回答に面食らう。

 相手が言っていることが理解が出来ない。

 だが、卒然と、奇妙に整った思考へ繋がる導線が、そのとき出来上がった。


「つまり、出来ることは出来るように仕組まれていることなのだから、何の問題もないと? ……この馬は、最初からああいう機動が出来る馬だってことか?」


 そして出し抜けに答えを得た。


「そうか。俺たちは、テストを、テストを受けさせられているのか。そうなんだな?」


「テストって?」少女が薄笑いを浮かべて振り向いた。「私は何にも聞いてないよ?」


「でもそうでも考えないと辻褄が合わないだろ。何かのテストなんだ。この馬は、きっとそういう馬なんだ。人為的な改造が施されている次世代の軍馬に違いない……」


 馬が自分の体高より遙かに高い柵を跳び越える。

 そんなことは、常識的に考えれば不可能だ。

 だが現実に飛び越えているのだ。

 男と少女の共有した常識外の体験を、衛兵までもが現実なのだと追認してくれた。

 とがめの言葉一つ無い。


 ……つまり、予定通りなのだ。

 男は現実ではなく己の思考に納得を得た。

 無垢の現実ではなく、尤もらしく加工された自分の論理展開に、疑義を挟む余地は無かった。


「見た目には普通の馬だし、不審なところもないが、猫のような機動が可能なように関節や筋肉に細工がしてあるのかもしれねぇ。だって現実にあれだけ高く跳べたんだからな。牧場の外から出ても何ともないのは、この衛兵さんが仰る通り、それはこの馬に出来るから出来ることなのであって、そうさせるのも許されてるわけだ。きっと……適応力に関するテストだな。何にも言わなくても、この特別な馬の実力を引き出せるか。そのあたりをテストされてるんだろう。なぁ、そう思わないか、コルト」


「そうなのかい?」少女は馬の背を優しく撫でた。「君も私と同じで、スペシャルなのかな」


 馬は眠たげに鼻を鳴らすばかりだ。

 元々の脳髄が高性能であるため、馬という生き物は時折人間にも通底する感情の動きを見せることがあるが、この時は殊更に人語を解してリアクションしているように見えた。

 あるいは、胴体に機械か生体か、いずれかの副脳が埋め込まれていて知能が向上している可能性も十分ある。

 男の推測を聞き届けた衛兵は、ぐぐ、と小さくて脆い命を持ち上げるようなジェスチャーで応じた。


「本当のことを知っているのは、猫と、お馬と、あなたがただけなので」


 要領を得ない回答だが、相変わらず敵意は感じられない。

 自分の推測は、やはり取り立てて現実から乖離したものではないらしい、と男は判断した。


「ふーむ……分かってきたぞ。お前さんは衛兵と言うよりは、きっと審査官の類に近いんだろうな」


 男は衛兵の体躯を観察した。

 警戒せずに観察すれば、やはり、戦闘に向いているようには見えない。ただし、身軽そうではある。足場の悪い森を単独で移動していると考えられ、実際に機動性は高いのだろう。

 言動の奇怪さは別として、美しい声と容貌、威圧感の無さや、穏やかな物腰から察するに、市街地を静かに移動し、何らかのターゲットと接触したり、群衆を宥めて統御するのが、本来の任と見える。

 暗殺用か内偵用か。

 いずれにせよ都市部における治安維持作戦向けの機体と判定するのが妥当だ。

 今回は、事情があってそれを評価試験用に使っているのだろう、と男は推測を重ねる。殺しにも諜報にも観察眼が要る。あるいはこの少女のスチーム・ヘッド自体が試験機なのかもしれない。


「しっかし、トラブルだと思い込んで、気が動転してた……。よくよく考えれば、出鱈目に歩かせてたのに、そう都合良く衛兵に行き会うもんか」


 どうでも良いような場所をカバーするために十機も二十機も配備されているとは思えない。ピンポイントでの出迎えである。


「どっかしらで誘導されてたか、追跡されてたんだな……」


「そういうものかな」少女はくすくすと笑った。「そう思うなら、そうなんだろうね」


「それで、あなたがたは、どちらへ行かれるのですか?」


 小さな衛兵は再び問いかけてきた。

 男は今度は、にやりと笑って答えを返す。


「そうだな。遠くまで……ローマまで行こうか?」


「それは良いね。でも、何をしに? 観光名所は焼けた後だよ」


「十字架にかかりにいくのさ」


「誰の代わりかな?」


「さあて、誰の代わりかな。立派な人の代わりだといいが」

 

 賢く、穏やかで、調教の行き届いた馬だった。

 鐙から足を離して、ブーツの踵で腹を軽く押してやるだけで、男のやりたいことを完璧に心得てくれた。


 馬が歩き出す。

 許されているならば、遠慮することはない。

 この枯死していくしかない森を精々探索するだけだ。好きに駆け回り、好きに楽しめば良い。どういうテストだか分からないのなら、好きに終わらせる。数分前までは命令違反ではないかという意識が男の自由意志に枷を駆けていたが、衛兵は許してくれた。

