セクション3 試作型救世主 その2 祭壇の羊、再誕と祝福(12)
四十秒後に、ネレイスはようやく呼吸を整えることに成功した。
親を喪った幼子のように伏せって泣き喚くのに、四十秒も使った。
失態だとは思ったが、どうせこれで最期なのだ。ネレイスは後悔しないことに決めた。命が無くなれば、後悔して泣きわめくことすら出来なくなる。
ここで悲しみ、悔いなければ、もう機会は永久に無いのだ。
プロトメサイアは、投げかけた言葉の通り、ネレイスが涙を流すのを一切咎めなかった。残り時間をカウントダウンして、ずっと見守ってくれていた。
プロトメサイアの力は本物だ。
四十秒あれば、どれほどの奇跡を起こせたのだろう。どれほどの命を救えただろう。
その貴重な四十秒をただ泣くためだけに使えた自分は幸福だ。少女はそう考えた。
『落ち着いたか、ネレイス』
「はい」ネレイスはまなじりを擦った。「お恥ずかしいところをお見せしました」
『構わない。では会話を続行する。我々プロトメサイアは、貴官にさらに謝罪をしなければならない。貴官の過ちは、より深刻な度合いにおいて、我々の過ちでもあるのだ』
「……?」
ネレイスは唖然として顔を上げた。
もうその件に関しての話は終わったと思っていたのだ。
プロトメサイアは僅かにヘルメットの首を傾けていた。ヘルメットのせいで表情など分かりはしないのにどこか物憂げに見えた。
照明器から投げかけられた光に照らされたバイザーの無機質な輝きは家人の帰らない忘れられた廃屋で傾いたままずっと放置されている額縁を想起させ、バイザーの奥に鎮座するレンズは由も知れぬ異邦の荒野に打ち捨てられた角のある動物の頭骨じみていて、いずれにせよ人間には似ていない。
『貴官はメサイアドールを敬愛していたし、エリゴスとも良好な関係を築いていた。我々はそう認識していた』
「……」敬愛しているのは事実だが、後半は受け入れがたい。「エリゴス様とは一度も話したことが……」
気持ちを切り替えられない。
話が途切れる前後で何も変わらないプロトメサイアの一本調子の声。
まるで眼前で伏せって落涙していたネレイスなど、見ていなかったかのようだ。
……総統は超越者であるから、何もかも等閑視しておられるのだ。しかしここまで感情上の断絶が存在していると不安にもなる。気持ちは分かるつもりだ、と総統はいつでも言って下さる。慮って下さる。
しかし、それはどの程度のレベルでの理解なのか……?
そう考えるネレイスを余所に、プロトメサイアは甲冑の拡声器越しに、感情のない声で話し続けた。
『あのエリゴスと、接触する機会があまり無かった、という時点で、外観的には十分だ。エリゴスは、重大なエラーを起こしている。第一次遠征隊が全滅したときから誤動作が目立ったが……終わりの百年ほどは、さらに酷かった。現在の彼女はアド・ワーカーの狩り出し等の無差別殺戮が必要な場面においてのみ、隷下の市長の責任を一方的に肩代わりする形で出動していた。自分の市民に苦痛を与えたくないがために、無慈悲に死を振りまき、何も感じていないかのような顔をして去る。ある種の殺戮機構になりきり、屍の山を築いていた。だが、貴官の治世では二度しか活動記録が無いのだ。これは驚くべき水準だ』
ネレイスの記憶通りではある。エリゴスが突然現れて、ことわりもなく殺戮を実行したのは、百年ほどの間に二度だけだ。前市長の時代でも、三度だけだった。
そんなに特別な数字なのですか、とネレイスが尋ねると、他の都市では一年に一回エリゴスが出撃していたということだった。
そんなことでは都市がすぐに潰れてしまうのではとネレイスは冷や汗をかいたが、実際にネレイスが浄化チームの出動を待たずに単機で都市を壊滅させたことはあると総統は頷いた。
そしてその責任を誰にも求めないのだと。
『エリゴスは全ての責任を自分で負おうとする。このやり方は、慈悲深いが粗暴で、容赦が無い。事情を知らねば狂気的であると思えるだろう。そのため、仮に貴官が彼女に反感を覚えているのだとすれば、ウォッチャーズなりFRF統括運営局なりに一報があるはずだと考えていた』プロトメサイアはネレイスにレンズを向けた。『ところが貴官は全く無批判にエリゴスの行動を受け入れ、意思疎通もないのに彼女の出動を抑えるよう、統治を安定させた。それがために、貴官がエリゴスの精神性を理解し、共鳴しているのだと誤認した』
