リビジョン:第百番攻略拠点 『徹宵の詠い手』ヴォイニッチ(3) ~セクション3 第百番攻略拠点接収作戦 その5~
奇跡。奇跡。また奇跡……。
手慰みのようにヴォイニッチは奇跡を起こしてみせた。
リリウムはそのたびに小さく吐息を弾ませる。奇術師も斯くやという鮮やかな技巧は、幼い少女を象るその魂を陶然とさせてあまりある。リリウムの形の良い瞼は惜しげもなく開かれており、冬の海で朝日を透かす氷塊の如き、神慮と沈黙とが編んだ神々しくも冷徹な瞳が、存在しない都市の存在しない窓から差す存在しない朧気な光を取り込んで、ありもしない奇跡を前に、きらきらと光り輝いていた。
同時、己を戒めるための言葉が彼女の精神へと浮上する。
愛しいエージェント・ミラーズはたびたび警告してきたものだ。
美しいもの、素晴らしく思えるものに、考え無しに縋ってはいけませんよ、と。
今ではリリウムも、すっかり承知している。表層だけをなぞって信じるのは、愚かでリスクの大きいことだ。ぐんぐん成長するこの人格は、以前と比べれば格段に慎重に仕上がっていた。
奇跡をいくら見せられても、彼女はヴォイニッチを無条件に信じることは無かった。そもそもヴァイニッチ自身が己の御業を信じていない。秘めたる奥義ならばこうも軽々しく開帳しないだろう。
相手が全く信じていないものを、何か尊いものだと信じられるほど、リリウムの夢見る天使様は、器用な構造をしていない。
「色鮮やかな方がインパクトあるから結構勉強をしたんだけど、あんまり見分けが付かなくてね」苦笑いする彼女の手の中に、赤から白まで僅かずつ退色していく数十の薔薇が現れる。「グラデーションという形では表現出来る。だけど、ある一点だけの色調を精密に再現するのは、外側のライブラリを参照しないと上手く出来ないんだ。この淡いピンクだけ作ろうとしても失敗してしまう。可愛らしい花一輪を創造するのに、似ているものを全部生み出さないといけない」
「とっても贅沢な作り方なのだな」
「そう、僕は贅沢なんだよ。怠けているからどんどん贅沢になってしまう、困ってしまうよね」
何気ない談笑の間にも、部屋の色彩が目まぐるしく変わり続けている。壁紙に羽毛が毛羽立ち即座に抜け落ちて白、赤、黒、青の色をした蒲公英の綿毛となって飛び立ちその下から裸のコンクリート製のタイルが現れる。卓上灯は電話機にうさぎのぬいぐるみに写真立てに十字架を象るスタチューに変じる……。
奇跡、奇跡、奇跡、奇跡……。奇跡の濫用に違わぬ、人の埒外にある権能。だが、ヴォイニッチは自分自身が、あるいは支配する都市の出力する奇跡の濁流に、全く関心を示さない。歯車で動く機械でも眺めるように、不可解な事象を極当然のものとして受け止めているようだ。
自分自身で評した通り、彼女の奇跡は、全てが無意味なのだろう。だからこそリリウムも純粋に奇跡を楽しむことが出来た。
「これはリアルタイムでの演算なの? それとも、加筆されたもの?」
「僕自身が加筆された存在だからはっきりとは分からないよ。そもそもこの都市自体が自己記述で成立してる『奇跡』だから、全然関係ない可能性もあるね」
「では無自覚にこんなすごいことを……」
惑わされはしない。しかし、筆舌に尽し難い千変万化の奇跡の連続は、疑いようも無く素敵な光景で、どうしようもなくリリウムの胸の奥にある幼い心臓を、楽しげに高鳴らせた。
気を抜けば、あどけない子供のように――実際、成熟しているとはまだ言えない人格だったが――さらなるお楽しみの奇跡を、ヴォイニッチにせがんでしまっていただろう。
そしてリリウムが抱きついて求めれば、ヴォイニッチは応じてくれたはずだ。ペパーミントのアイスクリームでも創り出して、リリウムが満面の笑みを浮かべてしまうような、ひときわ楽しく華やかな鮮やかな光景を見せてくれたはずだった。
厭世的な物言いをしていても、ヴォイニッチは、奇跡を弄ぶことを明らかに楽しんでいた。その喜びを他者に共有することに一片の躊躇も無い。彼女にとっては、どんな奇跡も土を捏ねて人形を作るのと大差無い趣味なのだろう。
だが、そうした奇跡の博覧会は、長く続かなかった。
招かれしリリウムが、それを望まなかった。
彼女はエージェントだった。本体から切断されているにせよ、エージェント・リーンズィとしての自負が、辛うじて意識の輪郭を支えてくれた。
白銀の聖少女は意気込んで、それから、自分の心臓の鼓動が高鳴る先を、他の何かに変えようとした。
「これだけの力があるのなら……ヴォイニッチは、聖歌隊の一員として、どんなアプローチをしていたのだろう? していたの? つまり、どういう大主教なのだろう。リリウムとは違う派閥なのだな? なの?」
出力されたのは、素朴な疑問だ。
これほどの力を手に入れて、いったい何を目指し、世界をどう導こうとしていたのか。
大主教は聖父スヴィトスラーフの意志に従い、独自の判断で世界に不死病を蔓延させた七人の忌まわしき聖句遣いだ。
彼女たちが是として掲げた思想は、それぞれ異なる。
リリウムの率いる、<清廉なる導き手>は、こんなところで終わってはいけない、どこまでも進んでいこう、という切実で儚い願いを、最大規模で、強烈に、かつ強制的に実効させる軍団である。
万人を洗脳して隷従させ、前進することを強要するリリウムは、淫蕩と退廃と信仰を並列して愛好する奇異な精神の持ち主だ。当然ながら主義の骨子には異様に反道徳的な要素を抱えていたが、大主教としての在り方としては明快だった。
自分の肉体を通して、全人類の歓喜と祈りを集約し、おそらくは快楽と引き換えに信徒たちの人格を大聖堂へと取り込んでいった。そうして生み出された自我なき不死のともがらたちを、神の名のもとに率いた。愛と信仰だけを導きの糸として、それを辿って最果てのさらなる向こう側へとに導こうとしているのだ、とユイシスは推測している。
ヴォイニッチはと言えば、しかし、何を目標にして、実際に何をしているのか、全く分からない。