 それならば、いくらでも腕の中の少女を遊ばせてやる余地はある。

 男は振り返り、衛兵に手を振った。感謝と親愛を込めて。

 少女は背伸びをして、何か小さな動物を持ち上げるようなジェスチャーをした。

 やがて見えなくなった。



 二人の道行きは尚も続いた。

 未踏の雪原を渡るかの如き無音。

 語るべき言葉も無いように思えた。テストだというならば馬を乗りこなし、その術を少女に教え込むまでだった。

 男は一層熱心に騎馬の技術を教えた。この特別製の馬に、通り一辺倒の技術がどれほど通じるか甚だ疑問だったが、帰還したとき高官の不興を買わない程度の備えは必要だった。

 馬上での教習は、訥々としたものだったが、満ち足りていた。

 馬という大きな生命を介して、単に体が触れ合う以上の熱感が二人を繋げていた。

 少女はあっという間に男の騎馬技術を飲み込んで自分のものにした。

 驚くべき習熟速度だ。

 まるで何十年も前に受けた訓練を思い出しているかのような錯覚を与えさせる。


 そうしているうち、少女が唐突に薄笑いを吐いた。


「ああ、君は何時でも、どんな状況でも本当に親身に私に色々なことを教えてくれるね。こうして触れあっていると、色んな思い出が……どこからか、溢れてくるようだよ」


「そりゃな。お前さんの喜びが、俺の喜びなんだから……」男は丸きりの本心で応えた。「お前さんが力を付けると俺は嬉しい。利害の問題じゃない。お前さんの成長と、お前さんの幸せが、俺の幸せなんだ」


「いつでもかい?」


「いつでもだ」


「嘘はよくないね」


 首を逸らして喉を見せた少女の笑みに、暗いものを感じ取る。


「……マルボロ、継承連帯で何歳から成人とみなされるのか、知っているかい。知らないわけがないよね」


「……」


 男は非難の音を聞き取り、たじろいだ。

 次に飛んでくる言葉が何なのか、もう分かっていた。

 男はこの少女に愛情と技術の全てを注ぎ込んできた。

 結果を出せば惜しみなく誉めたし、失敗しても慰めて、次に備えさせるだけだ。

 それでも、常にそうしてやれたわけではない。

 いつでも、は嘘だ。


 どんな言葉をかければ良いのか分からず、態度を保留にしてきた事案がある。


「ある時期から、煙草を吸う本数が明らかに増えたよね。それはどうしてだい?」


「……」


「私は切っ掛けの日を覚えている。忘れもしないよ、私が初めて人口動態調整センターに行ったとき。私は、しばらく体を上手く動かせなくなった。初めてのことばかりで、あちこち痛くてね。格闘技の訓練もろくに出来なかった……だけど君は、動きの悪い私に対して、叱ることすらしなかった」


「……」


「気を遣ってくれてるのかと思ったけど、違うんだろうね。君はずっと知らないフリをしていた」


「……そんなことねぇよ」


「また嘘だ。私は嘘が嫌いなんだ。嘘を吐くのはやめて。……一週間ぐらいなら、本当に気付かなかったのかもね。だけど、一ヶ月もそれで通すのは無理があるよ。だいたい、どこからでも私の足音に気付いてくれる人が……()()()()()()()()()()()()()()()()()とは思えないんだ。しかも、一度や二度のことじゃない。君はいつまでも、私が何度繰り返しても、私に何も言ってくれなかった」


 忘れるはずも無い。

 男がどう接するべきなのか分からなくなったのは。

 少女が、もはや少女とは言えないこの女が、市民の義務として。

 胎内に新しい命を宿した時のことだ……。

 男の価値観では、まだ子供だ。しかし継承連帯では歴然とした成人である。

 所属する人員を市民と呼び、機械設備のように扱う継承連帯では、人類には過酷な責務が幾つも要求されている。新時代の旗手となるべく育成されているこの少女も、基本的な義務の履行を免れない。

 むしろ優秀な血であるならばより多くの後継者を供出する必要があった。

 名実ともに、男の愛するこの娘は、『子供』として扱える存在ではない。


 だが、男はその事実と相対することが出来なかったのだ。

 少女の自覚や義務の履行に誠実に対応していなかった。その糾弾に対して、反論することなどどうして出来ようか。

 男は降参するように項垂れた。


「……俺は、継承連帯のやり方に馴染めてない」


 言いながら、後ろめたさを感じている。

 新しい価値観に身を任せて、仮初めに考えることは出来る。

 少女が社会の成員として新しいステージへ進むことは、紛れもない吉事だ。

 言祝ぐべきであって、それ以外の反応を見せる方が不徳である。

 無視するなど、この少女への裏切りと言っても良い。

 しかし男の抱いている価値観では、継承連帯の方針は、こと生命の尊厳に関する事柄については、もはや埒外の領域に突入しているのだ。

 仮初めに納得出来ても、本心では、忌避感が募るばかりだ。


「成人と見做されるのが俺の時代より早いのは、文化の違いってことでまぁ受け止められる。計画的な人口増も、人的資源の確保のためには欠かせねぇ。そこを否定してたら衛生帝国に勝てない……」


「私が市民の義務として、知らない他の市民と子供を成すのが、厭だったのかい?」


「厭じゃなかった、とは言わねぇ。ハルなんかとは、まぁ気心の知れ中だ、幾らでも子供を作れって感じだが……」


「女同士でも構わないんだね」


「さすがにそこはもう飲み込んじゃいる。だが、別に相手は固定じゃ無いだろう。そこは、俺はどうかと思う」


 男はヘルメット越しに少女の瞳を覗く。

 自分を仰ぎ見る命を覗く。

 成熟しきっているとは言えない肉体。

 市民としての自覚に充ちた、生存に自覚的な、真っ暗な瞳。

 無感情で無遠慮な、責任を問う者の確たる瞳。

 自分がこの世界で最も大切にしている瞳だ。


 ……男には、この世界で異常なのは自分の方だという自覚がある。


「マルボロ、聞いて。人類文化継承連帯の人口が一億弱。対するスヴィトスラーフ衛生帝国は百億の勢力だ。君の生きてきた価値観では対抗出来ないよ。人類文化の護持なんて、夢のまた夢だろうね」


