リタリエーション:第百番攻略拠点接収作戦 その13 コルト・スカーレットドラグーン(6)
街中に設置されたスピーカーから、言葉ならぬ言葉で編まれた聖歌が鳴り響いている。地を這う給電ケーブルが壁に沿って起き上がり割れた窓に差し込まれている様はこのクヌーズオーエの血管が剥き出しになっているようであった。
このクヌーズオーエの制圧は最終局面を超えた。安定的になりつつある。リリウムとリーンズィのユニゾンで生成していた聖句は、リリウムとその信徒たちが複製を引き継いでおり、大型の変異体たちの封印作業も順調に進められている。
沈静化に失敗した巨大な変異体はウンドワートその他の機体が即座に解体して、改めて最初から無力化していた。
電波塔を占領し、変異体を排除しながら各種機材を敷設し、都市全体に特別製の聖句を響き渡らせる、という最も困難で重要なフェーズは完遂され、いくらかの部隊は手が空く形となった。
そこであるスチーム・ヘッドが、コルトによる『自殺計画』の存在を語り始めた。
誰しもが気付かなかった。その時点でコルトは戦術ネットワークから消えていた。一刻も早い救援が必要であることは明白であった。
リーンズィたちは、緊急の配置転換を行っている状況だ。
画一化された偽物の街角を物資輸送に特化した鳥足の巨人が駆け抜けていく。寒々しい冬の太陽が手遅れの時間に向かって走る兵士たちを拝外している。
パペットの脚を借りているのは、遭遇することになる敵が『プロトメサイア』であると推定されるためだ。オーバードライブ突入に使える電力は、少しでも多く残しておくべきだった。
ユイシスが視界内に展開した作戦図では、六機のパペットに各三機から四機のスチーム・ヘッドが取り付いた、合計二十六機のステータスをリアルタイムで描画されている。
潔癖そうな顔立ちをしたライトブラウンの少女、エージェント・リーンズィもパペットの側面に掴まって揺すられている一機となっており、同乗した他の機体、情報提供者である馴染み深いその兵士から、詳しい事情を聞き出しているところだった。
「……つまりコルトの最終目的は、プロトメサイアの破壊だってことだな……」
「コルトが、一人でプロトメサイアの破壊を計画していると!?」
「しかも自分が破壊されることを承知の上で、だ」
予想もしていなかった言葉に、リーンズィは色を失った。
我を忘れてそのスチーム・ヘッドに掴みかかろうとして、バランスを崩した。
しがみついていたスチーム・パペットのデサント用グリップから左腕の蒸気甲冑を離しそうになったのだ。
プロトメサイアに奇襲を掛けられる可能性を鑑みて関節のロック機構を使っていなかったせいだが、しまった、と思う間もなく視界に『緊急制動』の文字が出現。
左腕から自分に対して発せられた電撃で筋肉が強烈に収縮した。装甲の隙間から肉の焦げる臭いと黒煙が噴き出し、強制的にグリップの掴み直しをさせられた。筋繊維の幾らかが焼損するのと引き換えに、リーンズィはことなきを得た。
『滑落していられる時間的余裕はないので注意してください』
支援AIユイシスがアバターを表示し、怜悧な声で囁きかける。
電気ショックで痙攣しているリーンズィの首筋を撫で、『冷静に対処を』と付け足してから、ユイシスのアバターは消えた。
リーンズィは返事をしない。
電撃を流された際に舌を噛み切ってしまっていた。ロック機構を動かしてくれるだけで良かったのではないかと抗弁しなかったのもそのためだ。
「えううう……んぐ」口腔内部で舌の再生が終わった頃には、リーンズィの脳髄はまた混乱で沸騰していた。隣にぶら下がるスチーム・ヘッドに食らいつくように問いかけた。「……コルト! そう、コルトのこと! コルトが自分と引き換えにプロトメサイアを破壊するなんていうのは、馬鹿げた計画だと思う!」
アルファⅢプロトメサイアの戦力としての評価は未だ不明瞭だ。自覚は無いながら、リーンズィがどうやらアルファⅣ相当で、すごい機体らしいということを鑑みても、相手は体感時間で二千年を超過して活動し続けているスチーム・ヘッドである。その脅威度を低く見積もる選択は、リーンズィには無い。
「馬鹿げちゃいるが、不可能な計画でもない」隣のスチームヘッドは煙草から唇を離し、薄く煙を吐いた。風に流されてすぐに消えたしまう命の煙。「分の悪い賭だがな」
「本当にコルト単独でそんなことが可能なのか? 可能なの? マルボロ。コルトは戦闘には向かない機体だ。SCARだってロックオンから発射までかなり時間が掛かる。戦闘用なら、撃たれるまでに何回でもコルトを壊せる」
「だから、『かも知れない』という程度だ。何も出来ないままぶっ壊される確率のが高ぇだろな」
リーンズィたちに計画の存在を知らせたスチーム・ヘッド――マルボロの露出した口元には、何の表情も浮かんでいない。