これだけ超越した権能を用いているというのに、リリウムほど活動に積極的ではなかったように見えた。
何万人もの歌う不死どもを従えて行進するリリウムに対し、ヴォイニッチは随分と受動的だ。都市一つを聖句を使って支配しているにせよ、それ以上の何かを成しているとは思われない。
どのような奇跡を成した結果でも、現在の彼女は都市を孕み、都市そのものとなった存在だ。人々を教え導き救う以前に、『第百番攻略拠点』という城に縛り付けられている。
「ああ、こんな手品では、やっぱり君を誤魔化せないか」
黒髪の聖少女が肩を竦めると、風景が一挙に書き換えられ、踏み込んできたときと変わらぬ色褪せた調度が二人を囲んだ。
「惑わされてごまんぞくして、何もかもあやふやになって帰ってくれれば、それが一番良かったのにね」
「ごまんぞくはしている、とても良いものを見せてくれたので」
「君の考えていることは分かるよ。僕のアプローチは大掛かりだけど、見た目にはリリウムほど派手ではないしね」
不滅の聖少女は、穏やかな、しかし自虐の色のある笑みを浮かべて三つ編みを触った。
「僕は、死の運命を、世界に存在する破滅の渦を否定しようとしたんだ。搾取に次ぐ搾取、戦争に次ぐ戦争。マザー・キジールを一度は汚辱の底に堕としたあの忌まわしい世界。その理不尽さから、皆を守ってあげたかった。いずれ朽ちて、不本意な終わりを迎える人々が、せめてその冷酷な運命から免れますようにと……そう願って働いていたんだ」
ヴォイニッチはおもむろに寄りかかると、リリウムの額と首に、優しく接吻をした。さらに身を屈める動作を実行し、リリウムの太腿に唇を当てた。リリウムは戸惑いながらも、肉体の感覚に任せてそれを受容した。決して不快では無い。リリウムの肉体自体は、歓喜を覚えている。
黒の聖少女は、肌を撫で、そして愛おしげに彼女を見上げた。
「君は、今触れた部位の強化を、死を失うことと引き換えに求めた。運命の向こう側に歩くための滅びない意志、枯れることの無い声、そして朽ちない二本の脚。嵐を乗り越えるための道具だ。それに対して、僕は運命の嵐をやり過ごすための力を求めた。二本の脚では無く……」言いながら、三つ編みを弄って、リリウムの手をそっと手繰り寄せ、己の胸に触れさせた。「終わることのない心臓を求めた」
「二人は……」彼女の肉体の熱と鼓動がリリウムの手の中にあった。不滅の聖少女は、触れられることに喜びを覚えていると知れた。「似ているけど、愛し合っていたけど、向いている方向が違ったのだな」
「だから、相性が良かったのかも知れない。ぶつかることがないからね。それに、未来では全てが救われるだろうと無邪気に期待した、というところでは同じだもの。とにかく僕は、こんなところで終わってはいけない、せめてここで永遠になろうと、皆に訴えた。救世主を騙り、形だけの奇跡を見せて、実現する見込みの無い夢を与えた。意気地なしだからね、遠くにある理想郷を目指さず、すぐそばの人の根付く土地に、万物が安定的である世界を作ろうとしたんだ。……その結末が、今の僕だ」
立ち上がり、リリウムに接吻してから、ヴォイニッチは微笑んだ。
言葉の節々に余裕を滲ませてはいるが、声のトーンは、心中の暗さを隠していない。
「キュプロクスの突撃隊がFRFの憐れな者どもを虐殺し始めるまで、僕も決断が出来なかった。奇跡を起こすための研究は終わっていたのに、それを実現させなかった。手遅れになってから必死になって作り上げた第百番攻略拠点は、間に合わせの隔壁で、どれだけ改良しても僕を閉じ込める自家製の牢屋にしかならなかった。とどのつまり、これが、ここで君が目にしている世界が、僕の限界点だったんだ。まぁ、ここだってそこまで悪くは無いとは思うよ。僕に何もかも捧げた信徒たちは、かつて求めたものを、まさしく手にしたはずだ。僕だって、教わった技術の検証が好きに出来ているからね。机上の空論は実体化し、こうして過去に追記して未来を書き換える奇跡すら可能になって、僕を信じてくれたみんなには、不滅の夢を見せてあげられる……とても穏やかな世界さ」
どーん、と凄まじい轟音が轟いて、窓枠の外で高層建築物の一つが巨大な何かによって押し潰された。
リリウムが目を丸くしていると「気にしないで。この都市自体が僕の演算装置で、しかも割とアナログなんだ。何かの計算をするために作って壊したんだと思うよ」と聖女は笑った。
「とにかく、僕はね、リーンズィ……世界中をこんな風に僕の支配下において、だらしがなくたって、未来を凍りつかせてしまうような結果になったって、せめて、みんなを、穏やかに眠らせてあげたかったんだ」
そうして、苛ついた様子で三つ編みを撥ねのけ、蒼い瞳の麗人は寂しげに視線を落とした。
「だけど、この都市を僕そのものに書き換えて実感したよ。世界を丸ごと変えてしまうような力が備わっていなくて良かった。僕には、世界をよりよくするための才能がなかったから」
「……世界をより良くするための才能が、ない……?」リリウムは首を傾げた。「奇跡をこれだけ操れるのに? 出来ないことがあるの……?」
「そう。僕は奇跡を起こせる。だけど救世主としての才能は、ぜんぜん無いんだ。奇跡はただの奇跡で、ありふれていて、それぞれは信じられないほど弱々しく、本質から遠い。何せ、意味だの何だのは、所詮人間が後付けで見出すものだからね。君はうさぎのぬいぐるみを観たとき、色々なバックボーンや過去を想起するだろう?」ヴォイニッチの手の中で不貞寝をしたもこもこのうさぎが弄ばれている。「万事がそうさ。奇跡に意味を持たせるのは、常に観測者だ。在って在るだけで尊い奇跡なんて存在しない。そして僕には……尊いものを、本当に信じられるものを何も無いところから生み出す力が、まるで備わっていない……」
「時空間さえ支配するというのに、それは謙遜というものなのだな。……君はとても上手くやっていると思う」
励ましは、嘘では無い。誤魔化しであっても、本心だった。
鬱々とし始めたヴォイニッチを見ていると、リリウムまで悲しくなってくる。
