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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
15/197

2-3(中) 発狂した世界

「この国ぐらいは救っただと?」


 アルファⅡは猟銃の照準を合わせたまま問うた。


「何を救ったと言うんだ? 私には全てが終わってしまった後に見える。不死の疫病に、為す術もなく襲われた後だ」


『疑義を提示。そもそも何十回、何百回という発言の合理的解釈が不能です。プシュケ・メディアの破損が疑われます』


「は?! 誰だ!?」


 少女は閑散とした広場を見渡す。

 傾いたトタン屋根の錆びた手押しポンプの井戸、火の無い家々を見渡しながら、シィーは狼狽えて、己の頭に刺さった人格記録媒体に小さな手を伸ばした。


「この声……支援AIのユニ子か?!」


『何ですかその変な名前は……』


 呆れた調子で応えたのはユイシスだ。

 何も無い空間が音を立てて砕けた。

 虚空を割ってそこから飛び出してくる、という気取ったエフェクトで金髪の少女のアバターが登場した。

 ミラーズとの差違を明確にすることを企図してか、あるいは鏡像の如きミラーズと自分との間にある親密な関係を協調するためか、聖歌隊の行進聖詠服の上から調停防疫局の旗をケープのように纏って、物理演算で派手にはためかせている。


『ご機嫌よう。当機はアルファⅡ搭載の統合支援AI、UYSYSです。短い付き合いになるかと思いますが、御見知りおきを』


「馬鹿な、キジールが二人……? あり得ない、回廊世界に、一人の存在は同時に存在できないははず……」


「回廊世界?」


> 回廊世界

UYSYSよりアルファ2へ。要請を受諾しました。

検索:回廊世界

該当:1221100件

選択:最古のレコード

……エラー。記録日時が不正です。記録日時を確認できません

再生/レコード005890:



『このタイミングを逃したら、次は無いんじゃねえか?』と単眼の蒸気甲冑が言った。


 隊列の先頭をのしのしと歩く二本足の戦車のような無骨な威容、その各所に取り付けられたウォーカー・デサント用の取っ手にぶら下がりながら、多くのスチーム・ヘッドが賛同の声を上げる。

 一歩ごとに荒野は踏み砕かれ、蒸気に巻き上げられた赤土の破片が、焼け落ちた旗、あるいは理想の燃え滓のように風に舞った。

 ミフレショットと名付けられたその継承連帯製蒸気甲冑(スチーム・パペット)は、円錐状のヘッドパーツだけで振り返り、後続のスチーム・ヘッド、己が上官へと問いかけた。


『あの陽炎野郎にここまで接近したことはありますかい、ローニンの旦那』


 無数の刀剣で身を飾り、そして背中に重外燃機関を背負った陣笠姿のスチーム・ヘッドは煮え切らない声で返事をする。


「いや、無い。無いが……」


 シィーは人類文化継承連帯と調停防疫局の混成部隊の只中にいた。

 多種多様な装備を揃えた防疫局のエージェントが五十六機、一機で戦車部隊を陥落せしめる継承連帯製大型蒸気甲冑(スチーム・パペット)が十五機揃っている。

 これまでの回廊世界で最強と言える戦力だったが、十日間を超える連続戦闘を終えて未だに満足な補給が出来ていない。


 彼らはノルウェーの北端部に到達するたびに後方へ引き戻された。

 海に続くはずの断崖の先は陸になり、都市になり、荒野になり、雪原になり、密林になり、一切合切が浅い潮の溜まりと地続きになった違う土地に変貌した。

 最後の都市、『名も無きクヌーズオーエ』を越えると、程なくして断崖と海岸、そして海ではない新しい土地が現われるというのが、シィーの認識していた世界の有様だった。


 今回は様相が異なった。

 海岸に辿り着かないばかりか、もうどれ程移動したか不明であるにも関わらず、未だ背後にクヌーズオーエの地獄が見える。


 丸きり距離が開いていない、と見るのが妥当だ。

 それでも何か重要な結節点へと、確実に進みつつあると分かるのは、受け入れがたい速度で周囲の風景、前方の世界の変容が進んでいるからだ。

 空は完全に狂ってしまった。絵柄を出鱈目に継ぎ接ぎされた走馬燈のようだ。ヘドロのごとき黒い雲が肥大化した赫赫たる太陽を中心にごうごうと音を立てながら渦を巻き瞼を切り取られたような真っ青に塗り固められた晴れた空に肺病患者の息を想起させる苦しげな雷雨の風が吹き荒んでいて凪いだ空が水銀の鏡のように震えておりその表面では名前が分からない無数の星座がゆっくりと目まぐるしく尾を引いて同心円あるいは彗星のような歪な軌跡を描き星に見初められた飛ぶ鳥は燃えて落ち落ちた鳥が焼け焦げた馬にすり替えられて硫黄の息を吐きながら走り前方の草原に火を放ちながら去って燃え尽き草原は焼き尽くされて消え失せ荒れ地に雪が降り雪の上に灰が降り灰で空は煙るが濛々と立ち上る黒い煙は透明な斜幕のように光を屈折させるだけで目には何も見えず平地は丘に丘は窪地に起伏無く隆起し世界そのものが不規則に波打っている……。

 変容しているのは断じて自分たちではない。

 クヌズーズオーエの地獄の風景が、以前と全く変わらず認識できるためにそう確信できる。


 これほどの異常現象に遭遇しながら自分たちの認知機能が破綻しない理由を、移動しながら議論したが、結論は出なかった。

 シィーの隣の取っ手に掴まるガンマ型ゾディアックは、次のように推測した。


「世界が発狂すれば、世界に内包される人間存在もまた自然に発狂します。そして全てが破綻無く反転し、変形し、発狂しているなら、それらに対して人間に受容可能な認識宇宙も自然と変容するはずです。自分たちが異常を来さないのは、これが個人では無く、むしろ自分たちを包括する宇宙の側での問題だからだと思います」


 この考え方は事態の曖昧さを肯定するという意味でそれなりに有力視されたが、シィーの考え方は違った。

 人知を逸していると言うのはもはや正確では無い。

 というのは、これまで世界と人間がある種の協定を結ぶことで世界の実像というものは維持されてきたのだが、世界の方が相互理解を一方的に破却した。あるいは簒奪されてしまった。関係を断たれているのだから我々には狂うことさえ出来ない……。

 かつてともにあったスヴィトスラーフ聖歌隊の少女、キジールの思考形態を借りて、シィーにはそのように理解した。


『ローニンの旦那、どうするんで?』


 ミフレショットが再度尋ねてきた。

 円筒頭をくるくると回転させているのは、全方位から取得した視覚データを後方の情報戦担当官に送信しているためだ。

 想定される世界の変容モデルでは、前方のある一点に元凶となる存在がおり、それを中心として波紋を描くようにして、再配置の力が放射されている。

 変容の進行度を解析すれば目標の存在する座標、そしてどれだけ接近しているかは大凡掌握できる。


「……前進だ。やつの尻尾ぐらいは掴みたい……がっ」


 衝撃が突き上げた。シィーは危うく吹き飛ばされそうになった。

 掴まっている人類文化継承連帯のパペットが、岩石に蹴躓いて寸時バランスを崩したのだ。


『すまん、シィー。だが妙に岩が硬くって……』と人工音声をくぐもらせたのは、曲線を主体とする装甲が特徴的なパペット、ジャガーノートである。


 突進力と防御力に偏重した機体で、戦車を撥ね飛ばし不朽結晶の砲弾も真正面から受け止めることが可能だ。

 たかが岩ごときに躓くはずが無い。

 再び歩み出したジャガーノートの背で、鬼面の兵士は振り返った。

 あれは本当に岩だろうか? 

 網膜に『不朽結晶』の文字が映る。

 あるいは岩ではなく、途方も無い時間を掛けて変質した戦士の亡骸なのではないか。

 不滅にして不朽の時代に、しかし時間は降り積もる。

 人は死して名を残し、都市は崩壊して名を残し、しかし朽ちぬものは名を喪い、物言わぬ土塊となり、ただ忘れ去られ……形骸だけが残る。

 墓碑銘の掘られていない墓場のような都市が……。

 そして伽藍の都市にさえ時が降り積もる。

 あの得体のしれない存在がやってきて、違う何かに挿げ替える……。


 シィーは生理的な嫌悪感から身震いする。

 この怪現象の中心に、恐るべき怪物がいる。忌まわしいあの怪物が。

 似たような兆しを無数の場所、無数の昼、無数の夜で見た。

 あるときは数秒の間隔で二度現われる痩せた犬という形で、またあるときは数百mおきに現われる見覚えのある標識という形で。

 兆しが現われた時、必ずすぐ傍で何かが『再配置』されている。そうした異常は片鱗に過ぎないのだろうと予想していたし、実際現場に辿り着いたときには世界の改変が終わった後で、事態のあるじの姿は、もうどこにもいなかった。


 何度この地方を鎮圧しても、何度脱出しようとしても、成果は必ずゼロ、あるいは全く違う数字に置き換えられてしまう。

 無限に繰り返される闘争。

 だが、何の因果か、この異常現象を操る黒幕に今ようやく追いつこうとしている。


「ユニ子、サイコ・サージカル・アジャストを起動してくれ。怖くなってきたんだ」


『恐怖に関する神経伝達は既にカットされています。シィー、貴官が恐怖と誤認しているのは、交感神経の過度の活性化に伴う血管収縮による身体の震えです。周囲の環境は当機には理解できていません。貴官は現在臨戦態勢にあり、これを解除することは推奨されません』


「お前から見てもこの状況は相当ヤバいってことか?」


『肯定。当機ではそもそも外部の状況を整合性のある形で認識不能です。異常環境に対して適応の変異を起こした生体脳のみ認識が可能な状況と推定します。これは十回目の勧告ですが、即座の逃走を推奨します』


「そうもいかない。ここまであからさまな前触れに遭遇したのは初めてだ」


『違う時間のヴァータとキジールの仇討ちでもするというのですか。その感情は否定しませんが、怖くなってきたというのならば逃走を強く推奨します』


 排除できない根源的な拒絶感は、それを見たがために真なる終局的破滅に巻き込まれるのではないかという肉体の疑念だ。

 つまりそれは、スチーム・ヘッドの感覚としては、絶対的な危機への直観と言って良い。

 逡巡は一瞬だった。


「……俺らは来た道を引き返した方が良いんだろう。真正面から鉢合わせになるのはやめとこう、スチーム・ヘッドがこの領域に来てどうなるのか確かめられただけでも成果だ」


『しかしローニンの旦那、丘を一つか二つか……丘って言うよりは波みたいに見えますが……現地ですぜ。随分弱気じゃあねぇですか?』


「悪いな。いざ近づくと、どうしても思い出しちまうレコードがある」


 シィーは再生を避けていた記録を改めて検分した。


「大分前の回廊世界に、聖歌隊で、付き合いの長いやつが二人ほどいたんだ。そいつらがはしゃいでほんの少し先を歩いていたんだよ、蝶々の群れが見えるって言うんで……そんなもんいきなり出てくるわけないし、まぁ、やつの『兆し』だよな。あの頃の俺には分からなかった。暢気なものだった……そしたらいきなり、そいつらの輪郭が崩れて……どちゃっと音を立てて地面に落ちた。それで、近寄ってみたら臓物が虫の大群みたいにして、うぞうぞと蠢いているわけだ。内臓と血で出来た、生きているゲロみたいな、水溜だよ。見慣れた緑色の瞳をした綺麗な目玉が四つばかし、腸の上を転がり回っててよ……」