彼の簡素なヘルメットの下でどのような演算が巡らされているのか、リーンズィは敢えて読み取らなかった。
言葉の節々に滲む感情の濁りは、不死の肉体で思考を紡ぐスチーム・ヘッドには、有り触れている。
底の見えない諦念である。
急くことに意味は無いのだ、とリーンズィも理解していた。
きっと全ては手遅れで、敢えて手遅れになってから、マルボロは事態を伝えてきた。
戦術ネットワーク上から、コルトのシグナルは消えてしまっているのだ。もうコルトは破壊されてしまって、この世界のどこにも残っていない。
だが、間に合わないことは、急がない理由にはならないのだ。クヌーズオーエ解放軍のスチーム・ヘッドは疲れ果てた不死の集まりではあったが、壊れた仲間を見捨てられるほど擦り切れてはいなかった。
「……『かも知れない』ことのために、コルトはそんな……自壊も同然の行動を?」
「自然な判断じゃねぇかな。FRFとマジでやりあうってんなら、コルトは何の役にも立たなくなるからな。タイミングで言えば、ここが最後の使いどころだ。おっと、お前がどう思うかじゃない。全部コルトの思考の問題だ。あいつはずっとキュプロクスの突撃隊による虐殺を止められなかったこと……その責任を背負い込んで生きてきた。そしてFRFと真正面からやり合うなら、今度も市民の犠牲は避けられない。山ほど殺すことになるだろうさ。だが、あいつはもうこの先、耐えられないんだよ。無辜の民草を雑草当然に踏み躙るなんて、耐えられない。あいつは期待通りには完成しなかったかもしれないが、しかし責任を取ることに関しては、神様にだって負けやしないわけだからな、命の捨て時には、遠慮なんてしないだろうよ……」
「そうだとしても、自壊するなんて悲しいことだ。私は悲しい。マルボロは悲しくないのか? ないの?」
「悲しいな」
「何故、彼女を止めなかった?」
「そう願われたからだ。俺はあいつの願いを叶えただけだ。俺にはそれしか出来ない……」
リーンズィは咎めようとした。出来なかった。マルボは言葉を飲み込むように咥えた煙草を深く吸い込んだ。筒状の紙に灯が灯りあっという間に燃え尽きて崩れかけた塔のような灰の塊になる。名残惜しそうにその男の不死病筐体が吸い殻を手放すと、色の無い灰は高速で走行しているパペットの震動と向かい風に飲み込まれて一度広がったあと枯れ果てた花のように崩れ去りすぐに見えなくなった。
「言いたいことは分かる。自壊を前提とした作戦なんざ、追い詰められた敗残兵のやるような仕事だ。ぶん殴ってでも止めるべきだった。しかし、あいつは、それが正しいと信じれば、どれだけ間違っていても、どれだけ代償がデカくても、絶対にやる……遣り遂げてしまう。そういう子だ。今回は絶好のシチュエーションだった。こんな危険な場所に自分を単独で放り出せば、プロトメサイアのやつが勘違いをして勝手に迎えに来ると読んで、そこに自分の全存在を賭けた」
『馬鹿げておる、馬鹿げておるわ。あんな出来損ないと自分を引き換えにすれば、喪ったものが戻ってくるとでも思っておったのか?』
悲憤の混じる老人の声は、この場には随伴していないウンドワートのものだ。
彼女は悪性変異体の鎮圧と監視を取り仕切るポジションに自分をアサインしており、コルトが危機に晒されている、あるいは晒されていたと知っても、任務を変更しようとしなかった。
ただし、ウンドワートはクヌーズオーエの縦横を十秒以内に駆け抜けることが出来る。リーンズィたちがターゲットをマークすれば、軍神は即座に襲来して敵を粉微塵に壊し尽すだろう。
「でもな、ウンドワート。実際、コルトの作戦は正しいだろ?」マルボロは自嘲の声を漏らした。「あいつの性格は知ってるだろ、姉妹みたいなもんなんだ。SCARみたいな大量破壊兵器を、市民に向かって何度も使えるようなタマじゃない……。遠からず発狂して壊れちまう。関わらなくても一緒だぁな、虐殺を見過ごすも同然……だからここで残り少ない時間を全部突っ込んだのさ。ここが、あいつの人生の落とし所なんだ。しくじっても、プロトメサイアのやつをおびき寄せることさえ出来れば、それで十分だ。動揺させて、幾らかでも時間を稼げば、他に幾らでも自分より強い機体をぶつけることが出来るわけだからな……」
『ワシは合理を説いておらん。ただ、コルトは阿呆だと言っておる』ウンドワートは吐き捨てた。『気に入らん、気に入らんな。……プロトメサイアのクズが屋外に出たらワシに伝えよ。残骸すら残さん、デイドリーム・ハントで塵芥に変えてやる。ああ、まったく、コルトも、つくづく阿呆なことをしてくれた! だいたい、あの腐れ救世主が自分を攫いにくるなんて発想自体が妄想じみておるし!』
『こ、コルトさんの推測は間違ってないと思うよっ』
