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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
16/197

2-3(後) 大鴉の騎士、ヴァローナ

 霧に飲まれたが如く白く霞む廃村と瘴気を孕んだ黒く淀んだ森林の狭間で、吹き抜ける零下の風すら置き去りにする速度で二人の黒い影が踊り狂っていた。

 熟れた果実のような、あるいは咲き誇る花のような甘い旋風が。

 致命の輝きを散らしてぶつかり合う。


 鴉面の兵士のインバネスコートの下、腰の辺りに取り付けられた小型の蒸気機関が黒煙を吐く。

 黒煙を割り裂き疾駆するミラーズの華奢な骨格が軋む。


 開かれた服から剥き出しになった白い脚を伸ばして大地を蹴り、己の肉体を弾丸の如く打ち出して、擦れ違いざま切りつけ、鴉面が追撃に転じる前に強引に大地を蹴り変えて突進し再度の斬撃を見舞う。


 四方八方から絶え間なく繰り出される苛烈な攻撃に晒されて、しかし鴉面の騎士は無傷だ。

 捨て身に等しい突撃を繰り返すミラーズに対し、鳶外套のマントを翻しながら一撃一撃を斧槍で精妙に受け流す姿は衣服を香木で燻された甘やかな気配の闘牛士のようですらある。


 シィーは翠玉の目玉を頻りに動かし、刃を通す隙間を探す。

 巻き上げた土が重力に引かれるより速く、返しの斧槍を躱す空間を作る。


 過熱して脳を焼く人工脳髄が『全く、お前さんで良いのは顔と声だけだ』と思考すると、首輪型人工脳髄から『悪態を垂れる暇があったら、伊達じゃ無いって言うところをさっさと見せたら? あと2.5秒でバッテリー切れよ』と不機嫌そうな信号が返ってきた。


『誉めてるんだぜ、他人に酷いことをするには向かない体ってことだ』


『酷いことされるための体でもないわよ』


『そうだとも。そうさせないために努力してるんだ、ヘソ曲げないでくれよな』


 一合切り結ぶ毎に行進聖詠服の中で腕の筋肉が引き千切れ骨が異音を立て関節が砕ける。

 音速を大幅に超過した世界で、己の操る肉体、キジールという名をした少女の肉体が壊れていく音を聞く。

 アルファⅡの用意していたオーバードライブは存外に強力だった。殆ど最高レベルと言っても良い。限界を超えた機動の副産物としての身体損壊程度であれば、即座に再生される。

 だが、再生能力の程度では相手も同じかそれ以上で、しかも体格と武器のリーチでこちらに勝る。

 過度の自己破壊と再生を頼りにした運用でも、キジールの肉体は鴉面の兵士に大きく劣っていた。刃を打ち鳴らすための肉体にあらず、ただ高らかに声を上げることしか出来ない永遠に未成熟な少女。

 勝つのは難しい。シィーの判断としては、最適手は逃走だ。しかしキジールの儚い筋出力と、ミラーズのあまりにも短いオーバードライブ継続時間では、鴉面を振り切るのは難しい。

 親機であるアルファⅡから離れたときエコーヘッドがどうなるのか、という懸念も捨てきれない。

 自然、この局面で選択肢は一つに定まる。


 苛烈に攻めること。

 攻める手を決して休めないことだ。


 バッテリーの枯渇まで残り2秒を切った。

 無謀な突進は既に軌跡を読まれつつある。

 ここからは、小手先の技術を交える。身を預けるには余りにも頼りない小刀を振るい、それ以上の頻度でステップを刻む。

 両足が地面についた時には膝から力を抜き、慣性に任せて滑るように移動する。

 姑息な技でしかないが、相手に東洋の兵士と戦闘した経験が無く、オーバードライブに伴う思考のクロックアップが標準程度ならば、加速度を見誤らせることが可能だ。

 幻惑効果は想定以上でも以下でも無かった。

 敵の蒸気機関が作る黒煙のベールの向こうで斧槍の刺先が迷いに揺らめくのを確認し、オーバードライブ機能は自分と大差ないレベルだと判断する。

 一時しのぎの技を見抜けないとは、そういうことだ。長時間使用すると自壊するような高負荷のオーバードライブならば、摺足だろうが縮地だろうがあっさりと見破られる。

 もっとも、これは相手の機能が低いということ意味しない。

 シィーの認識では、戦闘用スチーム・ヘッドでは標準的な性能だ。むしろ、限定的であるにせよ、同水準の破壊的抗戦機動(オーバードライブ)が可能なアルファⅡの簡易型人工脳髄が高性能すぎると言えた。


『1.391秒経過。ねぇ、あと2秒よよよよ』


『2秒もないっての』


 生体管制で処理能力がオーバーフローしているらしいミラーズへと軽口を返しながら、不朽結晶の衣服を頼んで斧槍の先端に飛び込んでいく。

 突き出された柄舌を左手で叩き払い除ける。コートの影に隠れた位置から前蹴りが飛んで来たが、その手口は見え透いていた。

 浅く息を吐いて跳躍して回避、股下を開いた行進聖詠服を翼のように広げながら、踵落としの要領で重心を変化させ、落下の勢いを加速させながら上空から蹴りつける。

 迎え撃ってきた斧槍をブーツの足先で払い、さらに着地の寸前に斧槍を握る手目がけてナイフ振り抜いた。

 鴉面もむざむざ打たせるような手合いではなく、一瞬だけポールから手を離してこの斬撃から逃げおおせた。

 さらには、金髪の少女がついでとばかりに繰り出した生白い脚の横蹴りまでも、甲冑の拳で迎撃してきた。

 ミラーズが着地すると同時、加速された時間の中でいまだ宙に浮いていた斧槍を再度掴み、石突きによる最短距離の打撃を突き出してくる。

 ここではキジールの小柄さが活きた。

 身を屈め、あるいは逸らし、細い素足を振り子のように扱って姿勢を素早く操縦し、重い一撃とそれに続く乱打を現代舞踏家のように紙一重で避ける。

 無論、根底にあるのはシィーの戦闘経験だ。

 かつての敵は悪性変異体に、城の如き大型蒸気甲冑(スチーム・パペット)ども。

 自分より巨大な相手に対して立ち回るのは慣れている。


 シィーは片時も休むことなくひたすら動き続け、あらゆる機動を次の攻撃に繋げる。

 身体動作は平時の十倍以上、思考速度に限れば数十倍に加速された時間の中で、素足を晒した少女の金髪が、装飾を鳴らす黒服を背景に雷光のように残像を描く。

 黒煙を身に纏う鴉面の斧槍が一つ打つ間に、少女の体に不釣り合いな大ぶりのナイフが五つの閃きを浴びせる。

 鴉面の兵士が肉体を大きく動かす度に花の香りの甘い風が吹き付けてくる。

 ミラーズの一閃が常に速い。

 手足を精妙に抜き差しし獣じみて転げまわるミラーズに対し、鴉面の兵士は防戦に徹している。


『1.58秒経過。これ、もしかして勝ってる?』


『勝ってるならもうとっくに勝ってる』


『でも滅多斬りにしてるじゃない』


『一回も切れてねぇよ。刃を滅茶苦茶にぶつけてるだけだ。刀と一緒だ、ぶつけるだけじゃダメで、ちゃんと切らないと切れないんだよこのナイフ』


 どこまで攻めても、不利なのはあくまでもミラーズの方だ。

 積極的に間合いを詰めて攻撃を仕掛けなければ、斧槍の長さと体格差で押し切られかねない。

 リーチでも膂力でも足運びでも相手に及ばないならば、手番を回させないよう道理を外れた攻撃を徹底するしかない。現状は少女の未発達な肉体を限界を超えて酷使して猛攻を重ねることで、敵に最も確実な防御の択を選ばせている過ぎない。

 印象とは裏腹に、主導権は鴉面の方にあるのだ。

 攻撃とは最大の防御なりとは皮相なもので、この闇雲な全力攻撃こそがシィーに選択出来る最善の守りだった。結果として功を奏してはいるが、麻薬を濫用した曲芸師か狂犬病の犬のように突進を繰り返し、矢鱈と転げ回って移動するのも苦肉の策である。

 スチーム・ヘッド同士の格闘戦では、皮肉なことに肉体の履歴がむしろ生前よりも物を言う。

 キジールの肉体は、単純に激しい身体運動に慣れていない。シィーがこれまで出会ってきた全てのキジールと同じく、ミラーズもまた、丁寧に脚を動かすのが下手だ。

 ここまでは奇天烈な機動でカバー出来ているものの、シィーの得意とする先の先、あるいは後の先を取るための、巧緻に立脚する運足にはとても対応出来ない。

 敵が思い切った攻撃に出たときには、一気に形成が逆転してしまうだろう。 

 だから今は、攻めきれずとも、攻められることもない。

 そんな膠着状態を維持することだけに注力する。


『だいたい何で聖歌隊がお前に襲いかかってくる? 大主教の使徒同士で直接的に潰し合いするなんて聞いたこともないぞ』


『ヴァローナに悪意を向けられる心当たりはありません。ちょっと思い詰めたところのある子だったけど、笑顔が可愛くて、リリウムのことが大好きな良い子です。あたしだってマザーとかシスターと呼ばれていて、結構仲が良かったのよ。私の家族も同然です。音楽の趣味は合わなかったけど』


『反抗期だってんならそれでもいいがな。しかし、なんでそんなやつが、こんな場所に再配置されたのかもよく分からん』


 打ち合うだけなら無駄な思考をしている暇もある。

 ミラーズがオリジナルの記憶の断片から再構築されたエコーヘッドであるためなのか、ヴァローナと呼ばれるこの鴉面の少女については然程の情報を得られなかった。

 唯一確かなのは、簡素な装備ながら油断出来ない実力の持ち主で、自分たちに敵意を持っていると言うことだけだ。


『1.82秒経ったわよ。ねぇねぇ、あのね、どこがローニンなの? あんなに格好付けてのに、上手いこといってないみたいだけど。もうすぐこの速くなるやつ終わっちゃうわよ』


『背丈も肉も得物も無いって状況で、長物相手に持ちこたえるってのはそれなりに凄いことなんだぜ、ミラーズ。お前がもっとお前の娘ぐらい成長してりゃなと久々に思ったよ。あいつは内気だったけど筋は良かったし手足も長かった』


