セクション3 第百番攻略拠点接収作戦 その4 イヴァン・フィッシャー 殺戮/浜辺にて
そのクヌーズオーエの隔壁の前にスチーム・ヘッドは見当たらず、不死病患者もいなかった。
ただひとり、おそろしく古めかしい戦闘服を纏った兵士が座り込んでいた。
彼は死んでおらず、生きてもいなかった。
クヌーズオーエ解放軍の面々は、十分警戒しながら接近したが、何も異常なことは起きなかった。兵士は不死の軍団の到来に反応を示さなかった。五体が揃っており顔色も良かったが彼の瞳はアスファルトの上にある小銃に焦点を合わせて動かない。距離を取った地点から観察が行われた。
兵士はその間中ずっと一つの動作を繰り返していた。
手には血と膿がまだら模様を作る不潔な包帯が巻かれている。傷どころか皺一つない若々しいその手で、そうあれかしと願われて作られた機械であるかのように、絶えず弾丸の装填作業をしている。
戦闘服と同様に極めて古い小銃だった。クリップと銃弾をひとまとめに固めて弾倉へと押し込む形式で、過渡期においてのみ現れ次の世代では廃れていた。
兵士の緩慢な手の動きは死の間際に神に縋ろうとする者の所作に似ており、クヌーズオーエの凍てついた陽光に砲金色の鈍い輝きを滲ませる銃弾とクリップは、さながら朽ちかけたロザリオだった。
ライトブラウンの髪をした少女は、皆に見守られながら、その兵士に近付いていった。
不朽結晶製のブーツが荒れた路面を踏みしめるたびにこの世で最も永遠に近い素材がアスファルトを砕いて音を鳴らした。
緊張した面持ちの少女、エージェント・リーンズィの影が兵士に落ちる。
「はじめまして。私はリーンズィと言う。言います。リーンズィです、おはようございます」
兵士の耳には、類い希な美声を不格好に震わせたリーンズィの挨拶など、まるで聞こえていない様子だった。
銃弾を拾い上げる。
クリップに銃弾を咥えさせる。
銃弾を拾い上げる。
クリップに銃弾を咥えさせる。
これを延々と続ける。
不死の香気に気付いた様子も無く、潔癖と退廃が同居するヴァローナの美貌も、一顧だにしない。
彼女の左腕部を完全に装甲する鍵盤付きの蒸気甲冑も、棺桶のような重外燃機関も、外燃機関にマウントした厳めしいヘルメットも、兵士の目には映らなかった。
『推測。忙しいようです。無視されてしまいましたね』ユイシスが嘲笑を浮かべながら幻影を出現させた。『戦術ネットワークを検索。該当一件。トム・フィッシャー。1938年、旧アメリカ合衆国の海兵隊に入隊。1944年6月6日、作戦中行動中行方不明。最終階級、大尉』
「大昔の人間なのだな」
脈拍正常。呼吸正常。体温正常。
リーンズィの視界に現れる数字は眼前のそれが生きた人間であることを示している。
「しかしあまりにも古すぎる。今が何年なのか知らないが、そんな昔の人、もう生きているはずがない」
『肯定。リンク元は、人類文化継承連帯所属の電子戦用スチーム・ヘッド、レベル7インタグレータ・バーゲストの一機、イヴァン・フィッシャーです。現在肉眼で視認可能な兵士は、彼の祖先の復元図だと推測されています。彼は元は歴史学者だったイヴァン・フィッシャーの人格記録から生み出された共同幻覚であり、言詞構造体としてのみ存在する不滅者であると推測されます』
「フィッシャーさんというのが本体なのだな。しかし歴史学者が何故スチーム・ヘッドに……?」
『失業のため、と履歴書にはあります。世知辛いですね』
クリップが銃弾で埋まった。
古い時代の兵士は、ようやく小銃に弾丸を装填し終えた。
リーンズィは彼が何か一言でも口を利くだろうと予想していた。全く何の反応もないとは考えていなかった。というのも、この兵士の幻影を生み出すイヴァン・フィッシャーは、第百番攻略拠点がまだ正常だった時代の城壁管理係であり、その機能を維持している唯一の機体と目されていた。
フィッシャーは厭戦的な大主教ヴォイニッチの思想に共鳴し、彼女の大規模言詞展開に加担した。
ヴォイニッチの信徒のうち、人格がそのまま残っているものは一人もいない。すべてはヴォイニッチの『ことば』によって解体され、違う在り方へ組み替えられた。どの機体も今では正常な形での意思疎通どころか意識があるのかどうかさえ確認不可能となっている。
それでも、都市の出入りを管理する『城壁管理係』としての機能と役割は、未だに彼に残されていた。ヴォイニッチが外界との接触点を維持しようと努めた結果なのか、逆に極端に制限しようとした結果なのかは定かでないが、ともかくヴォイニッチ自身が近しい人間にそうしたアクセス手段の存在を漏らしていた。
彼を経由しなければ正規ルートでのヴォイニッチ謁見は不可能だった。
正常だった頃は、城壁管理係は他にもいた。しかし、ヴォイニッチの率いる一派が『一次現実』と定義付けてたこの宇宙に影を残しているのは、フィッシャーだけだ。地上のどこを探しても、他の城壁管理係は遭遇することは出来ないだろう。
と、甲高い音が鳴った。
小銃の弾倉からクリップが弾き出された。
クリップに銃弾は残っていなかった。
「観察しているときから思っていたのだが、これは? 弾はいったいどこに?」
『街頭小銃、M1ガーランドは、銃弾を撃ちきった際クリップを自動的に排出する機構を備えています。弾切れだと推測』
「だけど、一発も撃っていないと思う……」
『では銃が弾を食べてしまったのでしょう』
「食いしん坊なのだな……」
『銃がお腹いっぱいになれば終わるかもしれませんね』
リーンズィはいっぱい食べて大いに喜ぶシーラやロングキャットグッドナイトの猫のことを想起した。シーラも猫もお腹がいっぱいになると嬉しそうにと鳴く。いっぱい食べて喜ぶのは良いことだとリーンズィは思った。猫を愛するように人を愛し、人を愛するようにこの得体の知れない不滅者を愛した。