上ずった声で割り込んできたのは、FRFの兵士から作られたスチーム・ヘッド、リクドーとサードの合成体であるシーラだ。先頭を走るリーンズィたちのパペットとは別のパペットに取り付いており、尻尾を構成する最愛の姉、サードを使って、グリップを握っている。
タクティカルベルトで手脚を絞った黒い雨合羽めいた不朽結晶繊維装甲が、マントのように向かい風にはためく。めくれた布地の下から滑らかな素肌が露わになった時には、体表から骨へと直接ボルトを撃ち込んで固定している簡易型高機動蒸気甲冑のフレームが僅かに輝いて見えた。
背負っている蒸気機関も小規模なもので、肌を這う蒸気配管と合わせて、装備は全体として骨格じみていた。
『解放軍の戦力と比較して確信したけど、FRFは本当に慢性的な人材不足なんだよっ。たぶん、とうの昔に、総統閣下一人では問題を捌ききれなくなってるんだ……。だから、コルト様が本当に娘のような存在で、総統閣下の代行が出来るというのなら、あの総統閣下のことだもの、絶対に欲しがるっ!』
『ありえん、ありえん。プロトメサイアのやつは愚かじゃが、リスクを冒してまでコルトを欲しがるほど愚かじゃとは、期待出来ん。あやつのバッテリーは劣化に劣化を重ねて、多少の無理ですぐにシステムダウンを起こす有様なんじゃぞ? いや、今はもっと酷いかもしれんな。そしてやつがくたばれば、やつの統治する都市群は確実に混乱状態に陥る。そんな状態でわざわざ前線に出てくるのは真性の狂人じゃよ』
『……私には、プロトメサイアの気持ちは分かる気がします』
リーンズィたちを運ぶパペットの頭頂部に鎮座した少女が、風になびく髪を抑えながら切なげに呟く。
『我が子と憎み合って争うなんて、厭なことだものね。あたしなら、何とひきかえにしてでも、仲直りして、ずっと一緒に居たいと願うわ』
溜息交じりのミラーズの言葉に、重苦しい沈黙がネットワークに降りた。一心不乱に駆けアスファルトを砕くパペットたちの軽快な足音だけが響いた。
そこに、ぽつり、と波紋が落ちる。リーンズィと同じパペットにぶら下がる、青ざめた人形のような美貌を持つ、黒髪のサムライ少女だ。
『ヒナも、レアちゃ……ウンドワートちゃん先輩の危惧に、部分的に賛成。プロトメサイアとか言う人が正気なら、そんなことやらない』
『ウンドワートちゃん先輩て』ウンドワートは真顔で復唱した。『まぁいい、オヌシもやはりそう思うか』
『うん。ヒナなら絶対に随伴機を連れていく』
『ほう?』
「SCARのセンサーは超高精度だ。警戒させないために余計な戦力は持ち込まねぇはずだがな」
『コルトにも感知されないような、とびきり隠形に長けた機体を連れてく』
いつでも夢を見て、茫洋とした妄想に身を委ねている少女剣士は、不意に殺気を滲ませた。パペットの反対側に取り付いているリーンズィにすら分かるほどの気迫。
『ヒナのお父さんなら……裏切り者であるエージェント・シィーなら、それが出来るはず。だってお父さんはすごいから』
『確かにその可能性はあるかもですっ、ヒナ師匠』
『待って。収録中はヒナじゃなくてケットシー。シーラ弟子。次間違えたら……また、朝まで二人で<トレーニング>、だよ?』
『ひっ……ごめんなさい、ケットシー師匠……トレーニングはちょっと……あのう……人目もあるし……』シーラはどこか艶のある声で慌てて言い直した。『そうそう! 父様は、総統閣下の護衛だと噂されていたしっ、もしも総統閣下が動くなら、それに同行してもおかしくないよっ』
『お父さんはすごく強力なスチーム・ヘッド。最強の護衛がいるなら、総統とかいう大層な身分でも平気で敵前に出られるはず』
『うむむ、そのシィーとやらがどれだけ強力か知らんがのう』
疑念を示したのは今回のコルト救援にも参加しているケルゲレンだ。ペンギンに似たユーモラスな蒸気甲冑の中で、冷静な頭脳が現実的な概算を行っているようだ。
『ケットシー殿より圧倒的に強い、ということが有り得るのか? 恐れるに足らず、であろ。いてもいなくても同じじゃろ』
「それに、こっちはケットシーに、元<首斬り兎>狩り部隊に、アルファⅡモナルキアだ。ぶつかりあうことになっても、俺にも負けの目は見えねぇが……」
即応出来る兵力をかき集めただけだが、結果的にはケットシーを含む最精鋭の戦力がこの配置転換に参加していた。任務の最も困難な部分、街中に聖句の放送網を構築する作業が終わった後は、必然的に、困難な任務にのみ投入される高性能機が余るためだ。
ケットシー合流後、解放軍は個々の戦力をさらに増している。葬兵ケットシーとの模擬戦を繰り返した結果、元<首斬り兎>狩り部隊に限った話だが、束になれば彼女に対抗出来るようになっていた。さらに戦列には三位一体の高機動戦闘が可能なアルファⅡモナルキア、後詰めにはアルファⅡ<ウンドワート>が控えている。