 自由意志による結婚。子を成さないという選択肢。

 いずれもかつてあった選択肢だが、人類が家畜化され、工業化されつつあるこの時代にはもう無い。

 男が憧れ、尊いと考え、愛してきた『家族』の絵図すら、古い伝統を受け継いだ一部のグループにしか継承されていない。

 下手をすれば、それらを本当の意味で文化として受け継いでいるのは、特に古いスチーム・ヘッドの一団だけかもしれない。


「私たちの世界が気に食わないのは知っているよ。でも、滅びるのとどちらがマシかは理解しているよね」


「だが、二つある最悪からどっちを選ぶか、という話でしかない。……俺のは古い考え方だよ。確かにな。お前さんたちは正しい道を歩いている。二つしか未来がねぇ状況でマシな方を選ぶのは当たり前だ」


 理解出来ても受け入れられない。

 男は、まさしく博物館に飾られているべき遺物だった。

 どれだけ理屈を並べても、人間を家畜のように扱う、人口動態調整センターなる施設を中心にした人類運営のシステムに違和感を持ってしまう。

 男の規準では、そもそも若年者が強制的に子を供出させられる状況自体に、果てしのない嫌悪がある。それを主導しているのが人類全体をある種の資源と見做している無情な機械となれば、印象は尚更悪い。話が通じない相手ではないが、甚だ不快だ。

 何より、待ち受ける未来が気に食わない。

 こうした制度の根本にあるのは、人間を家畜どころか機械部品のように扱う過剰な合理主義だ。

 その先にどんな素晴らしい未来があるというのか。

 人類文化の目指す先が、人類が機械未満の存在として扱われる時代か?

 愛し子をそんな未来に送り出すのが、かつて一度でも義人を目指した人間の成すべきことか……?


「まさかシステムへの反発だけで私にあんな冷たい仕打ちをしていたのかい?」


「……いや」


 多分に私的な感情があるのも事実だ。

 男とて、少女の社会的成長を素直に喜ぼうと努力してこなかったわけではない。

 プロトメサイアや、教育や護衛に携わる他の気心の知れたスチーム・ヘッドと相談して、擦り合わせを進めてきたつもりではある。

 だがそのたびに、越えられない一線がどうしようもなく現れるのだ。


 こんなことを口にすべきではないと理解しながらも、真実を見透そうとする少女の瞳にあらがえない。


「俺は、認めたくなかったんだ。ガキがどうとか……そういう次元じゃない。お前さんは、お前さんはどう思ってたのか分からないが……Tモデルの血が混じってるなら……傷の治りが早くて体も頑丈だ……猛烈に早い。そうだよな。骨折ぐらいなら簡単に直るしな……だからといって、ふた月もしないうちに()()()()()()()()()()()()()()()()()、治療が終わったら次のサイクルに投入する……継承連帯は、そんなふざけた処置をしてきやがる。これは、どういう了見なんだ? どうすりゃこんな事態を仕方ねぇって割り切れる? 人類はそりゃ、散々な非道を働いてきた。だが家畜相手にだって、そんな真似はしなかったはずだ……」


「だから、そうでもしなければ、人類は存続出来ないんだよ」


「だからって、何が、だから、なんだ。人類がどうしたってんだよ」不規則発言として処罰されかねない言葉が喉を突く。「俺が大切なのは、結局お前さんたちだけだ。みんな幸せになりますように? 無理なことを祈ってどうする、俺はお前さんや、顔見知りの何人かさえ幸せなら、それで良いんだ。だってのに、クソ戦争装置め、なんてことを、なんてことをしてくれやがるんだ。……だが、一番情けねぇのは、全部了解して書類にサインしてるのが、お前さんの育成を主導しているこの俺だってことだ。お前さんを撫でるのと同じ手で、俺はその非道の実行を認めると宣誓してきたんだ。ああそうだ、プロトメサイアのやつも言ってたが、俺は丸きり腑抜けになっちまってる。止めるべきだと思ってるんなら、サインするべきでは無かった。解放のために行動するべきだった。なのに俺は……俺はそうしていない……悪と見做した相手に迎合してる。何が八極の拳だ、俺はどこにも至ってない。今だって自分自身の未熟さに惑わされて、お前さんを素直に祝福してやれないような人間なんだ。許してくれ……許してくれコルト……」


 スチーム・ヘッドでなければ嗚咽していたところだ。しかし涙は涸れている。漏れ出るのは血と言葉だけだ。

 男は馬上で背後から少女にしがみつき、何度も謝罪の言葉を囁いた。


「戦争装置も衛生帝国も関係ない、お前さんを酷い目に遭わせてるのは、ああ、まさに、この俺なんだ……すまない……許してくれ……」


「マルボロ……」


 少女は曖昧な顔をした。泣き出しそうな声で唸る男に、いささか驚いたようだった。


「……許すも許さないもないよ。私は私の処遇について、気にしてはいなかったからね。センターでの扱いも苦痛じゃないんだ。君はきっと誤解しているんだと思う」


「……そうなんだろうな。センターの視察に言ったが、皆、何も苦痛じゃないって顔だった。だが、そう、俺は古臭い機体だ。あんな光景が健全であってたまるか。三世紀……三百年以上前の価値観のまま、今まで生きて、死ねないでいる。戦闘能力のギャップや世界情勢の混沌にも散々振り回されてきたが、正直に言う、俺は人間の命の価値が変わり過ぎてることについていけてない……。どうなってるんだ? 何で俺の生きてた時代なら手厚く保護されてた年齢の連中が、もう人口増加へ貢献するための道具みたいにされてるんだ? 人間一人一人の本名が『番号』なのは何だ? ヒッピーや空想作家どもの狂った空想が根を張って実を結んだって感じで、気味が悪いんだ。そりゃ、確かに終末戦争の真っ只中だ、頭数揃えないと百億の兵力を持つ衛生帝国に蹂躙されて、終わりだ。だから、まぁいいだろう、そういうもんだろう……だが物事には限度ってものがあるだろ」