座り込んでいる兵士と目線を合わせようとするが、顔を覗き込んでも、相手はリーンズィを見ようとはしなかった。
「もしもし?」少女は問いかけた。「聞こえているだろうか、聞こえていますか?」
兵士は沈黙していた。何も聞こえてはいなかった。きっと銃で撃たれても反応しないだろうとリーンズィは想像した。手が捥ぎ取られようが火で焼き尽くされようが一瞬で復元を終えて無反応を貫くだろう。
ロングキャットグッドナイトの従える猫の騎士たちは、一つの目的に拘って復元を繰り返す。
このフィッシャーの幻影も、ひたすら銃弾の装填に執着するはずで、それ以外には機能を持たないのだと思えた。
「どうすれば通してもらえるのだろう。リリウム、君は普段どうやって門の内側へ?」
「わたくしも詳しくは存じません……」
リーンズィを見守る背後、ウンドワート・アーマーの肩に乗ったリリウムが困った顔で首を傾げた。
「城壁の前でお祈りをしていると壁からたくさんの腕が伸びてきて、わたくしをそっと迎え入れてくれるのです。だけど、外側から見ていると……」
「腕など見えなかった。君が突然消えただけだった」
「はいっ。ですから、現実に何が起こっているのかは、計り知れません。ヴォイニッチの到達したこの在り方は、途方もない祈りと奇跡の集積なのです。聖句研究の第一人者であったヴォイニッチ本人でも無い限り、詳しい仕組みは分かりませんっ」
「うーん。やはりリリウムが先導してくれた方が良いのでは……一緒にくっついていれば入れるのでは……」
「試してみても良いですが、レア様がなんと仰ることやら。ヴォイニッチの手に迎えられるときの悦楽はすさまじいものです、二人で融けてしまうかもしれませんよっ……? レア様が嫉妬してしまうかも……」
からかうような笑みを浮かべながら白銀の兎の装甲を撫でるのだが、ウンドワートは『ワシが知ったことか。聖句遣い風情が、アーマー装備の状態でほだされるほど脆弱ではないわっ』と不機嫌に唸るばかりだ。滲み出る感情を甘露として味わったのか、リリウムは満足そうに微笑んだ。
「冗談はさておき、複数名でヴォイニッチの胎内に入るのは、あまり試したくないのですっ。現在の第百番攻略拠点はぎっしりと部品の詰まった精緻な時計細工のようなもの。そこに異物を押し込んだりしたら、何が起こるか分からないので。都市になる前の彼女と愛をたっぷりと交したことがあるなら、ええ、わたくしと一緒でも、その糸を辿っていくことが出来ると思いますがっ……」
「ふむむ……私はもちろん面識が無いが……しかしヴァローナの肉体は? ヴォイニッチの名を聞いたり気配を感じたりすると何となくムズムズするし、昔は関係があったのではないかと思う」
「ええ、ヴァローナ本人なら。わたくしと一緒に、ヴォイニッチと寝床を同じくしています」リリウムは懐かしそうに目を閉じ、ほのかに頬を赤らめた。「ですが、重要なのはもっと肉体よりもずっと奥、言うなれば霊魂においての関係なのです。リーンズィ様では無理だと思いますっ……」
リーンズィは困ってしまった。
第百番攻略拠点に侵入する手段が、分からないのだ。
接収作戦は思いも寄らぬところで行き詰まっていた。
あとはヴォイニッチと交渉を行うだけで、もはや戦力は不要であることから、手近にある安定したクヌーズオーエに余剰を戦力を待機させて、多少なりともヴォイニッチと気心の知れる幹部級のスチーム・ヘッドだけで執り行うことになった。
その点に間違いはなかった、というのが大凡の人員の判断するところである。
しかし、肝心の第百番攻略拠点の内部に侵入する方法は曖昧で、誰も正確には理解していないことが分かった。
リリウムならば確実に内部に入れる。
実際に入って、四時間後に帰ってきた。だが彼女も「リーンズィと内々で話がしたいそうですっ」と言づてを持ってきただけで、具体的にどうすればいいのかは知らなかった。
侵入については多様なアプローチがなされたが、全て徒労に終わった。レアはウンドワート・アーマーにケットシーを載せて外壁をよじ登ろうとしたのだが、そのうち爪は何も無い空間に突き刺さるようになったと証言した。壁が無くなっても延々と昇り続けられるという異常事態に直面し、「いやこれさすがに怖いわ……」と呟いて帰ってきたのを、誰も責めなかった。
壁を登っていく最中に周囲から次々と伸びてくる棘の生えた触手をひたすら切り払い続けていたケットシーも、欠けた不朽結晶剣を捨てながら「無理矢理入るのはやめたほうがいいと思う」と言い添えた。「壁みたいに見えるけど『されたことをそのまま返す』たぐいの、何か違うものなんだと思う。棘の触手、ぜんぶぴょんぴょん卿の爪と同じぐらい鋭かったよ?」
リーンズィが名指しで呼ばれているのだから、他の機体が進入を試みても無意味だろう、と言うことで大方の見解は一致した。
しかしそのリーンズィが門の前に立っても、壁をよじ登っても、リリウムの指揮で歌っても、第百番攻略拠点の側からは全くリアクションが無かった。
「リーンズィ様。ヴォイニッチはほとんどの時間帯、外界に意識を向けていません。外側からどう働きかけても意味が無いのかもっ……。機械のような反応しか期待出来ないかとっ」
「来客があると分かっているのにそれは酷いのでは……?」
リリウムのそんな分析に、リーンズィは少しショックを受けた。
ヴォイニッチとは朧気ながらどこかで話したような記憶がある。
そこで何か無礼を働いてしまったのだろうか、と不安にも思った。
「いいえ、悪く考えないであげてくださいっ。都市と交わり、都市を孕み、多くの信徒を守る生きた要塞となった現在の彼女には、風の音と人間の声を聞き分けることすら、とても難しいのです……。ですが、彼女を直接的に構成する聖句の一節に触れれば、それはきっと伝わると思いますっ」