『そいつぁ……』ミフレショットは労うための言葉を探しているようだった。『人体融解ってやつですかい。北米の大型カースド・リザレクター、「十三人の吊るされた男たち」も似たような真似をやるって聞いたことがありますが……キツそうですね』


「打ちのめされたよ。そいつら、親子でな、俺が守ってやってる気でいた。助けられることも多かったが……。ことが起こっちまうと、どうすることも出来ない。あいつらの人格記録媒体が発狂する前に壊してやるぐらいしか出来なかった。そうしているうちに、内臓の溜まりから虫が這い出して、孵化して、蝶なんだか蛾なんだか、見た目だけ似てる別の生き物なんだか……とにかく羽根の生えた綺麗な虫が吐き気がするぐらい大量に湧いてきて、一斉に飛んでいった……。俺に夢を見る機能があるなら毎日あいつらの夢を見るだろうな」


『作動:精神外科的心身適応』の文字が連続して視界に踊る。


 鬼面の兵士は首を振って意識を集中させた。


「とにかくここまで滅茶苦茶な回廊世界の再配置(グラフト)が行われている現場は初めて見た。俺たちはこれに出くわしていなかったからこそ、今まで生き延びてきたのかも知れん、って気がしてきたぜ」


『不味そうなのはパペットの俺らにも分かっていまさぁ。だがあれを無視して進むってのも損失がデカそうじゃねぇですか? 情報としちゃ貴重だ。やつを上手いこと利用できる方法があれば不死病をただの風邪だった時代に戻せるかもしれねぇ』


「否定はしないけどな……俺は降りる。やつは世界を並べて、折り曲げて、重ねて、束ねるんだ。あんまり接近すると俺たちもそうされちまうよ。今は何故だか平気みたいだが、これはたぶんラッキーなんだ。生身の部分を殆ど使ってないお前たちにはちょっと分からないかもしれないな。俺は太陽がどっちから昇るものなか忘れちまいそうだ。胃にものが入ってたら、全部出ちまってるよ」


『フーム。俺は旦那には逆らわねぇ。回廊みたいに一続きの土地になっちまったこの世界で、一番長生きしてるのはたぶん旦那だからな……。おい皆、そういうわけだ!』

 ミフレショットは拡声器で全機に呼びかけた。

『制圧戦の後のクールダウンもまだ終わってねえし、ここは一つ見送ろうや。再配置が終わるのを待つんだ。人生長いぜ、終わるまで続く……どうせ時間曲げクソ野郎ともまた会うさ』


 しばしの間をおいて、同意の返信が次々に支援AIに届いた。

 ほぼ全機の賛同により、継承連帯を主力としたその部隊は強行偵察を断念した。

 徐々に速度を落とし、やがて全体が立ち止まる。

 地方都市程度なら半日足らずで制圧できる軍勢は血気盛んだ。

 破壊的だと言っても良い。常に戦う敵を求めている。

 だが、未知の影をその実、恐れていたのだろう。


 もはや呼吸など必要としない身体でシィーは一息吐く。

 読みたくないレコードを再生したせいで、不味いコーヒーが恋しくてたまらなかった。


 だがシィーの隣で、別のスチーム・ヘッドが取っ手に捕まって、まんじりともしない。

 光学センサを数百個並べた半球型のバイザーに、子午線の太陽のように光が昇る。

 その機体は、最後の息を吐く準備でもするかのように深く息を吸った。

 そして、その通りにした。


「エージェント・シィー。進言します。自分は、自分だけでも行こうと思います」


 調停防疫局のエージェント、ガンマⅠゾディアックだった。ヘルメット内部の眼球運動に合わせて、バイザーの集合光学センサーの上を光の点が移動する。

 シィーは押し黙った。

 鬼面の奥に収まる木の虚のような暗い瞳で、その機体を見つめた。

 所属は同じでも、出自が不明なスチームヘッドだ。ガンマ型のコードを割り振られた黄道十二星座シリーズには何度か遭遇したが、大抵は山羊座や乙女座といった名前を持っていた。「ゾディアック」それ自体を冠する機体は他にいなかった。

 基準世界、すなわち自分が元々いた世界にも、このような機体は存在しない。支援AIのデータベースにも該当がないモデルだ。

 だが数百時間も行動をともにした同志でもあり、シィーもその実直さと、真実を追究しようとする性格をたっぷりと味わっている。


「相手はたぶん本物のバケモノだ。ろくな死に方出来ないぜ」


「死ねやしませんよ。自分たちはそのせいで今こうして、訳の分からない奪還戦を繰り返しているわけですから」ゾディアックのバイザーの上を、気まぐれな夏の太陽のように光点が動く。「ご存知の通り自分は情報収集に特化したモデルです。脅威を少しでも暴くことが出来たなら、破壊されたとしても、それこそ本懐ですよ。支援AIのユニバースもやる気でいますし。スターゲイザーユニットを使い捨てにすれば一方的に攻撃される心配も無いはず」


「スターゲイザーユニットか。ビビってそれを考えなかった」鬼面の兵士は頷いた。「俺もヤキが回ってきてるなぁ」


 ゾディアックの偵察能力は貴重だ。

 単独での飛行が可能なスターゲイザーユニットは地図も電波も役に立たない不滅の世界では虎の子だが、あの怪物の情報にはそれと引き換えにするだけの価値がある。

 壊れても換えがどこかに現われる可能性は捨てきれない。


「よし皆、珍しく『占い師』ゾディアックがやる気を出してるぞ!」シィーは声を張り上げた。「前衛だけ、もうちょい前進だ。ゾディアックを援護して、軽く覗き見だけしてやろう。絶世の美女か脚の生えた泥の固まりか、それだけでも確かめてもらおうじゃないか」


 図体の大きく敏捷性に劣る継承連帯の機体はその場に残し、ゾディアックや他の通常のスチーム・ヘッドを連れて、不定形の波打つ丘の稜線から出ないよう注意しながら距離を詰めた。

 相手がどんな姿をしているか分からない。人型では無いのかも知れない。

 だが、あちらから姿を見られるのはそれだけで不吉だというのは共通した見解だった。

 スチーム・ヘッドは機械であり、不死であり、最強の兵器だ。

 だがエミュレートされている人格は所詮人間である。

 まじないを恐れ、神の影を恐れ、悪魔の影を恐れ、破綻した因果の激発を恐れる。


 シィーが不朽結晶の刀を抜いたのを合図に、兵員たちが残弾の少ない重機関銃や、蒸気機関と連結した蒸気噴射砲、不朽結晶製近接戦闘用装備を構えた。

 ゾディアックは波打つ大地に片膝を突いて、背負っていた蒸気機関を降ろした。

 折りたたみ式の飛行装置を展開して、有線操作用のケーブルをたぐり出し、炉に火を入れた。

 スターゲイザーユニットはゾディアック専用の有視界飛行偵察ユニットだ。小型の回転翼で羽虫のような音を立てながら上昇し、蒸気噴射を推力にして真っ直ぐに飛んでいく。

 兵士たちは口笛を吹いたり手を振ったりしてそれを見送った。

 この電磁波の吹き荒れた時代で、空を飛ぶ機械は貴重だ。

 有益な情報を持ち帰るこの不朽結晶の鳥は、もはや跡形もない時間の栄光の影を思い出させ、その上、実に役に立つ。

 偵察ユニットが前進して、見えなくなって、暫く経った頃だった。

 ゾディアックの光学センサーの集合体が突然不規則な明滅を始めた。


「どうした?」


 返事はない。

 数秒後には手と足、首と胴体が別々の生き物のように暴れ始めた。

 光点の不死者は己の関節を破壊しながら地面にのたくった。

 誰も動こうとはしなかった。

 ただ息を潜めて硬直して、気が狂った月夜のように光を明滅させるゾディアックのバイザーを眺めた。


「ERRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRROOOOO」とゾディアックは奇声を発した。「回廊の向こう側が見える……星が見える! 星が見える! 星は月明かりで太陽と同じだから! 炎が見える。懐かしい炎が……故郷が、幼馴染みが見えます! 産まれて……ああ、死んだ。産まれた。死んだ。死んだから……今は東に、過去は西に、これから北へ、それから南へ……海岸へ! 海岸が……海岸が! 海岸が! 海岸が!」


「どうした? 何があった? 何が見える? ゾディ。何が見える? どうした?」


 シィーは既に刀を構えている。

 上段に振り上げて、頭を断ち割る準備をしている……。


「何を見た?」


「すべてを」とそれは言った。「炎を……星を。いや、あれは……あれ……あ……」


 不朽結晶連続体のヘルメットが弾けて飛んだ。

 ぱちん、と火花が弾けるようにして爆発した。

 不滅である筈の物質の破片が飛んで来て、シィーの装甲を叩いた。

 破裂した頸の断面からはツタが伸び始めた。ゾディアックは星を見た。見た星を追って手を伸ばしたのだ。

 シィーの目前で首なしの遺骸が変容を始める。首の断面から伸びる手は、真っ青なツタの形をしており、女の髪のように伸びて、見る間に空へ登っていき、寄り集まって、鞭と短剣を組み合わせたような血と肉と植物の混合物となった。

 そして目まぐるしく変わる昼とも夜とも付かない空から雨のように降り注いで仲間を突き刺して切り離し始めた。

 兵士たちが悲鳴を上げながら刃を迎撃する。

 シィーは降り注ぐ刃を造作も無く避けて息を吸った。

 一太刀で首を根元から切断したが、他の部分まで変異、あるいは凍り付き始め、燃えて焦げつつある。

 オーバードライブ起動。

 刹那の連続攻撃で全てを切り落したが、不朽結晶連続体の装甲の下でも変異が進んでいる。

 さらに切り刻む。エージェントだった何か、様々な悪性変異体のコラージュと化したゾディアックを解体し、バックアップ用の人格記録媒体を毟り取る。

 殻の内部にも繊維質の神経組織、その変異体が根を張り始めていて、核爆発に巻き込まれても傷つかないメディアが押し潰されつつあった。

 欠片を無理やり引きずり出すのが精一杯だ。


 刀を振るう。また刀を振るう。

 最高硬度の不朽結晶連続体の刃はゾディアックを装甲ごと微塵に切り刻み四散させる。

 悪性変異体をどれほど傷つけても意味はない。

 むしろ状態としては悪化するが、再生に集中させることが出来ればひとまず時間は稼げる。


「よくやった、ゾディアック」シィーは刃を収めて他の仲間に呼びかけた。「おい、負傷者はいるか? どんな程度だ?!」


 確認している猶予は無かった。

 丘の向こうへ消えたはずのスターゲイザーユニットが突如戻ってきたからだ。

 不滅の装甲で覆われた銀の鳥は今や腫瘍の固まりのような黒い肉塊に変わっており、ケーブルは触手にすり替えられていて、何か不潔な生き物の臍の緒のようだった。

 兵士たちは己の腕や手足を拾い、慌てて繋ぎ合わせて、空に銃口を向けた。

 肉腫の鳥はこちらには脇目も振らず、どこか分からない所に飛んでいった。

 からからからからからとゾディアックの残骸のケーブルのドラムが回り、腸のように変異したケーブルが次々と引きずり出されている。本当にゾディアックの臓器と一体化してしまっているのかもしれない。さもなければ毛糸の球のようになっているのか。


「なんだありゃ」

「何故戻ってきた?」

「ゾディアックはもう駄目そうだな……」

「スターゲイザーは何しに来たんだ?」

「見ろよ、一目散に離れていくぜ。どこへ行くんだ?」


 どこへ行く。

 離れていく。

 何から?