 

 男は震える甲冑の指で、少女の騎馬服の腹を、痛ましそうに触れた。

 古い時代の価値観では立ち行かなくなったからこそ、新しい段階へと突入しているのだ。

 そう理解しているのに、現状への生理的な嫌悪を拭えない。

 兵士は、ずっとそうして死ねない生を続けてきた。


「コルト、継承連帯のやり方は、俺に耐えられる限度を超えてるんだよ……」


 抱き竦められた少女は、男の手を触り返しながら、呆れたように息をついた。


「マルボロが生きてた時代なら違ったのかもしれないね。でも、私にとっては、普通だ」


「そうなんだろうな……」


「私は、マルボロには、お祝いをして欲しかったよ。センターの生命工学者から妊娠の診断を受けた日、私はいつものように誉めてもらえると思い込んでいた。新しい命を授かるのは素晴らしいことだ、市民の義務だと皆言っていたから。だというのに、マルボロは何だか、やりづらそうな顔をしていて……君にとっては、喜ばしいことでは無いんだとすぐ理解したよ。私は、顔に出さないようにはしていたけれど、これでも結構ショックだったんだよ。ずっとずっと、複雑な気持ちでいた。分かってくれやしないんだろうけど」


「分かる、分かってる。あの日のお前さんは、誕生日が来たみたいな顔をしてたからな。いや、実際誕生日みたいなもんだが。祝う……祝うべきだったんだろうが……腹が大きくなる前に摘出するんだと最初から分かってた。その日が来るまでは、その現実を咀嚼できる程度に強くなっていると、そう、誤解してたんだ。実際はこのザマだ。俺は自分自身に負けて道から外れた日から一つも成長出来てないんだ。……俺の起きてた時代の終わり頃だと、人工子宮だの何だのってのは、結局母体の保護のために造り出された機械だった。安全で衛生的で、先進的な機械だ。それが、いつの間にやら……天然の胎の方が、人間を大量生産する培養設備の不足を補う道具になっちまってる。そんなのおかしいだろうが。母体保護のためでも何でもなく、合理性を追求して……腹を裂いて……。何故機械が人間を使う……? どうしてお前さんを……どうして俺はそんなことを見過ごして……何故、俺は正しいことが出来ない……俺たちは、俺は、人間を、いったい何だと……」


「人間は、資源だよ」少女は断言した。「継承連帯の行き着く先はFRFと大して変わらない。程度の違いはあるかもしれないけどね」


「FRFってのは?」聞き慣れぬ単語に男は眉を潜めた。「悪い。聞き取れなかった……」


「……とにかく、君は、私が人口動態調整センターに通うのも否定的だった。マルボロの時代だと、一夫一妻が基本だったらしいね。そうしてみると、君の倫理観だと、あの生命資源製造カリキュラムも相当理解しがたい施設なんだろう」


「どう考えたってまともじゃない」


「でも、どうまともじゃないのかが、私には分からないよ」


「ああいうのはフィクションの中のディストピアの専売特許だった。ここは悪い夢みたいな世界だ」


「人口減少が止まらずに不死病ばかりが蔓延する環境の方が酷いと思うよ。それにマルボロは、人類が殺し合うぐらいなら、みんな不死病になった方が良いと考えていた勢力なんだよね? 私からすればそっちの方がずっとおかしい」


 男に背を預けた少女は、馬上服を着込んでいるにもかかわらず、柔く、温かい。

 だが節々から飛び出す言葉は棘のようだ。遠慮も容赦もありはしない。

 柵の外に出たことで、彼女も幾分か、開放的な気分になっているのかもしれない。

 従順な教え子という仮面の下に隠されていた冷静な知性が、自分を断罪しようとしている。男にはそう感じられた。


 これほどによく育ったのだ。

 自分の手を離れる日も近いと実感させられる。

 今なら、かつて自分が所属していた組織の理念を伝えても良い気がしてきた。


「俺たちは、最悪の場合はそうせざるを得ない、と考えていただけだ。不死病だって冷凍睡眠(コールドスリープ)みたいなものだと考えてた。とにかく不死病を使えばどんな傷も病気も治せる。目覚めなくなるが。だから未来に希望する……不死すら治癒可能になることを期待するわけだ。まぁ上手くいかねぇまま、勝手に終わっちまった……」

 

