リビジョン:第百番攻略拠点 『徹宵の詠い手』ヴォイニッチ(4) ~セクション3 第百番攻略拠点接収作戦 その5~
「やめなさい、というのは?」白銀の聖少女は不可解そうに問うた。「私には君が『第百番攻略拠点を通過するべきではない』と言っているように聞こえる」
「まさしく、はっきりと、そう言っているんだよ。リーンズィ。君はこの先に進むべきではない。僕の警告を聞くのであれば。難しい手続きは要らないよ。来た道を引き返して、ヴォイニッチは交渉に応じなかったと伝えれば、それでみんなが納得して終わるさ。この都市を強行突破することなんて誰にも出来ないんだから」
三つ編みの聖少女が聖詠服の裾をたくし上げると、そこから剣や拳銃が数え切れないほど溢れだした。リリウムが代理演算する意識が、それらが超高純度不朽結晶で構築されていると直観する。見慣れた己の左腕、タイプライターの意匠を持つ蒸気甲冑と同じ質感だったためだ。
窓外からは獣の如き雄叫びが谺する。大主教ヴォイニッチの号令により、ウンドワートですら容易には封殺出来ない不滅者たちが、一斉に咆哮を上げたのだ。
「君が想像しているよりも僕はずっと強い。こんなに可愛くて綺麗だと、そんな感じはしないだろうけど」
ヴォイニッチは黒髪の三つ編みを玩びながら不遜な笑みを浮かべた。
「君は可愛くて綺麗だし最初からすごく強い機体だと思っている」
リリウムが嘘偽りなく返答すると、ヴォイニッチは視線を彷徨わせて咳払いした。
「と……とにかく、僕が許可しない限り、僕の作り上げた大聖堂、この完全なる不滅を穢すことは出来ない。よしんば入り込めても、僕の持つ無限の武器と不滅の信徒は、やはり突破出来ない。何なら僕から先制攻撃をしたって良いんだ、その気になれば第百番攻略拠点の定義をもう少し外部へ広げることも出来る」
リリウムは想起する。いつだったか、マルボロが、不滅者と戦うということは、自分たちに向かってきて荒波に銃弾を撃ち込むことに等しい、というようなことを言っていた。
ロングキャットグッドナイトの<猫の戒め>たちも凄絶な特殊機能を備えていたが、彼らはいずれも何らかの制限を抱えていた。<第五の戒め>断頭台のベルリオーズなどは生半可なスチーム・ヘッドでは到底撃退不能な難敵だった。しかし、誰かを殺そうとするという禁忌を複数回侵さなければ目覚めることはないし、レア曰く長時間放置しておくと全身の動作の整合性がとれなくなり、自壊するとのことだった。
第百番攻略拠点の不滅者たちは、<猫の戒め>ほどの破壊力は持たないかもしれない。だが、終了条件も制限時間も存在しない。ただひたすらに不滅だ。追い払う手段さえ、この世にはおそらく存在していない。
純粋な不滅者の軍勢による、無慈悲な大規模侵攻。いずれ引くことを考えれば、まだ大波の方が与し易い相手だろう。
「……やめなさい、という要請を無条件で飲まなければ、君の軍勢が解放軍を攻撃するのか? するの?」
「そういう捉え方は良くないね。今のは極端な話だよ」ヴォイニッチはまなじりを下げて、床に散らばった武器を、誤魔化すような仕草で適当な草花に変換した。「まず、そんなことにはならない。領域内の殲滅に集中したときの僕がどれだけ強力なのか。それは解放軍のみんなが知っていることだよ。見えている虎の尾を敢えて踏みつけに出来るほどの蛮勇はコルトもファデルも持っていない。ウンドワートだって難色を示すだろうね」
「ウンドワートが?」
「彼女はいらない犠牲が出るのを極端に嫌がるからね。僕はいらない犠牲を強いることに関してはいつの時代の解放軍でもトップだと思う。とにかく、幹部たちでも大人しく迂回路を探すだろう、と僕は言いたいのさ」
「だけど、これは脅迫だ」
「脅すだなんて、傷ついてしまうね」
「だけど、私が『通過させてほしい』とお願いすれば、素直に通してくれる……ということでもないのだろう? そんなのは、脅迫しているのとあまり変わらないのだな……」
「ところがね、僕というやつは、お願いされたら、通してあげるつもりなのさ」
リリウムが首をかしげると、ヴォイニッチは不敵に口角を上げた。
「実際、君たちの状況判断は適切だよ。FRF市民は常に手遅れだけど、同時にいつ助けに行っても決して遅くはない。少しでも多くの命を救いたいなら、少しでも早い方がいいし、それなら僕の中を通ることだけが正解だ。他のルートを探してる間に、あちらでは半世紀経つだろうから。そして僕は、君たちの善なる意志に基づく行進を決して否定しない。FRFの市民たちはうんざりするほど愚かで、憐れで、数が多い。だけど、それに敢えて手を差し伸べようという者がいるなら、それは善いことだ。僕だって大主教なんて呼ばれていたんだもの、善き者は、助けてあげたいと思うよ」
進むなと警告するのと同じ口で、助けてあげたいとも言うのだから、ますます分からない。リリウムは困惑するばかりだ。
「では何故、私に『そうするな』と言うのだろう。意地悪をしているのか? 意地悪なの?」
「まさか。僕はね、依怙贔屓をしているんだよ」
三つ編みを揺らしながら聖少女は歩み寄り、無抵抗なリリウムの額にキスをした。警戒が解けた一瞬を狙って、いいかい、と耳元で囁いてくる。
「僕は世界を救うような誰かじゃない。だから、全体の利益を無視して、取るに足らない一個人のために助言をするのさ」
心臓をどきどきさせているリリウムと目を合わせ、まるで悪魔のようにね、と悪戯っぽく笑う。
「僕には君の未来が見えるよ。僕にとって幾つかの時間枝は『もう起きたこと』だ。泣いてうずくまる君の姿がありありと見える。とても見ていられないから、こうして過去の君に対して、やめておきなさいと言ってあげているのさ。このまま進めば、君は悲しみに打ちひしがれて、苦しい思いをすることになる。間違いなくね」
「何が起きる?」