『そういうのは生きていた頃のあたしにどうぞ。まぁあたしはもう、死んだあたしですらないわけだけど……』


 余裕があるのは口ばかりだ。お互いが張り詰めた運動処理に全力を費やしている。

 神経を割いてステップと歩法で認識を惑わせ、飛び跳ねては飛び退き、飛び退いては飛び込み、蹴られた犬のように転げ回り、それしか知らぬ異常者のようにナイフを振るい続ける。

 厳粛な高貴さと娼婦的媚態が入り交じるゴシック調の行進聖詠服は泥濘に塗れ、触れた汚物を片端から浄化する金髪と手先足先だけが汗に濡れて燃えるように輝いている。

 一挙手一投足の度に服の下で超高速戦闘に耐えかねて体組織が自壊し、擦れた皮膚が炎症を起こし、ガス交換の度に口腔から血が零れる。括約筋が壊れず下半身からの出血を防いでいるのは、生体管制の賜物だ。吐血は制御できないが、制御できる出血は当然避けるべきだ。熱エネルギーの捻出と継続的な身体冷却、酸素の過剰供給が必要なオーバードライブにおいては、極端な話ではあるが目や腕よりも一定量の血液の方が重要だ。

 尤も、その生命管制にしても重い反撃を受ければ壊れるだろう。

 いずれにせよ無理が嵩んでいる。

 敵が致命打を繰り出す前に時間切れか、あるいは肉体の限界が来る。


 だが、シィーは微塵の焦りも見せず、無謀で冷徹な攻勢を維持した。

 ナイフと斧槍では、土台リーチが違いすぎる。

 身体能力もあちらが上だ。

 幸いなのは、敵側にこちらのオーバードライブが三秒しか持たないとは看破されていないだろう、と言うことだ。

 シィーの攻勢はある意味では悠長でさえある。己の消耗を全く考慮しない、少女の形をした殺戮の嵐のような攻撃を前にしては、こちらに時間制限があるなどと判断することは出来ないはずだ。

 そこにもう一つの事実を重ねれば、この事実は危ういところで勝機に繋がる。


『残り0.99秒よ』


 仕掛け時だ。

 シィーは少女の小さな鼻で、すん、とにおいを嗅ぐ素振りを見せた。

 リアクションは無いが、鴉面の少女に兵士な判断能力があるならば、危機感を与えられたはずだ。

 それはミラーズが、即ちこの金髪の翼を背負う可憐な狂犬が、己の重大な損傷を決して見逃していないという証明だからだ。

 戦闘開始からずっと、強化された嗅覚が補足してる。キジールの血の香りは花水木に似ている。シィーにとっては嗅ぎ慣れた香りだ。

 だがそれとは異なる血の香りが充満しているのをはっきりと感じている。

 アルファⅡを無視すれば、香りの主は決まっている。

 ただの一閃も身に受けていないはずの、鴉面の少女だ。


 彼女は負傷しているのだ。

 インバネスコートに隠れているが、敵は血尿の失禁や下血に襲われていると見て間違いなかった。

 生体管制が正常に機能していないに違いなかった。

 思い当たる節はある。

 アルファⅡが最後の足掻きで放った高圧電流。

 そして地面へと叩き付けるというシンプルな物理的破壊だ。


 スチーム・ヘッド同士の戦闘は常に仕掛けた側が有利だ。

 ミラーズの戦闘の第一手は、ミラーズが刃を掴む前に既に成立していた。

 鴉面の少女が破壊から復帰しているのは仮初めのことだ。破壊された臓器は結局完治出来ていないはず、とシィーは分析した。

 重要部位だけを簡易に修復して、肉体を再起動させる。戦闘用スチーム・ヘッドなら基本中の基本の小技だ。そしてオーバードライブ中は戦闘に即座に必要で無い部位の損傷はケアを後回しにされる。そればかりか、負傷した肉体でオーバードライブを継続すれば、負荷の増大によって破損している内臓や神経組織は機能が恐ろしい速度で低下していく。

 そうなれば必然的に敵側、即ちミラーズに主導的交戦優位(イニシアチブ)が移ってしまう。

 敵には長期戦に拘る理由が無い。

 むしろ、本音では短期決戦を狙っているはずだ。

 シィーは敵が早い段階で攻勢に転じると踏んでいた。

 生き急ぐかのようなシィー=ミラーズの連続攻撃は、実際には誘いである。

 敵が急いて仕掛けてくる瞬間を、虎視眈々と伺っているのである。

 刃を振る。転げ回って攪乱する。

 逆手にナイフを構えながらまた突撃する……。

 永遠とも思える攻勢を全力で継続する。


 オーバードライブ解除まで残り0.5秒の段階でようやくタイミングが訪れた。

 敵の爪先が僅かに震えるのを視界の端で捉える。

 下血か失禁か、赤い血がぼたぼたと地面に落ちたのを見た。

 どこかしらの内臓が深刻な崩壊を起こしたのだ。

 来る、とシィーは直観した。

 注視することはしない。

 戦士の才覚が、肉体に勝機を掴んだことを知らさせない。

 決して気取られてはならない。


 鴉面の兵士は勝負に出た。

 拙速にも、刃の側面による打撃で、強引に狂犬を払い除けようとしてきた。

 敢えてこれを受けて雪の上を転げる。

 衝撃で肋骨が割れ、ミラーズは喘ぐように苦鳴を漏らした。

 だがシィーの認識では、無視できないレベルの重大損傷では無い。

 肺は無事だ。

 しかしそこで敢えて誘うように鳴かせたのだ。


『残り0.47秒』


 裏で動作を組み立てて、転げながら姿勢を起こし、行進聖詠服の下で脚をたわめる。

 こちらの姿勢が完全に崩れたと見たか、鴉面の少女は思い切り斧槍を振りかぶった。


『残り0.41秒』


 繰り出された斧刃の旋回、遠心力の乗った一閃が、真昼の三日月となって迫り来る。

 不朽結晶の純度は斧槍の方が上だ、直撃すればミラーズは行進聖詠服ごと胸の辺りで両断されるだろう。

 死なないにせよ、身動きできなくなればそのまま人工脳髄を破壊されて終わりだ。


 ただし、それはシィーに対手の手管が分かっていない場合の結末である。


 敵の動きを鈍らせて有利な間合いを取ったならば、必殺の一撃を叩き込むのが当然。予測の範囲内。全てが手に取るように分かる。

 シィーにとってはあまりにも有り触れた戦術的判断だ。

 ミラーズは斧槍の刃に断ち割られる寸前で手で雪原を突き、己の腕の骨を粉砕しながら跳躍し、危ういといった素振りで間合いの外へと逃れた。

 ぜぇ、と必死の表情を造るのも忘れない。


『残り0.38秒』


 あと一息だと誤解させろ。

 あと一歩で仕留められると。

 あと一突きを誘惑しろ。

 ……鴉面の兵士がさらにもう一撃と、斧槍を振り抜くために背を向けた。


 ミラーズの身を借りた兵士は、そのコンマ数秒にも満たない隙間に入り込んだ。

 全身の発条を使って、指呼の間合いから一息で飛びかかった。

 だが、敵方も無闇に背を晒したわけでは無い。

 実際には視界から逃れた場所で柄を短く持ち替えているのだと、動きで分かる。


 無防備な背を見せたのは布石だ。

 敵は焦ってはいるが、戦闘的な思考は冷静だ。

 ミラーズがか弱く喘いで攻撃を誘ったのと同様、あからさまな起死回生のチャンスを餌にして、確実性の高い一手を呼び込んだのだ。

 このままでは、腹を刺突され、串刺しにされて終わりだろう。

 だが次の手が見えているなら、やはり対応可能だ。

 近接戦闘は畢竟、如何にして場を掌握するかに尽きる。

 状況と言う名の女神は、既に矮躯の少女が捕まえた後だった。


『残り0.36秒』


 少女は雪原に足を突き立て、金髪を尾のようにしならせた。

 勢いを付けて回転し、行進聖詠服の裾からを片足を伸ばし、準不朽素材のブーツで回し蹴りを繰り出した。


『残り0.35秒』


 果たして、迎撃のために手の中から滑るようにして繰り出された斧槍の刺突は、シィーに触れることなくブーツの爪先に軌道を逸らされた。

 鴉面の少女は斧槍を強く握りしめた。

 武器への拘りが強いのか、予想外にも大ぶりなカウンターに対する反射的行動か。

 いずれにせよ、これで状況はミラーズの有利に転んだ。

 ここで武器を捨てて格闘戦に転じられていれば、厄介なことになっていた。


『0.32秒』


 ミラーズは艶美な笑みを湛えながら、『不利な状況で戦うのは得意でね』と淡く色づいた唇で囁く。

 脚を曲げて、上げる。次の運足の準備が出来ているのを見せつける。

 唇を読んだのか、鴉面の奥で翡翠色の明るい瞳が逡巡したのが見える。

 同じ色の瞳だ。

 その瞳に映る狂奔のミラーズの眼球が血走って爛々と輝く。

 赤い色を求める翠玉の世界が鴉面の標的を捉えている。

 体は熱い。

 心は冷えている。

 必勝を呼び込む者は、いつでも狂気を装う術を身につけている。

 ミラーズは己の脚が浮いた勢いに任せ、さらに大胆に踏み込んだ。


『0.30秒』


 足先を回転させて振り下ろして、股関節の段階から両足を開き、低く身を伏せるようにして、勢いを付けて腕を伸ばし、ナイフの切っ先で鴉面の兵士の利き足を狙った。

 上段への攻撃を警戒していた対手も、寸前でこの動きを予期したらしい。

 権杖(ポール)の柄を的確に傾けてナイフの進路上に置き、辛うじてといった様子ではあるが利き足を防御してみせた。

 権杖の柄が完全にナイフを食い止めた。

 常ならばそのまま弾き飛ばして石突きによる打撃等に繋げるところだろうが、鴉面の翼は寸時動きを止めた。

 弾けないからだ。


『残り0.27秒』


 斬り込んでいる。

 取るに足らないはずのナイフが、戦車砲の直撃すら意に介さぬ斧槍の柄に斬り込んでいる。

 適切な角度で叩き込まれた調停防疫局純正の不朽結晶連続体製コンバットナイフに切断できない物体は、理論上、この世に存在しない。


『見たかよ。元の体ならこの一太刀で隻脚に仕立てていたところだぜ』


『やせっぽちで悪かったわね。あと0.27秒……これ何の意味があるの?』


 決定打にならないことはシィーとて承知している。

 シィーが求めたのは、恐怖だ。

 鴉面の兵士は不朽結晶の純度で武器が劣ることを即座に理解したはずだ。

 即座の行動とは、反射である。


『残り0.26秒』


 鴉面の兵士は斧槍全体を半月状に半回転させて、跳ね上げようとした。

 反射的な防御としては、適切だろう。


『いいか、ミラーズ。スチーム・ヘッドは、反射に逆らうことが出来ない。人間だからだ』


 だが、反射は半ば自動的に生じる行動であって、思考に基づいた戦闘の理論では無い。

 己の身体損壊すら計算に含めるべきスチーム・ヘッドの戦闘に、反射などと言うものが入り込む余地は存在しない。

 全ては戦闘論理に基づかなければならないのだ。

 シィーは相手の鴉面の少女が何を恐れたのかを考える。

 調停防疫局製ナイフの威力は確実に見せつけた。

 斧槍に刃を通すことが可能なら、大口径機関銃の弾丸すら容易に受け止める突撃行進聖詠服であっても、当然に豆腐のごとく切り裂くことが可能と言うことだ。

 そんなものは、相手の手から取り除きたいに違いない。

 だから、跳ね上げて、遠ざようとした。

 シィー=ミラーズに、その行動を選択させられてしまった。


 理屈ではなく、感情として、当然の動きだ。これさえ無くなればどうとでもなる、という驕りの発露でもあったか。あるいは、全身を不朽結晶連続体という最高の装甲で覆っているがために、予想もしていなかった凶器の「出現」を、過剰に恐れたのかも知れない。