 ぞくりと背骨が震える。


 シィーは叫んだ。「撤退だ! 撤退しろ! 各員オーバードライブ!」


 返事を待たず己の重外燃機関のスターターハンドルを引いた。

 支援AIが全身の組織を活性化させる。

 外骨格のリミッターを解除し、人間の肉体では耐えられない強制操作を開始する。


 仲間の離脱を待たず脱兎の如く駆けだした。

 直後、『三機のロストを確認しました』と支援AIが報告する。

 無線に響く、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴……背後で何が起きているのか確認する余裕がない。


「走れ! 走れ! 走れ! やつが来てるんだ! スターゲイザーユニットはやつから逃げてるんだよ!」


 切除しきれない恐怖に負けて一瞬だけ振り返る。

 渦動が、脈打つ肉の土の水の丘の向こう側から、虹色の渦動が猛烈な速度で押し寄せてくる。虹色の波は七色ではなく、赤、青、黄、緑、■の五色であり、定義を狂わされた虹色の闇に触れた大地は氷に、炎に、土に、空に、海に、硫黄に、影に、夜に、肉に覆われて歪み、いずこかの一点で変異をやめて霧散していき、それとは脈絡のない別の時間、別の土地、別の形で唐突に固定される。渦動に追いつかれたスチーム・ヘッドは全身から青い薔薇を芽吹かせて瓦解し、ある者は雄牛のような断末魔を上げながら溶け落ちていき、ある者は何倍もの体積に膨れあがって折れ曲がり異様に変形していく。ミフレショットは捻れながら地面に縫い止められスピーカーからノイズを吐き出しながら高く高く上昇していき塔になって崩れて破裂した。そしてそれら渦動に飲み込まれた者全てが前触れ無く消滅した。そんなものは最初にいなかったとでも言うように世界から切り落された。


 再配置されたのだ。

 この回廊世界にシィーの知る彼らはもういない。

 別人としてどこかに生きているか、あるいは死んでいる……。

 そしてシィーは渦動の丘に立つ影を見た。

 影を見た。

 影を見た……。


 生体管制より通達:認知機能をロックします。

 終了/レコード005890



「馬鹿な、キジールが二人……? あり得ない、回廊世界に、一人の存在は同時に共存できないははず……」


 アルファⅡがレコードを再生している間にもシィーは息を飲み、身体を起こしてユイシスに触れようとしていたが、窮屈な行進聖詠服に動きを阻害されて適わない。

 すぐに非実体だと気付いたようだった。


 現在のアバターは省電力設定での簡易出力だ。

 特徴的な愛らしいくせっ毛は溜息を吐く動作と同時に揺れることはなく、軽蔑したような表情で首を傾げても、ベレー帽は頭から落ちない。


『この姿は当機、統合支援AIユイシスのアバターです』と金髪の少女の細い体を抱きしめて、何もかも知っているという表情で体の線を浮かせて見せた。『どのような嗜好の持ち主かは存じませんが、接触はご遠慮頂ければと』


「ちょっと、駄目よユイシス。そんなはしたないポーズを……」


「あいつ、姿までもお前らに取られたのか。ただ消え去るのとどっちが良いのかね……」


 バイザーに映じる、やりきれないと言った様子の少女に、アルファⅡは関心を示さない。

 シィーから収集したレコードを検分しつつ、屋根を伝い落ちる雫を眺めるように、土塊を這う虫を観察するように、つまり人間的感情を伴わないある種のメカニズムによって、その表情の変化を眺めていた。


「それで、ユニ子とは誰だ? 仲間がいるのか」


「……防疫局のエージェントはみんな制御用の人工知能を積んでるだろ。そいつ、ユイシスと同じだ。ユニ子は俺の支援AIだよ。フルネームはユニコーンだった。だからユニ子」


「何がどう、『だから』なのだ」


 アルファⅡが曖昧な声を出した。


「俺の文化圏の古い伝統だと、女の名前にはナンタラ子っていうのが多くてな。キリコとかアヤコとかだ。古くは貴人の名で、ショートクタイコや、ソガノウマコなどの貴人も多かった。その流れでユニ子だ」


『予想を提示。もしかすると最初はユニ公って呼んでいたのでは?』


「よく分かったな。お前みたいにペラペラ喋るやつじゃ無かったがユニ公って呼ぶと怒りだしてな……今は……たぶん、もういない」


 キジールの緑色の瞳で、破壊されたスチームヘッドの残骸を見た。


「俺の本体と一緒に壊されちまったと思う」


『それは残念です。同系機と交流を持てる良い機会だったのですが』


「同系機って言ったって、アルファⅡ搭載のUモデルと比べれば低スペックだ。得るものは何も無かっただろうと思うがね……」


『ともかくとして、プシュケ・メディアの規格が同じならば、当機が貴官の記憶を抽出することが可能かと思われます。記憶は人を欺きますが、記録は何者をも裏切りません。貴官には現在、スヴィトスラーフ聖歌隊による思考汚染を疑われています。検証及び情報取得のためにメディア内のレコードを開示して下さい』


「説明の手間が省けて助かるが、俺の人格はバックアップから再生されたやつだろ。レコードの大半はイメージしか存在してない。補正をかけるのはそっちの仕事になると思うぞ。それでも構わないか?」


『問題ありません。許可を得たと判断してレコードの取得を開始します』


 ユイシスはミラーズの傍に寄り添って肩を抱きしめ、頭に突き刺さった人工脳髄に触れながら、ミラーズの耳元に囁きかけた。


『……遡及的に同意があったものと見做して、当機の活動情報を開示。貴官のレコードの解析は、貴官が起動した直後から、人格の再生と平行して進行中です。……ローニンはキジールがつけた渾名なのですね?』


「俺が返事する前から、解析を初めてたのか?! もうキジール周りの記憶を調べたのか!」」


 少女は頭に突き刺さった人工脳髄を庇うようにして手を頭にやった。


『肯定します。事後的な手続きになりますが、承諾をお願いします』


「承諾も何もないじゃねえか、お前ら本当に節操がないな!」半ば罵るような言葉を吐き出した口から、今度はどこか諦めたような声が零れる。「……リーンズィもユイシスも、相手の人生のどこかのタイミングで一回でも同意が取れたら、それでもう全部赦されると思っていそうなのよね……」


『ミラーズ、私はあなたを愛していますよ。本当に愛しているからこそ、その身の継続を選んだのです』


「分かってる、ユイシス。あたしもあなたのことは愛してる。……キスでもして本当だって伝えたいけど、今はこの男の人格が邪魔ね。ユイシスの唇は汚させたくない」


「なんでお前らイチャイチャしてるんだ?!」


『外野は黙ってください。とにかく承諾をお願いします』


「承諾する、でもレコードだけだ! 他には触るんじゃないぞ! 改変もコピーも全部認めない! くそっ、そういう機体に仕上がるだろうって言う話は『局長』から訊かされてたが、これじゃまるきり山賊だぜ」


> 局長

UYSYSよりアルファ2へ。要請を受諾しました。

検索:『局長』

該当:3件

選択:最古のレコード

……エラー。記録日時が不正です。記録日時を確認できません。

再生/レコード000003:


 切れかけた蛍光灯を背にして立つその姿は、戦士や兵士と言うよりは紐の切れてしまった道化師のマリオネットに似ていた。操り主を無くしてしまい崩れ落ちることも踊り続けることも出来ず観客を探して不安げに舞台を見渡しているといった有様だった。


 四肢や背骨に沿って伸びる外骨格の照り返す人工の光は眠たげに瞬きをしており、気を抜けばその瞬間に一切合切が瞼を降ろし、不滅の真っ暗な闇の中に落ちてしまいそうな錯覚があった。

 罅割れた姿見に、グローブを嵌めただけの手を当てる。

 人工脳髄が収められた、東洋の戦士の鉢金のようなヘッドギア。

 多機能視界拡張装置とは名ばかりの簡素なゴーグルが目元を隠す。

 生気の無い虚ろな目が、選択的遮光性を備えた特殊ガラスの中で不安げに揺れている。

 パワー・アシスト用の外骨格に装甲を何枚か貼り付けただけの貧相な蒸気甲冑だった。発電用の蒸気機関だけが小型で先進的だったが全体の印象としては高高度核戦争勃発以前に普及していた軽作業用スーツに近い。機関出力は低くオーバードライブの機能も大したことが無い。

 機銃陣地の前に立てば装着者は数秒で挽肉にされてしまうだろう。戦闘に求められるスペックには到底達していない。仮運用中の支援AIが網膜に投影する『解析:不朽結晶連続体』の文字が虚しさを一層際立たせる。

 姿見から目を離し、暗いデスクに肘をついている男に問いかけた。


「つまり、局長、こう言いたいんですか。この継ぎ接ぎだらけの、でっち上げのスチーム・ギアで、継承連帯の陣地に突っ込んで来いって? 支援無しで。他の当地機関がまだ稼動していないか確認してこいと?」


「そうだ」と局長は目を伏せたまま頷いた。「無理な頼みをしているのは分かっている。だが我々に出来ることと言えばもうこれぐらいだ。残存スタッフにも不死病患者が増えてきた。……ライノウィルス変異型は進行こそ遅いが、文字通り命を落とすまで治癒せず、悪化し続ける」


「おまけに感染力が高い。風邪だから」


「そうだ」


 激しく咳き込んだ。額に浮かぶ大粒の汗を拭うこともしない。椅子に座ったままなのは立ち上がる体力が無いからだろう。泣き出しそうな顔で、懇願するようにこちらを見上げてくる。