「それは教えられない。起きたことを聞けば、君の時間枝もそこに導かれてしまう。でも、このまま進めば君が後悔するのは間違いないよ」
「……私はどのような苦難にも耐えられる」
「いや、耐えられない。何故なら君は裏切り者に身を落とすからだ。隣人を裏切り、愛する人を裏切り、自分自身をも裏切る。君は誰かを裏切って平気でいられるほど頑丈じゃない。少なくとも前の時間枝の君はそうだった」
ヴォイニッチはしきりにリリウムに触れて、囁き続けた。緊張の緩和を狙っているのかもしれないが、白銀の聖少女はその手つきに覚えがある。
以前、当のリリウム本人が、使用している不死病肉体を通してアルファⅡモナルキアをハックしようとした。
とは言え、ヴォイニッチの操る命令言語は、リリウムほど強力なものではない。いくら親しみを込めて接せられても、リリウムはくすぐったいばかりだ。
「あう。はう。……わ、私が裏切る? そんなことをするはずがない」
だから絆されることはない。
裏切るなど、受け入れがたい未来予想だ。特に、愛する人を裏切る、などという選択は、どのような理由があれど、断じて有り得ない。
何を秤に掛けても、この少女がアリス・レッドアイ・ウンドワートに背くことなどありはしない。また、大主教リリウムの心からの願いを、踏みにじるようなこともしない。
そんなことは、するはずがない。
憮然とした少女の声に、ヴォイニッチは寂しげに首を振った。
「だけど裏切るんだ。みんなを疑って裏切るのでも、愛する者を信じられなくて裏切るのでもない。何もかもを信じて、みんなのために裏切りを働くんだ」
仄暗い光の下、祈りの形に組まれた両手が、いつのまにか、荒く編まれた縄を握っている。
「イスカリオテのユダ、と言えば有名だろう? ハリストスの十二人の愛弟子の一人だった……だというのに、救い主の理想を理解出来ず、ついには銀貨三十枚ぽっちで、敵に主を売ったんだ、見下げ果てた男に思えるだろう。最後は裏切りを後悔し、首を括って無様に死んだ。彼は世界の最後まで名を憎まれ、呪われ、挙げ句の果てに地獄の一番深いところに落とされたなんて話まで作られている……」
その名を出す意図は知れないが、さすがのリリウムも知るところではある。
裏切り者と言えばユダ、という図式は、リリウムが触れてきた様々な映像作品で、繰り返し現れた。マフィアとかいうわるものたちが、裏切り者を処刑するときに脚に接吻したりされたりの儀式をするのも、敵に主を売った時のユダの行いに由来する、とレアが教えてくれた。
リリウムには、ユダに何の思い入れも無い。
知らない人だからだ。
だというのに、何故か忌むべき罪人として刷り込まれているという、まったく不思議な人物であった。
「……それと私に何の関係が?」
「君がそのユダになってしまうんだ」
「私はユダにならない」
「まぁ、話は最後まで聞くものだよ。私は救い主なる彼と同じぐらい、そのユダを信じているんだから」
裏切り者を信じるとはどういうことか、という問いかけは、軽い接吻で止められてしまう。
何度も言わせないで、最後まで聞くものだよ、と囁いてくる。白い首筋から匂い立つペパーミントの甘やかな咆哮が、リリウムの肉体を痺れさせている。
「さて、世界中から悪なる存在として扱われた彼だけど、彼の担った意味をどう解釈するかは、非常に難しい。だって、彼らの教義の通りなら、神は世界の運営を完璧にコントロールしておられるんだよ。運命は予め決まっていて、全ては神の計画通りに運行しているだけなのさ。それなのに、どうして神の子たる者を裏切る人間なんて、そんなものが出てくるんだろうね?」
論理に綻びがある、という指摘だ。猜疑の心を平坦に押し潰しながら、言葉だけをリリウムは拾い上げていく。
ヴォイニッチの批判は、もっともらしく聞こえる。平易には理解しがたい問題ではあるのだろう。しかし、それだけ目立って困難な問題であれば、神を論じる者たちが妥当な解釈を見つけ出しているはずだ、とも考えた。
「ここからは、ハリストスが僕を幾らか超える聖句使いだった、という仮定を延長して話すよ。……僕の解釈では、ユダは、真の意味での裏切り者じゃないんだ。ユダは自分のあるじを微塵も憎んでいなかったし、尊敬していた。だけど救世主としては信じてはいなかったんだろうね。だから裏切りが出来たし、あるじからも、それを望まれた」
「裏切りを望まれていた? どうしてそう思うのだろう?」リリウムは困惑の息を漏らす。「何だか、やけに具体的で、入り組んでいる……」
「僕と彼とを比較して、ようやく得た結論さ。僕が救い主に明確に負けているのは、カリスマ性と大志、そして忍耐深さだね」顔の良さでは負けてないつもりだけど、と余計な一言を足した。「地道な伝道で世界を穏当に変えよう、なんて気概は僕には無いし、やれと言われても無理だと思う。何百年かかっても世界をよりよく導くための新しいアイデアなんて生み出せない」
少女は掌に炎を灯し、青い花を焼き、その消し炭を粉雪に変えて宙空へと撒いた。
夢の残骸のように、焦げた塊が降り積もる。
「実際、誰も僕のことを純粋な救世主とは見てくれなかった。だって、掌の上で奇跡を起こして、それで楽して信用を得ていただけだもの。大勢に心から信じられていたわけじゃないのさ。リリウムの信徒は、彼女の肉体を通し、悦楽で以て、神の充ちることを知って、不死病を受け入れていた。快楽による錯覚でも、彼女の内側の神性を心から信じていた。……だけど、僕は惨憺たるものさ。信徒たちの九割は、奇跡と僕の肉体を通して、勝手に神の実在を確信していた。僕自身は、どうだって良かったんだ。僕そのものが使い捨ての奇跡だったのさ」
寂しげでありながら、さもありなんという趣のある嘆き。その顔はどこか穏やかでもある。
彼女は真実、信徒の多くが彼女を神を見るためのツールとして使い捨てたことに、悪感情を抱いていないようだった。