解放軍が圧倒することは間違いないはずだ、とはリーンズィも考えた。
『油断しないで。エージェント・シィーはこの世界を滅ぼした悪の親玉の中の親玉。無辜の民草に死を強いた悪逆の担い手。ヒナよりずっと強いと考えて間違いない。みんなは反逆者シィーが出てきたらあまり手出ししないで。ヒナが相手をして、殺す』
「そうかい」マルボロはパペットにぶら下がったまま、また新しい煙草に手を付けた。「何にせよコルトの願いが叶うならそれでいい。何よりも良い……」
「……どうしてそこまでコルトを思う。君は……コルトの何なのだ? 何なの? 前々から思ってはいた。えっと……コルトの部下だと言うことは、実はもう知っている。だけど今回の件も君だけが知っていたし、君だけが特別だ。少し気になる」
「何でもねぇんだな、これが」バイザーの下部、露出した口元が、虚しい笑みを浮かべた。「元々は今『プロトメサイア』なんて偉そうな名前を名乗ってるやつの監視をやってた。あいつを解析・改良したSCARが完成した後は、さすがに俺も時代遅れになっててな、それだから、ガキどもの……コルトの世話に回された。でもまぁ、親でも、兄弟でもなし、一番近いのは、『親戚のおじさん』だろうな」
「親戚のおじさん……」
非常に難しい喩えだった。母のようなミラーズ、姉のようなユイシス、妹のようなシーラ、父のようなヴォイドはいるが、それらの外側にある血縁は、リーンズィには理解しがたい。
「それは、どの程度の親しさ?」
「コルトのおしめを替えたことがある。寝小便の世話もしたなぁ。そうだな、乗馬を教えたのは楽しかった。俺の膝の上に乗るぐらいの年の頃だったな。姉妹の中でコルトは一番乗馬が上手かった。まぁ馬が好きだったからだろう。人格を封印された今でも好きかは分からんが。ああ、嫌になる……この期に及んで楽しかった、都合の良いことしか思い出せねぇ、耄碌してくると技も頭も鈍っていかん……」
まだ吸い終わっていない煙草が、口の端から落ちた。アスファルトに落ちて遠ざかる。消えていく。すぐに見えなくなる。
マルボロは落ち着かない素振りで胸のタクティカルベストを探り、次の煙草を咥えた。使い捨てのライターを握る。一度。二度。三度。四度。
舌打ちをする。
五度目で着火した。
この不死の男が紙煙草に火を付けるのに手間取るのをリーンズィは初めて見た。
「……十六の誕生日にはコルト・ドラグーンのレプリカを作ってやった。あいつは、どうしても欲しいわけじゃないけれど、と言ってはいたが、欲しくて堪らないのが見え見えだった。レミィやシグ、ハルハラも、だいたい同じだったが、自分の名の由来になった武器だ、手に取ってみたいに決まってる。ところがどれも骨董品で、しかも戦争装置のやつが、無用な武器への資材提供を認めない。そこで『親戚』のみんなで協力したわけだ。命も魂も無いみすぼらしい不死、こんな惨めなくたばり損ないになっても、後生大事に持ってた腕時計だの、トロフィーだの……そういう私有財産の類を鋳潰してな……何を捧げても惜しくなかった。あの四姉妹は、俺たちの希望だった」
「愛していたのだな」
「愛しているよ」
マルボロは落ち着かないらしく、深く息を吸う。咥えていた煙草があっという間に灰になる。それをまた地面に落とした。
アスファルトに落ちて、まだ消えていない火が、遠くへ流されて、見えなくなった。
「愛しているとも」
「じゃあ、何でも無い関係じゃないのではないか? ないの? もっとこう、娘とか……?」
「娘じゃない」マルボロはパペットの装甲をじっと見つめた。「世話はしたつもりでいる。成長を間近で見守ったきた。だがな、現在のコルトは、そんなパーソナルな記憶は保持していないだろうし、何より俺が、親じゃないんだ。あいつが苦しみ、悩んでいるとき、俺に出来るのは、精々が一緒に消え去ってやることだけだ。あいつと一緒にな」他のSCARと消えちまったやつらと同じさ、とうそぶく。結局は救ってやれない。「そんなことしか出来んやつは、それは、親じゃないだろう。俺にガキはいないが、ガキをこさえた友人はたくさんいた。で、あいつらの子への愛情を見ちまうと……『親』ってのは、子にとって、もっと良いもんだった。俺にはとても名乗れない。俺は親に値しない……」
『差し出せるものの大きさで、愛は測れませんよ。愛を測れるのは、愛だけです。愛とは、愛し合う者たちが互いを通じて同じ景色を見たときにだけ目に見えるものです』
おそるおそる、と言った様子でパペットの側面を覗き込んで、ミラーズが声を掛けた。
『どうか、愛について嘆かないで。あなたたちの愛は、あなたたちの間でしか、息が出来ません。蔑ろにすれば、すぐに窒息してしまいます。あなたが思い、コルトが思えばこそ、愛は鮮やかに彩られるのです。だというのに、あなたが一人で胸の中の愛を否定してしまったら、その愛はどこへ向かっていけば良いのでしょう? どうか嘆かないで、マルボロ。あなたの愛は、確かにあるのです』