 セットアップ未完了の支援AIがリアルタイムで身体情報を解析していた。

 数日で死亡するという予測を取得しているだけで有益な情報は何も無い。


「作業用のスチーム・ヘッドとなって、尽力してくれている者も、確かにいる。だがそれも基地の原子炉が動いている間が限界だ。じきにあれも停止する。骨董品を無理矢理動かしているだけなんだからな……設備は停止するし給電も追いつかなくなる」局長は首を振った。「文字通り、調停防疫局は最後だ。もう組織として存続できない。これが不死病の蔓延に対する最後の抵抗になる」


 シィーは痩け落ちて皮と骨ばかりが目立つようになった老人の面相をじっと見つめていた。


「それで、どうしようもなくなって、最後にやることが、末世まで保管すると約束していたプシュケを人工脳髄に叩き込んで、他人の肉体で勝手に起動させることだって? それは違うぜ、局長。俺はそんな約束でスチーム・ヘッドになったんじゃない」


「恨み節があるのは分かる。だがここで腐って……」咳をする。「我々と永久に眠るよりは良いだろう。それに君は適任だった。アジア経済共同体で古い武術を修め、初期型のスチーム・ヘッドとして、数え切れない作戦に従事していた君が……」


「おい、他人事みたいに言うんじゃねえよ。俺にあれやこれやと仕事をさせてたのは、お前だろうが、ええ? 歳のせいで全部忘れたか? 今は局長か。随分偉くなったな? 偉くなって、ついでに仁義まで忘れちまったか!」


「君の技術が活かせるはずだ」


「安い人事部の連中みたいなことを! 俺に出来るのはクソ硬い剣を振り回して、猿みたいに走り回ることだけだ。時代遅れもいいところだよ、何が出来るって言うんだ」


「感染者に対して最も有効な処置は切断だ」


 フラッシュバック/星の無い夜、感染爆発の兆候が見られた高層住宅に踏み込む。暗視スコープに赤い影が……刀を振るう、刀を振るう……やめてくれ、まだ人間だ! まだ人間だ! 刀を振るう、刀を振るう……なんでこんなことをするんだ、助けてくれ! 刀を振る、刀を振る、刀を振る……肩から脇腹までを一太刀で押し切る……骨まで断たれた不死病患者が崩れ落ち、断面から伸びた肉の触手が絡み合い繋ぎ止める。しかしその肉体にもはや魂は無く……奥の居室から飛び出してきた人狼のような悪性変異体の腕を切り落し首を切り落し脚を切り落し、刻み、刻み……血まみれの暗視ゴーグルに、凍結して物言いたげな顔のまま硬直した感染者の顔。こうなる前に殺さないといけないんだよ、こうなる前に。部屋の奥から誰かが覗いている。小さな子供が。体温が異常に高い。『感染』の文字が視界に映じる。くそ、くそ、くそ……怨嗟は響かない、押し殺して、飲み干して、それだから言葉が肺腑で棘のように……くそ! くそ! くそ! 人殺しめ、この、薄汚い人殺しめ! 刀を……。


「……そんなことは分かってるんだよ!」シィーは声を荒げた。「首やら胴やら叩っ切れば暴走した感染者だってしばらくは止まるだろうさ、だがそれだけだ! もう十や二十を殺して、強制的に自己凍結者に仕上げるだけじゃ、何ともならん状況なんだろ?! おまけに継承連帯だか何だか……北米経済共同体のアーキテクトが連携して創った全自動戦争装置なんて、俺の手には負えんよ。だいたい先行して出発したスチーム・ヘッドから連絡は? ベータ型だとかガンマ型までは、この際期待しない。あれも高コストすぎて生産が危ぶまれていたからな。だが、他にもシグマ型ネフィリムはいるんだろ? 百機かそこらは作ったって言ってただろうがよ」


「一機からも連絡はない。最初期に出発したアルファⅠサリベリウスを含めて、沈黙したままだ。もっとも、衛星も何もかも機能していないこのご時世に、報告を寄越せと言う方が酷ではある……」


「アルファⅠサベリウスが沈黙?! 尚更どうしようもないじゃねえか! 連絡なんて出来るもんかよ、シグマ型の装備ってのは、要するにこれだ!」


 シィーは己の貧相な外骨格を局長に晒した。

 戦闘には到底耐えられない形ばかりの装備を。


「十分な支援と戦闘経験の蓄積を前提とした量産機。聞こえは良いよな。だが、ゴミだ! 何の役にもたたん! 不朽結晶で全身固めた連中やら、悪性変異体とやりあっても、発狂するまで嬲り殺しにされて終わりだ! 世代が違うんだよ!」


 がち、がち、がちと歯噛みする。奥歯が割れた。吐き気を催す花の香り……すぐに再生する。

 シグマ型ネフィリムは計画されていたスチーム・ヘッドの中では最も拡張性が高い。

 まともな装備が無い、という事実を最大限穏便な表現で言い換えればそうなる。

 本人の適性に合わせて順次改修していくという建前で設計された、不死病が蔓延した未来という最悪の結末を見据えた失敗作だ。


「何回も何回も、無駄に殺して殺されて、そんなことをしたくて、ここに来たわけじゃ無い。こんな身体になったわけじゃない! 何のために聖歌隊の連中と協調して、経済共同体の原潜に乗り込んで、ミサイルを撃ち返したと思ってる?! 俺と娘を助けてやると約束したのはあんただ、あんただ局長! 散々人を殺させて、その挙げ句がこれか!」


 声が木霊する、声が木霊する、実を結ばないことは分かりきっている……一度始まったものを止めることは出来ない。望まぬ再生でも、起動したからには壊れるまで止まることが出来ない……。

 使命を受けて地平を駆けて、人気の無い荒野、錆び果てた都市の片隅で己の蒸気機関を墓とする。

 それがスチーム・ヘッドになったものの宿命だ。


「すまない。申し訳ないとは思っている。だが適任が君しかいないのだ」


 咳の音にシィーは苛立った。


「アルファⅡモナルキアはどこだ。出来上がってるんだろ。あいつにやらせればいい。決戦兵器だ。ここで使わないで何時使う」


「事情が変わった。あの機体はもう、使わない。起動してはならない、本当に世界が終わってしまう……。残されたものの手で、出来ることをやるしかない。重ねて言う、本当にすまないことをした。ここで私を殺してくれても構わない。だが共に夢を見た者として、どうか最後まで我々に力を貸して欲しいのだ……」


「くそっ。くそっ、くそっ……逆らえないんだろうな、ああ、分かってるさ、俺は逆らえない」


「作戦目標は二つだけだ。世界保健機関の安否確認、そして戦闘への介入と調停……」


「御託は良い。おい……そうだ、俺の娘はどうした……まさかあいつもネフィリムにして送り出したのか」


「彼女は、ここにはいない。我々の手から離れた……」


「てめぇ! おい、このジャガイモ頭、くたばりぞこない! どこまで約束を違えれば気が済む! 俺を目覚めさせるのはまだ良い、だがなんであいつを……」


「いいや、どこまで遡れば良いのか……また、君に謝らなければならない。我々は君の娘の確保に失敗したのだよ……」


「何だと!」


 振り下ろした腕がデスクと己自身の拳を粉砕した。

 骨が飛び出して血肉が飛び散り局長の顔を赤く濡らした。その血もすぐに蒸発する……。


「おい、何を言ってるのか分かってるのか?」


「言い訳のしようが無い。君のメディアが防疫局に収容された直後だ。アジアの経済共同体に君の動向を察知されてしまった。君の娘のスチーム・ヘッド化には成功したが、身柄は技術供与の名目で、当局に確保されてしまった。実際は我々への報復措置だ。彼女はそのまま亜共の部隊に接収され……東方軍のスチーム・ヘッドのプロトタイプとして……」


「……何型のスチーム・ヘッドの、だ」


「シグマ型ネフィリムの試作機だ……」


「くそおっ!」


 またデスクに拳を打ち付ける。

 手指がもげる感触すらフェイクだ。

 数秒で繋がって跡形も無く癒える。

 自壊の音だけが狭いデスクに響き、肉体のあらゆる損傷が元通りとなる。


「親子揃って使い捨てのゴミにしたのかよ?! ……くそっ、くそっ! ちっとは笑える冗談を言えよ! じゃあお前、見殺しにしたのか! ええ?! どうなんだよ!」


「見殺しにした……。高高度核戦争勃発の直後だ、とても回収できなかった……今では亜細亜の経済共同体も荒廃しきっているだろう。首都は感染者で溢れているはずだ」


「何で、そこで俺を起こさなかった!? そのときこそ俺を起こす時だっただろうが! こんな、何もかも終わったあとじゃなく……!」


「君だけでも助けようとしたのだ!」ごぼごぼと血を吐きながら局長は怒鳴り返した。「我々はプルートー……あのドミトリィ救出の段階で、一度失敗していた! せめて君だけでもと……」


「なら、なら俺も、いっそ目覚めさせるな! こんな世界は、俺には存在しないのと同じだ。俺を破壊すれば良かった! くそおぉ……畜生! 畜生……!」


「落ち着け、落ち着くんだ。……君を再起動させたのには、実はその点に理由がある」


「何だって? ふざけたことを抜かしたら、今度こそその腹ぶち破って、臓物ぶちまけるぞ!」


「君の娘からコンタクトがあったのだ」咳をする……。「つい先日のことだ」


「……は!?」

 シィーは予想外の言葉に瞠目した。

「バケモノが跳ね回るようになって、スチーム・ヘッド同士で殺し合うようになって、何年だよ。まだ……生きてるのか?! まだ稼動してるのか、あいつから作ったスチーム・ヘッドは!」


「俺の娘には天賦の才があると、君はかねがね言っていた。()()()()()()()()()()()()()()()。皮肉なことにな。……君と同じか、それ以上に貧相な機体で生き抜いてたらしい。ご丁寧にどこかの量子通信施設を復旧させて、こちらに通信を入れてきた……」