 何にせよ、論理的に考えれば取るべき選択肢は一つだった。

 そんなものは、無視する。

 切れ味がどれほど鋭かろうと、短いナイフ一本で出来ることなどたかが知れる。


『人間は感情に行動を縛られる……ビビって動けなくなるのはまだ良い。ビビって予定外の動作を取るのは、駄目だぜ』


 不死であろうとも、機械にエミュレートされた人格であろうとも、あるいはそうであるからこそ、予想外の一撃は心胆を寒からしめる。

 そして直観に基づく反射は、絶対だ。

 この脆弱性を突かれた肉体は、己が何を考えていたのかをその瞬間に忘却してしまう。

 組み立てていた戦術を失って無防備になる。

 術理を思考をする前に、恐怖心から結果を求めて行動してしまう。


『制御不能な行動は、斯くも致命的な結果を招くわけだ……』


 シィーはその制御不能な反応を引き出したのだ。

 この程度の突撃に、咄嗟に反応出来ない相手だとは、元より考えていない。

 適切に防御してくれるという信頼、そして異常な切れ味のナイフがどれほどの脅威かを即座に理解してくれる可能性を高く見積もった

 遠ざけようと無意識の行動をしてしまう……シィーはその未来を引き寄せたのだ。


『残り0.24秒』


 ミラーズの手は、とっくにナイフの柄から離れている。

 鴉面の下で緑色の瞳が目を見開いた。

 何をしても、もう遅い。

 杖の部分で強引にナイフを跳ね上げた結果、斧槍の分厚い刃は、何の力も加えられないまま下を向いている。この姿勢から何か行動を取るとすれば、単純に後ろへ下がるしかない。

 その動作よりも速く、キジールの肉体は攻撃準備に入っている。


『0.22秒』


 ミラーズは女としての丸みを僅かに帯びただけの生白い脚にオーバードライブの出力を載せた。

 後退を許さない。

 鴉面の利き足の膝関節を、全力の蹴りで粉砕する。


『0.20秒』


 この最大の隙にさらに腿へ一発、腹に膝撃ちを一発、肘打ちからのアッパーカットと流れるように打撃を重ねる。


『0.19秒』


 いかな不朽結晶連続体の衣服と言えども、服の形に編まれている以上は衝撃までは殺せない

 鴉面の下から血反吐と呼気が漏れ、斧槍を握る手が緩んだのを見計らってさらにステップを刻み、握られたままの斧槍の柄を手繰って己の矮躯を滑らせる。

 夏の日の影のように少女の胸元へと潜り込んだ。


『0.18秒』


 片足を軸にくるりと回って半回転する。

 背中を相手の乳房より下、水月の辺りに押し当て、屈んで溜めを作る。

 0.05秒の集中。

 そこから全身全霊、思い切り突き上げるようにしてタックルを見舞った。


『残り0.13秒』


 二次性徴を終えていない未成熟な肉体でも、大地の反発力と武術の術理、そして対手の体重まで活かして最大効率で力を打ち込めば、敵対者の肉体に対して十分に破滅的な衝撃を発生させ得る。

 肋骨を粉砕し、心臓を破裂させるほどの衝撃が全身を貫いたはずだ。

 鴉面の下から花の香りのする鮮血が零れた。

 多量の出血が戦闘用ブーツを濡らし、インバネスコートの下で雪から蒸気を上げた。

 急性の多臓器不全によるショック状態だ。


『0.12秒』


 ナイフなど最初からあてにはしていなかった。

 アルファⅡの残留させた電撃と打撃による、鴉面の少女の、その体内へのダメージ。

 それを拡大させること。

 シィーの勝機は最初から、そちらにこそあった。

 相手が手傷を負っているならば、その損傷を悪化させれば盤面はこちらに決定的に傾く。

 ナイフで些かでも有効な損傷を与えられるなど期待していない。自損を顧みない猛攻自体が、恐ろしい切断能力のあの武器こそがメインアームだと強く印象づけるためのブラフだった。

 本命は最初から一連の連撃である。

 衝撃に対して無力であるという聖詠服の特徴は理解しているのだ。

 ならば打撃による臓器破壊を狙うのが最も容易い。

 ナイフは最高の武器だった。

 致命的な状況においては、最も強力な武器とは、手放したときにこそ真の破壊力を発揮するのだ。


『0.11秒』


 ミラーズがカウントダウンする。

 調息して、連打の後の血液の拍動を整える。

 加速した時間感覚の中では、全てが遅い。

 変則のタックルを受けて悶絶する鴉面の少女は未だ宙に浮かんだままだ。

 遠くへ吹き飛ばされる前に斧槍を取り上げ、抜かりなく脇へ投げ捨てる。


『0.10秒』


 鴉面の少女の甲冑の腕を掴んで引き寄せ、背後に回り、縛り付けるように胸に抱きしめた。

 これまでの攻撃で衝撃を全身に浸透させ、内臓の幾つかを破裂させた。

 循環器系は機能しておらず、神経系も麻痺しているだろう。

 再生が終わるまでの間、恐ろしげな鴉面のインバネスコートは、しかし兵士ではなく、少女の形をした血袋でしかない。

 相手に抵抗する術が無いなら、体格差は単純な術理で容易に埋め合わせ可能だ。

 残り時間の数割を費やして姿勢を整える。

 全身を発条に見立て、大地の反発まで利用して、後方へ跳ねた。

 姿勢は真っ直ぐに重力の方向へ。

 加速度を殺さぬまま強引に技を仕掛ける。

 腹に膝を突き立て、空中で巴を描く。

 膂力、遠心力、加速力。

 ありとあらゆる力を投じ、鴉面の兵士をまだらの泥濘と化した大地へと蹴り出した。

 

 翼ある黒い影が、空と地の狭間にあったのはひととき。

 破壊的な暴風を伴って地に堕ちる。


『0.05秒』


 叩き付けられた鴉面から血反吐が吹き出した。

 雪原の只中に半ば埋まるようにして打ち込まれ、鳶外套の中に隠した蒸気機関を支点に背骨が粉砕されたのだろう、不朽結晶のインバネスコートの下で体があり得べからざる方向に捻れて折れた。

 ミラーズは頭の人工脳髄を庇いながら肩口から着地して受け身を取る。

 素早く反転して最後の瞬間を追い打ちに投じた。

 飛びかかる速度のまま片足を上げて、最後に鴉面の少女の胸を蹴り飛ばす。

 肋骨を爪先で丹念に砕き、破壊された心臓に破片を食い込ませる。

 押し潰された肺の残骸からガスが逆流し、鴉面の口元からまた血が零れるのを見た。


 人間なら一連の攻防で三度は即死している。

 だが、スチーム・ヘッド同士ならこれだけのダメージを与えてもまだ戦闘の終結とは言えない。

 ここまで徹底的に身体を破壊しても数分後にはこの兵士は蘇生するだろう。

 防護装備を全て取り除いて人格記録媒体を無効化してこそ初めて闘争は終焉を迎える。


 だが、時間切れだった。

 静止していた雲が流れ出す。

 墨絵のように中空に留まっていた黒煙が息を吹き返す。

 何事も無かったかのように瞼の無い太陽が世界を見下ろしている。

 勝利を確信した少女の頬から高揚の赤味が引いて、滞留した血液が目元に深く隈を彫り込んだ。

 ミラーズは乱れた行進聖詠服を整えることもせず、全身を襲う激痛に悶え、細く長い、幽かな悲鳴を漏らした。

 息さえ出来ない。

 オーバードライブに伴って強化された再生能力は既にその身にない。


 反動でありとあらゆる体組織の機能が低下し、脊髄反射すら満足に機能していない。

 断裂した筋肉は中枢神経から指令を受取ることなく小刻みに痙攣するばかりだ。

 自然とその体はぱったりと背中から倒れた。

 内臓の損壊が著しい。浅い息に合わせて気道から血が吐き出される。

 制御を喪った肉体のありとあらゆる箇所から出血が始まった。

 咳き込むことも困難で、陸上で打ち据えられて窒息した人魚のようになったその金髪の少女は、苦痛の中で涙ぐみ、「全然話が違うじゃない。非人道的な扱いはしないっていうのは、何の約束だったわけ……蹴って殴って投げ飛ばしてまた蹴って……こんなみっともない格好で倒れるなんて」などと内心でボソボソと毒づく。