共鳴するのは、難しい。
そんなの、出来るわけがあるまい。
ネレイスは視線を落とし、反感を悟られまいとする。
意思疎通も無いまま市民を殺戮する存在にどう共鳴しろというのか……。
市長だった頃のネレイスは、僅かなデータから必死に不死者エリゴスの行動傾向を読取り、先手先手で問題を潰していた。そのつもりだったが、あくまでもつもりだ。
それが正しかったのかどうかも、こうしてプロトメサイアが明かしてくれるまで分からなかった。
ネレイスを子として成したがために得たペナルティのせいだとしても、外形的な評価には何ら関与しない。
謎めいた行動原理で市民を殺す貴人。
それがネレイスから見たエリゴスの全てだ。
意図が読めない殺戮に対して、怒りを覚えなかったわけがない。反抗しなかったのは、それでもエリゴスとプロトメサイアを信じていたからに過ぎない。
「共鳴はしておりません」ネレイスは触れてくれたエリゴスの優しい手つきを思い出しながらも、決然として応えた。「実際のところ、不満を抱いておりました。しかし……しかし、エリゴス様も不死者であられます。総統やウォッチャーズのお歴々が、壊れてしまった不死者を放置されるわけがないのですから、エリゴス様の行動は、即ちFRFが是認していたに等しいのです。理由があって大義を遂行しておられると信じ、だからこそ、申し立てを行いませんでした」
エリゴスは間違いなく正気で活動しているのだと、信頼していた。
前市長に聞かされた限りでは、かつてのエリゴスも、行動自体は現在と大差無かった。少しナイーブな一面があって、はにかむように笑い、市民を愛した。しかし、無作為とも思える無慈悲さで殺戮を実行し、血煙は纏うその姿は、何も変わらなかったのだと。
市民の返り血でしとどに濡れたその甲冑の美しさをネレイスは覚えている。一夜にして大量殺戮を実行した不死者は、パレードの準備でもするかのように被害者の臓物や部品を街路に吊るして、日の出を迎えた。燃え上がるような陽光を浴びて蒸気を排出しながら佇む細身の甲冑は輝いて血の水鏡を照り返しており、泥濘から浮上してきた逆さまの世界そのもののようにも見えた。
あの姿を、疑うことなど出来はしない。
自分を信じないものには出せない、存在としての美しさだ。
『貴官は推論に基づいて消極的にエリゴスの行動を肯定するのみだった。そういうことだな?』
「……厭で、怖い人ではありました。でも、誠の心がなければ発し得ない美しさのようなものが立ち振る舞いに満ちていました。だから、きっと必要な行いだったのだと、浄化チームに居た頃の私の感性が、そう告げていました……」
『貴官の直感を肯定する。エリゴスは非常に浄化チーム的な感性の持ち主だ。ただし、その精神性は、浄化チームの中核メンバーであるフェネキアたちとは決定的に異なる。人間的な感性を理性で抑圧し、恐怖と憎悪を一身に受け止め、市民にのし掛る責任を自分一人に集中させ、忌まれる仕事を最高の効率で遂行する。それが<慈悲深き者>エリゴスだ。元バアルゼブル派だが、悲願を果たすよりも市民を守ることを優先し、最終的にプロトメサイア派に鞍替えした』
バアルゼブル派、と言われてもネレイスには思考が及ばない。
どう返答したものか迷っているうちに、プロトメサイアが視線を向けてきた。
『不死者バアル。バアルゼブルは知っているか?』
「御尊名だけは」
アルファⅢバアルゼブル。
伝説的なメサイアドールで、天地の万象を司るアスタルトに次ぐほど知名度は高い。
クヌーズオーエ最強の矛とまで渾名される。
「しかし、名前だけしか存じておりません」
というよりも、名前しか知ることが出来ない。
殆どお伽噺の存在だからだ。
実在しているとしても遭遇する機会は無かった。
「遙か昔、多くの兵士を引き連れて戦争に行って、どこか知らない土地で悪しき者と戦い、今も市民のために戦い続けていると聞いております」