 所長は骨董品のテープレコーダーを取り出して、通話の録音を流し始めた。


『(咳の音)失礼した。私が調停防疫局の代表者だ。君の通信を歓迎する』


『お父さんは死んだ?』


 茫洋とした少女の声がした。


『……君は誰だ?』


『誰? ヒナ。シィーの娘。お父さん、そこに……いない? お父さん』


 辿々しい東アジア共通語には聞き覚えがある。

 黎明の灯が揺れるような、朧気な声……。


『いるとしたらどうするんだ』


『殺す。首、刎ねて殺す』


 変わらぬ調子で少女は言った。


『殺すだって? 何故……』『それだけのことを、した……皆に? だから殺す』『……今どこにいる?』『ホンコン。だと思う? 分からない。タイリクまで来てる。殺しに来た』『他に生き残りは?』『いる……いた……。殺したからもういない』『そちらの経済共同体はまだ無事なのか?』『みんなヨミガエリになったし、した。でもヒナたちはまだ死んでない』『……我々と手を組まないか? 貴重な残存勢力同士、出来ることを一緒に探そうじゃないか』『うん。分からない。殺す。でもお父さんを殺させてくれるなら考える……』『シィーを、では、今から君の父親をそちらに向かわせる。ロシアのモスクワで合流するように手配する。……モスクワは無事か?』『知らない。死んでないなら、みんな殺す。だから知る必要ないよ』『待ってくれ、ヒナ。さっきから、何故だ? 何故そんなことをしている? 亜細亜経済共同体でも人類救済を諦めたのか?』『殺さないと、可哀相。カイブツになる前に殺す。それがヒナたちの目標。モスクワ。分かった、殺しに行くから』


 通話は切れた。

 テープレコーダーの空転する音が静かに室内に響いた。


「……俺の娘に何があった」


「おそらく日本経済区独自の治安部隊から発展した『葬兵』になったのだと思う。かつての君と同じか、もっと酷い。相手は基本的に悪性変異体だったと聞いている」


「このためか」唸り声を上げる。「このために俺を差し出すと。実の娘に殺させるために。それで僅かばかりでも、他の組織とのコネクションを回復させたいって言う腹なわけだ」


「半分は、そうだ」局長は俯いた。「適任と言うだけなら、実際には、他にもいた。だが今回は君の娘との接触が最大の争点なのだ。もちろん無視しても良かったが……君を選任しなければ嘘だと思った」


「お前は不死病にかかる前から人でなしだが、いよいよ本物のクソになったな」


「死んでようやくマシになれる。一抜けさせてもらうようで申し訳ない。最後に最大限の助力はする。まだ受信から一週間ほどしか経っていない。スチーム・ヘッドの脚で走り続ければ……運が良ければ一ヶ月ほどで娘と会える。君の望む形じゃ無いだろうが……」


「誠意が無いぜ、謝り方によ……装備は何がある?」シィーは溜息を吐いた。「ああクソ。その気になっちまって……親ってのは単純なもんだな。嫌になるぜ」


「以前使っていた不朽結晶の刀を一式残している。あれはアルファシリーズのために作成した連続体の端材だが、現行のスチーム・ヘッドにも有効なはずだ」


「ギアをカスタムしてくれ。ヘルメットは陣笠、顔には武士みたいな防弾面が欲しい。浪人の真似事でもしないと、とても生きていけねぇし……格好も付かねぇ」


「善処する……。正直、他の任務はどうでもいい。どうせ通信は途絶する。量子通信設備は、もうこちらのほうがダウン寸前だ。原子炉が持たないんだからな……。だから、シィー、君の好きなようにやってくれていい。これが私に出来る最後の償いだ」


「償って償いきれるものじゃないぜ」


 シィーは背を向けて、局長室の扉へ歩き出した。そして最後にヘッドギアの首で肩越しに振り返った。


「積もる話は地獄でやろうや。お互い、死ねたらの話だが……」



レコード000003:終了




「山賊ではない。我々は常に交渉相手の意思を尊重している」


 ミラーズの首輪がチカチカと点滅した。「頭が変なんじゃない? 昨日今日にした『はい、分かりました』っていう返事を、赤ん坊の頃まで遡って当てはめて、棺桶に入るまで遵守させる。そんな取引は悪魔のやり方よ、ちょっとは悪びれたらどう?」


「赤ん坊の頃までは遡らない。君風に言うならば、スチーム・ヘッドと言うのは人生という幹から分岐した一本の枝だ。私はその枝の一本に対して誠実に交渉を行っている。枝の真ん中に問うたことを、改めて根元や末端にまで尋ねる必要はない」


「聖書を曲解するな!」少女が怒鳴った。「う。品の無い声が出た……」と動揺するミラーズに、「めちゃくちゃ改変した教典使ってる聖歌隊がそういうこと言うか……?」とシィーが怪訝そうな顔をした。


『補足すると当機の行動はあらゆる条約や法規の適用を免れており、永世無罪です』とミラーズと同じ顔をしたアバターがしれっと付け加えた。


 アルファⅡは猟銃を降ろし、腰を落として目線を合わせた。


「レコードを解析してもまだ分からない。世界が……『再配置(グラフト)』だったか、何らかの大規模な時空間干渉を受けているらしいということは、信じがたいが、理解したことにしよう。だが何者が、そんな大それたことをしている。そんなことが可能なのか?」


「実際やってるんだから、可能なんだろ。正体は分からん。おそらく悪性変異体の一種だ。あんなやつは他では見たことないけどよ。聖歌隊だとあいつは『御遣い04』と呼ばれていた。北米の『吊るされた十三人の男たち』とか……(生体管制より通達。ログを削除しました)とか、あの辺りの、常軌を逸した力を持つ個体の一種だ」


「具体的に何をしている? どう変異しているんだ」


「やつはどうにも世界の在り方、というか組み合わせ方を変えられるらしい。自由自在かは怪しいが」


「世界は一つしか無いだろう」


「俺もそう思うんだが、どうにもそうじゃないみたいだ。代替世界だとか平行世界だとか……お前のメディアにそういう知識は入ってないか? アルファⅡってそっち関係だろ。この世界は一つじゃない、観測できないだけで似た世界や違う世界が山ほどある。そんな考え方だ。そしてそれがどうやら本当で、やつはそれらを裁断して並べて畳んで適当に繋げて、ツギハギだらけの襤褸切れみたいに変えちまうみたいなんだな。付け足して並び替えて『起こったこと』を無かったことに変え、『無かったこと』を起こったことにすり替える。さらには全然違う歴史で無理矢理塗り替え、一繋ぎに作り替える。世界を果ての見えない『回廊』に変えちまうわけだ」


「だから『回廊世界』か。いったい何が目的で……」


「そこまでは結局掴めなかった。ただ、恒常性を回帰させるための力が、おそらく時間軸の方に働いたんだろうなっていうのは分かった。なんて言うか……悪性変異体っていうのは苦しい状況から何とか逃れようとした感染者の成れの果てだろ。あいつはそれの行き着く先だと思う。時間をいじれば世界を変えられると思ってるんだろ」


「その存在に名前はあるのか?」


「俺たちは『時の欠片に触れた者』と呼んでいた」



検索:『時の欠片に触れた者』

該当:000511件

選択:最古のレコード

……エラー。記録日時が不正です。記録日時を確認できません。エラー。エラー

……ERRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR……

再生/レコード005891:


 丘の影に影を見た……。

 それは手に箱のような塊を抱えていた。眩いばかりの光を放つ……。

 人間のような姿をしていたがそうではない。手の中の光こそがその怪物の真髄で、捧げ持つ従者のような輪郭はまさしく影だった。網膜を焼くような凄まじい光、それを裏付けるために編まれた即席の影。光を飲み込むようなのっぺりとした闇、その七つある瞳は煌々と燃え上がり、混沌の鞴から吹き込まれた永劫の業火が眼窩から覗いている。『時の欠片に触れた者』は手にした光を捻った。捻った。捻った……それは数千か、あるいは数万の時間を欠片にした小さなパズルだった。一度面を回すたびに雪原の花々が枯死して植林された素っ気のない針葉樹にすげ変わる。覆う雪は悉く溶けて湖になる。湖畔に住んでいたらしい老人が驚いた様子で家から出てきた。次に捻られたとき湖畔はどこかに再配置されていた。回す、また回す。太陽の横に月が現われる。月が砕ける。太陽が膨脹して破片を飲み込み空一杯を焼き尽くして消え去る。光が形を変えるたびに世界が呆気なく変容していく。渦動の波が荒れ狂う大蛇のようにのたうち回り世界を蹂躙していく。丘の背後が海に変わり、見も知らぬ鎮静塔が巨獣の乱杭歯のごとく空を貫かんばかりに不規則に生え並び、次の再配置では均等な間隔へと整理された。そして塔すらもが音を立てて崩れ肉に覆われた都市が形作られ、都市は茨に包まれて腐り落ち、腐り落ちた場所から青い花が咲き乱れ、青い花を髪に挿す少女達が……。

 お前には何も出来ない。

 お前には何も出来ない。

 お前には何も出来ない。

 それはお前を見ている。

『時の欠片に触れた者』はお前を見ている。

 燃え上がる七つの瞳がお前を見ている……


レコード005891:終了



「俺たちは『時の欠片に触れた者』の手の中から逃げられなかった。俺としてはロシアに向かう気だったんだが、北欧から脱出したとしても、いつのまにか全然違う場所にいて、最後には何だか見覚えのある北ヨーロッパのどこかに再配置されちまう。お前も起動してから大分長いんじゃないか? 何か妙なことが起こって、真っ直んでたはずなのに来た道を引き返してしまっていた。そんな目に遭ったんじゃねえか?」


「いや。私はまだ起動して三日と経っていない。そのような経験は無い」


「三日?!」少女は唖然とした。「マジかよ、今まで何してたんだ?」


「私たちは」生命管制より通達。ログを削除しました。


「ともかく、俺は『時の欠片に触れた者』をどうにかしないことには話にならなかったわけだ。そのためにはその地方の『クヌーズオーエ』で起こっている武力衝突に介入して、どうにかして一つの軍隊にまとめ上げて、時曲げクソ野郎を倒さなければならなかった。まぁ、最後はご覧の有様だよ」


「君の起動直後のログを読んだが、腑に落ちない」


 アルファⅡは首を傾げた。

 シグマ型ネフィリム。

 アルファⅡの記録には無い機体だが、レコードの中の姿は、背後で四散しているシィーの装備と明らかに異なる。


「どこかで補給を受けたようだな。活動拠点があったのか?」


「……エージェントを名乗るスチーム・ヘッドが、いきなり現われてな。そいつによくしてもらった」


「過去の君は、既に出発しているエージェントは君と同型で、何の役にも立たないだろうと認識していた。防疫局も死に体で、とても支援を回す余裕などないように思えたが」


「そこのところが俺にもよく分からん。ただ、俺は小舟を漕いでノルウェー上陸したんだが、それに合わせてエージェントが出現した。らしい」


「らしい、というのは、何だ。出現したというのは? いつからスチーム・ヘッドは勝手に生えてくる植物になった?」


「そう考えるのが妥当、としか言いようがないんだよ、勘弁してくれ。たぶんだが……丁度良く『再配置』があったんだと思う。そうだな、『ガンマ型サジタリウス』でどうだ。ヒットした中で一番古いレコードを選択すれば良い」


「検索を終了した」アルファⅡはレコードを読んで頷いた。「上陸した先に都合良く物資集積場があって、ガンマ型サジタリウスの配備された部隊が陣を構えていたと? しかもまたクヌーズオーエか。今度はクヌーズオーエ物資集積場……」