「……九割が君を直視しなかったとして、じゃあ、残りの一割は?」
「僕を、本当に信じてくれた……」ヴォイニッチは懐かしそうに呟いた。「僕そのものを信じて付いてきてくれた。僕を通して神を見るのではなく、僕と、僕の使う神の御業を信じた。まさしく僕を信じて共に世界と戦ってくれたのさ。言ってしまえば上っ面だけの信仰さ。だけど、上っ面でも極まれば本物になる。……そういう意味で、ユダはハリストスの上っ面に対する、本物の信徒だった。僕の信徒たちと同じくね」
だからこそ僕はユダに思い入れがあるのさ、と喉を鳴らす。
「僕が使徒として重用した彼らと、ハリストスがユダを重用した理由は、きっと似通っている。だけど、二千年前の救世を願った彼は、僕たち大主教のように、聖句に頼ってばかりではなかった。使徒たちだって奇跡など無くたって彼に付き従っていただろう。小細工無しで、救世主だと信じさせるだけの人格を備えていたんだろうね。ただし、ユダだけは違った。己の主を、神の子としてではなく、単に奇跡を扱う存在として信じた」
彼は一団の会計係だった、とヴォイニッチは付け加えた。
「リーンズィには分からないかもしれないけど、お金の管理を大勢から任されるというの、大変なことなんだよ。相当な信認がなければ、それを行う人として選ばれることすら無い」
「お金の大切さはとても分かっている。その日のお賃金トークンを全部使って抱え切れないぐらいのポーラ・コーラを買ったら、ミラーズとユイシスに三〇時間ぐらい怒られた……」
「もうそれコーラ買うのやめた方が良いんじゃないかな……浪費は悪徳だよ。大主教<渇きの海の秤り手>ならまだ許したかもしれないけど。というか君は、甘い炭酸が好きなんだね?」
少女はしばし悩んだ。好んで使っているのは確かだが、好悪の対象として捉えたことがない。ポーラ・コーラは飲む快楽である。甘くて喉がシュワシュワして気持ちが良いので飲んでいるのだ。しかしそれを一概に好きと言ってしまって良いのだろうか?
「そっか、たぶん基礎段階での改造のヴァージョンが違うんだね。難しいパターンだ。まぁ、そう悩むことでもないよ。快楽への脆弱性がある子にかけるような言葉ではなかった。それに、そう、言葉と奇跡を浪費する僕が言うことでもない……」
ヴォイニッチは悪戯な色をますます濃くして、コーラを指先に滴らせた。
そして無抵抗なリリウムの唇に触れ、含ませた。
リリウムが恥ずかしがりながらも嬉しそうにしているのを見て、ヴォイニッチも嬉しそうだった。
「……君、僕から施されるのは嫌ではないのかな?」
「……どうして嫌がると?」
「僕のことが本当に好き?」
「好き」リリウムはこっくりと頷いた。「恋人としては愛していないし、一番でもないのだけど、好きか嫌いかで言うと、好き」
「……驚いたね。違う時間枝の君は、軽く触れるだけでも嫌がったのに。好きでいてくれるのは嬉しいけど、無防備すぎない?」
「愛して信じることが大事だとミラーズに言われてきたので」
「ああ、キジールが調整したんだね。肉体を通して精神を刺激していくのも、脆弱性を通して心を開かせるための策だったんだけど、それじゃあ君にはあまり意味がなさそうだ。仮想過去への書き込みの参照元は、この僕じゃない方が良いかな。あっちの僕、いやこっちの僕かな。ええと、君がキスを平気で返してくれるような夢みたいな時間枝を特別に検索して……」
以前、という言葉の意味が、リリウムには理解出来ない。
過去でのエミュレートとは言え、ヴァイニッチと生身で接触した記憶が、少女には一切存在しない。都市そのものと一体化した特殊な在り方であるから、世界を認識する視座が人間とは異なるのだろう、とリリウムは推測した。
時計は人を見ず、街は人に住まない。奇怪に転倒した主客の中で、人間的な時間軸はきっと壊れ果てている。
少女には、この都市の見る夢が、理解出来ない。
「手掛かりにしたいから、触ったりするのは続けて良いかい? 私欲を言えば人肌も懐かしくてね」
「うん、あいさつ程度のことであれば」
「それって、聖歌隊のあいさつを知っていて言ってるのかな?」
リリウムは羞恥に耳を赤くした。「そ、そのつもりで言っているのだが。言っているの……」
「最初から聖歌隊での『あいさつ程度』に通じている? どういう設計なんだろう、君は。……会計係の話に戻そうか。会計係というのは信用されなきゃいけないし、命懸けでお金を守らないといけない。スヴィトスラーフ聖歌隊でも、マオルエーゼルを初めとした調整役がやりくりしてくれなければ、どこかで破綻していただろう。聖書にはユダに関しての有名な記述がある。ハリストスが弟子たちを連れて重病人、それも当時は忌まれ恐れられていた病気の人間を見舞い、彼の家で食事を摂っていたんだ」
「訪問看護……立派な行いなのだな」
ヴォイニッチの腕の中で少女は素直に感心した。
「すると、一人の女性が現れて、信じられないほど高価な香油を、ぜんぶハリストスに注いでしまったんだ。特に前振りとかなくね」
「唐突なのだな……」
「まぁ、大事な場面ではあるんだよ。香油は色んな場面で欠かせない。それに、かつての王たちは、みな油を注がれて、王たるものとして認められていった。この段階を踏まずして、彼も次の段階には進めない……。だけど、どうであれ、そんなに沢山の香油をいっぺんに注ぐ意味は無いんだよね。必要な時に必要な分だけ使えば良いんだからね。弟子たちは動揺して、なんでこんなことを、と女性を責めた」
「ふむふむ……」
熱心に聞き入るリリウムに、ヴォイニッチは口づけをした。
リリウムはぼうとしながらも、僅かに抵抗した、
「う……。は、ハッキングは、いけない」
「ハッキング目的じゃないよ。君の許した、あいさつ程度のことさ。ふふ。リーンズィ。僕のリーンズィ。またこうして話せるなんて」