『おおよそは正しい。<遠征隊>を率いて出立した彼女の使命は、クヌーズオーエの外側に新たな可能性を求めることだった。様々な制限に苦しむ市民たちに第三の道を示そうとした。エリゴスは、元来そういう指導者を支持する立場だったのだ。最終的には市民の守護を選んだが……』
「クヌーズオーエの外側に……?」
ネレイスは目を見開いた。そんなメサイアドールがいたとは知らなかった。
そんな機体に従っていたエリゴスに、親しみのようなものが湧いてくる。
都市の外を熱望しながら、市民のために留まることを選んだ。
自分とまるで正反対のようでいて、自分と同じような葛藤をしていた。
ネレイスの胸に掻き毟るような愛しさが去来した。
『だが、貴官の理想とするメサイアドールは、エリゴスでは無い。このプロトメサイアでもない。<導き照らす者>アスタルトだった。認めるか?』
実情を知れば、エリゴスと自分の精神性には、類似点が見つけられる。
だがそれは総統が明かしてくれたからこそだ。
原初の憧れは、どう足掻いても書き換わらない。
「不遜であることは、承知しています。総統閣下と不死者エリゴス様を敬愛する気持ちに偽りはありません。しかし、私の目指すところは、まさしく……他の誰でも無い、アスタルト様の統治の在り方でした」
『一向に構わない。彼女は崇敬に足る機体だ。アルファⅢアスタルトは、反プロトメサイア勢力の先鋒であり、バアルゼブル亡き今、我々が最も信頼するメサイアドールだ。現在、都市の市民の命が継続しているのは、彼女の尽力によるところが大きい。アルファⅢメサイア総体での立場も強い。我々よりも幾らか救世主に近いとさえ言える。決して届かない理想を追求する彼女に倣おうという志の高い市民が現れたことは、歓迎すべき事態である』
告白が不興を買うことは無かったようだ。
プロトメサイアの言葉に非難の類は感じられない。
しかし何か聞き捨てならない言葉が聞こえたために、ネレイスは短時間硬直してしまった。
……アスタルトが反プロトメサイア勢力の先鋒、とは、どういうことか。
全ての不死者は究極的にはプロトメサイアに従属しており、人類存続を目的に団結しているのだとネレイスは無意識に考えていた。
バアルゼブルなる機体の名が出たときにも違和感があったのだ。総統は彼女には『派』があったと言っていた。
現実には一枚岩では無く、上位の不死者の間にも派閥争いがある。
そう考えるのが妥当なのだろうか?
反プロトメサイアの意味が、急に分かったような気がした。虐殺主義的破壊行動者は、まさしく反プロトメサイアだ。人類を守護し、許容される限界まで殖やそうとするプロトメサイアに対して、アド・ワーカーは無闇に死体の山を造る。それが反プロトメサイア的行動なのだとすれば、まさか虐殺主義的破壊行動者の首魁もアスタルトなのではないか、と思考が及んだとき、総統は鷹揚に頷いた。
『心拍が乱れている。おおかた、アスタルトの立場とアド・ワーカーを結びつける神経発火があったのだろう。警戒は無用だ。貴官の夢想するアスタルトと、現実のアスタルトは、おそらく一致している。彼女は清い精神性の持ち主だ。市民の命と繁栄を第一に考える。虐殺などもってのほかだ』
ネレイスの胸が軽くなる。寒々とした光の中で安堵の息を吐いた。
『従って、我々のやり方にも彼女は賛同していない。幸福の追求を肯定するのに無限の犠牲は必要ではないと考えている。その一点においてこそ、彼女は、我々プロトメサイアを拒絶しているのだから。そして我々を上回る殺戮の渦を作り出すアド・ワーカーは、間違いなく相容れぬ敵だ。よって彼女は反プロトメサイアであると同時に反アド・ワーカーである』
少女の反応を待つまでもなく、総統は例の平坦な声音で話題を戻してしまった。
『我々の誤りは、こうした見解の相違にこそある。アスタルトに倣って、無限の包容力で市民を守りたいと考えている市長に、エリゴスと同じく、慈悲深き死の遣いとして振る舞えと命令する。これほど馬鹿げたことはない。真に愚かしいのは、我々プロトメサイアなのだ。貴官は選択を誤ったが、我々は貴官の内心を読み違えていた。……貴官をあんな試練に晒すべきではなかった。真実を伏せておくべきではなかった。我々が間違えなければ、貴官も間違えなかった。思い詰めて意味の分からない行動を取ることも、罪人になることもなかった』