それが彼女を愛しているこの肉体の履歴によるものか、新しい隣人たる彼女に共鳴した人格の反応なのかは、リリウムには分からない。
「過大評価さ。時空間の支配なんていうけど、過去改変と未来改変なんてものは、結局は終了条件が設定されていない愚昧なトライ・アンド・エラーだよ。果てしの無い時間をかけて、終わりのない小細工を積み重ねるだけだよ。だから、そんな力は、適性の無い僕如きが手に入れても、実りのない加筆修正を永遠に繰り返すに終始しして……一つの前進も生み出しはしない。辛うじて繕えるのは、外側だけ。僕の第百番攻略拠点が新しく生み出した価値のある『奇跡』は、本当のところ、一つも無い。だから、世界全てを射程内に捉えても、きっと大差の無いし事しか、出来なかっただろうね」
「そんなことは……」
「……君はルービックキューブで遊んだことがあるかい?」
唐突な言葉に、リリウムは愛らしく唇に手を当てて考えた。肉体に染みついた、相手の庇護心や支配欲をくすぐるための媚態であった。リリウムの肉体を使っているだけだけあって、リリウムは自分に可愛らしい行動のパターンが追加されつつあること自覚していた。人格が肉体に引き摺られて変質しつつある。
しかし、リリウムの肉体からの不規則な人格記録書き込みを警戒するより、ヴォイニッチの対話を成立させることの方が重要だった。半ば忘れかけているが、第百番攻略拠点を通行させてほしいというお願いのためにここまで来たのだし、リリウムはヴォイニッチのことを愛して欲し始めていた。
白銀の聖少女は、エミュレートされた人格から暖かい記憶を漁って、懐かしい日の断片を表出させた。
「……ウンドワートのお店で、何度か触ったことがある。木材を使ったお手製の玩具で、色じゃなくてウサギの柄を揃えるのだな。ウンドワートはウサギさんの絵がとても上手だから、それで遊ぶのはとても楽しい。私はあまり上手には出来なかったけど……」
「ウンドワートだって?」徐々に表情を暗くしていた大主教は、その名に反応して、蒼玉の瞳を輝かせた。「へえ、彼女がそんなちんけな玩具を造るようになるだなんて、想像もしてなかったな。何かを壊すことしか出来ない彼女が! おっと、告げ口はやめておくれよ。純粋に驚きなんだ。あの子、自分を痛めつけて被虐嗜好に耽るか、他者を傷つけて独り善がりな喜びを得るか、そのどちらかだったから。自分で暴力から遠ざかって、そういうくだらない遊びをするようになったんだね?」
含みのある物言いに、リリウムは不快さで目を細める。
「……悪いことだろうか? ウンドワートは私の恋人だ。少なくとも、昼はリリウムの花嫁でも、夜はウンドワートに捧げている。悪し様に言うなら、私も君に相応の態度を取る」
「まさか。良いことだよ。本当に良い知らせだ」三つ編みの乙女は嬉しそうに両手を拡げてリリウムを抱いた。「彼女にも嫌な仕事を色々させて、ずいぶんと落ち込ませてしまったから、これでも心配はしてたのさ……。盟友たるコルトの妹君でもあるからね。コルトはとうとう機能不全を治せていないみたいだけど、彼女だけでも立ち直れたようで良かった。彼女は元気なんだね?」
「とっても元気なのだな」レアとの毎日を思い起こすだけで、リリウムの脳髄の甘い疼きが演算される。「いつでも私を愛してくれる、私の自慢の恋人だ」
「リリウムの顔と声をしたリリウムの恋人が他の恋人の話をするのは若干思うところがあるけど、まぁいいよ。奔放で愛が多いのもリリウムのリリウムらしいところだし。……よし、それじゃあ、僕の秘蔵のルービックキューブもご覧にいれよう」
ヴォイニッチが手を掲げた。
世界に追記し、奇跡を行使した。
そこに出現した物体の不可思議さにリリウムは瞠目する。
それは、絶えず蠢いている。
リリウムの目には、その物体を理解出来ない。
自分自身を飲み込むようにして変動し続ける、奇妙な立方体の群れである。
「これは何……?」
「ルービックキューブだよ。ただし、一個一個のブロックが四次元超立体で構成されているんま。平たく言えば、三次元に時間の一要素を加えて作った、現実にはありはしない空想上の玩具さ」
全然平たくないのでリリウムは「そうなのだな」とだけ返事をした。何だかリリウムっぽい反応だね、とヴォイニッチは悪戯っぽく笑った。
ヴォイニッチのその奇怪なキューブを持ち上げて、外側にある都市の時間を真昼に変えて部屋の光量を調節し、リリウムの目にもよく見えるようにした。
「ここからは、一次現実の君が使う<ヴァローナの瞳>にも通じる話かもしれないね。過去と未来の両方を操れるというのは……無限の色で塗られた無限の面を持つキューブを延々と回し続けられる、というのに似ている。不毛で無価値だ」
「ヴァローナの瞳はすごく便利だけど……」
こうしてヴォイニッチと接触できているのもヴァローナの瞳の効果であり、不毛でも無価値でも無い。
「そこがヴァローナの割り切りの良いところだね。彼女は大した力の持ち主じゃ無かったけど、ともすれば自分自身を侵食してしまう奇跡の行使に、上手にストッパーをかけていた。彼女や君の眼差しが、再現のない無価値を、価値ある奇跡に昇華させているのさ。だけど僕には、そうした分別がつかない。このキューブは僕の象徴とさえ言える」
「ふむ……?」
「このキューブを理解出来る? いつか完成と呼べる瞬間は訪れるのかもしれない。だけど、それって、三次元の生命体が見たり聞いたりして、はっきりと直観出来ることなのかな?」
あり得べからざる四次元超立体は、操作されている様子もないのに、眩暈を起こしそうな速度で変形と回帰を繰り返す。自分自身を飲み込む……自分自身を拡張する……それを無限に実行している。己の尾を食らうウロボロスにも似ている。
ヴォイニッチは宙に浮かぶその立体を指で回し、それから、無限に変色し続ける不可思議な塊にもう一度触れた。
ほんの一瞬の停止。
無限に連なる立体の、ある一面だけが、塗り潰されたかのように一つの色に染まった。