リリウムの顔でそんな無垢な表情をする君が悪いんだからね、と熱っぽく囁いてくる。
時々で傾けてくる感情の質感が異なるので、愛を注がれる身としては、当の本人には、何が何やら分からない。おそらくこの過去に、どの時間軸のヴォイニッチが書き込みをしているかで態度が変わってくるのだろう、と推測するのがやっとだ。
ともあれ、この聖少女がレアと似た顔、似た甘い声をしていることは変わらず、レアを愛するリリウムは自然とヴォイニッチの愛にも溺れてしまう。
肉体と精神の脆弱性を利用されているような感覚はあるのに、愛し始めているせいで、あらがえない。
「夢中にならないでね、僕の方が止まらなくなるから。そっか、君はそういう仕様か。アルファⅡはかなりリリウムに寄せて再設計したんだね。……ああ、補足しておくと、油を注がれた二日後にハリストスは本当に磔刑に処されて死ぬ。死に際して香油を注ぐのは非常に重要な行いだ。この女性は、死を予め察知し、贖罪のために命を捨てる彼のために、出来ることをやってあげた、ということになるわけだね。聖女マルタの姉らしいけど、そこを差し置いてもあそこはうん、やっぱり結構急なシーンだよ。仕方ないことさ、神話なんてそんなものだし」
「不遜な物言いは生きている間に裁かれるのだな」リリウムはキスの仕返しをした。「それで、ユダに何の関係が?」
「そうだね、ユダは、他の弟子と同じく、未来については知らなかった。この女性の行いの意味を理解しなかったんだ。だから現実だけを見て怒鳴りつけた、『その香油を全部売って、お金に換え、貧しい人々や、苦しんでいる人々に分け与えるべきだっただろう』とね」
「合理的なようにも感じられるのだな……」
「僕もそう思うよ。ちょっと理不尽かも知れないけど、現に彼らは、当時恐れられていた病の患者を気に掛けて、一緒に食事を取ってまで、大切にケアしていた。ユダが言ったとおり、注がれた香油を余さず換金していれば、同様の境遇の人たちを、いったいどれだけ援助が出来たことか。だから、まさにその時実践していたような、弱きものを支えてあげるというスタンスを貫くなら、確実にもっと多くを救えたわけだよ」
とは言え、とヴォイニッチは目を伏せる。
「ユダが横領をしていて、自分のためにそういうことを言ったのだ、という記述も、あるにはある。僕はそこはどうとも言えない。そうかもしれない。他はどうか知らないけど、聖歌隊でもそういうのはあったし、そもそも後世の弟子たちの悪し様な作り話かもしれないし。いずれにせよ、多少横領したって、莫大なお金が弱者の支援に使えるようになっていたのは、確かだもの。ユダは、現実的にはそこまで間違ったことは言っていない」
しばしの沈黙。
リリウムは、ハリストスの運命を見透かした、その名も知れぬ女性のことを想った。
教えられてきた拙い知識で解釈するならば、その場に居合わせた人々の中で、偉大なる救世主の真実を見抜いていたのは彼女だ。
一方のユダは、目先の利益ばかりに拘って、深遠な部分には目を向けていなかったことになる。
愚かであるようにも感じられる。
まるで道化のような惨めさだ。
糾弾されて然るべきなのかもしれない。
しかし、リリウムは、既にヴォイニッチの意図を汲み取っていた。
「君はこう言いたいのだな。弱者に施し、救うべきというハリストスの行いを、現実的に一貫性を持って解釈していたのは、その場においてはユダだけだった、と」
「うん。さすがは新しいリーンズィ、僕の考えをよく分かってくれる。これもね、あくまでも、僕の熱心な信徒たちを通して見た、僕なりの推測だけど……」
ヴォイニッチは身を離し、名前のない福音書の一冊を別の何かに書き換え、ぺらぺらとめくって見せてくれた。所謂レーゲント文字と呼ばれる極限まで圧縮された文字情報の奔流に圧倒されるが、リリウムの脳髄はそれらを逐次適切に解読していく。
解読出来るだけで、具体的に理解しているわけではなかったが、リリウムの演算する人格は、何か機械言語の羅列であるような印象を覚えた。
「これは僕の使徒たちが僕のために研究して作ってくれた原初の聖句に関する論文の束だよ」とヴォイニッチは目を細める。
「僕の信徒の中でも、純粋に技術者的な人々は、僕を単に未知の技術を扱う存在と認識して、神とは安易に結びつけなかった。大主教たちが神の吐息であるなんて、まともに信じなかった。そもそも神様なんて信じていなかった。原典のユダも、きっと霊的な意味での救世主だとか、贖罪を果たす者だとか、そんなふうには、己の主を解釈していなかったんだろうね」
再びありもしない奇怪な花を手先から生やして、それで口元を隠す。
花言葉は知れない。あるとすれば、それは『沈黙』だろう。
「主が奇跡を起こすのを見て、しかし神を信じなかった。奇跡というラベルを貼られた強大な力を操り、世界を変えようと戦うその人の、気高い姿勢をこそ信じていた。色んな書物で、ユダは散々に書かれているんだけど、でもね、おかしいよね? 本当に下劣な人間を……救世主が、あのハリストスが、自分の使徒に敢えて選ぶだなんて、奇妙じゃないかな? 彼には選ばれるだけの資格があったとするのが妥当だよ。君、考えてみたまえよ」
ヴォイニッチが澄み渡る声で告げた。リリウムが素直に頷くと、「コマンド入力は無効か。なるほどね。参照すべき時間枝が定まってきたよ」と一人で満足した。
「いいかい、聖書の世界では、全てが予定調和なんだ。何もかも計画がある。天に昇るような喜びも、血を伴うような殺戮も、全て神という巨大な機織り機によって、ことが起きる前に全てが描き終えられている。天国に入るべき人間すら、そうした巨大な運命によって決められているんだ。そんな中でユダに与えられた役割は何だろうね?」
「えっと、この流れだと……」氷河の蒼が目蓋の中でぐるりと動く。「ハリストスを裏切る役目……?」
