セクション3 第百番攻略拠点接収作戦 その1 モーニングセット提供所・前線部隊特別サービス支店(3)
一つのクヌーズオーエを制圧する度に開催される全体の方針を調整する会合は遅滞なく進んだ。
会合と銘打たれてはいるが、一人軍団を初めとする幹部のうち、招集に応じた機体に対して軍団長ファデルが重要事項を伝達し、了解した旨を確認する。
たったそれだけの形式的なやりとりだ。遅滞するはずも無い。
クヌーズオーエ解放軍は、夕方から夜の初め頃に偵察軍が都市の状況を確認し、夜間に混合部隊が制圧作戦を開始。翌朝までに大方の任務を終了して補給にあて、また次の都市へ進む――このサイクルで強行軍を繰り返している。
クールタイム以外の場面おいては、人類文化維持のための『人間らしい』プロトコルすら最小化されていた。
こうした合理性を追求した戦場では、情報共有も作戦会議も、戦術ネットワークを通じてリアルタイムで行えば足る。不死病蔓延以前の世界で有り触れていた『顔を合わせての人間味ある会議』はスチーム・ヘッドにとっては人格摩耗防止に有効だが、効率だけを追求する今回の事例では、必要性が全く無い。
そういった事情で、殊に今回の接収作戦においては、この会合は純粋に手続きとして要求されるだけのものだった。
「そんじゃ、定刻までは各位自由行動ってことで」
その日の会合もファデルの簡潔な言葉で早々に締めくくられ、集められた長たちはいつものように雑談を始めた。
実務上の問題は、実務の最中に行えば済む。
どれもが全く個人的な話題のやりとりだ。
「戦闘中に足滑らせて商店に突っ込んだんだが、レジで面白いものを見つけた。たぶんデナリオン硬貨だと思うんだがどうか」
「いやデナリオン硬貨にしては全体的に現代っぽすぎる。形も綺麗だし、質も悪くなさそうだ。それをモデルにしてるだけの地域通貨だろ」
「メダル? ゲームの話? あるよね、壁の絵にメダル入れたらピアノが弾けるようになるヤツ。百回ぐらいクリアした」
「おっと電子決済文化が覇権取った世界のやつが登場~」
「食料は全部チケットで交換だったけどね。FRFのこと悪く言えない生活水準だった、ぜんぶ環境汚染と海抜上昇のせいだ」
「ここ変異体のバリエーションが妙に多いのにさほど争った形跡が無いんだよなあ。罠臭くて気味が悪くないか? 誘導されてるような気がして……いや誘導した先にある罠がここなんかな……」
「めっちゃ眠いのですがこのショッピングモール寝具売り場ありました? ベッドで横になりたくて……え、この装備では入れない? 通路の天井に穴が空く? そんなー。別に良くないです? どうせたいして活用せず通り過ぎるんでしょ?」
「誘導と言えば目印みたいな石ころ辿ってった先にあったレコード屋だよ、メタル系のバンドが何かごっそり抜かれてて笑えたなぁ。え、知らないの、意外と色んなジャンルのレコードあるぞ。レコードはEMP食らってもあんま影響ないから、高高度核戦争経験してる世界では結構普及してるんだよ。今度お前も音楽喫茶に来れば良いじゃん」
「ええ、地雷の敷設が終わったタイミングで私は言ったんです、『今です!』と! 別に今でも何でもなかったのですが言うと気分が良くなるので! そしたらクレイモア地雷の爆発にまさしく私が巻き込まれてしまい、とんでもないタイムロスが発生してしまいました……」
「おいケットシー、マグロチューブ探してたよな? これ。拾ってきたから、代わりにあのジョーキバットーとかいうやつの奥義? の実演ここでやってくれないか。映像だとどうしても理解が出来んところあって……そう、そこ。そこだよ。明らかに鞘から刀抜かずに技出してるけど、なんなん?」
どの会話にも戦術的な利益は薄い。
しかし、こうした雑多な会話が出来ることこそが、会合の看板を使う利点だ。
中核的な機体は、プライベートな時間が中々取りにくい。そうした機体同士で接触するとなると、さらに難しい。だが会合なら一つところに集まって無意味な会話をしていても全く問題ない。部隊を束ねる者や、忙しい一人軍団同士が、公然と交流出来る。
会合は徹頭徹尾、単なる建前だ。
大抵の幹部クラスがこの会合を息抜きの口実に使っていた。
何となれば、最初の数分の事務的な時間すら、自由時間として消費している者すら居る。
例えばアルファⅡウンドワートことレア・レッドアイ・ウンドワートは、会議の始まりから終わりまでずっと椅子に座ったアルファⅡモナルキア・リーンズィの、その膝の上を占領して、彼女と愛を確かめ合うことに夢中になっていた。
フードコートから移動させてきた椅子は十分にあったのだが、そういった余分なものは、目に付く限りレアが壊したり、倒したり、かなり端の方に寄せたり、その辺を通りがかった猫を設置して座れなくしてしまうので、仕方が無かった。
リリウムも「まったく、ひと目も憚らず求愛を繰り返すなんて、レア様は仕方がないことですねっ」などと言いながら、背もたれの方からリーンズィに抱きつき、レアと競い合うようにしてリーンズィを求め、あるいは相手が先んじるのを阻止していた。
そしてこの二人のポジションはほぼ日替わりであった。
背の高いリーンズィだけが椅子役で固定だ。
クヌーズオーエ解放軍で最も強力なスチーム・ヘッドたちが、共謀して風紀を乱していたのだった。
とは言え重要な集まりでは全くなく、誰も彼も見知った顔で、どの機体も娯楽目的で集まっているだけなので、「たったこれだけのことで大主教リリウムとウンドワート卿が精神的に落ち着くんなら安いもんじゃねぇのかな……」というファデルの意向に反対するものは、ほぼいなかった。
最高戦力の筆頭たちが、ある意味では非常に良く協調している。
それをいたずらに乱しても良い影響はないだろう。
ただし、コルトだけは、色恋を知ってあまりにも変わってしまったウンドワートの姿を目の当たりにするたびに、笑っているとも、恥ずかしがっているとも、怒っているともつかない、曰く言い難い顔をして、懲罰担当官としての権限を出したり引っ込めたりし、そのうち動揺を打ち消すためか、混乱した奇行を取るようになった。
あろうことか、会議の場で公然と猫と遊ぶようになったのだ。
コルトが無類の猫好きでありながら猫に興味が無い演技をしているというのは古参の間では広く知られていた。
「……よしよし……」コネコネ……「こねこね……よく伸びるね君は」……ネコネコネコ……。
ライダースーツで身を固めた黒髪の麗人が、表情筋を懸命に制御しながらロングキャットグッドナイトに借りた猫を机の上で延々とこね続けている。
その有様は、多くの機体をくすくすと笑わせた。
戦闘用スチームヘッドの精鋭、ハウンド隊の隊長であるユーリカが「猫をコネると何か良いことあるんですか?」と無礼を承知で聞きに行ったときには、コルトはこのように回答した。
「知らないのかい。猫はね……コネていくと、すごく伸びるんだよ」と真顔で答えた。「いつか空にも届くだろうね。私はいつかそれを伝って雲の上まで行くんだ。雲の上には猫たちの国があるんだよ」