「彼女を構成する聖句。と言うと……不滅者か」
リーンズィは狼のパペットたるベルリオーズや、塔の怪物であるヴェストヴェスト、その他ロングキャットグッドナイトの<猫の戒め>として活動する不滅にして不壊なるものどもを思い出した。
|存在核確立済自己言及式言詞駆動人造脳髄。
既存のスチーム・ヘッドを聖句で改造した『徹宵の詠い手』大主教ヴォイニッチの奇跡であり、一つの事象へと永劫に回帰し続ける性質を持つ自己完結した虚無である。
「そうですっ。確か、都市の外周のどこかに物見として残された信徒がいたはずです。確かフィッシャーという名前でした。彼にアプローチするしかないと思います。ヴォイニッチの造り出した不滅者は、全てヴォイニッチ本人に繋がっているので、触れることで存在を知らせることが出来るはずですっ。小指の先を舐められたという程度の刺激だと思いますが、風の吹く音よりもずっと明瞭ですからっ」
そうして一行は捜索を始め、フィッシャーなる不滅者をようやく発見するに至ったが、フィッシャーはリーンズィが想像していた姿とは異なっていた。
少なくとも外観上は、圧倒的な力を持つ巨大な存在、ないし因果を嘲笑うかのような不可思議な現象ではなかった。フィッシャーは精々が永劫不滅の戦傷者と呼ぶしかない小規模な誰かで、死なないのは分かるのだが印象としては思い切り蹴飛ばせば死んでしまいそうなぐらい頼りなかった。
殺戮を成したものを罰するために狂気的な追跡を続ける巨大な狼や、規則的に増殖し続けて都市全てを擦り潰す塔の群れとはまるで違った。リーンズィが拍子抜けするのも無理からぬ話だろう。
ただ、リリウムや他のスチーム・ヘッドが言うには、不滅者というのは元来こういうものであるらしかった。動きはするが、何もかも受動的で、条件を満たさない限りは忘れられた教会に佇む錆だらけの彫像の方がまだ活き活きしているのだという。
ヴェストヴェストの内部に潜む顔の焼け爛れた老人、マオルエーゼルなどは、特定の空間から出られないにせよ、リーンズィの印象としてはスチーム・ヘッド並に会話が出来る存在だった。だが、実際には正義に狂い妄言を吐き散らすベルリオーズのレベルでも例外らしい。
自由意志があるかの如く歩き回り、意味のある発話をするロングキャットグッドナイトなどは、例外中の例外で、似た存在は他には全くいないようだった。
「……不滅者、不滅者か」
リーンズィは兵士と銃とを交互に視た。
不滅者がここまで意思疎通の難しい存在とは思っていなかった。寝ている猫の方がまだ活発にリアクションをしてくれる。殆ど木偶や発条仕掛けの人形のような有様なので、取り扱い方が全く分からない。
ユイシスに解析を任せつつ観察を続けた。兵士の方は人間らしいが、あまりにも現実感が無く、生身の右手で触っても、あまり力を入れて押すとそのまま擦り抜けてしまいそうな予感があった。
銃はと言えば、無機質な質感があるが、触ろうとするとヴァローナの肉体が抵抗感を示した。
視覚情報の解析をユイシスに任せる。
細部の陰影が一定で変化がなく、陽光を遮ろうとライトで照らそうと、外観が一切変化しないことが分かった。
「もしかすると、こちらが本体で、この装填作業中の誰かには、何の機能も無いのだろうか……?」
銃に触ろうとすると、また体が強張る。少女の肉体が拒絶反応を示している。リーンズィを演算するヴァローナの肉体が、非言語的な危機を感じ取っているらしく、じっとりと汗ばみ始めていた。
リーンズィは都市の壁を見た。
フィッシャーの座り込んでいる場所からはかなり距離がある。
この古い小銃こそが事象の本体なのだろう、と確信を持つ。同時に、銃に触れれば第百番攻略拠点に即侵入出来る、などと期待するのは間違いだと直観した。
これまでに遭遇した不滅者の異常性から考えて、何か致命的なトラブルが発生し、わけがわからないうちに結果として第百番攻略拠点に入ることになるのだろう。それはとても恐ろしいことだった。
カタストロフ・シフトを使って強引に壁を通過することも考えたが、上手く行かない予感がした。
大主教ヴォイニッチの支配する領域は、聞く限りでは比喩でなく一つの別世界であり、他の重汚染クヌーズオーエが平和に思えるほどの魔境だ。
増幅に増幅を重ねられた聖句が、実のある奇跡として荒れ狂い、内包する不死病患者は全て不滅者へと置き換えられているとリリウムも言っていた。
最大の問題は、大主教ヴォイニッチの構築した言詞構造体、聖歌隊で言うところの<大聖堂>だ。
リリウムが見てきたものや、リーンズィの記憶領域に残る模糊とした光景を勘案するならば、ヴォイニッチの大聖堂は外観上の大きさや時間的概念を超越していた。踏み込んでどうなるかについての確証が存在していない。<時の欠片に触れた者>などという不確定因子を用いるカタストロフ・シフトで刺激すれば、間違いなく良からぬ結果をもたらすだろう
まごついているうちにも時間は流れる。
皆の視線が背に痛かった。
リーンズィは痛みなど感じない人格だったが、どうにも恥ずかしかった。
そうしていると、なにかトコトコと視界の隅からやってくる小さい影があった!
「にゃーん」と言うよりは「なーん」と表記した方が適切な、どこか平坦なその鳴き声をリーンズィは知っている!
ライトブラウンの髪の少女はハッとして、その四足で歩く灰色の小さなもこもこを見下ろした!
「君は……コルトがロングキャットグッドナイトから借りているというていで実は自室でずっと飼っているという噂の猫、ストレンジャーちゃん!」
その瞬間、近隣クヌーズオーエの本陣からコルトの緊急通信が入った!