「だろうね。僕が思うに、ハリストスは原初の聖句だけでなく、太古の不死病にも通じていた。あるいはどこかの段階で、もう感染していたのかもしれない。経緯は分からないけどね。聖句使いは不死病患者の肉体に自分の人格を転写することで、新たなステージへ進むことが可能になる。つまりね、前例は殆ど居ないけど、聖句使いなら道具を使わずとも僕たち大主教のようになれるんだ。救済者様は発症と覚醒のために一度死ぬ必要があったんだろう。少なくとも僕としては座りが良いから、そう考える。そのためにユダに自分を裏切り、敵に引き渡すよう依頼したんだ」
「裏切るよう依頼するなんて、そんなことあるはずが……」
「何故あるはずないと言い切れるんだい?」
極めて混乱した話だ。
自分を裏切り、自分を殺してしまえ。
そんなことを、自分の信頼する部下に命令する。
リリウムの価値観では、単なる悲劇でしかない。
「だって、酷すぎる。それではユダがあまりにも憐れだ」
「憐れだね。でも彼しかいなかった。他の使徒たちは、ハリストスを神の子として崇めていたはずさ。神の愛を信じ、神の子の実在を確信していた。その深い愛が故に、矛盾を孕む裏切りの任務を果たせない……。後で復活すると聞かされて無理矢理納得しても、決定的局面で実行出来ないだろう。だけど彼の使う奇跡だけを信じ、そして彼が奇跡を扱う人間として信じたユダには、必要ならそれを完遂する意志が備わっていた。主人は、彼の信じる奇跡を使って復活する。だから一度殺しても、大局的には問題にならないと確信出来た」
「しかし、矛盾は、まだしているのではないだろうか……」リリウムは銀糸の髪を掻き分けて、眉を顰めた。「神の計画? というのは私には承服出来ないが、しかしそれなら、裏切りだのと言ったシークエンスを挟まなくても、ハリストスを死なせることは出来たはず」
「……出来なかったんだろう」ヴォイニッチは力なく笑った。「僕も、この都市を、第百番攻略拠点を運営してみて身につまされた。最良の選択肢を選び続けているつもりで……犠牲を避けることが出来ない局面に何度も直面する。過去で、未来で、何度でもそれは現れる。そして厄介なことに、避けようとすればするほど、どんどん因果の糸に絡め取られていく。僕だって、ハリストスほどの人物が、愛しい使徒に、自分の死を望めと要求するなんて、到底想像出来ない。あれほど高らかに愛を詠っていたのにさ。……いいかい、君が思っている以上に状況は不可解だからね。そもそも、放っておいても、救世主様は敵対する勢力に捕縛されて、処刑されていたはずなんだ。裏切られようが、裏切られまいが、どの道同じ結末に辿り着いていた。だけど、それでも、ユダが裏切らなければならなかった。タイミングの問題か、他にもっと意味があるのか」ヴォイニッチは不安げに三つ編みを触った。「これはもう、それが必要だったから、と解釈するしかない。犠牲を出さずにおくことが不可能な状況だった。彼らは、詰んでいたんだ。救い主も聖霊も、裏切り者としてユダを利用するしかなかった。そういうことなんだと思う」
「それでは、自分の都合のために彼を使い捨てにした、と?」
「使い捨てかどうかは疑問だね。だって使徒だよ? 僕規準では、我が血を分けたにも等しい者たちだ。それほど親しい相手に辛い選択を迫るんだ、ハリストスからしてみれば、もちろんはらわたがねじ切れるような、極限の苦痛を伴う決断だったろう。……僕なら耐えられない。僕の使徒たち、アムネジアのような親愛なるともがらたちに、僕を裏切れなんて、ぜったい命令できない。そんな状況に追い込むこと自体、吐き気がするほど嫌だ。だからもちろん、僕を少し上回る程度の救世主でしか無い彼にしても、神様みたいに無慈悲に計画を進行させるなんてこと、出来やしなかっただろう。秘密裏にユダに打診をかけて了解を得ていたはずさ」
「だけど、すべては決まっているるのだろう。断られるはずも無いことを相談するだろうか」
「確かに聖書の記述通りなら、運命はそのように仕組まれていた。真なる絶対者の前では自由意志なんて無力さ。だけど、自由意志の名において宣言しないことには、運命だって虚しいものだ。選ばれなかった世界として、沈黙のうちに消え去ってしまうことだろう」
言い終えて、三つ編みの聖少女は深く溜息を吐いた。
「……マルコの福音書では、ユダは『生まれなかった方が、その者のためによかった』とまで言われている。酷い言い草だよね? だけど、この僕、大主教ヴォイニッチの解釈では、それは罵倒ではないんだ。生まれてくるべきではなかった、というのは、二千年前の救世主の、心からの嘆きだ。ユダは生まれるべきではなかった。生まれてきてしまったから、神の計画により、親愛なる師を陥れるという役目を負わされてしまった。生まれてさえこなければ、そんな無残極まる運命に囚われずに済んだ……。だけど生まれてくる必要はあった。神の計画のために」想像を絶する矛盾と、冷酷な運命の螺旋だよ、と悲しげに息を吐く。「皮肉にも救い主は、冷酷な言葉で裏切り者を慰めたんだ」
「だけど、えっと、ユダは、最後には、自殺したのだろう……? 確か、私がレアせんぱいと観た映画では、ユダは主を売り渡した後、報酬の銀貨三〇枚を神殿に投げ込み、すぐに首を吊って死んでしまったと……。その未来まで見えていたのに、そうなる道を選んだというのは、愛する使徒への仕打ちにしては、あまりにも過酷なのだな。私には君が……ヴォイニッチが、そんなことをしたがるヒトには見えない。よく知らないが、ハリストスだって、きっとそうなのだろう。銀貨三〇枚と引き換えに自分を裏切らせるなんて、そんな道は、選ばせないはず」
「そうだね。銀貨三〇枚というのは、裏切りには割りが合わないほど安いんだ。お金のやり取りなんて言うのは、形式上必要だったから挟まっただけの工程だろうね」
