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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション4 殺戮の地平線  世界生命終局管制機 アルファⅣ<ペイルライダー>
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セクション3 第百番攻略拠点接収作戦 その5 完全架構代替世界『セラフィニア・ヴォイニッチ』(2-2)

「ここは……」


 森の只中で、少女はきょとんとして周囲を見渡した。


「クヌーズオーエではない。ここはどこ……? 私は……私は……私は……確か、リーンズィ……私は、リーンズィ。お母さんが……えっと……ミラーズがつけてくれた名前……そう。私はリーンズィ。えっと……あとは、何だっただろう……」


 少女は、名をリーンズィといった。

 しかし、それ以外のことは、すっかり忘れ去ってしまっていた。実際、その代替世界において少女はそれ以上の何かではなかった。


「ここはどこだろうっ!」


 初めて来る土地、初めて味わう空気が、嬉しくてたまらなかった。

 少女は夢見心地で見知らぬ森の土を、恋人の描いてくれたデザイン画の上にしか存在しない編み上げのブーツで踏み、目を輝かせながら踊り遊んだ。夢のような夢の光景。少女の存在しない肋骨の奥で存在しない心臓が快の感情に弾む。

 名も無き少女、どこにもいないリーンズィは、存在しない肺で深呼吸をする。仄かに香り立つ草いきれ。こんなに豊かな森林をリーンズィは見たことがない。見上げても見越せぬ樹木が鬱蒼と生い茂るせいで日差しは柔いが、レアの好みを参照して想像の中で編んだエプロンドレスの内側では、麗らかな陽気に乙女の柔肌がうっすらと汗ばんでいる。心地の良い汗だった。

 リーンズィはそれから、あれは何だろう、これは何だろうと、あちこちを興味津々で探って回った。かつて万能の統合支援AIが教示してくれた木々の名前が、今はもう分からない。針葉樹や広葉樹といった区別はつくのだが、彼女単体では植生の分析などままならなかった。意地悪な双子の姉のようなユイシスがいなければ、リーンズィはただ無邪気で好奇心で一杯なだけの女の子だった。

 リーンズィは小さく愛らしい木の実を拾い上げて、手の中で転がして、口に含む。恐る恐る噛んでみると、つんとした酸味に続けて、じわりと甘みが滲み出た。どこか苺味のジャムに似ていて、もしかしてこれは苺の仲間なのだろうか、と感嘆する。

 草木の茂る名も無き森で、少女は春の陽気というものを初めて知る。

 何もかもが優しい陽光に縁取られていて、仄かに輝いて見える。

 悲しいことも苦しいことも存在しないように思えた。少女が心の底で探し求めていた楽園かもしれなかった。恋人のレア、ミラーズ、リリウム、あるいは他の沢山の人々を連れて行きたい、素晴らし世界。だが、レアのことも、ミラーズのことも、リリウムのことも、リーンズィには、どうにもはっきりと像を結べないでいる。彼女らの甘い不死の香りだけが、じわりと胸を疼かせた。

 リーンズィはそんな朦朧とした意識のまま散策を続けた。自分がここで何をしに来たのか、未だに思い出せないでいた。ブーツがごつごつとした石を蹴飛ばす。花を摘んで耳に飾る。舗装されていないふわふわの土の地面で跳ねる。その感触を堪能し、見たことの無い花片が彩る草叢を眺め、そこにふわふわの生きた兎などが顔を出すと、惚けた声を出して腰を下ろし、まじまじと観察した。

 すると「なーん」と鳴き声がして、草叢から不可思議な特徴を持つ一つ目の灰色の猫が顔を出した。


「あっ……猫さん」


「あっ、猫さん、じゃないよ。迎えに来たよ。めざめなさい」


「はっ……私は……えっと、私はリーンズィ。エージェントで……目標……なんだっけ。そう、鍵を探しているのだった。危なかった……また忘れるところだった」


「君は本当にアルファⅡモナルキアから切り離されてしまうと脆弱だね」


「強い方が良いのだろうか? 良いの?」


「うーん。どうなんだろうね。難しい問いかけは分からないよ、私は猫になっちゃったから」


 ともあれ、鍵が何かまではリーンズィには分からないが、主目的の記憶は蘇った。

 リーンズィはヘルメットに猫を入れようとしたが、ヘルメットはなかった。

 彼女はアルファⅡモナルキアではなかった。

 兵士でもエージェントでもないこの少女は、ヘルメットなど持たない。

 このリーンズィは、アルファⅡモナルキアではない。


 体が二重になったかのような違和感。少しあたふたしてから、リーンズィはゆっくりと深呼吸して、よいしょと力を込めて、小さな両手で灰色の猫を持ち上げ、胸に抱いた。

 猫が何だか一回り大きくなったように思えて、ロングキャットグッドナイトの真似をしながら運んだ。頭の上に載せたり、お姫様のように抱いたりした。どの姿勢も猫にとって快適ではないようだったが、「私の方がお姉さんだからね」と言って我慢してくれた。

 リーンズィは道を求めて歩いた。整備の十分でない森林地帯は猫を抱えて歩くのに不適切で、踏み外す度にどこか痛むのか、ストレンジャーは抗議するような声を出した。


「任務を忘れてはダメだよ!」


 しかし、浮かれるのも無理からぬ話だ。

 リーンズィは、春を知らない少女だった。

 カタストロフ・シフトなどの特殊機能で、冬ではないクヌーズオーエに出かけたことはあったが、ぽかぽかとした日差しの降り注ぐ胸の躍るような平和な春は、知ったことがなかった。