> やめるんだ、リーンズィ。
> いくら幹部級の間では公然の秘密でも、声に出して言うのはやめるんだ。衰えた身であっても、懲罰担当官としての威厳はとても大事なんだ。戦術ネットワークを監視している傍らずっと猫と遊んでいると思われたくない。
『コルト。君の大切な猫を……』通信を返しつつ、リーンズィは灰色の猫を持ち上げようとしたがぬるりとした動きで手から逃げられてしまった。なーん。ストレンジャーはたいそう気難しくて自由な猫で、リーンズィは今まで一度もちゃんと抱けたことがない。『何故、大切な猫をこんなところへ?』
> 私の猫じゃないよ。私の猫じゃないからね。そういうことでお願いするよ本当に。
> 本題に入るけど、ロングキャットグッドナイトは大主教ヴォイニッチの最も重要な部下の一人だ。その端末としての側面を持つ彼女の猫たちなら、不滅者同士、道を示してくれるのではないかと思ってね。それで送り込んだんだよ。
『猫の量子的揺らぎを利用したあの……あれなのだな。もしやコルトも猫を操れるのでは……?』
リーンズィがコルトと交信している間にも、猫のストレンジャーはフィッシャーの周囲をグルグルと回り始めた。
この猫は自由だが、おおよそのことにさほど関心を示さないので、異例の反応だ。
やはりヴォイニッチと接触する鍵はこの銃の方にあるようだった。
> ロングキャットグッドナイトですらまともに操れていないものを、私が操れるわけがないだろう。何か役に立てば良……
「あっ」リーンズィは思わず声を上げた。「たいへんだ」
> どうかしたのかな。
「猫が……銃に吸い込まれた……」
> ごめんね、何を言っているのか分からない。
「あ、あああ……」リーンズィは慌てて傷痍軍人の銃に駆け寄った。「い、いまストレンジャーがこの銃をパンチして……そしたら煙のように中へ……だ、出してあげないと」
> どういうこと? その銃は大砲のように大きいのかな。出入り出来るほどのサイズなのかい?
「油断していた。見た目上は普通の小銃だが実際には違うのかもしれない……」
塔の不滅者ヴェストヴェストにしても、展開する前は老いた修道者じみた姿をしていた。普通の成人男性程度の質量が何百、何千倍に膨れあがったのだ。小銃がそれと同様に、幾重にも言詞と現象を織り込むことで、外見にそぐわない巨大な構造を持っていたとしても、何ら不思議では無い。
「す、ストレンジャー、出ておいで……。出てこない。無事なのだろうか? とにかく調べてみないと……」
リーンズィは甲冑の左で銃に触れた。
何も起こらない。
訝しく思いながら持ち上げて、腕に抱えながら、あちこちを確かめてみる。
「――わたしの祖先は、この戦場のどこかで死んだ」
兵士が唐突に口を開いた。
リーンズィはぎょっとして彼を見た。
そして姿が様変わりしていることに気付いた。
彼はもはや銃弾の装填作業を繰り返すだけの傷痍軍人では無かった。
タールを塗りたくったような真っ黒な装甲に、赤いレンズの填め込まれたバイザー。
頭の左右から生えたブレード・アンテナが犬のようにも見える。
彼は、スチーム・ヘッドだった。
頭部を覆い隠す不朽結晶製のヘルメットは間違いなく人工脳髄を搭載しており、古い意匠の制服の奥に押し込められた肉体からは、不死の芳香が漂っている。
「午前六時三十分に上陸作戦が始まった。あと五分でこの揚陸艇も海岸に到達する」
スチーム・ヘッドは周囲をぐるりと指差した。見れば先ほどまでリーンズィの目前で同じ動作を反復していた兵士と同じような背格好の兵士が青ざめた顔で立ち並んでいる。あるものは神の御名を唱え、あるものはペンダントの家族写真をじっと見つめ、あるものは嘔吐して鉄板の敷かれた床を濡らしている。
「分かるだろう。みな、おそろしいぐらいの軽装だ。殆ど生身の人間が、粗末な銃火器や手榴弾だけ吊り下げている。あなたと同じように」兵士はリーンズィの抱えている旧式の連発銃を指差した。「死なない方が難しいが、この時代はこれが普通だった。不死病患者で陸戦隊を造るような時代ではなかった」
足下が不安定だった。リーンズィは危うく膝をつきそうになった。
三半規管に不調が出たと判断しかけたが、すぐに違うと分かった。
地面が物理的に揺れている。クヌーズオーエが揺れている。
否、クヌーズオーエではない。
リーンズィは慄然とした。これは何だ? 何が起きている?
周囲の兵士の背後には鉄の板があり、リーンズィの足下にも同じような材質の板が敷かれていた。
まるで巨大な鉄の棺桶だ。
居並ぶのは青ざめた軽装の兵士ばかり。
クヌーズオーエ解放軍の見慣れた甲冑騎士や乙女たちはどこにも見当たらない。
「ここは、どこだ……?」
統合支援AIの玲瓏な声が耳朶を打つ。
『警告。状況への理解が正確ではありません。どこか、ではなく、何か、と問うべきです』
「血の匂いがする……」
「潮の香りだ」じきに血の匂いになるが、と見知らぬスチーム・ヘッドは言った。「何か、に応えるなら、ここは2世紀か3世紀前の戦争で使われていた簡素な揚陸艇の上だ。どこか、と言われれば、ここは海の上だ。海は初めてかね?」
「ぐらぐらして気持ち悪い……」
「慣れる前に上陸する」
ライトブラウンの髪の少女は視線を空に向けた。
寒々しい薄明の朝、淡く灯り始めたばかりの色彩がどこまでも広がっている。
クヌーズオーエで見上げる青には常に寂寞があり自分たちを残して世界がどこまでも遠ざかっていくのではないかという幽かな恐れが付きまとう。
だがリーンズィの目に映る全てには、潦倒の未来が逆流してきたような汚濁の気配が滲んでいた。狂奔の時代へと押し流された黎明。ときおり黒く輝くものが飛沫を上げて船に飛び込んできたが、ユイシスは全て毒性のない塩水だと分析した。
どこかで爆音が轟き水柱が上って崩れそうして飛沫が降り注ぐ。
そのたびに世界が揺れてリーンズィは立っていられなくなる。眼前のスチーム・ヘッドは平然としていた。何千年も前からここに立っていると言わんばかりに微動だにしなかった。