冗談ともからかいともとれないこのような受け答えは、これは正気だった時代のコルトに極めて似ていた。皆が笑うのは滑稽だからではなく、SCAR運用システムの反動による人格記録摩滅が危惧されてきたコルトが、あたかも普通の人間のように混乱しているのが、喜ばしく感じられるからだった。
「……妹の醜態なんて、そんなの、私が我慢すれば良いことではあるからね」猫を熱心に揉みながらコルトは自分自身へと言い聞かせている様子だった。「あんなに頑なに自分のアーマーに引きこもっていたレアが、やっと外に出てきたんだから、それをとやかく言うのはよくないよね、姉としては許容しなくちゃ……許容……許容……でも人前で倫理規定に抵触するようなことを……でもそうやって束縛してきたのが回復を遅らせたのかもしれないし……」
コルトまでもがこのような有様なのだから、誰も彼もがこの時間だけは職務を忘れていた。
こうした時間において、新参者のシーラ、すなわちリクドーとサードは、特に可愛がられた。
彼女たちは今でこそアルファⅡモナルキアに取り込まれているが、彼女たちは未だにFRF市民としての感性や意識を維持している。これと対話して、市民目線での感想や印象を引き出すことが、今後のプロトメサイアとの接触で重要になると考えられていた。
それに、この一体化した姉妹は、つい先日まで紛れもなく人間として生きていたのだ。三大欲求が完全には消えておらず、何事にもまだまだ興味関心がある。リーンズィが他の機体から好まれると同様だ。精神が失活していない機体の感性に触れるのは、疲れ倦んだスチーム・ヘッドにとっては、非常に良い刺激である。
シーラ自体、会合の後の自由時間でかなり積極的に発言する機体だった。
スケルトン、呪われた不死といった侮蔑的な言葉は、クヌーズオーエ解放軍の勇士やレーゲントと接触しているうちに、すっかり彼女の人格記録から抜け落ちてしまったようだった。
そもそも、FRFにはスチーム・ヘッドを不死者なる上位存在として敬う文化が根付いていて、実のところ、彼女たちには不死者と一般スチーム・ヘッドの区別などついていない。
そして現実に、所属以外の明確な差異は無いのだ。
受け入れてさえしまえば、クヌーズオーエ解放軍は、神代の兵士たちにも等しい。伝説にしか現れないような真の力を持つ不死者に囲まれ、また自分もその末席に加わることが出来たのだから、シーラはある一面では幸福だった。
生前に培った偏見が歓喜によって速やかに風化してしまうのも、無理からぬことであろう。
今日もシーラは活発に先輩解放軍兵士たちと触れあおうとした。
特に、リーンズィの膝の上でリリウムと熱い戦いを繰り広げている白髪の少女、色の無いほっそりとした美姫であるウンドワートへと、熱心に話しかけていた。
「ウンドワート卿っ、あの八本腕の大ききなアンデッドを、あんなに簡単に、一瞬で無力化出来ちゃうなんて、すごくすごいねっ。ボクも制圧してるところ見てたけど、何してるのか全然分からなかった……。ウンドワート卿はほんとにすごいよっ、プロトメサイア様の次ぐらいに信仰してる!」
レアはプロトメサイアの名に不機嫌な目つきをしたが、リーンズィがレアを抱きしめながら「そう。レアせんぱいはすごいのだ。すごいのです。すごくて無敵でとても可愛い」と嘘偽り無い本音を述べると、頬を赤らめ、薄く汗をかき、ふにゃりと緊張を解いた。
「わたくしもレア様はまことに優れた戦士だと思いますっ。こうやって誰かに体を委ねているときしか隙がありませんし」
リーンズィが膝の上のレアをぎゅっと抱きしめる。
リリウムがレアの背後から、真っ白な頬と首筋、唇を、しきりに撫でる。
シーラも最強の機体にあやかりたいのか、わたわたし始めたレアの手を、ぺたぺたと触った。
「ちょっ、ちょっと、こんなのでほだされたりしないんだからねっ! ああもう鬱陶しいったら! あとこら、リリウムは変なこと触るのやめて!」
レアは衒いもなく誉め、愛を注いでくる三人に対しいっそう赤面しつつも、「あんなの大したことないわよ、今日は時短のためにわたしがやったけど、あんな程度の変異体は誰でも潰せるし」と一分の謙遜も含まない事実を告げた。
「まぁこのウンドワートが最速で最強なのは事実じゃが! 目にもとまらぬ速度であのサイズを屠れるのは、どう考えてもウンドワート・アーマーだけだし!」
「私もすごく驚いたし、見蕩れてしまった。まぁ見えなかったのだが……。まさかウンドワート卿としての戦闘記録が存在しないのがああいうことだったとは。誰も勝てないのでは?」
「わたしを一回潰したリゼこうはいにそう言われるのはちょっと癪だけど、でも物理常識での認知限界を完全に超えてるんだから、わたしからすればどいつもこいつも雑魚よ。いっそ貪られるだけの稚魚と言っても良いわね」
「目に映らないってことはカメラにも映らないってことだし視聴率は取れないよね。レアちゃんかわいそう……」とぽそりと口にしたのは、弟子たちの交流に混ざろうとタイミングを見計っていた水兵服の葬兵だ。
あまりにも心底憐れそうに呟いたので、レアは瞬間的に激昂した。
「誰がレアちゃんじゃ! ちゃんづけはやめんか、馬鹿にしよって、それ以上ヌカしたらバラバラにして電柱に刺すぞ! ……しかしまぁ、オヌシだって、あれぐらいの木偶はどうとでも出来るじゃろ、ケットシー」
「うん、出来るよ? レアちゃん卿ぴょんぴょん丸ほど速くはさすがにヒナにも無理だけど」
「あ゛あ゛……!? なんて!?」レアはキレたが、リーンズィにキスされて落ち着いた。
「我が弟子シーラ。スチーム・ヘッドとしての経験が長くなれば分かる。あんなのは、蒸気抜刀・疾風が使えるなら、誰でも対処出来る」
「え、それだと、ボクにも倒せることになるけどっ……」
「何十回か死ねば、出来るようになるよ?」ケットシーは人形めいた顔に不思議そうな笑みを浮かべた。「まだ不死の体と加速に慣れてないんだね。あれそんなに強い変異体じゃないよ」
どうにも信じがたいらしく、ちらり、とシーラが黒い瞳を他の幹部に向ける。
何機かが頷いて「そういうもんだよ」と肯定した。
「……そっか。みんな、慣れてるんだねっ。あの八本腕のやつ……ボクたちは『オクトーバー』って呼んでたけど、FRFの周辺でもたまに出没して……浄化チームだと、あれに遭遇したら一個小隊が何にも出来ないまま破裂して死んでたんだ。不死者が来るまで必死に逃げ隠れして。だから、ボクなんかは、あいつを間近で見た時、ちょっと、びっくりしちゃって……」
少女騎士は不意に自嘲めいた笑みを浮かべた。
「ボクだって、もうクヌーズオーエ解放軍の一員だけど、でも、ごめんね、言わせてほしいんだ。……ボクたちって、全然、話にならなかったんだね。浄化チームって、何だったのかな。こんな、ここまでどうしようもない武力の差を見せつけられたらさっ……母様、ネレイス母様が心血を注いで育てたボクたち少女騎士だって、役立たずで……そう思えてきて、そしたら、何だか、悲しくてっ……言葉にしたら、苦しくて、悔しくて、嫌で、嫌で堪らなくて……ああ、何してたんだろう、ボクたち……」