目的が単純な売買じゃなくても、手続きというのは聖歌隊でも欠かせないものだったから。あだっぽい笑みを浮かべて、ヴォイニッチはあやしげに顎を引いた。
「もちろんお金は大事だ。活動資金を集めるのは大事だったよ。だけど、相手を盲信させ、洗脳し、意のままに操るのが目的で、お金なんて畢竟、僕たちが相手の懐に転がり込むための言い訳にすぎない。ユダだってそうだったろうさ、金額なんてどうでもいいから、言い値であるじを引き渡したんだ」
「それなら無償で身柄を引き渡しても良いはずでは……」
「無償で成立する取引なんてものは有り得ないんだ、リーンズィ。君はマスター・ペーダソスのところで味覚に快楽を与えているよね? そして彼女は趣味で作った料理を他人に食べさせることそれ自体を楽しんでる。果たしてペーダソスは、君たちに対価を本当に求めているのかな」
むむ、とリリウムは喉を鳴らす。
確かに、マスター・ペーダソスは、さほど価値の遣り取りに重きを置いていないように思える。彼女は食材を調達し、調理して、誰かに食べてもらうのが好きなのであった。温かい食事を提供するペーダソスはいつでも上機嫌だが、収支を聞いてみれば利益が殆ど無いというのが実状だった。代金と引き換えに食事を提供する、という人類文化全盛期の飲食店の模倣自体が目的だ。
トークンの授受は、それをスムーズに進行させるための手続きに過ぎない。
「だから、金で主を売ったなんていうのは、大した問題じゃない。注目すべきは、あるじに有罪判決が出た後で、すぐにユダは自ら命を捨てたことのほうだよ。後悔によるものか、罪の意識によるものか。ここにいない人間の心なんて、ちっとも分からないけど、形はどうあれ、彼はあるじを信じて、愛していたんだろうね。そして、復活するかどうかなんていうのは、彼には関係なかった。とにかく裏切ったんだ、それだけが彼の全てだ。彼が信じていたのはハリストスであって、彼の唱えた夢幻のような世界ではない。だからそこにあるのは、ただの個人への裏切りだ。卑劣で、忌まわしく、侮蔑に値する裏切りだ。それは厳然たる罪として、彼の前途を塞いだ。きっと彼は、裁いてほしいと願った」
君やリリウム、ミラーズたちのように。
そう囁いて、ヴォイニッチはリリウムの胸に触れた。
「ところが、肝心の救い主様は、彼を一つも責めやしない。裁いてくれと頼んでも神はそれをなされなかっただろう。全ては計画のうちなんだから。そして、彼を始末したがった教会側も、もちろん、ユダの裏切りを悪事とは認めないだろう。むしろ何故ユダが裁きを求めるのか、理解に苦しんだんじゃないかな。他の使徒たちなんて、きっとユダの裏切りに気付いてもいない。全部明らかになったのがいつなのだか、僕には分からない。彼は言わば、宙に浮いた罪人だった。どれほど罰を求めても誰も裁いてはくれない、そんな孤独な罪人だ。なればこそ、最後に彼は、自分で自分を裁いた。必要でも使命でも、最愛の師を死の淵に追いやった事実は変わらない。どんな奇跡が起きても、後悔が永遠に己の胸に残ることを予期していたんだ。そして、罪を精算した」
「だからといって死ぬ必要は……君の論理が正しいなら、ハリストスは彼を罰するつもりがない、最後には免罪を与えていたことだろうし……生きてさえいれば、復活したあと会いにいくことさえしたのでは?」
くだらない空想話であることは、リリウムにも承知の上だ。つまるところ、全てはヴォイニッチの実も葉もない空想話だ。
聖書に描かれた人物の心の動きなど、いくら考えても、歴史的な真実に辿り着けはしない。ましてや不死病や原初の聖句と言った出自の不明な関数まで導入しては、得られる結論は、どんな真実からも遠ざかるに違いない。
しかしリリウムは、どうしてもヴォイニッチが何を言いたいのか、知りたくて、たまらなくなっていた。
少女は自分に触れてくるこの乙女に、確かに愛を感じ始めていた。少女は、自分を愛するものを愛さずにはいられない。少女の愛は、ヴォイニッチの愛だった。
信徒たちは彼女の奇跡と肉体を通して上っ面の神を信じたとヴォイニッチは言うが、それは彼女だけの妄想だとさえ思い始めている。
ヴォイニッチが操る言葉は、穏やかで、染み入るようであり、話すだけで心が凪いでくる。彼女はリリウムのようには愛を刷り込まない。だが、愛の祈りを伝えることには、間違いなく長けていた。
三つ編みの静謐なる大主教は、ただ接触しているだけで愛を覚えさせてくれる。
そんなどうしうもなく美しい少女の形をしていた。
「ユダは裏切りへの裁きを求めた、これだけが重要だよ。仕方の無いことだったなんて割り切らなかったのさ。……彼らの教義において、最も大きな罪は、まさしく彼らの主を、裁き主だと信じないことだとも言われている。裁き主ならぬ身で我が身を裁くなどとというのは、救世主の領域を侵す紛れもない悪行だ。ユダは、ハリストスの世界観では、間違いなく罪人だね。地獄のジュデッカに落とされて苦しめられ続けているとまで言われている。だけど、僕はそう思わない。だって、ユダは己の主やその信徒が定めた法則を信じていなかったんだ。主の志と力だけを信じた。神ではなく、己の信じる個人を信じたから、そう成り果ててしまった。そんな裏切り者は、天国にも地獄にも行かないだろう。誰だってそうさ、信じていない世界には行けない。ユダは信じた人の御許に行けないんだ」
「……君がユダを贔屓しているのは分かった」リリウムはヴォイニッチの頬を触り返しながら揉みながら問いかける。「……君は、ハリストスがユダを見捨てたから、彼を軽蔑して、軽んじたのか? じたの?」