 ふらりふらりと揺らめいて、少女の唇から長く息が漏れる。


「眠たくなってきた……これが睡魔……」


「なーん」猫が鳴いた。「ピクニックじゃないよ、眠ってはいけないよ」


「うずうずする。眠れない遊びたい。猫。こんな素敵な森で猫と遊ぶ。名案では? あれは月桂樹! 月桂樹の冠を載せて、かんむりねこ……」


「なーん」猫が鳴いた。「任務に集中して。あと、かんむりは、いらないよ。私はもう偉くないよ、そういうのは、もうすっかり、嫌になってしまってね」


「……?」少女は首を傾げた。「そう言えば、どうしてか、猫さんが普通にお喋りをしているような気がする……」


「猫はいつでもお喋りをしているものだけど、お喋りしている気がするのは、全部君の気のせいだよ」


「なるほど、気のせいなのだな、気のせいなのね」リーンズィは納得した。


「そんなことより捜し物を済ませないと、君はいつまでも帰れない。」


 朗らかで清涼な空気に、せせらぎの音が混じる。

 それに釣られて歩いていると、渓流沿いの道に出た。

 路傍で見かけたズタ袋のスチーム・ヘッドがそこにいた。

 そうだと理解したのは、少女の肉体が一瞬だけ怯むような動作を示したためだ。

 スチーム・ヘッドはどうやら、どこかへ向かう最中らしく、肩には猟銃をかけていて、小さな影と手を繋いでいる。

 ズタ袋ではない。繋いだ手の先にいるのは、まだ幼い少年だった。

 春の嵐を警戒してか、渓流沿いでの活動を想定しているのか、レインコートと厚手の運動着を着込んでおり、彼も小口径の猟銃を持っていた。


「おっと、お嬢ちゃん。何だ。ここじゃ見たことないな……どこから来た? 外だろ?」


 穏やかで余裕のある声だったが、間違いなく、あのけたたましく笑っていた不滅者だった。


「ここに来る用事はたぶんないと思うな。出たいなら、俺が出してやれるが、お嬢ちゃんはどうしたくてここにいる?」


「私はリーンズィ。えっと……アルファ……アルファⅡモナルキアの代表。ヴォイニッチと合う方法を探している……と思う」リーンズィは背伸びをして、ぐぐっと猫を掲げた。「この子がここにヴォイニッチの鍵があると言っているのだが、何か知っているか? いませんか?」


「ふうん。ヴォイニッチの客か。レーゲント……にしては見た目や喋り方がスれてないな。詮索するのはよくないな。なんだ、ようこそ、俺の代替世界へ。もてなしも何も出来ないが」


 戦闘用スチーム・ヘッドは、ふと気がついて、少年を抱き寄せた。

 少年は不安げな顔で父を見上げそれから、少女に視線を向け、また恥ずかしそうに視線を下げた。


「どうした。恥ずかしいのか? んん?」


「その、すごく綺麗だし……」少年は少女を見た。また視線を下げた。「ちょっとドキドキしちゃって」


「ありがとう」


 リーンズィが素直に微笑むと、少年はますます恥じらった。


「ねぇ、この子、だれ? パパの知り合い?」


「惚れちまったか? ん? 無理もない。確かに妖精みたいに綺麗な子だ。まぁ……リーンズィだったか? そっちが俺や、俺の息子を殺しに来たってワケじゃ無いのは、とりあえず分かるさ」


「その少年は、君の息子なのだな?」


「あんまり似てないけどな。ヘルメット被った状態で似てるもクソもないし、俺の肉体はそもそもオリジナルとは別人だが、最初から似てなかった。それにしてもヴォイニッチかぁ。俺に何か言わせたいんだろうがよく分からんな……。事前に連絡くれりゃいいのに、あいつ報連相の概念がないんだよ……副官のアムネジアが健在ならなぁ……」


「ええと、何から聞けば良いのか。そう、ここはどこなのだ? どこなの? すごく素敵な場所!」


「気に入ってくれたか。もう外の世界には無い場所だ。なんていうのかな、馴染みの狩り場だよ。俺は昔、狩りをやるのが好きで、こうして……」兵士はゴツゴツとした甲冑の手で少年の頭を撫でた。「ときどき息子を連れて狩りに出かけた。でも俺の息子は、俺と違って狩りが、狩りというか、生き物を殺すのが好きじゃなかったんだな。兎一匹撃てやしないんだ。撃てと言っても、撃たないか、わざと狙いを外して撃つ」


 少年は不服そうだった。「だって、生き物を殺すのはよくないことだよ、パパ。銃も危なくて、怖いよ」


「そうだな」父は少年を撫でた。「お前が正しいよガリィ。殺すのは良くないことだ。銃も危なくて、怖いよな」


「そう。生き物を愛するのは、正しいことなのだ。正しいことなの、少年。少年はかしこい」


「少年、少年って……きみだって、ぼくとあんまり変わらない年でしょ」彼は赤くなって抗弁した。

 

「私は精神的お姉さんだし、実際、君よりもかなり背が……背が高くない」少女は目線が彼とほぼ同じであることに気づき、呆然とした。「おかしい。私はもっと背が高かった気がする。何だか小さくなっているような」


「なーん。君もここでは年齢相応のサイズだよ。ヴァローナじゃないんだから」


「年齢相応のサイズ……?」


「ふんだ。ほんとは僕より年下なんでしょ」


「む。私はきっと、ぜったい、たぶん、おそらく君よりもお姉さんなのだな。お姉さんは敬うべき。お姉さんを敬わない人に、ふわふわの猫は、太陽のぬくもりの恩寵を与えないだろう。すぐごめんなさいと言えば私の猫をモフモフしても良いが……」


「私は君の猫じゃないよ」猫が抗弁した。「私は私の猫だよ」

 

 少年は、少女を何度か見て、それから「ごめんなさい」と恥じらった様子で謝罪した。

 リーンズィはごまんぞくして、そっと彼の手を掴んだ。

 ビクリと震え、熱を帯びた彼の手にストレンジャーを差し向けて、そのまま少年に抱かせた。

 猫は無関心そうだったが、嬉しそうな顔をして抱き上げる少年の腕の中で、ごまんぞくした。


「生き物が好きな子なのだな」


「そうだな。俺に似なかった」


「私も生き物が好きな子が好きだ」


「お、じゃあ俺の息子の嫁さんになってくれるか?」


「それは出来ない。私はもうお嫁さんだし、お嫁さんをもらっている」


「えっ、ぼくと同じぐらい年で、もう結婚してるんだ!?」


「ふふふ。だって、私は大人なので」リーンズィは背伸びをした。

 それからどこか傷心した顔の少年から猫を返して貰った。

 スチーム・ヘッドは二人を微笑ましそうに眺めていたが、どうにも言葉を紡ぎあぐねていた。


「うーん……世間話ぐらいしか浮かんでこないなぁ。プライベートな世界に客を寄越されても困るんだが。リーンズィとやら、ヴォイニッチが、俺に何の話をさせたいか分かるか?」


