セクション3 第百番攻略拠点接収作戦 その5 完全架構代替世界『セラフィニア・ヴォイニッチ』(1)
扉を開くと少女はいつのまにか見知った都市の只中にあった。
振り向いたとき、トム・フィッシャーの浜辺に繋がる扉は跡形もなく消え去っていた。手には銃もない。潮の香りも、血の香りも、立ち所に忘却された。
今のリーンズィの目の前には、ただの壁があるだけだ。果てしなく大きな壁が。
暗い空を振り仰ぐ。
銃弾の嵐吹き荒れる海岸ではなく、無限に積み重ねられる死を看取る無慈悲な太陽の輝く初夏の太陽は見えず、生きとし生けるもの全てを等閑視する醒めた蒼い眼球のような見慣れた太陽が、ひたすやに冷酷な淡い色の眼球が、藍色の雲の渦巻く中天で煌々と輝いている。
『警告。十分に注意してください。第百番攻略拠点についての詳細なデータは存在していません。構成要素の全てが不滅者であると想定。不用意な接触は回避を推奨』
「ところで、これは?」
リーンズィは目の前の巨大な壁について尋ねた。
『推定。第百番攻略拠点の隔壁と推測されます』
リーンズィはそれを見上げたが得体の知れぬ違和感を覚えて沈黙したというのも隔壁であると認識することは出来るが外側から見た時よりも遙かに高く続いており霧霞のような雲に隠されて終点が確認出来ず言詞に言詞を継いで無限に延長された構造体は鑢じみた壁面を震わせて笑っている太陽を覆い隠している見渡す限りの壁が高く高く聳えお前を見下ろして嗤っている少女は怯えて無線機に縋り付くありもしない無線機に縋り付く周波数を合わせる応援を求める助けを求める……ミラーズ……ウンドワート……リリウム……コルト……ファデル……応えるものはいない届く声などない外側には誰も居ない誰一人いない今宵この時この少女は都市に一人きりで人類は廃滅の時代を迎えこの絶滅の都市で少女は一人壁に手を突き咽び泣くしかなく……ピアノ演奏曲が聞こえる。
少女は一人きりで鍵盤を叩いている。
曲名は『愛の挨拶』。
無人の廃屋に錆の浮くパイプ椅子が立ち並ぶ。
落ちた天井から差し込む光が梯子のように埃舞う空気を貫く……。
「なーん」
ヘルメットの中で丸まっていたストレンジャーがもそもそと蠢いて飛び出し、アスファルトに四足で着陸した。
そしてまた鳴いた。
「まだここじゃないよ」
リーンズィは冷たい風に吹かれながら猫を視た。
直前まで何を考えていたのか、ログを参照しても分からなかった。
ただ、猫が何か注意を促しているように思われて周囲を確認した。
何の異常も発見出来なかった。
隔壁が外側から確認したときと印象が異なる点は、多少気になった。
統合支援AIユイシスが外部との通信を試みているのに、何の応答ないのも気がかりだった。
受信自体は可能だった。
合わせている周波数帯によってはノイズに混じって途切れがちな形骸の聖歌、意味の取れないわめき声、スローテンポで憂鬱そうなピアノ演奏曲などが聞こえてきた。
『有効な通信回線を確立出来ませんでした』と報告してユイシスが通信を遮断したのだが、形骸の聖歌も、わめき声も、ピアノ演奏曲も、そのあとしばらく聞こえ続けた。無線機能自体を一時的に削除すると、それらの無意味で雑多な音声も消えた。
遺棄された町をそぞろ歩くような静かなピアノ曲、『愛の挨拶』の印象がとりわけ長く残った。
『推測。自己複製を繰り返す巨大な言詞構造体による、無差別的な情報の書換。不滅者たちが発する自己参照の聖句を受信すると、当機の情報構造において何らかの汚染が発生すると予測します。通信は以後禁忌とします。なお、あの不明な音声が怖いなどではありません。当機はオバケ・ホラーなど全く怖くなく、完全に無敵です』
「無敵なのだな」
『肯定。とても無敵です』ユイシスは即答した。
都市の中央部に、塔らしきものが既に見えていた。
リリウムの証言では大主教ヴォイニッチが象徴として建造した施設である。
FRFの本拠地にあると言われる<塔>と異なるのは、前者が非現実的な外観を持ち厚みすら持たない立体の影にしか見えないのに対し、ヴォイニッチの塔は明らかに実体として存在している点だ。
ただし、おおよそ現実的な様態とは言えない。
歪にねじくれたその形状は、焼け焦げながら必死に空へ手を伸ばす亡者の腕にも似ている。
リーンズィはヘルメットを被り二連二対のレンズで拡大望遠した。
塔というには、あまりにも残骸じみている。
世界中にある忘れられた灯台をかき集めて一つに押し固めたかのような不格好な外観をしていた。
いかにも不自然に傾いており、なお奇怪な事に、外周にはワイヤーで無数の人形をぶら下げねている。
リーンズィは強い違和感を覚えて、人形の一体一体に焦点を合わせて観察した。