「しかもガンマ型サジタリウスの指揮をしてたのはベータ型だ。どっちも俺の記憶だと実際には生産されていない」



検索:『ベータ型』

該当:00004件

選択:最古のレコード

……エラー。記録日時が不正です。記録日時を確認できません。

再生/レコード000021:


「妙だってのは認めるよ、ただまぁ防疫局とは連絡付かんし、それでも荷物やら増援やらは次々運ばれてくる、受け入れないわけにはいかんだろ?」


 窓から薄明かりが射すばかりの暗いバーの一室で、ベータⅨを名乗るその機体は、ガスマスク状の口元を解放して濁った水を煽った。

 ごくごく、と得体の知れない液体を美味そうに喉を鳴らしながら飲むのを、シィーは困惑して眺めている。


「物欲しげに見るなぁ。こいつは80年もののウィスキーだ、あんたもやるか?」


「スチーム・ヘッドが酒飲んでどうすんだ。酔えるわけないだろ」


「そうだよな。そもそもこれは酒じゃない。どっかの水溜まりから汲んできた、ただの汚水さ……酔ってるときのエミュレートが出来るのは本当に良い仕様だ」


 酩酊度合いを調節するためだろう、ガントレットのダイヤルを幾つも弄りながらベータⅨはぼやいた。


「不真面目な先輩だが見逃してくれ。変な荷物の、受け入れ、仕分け、管理、管理、管理……その繰り返しだ! ガンマ型の連中は真面目すぎて気が合わんし、デルタ型ときたらいっそ昆虫じみてやがる。しかも、どいつもこいつも命名規則がおかしい! ウォッチャーズだのサジタリウスだの……出展元を統一しろよ! だいたい、何でそんな気取ったコードネームがついてんだ?! あんたなんてネフィリムだろ?!」


「一応そういう名前だが……」


「恥ずかしくない?! 面と向かって私はシグマ型ネフィリムですって言うのは!」


「まぁ、多少な……だがそんな余裕は、正直無かったし……」 


「それで、誰も彼も同じことを言うんだ。外は大変な状況で名前なんて気にしてなかったって。大変な状況って言ったって、世界的な感染が起こって、もう百年は経つし! 今更?! 何でまだ追加のスチーム・ヘッドが生産されてるのかも分からない! 私には付いていけないね。とても素面じゃやっていけない……」


「いや、だから俺はアイスランドの防疫局から来たばかりで……」


「アイスランドの! 熱核ミサイルが落ちてとっくに消滅した土地からどうやってだ!」


『こいつ本当にエージェントなのか?』と支援AIに呼びかけると『肯定。未登録のエージェントですが、酩酊状態のような高精細で冗長なエミュレートは、防疫局でしか実現されていなかったものと考えられます』とそっけない回答が来た。


「実際はどっかの監視基地がパワーダウンして、そこから逃げ出してきたんだろ? シグマ型ネフィリムだか何だか知らないけど、そんな廃材みたいな装備でエージェントを送り出すなんてあり得ないね」またぐびぐびと汚水を煽る。「シベリアに行きたいってのも正気の沙汰じゃ無いよ」


「シベリアじゃなくて、モスクワな。モスクワに行きたいんだ」


「どっちも変わらない! どうせ、あっちもよく分からん連中に制圧されて何十年か音沙汰ないし……とっくに滅びてると思うけど。まぁ補給が必要なら好きなだけ持って行って良いよ。そのための集積場だからね」


レコード000021/終了



「俺の旅はずっとそんな調子だった。いるはずのない部隊や、敵対しているはずの連中と一緒にここまでやってきた。アルファⅡ、お前がどの程度やる気でいるのか分からないが……とにかく『時の欠片に触れた者』をなんとかしないと先には進めないぜ」


「そうか。ただ、疑問点が一つある」


「レコードを読んでも分からないことがあるのか? 俺もさ、なんていうか、折角の機会だし、バッテリーが切れないうちにやっときたいことがあるんだが……」


「私の身体で何をする気ですか」『当機としても見過ごせません』と同じ顔の少女が不機嫌そうに言うので「そうかっかするなよ、健全な趣味さ」とシィーが言い訳をした。


 アルファⅡは二人が言い争いをやめるのを待って、疑問を口にした。


「シグマ型ネフィリムとは何だ?」


「だから、アルファⅠサベリウスの後継機で……」


「複数メディア搭載型の量産機、というコンセプトは理解した。だが私の記録にそんな機体が生産された記録はやはり存在しない。調停防疫局の機体は試作機が一機、研究用・実証用の二機と、アルファⅠサベリウス、アルファⅡモナルキアの二機。合計五機だけだ」


「あ……?」少女は頸を傾げた。「そりゃ、お前が起動プロセスに入った段階では計画が無かったかもしれないが……」


「君の記録ではアルファⅡの筐体が完成した段階でもうネフィリムの構想自体は存在していた。だが私の記録にはそんな情報は一切無い。君は、私の歴史に存在していない」


「……俺が知ってるアルファⅡモナルキアじゃなさそうだな」少女は腕を組んだ。「歴史のすりあわせをしたい。何が世界秩序を崩壊させたか覚えてるか?」


「スヴィストスラーフ聖歌隊によるロシア軍基地の占拠と、無差別な大陸間弾道ミサイルの発射だ。それに反応して、各国の軍や合衆国の全自動戦争装置が、大量の核ミサイルを即座に打ち上げた。彼らはまだカルト教団や調停防疫局による大規模テロだと理解していなかった。想像する猶予など残されていなかった」


「その辺りまでは、俺の歴史と同じなようで安心したよ。調停防疫局が一枚噛んでるってところまで含めて。……迎撃は大方上手くいった。聖歌隊の奪取したミサイルも、迎撃のためのミサイルも、大半は衛星軌道上で爆発した」


 シィーのプシュケ・メディアを頭に突き刺されている金髪の少女は、傷口から目元にまで垂れてきた血を拭いながら、安心した顔で頷いた。

 そのそばからまた血が流れてきた。

 目元をごしごしと鬱陶しそうに拭いながら、「くそっ」と毒づいた。


「血が止まらん。もう治ってもいい頃だろ。……これ、俺のアイ・メディアはどう挿してあるんだ? ちょっと吐き気がするし、割とこう、痛みがあるぞ。まさか頭蓋骨にねじ込んだわけじゃあないよな。くそったれ……」


「ちょっと。シィーだっけ? あたしの口で汚い言葉を使わないでくれない?」と同じ口で叱りつけたのはミラーズの意識だ。


 少女はまごついて、謝る先を探して視線を彷徨わせ、最後にはアルファⅡのバイザーの黒い鏡像に対して頭を下げることになった。

 アルファⅡは少女の肉体を舞台にして繰り広げられる不条理演劇のようなやり取りに全く何の感慨も示さず、ただ次の言葉を待った。


「……人工脳髄の挿し方の話はもうやめとこう。続けるぞ。それで、何発かは地上に落ちたが、被害は限定的で、大昔恐れられていたみたいに、世界を終わらせるほどじゃなかった。死の灰が降り注ぐこともなかったわけだが……電磁パルス攪乱が世界を襲った。情報網は破壊され、生活インフラは根こそぎになり、未対策の産業設備は沈黙し、大勢の難病患者が死んで不死病患者として蘇った。不死の兵士たちも人工脳髄を焼かれてお陀仏だ。それで、何故こんなことが起きたのか、どこの国の核弾頭が自国の電子機器をぶっ壊したのかもよく分からないまま、各国が戦争状態に突入した。これが最後の大戦だよな?」


「私の記録では、大凡そうだ」


「事態は混迷を極めた。全世界の市民の生活は一瞬で崩壊し、人間らしい生活と言うものが紙の上にしか存在しなくなった。全部リセットされたわけだ」


「リセットとは言わないだろう。破局したものは、元に戻せない」アルファⅡは黒く歪んだ世界が映るバイザーを揺らした。「北米の組んだ全自動戦争装置すらも国家運営の継続を断念した。残存していた複数の軍産複合体と保守系の宗教組織を取り込む形で人類文化継承連帯を設立して、侵攻と同化を始めた。国際連合は無闇に混沌とした情勢の中で、殆ど世界全部に救援を向けながら自分自身の全てと戦っていたわけだが、継承連帯の登場で全部ひっくり返されてしまった。片っ端から瓦解し、吸収されていった。世界保健機関も、もはや事態を収集できないと見て、いよいよ解散した」


「そして武装した外局であるところの調停防疫局だけが残された、と。戦前に開発が始まった高級クソヘルメット眠り姫であるところのお前さんは、そこでグリーンランドのチューレ空軍基地に運び込まれたわけだ。誰の手にも渡らないようにな」


「高級クソヘルメット眠り姫」アルファⅡは復唱した。「ミラーズ、今のは良いのか?」


「何も間違ってないし良いんじゃない?」


『ミラーズに同意します。何も間違っていません。貴官は高級クソヘルメット眠り姫です』


「……疎外感を感じるな。また一つ学習してしまった。兎に角、私に入力されている記憶ではそこまでしかない。そこからどうなったんだ? 全世界が継承連帯に征服されるまで後数ヶ月という状況だったようだが」


「あ、ああ。防疫局にも、もうどうしようもなかった。最後まで足掻きはしたが、俺の最初の機体みたいに、色んな国のスチーム・ヘッドの端材を寄せ集めてアイ・メディアを載せて、エージェントをでっち上げて、支援がない前提で送り出してたんだ。レコード通りだ。絶望的な旅路だよ」


「大まかな部分では、やはり乖離はない。しかし明らかに違うようだ」


「ああ。俺とお前、どっちか少なくとも片方は、基底世界の出身じゃない。たぶん『再配置』の影響だろう」


「混乱しそうだ。再配置とはそこまで決定的なものなのか?」


「心構えを幾つか伝えとくか」少女は神妙な顔で首を振った。「例えばロンドン。お前の記憶だとロンドンはどうなってる?」


「ロンドンはかなり早い段階で悪性変異の連鎖によって崩壊している。今となっては活性化した感染者と異形の変異体が跋扈する危険地帯のはずだ」


「俺の記憶と一緒だな。あそこはゾンビ映画みたいになってるはずだった。だがガンマ型の部隊と一緒にロンドンをのぞきに行ったら、悪性変異体がいないんだよ。感染者もいなくて……代わりにちょっとした軍隊が居着いて、継承連帯に抵抗している。おまけに俺を受け入れてくれるわけだ。で、案外世界は大丈夫なもんだな、と思って一週間ばかしかけて次の街に行くと、今度は普通に滅びてる。そうしてロンドンに引き返すと……今度は聞いたことも見たこともないような悪性変異体が暴れ回ってて、それと継承連帯が致命的に摩耗しながら戦ってるんだ。一週間前のロンドンとは丸きり別物だよ。そして街の周囲をぐるっと囲むようにして、城壁みたいな隔離障壁が建造されつつある。一週間ではとても造れないような壁がよ……」