「私に聞かれても」少女は困ってしまった。「そうだな、そう。そう……。思いついたこと。君は、どうしてこんな素敵な世界を?」


「あー、ここか、ここはな、さっきも言ったとおり俺のお気に入りの狩り場だったんだが、もっとマクロな視点で言えば、俺の過去の再現なんだな。俺が一番満ち足りていた時期の、その臨界点ってところだ。当時の俺は軍を退役した直後だった。で、次の仕事も見つけていた。仕事が始まるまでの短い時間をこの辺にある別荘で気ままに過ごしてたんだな。よその国では新興宗教勢力が軍事クーデターを起こして大量虐殺をやっていたし、東アジア経済共同体はロシア衛生帝国と冷戦状態にあったが……俺は平和な時代だと思い込んでいた。この日まではな。今日、この日、全てが変わった。俺の運命が、俺のせいで変わった。俺はその運命を変えることが出来たのかを検証するために、ヴォイニッチにこの世界を望んだのさ。……素敵なのは上辺だけ、待っているのはただの破滅だ」


「ということは、彼女の信徒として不滅者になったのではないのか?」


「信徒かどうか、だったな。残念ながら俺は神を信じてないんだよ。信じてない神を奉じる大主教の信徒にはなれないだろ?」


「それは、そうなのだな。そうなのね」少女はこくこくと頷いた。ミラーズ譲りの金色の髪が視界の端で踊っていて、これは何なのだろう、と数秒考えたが、しかしすぐに自分の髪だと言うことが分かった。


「あいつの純粋な信徒ってどの程度いるのか分からんのだよな。あいつ、宗教家のフリした科学者だからな……。配下もそっち寄りっていうか、聖ハリストスだの何だのよりも、あいつの奇跡科学みたいなやつの信奉者のほうが、ずっと多い感じがしたな。だがまぁ、俺は()()()()()()()()()。神を含めてこの世界を実現させてくれたあいつの技術は、確実に信じているな」


 少女には、この戦闘用スチーム・ヘッドが何を言っているのか、今ひとつ理解出来ない。

 しかし、この代替世界がまさしく不滅者らしい世界であると、そう察することは出来た。

 ここではないどこか、決して到達しない目標、終わってしまって取り戻せない過去を追い続けるのが、彼らの特質だ。


 それにしても、一つの代替世界を創造したにしては、この森はあまりにも穏やかすぎた。

 フィッシャーの世界では毎秒のペースで死体が積み上がり、海が血で濁り、煙幕と硝煙が浜辺の大気を汚していた。あの激烈な熱量と比べればこの森は快適なだけで些か見劣りがする。代替世界なのだから、それ自体が凄まじい情報密度と途方もない奇跡の集積だと言えるにせよ、規模が小さすぎるし、異常が見当たらない。

 ここはどう見てもただのうらららかで素敵な森だった。


「ふむ」少女は首を傾げた。「それで、ここで君は何をするつもでいる? 何をしたいのですか? それを達成すると、私が鍵を手に入れるなど出来るのでは?」


「達成か……そうだな。俺はな――鹿を殺したくて、この世界を創ったんだ」


「鹿を……?」


「申し遅れたが、俺は名をディア・ハンターという。遭ったかどうかしらんが、そこそこいるハンターシリーズの一機だ」


 戦闘用スチーム・ヘッドは己の胸を叩いて礼をした。


「ここは俺の人生の致命的な一日を無限に延伸して繰り返す代替世界なんだ。この日、俺は息子と狩りをしている最中に……鹿と出遭った。バカでかい鹿だ。森の只中にそいつは現れた。身の丈は()()()()()()ほど。その辺の木よりずっと背が高い。脚がな、まず長いんだよ」


「三〇メートル」リーンズィはびっくりした。「三〇メートルというと、三〇メートル?」


「四〇メートルか五〇メートルかもしれないな」


「それって、鹿なのだろうか。鹿なの……?」


「俺は鹿だと思った」


 少女は鹿のこと思い浮かべたが、どうしたところで鹿はそんな外見をしていない。

 強いて言うなら、イメージした姿は動物図鑑で見たキリンに似ていた。

 ただし、キリンもそこまでの背丈ではない。


「ねぇパパ、鹿なんて放っておいて、この辺りをひとめぐりしたら、キャンプに帰ろうよ。この子も連れてご飯にしよう。ママのサンドイッチは、二人で食べるには多すぎるし」


「そうだな。そうしたいよ」


「キャンプ地があるのか?」


「……ここには再現してない。やろうと思えば出来るんだろうが……やる気になれない」


「息子さんは何となくお疲れのように見える。この世界に居る限りはごあんしんなのだろうが、それでも疲れているときはゆっくり休むべきだ」

 

 リーンズィはサンドイッチが食べたかった。ペーダソスのせいだ。


「いや、俺の息子は、疲れてるんじゃなくて、お嬢ちゃんに照れてるだけじゃないかな。でもな……だいたい三時間後、どこぞの軍隊が放った宙対地誘導弾がこの辺に降り注ぐんだ。そこいらが地盤ごと吹っ飛んで、挙げ句にダムが決壊したせいで起きる洪水に飲み込まれ、この森は地図から消える。それが分かっていてキャンプを再現するなんて、出来ると思うか?」


「何の話なの?」少年は不安げだ。「怖いことが起こるの?」


「気にしなくて良い。パパが一緒だ。何も起きやしないさ」


「えっ? ……な、何?」リーンズィは絶句した。「宙対地誘導弾? なんでそんなものがここに? そんなものを撃ったら、迎撃と報復のために世界各国から同じ兵器が……」


「ああ、そうなったよ。今日は()()()()()()()()()()()()()()()()()。大抵の弾頭は宇宙空間で爆発なり迎撃されるなりしたが、ここには普通に落ちてきた。本当の目標の一つだったからだ。もっと正確に言えば、地上の幾つかの地点を狙った同時多発的な攻撃が、高高度核戦争勃発の発端で、そして世界が不死病で滅びるところまで含めて、その作戦失敗の余波みたいなものなんだよ……。世界中みんな、訳が分からないうちに撃ち合いになった、というのは体裁を整えるための滑稽なカバーストーリーだ。全自動戦争装置ウラヌスが言うには、世界のどの国にも滅ぼしたい怪物がいて、世界中の全部の国が共謀して、同時に排除を試みたんだと。まぁ上手くいかなかったようだが。ここでも結局失敗した」