しかし兵士たちは明らかに揚陸艇を取り巻く環境に打ちのめされていた。あるものは毒づきある者はロザリオを握りあるものはさらに嘔吐を繰り返した。
リーンズィは、自分とこのスチーム・ヘッドは、あまりにも場違いだと感じていた。誰しも男性然としていて、特に狂わしの美貌を持つリーンズィはいかにも場面から浮いている。しかし誰もこの闖入者を気にしてはいないようだった。
見えてすらいないのではないかと感じられた。
「なーん」と足下で鳴く影があり、見ればそれはコルトの灰猫、さまよえるストレンジャーだった。
どうやら銃に吸い込まれたあとリーンズィと同じくここにやってきたらしい。
船の底部には水が溜まり始めている。
リーンズィは猫を抱き上げて銃と一緒に大事に胸に抱えた。
「……君は?」リーンズィはようやく人心地付き、スチーム・ヘッドに尋ねた。「君が、フィッシャー、で良いのだろうか。良い?」
「いかにも、わたしがフィッシャーだが」猟犬を思わせる流線型のヘルメットが頷いた。「何をしにきたのかね。ここには何も無い。わたしの完全架構代替世界は、有益なものは何も創り出さないから、何を期待しても無意味だ。出来ることなら帰った方が良い」
「そういうわけにはいかないのだ。私は、大主教ヴォイニッチに会いにきた。平和的な事柄についてだ。第百番攻略拠点に入りたいのだが、道が分からない」
「ヴォイニッチか」フィッシャーは沈思した。それから頷いた。「ならば案内しよう。そして、わたしの言葉はある程度まではヴォイニッチに等しいと思ってくれて良い。わたしに自覚は出来ないが、仕様上はわたしがヴォイニッチの言葉を代弁していることがある」
どうやら選択は間違っていなかったようだ。リーンズィはにわかに安堵した。
「ありがとうございます。感謝する。それで、どうすれば彼女のところにいける?」
「とにかく向こう側に辿り着くことだ。大勢死ぬが、我々はスチーム・ヘッドだから大した問題では無い」
揚陸艇が接岸した。
耳慣れない号令が耳を劈く。リーンズィが怪訝そうな顔をしているとハッチが開き士官らしい一人の兵士が振り向いて何か叫ぼうとしたがその前に弾丸が飛来して彼の頭を吹き飛ばした。彼は死んだ。
遙か前方の高台に無数の機銃陣地が聳えているのが見えた。
既に無数の機関銃がリーンズィたちの揚陸艇に向けて銃火を浴びせていた。
殆どの兵士が何かする前に銃弾を受けて死んだ。
フィッシャーも至る所に弾丸を浴びて倒れ伏せた。
リーンズィは咄嗟にオーバードライブを起動させ重外燃機関からヘルメットを外してその中にコルトの猫をしまい込んで抱えて伏せた。新鮮な血潮が流入した海水はやけに生温く不快だが呻く暇も無い。突撃行進聖詠服の背中を機関銃の弾丸が降り注ぐ。重外燃機械が盾になったし、不朽結晶製の衣服は弾丸程度では貫けないが、衝撃までは殺せない。リーンズィは全身の骨が砕けていく音を聞いた。
やがて殺戮の嵐は止まった。
血と臓物の破片を口腔から排出している間に不死の肉体は修復を終えている。
『報告。十数隻の揚陸艇が同時に上陸を開始しています。この船はターゲットから外されたようです。当面の危機は無いと判断』
「ごぼ……が……」血を吐きながらリーンズィが立ち上がる。ヘルメットの中の猫はなーんと鳴いて、労るようにリーンズィの頬をぺしぺしと叩いた。「……これは一体何なんだ? フィッシャー、君は私に何をした?」
「わたしは何もしていない。君が来ただけだ」あちこちに弾丸を受けたフィッシャーはよろめきもせず直立姿勢へと復元されていた。「オハマ・ビーチを知っているだろうか」
「知らない」
「知らない? 学校で歴史の授業を受けていないのか?」
「学校に行ったことがない……」
「え……すまない……」
『補足。第二次世界大戦における激戦地帯の一つです。ノルマンディー上陸作戦において最も過酷だった戦場としても記録されています』
「そうだ。わたしの完全架構世界は、その戦場を何度でも擬似再生するだけの機械だ。踏み入れたものは永久にこの殺戮の渦に飲み込まれる」
『あなたには当機が見えるのですか?』ユイシスが動揺したような素振りを見せた。『現在、不可視設定ですが』
「わたしの世界に幽霊は存在しないのだよ、美しい影よ。生者と死者しかない」フィッシャーは頷いた。「天国もない。地獄もない。ただ死に向かう命と既に完了した死だけがある。わたしの世界では、全てがその在り方で在って在る。身を隠すことは能わない。さぁ、上陸しよう。すぐそこだ。ほんの数km歩けば城壁の内側に出られる」
先導されて、積み重なる死体の山を踏み越えて海岸へ降り立った。
海水という海水、見渡す限りあらゆる水面が赤黒く濁っており、打ち寄せる波間にはかつて人間だったもの、あるいはそうでなければ何なのか分からない奇怪な残骸が浮かんで揺れている。
浜辺はどこまでも続く血肉の泥濘で一歩踏み出す度にブーツの爪先が深く沈んだ。撃たれた兵士が一人助けてくれ助けてくれと泣き喚いていた。リーンズィは思わず脚を止めたが彼には手も足もなく泥まみれの臓物が砂浜に血を吸われていた。
フィッシャーも榴弾の直撃を受けて粉微塵になった。
狙われている。機銃弾が飛来するのを加速した知覚が捉えた。
重外燃機関にマウントしたヘルメットを取り外して、猫のストレンジャーをその中に入れた。自分の頭は左腕の蒸気甲冑でカバーする。ライトブラウンの髪がいくらか銃弾に持って行かれたが全身を打ち据えられてもリーンズィは死ななかった。弾丸は一発も不朽結晶製の装甲を貫通していない。
何千人を殺せても意味がない。スチーム・ヘッドを破壊することなど出来ない武器だ。
どれだけ弾丸を浴びても自分は死なないだろうという確信がリーンズィにはあったが、猫のストレンジャーが心配だった。機銃座は一つでも潰した方が楽に思えた。
頭を庇いながら腰を下ろし、ヘルメットで丸まって「なーん」と鳴くストレンジャーを指で撫で、右腕に抱えていたM1ガーランドを視界に入れる。『残弾数8』の表示が重ねられた。
ユイシスの支援によって拡大された視界に、トーチカの機銃が狙いを逸らす瞬間が映った。別のグループに照準を向けたようだ。