相変わらず申し訳なさなど微塵も感じさせない発声だが、プロトメサイアがこうして第三者につらつらと悔恨を語ること自体が異例だった。
ネレイスとしては、意味が分からなくとも、背筋を伸ばし、真剣に総統の言葉を聞き届けるしかない。
『改めて謝罪したい。ネレイス、貴官の失敗と、都市の全滅の責任、その一端は、明確に我々にある。この点について……我々プロトメサイアは貴官への減刑によって応える』
「は」
ネレイスは俯き、総統の言葉を拝領する。
怒りも赦しも心に湧いてこない。歓喜もない。
絶対者から一方的に謝罪されても、困惑するばかりだ。
しかも、プロトメサイアの定める刑の軽重の規準は明らかにウォッチャーズやウォッチドックスが定めるものとも異なるため、減刑の恩寵がどういうものなのか、想像が付かなかった。
「私は……何の成果も無く、多くの資源を失って帰還し、クヌーズオーエの時間特性に囚われて、無為に時間を過ごし……」おそらくはその間に、疫病が蔓延して……「都市の滅亡を招きました。減刑されて、それで、我が身はどう処断されるのでしょう……?」
『貴官の罪に対応する罰は、それでも死しかない。器官飛行船を使って領域外へ繰り出したのは我々の過ちだ。それで諸君らは成果を得られず、失意のうちに帰還したという程度であれば、まだ裁量を差し込む余地はあった。貴官を市長の座から降ろし、権利を制限し、少女騎士ともども、友好的な他都市の支配クラスの、その隷下に配置する。このあたりが落とし所になっていた』
都市の支配クラスに属していながら市民未満の立場に貶められる。
没落都市の支配クラスにはよくある処遇だ。
生殖権はもちろんのこと、一切の権利を他者に奪われてしまう。
しかし、意図せぬ形でも生命資源を残せて、しかも相手が友好都市の有力者であるというのは、厚遇だろう。命も遺伝子も繋がるし、何代か後には、自分の子孫が再び支配クラスの正当な地位を得るかもしれない。少女騎士はどれも雌性体として優秀だ。奴卑の如く扱われることもなく、寵姫として生きることさえ有り得る。希望的観測含みだが、温情のある裁きだ。
……あのとき血迷ってさえ居なければ、少女騎士も皆生きていたのだ、とネレイスはまた泣きそうになった。
『しかし、貴官は全てを喪失してしまった。救済の機会も、贖罪の機会もだ。長く荒れ果てたクヌーズオーエに囚われていたせいで、支配者なきフェイク・ヨーロピアは滅んだ。君に連なる血族も、様々な嫌疑によっておおよそ根絶やしにされてしまった』
「……根絶やしにされた……?」息を呑む。「疫病で滅んだのでは、ないのですか?」
脳裏に浄化チームの出動という事態が浮かんだ。
市長が出奔しただけで全市民を粛清の対象になり得るのだろうか。
『疫病もあるが、全てがそうではない。疫病が広まるよりも早く、貴官たちの出奔と背反は、多くの敵対的な市長に知られた。最大の守りであり、怨敵である、貴官の軍勢が背信を働いたのだから、あとはアド・ワーカー疑いの大義名分をかければ、どの都市からも、独自に調査を題目とした侵攻が可能だ。貴官が想像しているであろう浄化チーム出動の要請も、同じく可能だ』
「わ、私は、友好都市の市長たちに、いざというときの防衛を依頼していて……」
『肯定する。一年は守れるだろう。実際に一年は無事だった。しかし、それ以上は防衛から得られるリターンよりリスクの方が大きくなる。彼らはフェイク・ヨーロピアから撤退し、逆に略奪と殺戮に参加した。憐れなことだとは思うが、この点は、もはや弁護のしようも無い。貴官たちが不在の間、市民たちにはありとあらゆる嫌疑がかけられ、ありとあらゆるものを奪われ、考え得る全ての惨渦に巻き込まれ、様々な在り方で息絶えていった。貴官は、彼らに贖う必要がある……即ち、完全な死だ。ただし、貴官には、苦痛なく、安らかにそれを与える。これが我々の責任と相殺して、貴官に齎される慈悲である』
「……」
ネレイスは改めて己の罪業の深長さを自覚した。
異論はない。
多くを失い、多くを失い、何もかもを壊してしまった。
苦痛に満ちた死では無く、単なる殺処分であろうという点だけが、辛うじて救いだ。
再度の死を受容したネレイスに、プロトメサイアはどこか優しげな声を投げかけた。