同時に、それ以外の全ての部分が到底立体とは言えない形状へと不安定に変形した。
完成した、という脳髄の直観。
壊れてしまった、という肉体の嘆き。
立体が停止していたのは一瞬だ再び動き始めたキューブは、以前よりさらに不規則に変形していった。
完成しない。破綻しない。始点も終点も、彼女の掌の上には無い。
四次元超立体を落とし込んで作られたルービックキューブは、人間の主観とは無関係に変形し続ける。
「ねぇ君、リーンズィ。これをどの段階で止めれば完成なのか、分かる?」
「分からない」リリウムは繊美な口元から溜息を溢し、透明な蒼い瞳を目蓋で細めた。「ユイシスや攻略拠点の技術者たちなら、分かるかもしれない。だけど、今の私には分からない」
「斯く言う僕も、何がどうなれば完成なのか、あまり理解が出来ない。決定的な瞬間を物理的に知覚するのは、僕の限界を超えている。造れることと、掌握出来ることは、決して同じじゃないんだ。都市や世界を創造して運用出来る機体だって、たぶん同じなんだと僕は思う」
ヴォイニッチの掌の上で、人知を越えた奇跡の、取るに足らぬかけがいのない結晶体は、誰の意思とも無関係に動き続ける。
「つまりね、何もかも操れるような大層な機能を持つ機体がいたてしても、彼らには、何を以て理想が完成したのか、断定出来ない……そうなんじゃないかと僕は考えてる。そもそも、在る限り永久に流転し続ける実体に、完成なんていう分かりやすい終点があると思うかい? リーンズィ、君なら、草原を割る風や潮の満ち引きに尺度を付けて、これだけが真実だという瞬間を、決定的に規定出来る? いや、意地悪な質問だったね。規定したところで、それが何になるのか、という問いに繋がるわけだから」
リーンズィは「全くその通りなのだな」と頷いた。
流転する風景について、完成された一瞬を求めても、全く意味が無い。
一切は変わりゆくからだ。ただ朽ちるばかりであっても変化であることに変わりは無い。変動することでしか、この世界に息衝く全ては、存在することが出来ない。仮に完璧な瞬間を永遠に引き延ばせる技術や観点があったとしても、第三者から見れば、そこは全てのエントロピーが散逸した静止した世界であって、素晴らしい何かでは無いはずだ。
移りゆく街並みこそがヒトのあるべき営為だというならば、尚更この問いかけは無意味だ。
完璧な状態で凍結された営為には、どこにも向かうことがない。
そこが終点だ。
「都市を生み出せるプロトメサイアも、世界を創造した名も知れぬどこかの誰かも、僕と究極的には大差が無い。どこかで必ず限界と直面する。全てを思うがまま操れるほどの力であっても、全てを知り尽くす程度の力では、生み出したものをコントロールしきれない。永遠に約束の地には辿り着けないわけだね。辿り着けたとしても、そこは望んだような未来じゃないと、すぐに気付くだろう。難しいのは、実際にそうならないと、自分がどんな世界を望んでこんな徒労に取り組んでるのか、分からないままになるというところさ」
誰だって、やれるつもりで始めるものだからね。そう言って、ヴォイニッチは布地の上からでも分かるほどに細い己が体の重さに、背筋を丸めた。
「うんざりする事実さ。何事も、やってみなければ分からない。無意味なのか、無価値なのか、それさえ事前には分からない。徒労だったと結論するには、馬鹿げた話だけど、とにかく始めて、終わらせなければいけないわけだね。あはは。まったく、世界というのは一つ残らず悪趣味な喜劇だ。人間存在なんて言うのは、渡されてもいない台本に従って、必死に滑稽な演技を繰り返す影法師なのさ。どうなるのかも分からず、こんなわけのわからないものを生み出して……」
手放されたルービックキューブが、赤、青、黄、緑、■の五色の花片となって、湖面を漂うように床に色とりどりの波紋を拡げた。
「最後には、これはいったい何だったんだろうと、一人で呆然とする! そして……尚悪いことに、徒労であるということすら分からず……これはとにかく永遠に終わらない試みなのだと理解してしまったら……もうどうしようもない」彼女は泣きそうな目で笑った。「だって、どうしようもないだろう? 終着点なんて無いんだ! こんな箱庭ですら、何もかも、一瞬たりとも同じ姿では居てくれない! 永遠であることを求めたって……僕にも予想不可能な形で変化し続ける。放っておけばどんどん壊れていくし、僅かな加筆だけで、思わぬところが競合を起こして綻ぶ。あるいは想像も出来ない素晴らしい躍進を、突如としてもたらしてしまう……。そしてそれらの変動には、ある限り果てが無い!」
どうしようもないよ、と聖少女は自嘲した。
「終わりのない世界では、全知全能は、無知無能と大差が無い。どんな力の持ち主でも、被造物の運命を掌握するには、どうしたって限界があるんだ。全知全能から一歩先に踏み出した世界は、元の全知全能ではもう手に負えないのだから。この途方もない荒波のような変容、不条理と無秩序が交合する、始まりも無い終わりもない迷路……そんな場所を運営していく能力が無いなら、絶対に救世主になんてなれない。そして僕は、真実、救世主じゃなかった……」
無防備に晒された弱々しい笑みが、リリウムの心臓を締め付ける。
「……僕も、この第百番攻略拠点での試行で、少しでも良い世界に変えられないか試したけれど……そうとも、そうなんだよ、見てご覧よ……」ヴォイニッチは窓の外を指差す。全てがある。全てが無い。そこには何の可能性も無い。「そう、そうなんだよ! 結局僕は、無闇に大きな壁を、一枚、作ったに過ぎない……」
「君は、本当に、十分に十分に良くやっていると思う」
リリウムはヴォイニッチに釣られて泣きそうな声を出した。論理的な判断では無い。リリウムは感情に従って彼女の体に寄り添った。ペパーミントの香りを吸って心を落ちつけると、ヴォイニッチは首筋を赤くして「そんなに、自分から不死の香りを求めるなんて、はしたないよ……?」と消え入りそうな声でなだめた。「リリウムと僕は愛し合っていたけど、君とは触れあったこともないんだから」