「そうだと良いが」マルボロは俯いて煙草から口を離し、息を吐いた。「すまねぇ、気を遣わせたな」
『気を遣うことぐらいしか出来ないんだもの、気にしないで』と微笑んでミラーズ。『ぶら下がったままなのが怖いから頭頂の席を譲ってもらったんですもの。高いところにいるんだから、みんなの心の物見の代わりぐらいはしないといけないわ』
「元大主教様にはかなわん」
首を振る。次に顔を上げたとき、マルボロは一つの決意を固めたようだった。
「よし、目的地までもう間もなくだ。そろそろコルトの計画について本格的に話しておく。リーンズィだけじゃない、コルトが閉じこもってる建物に突入するメンバーは、みんな心して聞いてくれ。完璧に何もかも運ぶなら、コルトは……」
マルボロの意識が、コルトの信号が消えた戦術ネットワークに向けられた。躊躇うような、唸るような声を出して、兵士は一度言葉を途切れさせた。
「……コルトは、既にトリガーを引いて、壊れている。そしてプロトメサイアに最後の一撃を叩き込んでるはずだ。やつは恐ろしく強力だが、決して倒せない相手ではない。特にコルトには切り札がある。あの忌まわしい不滅者を使えば、有効打を喰らわせることも可能なはずだ。それで、最大の問題は……処刑の場に居合わせたもの全員が、しばらくは処刑の対象となるリスクを負うと言うことだ」
「処刑の対象……?」
「そうだ。一度起動したら暫くの間、関係者に対して影響を維持する。それがロングキャットグッドナイトの率いる<戒め>たちの特性だ」
「ふむむ。コルトの切り札はつまり、<猫の戒め>なのだな?」
「九割ぐらいはな。ただし、コルトが用意した『銀の弾丸』は、時間制限で消える他の戒めとは桁違いに危険だ。こいつに関しては認知機能ロックがかなり広範に適応されてるはずだから、名前だけ聞いてもピンと来ないだろうが、計画通りなら、今回リリースされた戒めは、<第一の戒め>である……」
不意に閃光が迸った。
リーンズィは咄嗟にまぶしさから顔を背け、薄目で状況を伺った。破裂音が轟く。傍らで火花が散り、水蒸気爆発の残滓である白煙が空間を揺さぶり、螺旋を描く水蒸気噴射の痕跡が広がっていくのを見た。
理性を働かせる。重外燃機関にマウントしていた対感染者用大型拳銃を抜き放ち、視線で音源を射貫く。
ーー黒い蝶のようだった。
真っ白な首筋、裾や袖から伸びるしなやかな手脚が惜しげもなく投げ出され、冷たい空に死の影の如く透き通る。
不可知の迎撃。葬列に並ぶ儀仗兵じみた深く黒いセーラー服のスカートをひらめかせ、蒸気噴射の煙を纏って黒髪の少女が勇躍していた。
得体の知れぬ鉄塊のような武器を構えている。構造を解析したユイシスが【不明:超高純度不朽結晶】のタグを付与する。
「ケットシー!?」
葬兵の武器は振り抜かれ、既に激突している。最大で一万倍を超える加速を発揮するケットシーが、先手ではなく、よりにもよって受け止める姿勢で宙を待っている。
不可知の領域から攻撃を受けたのだとリーンズィは悟った。
「――止めよったかぁ! このワシの一刀を!」
感極まったかのような女の叫びが木霊した。
白刃を携え、葬兵とぶつかりあい、空中で狂おしく歯を剥くのは、ケットシーと同じく黒い髪をした少女だ。
挑発的に肌を曝け出すケットシーの衣服とは対照的に、顔以外の部位を一切露出していない。丁寧に縫製された衣装はただの布であり、旧時代の飛行服を思わせる。
その面影に一瞬だけコルトを想起する。あるいはリクドー、サード、ネレイスの素顔を。
Tモデル不死病筐体と呼ばれる系列のスチーム・ヘッドだった。
「しかもその剣っ! まさかワシがこげんに斬り損なうとはのう!」
見知らぬ剣士の構えるカタナにも【不明:超高純度不朽結晶】のタグが付与された。
「――蒸気抜刀、機関剣・不壊崩し。持ってきといて正解だった」
人外の領域で斬り合う二人の間に暴風が吹き荒れる。パペットたちは増速して距離を取るべきと判断したようだった。
と、リーンズィの視界が揺らぐ。
しがみついているパペットがバランスを崩しているのだ。
後方へと置き去りにされていくケットシーと謎の剣士を注視しつつ、リーンズィはパペットの脚部を確認するために慎重にフレームを伝って降りた。
朦々と噴き上がる煙に、形の良い眉を潜める。
蒸気配管の一部が切り裂かれ、駆動部にも刃が徹った痕が見つかった。長くはもたないだろう。
『何だ!? いきなり俺が壊れた!? よく見てなかったが敵襲なのか!?』
走行に集中していたらしいパペットが悲鳴を上げて高速通信を飛ばしてきた。
『こちらオーストリッチ・エクスプレス・ワン、脚部に異常を確認! どうなってる!?』