「お疲れ」と明滅する意識の中でシィーがねぎらいの言葉を紡ぐと、「人の体だと思って滅茶苦茶しないでよね」と冷えた口調の反論が返る。「玩具じゃないんだから……」


 震える手でどうにか口元の血を拭ったのは、キジールの表層意識がミラーズに遺した、せめてもの矜持の表れだった。

 最後の力で荒れた黄金の髪を軽く指で梳いて整えて、あとはふっりと力尽きて花の香りを孕んだ風の中で痛みに喘いだ。

 こうして、ミラーズの三秒間のオーバードライブが終了した。




 その部屋には光がない。

 その部屋は目の前には存在していない。

 その部屋はこの時代には存在しない。

 その男は、もはや現実には存在していない……。

 丸椅子に腰掛けた白衣の老人が、何事か話しかけている。


 私が言ってはならんのだろうが。君が起動する機会があるのか疑問に思うよ。君という存在は……長い長い言い訳のようなものだ。我々が、我々に課した使命から逃げるための。だが、万が一にも起動してしまった場合に備えて、教えておこう。探索も調停も、難しい。ははは、聖杯を探す方がまだ見込みがある。君はおそらく、かなり早い段階で窮地に立たされる。はっきり言って君の外装は時代遅れだ。頭部装甲と蒸気機関は決して破壊されない、それは保証する。だがそれだけだ。主流の、全身装甲型のスチーム・ヘッドと真正面から戦える機体じゃあない。アメリカ軍に囲まれたぐらいじゃ何ともない、敵はそういう連中だ。君はと言えば……勝利するための機体であって、戦うための機体じゃない。アルファⅢから移植した装備もどれだけ役に立つか。だから君の本領は、撃破された後にこそ発揮される。アポカリプス・モードだ。もちろん、そんなもの起動しなければ良いと思うがね。そんなものが起動して、いったいどんな勝利が訪れるって言うんだ? 不死病だってコントロール出来なくなったのに。ああ、君の旅路に安らぎのあらんことを。願わくば君が永久に目覚めないことを……。



 眼球が光を求めて眼窩で蠢き頻りにヘルメットの中を彷徨うが映像を結ぶことは出来ずそれというのは脳そのものに酸素も血液も残留しておらず首から先というものがそもそも存在していないからだ。

 アルファⅡは死に瀕していた。

 ヘルメットがケーブルだけで蒸気機関と繋がっている様は、首の皮一枚を残して斬首された罪人の姿に似ている。違いがあるとすればアルファⅡは決して死ぬことなど決して出来ず、首を断たれても肉体もプシュケ・メディアも蒸気機関もまだ動作しているということだ。

 血管系や神経組織、筋繊維の束が、各所の断面から這い出して触手となって繋がる先を捜索し、胴体側の断面からも同様の触手が伸びて暗闇に親の手を探す子のようにあちらこちらへ先端を振り回す。

 どちらも出鱈目な動きで、まるで協調していない。

 急速発電のために撒き散らされる鮮血色の排気は時折息切れを起こし、安定した無色の蒸気にはならない。

 翼のような血飛沫を背景に、白、赤、肉色の触手が嵐の日の葦の原のように踊り狂う。

 鴉面の兵士に斬り捨てられた片膝は既に接合している。

 全身の循環器と血液を冷却剤として急速発電が続けられており、再生のための電力や悪性変異を抑制するための信号自体は耐えず供給されている。

 だが頸部の再生は、単純な確率や支援AIによるコントロールの問題によって、試行の悉くを失敗させていた。

 三〇秒程の間、触手はアルファⅡの腕に絡みついたり、ガントレットの下に潜り込もうとしたり、皮膚を突き破って繋がる先を探そうとしたが、そうした誤接触は却って再生を妨げた。

 

 やがて制限時間が過ぎた。

 

 ガラス片の滝が流れ落ちるかの如き甲高い絶叫。

 鮮血の蒸気を渦巻かせながら、首無しの兵士が異様な音声を轟かせ始めた。 

 蒸気機関に内蔵された警報装置が不朽結晶を震動させて発する大音声のサイレンは、生理的な嫌悪を誘発するという形で周辺に存在するあらゆる生命体に対し無差別に警告を発している。

 再配置による変容の嵐が過ぎ去り、半分をどこか違う場所へ切り飛ばされてしまった廃村へ、死の沈黙が生い茂るばかりの森林地帯へ、世界の変容によって家から追い出されて呆然としている感染者たちへ、倒れ伏した二人の少女の肉体へ、空間それ自体を掻き毟るような狂気じみた咆哮が木霊している。


 鴉面の少女に意識活動の兆候は見られない。衣服の内側では肉体が骨を砕くような音を立てながら懸命に再生を続けているが、その音さえ搔き消される。

 吐血する金髪の少女が顔を顰め、神経を掻き乱す声に抵抗して覚束ない手つきで己の耳を塞ごうとしたとき、女の声がサイレンに混じった。


『アルファ型機関式高性能人工脳髄試作二号機モナルキア、制御用生体脳の機能停止を確認しました。調停防疫局の全権により非常事態宣言を発令。エルピス・コア、オンライン。生命終局管制装置、機能制限無段階解除を開始。アポカリプス・モード、レベル1、レディ。意思決定代表者(アルファⅡ)への最終確認を開始。意思決定代表者者とのリンク確立に失敗しました。生命管制の優越により自己防衛プロセスを適応します。アポカリプス・モード起動までのカウントダウンを開始……』


 ユイシスの聞き慣れた声だ。

 ただし、少女の知るユイシスよりも幾らか大人びている。

 嘲るような気色を滲ませる流麗な言葉が、抑揚を抑えて事務的にアナウンス続けていく。


『言語選択:【原初の聖句】:こちらはアルファ型機関式高性能人工脳髄試作二号機モナルキアの統合支援AI、UYSYSです。周辺で活動中の全生命体に通達します。当機より半径1kmは、調停防疫局によって危険地帯に指定されました。人種、宗教、組織、信念を問わず直ちに退避して下さい。繰り返します。周辺で活動中の全知生体に通達。当機より半径1kmは調停防疫局によって危険地帯に指定されました。人種、宗教、組織、信念を問わず直ちに退避して下さい。アポカリプス・モード起動後、危険地帯は一時間ごとに再設定されます。以後のアナウンスは、行われません。残留は、推奨されません。交戦は、推奨されません。当機は一切の生命体の安全を保証しません。カウントダウンを開始します。60,59,58,57,56,55……全生命体は半径1kmより退避して下さい……50,49,48,47……』


「けほっ、けほっ……」


 基礎的な部分の修復を終えたミラーズが身をもたげる。

 廃村と森林地帯の境界線上のアルファⅡへ問いかけた。


「ユイ、シス? リーンズィ……? 何をしてるの……」


 不随意運動を押さえ込んで無理矢理に肉体を立ち上がらせたのは、シィーの意識だ。

 首輪型人工脳髄のバッテリーは尽きかけており、ミラーズには親機であるアルファⅡモナルキアに回収されるまで待機している程度の力しか残されていない。

 現在はシィーの人工脳髄の劣化したバッテリーが最後の電力を吐き出している最中だ。

 ミラーズは行進聖詠服の前を止めて大量出血の痕跡を隠そうとしたが、シィーはそうした行動の一切を黙殺した。


「もう……何で……何で邪魔するの……」


「先にアルファⅡを止める」ぐちゃぐちゃと鳴るブーツから急速に血が蒸発していく。「このままじゃ不味い」


「何が起こるの……」


「言えない。俺はこの件に関して発言を制限されてる。問題はアポカリプス・モードが起動したら、終わりだってことだよ」


「何が終わるの、私たちは勝ちましたよ」


「勝敗は状態に過ぎない。何事にも終わりは来る。やつがそれだ」


 ミラーズは夢遊病患者のような足取りで首無しのスチーム・ヘッドに近付いていった。

 神経自体を激しく掻き乱す警告音は近付くにつれて強くなり、優秀な聴覚を持っているためかミラーズは猛烈な忌避感を示して嘔づき、目尻に生理的な反応による涙を浮かべながら血混じりの胃液を吐いた。

 呼吸し、血を吐き、奥歯を噛みしめる。足を前に出す。

 そのサイクルを繰り返し、ようやく鮮血の翼を広げるアルファⅡへ辿り着く。


『……全生命体は半径1kmより退避して下さい……30,29,28,27……』


「このうねうねしたやつ、どうしたら良いの」


 嘔吐きつつも、のたうつ触手の群れを見てミラーズは嫌悪の表情。


「首を乗せる」シィーは血を飲み下しながら応えた。「簡単なお仕事だ」


 シィーは果断にも脈動して暴れ回る触手の群れへと手を伸ばした。

 アルファⅡの無数の触手が揺れる勢いのままミラーズの腕に、体に、脚へと巻き付いた。触手群は服の袖や首元、行進聖詠服の合わせ目から潜り込んで、接続可能な箇所を探り、皮膚の柔らかな部分まで穿孔してまで体内に進入しようとしてきたが、生体管制が起動しているスチーム・ヘッドはそう易々と乗っ取れない。

 目、鼻、口と面影をなぞる触手は不朽結晶の袖で払うだけでどうにか追い払えたが、髪に絡まってきたり、首から下、胴体部分を這い回ったりする触手には為す術が無かった。ミラーズは余程堪えているらしく、声も出さない。ただ、シィーとしては動脈系の触手が拍動に合わせて熱い血を浴びせてくるのが、特に酷かった。

 シィーは不愉快な感触に耐えながら、八つ当たり気味に、黒い鏡面のようなバイザーを拳で何度か打った。

 すると、ヘルメット側の触手がその腕に集中して絡みついてきた。


「防衛反応が働いたのか?」


 素早くヘルメット側の一束を掴んで引き離し、胴体の一束と強引に接合させた。

 片割れの正しい位置を認識した神経束は一瞬で金髪の少女を解放した。

 全ての血管や神経組織が次々に御繋がり始め、正常な再生を開始した。

 ミラーズは溜息を吐きながらずしりと重いヘルメットを胴体側の断面に乗せた。

 重要な血管系が即座に修復され、脳髄に新鮮な血液が供給されたらしく『15,14,13……制御用生体脳の機能再開を確認しました』というアナウンスを最後にサイレンが止まり、世界は静寂を取り戻した。

高速再生の蒸気が噴き上がり、血を泡立てながら傷口が高速で修復されていく。

 鮮血色の蒸気噴射は徐々に衰えていき、やがて蒸気機関自体が停止した。


『カウントダウン停止。リセット。エージェント・アルファⅡを構成する全人格保存装置プシュケ・メディアの正常稼働の継続を確認。思考転写ミラーリング検証中。検証完了。連鎖崩壊式疑似人格演算、安定しています。エージェント・アルファⅡ、ウォームスタートします』