その隙にリーンズィは膝をついて二連二対のレンズを持つヘルメットを血まみれの砂浜に置いた。かってヴォイドがしていたように、蒸気甲冑の左手で右肩を掴んで心臓を守り、左腕の装甲を生身の右手が握る小銃の架台にする。
ヴァローナの瞳を起動して自分が狙撃に成功する未来を垣間見た。
その自分の動作をトレースして照準する時間を省略。トリガーを引いた。
銃声。機銃手の顔面が吹き飛ぶのが見えた。
彼は死んで、蘇らなかった。
リーンズィは立ち上がった。吐き気がした。
フィッシャーの血飛沫と破片を浴びたのが気持ち悪かった。
現実の人間ではないのだろうと理解していたが、それでも生身の人間を殺害したのも悪心に拍車を掛けた。
ストレンジャーは無事なようで、それだけは安心だった。
「……フィッシャー……いなくなってしまったが……」
呆然としていると、落ち着いた物腰のそのスチーム・ヘッドは、当たり前のように血肉の山の上に復元された。突拍子も無く復活したので、リーンズィは驚いて瞬間的にストレンジャー入りヘルメットを胸に抱いて庇った。
「さきに、ひとことでも言ってから死んで、復活してほしい!」
「驚かせているようですまない。だがわたしの完全架構代替世界ではこうした死はありふれたものだ。わたしの中には、これしかないのだから」
銃声がひっきりなしに鳴り響き、遠くから電動鋸が唸るようなすさまじい音が飛来して兵士たちを引き裂く。あちこちが砲撃されて、何もかも破裂している。
浜辺から上陸してくる兵士たちは一人残らず全身をしとどに濡らし、交戦する前の段階で見るからに困憊していた。彼らは重しのようになった戦闘服を引き摺りながらのろのろと走り、リーンズィたちを避けて通り、撃たれて死んだり、埋設された鉄塊に取り付いて撃たれて死んだり、倒れた仲間を助けようとして撃たれて死んだりしていた。千切れた腕を持って歩いている兵士もいたが彼が喪ったのは右腕、彼が持っているのは左腕だった。彼も撃たれて死んだ。
リーンズィはますます吐き気を強くした。壊れやすい生命の生々しい死は、幼い彼女にとって未だに劇薬だ。直視していられない。
集中して、意識を別の側に向ける。
完全架構代替世界は複数の人格記録媒体を同時に稼動させることで成立する、そのスチーム・ヘッドに固有の仮想現実であり、同時にここではないどこかに現実に存在するものとして取り扱われる可能性未来である。規模は巨大だが機能は限られ、リーンズィが知る限りではマスター・ペーダソスやアルファⅡウンドワートといったごく一部の高性能機が、不完全に利用しているに過ぎない。
「……完全架構代替世界のような仕掛けを、君は運用できると?」
「わたしが、というのは正しくない。不滅者はみんなそうだ。不滅者は、完全架構代替世界を運用することしか出来ない、と言っても良いだろう。これを外側に持ち出すことも、ここに新しく何かを創り出すことも出来ない。何の意味も価値も無い閉じた永遠だ」
「しかし、こんなのは、私の知る不滅者と違いすぎる……」
「不滅の兵士としての不滅者しか知らないのだろうが、あれは現実世界に染み出した影のようなもので、本来の仕組みはこういうものだ。大主教ヴォイニッチと使徒ナインライヴズは別だが、基本的に迂遠で不完全でどうしようもない機体なのだ」
海岸はどこもかしこも地獄だった。砲声が轟き機銃弾がひっきりなしにばら撒かれ生きている僅かな兵士はバリケードに背を預け自分がこの砲火に身をさらしたとき何が起こるのか想像して浅く息をしている。臓物を垂らした若い兵士が衛生兵、衛生兵と声を発していたがそのうち倒れて動かなくなった。衛生兵たちは到底助からない傷を負った兵士に縋り付き死に神の手から一秒でも長く兵士を逃げ延びさせようと必死だった。そのうち飛来した迫撃砲弾が浜辺を耕した。人間の形をしていたものは、なくなった。
「何故こんなめちゃくちゃな世界を? 何かの刑罰でここに閉じ込められたのか?」
「ヴォイニッチはそんなことはしない。わたしが望んだのだ」
「何故こんなものを……」
殺戮の地平線、機銃の居並ぶ崖の向こう側へと進む道すがら、フィッシャーは応えた。
「わたしの学生時代に、過去の戦争を題材にしたゲームがいたく流行してね。今思えば呑気な時代だった。わたしもそれにのめり込んだ口だった。特に好んで遊んだのが第一次世界大戦から第二次世界大戦あたりの戦場を取り扱った作品だ。私はゴーグルを付けてリモコンを握りゲームの中で伝令兵や歩兵、戦車乗り、飛行機乗り、潜水艦なんかにも乗って、迫力ある時間を楽しんだ」
弾丸が命中してフィッシャーの胸を引き裂いた。倒れる。すぐに復元される。スチーム・ヘッドにとって人格記録媒体が無事であれば死は数字に過ぎない。リーンズィは猫に弾丸が当たらないよう細心の注意を払っていたが、灰色猫は狭いヘルメットの中が落ちつくのか、何だかこの銃弾と血肉の暴風雨の中でもそのうち寝てしまうのではないかという声でときどき鳴いた。
「特に気に入っていたのがこのオマハ・ビーチの戦闘だ。これは、ドイツ軍からパリを……わたしの時代でさえ古い地名だ、見たところあなたの人格記録はかなり若いし、あまり馴染みのない単語だろうが……とにかくドイツ軍を攻略するために計画された極めて大きな作戦の一部だった。複数の海岸に同時多発的に攻撃し、山ほどの、どれだけ棺桶を用意しても足りないぐらいの兵士を上陸させて防衛陣地の制圧を目指すというものだった。まぁその辺りのことは、どうでもいい」
フィッシャーがまた引き裂かれた。彼は胴体で真っ二つに割れた。
ドイツ軍の使う機関銃は電動鋸とまで渾名されすさまじい連射速度で生身の人間を容易く破壊した。
兵士たちも次々に同じ運命を辿った。
しかし不滅者にとって致命傷は掠り傷ですら無い。復元が実行されれば銃撃された事実ごと消え失せてしまう。実際、リーンズィが瞬きをしているといつのまにかフィッシャーは二本足で立っていた。
彼は何事も無かったかのように話を続けた。