「ここを破壊するために誘導弾が……。しかし、いったい何を目標に?」


「あいつだよ。ほら、意識を向けたから身を起こしたぞ」


 リーンズィは、それを見た。

 地響きがした。


 それは、遠く離れた木々の間から緩慢な速度で立ち上がりつつあった。

 神錆びた霊峰の岩肌を思わせる外皮に包まれた四本の脚が葉を擦って散らす。胴体には皮も肉もなく剥き出しの臓器が腱と骨格で保持されて、濛々と湯気を上げている。峰の如き脊椎の先端が持ち上がった先に首らしき部位が存在したが骨質の素材で覆われたそれは灯台じみた造形をしており頭部と言うべき部位は見当たらずその首の至る所にある果てしのない裂け目から複数の瞳孔を持つ眼球が群れを成して外側を覗いている。その城塞の塔のように太い頸のうち、眼球の存在しない部位からは、捻れた樫の木あるいは狂える獣の乱杭歯のような途方もなく長い角が樹木のように無秩序に伸びて途中で折れ曲がり高く空を指していた。

 憩っていた鳥たちが首でも絞められかのたような耳障りな鳴き声を上げて飛び去ったがそのうちの何割かは戻ってきてその巨大な四足獣の上あるいは角の先で囀り始めた。おそらくその鳥たちはその巨影に親しんでいて、恐怖していない。

 確かに鹿に似てはいた。

 四本の脚に、空を突く巨大な角。

 既存の生物と比較して、最も近いシルエットを持つのは、間違いなく鹿だ。

 それでいて、何もかもが鹿では有り得ない。

 創世記の七日間で決して生み出されるはずのない、おぞましく破綻した駆動体。

 頸から生え並ぶ角の群れは、ほぼ地形と言って良い。

 それは冠として角の森を戴く異形の王だ。


「鹿? あれが、鹿……?」


 鹿に似たその生物の眼球の幾つかが、唖然とする少女を射貫いた。

 肌を刺すような感触に、少女は僅かに怯む。

 心臓の奥まで見られているし、間違いなく言葉を聞かれている。

 だが、取り立てて恐怖や嫌悪は湧いてこなかった。

 見た目の異様さ、禍々しさに反して、その巨大な怪物に、凶暴性を示す要素は見受けられない。

 明らかに知性があった。

 それが、呼ばれたから目を覚ましただけ、といった様子だった。

『鹿』はリーンズィたちの居る方角へ数歩進んできた。

 大地が揺れ、事情が解らないらしい少年が身を竦める。

 ディア・ハンターは彼を支え、リーンズィは猫を抱えて蹲った。

 そうしていると、鹿は再び身を伏せて、ゆっくりと、本当にゆっくりとしたどこか森の中に身を隠してしまった。何百年、何千年と繰り返してきた動作を、また実行したといった風だった。


「鹿だったろ?」


「ぜったい鹿じゃないと思う……」


「実は俺もそう思う。鹿と呼ぶのが不正確なら、森の神とでも言うしかないだろうな。実際、俺はあれを神だと思っている。神というものがあるなら、ああいう存在だろ。馬鹿げているほどデカくて、理解不能で、どうしようもなく、そこに在って在るんだ」


「パパ、今の何? 地震なの……?」


 少年は揺れに気を取られて巨大な怪物の出現に気付いていないようだった。


「そうだとも、地震だよ」スチーム・ヘッドは代替世界の外側には存在しない我が子を抱きしめた。「ただの地震だ」


「え……あの……あれって……悪性変異体ではないのか……? えっと、継承連帯で言うところの、カースドリザレクター……そうでもなければありえない形状だと思う……」


「たぶんそうなんだろうな。馬鹿げたサイズだが。そして俺はたまたま今日、この日に、その存在に気付いた。だがあいつは実のところ、ずっとずっと前からここにいたんだ……データベースだとそういうことになってる」


「データベース……」リーンズィはユイシスに呼びかけようとしたが、通信は繋がらない。左腕の滑らかな肌に指を這わせて首を傾げる。自分は何をしているのだろう? 生身の少女に通信機など搭載されてはいない。エプロンドレスの上半身部分はブラウス風のノースリーブで、これでは自分の腕を撫でているだけだ。「えっと、存在自体は他の人たちにも知られていた、ということ?」


「秘匿されているだけでな。何せ神話にも出てくる、ケルヌンノス(角ある神)だとか、ヨトゥン(霜の巨人)だとか、あと、そうだな、例えばトレントだとか言うヤツは、あの古木の鹿みたいなバケモノが源流なんだろうと言われている。具体的にいつから存在してたのか全く分かってない。何故はっきりと記録されていないのかと言えば、記録されるような自体になると関係者が全員死ぬからだ。あいつが怒り狂って突撃してきたらどんな要塞でもおもちゃ箱みたいなもんだろ。あいつが動いたら、生き残りなんて、まず出ない。あれはそういった類の生きた災厄だ」


「では宙対地誘導弾は……」


「あれを殺すために放たれたんだ」父親は奇妙なほど確信に満ちた声で答えた。「あいつは歴史の節目節目に短期間姿を現して、敵と認定したものにいきなり突撃して行く。自分が直接に害されたわけでもないのに、わざわざ攻撃しにいく理由は、やっぱり分からん。カースドリザレクターってのは能動的には動かないんだが……あいつに関しては、自他か、さもなきゃ自己と世界の区別が付いてないんじゃないかと言われている。酷く世界を混乱させるようなものが身近に現れると、防衛の本能が働いて、あのバカでかい四本の脚で、ぜんぶめちゃくちゃに踏み潰してしまうんだな。そして、どうもああいった存在は、森の神に類する怪物は昔からいて……しかも一体や二体じゃなかったらしい。ああいうバケモノを、在って在る神を殺そうとして、しっぺ返しを食らったというのが俺が知る高高度核戦争の真相だ」


 少女はどう受けたものか迷った。アルファⅡモナルキアだった頃のことは、リーンズィには、ぜんぜんわからない。だから、彼が言っていることがどれほどまでの真実なのか、飲み込みきれない。()()()()()()()()()()()()()

 少女の存在しない脳髄にも、うっすらと知識は残存している。悪性変異体は時折常軌を逸した変容を遂げるものだが、ただの森林であんなサイズに変化する合理的理由が全く思いつかない。そのスケールが信じがたい。リーンズィの中では、海のいきもの映像で見たシロナガスクジラぐらいしか類するものがいない。まさか同スケールの存在が地上にいるなど有り得るのだろうか?