「落ち着いてほしい。君の認識通り、被弾している。おそらくじきに転倒する」
『くっそ! 何だったんだ今の! いや俺はそれで構わんがあんたらどうする! 脚が無くなるぞ! こんなところでオーバードライブ用の電力を使うのはマズい、プロトメサイアの糞野郎をブッ殺すんだろ!?』
『大丈夫、サードたちはシーちゃんの援護に向かうよう! リーンズィさんたちは、こっちのゴーレムさんに乗り換えて!』
通信を飛ばしながら、雨合羽の葬兵・シーラは既に空中へ身を投げていた。
両手に不朽結晶剣。着地と同時に蒸気噴射で姿勢を制御、怯むことなく剣鬼どもの食い合う死地へと突撃していく。
『まぁたバケモンのサムライと戦うんスかぁ。嫌になっちゃうなー』
『俺たちの経験値が一番高い。順当だ』
『遅れるな、ワシらも参るぞ!』
ケルゲレン、イーゴ、グリーンの元<兎狩り部隊>の三機が、追従して飛び降りている。ケットシーとの初遭遇時に最後まで破壊されなかったメンツだ。おそらく一定の戦果は出すだろう。
遠ざかりつつあるというのに、正体不明の剣士とケットシーの激突ははっきりと視認出来た。三〇倍加速を遙かに超越した異常速度に到達した二機がぶつかりあう度、重爆撃機から攻撃を受けているのかと錯覚させるほどの爆裂が巻き起こっている。
あの領域に他の機体が踏み込むのは却って危険ではないかと思わされたが、両者が拮抗しているなら、勝手知ったる味方という外部化された攻撃機会が多い方が有利になるだろう。
『オーストリッチ・エクスプレス・ツー、積み荷の全機降車を確認。リーンズィチームの輸送を引き継ぐ。お前はその辺で寝てろ』
『オーストリッチ・エクスプレス・ワン、了解。進路確保のためにカウント・ゼロで右前方へ飛び退く。後は任せるぞ、みんな』
コルトの仇を、と言い残して、パペットがカウントダウンを開始した。同時、後続のパペットが増速して距離を詰めてくる。リーンズィたちがそちらに飛び移るのを見届けると、火を噴く脚を引き摺って、宣言通りカウント・ゼロで右前方へと跳躍し、着地せずそのまま倒れ込んだ。
お疲れ様、とミラーズが通信を飛ばすと、パペットは作業用アームしか存在しない右腕を立てて応答した。
『はぁ。さっきはびっくりしたわ。全然見えなかったけど、パペットの勇士様が斬られたのよね?』またも頭頂部に座り込んでミラーズ。『一度だけ、誰かに見られたような感じがするけれど、なんだか見逃されたみたい。どうしてかしら』
『貴官の天使のような美貌に見惚れたのでしょう、当機のミラーズ。……当機にも後追いでの解析しか成功していませんが、該当機はミラーズを視認したあと目標を変更しています』
『もう。からかわないで、私のユイシス。でも斬るまでもないと思ったのかもしれないわね』
「あんな速度で動きながら、相手を選り好み出来るってことかよ。なんだかとんでもないやつが出てきたな」
遥か後方で剣士がぶつかりあっているとは思えない爆音が轟いているのを聞きながらマルボロが呟く。
「異様に軽装のTモデルなんて使ってるのはFRFぐらいだが、しかしこういう手合いが出てくるってことは、さすがにプロトメサイアの釣り上げにも成功したと思って良いだろうな」
マルボロは敢えて表現を軽く済ませているが、明らかにケットシー並の戦闘能力だった。ケットシーがいなければ、リーンズィたちは少なくともバラバラになって、地面にぶち撒けられていただろう。
新しくしがみついたパペットに身を寄せながら、リーンズィは、震える己の肉体を片手で抱いて慰めた。信じがたいことではある。通常では認識出来ない速度で移動する異常な機体に襲撃されたのだ。恐怖するのも当然である。
たまが、ひとまずは、ケットシーたちに任せて大丈夫だろう。戦術ネットワーク上に、迎撃のために降車した兵士たちの愚痴混じりの思考ログが凄まじい速度で流れていく。欠員が出そうな気配は無い。
爆撃めいた戦闘音が相変わらず聞こえているということは、ケットシーたちが正体不明の敵の猛攻を凌ぎ切っていることの証左だ。このまま押し切られることはあるまい。
今はコルトとプロトメサイアの方が先決だ。後続のパペットにデサントしている機体たちも同じ認識でいることを確認して、リーンズィはコルトに向けての進軍を続行した。
……しかし、今のはいったい誰だ? どうしてもリーンズィは怖気を抑えられない。知らない女性だ。不死病患者の肉体を乗り換えたエージェント・シィーという可能性もあったが、肉体の扱い方がミラーズを操縦していた時とは、まったく比較にならない次元だった。
そもそもリーンズィの知るエージェント・シィーは、どう考えてもケットシーに匹敵するレベルの機体ではなかった。あの常識を足蹴にするような異次元の機動力は何なのだ?