「おはよう、二人とも」


 完全に再生したアルファⅡは、声帯を馴らしがてらに暢気な調子で挨拶をした。


「……おはようリーンズィ。人が泥だらけの血まみれになってる間に良い夢を見てたみたいね」


「私は夢を見ないし、何も見えなかった。視覚が機能していなかった。参照していたのは君の視界だ、ミラーズ」


 うんざりした様子のミラーズの首を、アルファⅡのガントレットがいきなり掴んだ。

 閃光が迸る。

 急速発電の余剰分電力を首輪型人工脳髄のバッテリーへと流し込む。

 首輪型の人工脳髄は急速充電に対応しているが、急速充電から装着者を保護するための機能は存在しない。


「きゃううう?!」


 電気ショックによって身を仰け反らせて悲鳴を上げた少女は、充電が終わると今度こそ倒れそうになった。

 アルファⅡはガントレットで首を掴んだまま肉体を左手で受け止め、ゆっくりと地面に座らせる。


「……いきなりは、さすがに酷くないか? バッテリー切れが近かったとしてもよ」と咎めてきたシィーに、「君は自分の無線機に充電する時、いちいち断わりを入れるのか?」と黒い鏡面が問いを返す。


「無線機同然かもしれんが、相手も同じ人間なんだ。いやお互い人間かどうか知らんが。姿形は人間だ。コミュニケーションは大事だぜ。やられて気分、良くないだろ」


「君には伝わらないだろうが、同期が再開した瞬間から私の思考はある程度エージェント・ミラーズにも共有されている。予告無しに見えるのは、外観上の問題だ。付け加えるなら、同期が開始した瞬間から彼女の人工脳髄はキジールの肉体を用いた単独演算から私の脳髄を主に使用する並列演算へ切り替わっている。つまり、私の意思決定は彼女の意思決定に等しい」


「俺にはお前の感覚が分からんよ、アルファⅡ」


「そうか。君も、分かるようになるか?」


「いや。ごめんだね。俺をエコーヘッドにするような真似は絶対にやめてくれ」


「君の意思は尊重しよう。上手く聖歌隊のスチーム・ヘッドを停止させてくれたようだな」思考の共有を無許可で済ませながらアルファⅡがこっくりと頷いた。「想定内の戦果だ。礼を言っておいた方が良いか?」


「私はともかくとして、シィーにはお礼を言った方が良いに決まってます」電気ショックから目覚めたらしいミラーズが、あからさまに疲れた声を出した。「そしてシィーは私にお礼を言うように。あれだけ好きなように人の体を使ったのですから」


「人聞きが悪いぜ、ミラーズ」


『ミラーズ警察です! 好きなように人の体を使われたのですか、当機の愛しいミラーズが?!』と赤い旗を靡かせながらユイシスのアバターが出現した。装飾を簡略化した省電力モードだが、ミラーズの本人の側が泥濘で酷く汚染されたせいで、外観には大きな隔たりが産まれている。


「そうよ。滅茶苦茶にされてしまいました、私の愛しいユイシス……」


『貴官を哀れに思います! 服の下側を開かれて、多量の出血……。シィー! いかがわしい人格だとは感じていましたが、まさかここまで非道だったとは! これは懲罰法廷ものでは?! 今すぐ焼き切りましょう!』


「非道なのはどう考えてもお前らの方だけどな……」


『勿論冗談ですよ。任務遂行ご苦労様です、エージェント・シィー』


 キジールと同じ顔が嘲るような笑みで無感情に言った。


「そんな事務的に言われてもちっとも嬉しくねぇよ……」


「それにしたって、いかがわしいのはあなたもですよ、ユイシス」


 ゴシック調の行進聖詠服の前を閉じ、頬を淡い恥じらいに染めながら、ミラーズは己の現し身に等しいユイシスのアバターに近付いて、そっと耳打ちした。


「シィーのプシュケだって入ってるのに、私の体を、あんなに沢山の手で熱心に弄るだなんて……」


『謝罪します。再生用不朽繊維群を操作するのは初めてだったので、つい楽しくなってしまいました』


「えっ……あの触手ユイシスが動かしてたのか?!」


 シィーが困惑の声を上げた。


「じゃあなんでさっさと再起動しなかったんだよ、すぐ、どうにかなるだろ! あんだけワラワラ動かしてたら! 絡ませない方が無理だぜ!」


「動作テストだ」と脇からリーンズィがこともなげに応えた。「自動起動状態のアポカリプス・モードは非常時以外機能を確認できない。再生時の乱数設定も試したかった。あとの理由は関知していない。基本的にはユイシスの独断だが、何故再生を遅らせたんだ?」


 視線を注がれたユイシスは、逆に二人から視線を逸らした。

 無論、視覚自体はアルファⅡから取得しているため、どこまでもポーズでしかない。


『あはは……』と仏頂面のまま誤魔化すように笑う。『当機のような存在の在り方では、生身でミラーズに接触できる機会は限定されています。このタイミングを逃すとユイシスの肌の柔らかさや唇の感触をロー・データとして取得できないと判断しました』


「再生用の触手でやるもんじゃねぇよ! アルファⅡ、リーンズィか、そいつの手を借りてあちこち触りゃ良いだろ! 竿だって付いてんだし!」「あたしの口で竿とか言わないでくれる?!」「ああもう、とにかくだ、無駄に焦らせるんじゃねえ!」


『疑義を提示。ミラーズの体に男性の手で触れる……ナンセンスでは?』


「そうね。ナンセンスね」


「いやいやさっきの触手も男の体から伸びてたやつだろ?!」


『触手は新たに生やしたものなのでノー男性として扱います。既に分解しましたが、当機だけのものなので完全にセーフです』


「えええ絶対おかしい、おかしいよお前……リーンズィ、いいのかこの色ボケAI。自分の端末とイチャイチャするためにアポカリプス・モード放置してたんだぞ」


「結果として問題の無い範囲内だった。どうでも構わない」


 リーンズィには興味が無い様子だったが、窘める程度にヘルメットをノックした。


「ユイシス、幸福追求権の行使を咎めるわけではないが、任務中はやめた方が良い」


『要請を受諾。以後改めます』


「こいつ……こいつら大丈夫なのか……これがアルファⅡモナルキア? 何をするための機体なんだよ……」


 げっそりとした顔で金髪の少女が呟くと、「とんでもないやつに捕まったって言ってたのはあなたよ、シィー」と冷ややかな言葉が同じ口から漏れる。


「いや、こういう意味でのとんでもなさは想定してなかったんだよ。ユイシスがユニ子の原型機って嘘だろ。あいつも可愛い女が好きだったがここまでじゃなかったぞ……」


 和気藹々とした空気は容易く壊される。

 どるん、と廃村の静寂をエンジン音が切り裂いた。

 ミラーズはシィーの歩法で即座にアルファⅡの背後に回り、アルファⅡは弾薬ポーチからショットシェルを拾って握りしめた。

 どるん、どるんと蒸気機関をアイドリングしながら、再起動した鴉面の兵士がゆっくりと立ち上がった。

 おそらく臓器の殆どが破壊されたままだ。

 神経系の再生も完全ではあるまい。

 戦闘に必要な箇所を応急処置した程度だろう。


 だが、がくがくと激しく痙攣する腕が、ぎゅっと握りこぶしを作るのが見えた。


「奴さん、まだやる気だぜ」


「聞こえるか、聖歌隊のスチーム・ヘッド。我々に敵対の意思は無い。君の回復を待ちたい。話し合いで解決できない問題があるのか?」


「……リ、リウム」鴉面がゴボゴボと血を吐きながら返事をした。神経質そうな少女の声。「壊さないと……スチーム・ヘッドは全部、全部壊さないと……」


「会話が成立していない。壊れているのは君だ、聖歌隊のスチーム・ヘッド。君は混乱している。今すぐ降伏すれば修復に対し協力を……」


『目標のオーバードライブ発動を確認しました』


 旋風が巻き起こるや否や鴉面の少女の姿が一瞬で消え、先ほどの戦闘でミラーズに捨てられてしまった斧槍を拾い上げ、立っている。

 踏み込もうとする姿勢を取ったあたりでオーバードライブが停止したのを、対抗して知覚野を加速させていたアルファⅡは補足していた。

 鴉面の少女の腰に取り付けられた蒸気機関からは奇怪な音が漏れている。

 燃焼に不具合が生じているのか、少女の側で操縦が上手くっていないかだった。


 悪性変異抑制の処置にどの程度電力を割いているのか不明だが、ユイシスが『不朽結晶連続体』のタグに『悪性変異隠蔽の可能性あり』の一文を付け加える。


 脅威度を意図的に上昇させることで、悪性変異体と戦闘するための全ロックを解除。

 黒い鏡面世界のバイザーの下で、二連二対のレンズが赤く発光を始めた。

 アルファⅡは左腕のガントレットのタイプライター型入力装置に右手を伸ばし、世界生命終局時計管制装置に解除コードを打ち込んだ。

 次に敵の姿が霞んだその瞬間に、アルファⅡもオーバードライブを起動した。


 斧槍を構えて駆ける黒い鴉は、対悪性変異体向けの強度で高レベルに加速したヘルメットの兵士からは、殆ど止まっているように見えた。


『打撃ならば通じる、ということはシィーの戦闘記録からも改めて読み取れている。ならばこちらから行動する必要もない。破壊は彼女自身の突進力に任せる』


 速度で勝っているならば、向かってくる相手に合わせて拳を繰り出すだけで事足りた。

 斧槍をゆっくりと掻い潜りながら、カウンターを取る形で生身の右手で胸に掌底を打ち込んだ。

 決定的な一撃。

 臓腑を全壊させるための致命の一撃。


 敵の体が力を失ったのを確認して、足払いし、斧槍を取り上げて投げ捨てる。

 そのまま少女の腹を抱えながら一緒に後方へ飛んだ。


 オーバードライブ解除。突進の速度を削ぎながら腕の中の少女を離さないようにした。

 鴉面の嘴がびくびくと震えている。

 制御を失った蒸気機関が動作を停止し、最後の黒煙を吐き出して、それきり停止した。


 改めて雪原に横たえてあちこちに触れ、状態を確認する。

 やはりと言うべきか損傷が凄まじい。呼吸は完全に停止している。この短時間で二度破壊された心臓は外部からの補助無しでは暫く再生しないだろう。脚関節はオーバードライブ停止と同時に砕けており、本物の鴉のように逆側に曲がってしまっている。