意匠が似ているものもあれば全く異なるものもある。
銃を持ち、剣を持ち、弓を持ち、装甲を纏い、ときおり小刻みに痙攣していた。
それは何十機もの吊るされたスチーム・ヘッドだった。
おぞましい光景だった。
リーンズィは言葉を失ってヘルメットを外し、気持ちを落ち着けるために灰色の猫を撫でた。
似たものを見たことが無かったが、強いて言うならばクリスマスツリーに似ていた。
聖ハリストスが生まれた夜に供えられる煌びやかな装飾を施されたモミの木で、根元には子供たちを喜ばせるための贈り物が山と積まれる。リーンズィが知るのは古い映像作品の中に現れ眩い電飾で夜道を照らす愛し愛される幸せな者どもを仄かに温かな光で照らしていた
ヴォイニッチの塔はそれを否定する冒涜の塔に思えた。老朽化の進行した、コンクリート製の巨大なクリスマスツリーだ。
星や靴下や杖といったオーナメントの代わりに山ほどの首吊り死体を飾り付けて、根元にはきっとプレゼントがたくさん積まれていて、黄ばんだ死骸が箱詰めにされている。
「ユイシス、あれは何?」
重外燃機関が唸りを上げる。
機能制限を解除された統合支援AIが、金色の髪をした少女の幻影がリーンズィに纏わり付いた。
『無残極まる防衛施設、監視機構、戦闘指揮所の成れの果てと推測。実用的ではありません。大主教ヴォイニッチは狂気に陥っている可能性があります』
何と戦うつもりでこんなものを、とリーンズィは慄然とする。用途が不明過ぎる。
監視塔が必要なのだとしても、どうして町の中央部に建造するのか不明だ。
スチーム・ヘッドを吊るしているのも不可解で、砲台の代替にしてはどの機体も武装の質が悪い。
カタナや槍などの近接武器を持っている機体。あの状態から何をどうするつもりなのだろう?
最初からこのようにして存在しており誰にも存在意義が分からないのだと言われればそういうものかと承服出来ただろうが、殊にヴォイニッチが支配する世界で、彼女の意志が全く介在しない異物が発生するとは思えない。
つまり、これはヴォイニッチが望んで作り上げた監視機構だ。
しかし、いったい何を見張っていたのだろう?
ミラーズにでも確認を取れれば明快に分かるのかもしれないが、彼女は隔壁の向こう側だ。
――ミラーズ。リーンズィはふと思い出した。
エージェント・リーンズィではなく、エージェント・ヴォイドの複製に過ぎなかったときのことだ。
初めて第二十四番攻略拠点の門を潜ったとき、城壁管理係のギルエルモに奇怪な文章を手渡されて、何らかのテストをされた。料理のレシピにもハーブ風呂の考察とも読めるそのオブジェクトの名は『ヴォイニッチ・ダイアリー』。
大主教ヴォイニッチが書き残されたとされる膨大な量の紙束で、一文字に対して幾つかの意味が圧縮されており、聖句のモジュールを持つレーゲントにしか解読が出来ず、悪くすれば意味を取り込んだ人工脳髄が暴走を起こす。そんな、呪詛と奇跡に満ちた報告文で、内容を正確に理解している機体がいない。
こんな一文があったのを思い出す。
解読してくれたのはミラーズだが、理解可能な程度に補正をかけてくれたのは統合支援AIユイシスだ。
> 例えば、ユークリッド的でない空間による自己参照型時間回廊とか時空塔か。あのタワーからはこちらが荒野に見えているのかもしれない。
> 灯台の仮説。
あれは本当に何かの灯台、誰かを誘導するための道標なのかもしれない、とリーンズィは想像した。
だが目的や役割までは、やはり推測が難しい。
塔まで進むしかないと考えてリーンズィは歩き始めた。
灰色の猫も進んでいく。先導するように。
通りがかった路地裏の薄暗がりには永遠に清潔であるはずの行進聖詠服をどろどろに汚したレーゲントが立っており前の部分をはだけていてまるで街娼のように見えた。
明かりのない街に場違いなほどのネオン広告が立ち並んでおり鈍く発光しながら語りかけてくる。
そこにはこう書かれている。
『求めよ、されば与えられん』
リーンズィはその不滅者を直視しないようにしながら道を行く。ヴォイニッチの気配を感じていた。
『君には望むことしか叶えられないんだ』
ネオン看板、ネオン看板、ネオン看板……。
『分岐点はもっと前にあって』
大主教の言葉は数百年も前からそこに刻み込まれていかのようにリーンズィを待ち受けている。
『誰しもが、望んで、望まない未来へと進んでいく』
都市と一体化しているヴォイニッチからのメッセージだろうが、まだ明瞭に意図が取れない。
ライトブラウンの髪の少女は塔を目指す。
破滅を見極めるために。
救済の可能性を探るために。
無為に死にゆく人々を、FRFの憐れなものどもを助けたいという、純粋な感情を胸に抱いて。