リクドーのまなじりが濡れるのは、都市の寒冷な空気に晒されたことばかりではない。
少女は屈辱と後悔に震えていた。サードもどこかしょげた様子で、張りが無い。
葬兵の師たるケットシーが、珍しく切なそうに眉を寄せた。
シーラ、と呼びかけながら、剣の姫は弟子の涙を拭ってやる。
少女騎士は素直に師の指に身を委ねた。
「泣いたりしてごめんね、でもボクたち、必死になって何してたんだろって、急に思い始めてっ……。そう、浄化チームならさ、一つのクヌーズオーエを制圧するのに年単位のスケジュールを組むんだ。それがたった二日で、こんなに簡単に制圧されてく……それも、なんかねっ、ショックでさあっ……」
『……リクちゃんは立派にやっていたよぉ』姉たる尻尾が、あやすようにしてリクドーの頭へ身を擦りつけ、音波を発する。『それをそんなふうに言うのは、つらくなるだけだよ……』
リーンズィも、リクドーの心情を理解しようと努めた。近しいものが泣いていると、ライトブラウンの髪をしたこの少女も、泣きそうになってしまう。
深く思考を巡らせるようと頑張る。表層的な理解では、多くのものを取りこぼす。そう心がけ、近頃は、支援AIや他の機体に出来るだけ頼らないやり方で答えを探すことに取り組んでいた。
リーンズィは、ネレイス率いる少女騎士が、解放軍のスチーム・ヘッドに手も足も出せなかったのを想起する。
彼女たちは、あまりにも脆い。
あの程度の性能で都市を徘徊する不死を排除しようとするのは、正気の沙汰では無い。
スチーム・ヘッドならば誰でも悪性変異体を封印出来るというわけでもないが、悪性変異体に肉体を徹底的に破壊されても、それは一時のことである。悪性変異体が人格記録媒体を狙うことも基本的に無いからだ。それほどの学習能力や知性は悪性変異体の生存に貢献しないため発生し得ない。
スチーム・ヘッドは、人格記録さえ無事なら、何度でも蘇れる。元の肉体に拘らないのであれば、人格記録媒体と蒸気甲冑を別の肉体に載せ替え、発狂するまでは何度も即座に再起動させることが可能だ。大抵の機体は自分の使う不死病筐体に拘りが無い。走れて凶器を振るえるならそれでよく、頭が砕け散ろうが全身が破裂しようが、拷問のような継続的なダメージ以外は何の問題にもならない
このクヌーズオーエ解放軍では、悪性変異体からのダメージで直接的に発狂する人格記録は稀だった。精神衛生を専門とするスヴィトスラーフ聖歌隊、技術レベルだけなら他の勢力を圧倒する衛星軌道開発公社を取り込んでいるクヌーズオーエ解放軍においては、蒸発して気体となった不死病筐体すら、上手くすれば培養して再生させることが出来る。経年劣化や過負荷以外で人格記録が壊されることはない。
それがために、クヌーズオーエ解放軍での悪性変異体の扱いは、恐ろしいほど軽かった。
かつて都市部を壊滅させた症例、あるいは常時オーバードライブ状態を維持するクイックシルバーのような脅威でさえ、スチーム・ヘッドにとっては、究極的には処理に手間がかかるだけの障害物でしか無いのだ。
だがFRFの浄化チームは、違う。
死ねば終わりだ。
どれほど身体能力が高くても、どんな装甲を纏っていても、生身の人間なのだから、死には先が無い。
死んでも蘇ることの出来ない存在が、死んでも滅びることのない怪物と戦い続けることの意味をリーンズィは考えた。
それはとても怖くて、勇気のいることだっただろう。
目の前で泣いている少女を慰めるための言葉を、リーンズィの人工脳髄は自分で考え出す。
そして、形の良い唇でそっと言葉を紡いだ。
「……猫は配られたおやつでごまんぞくするしかない。しかし時としてふわふわのタオルケットで眠るより多くのおやつを求め、危険を冒してまで外へ飛び出す。危なくても、その自由さが猫の真なるごまんぞくなのだ。なのです。なのだな。それと同じことだったのではないかと私は思う。君たちの戦いは、ごまんぞくを求める猫たちの冒険の如く、決して無駄にはならない……」
巫女の託宣の如き厳かな発声だったが、それを聞いた殆どの機体が怪訝そうな顔をした。
ライトブラウンの髪の少女は、肉体に由来する涼しげな表情を崩さないまま、さも正鵠を射たという雰囲気を醸し出していたが、言われたリクドーもまた、ぐすん、と鼻を鳴らしてリーンズィのことを訝しげに見るだけだった。意味が分からなかったらしく、その場にいる全員に向けて視線を流して暗黙に助けを求めた。
リリウムに撫で回されながら、ボマーコート姿のレアがリーンズィの膝の上で溜息を吐いた。
「リゼこうはいったら、なんか、頭の中めちゃくちゃロンキャに汚染されてない? ねこ、可愛いけど……でもあんまり猫ベースの考え方しちゃダメよ。リクなんて人間まで食べるFRFの出なんだし、ましてや猫なんて……あいつらの都市じゃ、どこにも生きてないでしょう。だから、楽しく呑気に生きてるロンキャの猫で例えられても、イマイチ分からないと思うわよ」
「そう、それっ、それが言いたかったのっ」憧憬に満ちた瞳がウンドワートに注がれる。偉大なる強者が気持ちを代弁してくれれたのが嬉しいのか、シーラは声を弾ませた。「レア卿は強いだけでなく目下の気持ちを汲んで下さるとっても良い長なんだね、みんなに慕われているのも分かるよっ」
「ふふ……ふふふ! レア卿、レア卿だって」と嬉しそうにレアがリーンズィの頬に手を伸ばす。リーンズィはされるがままになって幸せだった。リリウムも負けじとリーンズィに身を押し付けた。
ぴんと立った鏃の尻尾が、サードの声を発信する。
『猫なんて、希少すぎる生命資源だったものねぇ。サードだってヒト由来の猫モドキしか知らないかなぁ。ニノセ姉様なんかは、熱心な神獣・ねこのファンだったけど、それだって図鑑と、お伽噺と、あと神獣・ねこのぬいぐるみベースの知識だったしぃ……そうそう、本物の猫って突然嘔吐したりするって聞いたよぉ? もったいないよねぇ。そんな謎すぎる生命資源に例えられても、正直分かんないんだよねぇ……』
「えっとね……リーンズィの言ってることが難しいならヒナが教えてあげる、我が弟子シーラ」
『レア卿』の麗句に敏感に反応したケットシーが、期待した目つきでシーラに寄った。
「ヒナが解釈するにはね、つまりクライアントからのアジェンダに対してアクトレスは実際には求められていること以上の……」
「あっシーちゃんズルいですっ」
にわかに慌てる素振りを見せたのは、リーンズィに背中から抱きついて膝の上のレアとささやかな攻防を繰り広げてていたリリウムだ。
「リーンズィさまの御言葉をわたくしを差し置いて勝手に解釈しないで! えっとえっと、わたくしも今から何か考えますから待って下さい! そう、そうですね、古代の智王ソロモンはかつてこう言っています、空の上にまた空あり、一切が是、空なり、神無き地で、いかに労苦しようとも、人に益するところなし。しかれども………」