「りりう、む……」


 声が漏れた。

 まともに機能していないはずの肺から呼気を絞り出し、少女は恋人の名前でも呼ぶかのように譫言を繰り返している。


「りりうむ……僕が、ぼ、くが……守……らない……と……」


「まだ意識があるのか」黒い鏡面が鴉面の覗き穴から内部の目玉を確認した。「降伏するなら、二度瞬きをするように。悪いようにはしないと約束する」


 翡翠色の瞳は不規則に揺れるばかりで、望んだような反応はない。

 視界もはっきりしていない様子だが、アルファⅡを補足したと思われる瞬間が度々あった。

 強い敵愾心が度々その目に仄暗い光を灯らせるからだ。


「こ……わす……敵は……ぜん、全部……」


「確実にスタンさせなければ危険だな」


 ショットシェルを左手のガントレットに乗せた。

 鴉面の側頭部に、弾薬ごとガントレットを押し当てる。

 その状態でスタンガンを起動させた。電流が流れるのと同時にガントレットと鴉面の間でショットシェルが撃発した。

 ガントレット越しにも相応の衝撃は感じる。

 装甲の薄い少女の面頬の内側では、頭蓋骨骨折は無いにせよ、ひとまず衝撃が脳を攪拌しているはずだ。

 もう一度覗き穴から内部を確認すると、目は開かれたままだが、意識があるようには見えなかった。


「ミラーズ、彼女のマスクを外すのを手伝ってくれ。悪性変異が進んでいないか確認したい」


「そのゴツい手甲だと細かい動きは難しそうだものね。いいでしょう。ちょっと頭を持ち上げておいてもらえる? 留め金が後頭部の辺りにあると思うから」


「了解した」


 アルファⅡが鴉面を持ち上げると、首筋をだくだくと血が伝った。

 ミラーズは鴉面の少女の傍にかがみ込み、両手を支えにして腰を下ろして、横座りの姿勢を作り、少女の首を己の膝の上に載せた。

 我が子の髪を整えるような調子で留め金を外し、マスクを剥いで素顔を晒した。


「ヴァローナ、安心して。もう怖いことはしませんよ」と囁き、血に濡れた目鼻と口元をそっと拭う。


 ショートボブで切り揃えられたライトブラウンの髪が、琥珀の砂漠の流砂のように重力に従い零れ落ちる。額の右側を飾る水仙の花は人工脳髄だろう。斧槍を振るう蛮勇さからはかけ離れた、繊細な顔立ちの少女だった。

 一見して鋭い印象のある虚ろな翡翠の目元に思慮深げな憂鬱の影が落ちているのは、意識が不明瞭であることに起因するものではなく、おそらく生来の特徴であった。

 余分を削ぎ落とした潔癖で快活そうな顔の作りとは裏腹に、淡く色づいた唇から浅く呼吸を繰り返す姿は、暮れ泥む深窓で古典小説を読み耽るような気弱さを湛えており、どこか思い詰めた儚さが息づいている。

 この年代に特有の陰る感情の愁眉。

 見る者の征服欲と庇護欲を煽る危険な艶めかしさを漂わせていた。

 おおよそ恵まれた顔貌をしていたが、その美しさは内気な少年にも勝ち気な少女にも見える。

 ある種のアンヴィバレントの上に成り立っている。


「聖歌隊ってのは美人しかスチーム・ヘッドになれないんだよな?」


 溜息を吐きながらシィーが問う。


「レーゲントはあなたたちで言う指揮官の立場よ。スチーム・ヘッドは再誕者ね。だいたいの再誕者はレーゲントだから、あながち間違った認識でもないけど。それはそれとして、再誕者は神に選ばれ、神に身を捧げ、新しい命を授けられた者、神の吐息そのものです。美しい姿をしているのは当然のことでしょう」


 ミラーズは自嘲めいた笑みを浮かべた。


「なんてね。半分は嘘。レーゲントになるのは、原初の聖句を扱えて、しかも信徒から人気のあった子なの。ちょっとした資産家を破産させてしまうぐらいにね。でもヴァローナはちょっと違うの。見ての通り綺麗な子だから、死ぬ前から何人か大きい信徒がついてたけど、本人は熱心じゃ無かったし、信心深くもなかったし、集金も乗り気じゃなかった。原初の聖句もあってないようなものだったし。どちらかというと執心していたのは、リリウムの方」


「キジール、つまりこいつは大主教リリウムを崇拝してたってことか? それともリリウムに重用されてたのか?」


「半々かしらね。ヴァローナが信じていたのはリリウムで、リリウムが一番信頼してたのがヴァローナなの。だからリリウムが大主教になった時、護衛役として一緒に再誕者にされたわけ」


 リリウムの名前に反応したのか、ライトブランの髪の下で翡翠色の瞳が寸時揺れた。

 こふ、と小さく呼気が漏れ出て、口元を血が伝い落ちた。


 ミラーズはかつて自分がヴァローナと名付けた少女を抱き起こして、額に口づけした。 

 そしてゆっくりと唇を重ねて、繰り返し繰り返し啄むようにしてキスをした。

 口腔に溜まった血を吸い上げて、舌裏に溜まった血までこそいで舐め取った。

 最後には母猫のように首筋まで桃色の舌を這わせ、丁寧に血の汚れを落とした。

 もう一度だけ額に口づけをして、気を失ったままのヴァローナの髪を愛しげに撫でた。


 ミラーズの中で黙って事の成り行きを見守っていたシィーが「あのよ、俺もいるんだけどさ……」と動揺した様子で声を出すと、「え? 何も変なことはしていないでしょう?」と金髪の少女はきょとんとした顔で首を傾げた。


「聖歌隊でヴァローナの面倒を見ていたのはあたしよ。つまり私の娘や妹のようなものということです。こうして世話をして綺麗にしてあげるのは普通のことでしょう」


「だからよ、俺みたいな、他のやつのメディア刺さった状態で、なんて言うのか……」


「この子も嫌がると思うから、あなたに感覚は伝わらないようにカットしていた思うけど」


「いや、ひと目がある場所じゃ普通やらないよなって……」


「え? 普通のことでしょ。親しい間柄なら誰でもすると思うけど。私たちもよくしていますよね、ユイシス?」


『肯定します。普通のことです、ミラーズ』


 ユイシスのアバターがふわふわと近寄ってきて、ミラーズと自然に口づけを交わした。


「ウワーッ!」とユイシスから顔を背けてシィーは瞠目した。「普通?! 普通って何だ?!」


 金髪の少女の目を使って、唯一援軍になりそうなヘルメットの兵士へ問いかける。


「な、なぁ、これ俺の価値観が古いのか……? そういう時代になったのか……? あとマジで疑問なんだが何でおんなじ顔同士でイチャイチャしてるんだ……?」


 アルファⅡはユイシスからスヴィトスラーフ聖歌隊に対しての分析ログを受取り、表層だけを読み込んだ。


「我々の見解だと彼女たちの観念で言う『親しい間柄』は、前世紀的な価値観だと交配のパートナーを指す。スヴィトスラーフ聖歌隊は極めて狭い、狂信的なコミュニティを前身に置いた組織だ。おそらく連帯の基盤に少なからず反道徳的な要素を有している。これは、彼女たちにとってはまさに普通だ。ただ社会通念上の普通とは異なると予想される」


「そうか、対外工作だけじゃなくて、マジで身内の間でもこんなことしてたのか……気付かなかった……」


「何で二人ともあたしたちが変みたいな言い方をするの。聖書にも書かれているでしょう? ええと、『怨敵を接吻をして歓待しなさい、しかし愛する者に痛みを与える方がまことなり。況んや愛する者への接吻はなお真実に近い』……あれっ、聖書ライブラリにそんな文言無いわね」ミラーズは神妙な顔で頷いた。「あんまりこの部分疑ったこと無かったんだけど、もしかしてキリスト教にそんな教えは無い……? ここカルト要素だったんだ……」


「それで、キジールの顔で、キジールの顔したやつとコトに及んでるのは、何なんだよ……」


 ミラーズがボッと顔を赤くした。「それはその……あたしの趣味よ。あんまりあたしの口から言わせないで、自分が世界で一番可愛いと思ってる人みたいになるから……」


『いいえ、ミラーズは世界でもかなり可愛い方ですよ』


 きゃいきゃいと騒ぐ二人の間でシィーは禅僧状態になっていた。

 考えること自体を放棄したらしい。

 正しい判断だとアルファⅡは感心した。

 人の情愛を理解しようとするのは無意味である、というのは全く同意見だからだ。

 それらは、ただ、在って在るものである。

 

「戦闘後のウォームダウンはそこまでだ」


 アルファⅡが命じると二人して同時に口を閉ざした。

 不意に糸を切られた操り人形のように全ての表情を失った。

 先ほどの戦闘で鴉面の兵士ヴァローナに与えたダメージは、通常の感染者が修復出来る範囲を超えている、というのがアルファⅡの見解だった。


「悪性変異の兆候が無いか、調べなければならない」


 不朽結晶連続体のインバネスコートはキジールの行進聖詠服とは異なって装飾が極めて少なく、留め金の位置はすぐに分かった。

 服を開く。キジールと比較して成熟の進んだ滑らかな白い裸身から湯気が立ち上った。

 下着は身につけていないが、胸部だけはコートの側でサポートされているらしい。

 無傷であるならば、四肢の善く伸びた均整の取れた肉体だったのだろうが、状態は無残の一言に尽きた。

肋骨を破壊された胸は歪んだジグソーパズルのようにパーツがばらけ、あちこちが割れ裂けて変形し、折れた骨が皮膚を突き破って飛び出している。あちこちの筋肉が断裂したまま放棄され、再生する傍から崩れるという流れを繰り返しているらしく、変色した体組織が微細な痙攣を繰り返している。腹が不自然に陥没しているのは臓器の幾つかを破壊されてたのを放置・分解したせいだろう。

 粘性の黒ずんだ血の混じった失禁と下血が一向に収まらないことから、相当度合いの重要器官が全く修復されていないままで放置されていることが明らかだ。肉体はおそらく造血するだけで手一杯なのだろう。

 死んでいないだけで、死んでいるのと大差がない。

 あまりにも痛々しい姿にミラーズは悲しげな表情を浮かべた。

 対してアルファⅡの声に現われたのは危機感だ。


「……悪性変異まであと数歩、というところだな。機能不全を起こしている」


「同感だな。人工脳髄が悪さしてる。一晩持たないぜ、これは」


 その感染した肉体からは、明確に恒常性が損なわれていた。

 感染者の肉体は、欠けたところの無い状態を一つの基準点とし、その恒常性を維持するために再生を行う。

 多少の欠損ならば自然に回復するが、短時間に何度も大きく恒常性が損なわれると肉体は目指すべき修復時点をしばしば見失い、やがて再生能力を暴走させて、誤った方向へと回帰しようとする。