「でも映画で見たことがある……『怪獣』は実在したのだな!」


 現にそこに居るのだから、とリーンズィは考えるのをやめた。


「代替世界は信じた過去、記憶の残滓から編まれる儚い幻想なんだから、妥当性を問うことには何の意味も無いよ」と猫は言った。


「これが真実なのさ」


「だけど、君はどうして誘導弾であの鹿が死ななかったと知っているのだろう?」


「俺は爆心地付近で生き延びて、一部始終を見てた。あいつがゆっくり動いてるのはな、見た目通りに鈍重だからじゃなくて、普段は速く動く必要が無いからだ。その気になれば雨の一滴一滴を見て躱せるだろうな」俺と同じように、とディア・ハンターは蒸気甲冑の胸を叩いた。「凄まじい光景だ。世界が爆発で揺れてるのか、あいつのステップで揺れてるのか、まるで判別が付かんかった。そのあと基地を襲撃して以降、姿を観測されていないが、外の世界のどこかで、まだあのバカでかい怪物はピンピンして生きているはずだ」


 リーンズィは口ごもった。どうであれ、<森の神>は、少々の小細工で無力化出来る存在とは思えない。おぼろげに思い出せる皆でも、困った顔をするだろう。


「君は……君はどうしてあれを殺したいんだ? あんなの、人間には倒せない。無謀すぎる……」


 少女の胸で猫がそうだそうだと言った。


「……もしかすると、あれのせいで、この子が、代替世界の住民ではない、本物の君の息子が……死んだから?」


 おそらくそうなのだろう、と思った言葉を、少女はまっすぐ口にした。

 ディア・ハンターは沈黙し、少年の耳を塞いで言った。


「……この子を殺したのは俺だ」


「え?」


「俺は森の中で、あのクソッタレの鹿が、すぐそばの地中から起き上がってくるのを見て……こいつは殺さなければならないと確信した。こんなとんでもないものが存在してたら何もかも滅茶苦茶になると直観したんだ。遠間に見るだけなら、とんでもないだけの怪物だが、近くで見ると本当に恐ろしいんだ。俺は生まれて初めて畏怖の念を感じて……そして、こいつはここで殺さなければいけないと信じた。この神は生かしてはおけない、とな」


「だけど、そんな銃でどうにかなると考えるのは間違いだ」


「しかし当時の俺は、どうにかなると思った。やるしかないと思ったんだ。息子を庇って伏せさせて、有りっ丈の弾丸をリュックサックから出して並べた。ダブルオーバックを装填して、あのバケモノに向けてすぐにトリガーを引いた。……気が動転していたんだろうな。鉛玉撃ち込んで死ぬ相手じゃないのは見れば分かる。だが俺は、よせば良いのに、撃ってしまった」


「……」


「伏せさせたはずのこの子が、いつのまにか射線上に出てしまっていることに、気付かないまま」


「……それは……」


 少年の肉体に異常な点は見当たらない。

 間違いなくこの不滅者が自分の記憶から復元しただけの虚像だった。

 だからこそ、真なる像が永久に不在であることが、余計に際立った。


「馬鹿なことをした。父親として考えるなら、俺はこの子を連れてすぐ逃げるべきだった。だが狩りを優先した。神を撃ってしまった……。見れば分かるだろうが、あのバケモノは怒り狂ってるんでなければ、大人しいもんなんだよ。殺すという選択肢がない人間から見れば、きっと純粋に神々しく感じられるし、手を出そうとも思わなかっただろうな……。俺は畏怖によって銃を向けたが、この子は畏怖と感嘆が混ぜこぜになったんだろう、それで興奮して思わず前に出て……」


 そこで耐えきれなくなったのか、如何なる兵器によっても傷つけられないスチーム・ヘッドは、苦しげに息を止めた。


「銃声が轟くと、やつは、俺たちを幾つかの目で見た……。俺はこの子の小さな体が半分吹き飛んでるのを見て、悲鳴を上げていた。そのとき雨のようなものが降ってきて……やつの汗なのか、体表についていた雫なのか分からないが……その冷たさでで俺は何とはなしに我に返った。……やつは俺たちにはそれ以上は何もせず、地響きを立てて、歩き去っていった。そのずっと先に東欧連邦の基地があったらしいが、まぁそれはどうでもいいな……」


「ねぇパパ、痛いよ」と少年が甲冑の手を押し退けようとするので、ディア・ハンターは「ごめんな」と口にして、少年を自由にしてやった。


「……森の只中で冷たくなっていく体を抱えて、俺は走り回った。重傷だが、俺の子はまだ生きてたんだ。とにかく何とかしようとしていた。救急ヘリを呼ぼうにも、いつもなら繋がる携帯電話が、何故か圏外だ。仕方なしにキャンプに戻って止血手当てをした。そこまでは奇跡的に上手く行ったんだ。死ぬほどの傷なのに、死んでいるべき傷なのに、何故かまだ死んでなかった。まさに奇跡だが……どんな奇跡も、あの有様じゃその場凌ぎの、虚しいものだ。死に至るのはどう見ても時間の問題だった。俺はこの子を背負って森の外を目指して……。そして……そして、ああ、流星が降り注ぐのを見た……」


「ああ、そっか、流星雨が来るんだね、パパ」


 何も知らない、事態を知る前に死ぬことになる少年の声に、機体が滲む。


「ああそうだよ。星が降ってくるんだ」


「そっかぁ、そうだったよ。知らないお姉さん、きみも、それを見に来たの?」


「そうかもしれない」


 リーンズィは青ざめた顔で微笑んだ。

 この、死んだ息子を憐れんだ。

 流星雨とは間違いなく誘導弾のことだ。

 あるいは流星雨に紛れて降ってくる。


「それで、ディア・ハンター?」


「それで終わりだ。本当に、この世の終わりだと思った。世界が月まで吹っ飛ぶぐらいにシェイクされて、怪物が信じられない素早さで跳ね回って流星雨を避けるのを見た。また奇跡が起きて……俺たちはその時には死なないで済んだ。俺はその凄まじい光景を背にして、救助を求めて歩き出したが、誘導弾がずっと北にあるダムを破壊していた。そのせいで起きた洪水に飲み込まれて……目覚めたとき俺はひとりぼっちだった。俺の息子は、どこかへ消えていた」