「ふわぁ、みんな何言ってるのっ……?」
「待って、待ちましょう」
会話に参加している一同の中で、ミラーズは極めて冷静だった。
「それぞれの業界の適当な用語でリーンズィの謎猫トークを解釈しようとすると、FRFの二人にはもっとわけ分からなくなるわ。FRFの文化水準は、申し訳ないけど聖歌隊未満です、彼らにも分かるように言うのが優しさですよ」
「はい……」「ミラちゃん先輩がそう言うなら……」リリウムとケットシーはしょんぼりとした。
「ふむむ。私は残念だ。残念です。あんなに猫動画を送信したのに、リクドーもサードも猫への理解が深まっていなかったのだな。いないの……。でも私のたとえが不適切なせいで混乱させてしまった。ごめんなさい」
一緒にしょんぼりするリーンズィに、レアは「あなたの知識ってロンキャ由来の誤った猫観なんだからそこから自覚なさいね……」と苦笑した。
「まぁいいわ。ファデル、良い感じに収拾を付けてあげてくれる? 軍団長らしくね」
水を向けられたファデルが咳払いをする。無論、スチーム・ヘッドに咳払いのような動作は必要ない。相手に自然と注目させるためのテクニックの一つだ。
「よし。いいか、オレだって猫のことなんかよく知らねぇよ。ロンキャの猫は不滅者の揺籃機だってことぐらいしかな。でも、そうだな、たとえを別のたとえに置き換えるのはよくねぇんだがよ……」
ファデルのリアクターを務める褐色の肌をした少女が、席に着いたまま、リクドーたちに対して軽く両手を拡げた。
「俺たちにとって、悪性変異体との戦いは遊びも同然なんだ。そうだよなぁ、みんな? それがオレらが圧倒的に強い理由よ。半分ぐらいはよぉ、死ねないという苦痛を誤魔化すために戦ってるってこったな。娯楽のためなら、人はいくらでもやり込めるわけよ」
それからうんざりとしたようなジェスチャーを見せた。
「ま、今回は時間も無いしウンドワート卿にサクッと処理して貰ったが、あんぐらいの変異体なら、経験積めば戦闘用じゃない連中でも十分対応出来る。FRFぐらいの装備でもやりようがあらぁな。一回も死なずに封印してみせらぁ」
「う、うそだ、嘘ですよ軍団長っ、あんなの生きてた頃のボクたちじゃ無理なレベルの怪物でっ……」
「それは、お前らが簡単に死んじまうからだ。死んだら死ぬ連中じゃ分からねぇ領域だろうが、悪性変異体なんてのは死にまくってパターンを覚えて数こなしゃ、もうそれまでの相手なんだよ。千も二千もバリエーションがいるわけでもねぇし。でもお前らは違う。死んだら終わりだ。そんな状況で学習しろってのが土台無茶な話じゃねぇか。不利な環境で、大勢の命を繋ぐために無茶をやるしかなかった。不死を相手に死ぬことを承知で戦ってたんだろ? 引き籠もってりゃ生きてられるのに、危険を冒して全霊を駆け、より大きな『真なるごまんぞく』を求めて戦った。それは……尊いことだ。言ってるのはだいたいそういうことだな、リーンズィ?」
「そう。とてもそう。どちらかと言えばそう」何かのアンケートか? とファデルは苦笑した。「私の言葉を正確に理解してくれて嬉しい。なるほど、軍団長ファデルも猫の心を知る人だったのだな……」
「いやぶっちゃけ犬派だけどよ……。つまりな、浄化チームの連中は、まぁ何勝手に簡単に死のうとしてるんだって俺なんかは言いたくなっちまうが……それでもな、お前らは本当に立派なことをやってたって言ってんだよ、リーンズィは。時間は掛かった、何人も死んだ、でも無意味なんかじゃなかったさ。住める場所増やさねぇとそのうち行き詰まるし。おめぇも、おめぇの仲間たちも、出来る範囲で、出来る限りのことをやってきた。そうだろ? 何も悪いことじゃねぇ。もっと胸を張れ」
「う、ん……うん、ありがとうございます、軍団長ファデル……」シーラはまた目元を涙で濡らした。「リーンズィさんも、改めてありがとう……」
「私からも良い? はっきり言って、死ねば終わりの体で悪性変異体に向かっていくあなたたちの気は知れないし、正直馬鹿らしいったらありゃしないわ」
下の下の雑魚の集まりのくせに簡単に命を捨てようとするから嫌いよ、とレアは吐き捨てた。
「だけど、私もファデルに同感。あなたたちはそうするしかなかったからそうしただけ。プロトメサイアとかいうゴミが不甲斐ないからやれることをやっただけ。他に選択肢なんてなくて、たくさんの人を救うために、あなたたちは全身全霊で取り組んできた。惨めな仕事ぶりよ。わたしたちみたいな真の一流からは馬鹿にされて当然。だけどね、ちゃんと成果は出てたんでしょう? 感謝してないやつはいないと思うわ。それをよりにもよって自分で卑しめることはないでしょ。せめて胸を張りなさいよ、自分で馬鹿馬鹿しいって切り捨てたら、損するだけよ」
「そうだよ? 命を賭けて戦った日々が今日の貴方を作った、我が弟子シーラ」ケットシーは静かに言った。「昨日の自分を否定するような言葉を明日の自分の礎にしてはダメ。弛まぬ研鑽と死への探求が葬兵としての力になる」
「レア卿……師匠……ありがとうございます、ちょっとだけ、救われました……」
「――いやいや、聞いていられないね」
何度も頷きながら涙ぐむ少女騎士へと、冷や水のような言葉が浴びせられた。
「何もかも、誰も彼も、余さず全部無駄死にだよ。はっきりと言っておくと、ガス抜きと口減らし以外には何にもないよ、あいつの采配なんだから」
SCAR運用端末を侍らせた懲罰担当官、コルトだ。
「おいコルト……!」
「ファデルも、そしてシーラたちも、まずはごめんねと言っておくよ。さすがに酷いことを言っている自覚はある。だけど私としてはプロトメサイアの施策は一切認めたくない。そこは明確にしておきたい」
謝罪の感情など微塵も感じさせない声で応答しながら、猫を退かし、拳銃を乱暴にホルスターごと机の上に置いた。
猫は悲しそうな声でひと鳴きして、テーブルから降りてどこかへ去った。
「私からも話をさせてもらおうかな。リクドー、いや、シーラ。君は私が誰か知っているよね。FRFで私がどう伝えられているか、みんなに話してくれるかな?」
「えっ? う、うん。いいえ、はい……」少女騎士は青ざめた。「えっと、都市焼却者、コルト……炎熱の悪魔……ですよね……。総統閣下の求めに背いて、スケルトンの側に付いた不死者だって、そういうお伽噺がFRFにありましたっ……」身を竦めるリクドーの腕に、サードが巻き付いて励ます。「ボクはもう、あ、悪魔、だとか、思ってはいませんけど、でも、クヌーズオーエを丸々一つ焼き尽くす力があるってっ……巻き込まれたら骨も残らず焼かれちゃうって……」
「その認識はおおむね正しいね」
「コルトの機能は、ではFRFでも知られているのだな?」リーンズィは目を丸くした。「FRFでは解放軍の戦力は意図的に低く広告されているように思う。だから、コルトの機能も隠匿されていると思っていたのに」