『だが、貴官は思い違いをしている。何も得られなかった、全てを失ったと君は落胆しているが、己がどれほどの偉業を成し遂げたのか、それを丸きり見落としてしまっている』
声自体に依然として変化は無い。
しかし、総統の微妙な感情の変化を斟酌するのも忠実な市民の務めだ。
死に関する訓示から、功績を称えるという極端な話題の変化に、幾ばくかの高揚を読取った。
その上でネレイスは偽りの無い本心で応じる。
「……私は愚劣な罪人です。何一つ、利益をもたらしてはいません」
『否定する。君、聞き給えよ、ネレイス』
「はい」命令言語の入力により、ネレイスは隷従の恍惚に身を震わせた。「お聞かせください、我らがプロトメサイア」
『貴官はようやくスケルトンとの接触に成功したのだ。これは疑いようのない偉業だ』プロトメサイアは囁くように言葉を届ける。『我々が実際にクヌーズオーエ解放軍とコンタクトしたのは、三百五十年以上も前のことだ。この問題は、諍いを疎み、我らの命を儚んだ解放軍側の異端者、大主教ヴォイニッチが、都市の構造を改変してしまったことに起因する。彼女はクヌーズオーエ総体を操作して、変異レベルの高い都市をルート上に再配置を実行。現在まで我々の侵入を拒んでいる。我々プロトメサイアですら、稼動時間をどれだけ犠牲にしても、彼女が構築する連鎖崩壊式の言詞障壁を踏破出来ない。あちらの現状さえ把握不能な状態だったのだ』
プロトメサイアをもってしても突破不可能な障壁など、どうにも想像が付かないが、とにかく大変な事態だったらしいとネレイスはぼんやりと理解した。
『貴官の証言したクヌーズオーエ解放軍の現況は、極めて、極めて、極めて貴重な情報だ。そしてこれを持ち帰った。まさしく偉業である。誇り給えよ。君は千年前の我が同胞、最強の矛たるバアルゼブルとその眷属が果たせなかった宿願を、断片的ながら果たして見せた』
恍惚感が色褪せ、ネレイスの脳裏に猛烈な熱が奔った。
同時に、見知らぬクヌーズオーエで遭遇した、あのスケルトンの軍勢の記憶が蘇る。
浄化チームをも容易く屠り尽す真なる脅威の群れ。常勝無敗の古き不死者たち。
だが決して、決して全ての機体が敵対的ではなかった。
おそらく昔からそうだったのだ。
それが何かの事件で関係が壊れてしまった。
糸の一本でも関係を繋ぎ直した自分は、偉業を成したのだと、そう思うことも出来ないではない。
『純粋に功績だけを見るならば、貴官はこの一事だけで不死者へと転化されているだろう。貴官はそれだけの働きをしたのだ』
「は……」
自分を死へ向かわせる存在からの望外の称賛に快楽物質が湧きだし、脳髄を掻き回す。
しかし口を突くのは自虐と謙遜の言葉だ。
「私は、ただ、見て、施されて、帰ってきた、それだけです……」
『その、それだけのことが、誰にも出来なかった。公から名前を抹消されても、我々プロトメサイアは貴官の存在を永久に記録しているだろう』
脳内麻薬の奔流の中で、疑問が膨らむのを抑えきれない。
プロトメサイアからの称賛が過大に過ぎる。解放軍の情報を持ち帰ったのは多少なり評価され得る項目だとは考えていたものの、こうまで好意的な反応は予想していなかった。
プロトメサイアの感情を感じさせない美声には、しかし歓喜の色が混じっている。
平坦な声音でも、饒舌さという要素まで塗り潰してしまうわけではない。
『どれも特筆すべき成果だ。予想されていた通り、彼らの属する宇宙では、まださほど時間が進んでいないようだ。つまり健在な機体が減っていないと期待できる。さらには、君の記録媒体に収録されていた映像で、ようやくアルファⅡウンドワートの外観が判明した。彼女の戦闘機動は速すぎるので姿を確認したものがいなかった。アルファシリーズであることはまず間違いない。しかしアルファⅡがあのような形状をしているとは考えられないため、実質的にはアルファⅠ改か、単機能型のアルファⅢであると予想される。また、アルファⅡモナルキア・リーンズィを名乗る機体と、その隷下の一団についても興味深い。但し模擬人格が明らかにエージェント・アルファⅡの仕様から外れている。不死病筐体も記憶と異なる。その上で安定稼働している事実を鑑みるに、我々の知るアルファⅡモナルキアの、その劣化複製品だと予想されるが、しかし後継機ではあろう。二千年前の試行錯誤がようやく実を結んだという感慨がある』