「ぼくはここにいるよ?」


「ああ、ずっと一緒だ。一緒だとも、俺の天使。俺の命。俺の宝物……」男は硬く、硬く幻影を抱きしめる。「ずっと一緒だ……」


「君の事情は分かったと思います」リーンズィは戸惑っていた。「しかし、それと、あの森の神を殺すことに、何の繋がりがあるというのだ?」


「俺は、結局な、殺す人間なんだ。ある物事について、常に『殺す』という選択肢を持ってしまっている人間だ。狩りをやった、兵士をやった、他の形でも殺すことに携わってきた。……死に対して、死で応報しなければ、正気でいられない人間だったんだ。俺は息子を誤射して死なせた。しかし爆撃と洪水の混乱で行政機関は崩壊し、俺を裁いてくれる人間はどこにもいなくなった。別荘のかみさんも死んだ。だいたい、誰にどう訴えても、俺の息子は死体すらないし、それどころじゃない規模で人が死んでるんだ、息子を誤射してはぐれたなんて言って、誰が耳を貸す? じゃあもう……俺が俺の手で死を求めるしかないだろう? そしてそれは、復讐という形でしか有り得ない。全身全霊で復讐してやると俺は誓った。俺を、こんな事態に追いやった森の神を、あの忌々しいふざけた鹿の怪物を殺してやるしかないと悟った。だから俺は軍に再志願して、森の神を殺せる力を求めた。俺にはもう何も無かったが、人間としての命はまだあった。だからそれを捨てて、スチーム・ヘッドになったんだ」


「だけど、えっと、そ、そんなの、八つ当たりでは、ないだろうか……?」少女は戸惑った。「悲しい事故だ。すごく、悲しい事故だ。でも、事故だ……。そんなふうにしてまで死と報復を追い求める意味はないはずだ。あの大きな鹿のせいであるにせよ……ねぇ君。少年よ、君は自分が誰かに殺されたとして、お父さんに、誰かを、何かを殺してほしい? 血を求めるだろうか? 復讐を求める?」


「二人とも、何の話をしてるの? 人を死人みたいに言ってさ。ぼくは生きてるよ……? ええとね、分からないけど、でも、別に復讐とか、そんなこと、してほしくないなぁ。パパは戦場からやっと帰ってこられたんだもん。もう危ない目に遭って欲しくない」


 男は激昂した。


「当然、俺の息子はそう言うだろう。優しい子だ。だが俺にとっては、復讐しないなんてのは、それは、真実足り得ないんだ! 俺は、あの鹿野郎を狩ろうとして、犠牲を出した。とんでもない犠牲だ。俺の世界がぜんぶ消え去るような犠牲だ! その犠牲を補うためには、狩りの完遂が必要なんだ! だってそうだろう!? 俺は誤射したあと悲鳴を上げるんじゃなくて何発でもやつに撃ち込んでやるべきだったんだ! あいつが死ぬまで追い続けるべきだった! そうでもしなければ俺の息子の命と釣り合わない! 俺の人生! 俺の世界で一等大切だったものを死なせたのに狩りの結果が伴わないなんて、認められるわけないだろ! 追いかけて追いかけて追いかけてクソッタレをぶっ殺さないといけなかった! なのに俺は、そうしなかった……俺は犠牲に背いた……! 殺すべきだったのに! 救助なんてしてる場合じゃなかったんだダブルオーバックを至近距離から首から上に食らった人間が助かるもんかよ! くそっ! 俺は冷静じゃ無かったんだ! くそっ! くそっ! くそっくそっくそっくそっ! この子に報いるために俺は鹿殺しを続けるべきだったのに、くそおっ!」


「落ち着いてほしい、そんなことは望まれていない、君はおかしくなっている!」


「分かってる! 俺はおかしいんだよ! あの日からずっと頭がどうにかなっちまってる! 分かってるんだ! だが見ろよ、この俺の天使を、俺の愛する息子を! この子に値する品物は、世界中の金庫を残さずひっくり返しても、入ってないだろう! この子の死に報いるには、あの神を、クソみたいなデカい鹿を殺すしかないんだ! どうにかして、全生涯を、いやもっと多くのものを賭けてでも成し遂げなければ! 俺は……俺は、そう思い込まないと、生きていられなかった……」


 怒鳴るだけ怒鳴って、憔悴した様子で肩を落とすスチーム・ヘッドに、リーンズィは心底の憐れみを覚えた。


「……ディア・ハンター……君は……」


「……それからは、破壊力だけを追求し続けた。森の神を殺せるだけの破壊力が手に入れられるなら何でも良かった。理論を学んだ。ヘカトンケイルに教えを請うた。公社に魂を売った。どんな危険な実験にも、参加した。そうして手に入れたのが、この銃だ」兵士は猟銃を軽く叩いた。「外装は猟銃のまま弄くってないが、内部定義は俺たちの研究していた不朽結晶製多段式大型電磁加速砲だ。電磁加速砲でさらに小型の電磁加速砲を撃ち出す仕組みだ。水平射撃でもマッハ30で弾頭が飛び出す。最終的に目標にぶつかるのは腕一本ほどの質量体だが、それでも都市一個を丸々吹き飛ばせるエネルギーがある。スチーム・ヘッドでも回避は不可能だ」


「過剰火力だ、それこそ正気じゃない……そんなので何をするの。スチーム・ヘッドは倒せるにしたって、代わりに何もかも吹き飛んでしまう武器なんて」


「森の神を狩り殺すに決まっているだろう! ……だがそうだ、正気じゃないし、完成すらしてない……。都市焼却機級の機体を仮想敵にしてたんだが、コストが破壊力と釣り合わず、計画段階で止まった。皮肉なもんだ。俺の息子の命について、あの鹿野郎に支払いをさせるための武器が、高すぎるから造れないってんだからな……。結局資金は別のプロジェクトに回ってしまって……そこで憑き物が一度落ちた……」スチーム・ヘッドは腰を下ろし、不安げな顔の我が子を抱いた。「分かってるんだ。後悔の日々だよ。そもそも狩りなんて行かなければあんなことにはならなかったんだ……。あとは惰性で生きて、解放軍に合流して、流されて流されて暮らした。森の神を知っているヤツも他にはいなかった……。虚しかった……。ただ、FRFの連中と遭遇して、事情が変わったんだ。どうにも、耐えられなくてなぁ、だってあいつら、若いまんまで、何歳でも姿が変わらないだろう? 殆どガキだよ。あいつらが死ぬと、どうしても、自分が撃った子供を、俺の子供を思い出させる……。それで、ヴォイニッチの計画に参加して、あいつらを守る道を選んだ。それで、ついでに願いを叶えてもらって、俺はこうしてここにいる。あの鹿を殺せる世界を対価として作ってもらった。まぁ、思考実験の枠を出ないはずだったんだが……ここにきて、チャンスが来た」