「このオマハ・ビーチもその作戦が行われた場所の一つだ。だが何もかもが食い違って、それでこんな地獄絵図になった。揚陸艇はあちこちに散らばり、引潮だったこともあり予定よりかなり手前で停船した。戦車はまともに前進できず沈んだ。放り出された兵士は大抵は足を必死に動かせいて浅瀬を死の物狂いで前進し、血の海が満ち満ちる浜まで歩いてくるわけだ。だがまだ終わりじゃ無い。海岸まではまだ随分と距離があり、しかもその先に機関銃が設置されたトーチカや堡塁が幾つもある。艦砲や爆撃で排除出来なかったドイツの兵士が堅牢な陣地を構築して待ち構えていたわけだ。しかもただの兵士じゃない。ここでしくじれば死ぬし、何もしくじらなくてもここにいれば死ぬということを理解せざるを得ない、追い込まれた兵士だ。そんな場所に突撃して行かなければならないのだから大変なことだ。少なくない人間が上陸する以前に砲弾で揚陸艇を吹っ飛ばされたし上陸に成功しても揚陸艇のハッチが空いた瞬間に撃ち殺された。しかも浜辺からドイツ軍の陣地の間は人間が死ぬには十分すぎるほど距離があった。この海岸に上陸した人間の五割、二万人以上が負傷して、三千人か四千人、あるいはそれよりもっと多い人数が死んだ。何週間もかかっての話じゃない。殆ど一日でそれぐらいが死んだ。それでも強引に突破してドイツ軍の陣地を撃破したわけだ。しかし世界中のどこを見渡してもこれほど混乱してめちゃくちゃで過酷で戦場はなかっただろう。何かする前に沈んでいく船、降り注ぐ砲弾、次々に倒れていく戦友。敵も味方も必死というか死なないでいるのが難しい極限状況だ」
「……ここに何かあるのか?」
「わたしの祖先はこのビーチで死んだ。曾祖父の祖父だ。わたしは彼を探している。正確には探すつもりでこの世界を創った」
「トム・フィッシャーか」しかし、フィッシャーに誰かを探している様子は無い。「見つかったのだな?」
「見つかっていない。永遠に見つからないかもしれない。わたしの完全架構代替世界はあくまでもオマハ・ビーチの戦闘を擬似的に再現するだけで、実際に成された歴史を読み出しているわけではない。生成される兵士も歴史学者をやっていた時代に蒐集して電子化したデータを元に無作為に作成されていて、わたしの元の肉体の遺伝的アルゴリズムを参照した個体が一人か二人そこに追加される。不滅者の性能を鑑みれば、世界が終わるまで演算し続ければオリジナルのトム・フィッシャーと出会える可能性はある」
『警告。目隠しをした人間が無限に試行すればピカソのゲルニカを描ける、という時の可能性と大差ありません』
「そうだろうとも。最初からあまり期待はしていないのだがね、ヴォイニッチに建材を提供するついでに願いを叶えて貰っただけだ」
「ならばもっと穏やかな世界を創れば良かったのに。猫と戯れ永遠のごあんしんとごまんぞくを追い求めるロングキャットグッドナイトのように」
「ええ、なんだって? 銃声がうるさくて聞き取れない」
「ロングキャットグッドナイト」
「ロング……? 誰だ?」
「ああ。知らないのだな。アムネジア・ナインライヴズのことだ」
甲高い音が轟きフィッシャーは倒れた。頭を狙撃されたようだった。不朽結晶製のヘルメットが貫通されるなど有り得ないことだった。リーンズィは咄嗟に伏せたがそれ以上のことは起きなかった。フィッシャーは数秒後に復元した。
「今彼女はそんなふざけた名前をしているのか? 名前が長いので驚いて死んでしまった。……見えているものがそのものの本質だとは思わないことだ。わたしの被っているヘルメットもこの世界の銃弾は防げなくなっている。死んでもすぐ復元するのだが。ナインライヴズの猫もそうだ。あなたが後生大事そうに抱えているそれは、本当に猫かね。わたしの知っている猫は目が二つあって口があるものだが。その溶けた宝石のような光は何だ?」
「猫だが。可愛くてポカポカだ」なーん、とヘルメットの中でストレンジャーが返事をした。「これは猫ではないとでも?」
死んでは復元し、邪魔な拠点はリーンズィが狙撃して潰すという工程がいつしか成立していた。
リーンズィの胸に募るのは寂寞と虚無ばかりだ。
この地獄の血の海で足掻く。その先に何があるというのだろう?
「まぁ猫ではあるんだろうがね。この話はやめておこうか。ナインライヴズに怒られそうだ。とにかくそういうものだ。他人から見た真実と、当人の認識する真実は容易く食い違う。わたしはトム・フィッシャーのことが知りたくて生涯を歴史の研究に費やしてきた。プライベート・ライアンという映画を知っているか? 最初の20分ほどをひたすら戦争と無残な死の描写に費やしている。ちょうどこのわたしの夢見る戦場のような映像がずっと続くんだ。この作品が後生の作品に多大な影響を及ぼした。ちょうど若い頃のわたしが熱中していた射撃ゲームもその類だった。オマハ・ビーチの良いところは凄惨で筆舌に尽くしがたいほどの地獄だったにも関わらず誰か分からないが英雄たちがいて彼らの働きで死ぬしかないと思われるような浜辺が最終的に突破されたと言うことだ。実際には事の成り行きを完璧に把握している者はいないのだろうがだからこそ娯楽作品ではその誰かを主人公に据えやすい。わたしは電子世界で再現されたオマハ・ビーチでの英雄的戦闘に熱中した。二百年も三百年も前の戦争など殆どフィクションだった。わたしの完全架構代替世界と同じくかなりランダム生成の要素が多いゲームでプレイするたびに展開やメンバーが異なった。だが、あるとき祖父がわたしの祖先がオマハ・ビーチで行方不明になっていると教えてくれた。別に諫められたわけでも説教をされたわけでもない。そういう娯楽作品が流行っているという話になったときたまたま話題に出たんだ。祖父も具体的にその戦闘で祖先がどうなったのか知っていたわけではないし感心もなさそうだった。……わたしの中でオマハ・ビーチが変容したのはそれから暫く経ったときだ。正直なところわたしは祖先のことなどどうでも良いと思っていたし、最高のゲームは最高であり続けた。だが……ある日、わたしは見てしまった」
銃弾の音がやけに遠い……。
「……何を?」
世界そのものが語りかけてくるかのような錯覚があった。