総統と似通った意匠の装備を持つ、あの美しい指導者と、他よりも一際に強大な圧力を放射していた兎型の巨人は、やはり縁の深い存在であるようだ。
『そして何より……我々の直系の後継機であるコルト、アルファⅠ改型SCAR、コルト・スカーレットドラグーンの再起が喜ばしい。これは市民にとっても福音だ』
首輪から電流が送り込まれ、視界の片隅に「総統によろしく」と挨拶してくれた黒髪の美貌が再生される。
「……総統閣下と同じ顔の、解放軍の不死者……」
彼女と対面したとき、全身が震えたのを覚えている。
浄化チームの式典ではプロトメサイアの尊顔を拝する機会もある。
ネレイスは精神を疼かせるその美貌を目に焼き付けていた。市民なら誰しもが同じ動作をするだろう。
つまり、誰が見ても、解放軍の不死者、コルトが総統と同じ顔をしていると、瞬間的に判断出来る。
『コルトの不死病筐体は、まさしく、我々の使うそれを複製したものだ。彼女こそは我々プロトメサイアの正当な後継である。機能はアルファⅠ改型相当にスケールダウンしているが、統治者としての機能は、我々プロトメサイアに確実に勝る。我々の人格記録媒体に存在する欠陥もクリアしている……』
「では、総統のご子息、ご令嬢のようなもの、ですか……?」
『肯定する。ただしあちらは、我々を祖とすることを拒絶している。価値観に隔たりがあるのだ。親子と表現すればコルトは忌避を示すだろうから、娘と呼ぶのは差し支えがある』
「……総統のご息女が、クヌーズオーエ解放軍、我々の都市を狙う不死の集団に加わっている……? どうしてそんなことに……」
『回答。システム上の問題である。コルトもクヌーズオーエ解放軍も、本質的には人類の味方である。しかしコルトは未だに正常に動作しているため、我々プロトメサイアに対しては、暴走を起こしているという判定を下している。あれは無辜の命が喪われることを殊に惜しむ機体だ。それ故に我々プロトメサイアに協力すること自体がアイデンティティの崩壊に繋がるのだ。我々とは異なる手段での市民の救済を画策していたが、FRFの領域内部に限定しても、人類再興に直接貢献しているのは、我々プロトメサイアの手法のみである。我々に協力することだけが現状では唯一正しく、補正するにしてもやはり我々に参画する他ない。あの機体も、いずれ認めなければならくなる……』
気になるところは多いが、ところどころに、嫌な感触の言い回しが含まれている。
暴走している……?
暴走しているのは誰だろう。
プロトメサイア?
プロトメサイアが暴走している?
ネレイスは、自分が聞き間違いをしたのか、理解を誤ったのだと考えた。
示唆を読み落とした可能性もあった。だから、精一杯好意的に解釈しようとした。
コルトが、意見の相違から暴走を始めた。プロトメサイアは正常だが、コルトからしてみれば、暴走しているのはプロトメサイアの方である……。
そういった表現だろうとあたりをつけて、ネレイスは疑念を飲み込んだ。
『彼女の倫理規定は我々よりも遙かに厳格だ。それ故に我々と折り合いを付けることが出来ない。しかし、先の大規模衝突で、解放軍はFRFの市民を五百万人ほど虐殺してしまった。コルトはその際に重大なエラーを起こして自壊行動を始め、一線から引いた。あのモデルは構成が厳格すぎて精神的に脆い。コルトは突然変異的に自我が強大だったが、しかし限界だった。もう二度と会うことはないと考えていたが、我々に言づてをするためにわざわざ姿を現したのだ、もしかするとようやく合流を決めてくれたのかもしれない』
「待って……待って下さい」
さすがに思わず声に出してしまう。
分からない話ばかりだが、聞き捨て出来ない単語が多すぎる。
先の衝突とは、何だ? 浄化チームとの接触ではないのは確かだ。歴代の浄化チームを全部あわせても五百万という数にはならない。大都市が幾つか滅んでやっとその数字にになる。
いつ、どこで、それほどの死者が?
それに、合流とは?
あの強力無比な不死者の軍勢と……?