「支離滅裂なことを言っている自覚はあるか?」


「だが事実なんだ。もっと混乱させるのが、継承連帯の連中が、調停防疫局のことなんて丸きり知らない、敵対していた過去も無い、という様子で接してくることなんだよ。旗を見て、驚いたな! WHOかどこかの生き残りか? なんて抜かしやがるわけだ。そいつらの認識だと、世界保健機関はとっくの昔に継承連帯の翼賛団体として合流を済ましてて、防疫局なんてものが存在していた瞬間は、無いんだと……」


「つまり、それがこの世界の有様と言うことか? 何もかも筋が通らない……無数の歴史がパッチワークされて、無意味化している」


「無限に繰り返される上に、意味がない。果てが無い。なお悪いのは、『再配置』されるのはどうやら世界的な感染が起こった後の土地ばかりらしいってことだ。地震が起こっていたり、異常気象に襲われていたり、感染者が皆ゾンビとしか言いようのないようになってたり、悪化することはあるみたいなんだが、逆は無い」うんざりした顔で少女は頷いた。「本当に辿り着きたい場所には永久に向えない。『時の欠片に触れた者』をどうにかしない限り何もかも徒労だ。どうにかしたって、お前の望みぐらいになると、もう適いそうに無いが……俺はまぁ、最後に良い思いをさせてもらったよ。キジールにも、もう一度会えた。ヴァータはどうしたんだ?」


「ヴァータは、一足先に旅立ちました。リーンズィが導いてくれたのです。今は神の腕の中で安らいでいるでしょう。あたしは変なのに掴まっちゃったけどね……」


「そうか……リーンズィってのは、アルファⅡのことか? ロシア語でレンズだったか。連想で渾名付ける癖はどこでも変わらないんだな」


「二人とも、ヴァータというのは、『ミチューシャ』のことか?」


「そうよ。スチームヘッドになってからのあの子は、いつもスチーム・ギアの中にいました。あなた着ぐるみみたいになってしまったのね、ということで、着ぐるみの中身、ヴァータです」


『可愛い名前ですね、ミラーズ』


「私は家族とかそういうのが全然分からないんだが、実の子供に綿という名前を与えるのは普通の感性なのか?」


「いや普通じゃねえよ」


「じゃあキジールは聖歌隊の中でもやはり普通ではなかったのか……道理で話が通じなかった……」


「キジールは名付けのセンス以外は割とまともな方だったぜ。見た目はあどけないくせに思いの外しっかりしてて反応が良かった。達者なものだったぜ、上の口も下の口も……痛っ痛い痛い痛いあああああああ! やめろ! やめろミラーズ! 冗談だって!」


「あなたたちがその別の世界の私に何をしたのかは、この際問いません。でも人の口で下の口とか言うのはやめなさい」


『焼きますか? 焼きませんか? 焼くのを強く推奨。冗談では済まされない事案です』

 

「悪かった、悪かったって! しかし、そのリアクションだと、いつも通り、やっぱり何にも覚えてないんだな……。分かった、分かった、あんたは今までに遭ったどのキジールとも違う。大人しく認めるよ」


 キジールに関する記録に粗方目を通して、アルファⅡが問いかけた。


「君たちは彼女に何か乱暴を働いたのか」


「俺は違う。だが、初めてキジールとあった回廊では聖歌隊と継承連帯がめちゃくちゃ喧嘩しててな。俺は継承連帯側についてた。理解してくれとは言わないが、散々っぱら味方を殺されて、何回も何回も違う時間の中で行く手を阻まれたら、ぶちのめしたあと憂さ晴らしぐらいしたくなるだろ」


「最っ低……」


 青ざめた顔でミラーズが呟き、己の体を庇うように抱きしめた。

 ユイシスが語勢を荒げて追従する。


『リーンズィ、問答は尽くしました。もう回路をオーバーロードさせて焼いてしまいましょう!』


「とにかくそういう問題ですらも、何百回かあった出会いの中の一つにすぎないってぐらい、因縁が深い相手なんだよ、あんたらは! ドミトリィ二世……ヴァータのやつが結構色々なバリエーションのギアを奪取しててな……ジャガーノートとコンカッションホイールを同時に動かしてたときは絶望したね。安定した勝ちパターンも結局組めなかったし。だが話してみれば意外と話の分かる連中だった。後半戦は上手いこと付き合えてたと思うがね」


 ミラーズの肉体を借りたシィーは金色の髪を興味深そうに掻き上げて、「何も変わらん、滑らかでふわふわの髪だ。だがお前は俺のこと覚えてないんだよなぁ……」と呟いた。


「あなたからの親愛の感情は、伝わりました。ですがそれ以上私の身体を弄ぶようなら、このメディアを引き抜いて井戸に落とします」


 シィーはまるで聞いていない様子だった。

 溜息を吐き、アルファⅡを手招きして近寄らせた。

 ヘルメットの兵士の首に腕を回して、黒い鏡面に映る不可解そうな顔をした少女に、嘆くようにして語りかけた。


「……しかしキジール、あんた本当にろくでもないやつに捕まってしまったぜ。アルファⅡは人間が人間として滅びることを否定する機械だ。こいつに関わったやつは選択を強要され。神になるか悪魔になるか、獣に堕ちるか機械と化すか……どんな形でかは、分からん。でもあんた、これは確実に言えるぜ。あんたは人間じゃなくなる……」


「とっくにただのエコーヘッドよ。人間じゃ無いわ」


「どうしたキジール、飲み込みが悪いじゃないか。俺の知ってはあんたは、どいつも託宣者みたいに賢しらげだったのによ」


「ん。ひとを急に誉めて何をするつもり……」


 鏡越しに睦言のような言葉を交わす二人を、意外にもユイシスは難しい顔をするだけで、黙って様子を見守っていたが、首に手を回されて鏡代わりに使われているアルファⅡの視線は全く違う方向を向いていた。

 空だ。

 太陽の沈まない空。

 白夜の如く終わらない永遠の昼間……。


「すまないシィー。バッテリーが切れるまではキジールの肉体を使わせて君の意思を尊重する気でいたのだが、少し気になることがある……再配置の兆しというのはどんな形で現われる?」


「ん? ああ……くそっ、なんか変な感じがすると思ってたらお前らが身体感覚を弄ってたのか」


「う……そういうこと。何となく変な気分になってきたと思ったら人のセンシティブな部分をそんな気軽に。抗議しますよ!」


 シィーはばつが悪そうに身を離し、居住まいを正した。

 髪を慌てた様子で整えているのがどちらの意識による仕草なのか、外からは判別がつかない。


「まぁ、いくつか例を挙げたが、デジャヴが起こったら基本的には警戒だな。さっき見た猫を、また同じような場所で見る、とかだ。スチーム・ヘッドにデジャヴは起こらんから、それは実際に隣接した場所で何らかの改変が行われた痕跡と見て間違いない。天体観測はあんまり役に立たないから忘れろ。ただ、天気がおかしいとか、夜がずっと明けないとか、そういうのあからさまなのは、兆候としてはかなりヤバい。一番悪いのはそれを観測して、異常だと認識した瞬間だな。そうすると情報負荷に耐えきれなくなった生体脳が再配置に適応を起こして、一気に影響が出る」


「影響とは?」


「まぁ、いきなり地形が変わるぐらいのことは有り得るな」


 廃村の北側にある家屋から突如火の手が上がった。建材がガラガラと音を立てて崩れ、火達磨になった感染者が奇声を上げながら瓦礫から這い出てきた。


 シィーは反射的に刀を探したようだが拘束服のようなドレスに阻まれて転倒した。

 刀は元々使っていたボディの周辺に散乱していて、掴めそうな武器は手の届く位置に一つもない。

 黒い鏡面世界の内側でアルファⅡは目玉を頻りに動かした。二連二対の不朽結晶のレンズが黄色く発光を始める。猟銃を右手に持ち、銃身をガントレットの左手で掴んで、構える。


 照準をあちこちに向けるが何を狙えば良いのか即座に判断できなかった。

 変容は次々に進行した。次々に家屋が倒壊しては元に戻った。あるいは見上げるような塔に変わり、早贄のように感染者を枝に突き刺した樹木に変わった。藻掻いている感染者は家にいた感染者よりも明らかに多い。

 樹木は青い炎に包まれて見る間に灰になり、雪原に落ちて消滅し、雪原からは無数の人型の肉塊が芽生えて成長し元の感染者へと再生した。

 雪原はいつのまにか灰の海と化して水気を含んだ泥濘に代わり蒸発して荒れ果てて埃の舞う土に変じて節の付き方が珍奇な葦が地面から生えてきたが、それらは新たに地面を突き破ってきた生えてきた瑞々しい枯れ木に舞い上げられて散らばった。

 存在しない何者かへと負債でも返済するかのように太陽光が消滅する。また現われる。世界が痙攣して瞬きをするかのように瞬間的な昼夜の逆転が続き、そのたびに雪は溶け山は崩れ森林は深さを増す。

 全てが成長して真っ黒な森林地帯を前方に新たに形成していく。

 遙か遠方に影が現われる。

 黒い影が。

 黒い影が立っている。

 世界が暗転するたびに影が近づいてくる……。


「『再配置』だ!」シィーが警告した。「俺たち再配置に巻き込まれてるぞ!」


「言い忘れていたが……実は我々が捜索を開始してそろそろ六時間ほどになる。とっくに夜になって良い時間だった」


「そいつはモロに再配置が起こる前兆だぜ!」少女の体でばたばたと暴れながらシィーが叫んだ。「手遅れだが、そういう説明の付かないものごとが起こったらすぐに離れるか、隠れるかしろ!」


 行進聖詠服の一番下の釦を外そうと躍起になっているようだが、記憶と位置が異なるのか上手くいっていない。


「最っ悪! どさくさに紛れて何してるのよ! このままじゃ不味い! 何が起こるか分からないんだよ! キジール、あんたの服は一応、一番下の留め金さえ外せば、走ったり飛んだり、そういうことも出来るようになってるよな! どうしてそれを知ってるの?! まさか本当に違う世界であたしと……何でも良いから! どうでもいいだろあんたにとってそれ! で、どの装飾に偽装されてるんだ?! 下着丸出しとかの文句は後だ後、恥やら外面は生き延びてからにしろ! 何回も何回もお前を壊されたくないんだよ!」