 不死病が計画的に運用され、人類が眠りについた世界とは、干からびた骨がばら撒かれた谷のようなものだ。

 来たるべきものが来たれば、骨には肉が付き、魂が帰還する。

 人類は久遠の眠りから解き放たれ、次の時代で新しい朝を得る。

 とは言え、彼の組織では多くの信仰や理念がぶつかりあっていた。しかし少なくとも男は、誰もかも不死の怪物となって永遠に彷徨うがいい、と呪い疎んでいたわけではない。

 彼はただの兵士であり、人類の信奉者であり、人間が生きて望みを果たせる世界こそが理想だった。


「……そこはどうでも良いよ。私はね、本心が知りたい。今しか無いから、聞かせてほしいんだ」


 少女は鞍の上で器用に身を翻し、男に真正面から抱きつくような姿勢を取った。

 整髪料と香水の入り交じる独特の甘い臭気が男の心臓をくすぐる。

 片手で手綱を握る。もう片方の腕で少女を抱き返す。

 縋り付いた少女は、洞のような暗い瞳に、いつになく真剣な光を湛えていた。

 黒髪の乙女は問いかける。


「君は、いつも『家族は良いものだ』と言っていたね。昔の友人たちの家族がどれだけ素晴らしかったかよく聞かせてくれた。ファミリー向けの映画も沢山見せてくれた。映画の中の家族はとても温かそうで、私もこれはとても良いものだと思った。だけどマルボロ。君にとって、『家族』って、いったい何? 何をすれば、それは完成するんだい?」


「家族ってのは……」


「ねぇ、長い時間を過ごせば家族なのかい? 何百回もハグすれば家族かい? 好意を持ち合えば家族? 異性として愛し合えば家族なのかな? 対等な関係になって寄り添えば家族と言える? 身体関係を持てば家族になれる? 子を設ければそれでもう家族?」


 息もつかせぬ問いかけに、男は言い淀んだ。


「……家族には色んな形があるもんだ」


「『色んな』の話はしていないよ。君にとっての話をしているんだ。ああ、答えなくて構わないけどね。と言うのも、もう分かってるからなんだ。君は『家族』はとても良い物だと私に吹き込んだけれど、酷い話もあったものだ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「……そうだな」


 男は首肯した。

 彼は、孤児であった。師父はあり、多くの同門と生活をともにした。

 先達、同輩、後進にも、家族を持つものも少なくなかったが、マルボロには理解しきれなかった。

 どうすれば彼らのようになれるのかという方法論には、まるきり無知であったし、生前には興味も無かった。皮肉にも、命が無くなったから人の営みに惹かれるようになった。

 互いに愛し合い求め合えば家族なのか? どうなれば家族になれる? 問われても答えることは出来ない。それこそ男の知りたい命題であり、死後に求めてきた願いの一つである。

 だがついに回答を得ることは出来なかった。


「小さい頃は、マルボロに育てられているも同然なんだから、君とは家族だと思っていた。SCARの他の子たちも主任担当官を親か、さもなければ恋人のように表現していたからね。でも君と私は違った。成果を出して何度も抱きしめて撫でてもらえれば、君の家族になれると思っていた。でも違った。私と君は、分からないけれど間違いなく互いを信じ合っていて、だからいつか家族になれると思った。でも違った。一人前の異性として見て貰いたくてドレスを着て見せたこともある。君は女性として私を評価してくれた。このまま恋してもらえれば家族になれると思った。でも違った。……家族になりたくて、散々君に縋ったのに、君は、私が家族になりたがっていることを理解してくれなかった。それどころか、私を拒絶したんだ」


 拒絶した? あまりの言葉に、男は寸時、呼吸を失う。


「拒絶なんてするもんか。そんなわけが……」


「じゃあ答えてよ。一度だって、『愛している』と言ってくれたことがあったかい?」


「『愛している』? 拒絶の話だろ? そんな言葉は関係ねぇだろ」


「いいや、あるね。私はせめて『愛している』と言ってもらいたかった。だけど、君はそれすら言わなかった!」


「お前さん、いや、だって……ええ? お前さん、俺が、お前さんを愛してないわけが、ないだろ」男はやや赤面した。「そんなことが不満だったのか? じゃあ今言う」


 ややって、言葉にする。

 