そして、シーラことリクドーがエージェント・シィーの遺伝的な娘である、という事実に思い至り、恐ろしい想像を胸中に訪れる。
まさか、FRFはエージェント・シィーを利用してケットシークラスの戦力の量産に成功しているのではないか……?
「疲れちまったな。コルトが呼んだあいつの説明は、まぁ、現地でも構わねぇかな。あんなバケモンの後にどうのうこうの言っても、何とか出来そうに見えちまうだろうし」マルボロが嘆息した。「どの道、手遅れなんだからな」
「う、うー! お待ちしておりましたぁ……」
ぐすん、ぐすんと泣きながら、見すぼらしい廃屋の前で、上級レーゲントが出迎えた。着衣がどことなく乱れている。パペットからミラーズが飛び降りてくると、「キジール様ぁ」と情けない声を出して抱きついてきた。
「あら、ストレリチアじゃないの。いったいどうしたのかしら? 何があったの?」
「FRFのならず者に襲われたんですう。コルト様をお守りしようとしたんだけど、私じゃ全然手が出せなくてぇ……」
「ストレリチア、襲撃者は何人だ? どんな風体だった?」
「二人居ました! 一人は野蛮で、私を押し倒そうとして、鉄砲で撃ってきて、私に乱暴しようと……。もう一人は黒い甲冑の騎士みたいな人で、私を部屋の外に追い出して、助けてくれました……」
「プロトメサイアだ」マルボロは頷いた。「あいつは基本、他のスチーム・ヘッドに甘い。今回も見逃したわけだ」
「そんなことより、コルト様が危ないと思うんです! さっきから銃声も聞こえてて……ううう、私がもっとパソコンに強ければ戦術ネットワークに通報出来たんですがぁ」
「よしよし、大丈夫ですよ。あたしもパソコンは苦手です。一緒にパソコン教室カリキュラムをやっていきましょうね」
「これはやっぱり、始まって、終わったあとかもしれんな……プロトメサイアがまだ残留してれば良いが。あいつは無茶をやれば都市間を数秒で移動出来る」
「急がなければならない」
リーンズィたちは廃屋への突入を開始した。
重装甲のスチーム・ヘッドを先頭にして、不朽結晶製弾を装填した電磁加速銃を構えた軽装兵士たちが後に続く。
さほど複雑な構造の家屋ではなく、クリアリングの必要すら殆ど無い始末だった。
その内装で、見るからに異質だったのが、不朽結晶によって内側から塞がれた扉だった。可視の部位だけでなく、離れた壁の内部にまで根を張っていて、容易に突破出来そうにない。
何か銃声のような音が聞こえて、緊張が走った。兵士たちがアルファⅡモナルキア・リーンズィに視線を送る。ライトブラウンの髪の少女は頷き、左腕の蒸気甲冑の鍵盤からコマンドを入力。不朽結晶を編み直すための機能を励起させた。
あとは障壁を解くだけ、といった段になって、マルボロが少女の肩に触れた。
「何が起きても、決して触れようとするな。邪魔しないようにしろ。無用な干渉は未来からの動きを変えてしまう。今より状況を悪くする必要はねぇからな」
理解は出来なかったが、リーンズィは彼を尊重した。
リーンズィの左腕の甲冑が障壁に触れる。不死病の構成因子は瞬く間に侵食され、リーンズィのコントロール下に置いた。低純度不朽結晶はもはライトブラウンの髪のこの少女にとっては飴細工も同然だった。
汚染された不朽結晶が繊維質の集合体となって解けるた瞬間、リーンズィは瞠目した。
そこに突然、重外燃機関を背負ったスチーム・ヘッドの背中が現れたのだ。
「なっ……!?」
リーンズィはうろたえた。まさか侵入しようとしてすぐ道を塞がれるとは思っていなかった。
そのスチーム・ヘッドは、チラと振り返るような素振りを見せた。それでまた、リーンズィは困惑してしまった。
姿を見てしまったのだ。全身をベルトで絞ったライダースーツに、やや骨張った細い体躯。中央に一つだけレンズの嵌まったヘルメット。両方の腰に、古めかしい回転式拳銃を収めたホルスター。
見慣れない重外燃機関を背負っているのが奇妙だったが、それはコルト・スカーレット・ドラグーンその人に思われた。
「良かった、無事だったのだな……」
その正面に、両手に軍刀を構えた漆黒のスチーム・ヘッドが佇んでいるのを見て、一瞬呼吸を失う。特徴的な重外燃機関から、おそらくプロトメサイアだと推定した。
コルトらしき機体と対峙したそのスチーム・ヘッドは、臨戦態勢のように見受けられた。しかし、何か限界を超えた負荷を受けたらしくフリーズしていると言った風体だった。
さらに奥には、跪くように座り込んで、呆然として俯き、床ならぬ場所、どこか知れぬ虚空を見つめている、黒い髪をした美しい女の姿があった。
リーンズィは己の目を疑う。
コルトだった。
「あれ……?」リーンズィは息を飲んだ。自分に背を向けている機体に視線を向け、それからまた部屋の奥の女を注視する。ユイシスが走査する。部屋の奥側のその女性は、100%コルト本人であるという結果が出た。「これは……何……?」
リーンズィに背を向けているこの機体は、誰なのだろう……?