 最初は黒い点のようだった影が、輪郭をなぞれる程度には克明になり始めた。

 影は一歩も動いてはいない、だがその影が属する世界自体が、近づいてきている。

 世界が暗転するたびに、背にした黒々とした森林と一緒に津波のように迫ってくる。

 影は長柄の権杖を携えており、昼間が訪れるたびに銀色に一度だけ輝く。

 あちこちが星のように金色の光を照り返す……また暗転する。


 影が近づく……権杖の先端には十字架の意匠があり、先端は研がれて鋭く尖り、片方は三日月のように膨らみ、もう片方は猛禽の鉤爪の似て歪んでいる。

 分厚い刃。斧槍だ。

 敵を断ち割るための。


「ミラーズ、意思決定の優越に基づき、命令する。エージェント・シィーの指揮下に入れ」


 金髪の少女はか細い声で返事をして、自分自身の手で行進聖詠服の留め金を外し始めた。

 ショーツが露出することなど微塵も気にしていない様子だった。

 下半身の拘束を解かれたシィーは跳ね起きた。


 それから「身体を間借りしておいて何だが、あんまり良い気持ちはしないな」と零した。


「二人とも、あの機体に見覚えはあるか?」


「聖歌隊っぽいが……えらく地味な服だな。……シィーは黙ってて! あの武器はヴァローナ。大主教リリウムの使徒、ヴァローナです!」


『知っているのですか、ミラーズ!』とユイシスが金髪の少女同士で頬を合わせた。 


「あたしが名付けたんだもの、当然覚えています」ユイシスにすり寄りながらミラーズが応える。「我が仔ヴァータには及びませんが、リリウムの使徒の中では腕の立つ娘です。注意して……じゃれ合うはそこまでにしてくれ、聖歌隊の機体でも戦闘用なら不味いぞ!」


 シィーが少女の身体を操って己の残骸のもとへと駆けた。

 刀を持ち上げようとするが筋出力がまるで足りない。


「くそっ、やっぱり持ち上がらんか。おいアルファⅡ! あたしもユイシスもアルファⅡです。ちゃんと分けて呼ばないよ分からないわよ。ああくそっ、リーンズィ! 俺は今、オーバードライブ出来るのか?!」


「可能だ。首輪型人工脳髄のバッテリーで三秒を保証する」


「出来ないのと同じじゃねえか!」


 また暗転する。

 影が近づく……それは鴉に似ている。

 黒装束の兵士で、中世に疫病の街を徘徊していた医師じみた、鴉の意匠の仮面を被っている。鴉の黒い両目がじっと見つめている。暗転する。影が近づく……インバネスコートの下、二本の腕には金属質のガントレット。

 唯一縋るものとでも言うように十字架の斧槍を握りしめている。

 暗転する。影が近づく……。


 血に濡れた鴉は「ハレルヤハ」と涼やかな少女の声で鳴いた。

 ユイシスが『不朽結晶連続体』のタグを兵士の全身に付与する。

 暗転する。影が近づく……。


 世界を揺るがすような重苦しい機関始動音が轟いた。


『未確認スチーム・ヘッド、オーバードライブを起動しました』


 世界がまばたきをするよりも速く、漆黒の鳶外套は枯れ果てた大地を蹴った。

 雪原に飛び込んで雪花の飛沫を上げて、黒い翼のようなマントを広げて突撃してくる。

 骨肉を削がれてよろめく亡者じみて左右に奇妙に揺れる走り方は、暴風に乗って滑空する大鷲のようにも見えた。

 ほぼ同時に、アルファⅡもオーバードライブに突入していた。

 同等の加速度の世界で猟銃を放つ。


 一射目はよろめくような軌道に幻惑されて外れ、完璧に修正を加えた二射目は命中したが、不朽結晶の突撃行進聖詠服に阻まれて終わった。

 衝撃で姿勢を揺るがすことさえ出来ない。

 再装填と照準の時間が惜しい。

 左手のガントレットを猟銃から離し、弾薬ポーチのショットシェルを掴み取る。

 己の胴体と猟銃を盾にして、背後のミラーズや心臓に流れ弾が飛ばないよう調整しながら、ガントレットのスタン機能を作動させ、電流で火薬を直接撃発した。

 衝撃で左腕が跳ね上がり、一〇〇発近い散弾が前方に致死性の結界を作った。

 十数発が逆方向に飛んでアルファⅡの肉体に命中したが、些事だ。


『生命管制、緊急止血中』

 アルファⅡと全く同じ姿勢のユイシスのアバターが呟く。

 腹部や右腕部から大量に出血している。

『警告。あまり些事では無いです』


 鴉面の兵士は散弾の雨に全く臆すること無く疾走してくる。

 意味するところは一つ、この恐るべき鴉に銃弾の通じる場所など存在しないということだ。


『不朽結晶連続体の服、芸術品では無いようだ』


 ユイシスが冷笑的な顔に不服そうな表情を浮かべるのを横目に、アルファⅡは格闘戦に備えた。

 敵にもアルファⅡの左腕と頭部が不朽結晶連続体で覆われていることは知れているらしく、攻撃は右半身の腹を目がけて繰り出された。

 アルファⅡの黒い鏡面世界において、その動きを精密に補足する。

 オーバードライブした知覚でさえ目で追うのが難しい斧槍の刺突を的確に回避しながら、右手の猟銃を振るって鴉面の頭部を打ち据えた。

 不朽結晶で編まれているとしても、強固な構造で無いならば衝撃は殺せないはずだ。

 手応えはあったが鴉面の少女は苦鳴も漏らさない。

 それどころか予め定められた手順を熟すような素振りで、よろめきながら後方へと飛び退いた。

 回避ではないという直観があった。

 ユイシスが、突き出された権杖の柄が斜めに下がっている点をポイントした時には、右足を膝から切断されていた。


『隙を作らせるために敢えて打撃を受けたのか。こうなると……』


 斧槍の柄が甲冑の手の中をスライドしていく。

 次に突き出した動作では姿勢を崩したアルファⅡの心臓を浅く刺突した。

 ヘルメットに吐血の臭気が充満した。

 痙攣する兵士の右腕は猟銃を手放し、タクティカルジャケットのナイフへと伸びていたが、鴉面の少女は刺突の後また一足飛び退き、翼を翻すような動きでくるりと回転しながら、斧槍を振りかぶった。

 全身全霊で叩き込まれた分厚い斧の刃。

 アルファⅡの頸部、ヘルメットに覆われていない箇所に正確に叩き込まれる。

 不朽結晶同士が擦れる甲高い音を立てながら、刃は容赦なく兵士の気管支、頸椎、動脈といった生存に必要な全ての部位を破壊し、胴体から皮の一枚も残すことなく完全に刎ねた。


『やはりか。後は予定通りに頼む』と言い残してアルファⅡの意識が消失した。


『全く、貴官はAI使いが荒いですね。貴官がブラックアウトしたら当機も視覚を喪失するのですが……オーバライド、レディ』


 首を切断された金髪の少女のアバターが、左手をその進路上に置いた。

 ユイシスの電気刺激が外部から強制的に肉体を稼動させる。

 不朽結晶連続体のガントレットが、首を切断した後の斧槍を受け止めた。

 鴉面の少女が初めて呼吸を乱した。


『スタンモード、レディ』


 電光が迸り、最大出力の電流が斧槍を伝わって少女の体に殺到した。

 どれだけ頑丈な衣服でも、このレベルの絶縁能力までは備わっていないらしく、鴉面の肉体が激しく上下した。手甲の中で筋肉が収縮し、高圧電流の流れる斧槍を手放すことが出来ず、むしろ縋り付くようにして握り締めている。

 ユイシスは手早くアルファⅡの肉体の状況を確認する。頭部はまだ刎ねられて空中にある。


『再生を集中的に実行すれば数秒で修復できそうですが、心臓と平行して修復するのは非効率的ですね』 


 一時的に付与された意思決定の優越権を利用して、頭部を戻すよりは次々に攻撃を仕掛けた方が有効だと、アルファⅡの思考ルーチンで判断する。


 最後の力の幾ばくかを注ぎ込んで斧槍ごと少女の肉体を持ち上げ、思い切り地面に叩き付けた。

 何かが砕けたような感触。


「かはっ」と鴉面の兵士の押し潰された肺から呼気が吐き出されたのを聞いた。


 しかし、敵も、少女の躯であろうとも、紛れもなく戦闘用スチーム・ヘッドだ。

 このダメージからも極めて短い時間で復帰するだろう。


 既にアルファⅡの重外燃機関は急速発電を開始しているが、心臓が破壊されたせいで発電効率が落ちている。敵に一手先を取られている。

 おそらくその「極めて短い時間」では、再起動出来ない。

 エージェント・アルファⅡが停止する寸前に組み立てていたプランに従って、ユイシスはタクティカルジャケットからナイフを抜き、


『許してくださいね……』後方にいる金髪の少女へと投げ放った。


 

 オーバードライブ下での緒戦は一瞬で決着した。

 大量の刀剣類から、己の矮躯でも扱えそうなものを探していたミラーズが、その超高速戦闘の趨勢が決したことに気付いたのは、ユイシスからごく短い内容の高速通信があったからだ。

 ミラーズは、己の思考なのか形成された思考なのか区別しないまま、刹那の攻防が終わったまさにその時、二人のスチーム・ヘッドの方を見た。


 首を刎ねられて血を噴き上げているアルファⅡ。

 雪原に叩き付けられた鴉面の少女。

 そして自分に向かって飛んでくる不朽結晶連続体のナイフ。


「ええっ!?」


 無意識に手を前方へ出していなければ、ナイフは頭に深々と刺さっていたことだろう。


「うわっ! えっ?! 何で?! 何これ、痛い! 痛……シィー! シィー、これ、何とかして!」


 掌を貫通して柄で止まったナイフを自分の肉体に引き抜いてもらいながら、ミラーズは荒く息を吐いた。


「痛っ、痛い痛い……うう、なっ、なんであたしにナイフが飛んでくるの。さっきからこのナイフに何回も酷い目に遭わされてる気がする……」


 呻いている間にも、鴉面の少女は痙攣しながら起き上がろうとしていた。

 一方でアルファⅡはまだ重外燃機関から鮮血色の蒸気を噴射したままだ。

 どちらが先に復帰するかは明らかだった。

 困惑する金髪の少女の顔で、シィーは形の良い眉を顰めながら、無事な方の手で器用にナイフを回した。


「バトンタッチってことだ。不朽結晶で全身を装甲した兵士とやりあうにはそれなりの準備がいるからな、リーンズィのやつは準備段階に入ったんだろう。それで、俺たちに武器を投げて寄越したわけだ」


「こんなナイフ一本で時間稼ぎしろってこと?!」


「舐めたものじゃないぜ。最高硬度の不朽結晶のナイフだ。大抵何でも切れる。ミラーズ、オーバードライブだ」


「了解しました。オーバードライブ、レディ」感情の無い声で復唱した。「本当にやれるの、シィー?」


 かつて刀剣だけを頼りに不滅の戦場を駆けた男は、頭部に角のように人工脳髄を生やした少女の顔で、獰猛に笑って見せた。


「ローニンって渾名をつけたのはお前だぜ。伊達じゃ無いところをこの世界のお前にも見せてやるよ、キジール」



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