 奇妙に含みのある呟きだったので、リーンズィは違和感を覚えた。

 彼が何を言わんとしているのか、薄らと予想は出来たのだが、信じられなかったのだ。


「チャンスが来た? まさか、この代替世界で森の神を殺すと、外側で、何か変わるの……」


「分からない。まぁ……森の神を倒すシミュレーションであると同時に、あの日どうすれば良かったのかのシミュレーションでもある。冷静に考えれば、逃げようが逃げまいが、誘導弾は降ってくるし、ダムが壊されて洪水が起こるんだ。俺とこの子が助かる可能性は、誰にでも分かるようなやり方で森の神を殺して、この森をターゲットから外すよう仕向けること。それしかないんだ。いちおう、その辺りまではシミュレーションして、確認出来る。そして……狩りを完遂出来たなら、結果が一次現実に、つまり外側に影響を与える可能性がある……らしいんだ」


「鏡にいたずら描きをしても、元の世界は変わらない」リーンズィはディア・ハンターの言っていることがあまりにも奇妙なので戸惑った。「そんなことがあるとは思えない」


「普通は有り得ないな。しかし、今回はあの<森の神>が相手だ。これは、やつの特異性を逆手に取ったアプローチだ。やつのような存在は他にも居るらしいが、誰に聞いても森の神自体は知らない。つまり俺の属していた時間枝に固有の存在である可能性が高い。世界は無数に連なっており、それらは互いに連関している……というのが前提になるが、そこにも森の神はあまりいないわけだ。連環の閉じた存在を精巧に再現すれば、そこには自動的に、強度の高い関連性が生じる。うじゃうじゃいる人間存在が相手ならこうはいかないが、相手は例外中の例外で、無限の世界であってさえ数の少ない森の神だ。存在が時空連続体で強固に結びついているなら、模倣元への干渉によって、森の神のオリジナルにも影響が及ぶかもしれないんだと。言ってしまえば()()()()()()()()()()()()、ということだな。だから、ここで上手く森の神を殺せれば、運命が変わるかもしれないんだ……」


「ほんとうに、そんなことが……?」


「俺も信じがたいが、ヴォイニッチがそう言っていたんだ。あいつは森の神という概念に着目して、興味を持ったようだった。同一の言詞構造体は、距離や時空を隔てても互いに影響し合う。狩りの完遂によって、なにがしかの効果は出るだろうと、あいつは言っていた……」


「それで……結果は……?」


「試してない」


「試してない?」


 スチーム・ヘッドは少年を抱き寄せて頭を撫でた。


「俺はたぶん、この猟銃を撃ったとき、必ずこの子を巻き添えにする……。そういう運命だからだ。だから、撃てないんんだ……。もしかしたら、とは思うんだ、はっきり言ってヴォイニッチは天才だ、あいつが言うんだから、きっと嘘じゃないんだろう。もしかしたら……この代替世界で森の神を撃つことで、奇跡が起きて、過去の時点において一次現実の森の神が死に、この子も助かる世界になるのかもしれない。もしかしたらな……。でも撃てないんだ。だって……俺の息子は……ここにいる。代替世界でも、俺の生み出した虚像でも、確かに生きて、ここに居るんだから……」


「二人とも何の話をしてるの?」少年は眠そうな顔をしていた。


「お伽噺だよ、俺の天使」ディア・ハンターは泣きそうな声で語りかけた。「悪い夢の話さ。……俺の代替世界の終了条件は、森の神の殺害だ。それが成功した時点でこの世界の演算は終わる。そして俺がそのための行動に移さない限り、時系列は未来芳香に進まない……。俺がこの子を森をうろついてるなら、森の神が何かすることも、誘導弾が降ってくることも、俺が誤射することもない。永久にこの幸せだった時間が続く……。虚しい話だよな。何の実も付けない花だよ。幸せだった過去の偽物、造花のようなくだらない慰めだ。だがな、それでいい気がするんだ……。よりよい未来への切符も、本物の息子と再会出来る可能性も要らない。俺はそう思うんだよ。これで良いんだ……この子と一緒に居られるなら、森の神なんて、どうだっていいんだ。だから俺は世界が終わるまでずっとこの子と森を歩き続けるつもりだ……」


「君は、未来を選ばないことを選んだのだな」リーンズィは微笑んで、背伸びをして、ディア・ハンターの頭を撫でた。「その選択はきっと正しい。私にも、気持ちは分かると思う。」


「なぁ、お嬢ちゃん。どこかの誰かのリーンズィ。どうか教えてくれ。苦痛だからと言う理由で、俺は希望の箱の中身を確かめることを、後回しにしている。男らしくないし、親としても失格で、一貫性のない逃げだというのは分かってる。だがとにかく俺は撃てばこの子は死んでしまう。俺はもうそんなのには、耐えられないんだ……。この先に悲しいことしか待っていないと分かる状況で、敢えて苦痛を伴う道を選んだりは、出来ない……。このかりそめの平和な時間に留まりたいと願って、そうあり続けようと願うのは愚かだ。そう叱責されても、反論しない。だが、なぁ、これは、そんなに間違った考えだろうか……? 俺は、何か、悪いことをしているのか……? どうしようもない破局を棚上げして、僅かな平穏を望むのは、そんなに悪いことか……? 俺は……この子を……失いたくないだけなんだ……」


「パパは何か悪いことをしたの……? この子や、他の人に、何か迷惑を掛けたの?」


 怖がるような声音の少年に、リーンズィは微笑を向けた。


「何も悪くは無い。君のお父さんは、誰にも迷惑を掛けていない。あるべき幸せに、あるべき形であってほしいと、お祈りをしているだけ。それが答えで、それだけが真実なの」


 少女はまた、猟師にも笑った。


「ディア・ハンター。それで良いんだ。誰も君を責めたりはしない。だってここは、君の作り上げた箱庭なのだから。ここに留まり続けることで君の魂に安らぎがあるというのならば……可能性の箱を抱えたまま眠ることは、決して悪いことではないと思う」


 ……間違っていないと、そう言ったね、と少女は思った。

 少女は違和感を覚え、酷く動揺して、視線を周囲に向けたが、どこにも誰もいないよ、この世界その者であるボクが、世界を満たしているんだからね、と考えて、木々の狭間、書き割りめいて模様の変わらない青空を仰いだ。


「ヴォイニッチ……?」

 

 リーンズィは、それを決して忘れないことだ、と事象に対する推測を巡らせる。ボクが君に問いかけたいことの一つは、まさにそれなんだよ。この先に何も無いと分かっているから、平穏な日常を何度でも繰り返す……ある意味においては、十分に善いことなんじゃないのかな、と自問自答する。リーンズィには反論が思いつかない。ディア・ハンターについては、この時間を永久に繰り返すなら、それが幸いであろう。ならば、とリーンズィは考える。それを無理矢理壊そうとしたり、破壊を勧めたりするのは、間違いなんじゃないかな。ねぇ君、どうしようもない破局を棚上げして、僅かな平穏を望むのは、そんなに悪いことかな……?