「愛してる。愛してるよ」


 嘘偽りの無い言葉だ。

 少女が怯んだのは、それが真実だと見抜けてしまうからだ。

 男は、手塩に掛けて育て上げたこの少女を、掛け値無しに愛していた。

 機能を、では無い。顔貌や見事な肉体への評価でも無い。

 ただ、愛していた。愛をどう分類するべきかは知らない。その愛をどう呼ぶのが適切なのか、男には分からない、愛について語ることすら、難しくて敵わないのだ。

 どうすれば、愛している相手に、心から愛しているなどと言うことを、臆面も無く言えるだろう。

 男は古い人間だ。

 愛の言葉など、求められなければ、とても口に出来ない。


「……」

 望む言葉があっさりと得られたせいか、少女は気恥ずかしそうに視線を逸らした。

「そんなの、言葉だけだよ」


「思ってもいないことは、口に出来ない。そうだろ?」


「でも、言ってくれないと、そう思っているとは分からないよ……」


 一面の事実ではある。

 いくら愛し合っていても、相手の内心を完璧に理解出来る間柄になることはあり得ない。

 少女が男の愛を確信出来なかったように。

 言葉にしなかった感情は、そこに無いも同然だ。

 だから、輪郭を与えて、相手に送る。

 自分はそのプロトコルを怠っていたのだな、と男は今更気付いて、自己嫌悪の息をついた。


「……いらない悩み事をさせちまったみたいだな。愛してる。愛してる。いつでもだ」


「愛しているんだね?」


「愛している。あー……もう……一回言ったんだ、百万回でも言えるさ。愛しているとも」


「それなら、あの頃聞きたかったよ。SCARとしての自覚もなくマルボロに甘えていた頃にね。いったいどうなっていただろう」


「どうなっていたと思うんだ?」


「さあね」ふふ、と少女は曖昧な笑みを浮かべた。「……もしも私が、家族になりたくて、君との間に子供を作って連れてきたりしたら、どうする?」


「どんな状況だよ」男は露骨に声を低くした。「色々言いたいことはあるが、そもそも俺は不死病患者だぞ。子供は無理だ」


「私のお願いなら、プロトメサイアは、不死病因子の除去を、喜んで引き受けるだろうね」


「ああ……まぁ……あいつの倫理観ならな。しかし、それがお前さんの思い望む『家族』か?」


「違う。だけど、仮定の話だよ」


「……まぁ、家族かどうかは別として、その子は、うんと可愛がってやるよ」


「意外だね。認めそうもないなと思っていたよ」


「そりゃお前さんの子なら、可愛がりたくなるに決まってるだろう。何なら別に俺の子じゃなくても可愛いだろうさ。誰の子供でも良い」


「そうかい?」


「しかし、可愛がりはするが、俺の子って、それは……基本的には嫌だ。何て言うか、肉体がぞわぞわする。お前さんもそんなふうには俺を見てねぇはずだ」


「見てないけど、それで『家族』になれると思ったなら、私はそうするだろうね」


「悩ませたのは悪かったよ。でもあんまり妙なことを言うな。死なねぇのに、寿命が縮まる」


「それはごめんなさい」


「あと、ガキは家族を作るための道具じぇねぇんだから……」


「そうか。そうかもね」


「そうなのさ。道具にされるガキが可哀相だ」


 少女はまた背を向けた。男の胸にしなだりかかりながら、どこか寂しげな笑みを見せた。

 男は横顔を覗き見る。

 空疎で虚ろな普段の表情とは違う、血と肉を通わすものの眼差しだった。

 しかし、空疎で虚ろとは、いつの頃の評価だろう……?

 今は一体いつで。

 ここはどこなんだ?

 彼女は誰だ。

 記憶の中にある少女はいつでも快活で。

 男は意識の混濁に息を乱す。

 慣れない事態が多すぎて、人工脳髄がエラーを吐いてるようだった。


「……分かってきたよ。マルボロはきっと、私の未来が決まってしまっているように見えるのが、悲しかったんだろうね。だから愛するのと、知らないふりをするのとを、同時に実行した。そうしないと、正視していられなかったんだ。私の未来を一方的に悲観した。そのせいで私は正確な理解を阻まれた」


「違うさ。悲しいとは思ってない」


「ほら、また嘘をついた。心音で分かる。マルボロほどじゃないけど、私だって耳は良いんだ」


「……悲しいさ」

 

 もはや嘘は言うまい。馬上での他愛ない会話を聞きとがめる者はどこにもいないはずだった。

 目の前の頼りない背中を硬く、硬く抱きしめる。


「そうだとも、愛しているから悲しいんだ」


「どうしてだい? 私はちっとも不満に思ってないよ。毎日美味しいご飯が食べられて、快適にトレーニングが出来て、必要な技術は全て教えてもらえる。客観的に見ても恵まれてるよ」


「環境はマシかもな。だが、最終的に戦争に行くし、何歳でどこそこの誰とガキをこさえる、なんてことまで機械に計画されてる人生は、俺の価値観では『良い』とは言えない。それは家畜の生き方だ」


「それはマルボロの価値観だよ。私の価値観では違う」


「あらかじめ選択肢を奪われた生活が幸せか?」


「幸せだよ。今の時代、これよりもっと幸せな生活なんて、君にさえ想像が出来ないんじゃないかな」


「……かもしれないな」


 この廃滅の時代、死滅の時代、終端の時代。

 家畜同然だとしても、清潔な衣服を着て温かなベッドで眠り、教育と戦闘訓練を受けられる生活は至上だ。

 末端の人間なら、己の全てと引き換えにしてでも子に与えたいと願うだろう。

 しかし、最愛の存在に、牧場の如き施設で、人類文化に奉仕する家畜としての生を送らせるのは、より自由で豊かな時代を知っている男には、耐え難いのだ。


「だけどね、君たちが私に植え付けた理想も、誘導された夢も、そう悪いものではないよ。みんなを守ってあげたい、どこか光あるところまで導きたいという願いは、そんなに邪悪かな。それとも、邪悪であれと願って、私に夢想を注ぎ込んだのかい?」


「お前さんに託された願いは、邪悪なものなんかじゃない」


「そうだよね。私も心からそう思っていたよ。じゃあ、この私のどこが不自由なんだい? 交配相手は選べないけど、交際は私たちの裁量だ。目立たないように気をつけているけど、ハルと私は、そういう間柄だったんだよ。今の時点でプライベートな子供だっているし。まだ、培養器の中だとは思うけど」


「プライベートな子供?」

 強く意識し合っているのは気付いていたが、そこまで仲が良いとは知らなかったので、男は素直に驚いた。

「工程表に、お前さんたちを掛け合わせた後継機の製造予定が載ってるのは知ってたが」


「それは、一人だけだよね。他にも、ハルとのじゃない子もいるよ。……工程表が全てでは無いんだ。君が思い込んでるよりも、私たちには自由なところもあるんだよ。だけど、きっとマルボロには、私が全部を奪われているように見えるんだろうね」