「だけどこうして関係を持った。私は君を愛している。調停防疫局のエージェントとしても、私個人としても、君を愛している」リリウムは身を離し、少し背の高い彼女を、まっすぐに見据えた。「君は解放軍とFRFが無目的に殺し合うのを、いや、解放軍がFRFを壊滅させてしまうのを止めるために、我が身を捧げた。その献身は言いようがなく尊いものだ。君は、無辜の命を守るために奇跡を成した。何の対価も求めず我が身を捨てた。それが救世主でないなら、他に救世主などありはしないと私は推測する」
「……ごめんね、ありがとう」
ヴォイニッチは表情の薄い美貌を茹だらせた。恥ずかしそうに三つ編みを触り、リリウムの手を緩く握りながら、また涙ぐんだ。
「信徒たちやリリウムは、いつでもそう言ってくれるんだけどね、今の僕は、他の人とはまともに話も出来ないから、いつも、いつもいつも、いつもいつも……僕自身を疑うタスクが走りっぱなしで……君にそう言ってもらえて、僕は嬉しいよ」
皮肉なことを言うようだけどね、とヴォイニッチは諦めたような笑みを浮かべた。
皮肉ばかりの人生だったけれども、と。
「僕はこうなって以来……少しだけハリストスを信じるようになったんだ……」
「え?」リリウムは戸惑った。「どういう……?」
「君の愛に免じて、こうして触れてくれたことに感謝して、僕が君の思考から都度に消している本題に移ってあげるよ。……君たちは、僕の中を通過して、FRFと接触したいんだよね」
リリウムは卒然として、ここに至るまでの道程をはっきりと思い出した。それを目的として再認識し、しかし首を傾げる。
「そう言えばそうなのだった。だけど、ハリストスとこの件に、何の関係が?」
ヴォイニッチに寄り添い、震えている彼女の背中を手で撫でながら、理解しがたい言葉に眉根を寄せてしまう。
ハリストスは正教会におけるイエス・キリストの呼び名だ。正教会を参考にして造られたカルト集団であるスヴィトスラーフ聖歌隊においても、ハリストスは常にキリストを指す。
そうした組織の幹部が「今になってようやくキリストを信じるようになった」などと告解するのは、違和感のあることだ。
「……大主教なのに、ハリストスを信じていないのだな? いないの?」
リリウムの肉体の記憶に従い、殆ど口づけをするような位置から問いかける。
「自分たちが崇める存在を信じられないのは、どうして?」
互いに顔の造形が好みであることは理解しており、精神的な距離も、親しく結ばれつつあった。
そのせいで二人ともそうしているうちにすっかり上気してしまっていた。肉体の行動履歴と聖歌隊の流儀に従い、何とはなしに軽く唇を重ねる。
優しく、静かに、傷口でも舐めあうかのように。
ヴォイニッチは少しだけ気分が落ち着いた様子だったが、気まずくなったのか、すす、とリリウムから距離を離した。
「調子に乗りすぎたよ。欲望に従って余計な演算をさせた。ごめんね」
「こちらこそおそまつでした」リリウムも目を泳がせた。「リリウムと君の関係だ、おかしいことはないのだろうけど」
「ううん、君に不用意な真似をさせるのは、本心じゃないんだ。気をつけていたんだけど、どこかの数値を間違えた。慰めてもらうときはいつもリリウムに口づけをせがんでいたから、その履歴に君が引っ張られたのかも。一時の愛欲で君を惑わすつもりは……」
「私は自分の意志で君に愛して欲しているのだな。いるの」リリウムはヴォイニッチはじっと見つめた。「誰かのせいじゃなく、好きな人が泣いているなら、慰めてあげたい。これは当然のこと」
「……君はリリウムと同じぐらい優しいね。肉欲を掌握するリリウムの肉体を使っているから、そういう思考形態になるのかな」
「これはミラーズの教えてくれたことなのだな。なの。悲しむ人がいたなら、優しく接吻して、涙を拭ってあげなさいと……」そしてふと思い出す。「ああ、でも、ミラーズ……元聖歌隊のキジールも、別に聖父や神様を信じていたわけではないと言っていた、さては、大主教でも神様を信じていないのが普通なのだな? なの?」
「キジール? マザー・キジールが、そう言っていたの?」
ヴォイニッチの蒼い瞳にさらなる動揺の色が混じった。
「あ、あの人は淫蕩と退廃とを礼賛していたけど、ベッドの上でさえ十字架を手放さないぐらいに信仰心があったし……その敬虔な姿勢と退廃的な振る舞いが人気で、かつては大主教ですらあった! 初代リリウムだよ。私生活でも心からスヴィトスラーフ父様を愛しているように感じられたよ。なのに、そんな、信じるべきものを、信じていなかったなんて……」
「つまり、大主教は皆そうだということなのでは……?」
「違うよ! いや、どうなんだろうね、僕なんかは、<清廉なる導き手>と母様の一派以外とは、仲が悪かったんだよ。だってほら、僕の姿勢って、神様とかを全く尊重してないでしょ」
「尊重していないというか『僕が神だよ』って言いそうな雰囲気があるし、神を信じている人にすごく怒られそう」リリウムは真顔で言った。「君のことは好き。だから忠告すると、だけど、そこは反省した方が良いと思うのだな」
「よく知ってるね。やぁ君、僕が神様だよ……なんてね?」ヴォイニッチは冗談めかしてはにかんだ。「うん、まぁ……そういうわけだから、他の事情はあまり詳しくないんだ。どうなんだろうね、他人の心を自由に操れると、そういう考え方になるのかもしれないね。キジールは愛欲を操って人を従わせることについては、ギリシャ神話の神々をも超越していただろうから、当然、愛や信頼についても、僕たちとは違う線引きを持っていただろう」
ヴォイニッチは考え込む素振りを見せたが、すぐに両手を挙げておどけてみせた。三つ編みから除く白い首筋が滑らかであることに気付いたリリウムは、己の胸が騒ぐのを感じた。
「だけど、うん、僕がハリストスを信じていなかったのは、たぶん彼女たちとは別の理由さ。単純に、彼が起こしたとされる奇跡が、大したことがないからだよ」