「プロトメサイアが私の機能を知っているし、私の虐殺機関は他のクヌーズオーエからでも異常を観測出来るほど効果範囲が広いからね。SCARが発生させた劫火を見た人間全部を殺して口封じ出来るほど、プロトメサイアは高性能でもないし、暇でもない。そういう機体がいるという話は、下手に隠すより明かしてしまった方が都合が良いんだよ……私ならそう判断して、そうする」
都市焼却の脅威を知るリクドーは、汗を浮かべながら拳銃を凝視していた。
焼却用因子の射出に、その古い時代の回転式拳銃を用いるということまで知っているようで、見るからに怯えていた。
シーラの尾であるサードは、不朽結晶の尻尾を持ち上げて、その切っ先でコルトとの間合いを計っていた。妹にして恋人であるリクドーを守るため、現在の上官をも敵に回すと決断したらしい。
速度ではサードが完全に上だ。コルトにはオーバードライブ機能がない。サードがリクドーが傷つけられかねないと判断すれば、即座に矢の速度で飛び出すだろう。
コルトは、しかしいっそうの冷酷さで、現実を告げた。
「都市の外にはアンデッドだけじゃ無い。解放軍もいる。私のような、規格外の大量破壊機能を持った機体もいる。それなのに、わざわざ、定命者に都市制圧をさせるなんて、おかしいよね。非効率の極みだよ。浄化チームなんていうのは、どんなに取り繕っても、徒労を積み重ねる集団でしか無い。……君もそれは分かっていたんじゃないかな」
「……それは、そう、だけど……」リクドーは己のブーツへと視線を落とした。「浄化チームでも、どうしても対応が難しいアンデッドが出たら、その時は顧問の不死者を呼んで倒してもらってたんだ。規模が大きいときなんかは、総統閣下が直々に出撃してくださっていた。昔は純粋にありがたかったけど、でも、そんなに簡単に倒せるなら何で全部の工程を不死者がやってくれないのかなって……みんな、うっすらとは疑問に思っていた気がする……」
リーンズィは首を傾げた。
ライトブラウンの髪に鼻先をくすぐられて、レアがくしゃみをしそうになったが、耐えた。
くしゃみに耐える可憐な姿に釣られてサードが攻撃態勢を解いた。
「……スチーム・ヘッドを持ち場から動かせない特別な事情があったのではないか? ないの? それに、疑問に思って、しかし口にしなかったのなら、内心では仮にも納得していたのでは?」
ライトブラウンの髪の少女は、恋人の真っ白で艶やかな髪に指を通して梳きながら、素朴な感想を述べた。
合理的な推論は彼女の脳髄に存在しなかったが、しかし語られる状況があまりにも非合理なので、逆に見落としを疑ってしまったのだ。
「当時は言詞回路が働いてたから、不死者の言うことに対してそこまで深い思考が出来なくて……」
『普通のFRFの市民はねぇ、上位権限者に命令されると体の芯が気持ちよくなっちゃう仕組みなんだぁ』とサード担当の尻尾から補足が入った。『ちょっとした疑問や、モヤッとした感情は、長持ちしないようになってるの。ただ従うだけの方が気持ちいいしぃ……』
「そうなんだっ。えっと、例えばリリウムさんがヒトに対して言詞回路を使うと、命令された人はたまらく気持ちよくなるんだよね? たぶんそれと同じような感じでっ……」
「リクドー、こういう感じでしょうか? わたくしの問いに答えて下さいますか?」
「はっ、うわっ……あっ……あああ!?」リクドーは我が身を掻き抱いて、息を詰まらせた。尻尾のサードも聖句に魅了されているらしく、仰け反って小刻みに震えている。「ち、ちがうっ、違いますう……! こ、ここまですごくないっ……リリウムさま、や、やめてお、おかしくなる、これ以上命令しないで……!」
「あら、リーンズィ様たちと違ってわたくしの聖句に対抗出来ないのですね! うっかり軽率に聖句を使ってしまいました……どうか赦して下さいますかっ?」
「ふわああああ?! 赦すっ、赦しますっ」リクドーは哀願した。「だ、ダメだよこれっ、もう命令しないで、癖になるっ、そのうち頭が変になるようっ!?」
『……コンバット・モード起動。脳内物質の抑制を開始します』増加人工脳髄としての側面を顕在化させたサードが、機械的な音声を発した。『アルファⅡモナルキア総体より対リリウム用聖句対抗手段をダウンロード。言詞防壁、起動。リクちゃん、だいじょうぶぅ?」
「ふわあ……あ……?」黒髪の少女騎士は不意に正気を取り戻す。「あ、スチーム・ヘッドってこうやって言詞回路とかすぐ追加できるようになってるんだ……すご……刻印するの結構大変だったはずなのに」
『リリウム様だって、リクちゃんに不埒な真似をしたら許さないよぉ。好みの美人をバラバラにして餌にしてきた経験ならサードにはたっぷりあるもん、躊躇わないよぉ?』
あんまり後輩を虐めちゃダメなんだからね、とリーンズィの膝の上のレアが手を伸ばして、リリウムの白銀の髪と頬に触れた。「分かっていますよう」とリリウムも微笑でレアに応じる。「ごめんなさい、あまりのも可愛いのでからかってしまいましたっ」というあっけらかんとした聖少女の謝罪を「こいつには悪気がないのよ、許してやって」とレアが擁護する。
リクドーもシーラも二人に言われてしまえばそれ以上は文句を言わない。
リーンズィとミラーズはアイコンタクトしながら無声通信を行った。
聖少女と最強の兵士は、随分と距離が近くなっていた。
互いに和やかさを心がけてはいるが、目の奥に宿る光は煌々としている。
戦闘には作法と定石がある。
敵対者と平和的に殴りあいをするには、互いに至近距離にいる必要があるのだ。
二人の仲が深まりつつあることをリーンズィは喜んだが、最後に手綱を握らないといけないのはあなたなのよ、とミラーズはそっと釘を刺した。
コルトは頷き、延々と戯れ続ける三人を半ば無視して言葉を続けた。
「隷従と快楽物質を先端的に結びつけられることの異常さは、今ので理解したね。そんなふうに人間を改造するなんてまともな発想じゃない。思いついても、普通はやらないものだ。……あいつの施策について合理的に考えるのは無意味だよ。大した理由なんてないんだ。出来たから、そうした。出来そうだから、やってみる。それで終わり。それの繰り返し。大した器じゃ無い。プロトメサイアはそういう機体なんだ。何もかも行き当たりばったりの出来損ないさ。本当に腹が立つ……プロトメサイア。なんでさっさと大人しく失敗して自壊しないんだ……!」
コルトは珍しく感情的な声を発した。
「あれはどうしようもない機体なんだ。性根から何もかも狂ってる。大勢の死者が出るような非倫理的な選択を、当たり前のように選んでやり遂げる。息をするように大量殺戮を実行する……。だから私はあの機体との連携を拒んできたんだ。あんな壊れ果てた倫理観を持つ機体に従うなんて絶対に認められない……」
「……その、コルト様は、プロトメサイア様とどういうご関係なんですかっ……」おそるおそる、といった様子でシーラが切り出す。「お顔がそっくりだし、それに、まるで顔見知りみたいにプロトメサイア様のことを仰る……前から気になってて……」
懲罰担当官は沈黙した。