ライトブラウンの髪の少女はさらに室内に視線を巡らせる。争いの形跡はない。プロトメサイアと思しき機体は、相変わらず何か魂を抜かれたような風体で、何か惨劇とは無関係な存在に思えた。よほどのことがあったのだろう、こちらを視認しているだろうに、両手の不朽結晶剣で攻撃してくる素振りも無い。息も絶え絶えといった印象だ。
座り込んでいる方のコルトは、どうやら人格を破壊されているようだったが、しかし目立った外傷はない。
二人の立ち姿は奇妙だった。まるで、プロトメサイアが、部屋の後ろ側で壊れた人形のように座り込んでいるコルト、おそろらくはコルトだと思われる誰かを、守護しているように見える……。
脳髄が状況に追いつかない。目が回りそうな混乱は、マルボロに肩を掴まれて霧散した。
「道を空けてやれ。お客さんは、今からこの穴から部屋に入るところなんだ」
言われるがままに身を除けると、銃士は振り返ることなく、後ろ歩きのような奇妙なやり方で、通路を後進し始めた。
どうすればそんな動きが出来るのか、何故そんな動きをするのか、リーンズィにはまるで理解出来ない。そのスチーム・ヘッドは後ろを振り返ることもなく正確に悪夢めいた歩みを進めた。
「コルト?」
リーンズィが唖然として呟くと、釣られて緊張が解けたのか、進路上の解放軍兵士たちも当惑の呟きを漏らした。
「おい……何してるんだコルト。どこかやられたのか?」
「なんでそんな歩き方をしてる?」
「なぁおい、どうしたんだ、コルト、俺たちが見えないのか……?」
兵士たちが狼狽えて彼女を見遣る中、彼女は無言でヘルメットを脱ぎ去った。
くしゃくしゃだった髪が重力に逆らうようにして整った。
現れた美貌は心なしか青ざめていて、しかしいつものように、感情の読み取れない曖昧な笑みを浮かべている。
見間違えようも筈も無い。
彼女は、コルト・スカーレット・ドラグーンだった。多少の装備の差異など問題にならないほどに、そのものだった。
奇怪な動きを繰り返すもう一人のコルトは、慄いて道を空ける兵士たちの真ん中を、後ろ向きに悠々と進んでいく。
擦れ違いざま、彼女がマルボロの装甲をそっと撫でたのをリーンズィは見ていた。マルボロは無言で彼女の手に触れようとして、しかし叶わない。
決して触れ合うことはないのだという直観がリーンズィにはあった。
「……コルト」
リーンズィは部屋で事切れている黒髪の麗人の名を呼んだ。
それから振り返り、身を乗り出した。屋外へ向かって後ろ歩きで進んでいくもう一人のコルトに、縋りたくようにして、手を伸ばし、叫んだ。
「コルト! どこへ行く、コルト! いったい何があった!? コルト、戻ってきて、私と話をしよう!」
コルトは屋外への扉の前で立ち止まった。
どこか寂しげな笑みを浮かべ、リーンズィたちへ向けて、小さく手を振った。
それから、後ろ向きのまま、屋外へと踏み出して、視えなくなった。
過去は覆らない。
未来に言葉は届かない。
もう一人のコルトは、とうとう屋外へと姿を消した。
誰しもが動けない。知るがゆえに動けず、知らぬがために、狼狽するしかない。
全てが遠ざかっていく。
何もかもが手遅れな時間の中で、体温の残滓たる仄かな不死の香りが、空間から消え去っていく。
何もかもが、あまりにも遠い。
投げ捨てられた煙草の煙のように、一切は見知らぬどこかへと流れて、消えていく。
それは彼方の時空で目覚める銃士。人知れぬ因果の果てより訪う執行者。二丁の拳銃、十二発の弾丸で、全ての罪人を貫き殺す。その弾丸は未来から撃ち込まれ、何者も未然の罪からは逃れること能わぬ。
領域外の法則によって編まれた再現性のない奇跡。不滅者ナインライヴズ、猫の使徒ロングキャットグッドナイトの創造した、最も尊き戒めの一人。
人ならざる時間に生き、人ならざる御国の法に従う神の如き現象。
彼女は滅びる幸福な肉体と引き換えに、平和を世界から取り上げる権利を与えられた。
なればこそ、そこには戦争に至る罪を未然に取り除く権利すら備わる。
七つの国、十の王、七つの丘に跨る真紅の悪竜、世界を飲み込む虐殺の連鎖が、どうしようもなくこの世に在ると言うならば、それは彼女という一匹の猫を運ぶために遣わされた馬である。
コルト。赤い竜を従えし者。
<第一の戒め>、異邦の騎士。
かつて罪人だった頃、彼女は祈り、願った。
目的を果たせるのなら、これよりさらに罪を重ねよう。どのような罰も、千年に渡る罰も、永久に拭えぬ業すら甘んじて受け入れよう。
だから、どうかこの手で、全ての罪を消し去ることが出来ますように。
みんな、幸せになりますように、と。