「軽蔑まではしていないよ。原罪だとか言うの一切を肩代わりした、という話を信じていないだけ。だけど……僕はどうしたって彼の真似は出来ない。彼の精神性をトレースできない。何を考えてユダに最後の一押しを任せたのか、全然分からない。何せ僕は、自分を信じて敵に売り、その罪を命で贖うほど高潔な人物に、愛されたことがないからね。そして、どれほど追い詰められたって、大切な使徒を売り払うような決断は、僕には絶対に出来ない。やりたくないんじゃない、出来ないんだ。僕にはそんな意思力は備わっていない。過去の救い主にしたって、きっとやりたくなかっただろうね。だけど、彼はそれを成し遂げた。鋼の意志で、やりたくないことを、やったんだ」
裏切るべからざるものに裏切りを託し、救済出来ないと知りながらその任務を遂行させる。どれほどの苦悩と葛藤が彼の胸にあっただろう、と少女は歌う。
「それに思い至って、ようやく僕は彼らを信じるようになったんだ」とヴォイニッチは微笑んだ。「親しい誰かかを犠牲に出してまで世界を変えていく……僕にはそんな救世主の才能がまるでない。似たような力があるのに、彼は僕のように閉じこもったりせず、痛みを背負ってでも、託された願いを次の世代へ繋いだ。まさに救世主だ。信じたくなってしまうよ。助けてほしいと、願ってしまうよ……」
「ヴォイニッチ……」
白銀の聖少女は切なげに息をして、ヴォイニッチに寄り添った。その細い体を抱きしめ、肉の熱で彼女を温めてやる。
「でも、誰も見捨てないことの方が立派だと思う。決断出来ないのは、悪いことではないと思う。ハリストスだって君を責めないだろう。悪いのは、なんというか、その世界の見方で言うなら、神様なのでは?」
「……だからこそゴルゴダの丘で彼は叫んだのさ、『神は何故我を見捨てたもうたのか』とね。この言葉も解釈は分かれる。説法者によって言うことも違うだろう。……僕は嘆きの言葉として捉える。彼は全ての救われない人間の代理として、神を憎んだ。蒙昧なる人類の写し身として我が身を規定した。そして神の裁きを全人類に代わって身に受けて、贖罪としたわけだ。だけど、そんなのは建前にすぎない。実のところ、救い主は結局、最後まで嘆いていたのさ。ユダを切り捨てざるを得なかったこと、その運命を定めた神のこと、何よりユダが自殺してしまったこと。裏切れとは命じた。悪を成せと告げた。だけど死ねとまでは言っていない。聖書を見渡しても、彼はユダの裏切りを見抜きこそすれ、死によって罪を贖えなどとは、ひとことも言っていない。なのにユダは進んで自殺をしてしまった。救い主にはその未来が見えていたはずさ。でも止めなかった。止められなかったんだ。そうなると分かっていて、その道を選ばせた。選ばせることは出来ても、相当に堪えたはずだよ。叫びたくもなるさ、己の力が真なる全能で無いことを思い知って、泣き叫びたくもなるだろう。……リーンズィ。僕のリーンズィ。ああ、君が目の前にいる。不思議な気分だ。過去だと分かっているのに、泣いてしまいそうだよ」
ヴォイニッチはリリウムに口づけをした。それまでとは違う、確かめるような触れ方だった。
リリウムを戸惑いながらもそれを受け入れた。
潤む目を合わせながら、ヴォイニッチはリリウムの耳元に神の息を吹き込む。
「……生まれなかった方が、その者のためによかった。この言葉が君にも言える。はっきりと言っておく。僕は第百番攻略拠点について、君たちの通行を認めたくない。僕にとって世界の命運だとか都市の未来だとかは二の次だ。君に、まさに君に、数多の苦難が降り注ぐ。総体がどうなるにせよ、君、リーンズィ、僕の愛するリーンズィ。新しいリーンズィ……。君にとって良い結果にならないと分かりきっているから、それをするなと忠告しているんだ。大勢の人が死を迎えるだろう。FRF市民だけじゃない。解放軍兵士も数え切れないほど機能停止する。僕はディア・ハンターたちを通じて、何度も問いかけ続けた。そしてやりたくないことはやるべきではない、という君の意見を確認している。リーンズィ。エージェント・リーンズィ。僕の知らない新しいリーンズィ。リーンズィの作った、名も知れぬリーンズィ。君に預言する。このまま進み続ければ、きっと君は後悔し、打ちひしがれるだろう。君は大勢を救う。途方もない数の未来を救う。だけど、その代償に、優しく、愛らしく、素直で、自分自身を倫理規定から外している君は、愚かな計画の実行に、同意してしまう。その結果を見て、やらなかった方が、その者のためによかったと、ハリストスならば仰るだろう……」
口づけをもう一度。
ヴォイニッチはリリウムの肩に手を回し、真正面から抱擁して、また真っ直ぐに目を合わせた
「演算が追い付きつつある。僕は僕の終点からこの今に書き連ねている。取り返しのつかない未来に僕はいる。僕はね、リーンズィ、君に、ユダになってほしくないんだ。君に自殺なんてしてほしくないんだ。ますます強くそう思う。僕を愛してくれる君が愛おしい。愛おしいから、助けてあげたい。助けてあげたいから、やめておきなさいと、そう告げている……」
「……どうして?」
快い身体接触だった。肉体も人格も蕩かすペパーミントの爽やかな香り。本当に自分を愛してくれている、と信じさせてくれる振る舞いを始めた黒髪の少女を、リリウムは不思議そうに見つめた。
彼女はリリウムに匹敵する程の美貌の持ち主で、穏微と淫蕩、沈黙と饒舌、涜神と終わりなき祈りを形無きものとして従えていた。
肌理細かく温かな肉体の全てから滲み出る慈愛と執念が、リリウムの肋骨を愛慕で疼かせて止まらない。この世界に招かれた頃は、何もかもが曖昧だった。ヴォイニッチのことを警戒することすら満足に行えなかった。
だが現在のリリウムは、彼女に吹き込まれた偽りの魂は、愛を自覚している。
かつて愛していたことを、自覚している。
己の脈動そのものに恥じらいを覚えながら、少女はヴォイニッチに縋った。