「解放軍が、我々の側につく可能性があるのですか?」
『そもそも、最初に接触があった時点で、我々プロトメサイアは、協力を呼びかけている。我々は彼女たちを敵視していない。首魁であるコルト・スカーレットドラグーンにも、メサイアドール、アルファⅠアモンの席を用意してある』
「し、しかし、スケルトンは全て穢れた不死、倒すべき敵なのでは……」
どの都市の教義や方針を見ても、外部の不死者と接触することは禁忌とされており、思想統一のために語り継がれているお伽噺でもそれらは一貫して敵として扱われている。
『FRF外の機体が、人員の強奪を初めとする過度の干渉を仕掛けてきた事例が過去に複数あった。これを防止するために、未登録の不死者は全て敵として扱う規定が出来た。これがスケルトン関連の伝承として一般に流布されているものの実態だ。クヌーズオーエ解放軍との軍事衝突は、この規定と、幾つかの事実誤認が重なって偶発的に起きたトラブルである。元々は手探りでも協調していた。しかし、クヌーズオーエ解放軍に所属するレーゲントと呼ばれる特殊用途の不死者をFRF側が誤って略取したのを切っ掛けに、和解が難しくなった。あれは失敗だった。レーゲントの非暴力の精神性を我々は理解していなかった……』
「浄化チームが彼らと何度も戦っていたのは……」
『クリアランスを承認。回答する。あれはただの選定作業だ。剣の玉座に座る者はまず己らの屍で道を築かねばならない。解放軍の同志に依頼して、殺戮を実行してもらっていた』
黒い救世主は何でもないことのように言った。
『敵勢の戦力が圧倒的であることを冷静に見極められる観察眼。都市の外側には貴官らの力では及びも付かない脅威が存在する事実を冷静に受け止められる精神構造。そして、それでもなお尚都市へ忠誠を示せる覚悟……付け加えて無事に生き残るだけの運。こうした能力が次世代には必要だった。諸君らは勝率が0を割る戦闘に挑み、可能性のあるものだけが帰還した。貴官らの生還は称賛に値する成果だ』
少女は激昂した。「解放軍のゲート・キーパーたちと戦って死んでいった私の仲間たちは、無駄死にだったというのですか!?」
プロトメサイアは首を振った。『否定する。無駄ではない。必要な死だ。功を焦り無意味に死ぬ優秀な個体は、最終的には大きなリスクとなる。地位を得る前に間引く必要があった。現実を理解せず間違った方向へ走り続ける愚かな兵士、いたずらに闘争を求める戦闘狂の血など、どれほど性能が高かろうと、我が理想都市には不要である。純粋に運が悪かっただけの市民もいただろう。その点については残念に思っている。だが、やはり必要な死だった。彼らの手による虐殺がなければ、貴官のような希少人材も育たなかった』
やはり、やはり自殺も同然の衝突だったのだ。
死ぬためだけに戦わされたのだ。
忸怩たる思いにもなるが、しかし総統の言い分も間違ってはいない。
怒りが色褪せていく。あのレベルの戦力差があることを素直に受容できない愚者が指導者の椅子に座れば、どんな惨事を招くか、知れたものではない。精鋭部隊から不純物を取り除き、より大きな可能性を持つ個体だけを生存者としてピックアップする。この酸鼻な作業を内々で進めるのは無理がある。何の地位も無いものに同族殺しの強要など絶対にしてはならない。そうした体制は必ず破綻する……。
外部の集団を巻き込むというのも、手段としては正しい。
否定する余地がない……。
『解放軍の戦力が圧倒的であることを、貴官はこの都市で暮らすどんな生命資源よりも、深く、深く知っているだろう。解放軍との関係性を僅かでも修復出来たのはまさしく奇跡だ』
故に、と漆黒の救世主は手を差し伸べるようなジェスチャーをした。
『我々プロトメサイアは、貴官の功績を以てさらに刑を引き下げる。貴官の血を絶やすのはあまりにも惜しい。罪は赦されないが、その胎盤で次代を造ることを認める。貴官は人格を破壊されたあと、公的な記録から抹消され、そして我々プロトメサイアの最も信頼する定命者へと身柄を引き渡される。そしてFRFにおいて人道的に扱われるだろう。自我は無い。自由意志は無い。だが、我々は彼の地で、貴官の後継が必ずヒトとして生まれることを約束する。いずれ貴官の遺伝子が新たな可能性を切り拓くと我々は確信する』
「……温情に、感謝いたします」
ネレイスは頭を垂れた。
ここにきて、死は免れたらしい、と漠然と理解する。自分の血統の存続も約束してくれた。
人格も権利もない身分になる。ただし総統の表現から推測するに、路上で気晴らしに殴られる人格的刑死者のような無残な状態ではない。脳髄を破壊された自分には、それを感じることは出来ないだろうが、おそらく安逸なる生活が待っている。
全ての罪を放免されたにも等しかった。
それだけに猛烈な苦しさが込み上げてくる。
抱いた感情は、プロトメサイアのレンズの奥にある世界と同じだった。果てしのない虚無感。全生命と全資源を傾けた決断は、フェイク・ヨーロピアの全滅を呼び込み、この都市には少女騎士どころか娘の一人すら存在していない。
目指した先には何もなく、予想外に手にした利益についても、実感が出来ない。
総統を責めようとした自分の浅はかさに嗤う。山ほどの犠牲を求めるにせよ、プロトメサイアはそれを補って余りある成果を生んで、現に数千万の生命資源を今日まで生かしている。光輝に満ちた偉大なる不死者だ。それを、全てを無為に死なせただけの自分が、いったい何を責められるというのだろう……。
阿呆だ、とネレイスは自分自身を嗤う。どうしようもない阿呆だ。何のために今まで生きてきたのだろう? 何を成せると思って……? 何のつもりで……?