「大したことがないとは?」
「だってね、君。見てご覧よ」
三つ編みの聖少女は、どこからともなく短剣を取り出して、喉を引き裂いた。
リリウムがぎょっとする間もなく、傷口は再生を終えて、跡形もなく消えてしまう。
傷口から噴き出した血は空中に静止する。
ヴォイニッチが手の中で短剣を回すと、短剣はたちまち黄金の杯へと造り替えられた。
黒い三つ編みの先端を得意げに揺らしながら、ヴォイニッチは黄金の杯で宙に浮かぶ血液を残らず捕まえ、リリウムの鼻先に掲げた。リリウムは途中からやはり猫の尻尾のようだと思いながらヴォイニッチの三つ編みの方を見ていたので、すぐには異変に気付かなかった。
血液が、仄かに果実の香りを漂わせ始める。
葡萄の匂いに似ていた。
「勧誘のために何回やったか覚えてないんだよね。これぐらいは昔から出来た。準備さえ出来ているならば、僕は聖書に描写されたような奇跡のうち、こまごまとしたものは、一通り再現出来る存在だったのさ。ずっと前からね」
これまでの奇跡とは質が違った。
言うならば信仰されてきた奇跡の、悪質な模倣だ。
少女は、キジールやリリウムが表面上は篤い信仰心の持ち主だったことを思い、嫌な汗が出るのを覚えた。
演算された彼女に、特定の信仰の対象は無い。それでも、いもしない存在のために歌う少女達を美しいと思うし、心を一つにしてありもしないものに祈りを捧げる兵士たちの姿は尊いと思う。彼らが彼らの信じる通りにありますように、と願いたくなる。
ヴォイニッチの行いは、彼らへの冷笑にも等しい。今回彼女があげつらったのが例えば聖なる白い猫の教えを説くロングキャットグッドナイトであったならば、リリウムとて怒りを示していたことだろう。
ヴォイニッチがそうした考えを持つ自体は否定されるべきではないにせよ、こういった行いを軽々にしていると、ある方面での評価は底なしに落ちていくだろう。彼女自身を信じるというものが少なかったらしいのも道理である。扱える奇跡があればこその態度だが、そのあまりにも安い奇跡が危険な言動を招いている。
親愛ゆえに、リリウムは素直に唇の先に言葉を紡いだ。
「すごいけどそういうことを当たり前のように繰り返してると敬虔な人に殺されそう、節操と配慮がないのでは?」
白銀の少女は真顔でそう言った。リリウムやミラーズとの濃密な接触で身につけた、彼女なりの常識的思考の結果であり、レアから学習したきっぱりと切って捨てる態度の応用であった。
それに、他者の信仰や主義信条に口出しするのは、どうしようもなく喧嘩の元で、いつだってロングキャットグッドナイトに怒られる案件だ。きっと聖歌隊でもヴォイニッチと親しかった者は皆厳しく良い含めていたに違いない。そこに新たな一人を加えるべきとリリウムは考えた。
「ご明察だね。死んだら死ぬ体だったら二桁ぐらい殺されてるよ、僕というやつはさ。何されても死なないし、死ねないんだけど。誘拐されて乱暴されてバラバラにされてガソリンかけられて焼かれたときは死ぬかと思ったね。信仰ってそういう酷いことをする言い訳なはならないと思わない?」
「その痛みの記憶を聞いて私はとても悲しい」再び慰めのキスをしそうになって、思いとどまる。これ以上深く関わるとリリウムの肉体のスイッチが入ってしまう気がした。「だけど、信じてる神様の雑な物真似をされる人たちもかわいそう。やはり反省した方がいいと思う」
「今では反省してるよ。毎日してる。だから僕より反省の深い存在は他にいないだろうね」リリウムの不服そうな顔を、ヴォイニッチは薄い笑みで撫でる。「僕はハリストスが実在したことは疑っていないんだよ? 現代に伝わるような正統な教義を……ええっと、非スヴィトスラーフ聖歌隊的な、真っ当な教義を掲げていたのも、本当かもしれないと思っている。だけど、それだけだ。僕たち大主教のような存在が二千年ほど前にいた、それだけの話だよ」
「む。そこは調停防疫局のエージェントだから聞き流せない。スチーム・ヘッドが実戦投入されたのは、どんなに早くても米ロ冷戦時代。大主教のようなスチーム・ヘッドが二千年も前に存在するはずがない」
「不死でなくても、真なる聖句使いは生身のままで十分強力だ。そんな史観を持ち込んでも意味は無いよ。人類史は五万年以上もある。言語だって同じぐらい歴史が長い。人間と呼べるものを五万年分も並べてみたまえよ、非言語の時代の痕跡器官である『原初の聖句』を扱える人間なんて、いつの時代でも、いくらでもいたはずさ。強力な聖句遣いなら特別な存在として君臨して、世界を動かしていたことだろう」
ジャンヌ・ダルクなんて、いかにも聖句使いっぽい気がしないかい、とヴォイニッチは臆面もなく言って見せる。彼女は神の言葉を聞き、神の意志によると信じさせて民衆を率いた。
あたかも聖歌隊の大主教のように。
「歴史上の偉人の何割かは、聖句の使い手だったんだろうね。荒唐無稽だけど、聖句を扱える人間が人類史の終わりの数百年にのみ誕生した、と考えるよりは、よほど自然だ。なら、二千年前に、大主教レベルの強力な聖句使いが偶然一人誕生していた、というのも有り得ない話ではないよね」
ふむむ、と愛らしく喉を鳴らし、リリウムは細い両腕を胸で組み、考え込んだ。
そこにヴォイニッチが抱きついて「初心な反応をするリリウムの体は可愛いね。リリウムの体を使っている君も可愛い。君と愛し合えるリリウムがうらやましくなってきたよ」などと囁いて、撫でてきて、大変心地が良かったが、出来るだけ平静を保つ。
調停防疫局は、『原初の聖句』について古い時代から承知していたはずだ。
あるいは不死病と同様に有史以来実体を掌握し、発生と拡散をコントロールしていたのかもしれない。
だがアルファⅡモナルキアから切断されている現在の彼女には、詳細なデータは存在していなかった。