「ああ」


「私から全てを奪ってしまった、と思うんだね」


「ああ」


「でもそれは、君の見方なんだ。君は私のことを……愛して、くれて、いるよね。……さっきは、意地悪を言ってしまったけど、大事に思ってくれているのは、分かるよ。私も、マルボロを大事に思ってる。頼りにしている。愛してる」


「……ああ」


「だけど、君の価値観と私の価値観は違う。そうだ、マルボロは言っていたよね、馬は自分をもっと速く走らせてくれる『人間』を道具として受け入れたんだって。私たちは言うなれば、機械と未来を共に過ごすと決めた世代なんだ。どちらが飼い主でどちらが家畜かは、分からないけど、搾取されるばかりの人形じゃない。機械の側だって、自分たちを使いこなしてくれる存在を望んでるわけだから、持ちつ持たれつというわけさ。私たちは戦争装置と求め合い、利用し合い、新しい未来を探してる。人間と恋だってしてる、夢だって見てる。叶わない夢でも見ている間は幸福なものさ。……君が思うほどに、私たちは窮屈じゃなかった」


「機械との共生、か……」


「君という八極の遣い手だって、不死の肉体と共生しているだろう? 突き詰めれば、私たちと戦争装置の関係だって、違うところはそう無いよ」


「だと良いんだがな」


 少女は、男の煮え切らない声に、わずかに腹を立てたようだった。

 背筋を伸ばし、吐息のかかる距離に顔を近づけて、囁いてくる。


「……誤解しないでおいてほしいのは、君が私から全部を奪ったとか、何もかも塗り潰すのに加担したとかいうのは、私にとって真実ではない、ということだよ。私はみんなに期待され、待望され、愛されて、ここに至った。特に君は、マルボロは、君は、私にひたすらに与えてくれたんだ。何不自由ない生活を。たとえ嘘でも、未来への希望を。正しくあろうとする意志を。愛を注ぐときの、優しい振る舞いを。私は……この頃、本当に幸せだったんだ」


「……コルト……?」ただならぬ気配に、動揺の声が漏れた。「さっきからそうだが、ところどころ、時制がおかしいぞ。何を言ってるんだ……? いつの話をしてる?」


「辛いことも確かにあった。ううん、嘘は良くないね。辛いことだらけだった。狂って死ねたらどれだけ楽だっただろう。シグ、レミィ、それにハル……。みんな、綺麗には終われなかった。だけどね、マルボロ、これだけは分かっていてほしい。君はいつでも、愛を、惜しみなく与えてくれた。私は君に、自分のせいでこうなったとか、自分のせいで望む未来を与えてやれなかったとか、そんな間違った認識でいてほしくないんだ。私の真実を知っておいてほしい。私は君に愛されて嬉しかった。ちゃんと伝わってなかったかもしれないけど、幸せだった。酷いことをしたって独り善がりに後悔しながら、終わってほしくない。……私は、それが言いたかった」


「……いつ頃か覚えていないが」

 男は照れ臭さを覚えながらも、茫洋とした記憶を人工脳髄の奥底から引き出した。

「機嫌を悪くしたお前さんに、拳銃で撃たれまくった覚えがあるが……」


「あれは……甘えてただけだよ。君以外は敵しか撃ったことがない。私なりの愛情表現だよ」


「愛かぁ」


「愛だよ」


「まぁお前さんがそう言うならそうなんだろうな」


「そうなんだよ」


「そうか」


「……」


「ねぇ、まだ私を愛してるかい?」


「愛してるよ」男は頷いた。「いつだって愛している」



 森はどこまでも続いているかのように思われた。二人はどこか胸の深い部分でお互いが繋がっているのを感じている。

 家族か否かは誰にも分からない。

 だが、このとき彼らは、間違いなく幸福だった。


 分針のように緩やかに歩みを進める馬の上で、二人は家族について、愛について、これからについて、止めどなく語り続けた。

 愛し子の語り口が普段と違うことなど、男は気にも留めない。

 間違いなく彼女は彼女だった。

 懐かしい体温と香り、久しく忘れていた笑顔。見間違えようはずもない。


 しかし終端は、万人に容赦なく訪れる。

 森は唐突に途切れた。

 急峻な崖に行き当たり、それ以上の前進は叶わなくなった。

 対岸にはまた森が続いていた。崖と言うよりは抉り取られるかのようにして形成された谷のようだった。この改造馬であっても飛び越えられる距離では無い。

 見下ろすと仄暗い水が底に流れていて、鉛のような輝きが、谷の深さを際立たせていた。

 崖沿いに進んださらに向こう側には山嶺が見え、二つの境界を繋ぐかのように虹がかかっている。

 あたかも橋のようで、旅の終わりにしては洒落た風景だと男は溜息を吐く。


「このフィールドはここまでか」


「……マルボロの認識では、ここは試験場だからね。終わりだってあるよ」


「それにしても他のSCARの皆を見かけなかったな。お前さんだけのテストなのかな」


「君なら、どう納得するだろう。試験場のフィールドというのは……一つだけだと思うかい?」


「なるほど」男は対岸の森を凝視した。「牧場自体、一つきりとも限らんし、それぞれ別の場所からスタートしてたって可能性もあるな。それで別フィールドにいるから、他の組とは会えねぇ。理屈は通ってる」