 待っているのは悪性変異という最悪の結末である。


 外部からの刺激でコントロールすれば悪性変異は抑制可能で、戦闘用スチーム・ヘッドならば当然そのための装置を体のどこかに取り付けている。ヴァローナの場合は機器はコートの下を通って頸椎に埋め込まれていたが、発電機であるところの蒸気機関は機能を停止している。

 額の人工脳髄は鴉面のマスクの内側に設けられた接点から充電する仕組みで、発電自体はインバネスコートのあちこちに編み込まれた装飾を兼ねた金糸、摩擦発電繊維に頼っているらしい。

 予想される発電量から人工脳髄に備えられた機能を逆算するが、キジールの人工脳髄がそうであったように、さほど大したものではあるまい。

 ユイシスの解析はアルファⅡの予測と大凡一致していた。


『悪性変異進行率70%と推定。生命管制が機能しているならば、彼女の肉体は劇的に回復を進めているはずです。再生の兆候が見られない以上、生命管制の破綻は疑う余地がありません。彼女の再生能力だけでこのレベルの身体破損を補うのは不可能でしょう。人工脳髄内部のバッテリーが尽きるまでは現状は維持されると思われます。ただし、恒常性を失った肉体が悪性変異を起こすのはやはり時間の問題です』


「やはり隷属化デバイスを使うしかないか」


 アルファⅡはガントレットから首輪型の金具を新たに取り外した。

 ミラーズの装着しているものと合わせて三つが用意された支援装備だ。

 本質的には特殊な人工脳髄なのだが、それ自体が大容量のバッテリーとしての性質を持ち、ユイシスの機能を割譲すれば悪性変異を抑制しながら身体再構成のための大がかりな演算を行える。


「リーンズィ? ヴァローナまで、あたしみたいなエコーヘッドにする気なの?」


「その意図があるのは否定しない。彼女の聖詠服と近接戦闘技能は魅力的だ。強固では無いにせよ通常火器を徹さない前衛は欲しい。だがそれは彼女を再起動させてから考えることだ。協力を取り付けられるようであれば隷属化する必要も無い。今はただ悪性変異を防ぐためにこれを使う」


「でもそれ付けると相手の人工脳髄の機能を制限できるのよね」胡散臭いものを見る表情で金髪の少女が溜息を吐く。「さっきあの速くなるやつを使って、よく分かりました。シィーよりも権限が上みたいなんだもの」


「それもある。安全な形で再起動するには最適だ。それに、何故我々を襲ったのかも確認したい」黒いバイザーが森林地帯の沈黙を見渡す。「大規模な再配置に巻き込まれた後だとも推測できる。『時の欠片に触れた者』とやらの情報が掴めるかも知れない」


「まぁこっちもいきなり斬り掛かられたわけだから、俺もやり過ぎとは思わん。あっちも首輪付けられても文句言えねぇさ」


「あたしは賛成しないわ。反対も出来ないけど……」


『気にする必要性はありません、ミラーズ。最初から多数決ではありません』


 首輪型人工脳髄を取り付けて手早く起動させる。

 あちこちを触れて肉体の状態をスキャンし、統合支援AIユイシスへと身体イメージを取り込んでいく。

 必要なのは内側よりは、体、つまり外側の情報だった。

 人間の臓器の配置は外観から推測できる。

 永劫に不滅であることを強制された不死病患者の臓器なら尚更だ。

 あるべき姿を測定し、首輪型人工脳髄の電力と計算資源を投じて急速再生を実行する。

 ヴァローナが雷に打たれたかのように目を見開いてのたうち回ったのは一瞬のことだ。

 オーバードライブに準ずる高速重点再生で、正常な状態の循環器系が周辺組織ごと再形成され、潰されていた胸骨や乳房が心臓や肋骨の再生に巻き込まれて美しい形状を取り戻していく。

 肺腑を膨らませて血液を循環させ、生産させた幹細胞を四肢の末端にまで送り届ける。

 上下から排出される血液の色味がどんどん鮮やかなものになってきた。

 我が子の一人とまで呼んだヴァローナに思うところがあったのだろう、徐々に肌色が良くなり始めた裸体をミラーズがコートの前を被せることで隠した。

 再生が正常に進んでいることを確認するために外観の情報は欲しかったが、アルファⅡはミラーズの精神安定を優先した。その娘と斬り合いをした後なのだ。当然の処置だろう。

 首輪型人工脳髄で身体情報を取得しながらその後も基礎となる部分の再形成を推し進め、それ以降は肉体に備わった再生能力を促進させるに留めた。

 程なくして再生の全行程が終了した。

 しかし問題が直後に訪れた。


「奇妙だ。起動しない」


 ヴァローナは薄く目を開いたままぴくりとも動かなかった。

 脈拍は正常で体温は平熱程度、瞳孔の対光反応も確認できている。

 刺激を与えると肉体が反応するのだが、通常の感染者のそれを逸脱していない。

 人工脳髄のバッテリー切れが疑われたが、突撃聖詠服を直してマスクを被せても無反応だ。

 手足を外側から動かして服に縫い込まれた摩擦発電繊維を刺激し、人工脳髄自体を刺激しても変化が見られない。

 表情の変化などの人格演算の手がかりまで全く分からなくなるため、結局マスクは取り払った。

 中性的な美貌も相俟って少女はいっそ最初からの命のない人形と言われた方が適切な有様だった。


「まさかリーンズィ、ヴァローナのプシュケを壊したんじゃないでしょうね?」


「手順は適切だったはずだ。スタンさせる寸前までは意識活動の兆候が見られたのだから、人格記録媒体自体は相当耐久性が高いはずだ。もう疑似人格の演算が再開しても良いはず。リリウムの護衛役と聞いていたが、この程度か……?」


「リリウム」と、目の焦点を合わさぬままヴァローナが復唱した。


「ふむん。再起動したのか。君はスヴィトスラーフ聖歌隊のヴァローナだな。私はエージェント・アルファⅡ、調停防疫局だ。今回の武力衝突については不幸な事故だった。我々はこの病の時代を収めるという点で共闘できるはずだ。ここはどうか鉾を収めて……」


 返事をしない。

 ヴァローナはほんの一時だけ周囲を見渡して誰かを探していたようだったが、また動きを止めてしまった。


「どういうことだ? 何故動いて、何故止まった?」


「ええと、ヴァローナが動き始めたのは、リーンズィ、あなたがリリウムの……」


「リリウム……どこに……?」と、ヴァローナが復唱した。また誰かを探すような素振りをしている。「どうして僕を……」また動きを止めた。


「……リリウムの名前を出した時に反応してるみたいね」


 再び動き出すライトブラウンの髪の少女を見下ろして、ミラーズは沈痛な面持ちで少女の頬を撫でた。


「元々こういう人格だったのか?」


「どちらかというと気取り屋で、大人しい子だったけど、特定の単語にだけ返事をする……なんて性格じゃ無かったわ。私の可愛い娘の一人。思い出さない日なんて無かったぐらいにね。断言するけどこれは普通の状態じゃない。元々ガールズバンドのギター兼ボーカルだったぐらいには活発よ」


「ガールズバンドのギター兼ボーカル」


 アルファⅡが復唱した。


『ミラーズ、彼女はスヴィトスラーフ聖歌隊では無いのですか?』


「産まれながらにして聖歌隊の一員という子は少ないんですよ、ユイシス。例によって音楽業界で破滅させられて、そこをリリウムに助けられて、聖歌隊に入ったというふうに聞いてるわ。これまでの経緯を聞くのはタブーみたいなところがあるから、私も込み入ったことまでは知らないし、いちいち覚えていませんし、あなたたちにも教えません。このあたしにも当然その記憶は無いわ」


「記憶か。そうか、おそらくこの肉体は記憶の読出しに失敗してるんだな……ユイシス、ミラーリング回路を形成しろ。肉体に情動刺激を与えて記憶の読み出しを促す」


『形成開始。形成完了。情動パターンを無作為に入力します』

 少女は殆ど身動きを示さない。

『検証を完了しました』


「馬鹿な。人工脳髄だぞ、情動に対して何らかのリアクションがあるはずだ。……仕方が無い。ユイシス、ミラーリンクのレベルを上げよう。積極的に人工脳髄を刺激する」


『要請を受諾しました。自己同一性確保のため、現在の筐体は半自動モードに移行します。開始まで3,2,1……』


「上手くいくと良いんだが……」


 首輪型人工脳髄がカチカチと点滅を始めた。

 数秒の間を置いて、ライトブランの髪の少女が何度か瞼を瞬かせた。

 無表情のままむくりと上体を起こした。


「ヴァローナ! 良かった、目が覚めたのですね!」


 歓喜の声を上げながら抱きついてくるミラーズを受け止め、ライトブラウンの髪の少女は細い眉を顰めて、ヘルメットの兵士を見つめた。

 視線に反応した兵士が腰を落として少女の肉体と目線を合わせた。

 少女は黒い鏡像の世界に移った己自身の姿をただじっと見つめた。


「ああ、ヴァローナ。本当に良かった。もう天に召されてしまったのかと……」


 感極まった様子で口づけをしてくるミラーズを、少女は黙って受け入れる。

 少しの間、髪を撫でられ、首筋を撫でられ、迷子になって迷惑を掛けた直後の猫のように、小さな手に触られてされるがままにしていた。しかしミラーズの体が熱を帯び、法要が激しくなった段になってぴくりと体を震わせた。

 深く口づけされる。感触を人工脳髄に送り込む。

 それから十分と見て淡い息を吐き、金髪の少女を両手でゆっくりと押し退けた。


「なるほど。全く反応が無い」とライトブラウンの髪の少女は口元を拭った。「異常事態だ」


「ヴァローナ? どうしたの?」


「ヴァローナではない。私はリーンズィだ。君が名付けた。今は親機から隷属化デバイスを通して人格を転写してる」 


 鴉面の兵士だった少女の首で人工脳髄が点滅していた。

 演算したリーンズィの人格をデバイスに送り込んで、ライトブラウンの髪の少女の肉体に出力しているのだ。

 押し倒さんばかりの勢いのミラーズをそっと体から退かして、ブーツの足先を確かめながら立ち上がる。

 背丈はある方だが、ヘルメットの兵士とは拳で三つほどの差がある。

 軽く手足を動かし、雪の上で何度かジャンプをした。

 これまで使用していた肉体との間にはかなりの体格差があった。しかし全く問題なく動かすことが出来た。


「も、もっと早く言ってくれれば良いのに! いいえ、肉体がヴァローナのものなら別に構いませんよ。でもこんな気分になってしまったあたしが馬鹿みたいじゃない」


 ミラーズは口直しとばかりにユイシスのアバターと唇を重ねてからリーンズィに追従して立った。


「いや、俺はどうすれば良いんだよ、俺は」と酷く困惑しているのはシィーだ。頭に突き刺さった人工脳髄と巻き付けられたバッテリーを所在なさげに撫でる。「俺を演算してる肉体は、どこの誰と何をしてるんだ……」