「どうして、出遭って間もない私に、そうまで優しい言葉を囁いてくれるのだろう? 君の言葉は、全て嬉しい。きっと本当に私を愛してくれている。だけど、私は君とこの偽物の過去で言葉を交わし、唇を重ね、体温を知ったばかりだ。君がこうまでしてくれる理由が分からない……私が、君を心から求めていることも、とても不思議なんだ。レアせんぱいを愛するように、私は君を愛している。……愛して、いた?」
「簡単なことだよ」ヴォイニッチはリリウムの頭を撫でて、笑った。「ありもしない過去でも、僕にとって全ての未来、全ての時間枝、全ての結末は、とっくに参照が終わっているんだ。全部起きたことなんだ。君を愛するという未来が、君を知らなかった過去に、とっくに追いついているんだ。君が僕を愛した過去が、君が僕を知らなかった今に重なったんだ。ねぇ、リーンズィ。僕という存在はね、君の知らない世界で、とっくに君と交わっている。未来はもう全部決まってしまっていて、本当はどうしようもない……。僕は変わるはずの無い過去に、みっともなく言葉を書き連ねているだけなんだ……。だけど、意味がないだけじゃ、祈りを止めるにはまだ足りない。役立たずの奇跡でも何でも使って、君を引き留めたくて、たまらないんだ。これが僕の祈りの在り方なんだろうね。夜が怖いから、眠らない。現実が怖いから、奇跡で誤魔化しをする。いつだって手遅れなのに、みっともなく可能性に縋り付く……怠惰で愚かで、救いようがない、それがこの僕だ。未来の君がかつて愛してくれたこの僕だ」
白銀の聖少女には、未来など見えない。ヴァローナの瞳で一瞬先の未来は見える、だがかつての未来などという不確かな事象は、決して観測出来ない。
だから、何故、ヴォイニッチがリリウムの体を借りているだけのリーンズィに、こうまで熱心に触れ、囁き、抱きしめてくるのか、何故こうも哀愁の念が、懐かしい愛慕が湧き出てくるのか。どのような理を解かれても、不思議さが募るばかりで、しかしそれでもリリウムは、ゆえ知らぬ涙をヴォイニッチへと捧げてしまっていた。
伝わってくるのは、彼女が使徒たちに向けていたのと同じもの。
ヴォイニッチが幾星霜を超えて詠い続ける、無限大の愛の祈りだけ。
「どうしても諦めきれない。どうしたって君が傷ついて疲れ果てる未来なんて来てほしくない。みんな幸せになりますように。みんな幸せになりますように。みんな幸せになりますように。どんな言葉を口先に紡いで嘲笑っても、僕だって大主教だ、本心ではそう祈り続けてる。リリウムも、キジールも、他のみんなだって、僕は不幸になってほしくない。分かるかい。君がみんなを裏切るというのは、そういうことなんだ。みんなを不幸にして回るということなんだ。自分自身さえも不幸にするということなんだ。だから僕は夜を越して世界が終わるまで何億回でも祈り続ける。那由他の朝、那由他の夜を越えて、君のために、信じてもいない神様に祈り続ける。偽りの救世主に成せぬ大業を、幻のような絶対者へと乞い続ける。今回こそは違う結果になるかも知れないと考えて……無限に同じことを言い続けてる……」
蒼穹を閉じ込めた虚ろな瞳が、濁りの無い未踏の地の氷河を映すリリウムと重なる。
「ねぇ、君。僕の花嫁の花嫁。恋人の恋人。主人の主人。親友の親友よ。まだ、前進を続けるのかい? 僕たちの新しいリーンズィ。愛を裏切り、信頼を裏切り、自分自身をも裏切る。裏切り者になる覚悟を、君は背負っているの? 君の愛する人たちは、君の決断のせいで壊れて消えてしまう。本当にそんな未来で良いの? ユダとして忌まれ、呪われ、地の果てにすら君の居場所はない。そんな結末で良いのかい?」
「……未来のことは、分からない。君の言うとおりの結末になると、信じるだけの材料も無い」
どれだけ警告を重ねられても、リリウムの記憶に凄惨な道行きなど明確には映らない。
どれほどの犠牲が出るのか、どれほどの悲しみがあるのか、そのときになるまで実感することは出来ない。
ヴォイニッチがどれだけ愛と嘆きを注いでくれても、未来の言葉は、過去の受け皿に収まることはない。
形ある限り常に未完成であるリーンズィは、調停防疫局の最終全権代理人として、成すべき選択をした。
「私は前進を続ける。どんな運命でも、それが調停防疫局の使命であるのならば、果たさなければならない。未踏の地で苦しむ市民たちを、救ってやらなければならない。私は多くの命を救うためなら、自分自身を裏切ることなど、厭いはしない」
「ああ、君は、まだ自分の言っていることが、分かっていないんだ……」ヴォイニッチは目の端に涙を溜めた。「だけど、そう決めたのなら、僕にはもう君の道行きを祝福することしか出来ない。だけど、重ねて警告する、きっと後悔するよ」
「君がそういうのなら、そうなのだろう。だけど、それをしなければ……」
不意に脳裏に浮かんだのは、白髪赤目の小柄で大好きな人。神経質で愛らしい横顔。彼女なら、任務を放棄した自分を見て、どんな言葉を投げかけてくるだろう?
「私は、大好きな人が大好きで居てくれる『リーンズィ』ではいられなくなってしまう。私はレアせんぱいの自慢の後輩でいたい。みんなの愛や信頼に応えられるリーンズィでいたい。私のためにも、レアせんぱいのためにも、愛するみんなのためにも、そして君のためにも、私は使命から逃げはしない」
「……君がそう答えるだろうということを、僕は最初から知っていたよ」
ヴォイニッチは力なく微笑み、そしてまた接吻した。
今度は顔を離さない。
透徹する空の青、地にも人にも興味を持たぬ超越者は、静かな声音でリーンズィに告げた。
「彼はこう言った。『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』」
かくして選択の報いは訪れる。
最初にそれが起きたのは、巨大な悪性変異体が立ち並ぶ一際荒れ果てたクヌーズオーエでのこと。
コルトが眠って、それが目覚めた。