「……崖を超えた先に皆はいるよ」


「そうなのか?」


「きっとそうだと思う」


「まだ時間があるなら合流したいもんだ」


 男は対岸の森に影を見つけた。

 目を凝らす。遮蔽物もないのにやけに薄暗く感じられあたかも霧に映る影でも眺めているかのようだった。馬に乗る二人の影。だが違った。違う馬だった。

 女性のスチーム・ヘッドが自分と同じように少女と二人乗りをしている。


「いたいた。オーレリアとハルの組だ。おおい」


 男は手を振った。影は虹の方向に向かって進んでいった。声など聞こえていないかのようだった。

 気を悪くさせたかと口を引き結んでいるとまた影が現れた。

 対岸の森には幾つも幾つも影があった。

 当惑して目を見開く。

 人工脳髄の不調を疑う。


 影が行く。影が行く。影が行く。

 師父が、兄弟子が、姉弟子が、死んだ仲間たちが、殺してきた敵兵たちが……。

 影が行く。

 無数の影。無数の死者。死者の行進……。

 

 男は彼らの向かう先を見た。

 暗い森の奥、渓谷に沿って進んでいく対岸の死者たちは次々に現れては消えていく。

 進んでいく。虹のたもとへ。

 虹の終わる場所へ。


「みんな、どこへ行くんだ」


 悲鳴のような声が喉を突く。死者の列に旧友の影を見て、いよいよ上ずった声を上げた。


「アルカディア! ドミトリィ! スヴィトスラーフ! お前たち、みんな、死んでいたのか? 死んで、いったいどこへ行くんだ!? 待ってくれ、置いていかないでくれ。俺が見えないのか!? おい、俺だ! みんな、どこへ……。俺を置いていかないでくれ!」


「まだ間に合うよ」少女は囁いた。「マルボロの身体能力なら、こんな崖は簡単に飛び越えられる。私とこの子は無理だけど、マルボロだけなら、あちらへ行ける」


「馬鹿言うな」

 男は即座に言い返して少女を抱きしめると、身を焦がすような望郷は消え失せた。

「置いてなんか行くもんか。俺は、お前さんといつも一緒だ」


「今だけがチャンスかもしれないよ」


「なら俺にチャンスは必要ない。ああ、しかし、何なんだ、ありゃ。どいつもこいつも見知った顔だ……。幻覚か? お前さんにも見えるか?」


「見えるよ。皆そこにいる」


「何の列なんだ? この先に進んでも虹ぐらいしかなさそうに……いや、あれは……?」


 男は、崖の橋、虹の方向に、真っ白でぴかぴか輝く謎の物体を見つけた。

 あまりにも真っ白で輝きが透明なので、識別するのに時間がかかった。

 毛並みの良い灰色の猫が茂みから飛び出して、それとじゃれて遊び始める。


「猫だ……」


 それは、本物の猫だった。

 そうとしか言えなかった。

 確かに、猫だった。


「猫が見えるのかい?」


「ああ、お前さんには見えないのか?」


「見えているよ。ずっとね」


 それは、真っ白でぴかぴか輝く小さな猫だった。

 灰色の猫と大人しくさせた後、真っ白でぴかぴか輝く小さな猫は「にゃー」と清廉な声で世界を震わせた。てしてし、と森の地面を叩き、そして男と少女に背を向けて、灰色の猫を連れ立って、とてとてと歩き始めた。


「何なんだ……? 現実か? 目に見えている通りの猫なのか?」


 猫たちの進む先にも、やはり橋の如き虹が聳えている。

 あるいは、虹とは、真実、橋であったのか? 

 到底実体のあるものとは思えないのに、男の演算された人格には、突拍子も無い希望が満ち始めた。


「……知ってるか、コルト。虹の根元には宝物が埋まっているんだそうだ」

 

「聖杯を求める騎士たちのように、虹の根元を探しに行くのかい?」


「それも一興だな。どうせ時間もあるし……あの猫を追いかけてみよう」


「追いかけても何にも無いかも知れないよ」


「何にもないならそれでいいさ。良い思い出にはなるだろう」


「希望の不在を確かめるのが良い思い出なのかな」


「それでも祈って進み続けるしかないんだ。みんな幸せになりますように、ってな」

 

 そうだね、と少女は穏やかに笑う。

 微睡むような吐息。


「君だけでも幸せになれば良かったのに……」


 馬がゆっくりと歩き始めた。

 今はまだ虹の橋より遠く。

 そして、やがて虹の袂へと至るだろう。

 最愛の少女と、同じ道の先で。



 エージェント・クーロンの意識は、そこで途切れ、揮発し、この世界から消え去った。

 彼は何もかも忘れ果てた。

 肉体は不滅にして不朽。

 世界が終わるまで、彼はただ一人取り残される。

 しかし彼は見ている、夢を見る、ありもしない過去を、実現しない未来を夢見る。

 幸せを願う……。


「一緒に行こう、マルボロ」


 少女は微笑んでいる。

 最愛の存在が微笑んでいる。

 決して失いたくなかった娘が、すぐそこで微笑んでいる……。


「私が落っこちてしまわないように、抱きしめておくれよ」


 ぴかぴかと輝く白い猫が、ぐぐ、と伸びをした、

 猫はぐんぐんと伸びていき、やがて空の向こう、虹の中程にまで至った。

 ああ、虹って触れるものなのか、そこにあってくれるのか、と男は嘆息し、


 後にはもう、何も見えなくなった。


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― 新着の感想 ―
[一言] ヴァローナも、マルボロも、コルトも、みんな。みんな消えていってしまった。
[良い点] 死の間際、意識の揮発する最中の夢、いつも本当に切なくなります。 輝かんばかりの希望が行手には見えているのに、僅かな寂しさと切なさがどうしようもなく見え隠れする。 最期に良い夢を見れたと思っ…
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