 猫が鳴いた。「ヴォイニッチ。その子に置いてくることが出来るなら、そんなことぐらい自分で言えば良いじゃない。誰かの口を使うなんて、回りくどいことをしないでね」


 リーンズィはヴォイニッチの姿を探した。どこにも見えない。どこにも誰もありはしない。全てがボクさ。そんな神様みたいな存在なら、尚更他に手はあった筈だと考えて、ボクは奇跡を見せることは出来ても、誰かを説得するのは苦手なんだ、と弱気になった。説得が上手なら、ボク自身こんなふうにはなっていないよ。他に適任が居たから連れてきただけさという自嘲には、彼女自身も思う節もあって、リーンズィも「適材適所は道理なのだな」と同意した。


「ヴォイニッチが来た。ということは、俺の仕事も、終わり……なのか。お嬢ちゃん、大したもてなしも出来なくて悪かったな」


「ううん。問題ない」名も無き金色の髪の少女は笑った。「私はここに来る必要があったのだ」


 ディア・ハンターと少年が、どこか寂しそうな顔をして手を振っている。リーンズィも懸命に二人に手を振り返した。彼らがどうか幸せになりますようにと少女は心から願った。

 リーンズィの胸元でぴかぴかと猫が光り輝き始めた。


「めざめさない」


 リーンズィがまぶしさに目蓋を閉じると、空で誰でもない(ヴォイニッチ)の気配が濃くなったのを感じた。それはやがて上空を埋め尽くし、厚みも色彩も持たない黒い砂のような腕を結実させ、光輝く猫目がけて、真っ直ぐに降りてきた。誰のものでもない腕はリーンズィと猫をひょいとつまみあげて、存在しない世界の存在しない空へと引き上げ始めた。

 途中、少女は大いなる鹿を、森の神と渾名される悪性変異体が、その巨体を起こすのを見た。森の神は誰でもない、の腕が引き戻されるのと同じだけの速度で追従し、頸に王冠の如く戴く角の群れの狭間にある数え切れない程の(うろ)の瞳で外へ運ばれていく少女を見つめていた。世界のどこにも存在しないのであろう獣は、果てしなく巨大で、見つめ合うだけでも、身が竦む思いがした。

 少女はその瞳の色が、ディア・ハンターの息子と同じであることに気付いた。

 そして決してディア・ハンターの息子の瞳ではないことも、同時に見透した。


「ありがとう! 私の知らない君! 君の世界を、後悔を教えてくれて、本当にありがとう!」

 

 別れの挨拶に、存在しない森の神は、世界が罅割れるかの如き咆哮で答えた。胸を掻き毟り号泣する疲れ果てた男の声のようなその轟音に、リーンズィは「私はあなたを信じます。あなたを赦します。あなたを愛します」と、己のものではない母の言葉を借りて、祈った。

 そして鹿殺しの代替世界に住まう全ての魂のために、叫んだ。


「みんな、みんな幸せになりますように!」



 アルファⅡモナルキア・リーンズィはクヌーズオーエの路上で、一人の男がけたたましく笑い越えを上げているのを見ていた。

 くらりと眩暈がしてふらつきそうになるのを、統合支援AIユイシスの補正機能で危うく堪える。

 猟銃を持つスチーム・ヘッドは狂気の哄笑を引き連れて、去っていく。今も、何か得体の知れぬ肉体を引き摺っている。

 それは神錆びた霊峰の岩肌を思わせる質感で、何か途轍もなく巨大な存在の切り裂かれた一部のように見える。ズタ袋のように引き回されるその肉の袋は、アスファルトで散々に表皮を抉られており、通り過ぎてきた道を、湯気の立つ血で濡らしており……。

 何の意味にも、どんな未来にも、繋がってはいない。

 

『3秒間の意識途絶を確認。擬似人格へのハックを受けたと推測します。セルフチェックの実行を推奨』


「何の問題もないようだ。夢を見ていたのだと思う。そう、夢を、見ていた。……その人にとっては醒めない方が良い夢を、見ていた」


 内容は朧気だ。ただのリーンズィにだけ与えられた記憶は、アルファⅡモナルキアとはフォーマットが異なる。それは長く、誰でもないリーンズィの存在しない胸の奥にだけ、永久に蠢き続けることだろう。

 ただし、ヘルメットの中で丸まる猫が「なーん」と鳴いてくれると、その間だけは、何故だか、記憶が蘇る気がした。

 リーンズィ、他の誰でもない少女リーンズィは、ヴォイニッチから与えられた鍵の形を確かめる。

 それは鹿に似ていたが、明らかに鹿ではない。

 調停防疫局がアルファⅡモナルキアに託した悪性変異体のデータベースに類似の変異体は存在しなかった。如何なるデータベースを探しても、やはり見当たらなかった。

 けたけたと笑う狩猟者のスチーム・ヘッドも、どういうわけか、戦術ネットワーク上に記述がない。

 だからリーンズィは曖昧な記憶のまま、祈りを込めて、新しい頁を書き加えるのだ。


『未確認悪性変異体:<森の神>』


『発見者:ディア・ハンター』


 その救われぬ不滅者は、やがて目には見えない霞の奥へと消え失せた。

 笑い声に至るまで、何も残さなかった。

 最初からいなかったかのように。

 約束が果たされて、夢から醒めたかのように、いなくなった。


 幸せになりますように、とリーンズィはわけもわからないまま祈りを重ねた。

 幸せになりますように。

 どうか、幸せになりますように……。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ファンシーな世界でファンシーで可愛いリーンズィ、などと油断できる場所でもありませんでしたね。すべからく全員が全員、個人的な地獄そのものと成り果ててる不滅者。 その演算が終わってしまえば結果…
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