机の上のホルスターに目を降ろして拳銃を抜き、黒々とした銃身を晒した。無限に続くと信じて新天地に降り立ち殺戮の法と虐殺の神と地濡れの名誉に従い塵埃の荒野を駆けた貌の無い騎士たちの武器。彼らはかつてアメリカ大陸でバッファローを初めとする多くの野生生物を絶滅させ、原住民と大地が血で泥濘むまで殺し合いを演じ、死体から剥ぎ取った頭皮で富を得た。
ツールは人間性を加速させる。
銃は人間の蛮性を実体化させる。
銃。それはシステム化された最小レベルの殺戮機構。
指先一つで死をもたらす歪で小さなおぞましい奇跡。
存在が始まると同時に、整然とした虐殺の起こる未来を確定させた、忌まわしき人類の叡智である。
「私は……プロトメサイアの、あのアルファⅢメサイアの後継機と目されていた機体だ」
「総統閣下の……後継機っ?」シーラは目を剥いた。「じゃ、じゃあ、その、プロトメサイア様の……」
「娘、だなんて言ったら撃つから気をつけてね。SCARを起動させて、熱線で撃つ」コルトは感情のない声で言葉を遮った。「……コンセプトモデルと量産機、ぐらいの関係はあるけどね。私はこの人殺しをする鉄の塊……鋳造された殺戮としての銃に近い。だが、プロトメサイアは剥き出しの殺戮そのものだ。禁忌という概念の寄せ集めみたいな機械だよ。どうか、親子に例えるのだけは絶対にやめてほしい。私はあの機体が嫌いで……あいつの因子を受け継いでいることを考えるのが、嫌でたまらないんだ」
リーンズィはレアや他の幹部の反応を伺ったが、これといったものはない。
既知の事実のようだった。
リーンズィにしても、以前、ブランクエリアでおおよその事情を聞かされていた。アルファⅢメサイアの異常な特性も。
「でもね、自分で言うのも気が引けるけど、私はあの偽りの救世主よりも遙かにまともだよ。SCARスクワッドはみんなプロトメサイアよりも随分と改良された存在だった」
それでも出来損ないなんだけどね、と口の端に自虐的な笑みを浮かべる。
「私たちは多くの機能をオミットされていたけど、そのおかげで安定していたんだ。代わりに特別な蒸気機関を与えられた。この子だね」黒髪の執行者は昆虫めいた形状の歩行型機械の装甲を撫でた。「ネットワークを通じて多くの変数を操り、『総体』という概念に干渉することで、影響下にある群体に大して、効果的な扇動を実行出来る。その過程で多くの意見を吸い上げて統合することも可能だ。だから、ある一方向だけに暴走することは、あまりない。そして大量破壊能力は、このもう一つの私……SCAR運用システムに仮託されて、幾重にもシステムロックを施されている。起動には私の人格記録が必要で、それなりに手間がかかる。ところが、原型機たるプロトメサイアにはそういった安全装置が何も無い」
「えっと……?」
「人間の形をしているだけの剥き出しの『殺戮と禁忌』が、リミッターも何も無しで、屍と剣の玉座に、救世主のふりをして座っている。……それが私から見たプロトメサイアだよ。狂った偽救世主だ。いつか大きな過ちを犯して、地上から一人残らず人類を消し去ってしまうだろうね」
「……っ」シーラは色を失った。「だ、だけど、総統閣下はFRFのために、ボクたち市民のために、不眠不休でっ……いつでも働いておられる方だよ。酷いことをたくさんしているからって、そこまで悪辣な言い方をされる御方じゃないよっ」
「そうだとしても、彼女の認識する世界に排中律はないんだ。行いの一部が救い主だとしても、でもその救い方が歪みすぎてる。おそらくだけど、『どう殺すか、どう死なせるか』の枠組みで物事を考えてる。結果として多くの命を導いているにせよ、根幹にあるのは『殺戮』だ。こんな狂った機体は存在してはいけない」
「狂ってるって……でも、どうしてそんなことを断言出来るのっ?!」
「……そんなの、私にそうした側面があるからだよ……」コルトは僅かに俯いた。「暴発しないよう、殺戮を招かないよう、改良を施され、自制を重ねている私でさえ、否定しがたいぐらい、そうなんだ。原型機がそうでないわけ、ないじゃないか……」
重苦しい沈黙が、場に降りた。
日は俄に翳り、装甲を纏い世界が終わるその日まで滅びることを赦されない生ける屍どもから、色彩を奪った。プロトメサイアの存在は人類の未来へと長く伸びる暗闇であり、腐臭と血肉で歴史を横断する凄絶なる試練である。
「しかし……」とリーンズィが口を挟む。「コルトは彼女の詳細な仕様を知っているのかな、いるの? もしかすると、見方が違うのかもしれない。殺戮と虐殺の未来を選択的に呼び込む機体なんてそもそも製造する理由がないのでは……?」
レアが「馬鹿ね」とリーンズィの脚を撫でて諫めた。「見方が違うとしても、あの救世主気取りがおかしいのは間違いないわ。どんな理由でも無闇に人間を殺しまくるのは事実なんだから。……リゼこうはいの言う通り、何か誤解があるのかもしれない、狂ってなんかいないのかもしれない、でも人類存続のために正気で死体を量産するなんて、常識的に考えて異常よ。いいえ、ただ狂ってるより尚更たちが悪いわ」
「狂っているというのがどうしても不適切だというなら、完膚なきまでに暴走している、と換言しようか。そんなプロトメサイアから市民たちを『解放する』……それがクヌーズオーエ解放軍の最終目的なんだ」
だけど、とコルトはリーンズィに目配せをした。
「リーンズィの指摘はさほど間違ってもいない。私も本当のところは、仕様の詳細、確信に近い部分は知らないんだ。何かの歯車が狂っているだけである、と期待を持つこと自体は可能だよ。彼女だって、ずっと昔は、そこまでおかしくなかったからね。陰気で、自己否定感が強くて、被害妄想をしてばかりのやりにくい人格の持ち主だったけど、大量殺戮を歓迎するような機体ではなかった……」
「長い死に損ない生活の影響で被害妄想こじらせて、自分以外の全部が敵に見えてるんじゃない?」レアがバツが悪そうな顔で呟く。「自分は被害者で、敵は劣っていて、どいつもこいつも間違っている。だから自分はどんなに横暴に振る舞ってもいい。……精神的に弱ってて攻撃的なやつにはありがちな、勘違い満載で身勝手な心理状態よ。いつぞやかのわたしみたいなね」
「それも可能性としてはあるね。でも、とにかく現在のプロトメサイアがおかしいということだけは、みんな同意してくれるね? 彼女が何を考えてどう変節して屍を築くだけの機械になったのか、確かめないといけない。敷かれたレールを解放軍の力で正さないと、あいつはそろそろ本当に自分が守って育ててきた人類まで皆殺しにしてしまう……」
「あのっ、これもよく分からないんだけどっ……もしも解放軍が全力で都市を攻めたら……ボクたちはひとたまりもないよっ? なんで一気に攻めたりしないの? 総統閣下が悪いのなら、それを倒せばいいだけじゃ……」
「まさしくそこが問題なのです」と大主教リリウムが困ったような顔をした。「クヌーズオーエ解放軍は、あまりにも強力すぎるのです。わたくしもここまで敵対勢力を絶滅させることに特化した軍団は見たことがないぐらいですっ」