「ねぇ君……リーンズィにも分かりやすいように言っておくと、ハリストスもまた原初の聖句を識り、また聖句によって奇跡を起こす者だったと、するのが聖歌隊での定説なんだ。僕は教義だとか何だとかは、本当にどうでもいいんだけど、この考えだけは支持してる」ヴォイニッチはリリウムの首筋に唇を当て、彼女が耳を赤くして震えて反応するのを楽しむ。「だって、出来損ないの僕にすら聖書に現れる彼と同じようなことが出来るんだもの、僕より前に同じ存在がいなかったと考える方が不自然だよね」
リリウムから体を離し、切なげに息を吐く。
「だからね、僕と同じぐらいのレベルなら、そんなのは救世主には値しないだろう。かつてはそう考えていたんだ」
「どうして?」リリウムはキスされた場所を恥ずかしそうにさすった。「君は実際にとてもすごいレーゲントだと思う。リリウムたち七人の大主教と一緒になって世界を不死病で覆ったのも嘘ではないと信じられる。なのに、どうして自分は値しないと?」
「……見ての通り、所詮は人間が死ななくなっただけの場所さ。そこには何の革新も無い」ヴォイニッチは物憂げに三つ編みを触った。髪が解ける度にペパーミントの甘い香りがした。「小さな頃は愚かでね、誰しもが幸せな気持ちで健康に眠れる世界が実現出来るのなら、それはハリストスの御業をも超えた、真実の奇跡の実現だと思っていた。実際に完成してみると、まったく、つまらないものさ。あのまま滅んでしまうよりは良かっただろうけれど、他に正解がなかったのかと言われると、僕は答えに窮してしまう……」
「待ってほしい。君は勘違いしているようだ」リリウムは真顔で言った。「君たちの組織としての『破壊力』が極めて高いから、絶対値で評価した場合救世主に匹敵するほどにすごいのではないかと言っているだけで、善悪は論じていないのだが。いないのだけど。あと不死病を無差別に感染させて回った点に関してはごく当たり前に非人道的だし倫理的に間違っている。君たちは人類史をそんな形で終わらせるべきでは無かった。言い逃れの余地のない大罪人であり司法機能が正常であるならば間違いなく裁かれていた存在である。倍旧の反省をすべきでは?」
リリウムの口ぶりは相変わらず、特段責めるような音を含まなかった。紡がれる音も柔らかなものだ。
だがリリウムは確固たる意志でスヴィトスラーフ聖歌隊の在り方を非難していた。
ヴォイニッチは一瞬硬直した。
どう自分を加筆したものか、分からなくなったのだろう。
ただ、とにかく気まずそうにしていた。
「また、リリウムの顔と口で、そんなぞくぞくするような言葉を……僕の特殊性癖をどこから割り出したの?」
「急に性癖を告白されても……」リリウムは怯んだ。「変な刺激を与えたなら、ごめんなさい」
「いや、ごめんね、忘れて」潤んだ瞳は、取り繕うように視線を逸らした。「うーん、なるほどね、調停防疫局ってそういうスタンスなんだね」再び目が合ったときには、欲動はそこから消え去っている。レーゲントらしい切替の速さだった。「ええと、WHOの外局なんだよね? どうかな、不死病って憲章の『人種、宗教、政治信条や経済的・社会的条件によって差別されることなく、最高水準の健康に恵まれること』に合致するから、拡散には肯定的なのかと思っていたよ」
「発症するには、一度死ななければならない。健康になるために一度死ぬ必要があり、しかも発症後は人格が機能停止するような病気を積極的に広めるのは、言うまでもなく非道な行いだ。甘言や奸佞で人々を扇動して無差別に不死病患者を増やすことは、絶対に肯定してはいけない。そんなことをしたら世界は滅んでしまう」
「うん、なんていうか、滅ぼしたね、実際。謝罪するよ……」
「私に謝る必要は無い。裁判は、適切なとき、適切な人員が、いつか行うだろう。神様というのも、自由意志を冒してまで、そんなことをせよとは言わないと思う。何故なら神様的にはコンプライアンス違反になるので。人間が守る取り決めは、神様も守る。論理的だ」
「うーん、老若男女を誘惑して押し倒したり倒されたりして自分の血と体液で不死の信徒を作ってた君に言われるとかなり反応に困るね……」
「私は普段のリリウムではなく、リーンズィの人格をエミュレートしているリリウムなので、困られてもそれは不当なクレームなのだな。機能制限をされても、私はあくまでも調停防疫局のエージェントだ。君たちに自由を奪われた全ての人民に対して、反省するよう提言する」
リリウムは体格の割りには豊かな胸を張ってふんすと鼻を鳴らした。
「だいたい、やり方が間違いだらけだと思う。他の大主教がどんなだか知らないけれど、万民を扇動するリリウムに、万物を創造するヴォイニッチ。君たちほどの力があるなら、間違いなく他のアプローチがあったはずなのだ。君たちはそれをしなかった。罪深いにも程があり、とても反省してください」
「……そ、そう、だね……そうだよね」ヴォイニッチは何度も繰り返し頷いた。どこか気の抜けたようなリリウムの説教を、誠心誠意受け止めているようだった。「……だけど、当時はあれが最善だと思っていた。他に手段があったとしても、僕たちには考えつかなかったよ。そしてこれは、ハリストスに関しても、同じことが言えると、僕は想像する」
「ハリストスではなく、今は君たちの罪の話を……」
「これは君が第百番攻略拠点を通過するためにも大切な話だよ。そうだ、資料を見せてあげようか」
ヴォイニッチは聖詠行進服の裾を翻し、背伸びをして本棚の上の段を漁り始めた。
写生じみた落ち着き払った外観とは裏腹に、スカートに相当する部位の丈が、レーゲントの衣服らしく、際どく短い。最初からこんな造形だっただろうかという思いはあったが、白い肌が艶めかしい。すぐに気にならなくなった。
そしてハッとした。
「話を逸らすつもりなのだな……!」
リリウムはそう直観していた。リーンズィの人格が色欲に弱く、リリウムの肉体もまた自分の欲望への刺激に弱いだろうと考えての小細工だ、と素早く見抜いた。リリウムはぐんぐん成長しているのだ。