「私は調停防衛局に所属するスチーム・ヘッドであるアルファⅡモナルキアのエージェント、アルファⅡ。現在はスヴィトスラーフ聖歌隊のヴァローナの肉体に意識を転写している。君は同じく調停防疫局のエージェントであるシィー。現在はスヴィトスラーフ聖歌隊のレーゲント・キジールの肉体上で実行されているが肉体自体はキジールの中短期記憶を初めとした幾つかの残骸から作成されたエコーヘッドである調停防疫局のエージェント・ミラーズに制御されている。私はミラーズと口づけを交わした。君がどう認識しているかは知らない」


 歌を歌うのに適した澄んだ声ですらすらと応え、「うん。発話にも問題ない。肉体の性別が変わった程度ならば問題なく適応できそうだ」と一人頷く。何の気は無しにその場で宙返りをして着地し、格闘戦を想定しているのか素早く虚空にパンチを打ち出した。


 巨躯の男性兵士から、平均よりも身長が高い程度の女性という全く違う肉体に送り込まれたばかりとは思わせない体捌きだ。


「それにしても良く動けるわね。調停防疫局のエージェントっていうのは皆こうなの? 他のスチーム・ヘッドは、プシュケと肉体で最低限体格が合ってないとまともに体を動かせないって言うけど……」


『アルファⅡモナルキアは特殊仕様です。あはは。ああ見えて身軽な機体なのですよ、アルファⅡは。どんな肉体に乗せても基本的には問題なく動作します。あなたの体にだって今すぐにでも乗り換えられるのです』


「もう乗っ取られてるけどね、あたし……」


「今後は親機をアルファⅡとして、こちらの肉体をリーンズィと呼称する」


 インバネスコートがひらひらとするのが興味深いのだろう、どこか浮かれたリーンズィが告げる。


「中々具合が良い。筋出力には不安はあるが体が軽いのも面白いな」


「待て待て、記憶を引き出すためにミラーリンクを形成したんじゃなかったのかよ」とシィー。「何でそっちの肉体に定住する話になってるんだ?」


 少女は曖昧な表情で頷いた。「記憶の取得には成功した。この人工脳髄は正常に機能している。アクセス可能なエピソード記憶が殆ど存在しないと言う点を除いてだが」


「エピソード記憶って?」


「分かりやすく言えば『思い出』だ。この少女の人工脳髄には思い出が無い。かつて愛好したロックンロールも裏切られたという事件での失意も、リリウムと交したであろう愛情の熱も、全く何一つアクセス出来ない。変質させられている。……声が良いというのは、良いな。うん。聞いているだけでなく喋るだけでも心地よく感じられるな」


「どういうこと? ヴァローナはプシュケが壊れてしまっているの?」


「不明だ。エピソード記憶以外は無事なんだ。つまり動作を呼ぶ切っ掛けがこの体に無い。ハルバードを持てば先ほど私の、アルファⅡの首を切断したときの動作も再現できる。楽譜があれば綺麗に歌えるだろうし、何事についても、おそらく元の人格の持ち主と同じことが出来る。だが人工脳髄自体に内発的自我が存在しないせいで、入力に対して出力が一切無い。おそらく活動中に記憶を暗号化させられたのだろう。見当も付かない、どうすれば生きた人工脳髄にこんな加工を施せるのか……」


「そんな。じゃああなたの肉体に、ヴァローナの記憶は、もう何一つ無いの?」シィーが慌てた。「いやいや、落ち着けよキジール。リリウムだとか、スチーム・ヘッドは全て破壊するとか、物騒なこと言ってただろ。リーンズィ、全部無いわけじゃないんだろ?」


「極めて断片的な記憶だ。どうやら彼女は……リリウムに追放されたらしい」


「リリウムが?! ヴァローナを?!」ミラーズは絶句した。「有り得ません! 二人は姫と騎士のようなもの、ほとんど恋人みたいな関係だったのよ。ヴァローナはリリウムを愛していたし、リリウムも同じぐらいヴァローナを愛していました。それなのにどうしてヴァローナが追い出されるの!」


「何か重大な事件があったという記憶だけがある。そしてこのスチーム・ヘッドはある一点に関してのみ自立的に行動を開始するらしい」


『肯定します。先ほどから数度、サイコ・サージカル・アジャストの起動を確認しています。ヴァローナの人工脳髄は、他のスチーム・ヘッドを破壊するという行動においてのみ自由意志の発露を許可されています。残されているのは殺意だけです』


「ハレルヤハ。それだ。極めて強い殺意の記憶がある」


 ミラーズのアバターにリーンズィは手先を向けた。


「放逐されたことと何らかの関係があるのだろうな。スチーム・ヘッドと相対した時だけ、この機体は殺戮技能を読出して一人前の思考能力を取り戻す。いずれにせよ、私としてはこんな危険で不安定なスチーム・ヘッドを放置したくない。このまま人格の転写を続けて、私の精神外科的心身適応で多少強引にでも精神を安定させる。不朽結晶連続体の装甲も手に入ることだ、特に損をすることは無い」


「ねぇ……直せるの? ヴァローナは、元のヴァローナにもう戻れないの?」


「戻さないつもりは無い。記憶を破壊されて永遠に戦い続ける……それは到底認められない。あまりにも憐れだ。出会い頭に『ハレルヤハ』とだけ言って無意味に敵対者の首を刎ねるだけの余生など私は否定する。力になってやりたいと心から思う。そうだな、リリウムならどうだ? リリウムの軍勢なら、この少女を直せるか」


「お着きの調整技士が何人かいたわ。リリウムの原初の聖句でも何とか……駄目かな。あの子、そういう細かい作業は出来なかったと思うし……ヴォイニッチがまだいてくれればいいんだけど……」


「兎に角、これでまたリリウムに会わなければならない理由が増えた」


 リーンズィはライトブランの髪を揺らしながら頷いた。

 それからリーンズィは無言で歩み寄り、金髪の少女を抱き寄せ、唐突に口づけをした。

 ミラーズは驚いた様子で目を見開き、爪先で立った。

 目を閉じてライトブラウンの髪の少女の胸に手を当てて、しかし抵抗はせずリーンズィを受け入れた。

 接吻を楽しんだ後、耳まで赤くして「ヴァローナの舌遣いと丸きり同じね。それだけに何だか切ないわ」と目を伏せた。「これ楽しいの? 獣っぽい感情が湧いてきたりする?」


「どうだろう。快楽はあるのだと思う。ユイシスたちが楽しげにしていたから模倣したが……よく分からないというのが実感だ。ヴァローナに固有の情動も結局喚起されない。不便なものだな」


「ふうん。それがあなたなのかもね。そうだ、リーンズィ。あなた、笑うときはどんな風なの?」


「何だと?」


 オレンジの髪の少女は面食らった。


「笑うときだと?」


「さっきから見てると、意外と表情があるみたいなので、驚いてます。ヘルメットの下でも結構色々な顔してたのかな、って思ったわけ。ねぇ、笑って見せてくれない?」


「笑う……そうか。こうかな。よく分からない」


 潔癖と退廃が背中合わせになった繊細な顔貌に、自然と笑みが形作られる。

 雲一つ無い午睡の青空のような、雷雲の迫り来る平原で一人立ち竦んで笑っている謎めいた美しい少女のような、見るものの心を理屈無しに揺れ動かす、屈託の無い、それでいて穏やかな微笑だった。


「あら、中々可愛いじゃない」


「そうか?」


「変な話だけど、とってもヴァローナみたいな笑い方よ。あの子が笑うときはいつもそうだった。自分のものにしたくなっちゃうって言うんで、その笑顔だけでお客が付いたりしたのよ」


「ともかく、今後は彼女の肉体に間借りして活動を続ける。元のアルファⅡには新しい名前が必要だろうか」


「タクシーとか鞄持ちとか荷物番で良いんじゃ無いか」とシィーの素っ気ない声。


「その辺りのことはそのうちに定まるだろう。やりにくいところもあるだろうが、今後も宜しく頼む。ユイシス、ミラーズ」


『当機としては可愛い女の子が増えるのは大歓迎です』と言いながら抱きついてくるが、リーンズィ=アルファⅡはさすがに反応に困った様子だった。


「いくらなんでも君とはな……」


『問題ありません。貴官には性別がそもそも定まっていないのですから。あはは。貴官の弱点は知り尽くしていますので、いずれ楽しませて差し上げます』


「楽しみにせず待っている。ところでシィーだが……そうだ、君は何故この廃村に来たのだった? バッテリー切れも間近だろう。戦闘に協力してくれたお礼がしたい。何か出来ることがあれば言って欲しい。我々は君の献身に敬意を表する。何か未練があるのだったか」


「そうかい? まぁ、その、何だ、大したことじゃ無いんだが……いや、その、ちょっと不謹慎ではあるかもだ。怒らずに聞いてくれるか?」


 金髪の少女に身を借りたシィーはもじもじとしていたが、やがて意を決して、切り出した。


「レコードを探しに来たんだ。ここは九〇年代の後半の暮らしを再現したゲーテッドコミュニティの跡地なんだよ。前の世界で俺は仲間を全部失った。もう疲れ果てて、終わっても良いと思って、なら最後に好きだった音楽を聴いて終わりたいと思ってな。高高度核戦争のせいでデジタルプレイヤーもCDも全滅したが、手回しプレイヤーとレコードは生き残った。ここになら目当てのレコードがあると思ったんだ」


「それで、何という楽団のどういう作品だ」


「いやその……ヘヴィメタルのバンドでな。ヴァローナだったか? オリジナルのやつだったらもしかしたら知ってたかも知れない。このご時世じゃ肩身の狭いバンドで……調停防疫局のエージェントが聞くような作品じゃ無いんだが……」


 シィーは少しの間言うかどうか迷っていたらしい。

 そのうち、観念して呟いた。


「あのな、『メガデス(大量死)』っていうバンドの曲なんだよ……」



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