「うん、リリウムが正しい。FRFと衝突したとしても、クヌーズオーエ解放軍の側では、本格的な戦闘と呼べるものが発生しないんだ。キュプロクスの突撃隊が報復のために都市への攻撃を行った際に、この不均衡は決定的に晒されてしまった」
「……えっと、そえって、都市の幾つかを解放軍が攻め落とした事件だよね。研修で習った。総統閣下までは突破出来なかった、そのはずだよっ。メサイアドールたちも奮戦したって……」
「誤りだ。アルファⅢメサイア……いやプロトメサイアだけは脅威だったみたいだね。他は八割がた何の障害にもならなかったと報告を受けているよ」
「そんな……」
「そうそう、アルファⅢ。それよ。プロトメサイア、結局どういう機能があるの? わたしより上の強さかしら?」
「機能は常識外のが幾つかあるね。まず彼女は、都市を造れるんだ。このクヌーズオーエの幾つかは間違いなく彼女の造ったものだ。ただ、この規模を思うに、全部がそうとは考えられないけどね。何か間違ったやり方に手を出したんだろう。他には……」
「長くなりそうね。他はまぁ直接会った時にでもいたぶりながら本人に聞くから良いわ、わたしより強いかどうか、のスケールで教えて」
「ウンドワートの敵じゃない。……いいかい、シーラ。プロトメサイアにしても、キュプロクスの突撃隊を数機撃破するのが限界で、残りは領域の外側へと押し出したにすぎない。そしてウンドワートはプロトメサイアが倒せなかった部隊を数分で地上から消し去った」
「……ウンドワート卿は、プロトメサイア様よりも、ずっとずっと強いってこと……?!」
「まあね」ふふん、と胸を張る。「わたしが強すぎるだけでしょうけど」
「ここで重要なのは、プロトメサイアの権能をもってしても、クヌーズオーエ解放軍のたった一部隊を、完全には撃滅出来なかったということだよ。奇妙な話だけど、このことは相当な戦慄をもって解放軍の中央司令部に受容された。仮に解放軍が前線力を投入すればFRFは簡単に滅ぼせる。プロトメサイアの撃破すら、そこまで難しい話じゃない」
「敵が弱いのは良いことでしょ?」そうよそうよ一気に畳んじゃえば良いじゃない、と笑うレアの心拍に真実は無い。
リーンズィの腕の中にある少女の体温はどこか儚く、遣る瀬ない気配を漂わせている。
コルト少尉も、姉妹らしい似た顔立ちで頷いた。
「ある程度まではね。だけど、何かの手違いでクヌーズオーエ解放軍側が無制限攻撃を敢行したら、それは究極の虐殺になってしまう。プロトメサイアですら相手にならないわけだから、FRFはあっという間に何も無い瓦礫の山になってしまうだろうね。……そして我々にはプロトメサイアのような極端な統治能力は無いんだ。市民たちは飢えるか殺し合うかして、死ぬだろう。待っているのは屍の山だけだよ」
「そ、そんなのっ……」シーラは顔面を蒼白にした。「そんなの、ぜったいダメだよっ! やめて……ど、どうか、ボクの同胞の生命資源たちを、そんなに簡単にクズ肉に変えたりなんてしないでっ……お願い……ぼ、ボクの仲間たちを……殺さないで……」
「安心していいよ」都市焼却者は柔和な笑みを演じた。「私もそれだけは絶対に避けたいんだよ。あいつと違って、私は犠牲者を帳面の上だけで管理できるほど、よく出来ていないからね。だけど、私の育てていた実働部隊、『キュプロクスの突撃隊』は、プロトメサイアに接触したのを起点にして、うまく制御出来なくなってしまった。プロトメサイアの誘導に巻き込まれたのか、私の中にあるプロトメサイアの因子がそうさせたのか、報復を名目にして非合理な殺戮を行ってしまったんだ……」
心理的抵抗の強い事実を話すのに疲れてきたのか、コルトは拳銃を触りながら頬杖を突いた。
疲労の具合を勘案したのか、ファデルが言葉を継いだ。
「……あの事件以来よぉ、俺らはFRFへの干渉の程度を図りあぐねてきた。もういっそ放置しようかとも思ってたぐれぇだ。コルトまでどうにかなっちまったら、さすがに影響がデカすぎるからな。だが、お前らの証言でようやく踏ん切りがついた。もう悠長な選択肢は無ぇんだ。クヌーズオーエ解放軍が今回方針を切り替えたのは、アド・ワーカーとかいう気の狂った連中がFRFの内側で暴れているというのが分かったからに他ならねぇ。プロトメサイアは市民を殺戮するスチーム・ヘッドだ。そいつの統治する都市で、市民を殺戮する市民が現れた……どう考えても無関係じゃねぇし、放置はまずい」
「あの逆賊どもって、昔からいたんじゃないのっ!?」と驚くシーラに、コルトは曖昧な笑みで応える。
「……少なくとも、私が解放軍の代表を務めて、プロトメサイアと遣り取りをしていたときには、そんな集団は居なかったよ。だけど、プロトメサイアの異常性は、基礎設計や素体が同じであるだけの私にまで伝播するものだ。直接の配下に影響が出るのは当然時間の問題だし……あいつが造り替えてきた市民に伝染しても、おかしくないね。仮にあいつの殺戮を前提とした前進思考が疫病のように蔓延したら、誰かが手を下す前に、残存人類は自滅してしまうだろう……」
懲罰担当官は立ち上がり、決意も新たに、といった素振りで、兵士たちに呼びかけた。
「だから、この場を借りて、みんなには一層の奮闘を希うよ。私たちでは、プロトメサイアの代わりは出来ない。だからプロトメサイアを討つようなことは出来ないけど……だけど、この地上に残された生きた人類の末裔のために何かしてやれることがあるはずだよ。同族殺しの悪性腫瘍は日々勢力を増しているらしい。つまり、もう猶予はないんだ。この可愛らしい元FRF市民の魂の安寧のためにも、戦って、新しい道を見つけよう!」
解放軍の幹部たちが同意を示す。あるものは歓声で、あるものは武器を掲げて応えた。
アルファⅠ改型SCARの最後の一機、コルト・スカーレッドドラグーンは、群れを率いて扇動することを本旨とする。
彼女がそうするべきだと心底から確信すれば、あらゆる情報操作によって戦術ネットワークにそれを是とする方向性が作成される。SCAR運用システムが演算し、込められた意味を増幅させ、コルトを起点とする意識変容の波は、緩やかに兵士たちの意識を侵食していく。
この瞬間、クヌーズオーエ解放軍は、都市をも焼き尽くす懲罰担当官のもとで、確かに救世の徒としての結束と連帯を、さらに強めた。
シーラが「コルト様ぁ……」『総統閣下の後継者だけあって立派な人なんだねぇ……』と感涙に咽んでいるところに、リーンズィへと無声通信が入った。
> だけどね、リーンズィ。きっと私では最後まで行けない。もしものときは、君に後任を託すよ。私の代わりにプロトメサイアに立ち向かって欲しい。
何故、と問う前に、戦術ネットワーク上に展開したユイシスが思考を紡ぐ。
> 推測。クヌーズオーエ解放軍はプロトメサイアよりも強力であるにせよ、基幹部を担う貴官はプロトメサイアに匹敵しない。直接対峙した場合、敗北する可能性が極めて高いのでは?