そしてヴォイニッチの目論み通り、リリウムは彼女を凝視した。下着らしきものが見えた。クロッチの刺繍が可愛かった。「ちなみにその股布は僕の聖詠服に直接取り付けてあるから、下着とかではないよ」とからかい気味に解説されても、やはりそうした部位に視線と意識を吸われてしまう。
「ひ、卑怯な……!」
顔を背けて見ないふりをするのが精一杯で、抗い難い。先ほどまでの思考を復旧させられない。現在のリリウムが身も心も欲望に忠実であることを利用した姑息なハッキングだ。
ヴォイニッチの顔かたちがレアに似ているというのも魅了に一役買っていた。この場面をレアせんぱいに見られたら怒って泣いてすごく大変なことになってしまうとリリウムはにわかに恐怖したが、肉体は衝動に従い続けた。
そうしているうちに、ヴォイニッチは本棚から二冊の本を抜き出してきた。
必要なら一瞬で手元に出現させることが可能であろうから、半分以上はリリウムの気を散らして話を変えるための色仕掛けだろう。いかにもレーゲントらしく、リリウムの恋人だったという自称にも違わぬ思考の誘導のやり方だった。
リリウムはじっとりとした目で不服を訴えたが、軽くキスをされて、許してしまった。
一冊は聖書だった。
もう一冊の表題は、リリウムには正確に認識出来ない。
何かの福音書であるように見えたが、何の福音書であるかまでは、推論が及ばない。
「……ハリストスは、最後はゴルゴダの丘で磔刑に処された。処刑されたにせよ、歴史に二千年以上も名前を残したんだ、きっと僕を超える智慧を持っていた。死後復活したというのも現実なんだろうね」
というか、僕自身もう死なない体だから、そんなものかなって思うよ、とヴォイニッチは肩を竦める。
「彼の思想的後継者たちが聖典の中で唱える通り、彼には、全世界の過去と未来がいっぺんに見透せたのかもしれない。だけど結局は彼も完全ではなかった。あれだけの奇跡を起こして見せたのに、二千年の間、人類は飛び抜けた進歩を示さなかったし。不死病こそが彼の恩寵に依るものだというのが聖歌隊での教えだけど……僕は懐疑的だね。使いようは色々あるけど、ただの迷惑な病気でしょ、あんなのは」
「不死病がただの迷惑な病気だというのは同意なのだけど、あまりにも身も蓋もないのだな……」
ヴォイニッチは窓の外を見た。
リリウムもまた、見た。
変容を続ける窓に映る変容を続ける都市の風景。
渦巻く雲の狭間から落ちて氷細工のように砕けていく未完成の建造物。
得体の知れぬ異界を引き連れて徘徊する不滅の怪物。
重々せぬ夢の中に生きる偽りの魂の群れ。
どこからか聖歌が、神の声が、神を讃える少女達の声が、進んでは戻り、戻っては飛び、途切れ、千切れ、混合し、攪拌され、出鱈目に再配置された世界のそこかしこに鳴り響いている。
「僕に起こせる奇跡は、ハリストスに起こせた奇跡だ。では僕の成果物は、彼に匹敵するのか? そんなはずはない。この都市を見てごらん。こんなのを神の御国だの救済だのと言ってしまうのは、それこそ間違いだろう。つまりハリストスの奇跡による成果物、は僕とは全く異なると予想される。僕たちに認識出来ない何かを彼は作り上げた。……そこがまた僕としては不完全に思えてしまうところなんだけど。本当に神の子だというのならもっと鮮やかな実績を残して欲しかったよ」
「……過去に生きた人々の行いを現代の価値観で再評価するのは無意味なのだな。今観測出来ないからといって、過去に無かったとは言えないし、観測不能なものを直ちに無価値だと論じるのも適切ではない。それに、人々の信仰の対象を、あまり悪く言うのは、良くないと思う」
「アムネジアも怒るだろうからね。気をつけてはいるつもりなんだよ、これでも。常日頃思っていることは隠せないものさ。あくまでも僕の捉え方にすぎないという点には留意してほしい。ああ、改めて強調しておくよ、今の僕は過去の僕ほどハリストスを軽く見てない。大したことが無いなりに、彼は間違いなくあの時代のメサイアだった。僕と同程度の力しか無くても、力以外の点では、きっと僕を凌駕していたに違いない。信じてはいないけど、偉大な存在だったんだろうとは思うよ」
ヴォイニッチは聖書を机に置き、もう一冊をリリウムの胸に預けた。
「そして僕が語るのは、彼と同じぐらい有名な、もう一人にも関わってくることだ」
「この本は? タイトルが読めない」
「裏切り者として抹消された者の、異端の福音書。それを僕が独自に編纂したものだよ」
「そのように認識出来ないけど……」
「それが見つかったとき何回か殺されたし、父様からも百日ぐらい折檻されたから、反省して、僕の頭の中にだけしまってある。だから、明確なビジュアルが無いんだよね」ヴォイニッチははにかんだ。はにかむようなことではなかった。「さて、改めて問いかけよう。ねぇ君……本当に、第百番攻略拠点を通過して、FRFの領域に飛び込みたいと思うの? 大勢の人が罪の有無を問わず死ぬだろうね。君の愛する人々も、まるきり無事というわけには行かない。それでも、全部を背負い込んだ上で、まだ先に進みたいのかな?」
「肯定する。私は、そのためにここまでやってきた」
「では、この僕、<徹宵の詠い手>たるヴォイニッチが告げよう。君……僕の愛するリーンズィよ。大主教リリウムの花嫁にして、軍神ウンドワートの伴侶たる娘よ。見も知らぬ人々を愛し、世界の安寧と秩序を願うものよ」
黒い髪をした天上の麗人。偽りの希望と捻れた倫理で世界を終わらせた七人の少女の一人。
神に愛される者に相応しい完成された美貌が、神の言葉を代弁するかの如く、厳かに声を発する。
「この第百番攻略拠点の過去と未来を見透す僕が、ハリストスではないこの僕が、心からの愛と敬意、そして友情で以て、神ならざるものとして、君に警告する」
絶対支配の権能が無くとも、永遠に不滅なる確立された『奇跡』である彼女の言葉には、魂にすら染み入るような光輝が満ちている。
大主教セラフィニア・ヴォイニッチは、慈しむように、眼前の娘へと言葉を届けた。
「リーンズィ。君は、君がしようとしていることを、今すぐやめなさい」