「トム・フィッシャーを、だ。彼はわたしと同じ中隊に配属されているNPCだった。最初はわたしと同じ家名のNPCがいるなと思うだけだったが……何故だか、わたしと似ていた。その瞬間、言語化の難しい神経発火が起きて、初めて理解したのだ。わたしの祖先はこの戦場にいたのだと。人間の手脚がゴミのように転がり臓物が波間に揺れているこの地獄の浜辺のどこかにトム・フィッシャーが居たのだと分かった瞬間、言いようのない寒気が襲ってきた。こんな途方もない場所にわたしの祖先が居て、そして、帰ってこなかったのだと……。もちろんゲームの中にいるのは本人では有り得ない。わたしがそう感じただけだし、そもそも後年に研究したときトム・フィッシャーの階級は大尉だった。英雄的働きをする小間使いの二等兵ではなく、士官だったわけだ。わたしがそう感じただけだ。だが真実に気付いてしまった人間はもう元には戻れない。永久にその考えに囚われる」
「……」
「そのNPCを出来るだけ死なさないようにゲームを進めた。よくできたAIを積んでいて簡単な会話になら付き合ってくれる。ドイツ兵と撃ち合いをしている時に彼に尋ねてみた。『何を考えてこんな地獄に飛び込んだんだ?』。彼は答えた。『今日は死ぬには良い日だ』。わたしはこれはやはり本人ではないのだと確信した。あの血まみれの砂浜を目の当たりにして生きた人間にそんな馬鹿げた軽口が叩けるはずがない。わたしはどうしてもわたしの祖先がこの戦場で何を見て何を考えたのか知りたくなって、そのうちゲームで遊ぶのを辞めて、当時の戦争を理解するための勉強に躍起になった。それで気付けば歴史学者だ。高高度核戦争が始まって失職して、それで敢えて連帯に志願してスチーム・ヘッドになったのも、戦場に立ってトム・フィッシャーの気持ちを知りたかったからだ。わたしは見ての通り敵と撃ち合いするなど向いていない人間だ。だが不死身の兵士になれば戦える。それでも分からないものは分からない。世界中の色々な泥沼の戦場を巡ってきたが死んだら死ぬ体でこんな場所に自分から飛び込んでいく人間の気が知れない。トム・フィッシャーは職業軍人だったしベテランだったから戦争の悲惨さは身に染みて分かっていたはずだがオマハ・ビーチでの最後の目撃記録は衛生兵のもので彼はコンクリートブロックにもたれかかってライフルに弾を込める作業を繰り返していたらしい。それだけだ。どの記録にも大した記述はないんだ。どういう感情で戦場に向かい何を考えていたのかまるで分からない。わたしもスチーム・ヘッドとなり多くを喪った。学者だった頃の志もどんな家庭を持っていたのかもはっきりとは思い出せなくなっている……。だがヴォイニッチはそんなわたしの心の澱を掬い上げてくれた」
「……」
「わたしは、尋ねたかったのだ。トム・フィッシャーは自分の意志で選択して軍人になりその選択の結果オマハ・ビーチに行って帰ってこなかった。後悔していないかと聞いてみたかった。機関銃も毒ガスも爆撃も艦砲射撃も発展を続けていた時代だ。人間は人間を殺戮することでしか道を造れない救い用のない愚かな生き物でトム・フィッシャーはその時代に生まれて軍人になった。地獄しか待ち受けていないと分かっているのにどうして軍人になる道なんて選んだのか」
「誰にだって事情がある、と思う。そうなる流れだったのだろう……」
「それは、そうだろうな。そのときはそうだったのだろう、とわたしは考えている。だがわたしは未来を知っている。オマハ・ビーチがどうなるのか知っている。だから当時の彼に聞いてみたいのだ。これから間違いなくあなたは虐殺の浜辺に降り立つ。降り立って、そしてこの世からいなくなる。忠実な軍人だったあなたはそれでも最後まで任務を全うしようとしたのだろう。しかし教えて欲しい。もしもこうなると分かっていたら、自分が死体も残らないような無残な最期を遂げると分かっていれば、違う道を選んでいたか……? 進む先に絶望しかないと分かっていれば、違う道を選ぶことが出来たのか……?」
とうとうドイツ軍の陣地に辿り着いた。凄惨で無残で何の救いも無い戦場だった。しかしリーンズィもフィッシャーも生きている。彼らは死ぬことが出来ない。慈悲深き神の銃弾を受けても眠ることが出来ない。無限の選択が用意された道を歩き続ける。人格が摩滅し世界が終わるその日まで、歩き続ける。
「ここの扉を開ければ第百番攻略拠点の内側だ」フィッシャーはあるドイツ兵士の死体で埋め尽くされた塹壕を通り、ある堡塁の鉄扉を押し開いた。「まだ手順は残っているがヴォイニッチには会えるだろう」
「ありがとう、フィッシャー。私はとても助かった」
なーん。ストレンジャーの鳴き声に、フィッシャーは少し笑ったようだった。
「礼には及ばない。だが君、忘れてはいけないよ」
ライトブラウンの髪の少女は目の前に居るのがフィッシャーではないことを直観した。
彼女はヘルメットの中で曖昧な笑みを浮かべながら、物憂げな少女の声で、こう問いかけた。
「君に言っているんだよ、アルファⅡモナルキア・リーンズィ。もしも悲劇的な結末を迎えると分かっていれば、違う道を選んでいたかな……? 進む先に絶望しかないと分かっていれば、違う道を選ぶことが出来るかな……? 地獄に続く道の、この扉を開いて進むだけの覚悟が、本当にあるのかな。何も見ず、何も聞かず、何も言わずに留まって、幸せを甘受している方が、ずっと良いんじゃないかな……」
リーンズィは応えない。目を伏せ、逆さのヘルメットの中でくつろぐ灰色猫を指先でつつき、それから「今から向かう。少しだけ待っていて欲しい」と短く答え、暗闇以外には見えない鉄扉の向こう側へと足を踏み入れた。
海岸には死が、人間性を否定するような死が、かつて人間だったものの残骸が、どこまでも果てしなく広がっている。
あまたの選択の果てに到来したこの殺戮の海岸線は、やがて夢のように溶け落ちて、フィッシャーの完全架構代替世界から消去された。
――そしてまた新しい地獄が始まる。
トム・フィッシャーが現れるその日まで、地獄の再演は、永遠に繰り返される。