> その通りだよ。あいつが保身を捨てて出張ってきたら、解放軍はともかくとして、私は簡単に捻り潰されてしまうだろう。そのまま戦術ネットワークも掌握されてしまうだろうね。だから、保険の意味でも後継が必要なんだ。
リーンズィはコルトのいなくなった世界を想像して、少しだけ怖くなった。
プロトメサイアに掌握されるかもしれない、ということよりもまず、コルトがいない世界というものが、恐ろしくてたまらない。リーンズィは、コルトのことが嫌いではなかった。好きなものが欠けてしまった世界とは、どれほど息がしにくいものだろう?、
ただ、前線に出ないコルトが同じく相手側の中枢に陣取るプロトメサイアに襲われるなど非現実的だ。単なる注意喚起、もしもの場合の話だろうとリーンズィは判断したが、しかし絶対にないとは言い切れない。
怖いから、見ないふりをしたかった。
しかしコルトが負けて消え去る未来を、コルト自身が直視して、備えている。リーンズィも向き合わざるを得ない。
> ……だけど、何故、私なのだ? なの? ファデルたちこそ相応しいと思う。
コルトが笑いかけてくるのがリーンズィには分かった。
> 君だけはまだ、失敗していないからね。そうだろう? ねえ……君は誰なんだい、アルファⅡモナルキア・リーンズィ。自覚しているのかな。君は、プロトメサイアから聞かされていたアルファⅡモナルキアと、あまりにも違いすぎるんだよ。
> プロトメサイアが、私のことを知っている……?
> アルファⅡモナルキアをどうにか使えないかと考えていたそうだよ。どう使うつもりだったのかはしらないけどね。……ダブル・フェイク・アドバンスド、アルファⅣ<ペイルライダー>。それが君の本当の機体名だよね。
> ……?
> プロトメサイアを信じるなら、君は世界を滅ぼすために造られた機体だ。君には本来、それをすることしか出来ない。
> 分からない。そんなことはしない。するつもりもない。
> そう、君はそれをしていない。何故か、する素振りが無い。これは極めて異様なことなんだ。全てのスチーム・ヘッドは生前の思考と死後の機能に逆らえない。私が秩序と扇動を求めるように、プロトメサイアが殺戮を手段とするように、ウンドワートが勝利を追求するように。スチーム・ヘッドは遺志と機能が許すようにしか歩けない。そして何もかもを失敗して、ただ死なないだけの者として、永久に生き続けるんだ。でもリーンズィ、君は、使命にも機能にも、まだ押しつぶされていない。君には可能性があるんだ。君たちだけには……。
リーンズィは改めてコルトを問い質そうとしたが、彼女はそれから逃れるように席を立ち、別の会合に参加してしまった。
彼女が捏ねていた猫が、拗ねたように唸りながら、テーブルで陰陽図の如きまんまるを描きながらふて寝している。
それを何か啓示のようなものとして受け取り、少女は追及を諦めた。
話す機会はまだまだあるのだ。急いても仕方が無い。
> しかし、私は本当はアルファⅣ<ペイルライダー>というのか……? ユイシス。私は何なのだ? 何なの?
コルトに指摘された時、リーンズィは全く動揺しなかった。
心当たりがなかったからだ。
エージェント・ヴォイドから引き継いだ身分は曖昧で、現在のリーンズィには、そもそもエージェントやアルファⅡモナルキアという区分にすらさほどの興味がない。
> 回答。エージェント・リーンズィは、現在、調停防疫局の全権代理人、エージェント・リーンズィです。
ユイシスのトートロジーじみた回答がリーンズィに分かることの全てだった。
どこか強硬で危うい気配のあるコルトの態度を思い返しながらライトブラウンの髪をした少女はため息をつく。
コルトの感情の僅かな機微が、リーンズィには分かり始めていた。
あんなふうに言葉を重ねるというのは、やりたくないからこそ出る行動だ。
コルトは本来なら『総体』、戦術ネットワークを通じて、言葉なくして解放軍に干渉出来る。
言葉が必要になるのは、自分自身に言い聞かせる時だけだ。
「しかし、やりたくないなら、不貞寝をすればいいのに。猫もいる。猫と楽しく暮らせば良いのに……」と膝の上のレアの髪に顔を埋めながらごちる。レアが恥ずかしそうな声をあげたが、リーンズィは恋人の甘い香りで胸の空白を満たすのに必死だった。「コルトは、どうしたって、最後まで行くつもりなのだな」
「誰だってそうよ」リーンズィの吐息に体を震わせながらレアが返す。「行ってしまえるところまでは誰でも行こうとする。道があるなら進まずにはいられない。そうでしょう?」
「……ウンドワートはプロトメサイアに勝てる?」
「勝てるわね」
「でもコルトは?」
「……分かってる。私もやれるだけのことはやるつもりよ」
「二人ともなんだか暗いですね。お祈りの言葉が必要ですかっ?」銀色の聖少女が背後からリーンズィの首に両手を回す。「聖ハリストスを信じていなくても、祈りの言葉が先人の残した道標であることには代わりません。一緒に唱えれば、楽になるかもしれませんよ……?」
三人は祈った。避けられる未来を迂回する勇気を、避けられぬ未来を受容する覚悟を、そして二つの未来を峻別出来る力を授けてくださいと祈った。日々の健やかで幸せであることを祈った。みんなが幸せでありますようにと祈った。
「否定します。無意味な願いです」統合支援AIが嘲笑う。「そのような勇気や覚悟が祈って授けられるものならば、人類は不死病の蔓延と狂気的な戦争の勃発を見過ごさなかったでしょう」
古い大主教は微笑して、幻影と手を重ねる。
「だけど、そんな現実は、信じて祈らない理由にはならないわ」
……やがて夜が来る。
あらゆる朝と昼の後、必ず夜が来る。
智者も賢者も英雄も王もその運命から逃れる術を持たない。
ただ死者だけが、永遠の眠りの中で夜を忘れ、一切の罪を許される。全ての生者は暗闇の中で惑い、泣き喚き、恐れ慄いて、数光年を隔てて並ぶ星々を結び、ありもしない神を描き出して祈りを捧げる。
応えるものなどありはしない。
夜は来る。