愚かな人生だった。ネレイスは嗤いに嗤う。声なく、言葉なく、青ざめた顔に一つの笑みも浮かべずに、しかし、ひたすらに嗤う。未来、過去、全てを喪って、少女は超越者の前に跪いている。虐殺の実行から逃げるべきではなかった。市長になるべきではなかった。フェネキアの寵愛を拒絶するべきではなかった。浄化チームなど入らなければなかった。ギヨタンに素直に愛を請えば良かった……。
自分は何もかも間違えて、今、ここに伏している。
都市全体の利益はあったと言われても、ネレイスには何もない。
ネレイスの全ては、ネレイス自身の過失で、全て死なせてしまった。
思えば、総統の言葉は全て、免罪のための温情なのだ。罪人に情けを与えるための迂遠な処置の連続だ。しかし、総統がどう言い繕って慰めようとも、ネレイスさえ間違えなければ、無辜の市民が百万も死ぬことはなかった。
自分が死なせたのだ。
生まれてくるべきではなかった。少女ははっきりと理解した。自分のような生命資源は、生まれてくるべきではなかった……。
『心拍が乱れているが』
「いいえ」ネレイスは凍えた声で言う。「いいえ……」
『功罪だけを問うならば、功の方が大きい。制度上、貴官を罰しないわけには行かない、というだけの事案だ。都市や不死者を幾つ遣い潰しても、貴官と同じ成果は決して出せない。我々プロトメサイアですら、貴官ほどの成果を出すには、自身の機能停止まで有り得る大規模な計画立案が必要になる。それにしても、処刑に等しい刑罰を受けるのだ。さぞや恐ろしいだろう。我々にその恐怖を和らげてやることは出来ない。しかし血族の再興は保証する。大罪人でありながら、未来を嘱望されている。こんな状態は前代未聞だ。特別措置と言っても過言ではない。この裁定を引き出すほどに意義深いをことをしたのだから、せめて誇りに思うがいい』
「はい」
死ぬことなど怖くない。
怖いのは、生きている間にしてきた、全てのことだ。
少女はうなだれたまま頷く。
「はい……」
そして、少女はプロトメサイアを見た。
漆黒の甲冑に、自分とさほど変わらない外見の肉体を閉じ込めた暗き支配者は、鏡像のように少女を眺めていた。
目の前の少女を、どう取り扱ったものか分からない、といったふうだった。
分かるつもりだと言うかと思ったが、何の言葉もなかった。
自分を見下ろしてくる影が途方もなく大きく感じられて、少女はまた目を伏せた。都市をも操作する力を持ち、功利の天秤に従う超越者に、打ちのめされたちっぽけな少女の感情が分かるはずもない。そもそも、無限の犠牲によって無限の救済を得るという思想の実践者に、数え切れないほどの屍によって生者を支えるこの偉大なる存在に、どうしてたかが百万程度の損失を嘆く者の気持ちが分かるだろうか。
プロトメサイアが育み、死なせてきたヒトの数からして、桁が幾つも違う。
この程度の損失でダメージを受けるネレイスのような脆弱な生命資源のことなど、分かりたくもないだろう。
『警告。割当て時間の終了まで残り六〇〇秒。他に聞きたいことはあるか? 我々プロトメサイアは、可能な全ての回答を行う』
「何も……何もありません」顔を上げる気力すら残っていない。「もう……殺してください……」
『……? 我々プロトメサイアは、可能な全ての回答を行う』プロトメサイアは平坦な声音で繰り返した。『自暴自棄になっているようだが、これが貴官の人生における最後の時間だ。有意義に使うべきだ』
「構いません。私は、何の意義もない自分がこうして総統閣下のお時間を消費していることに、耐えられないのです……私に時間が残されているというのなら、総統閣下、どうか貴方様のお力を、総統閣下の市民のために、まだ生きている人々のために、お使いください……それだけが私の望みです……」
『要請を受諾した。では、刑を執行する。畏れる必要は無い。脳髄に電極を刺し、前頭葉を電流で破損させるだけだ。傷はすぐに修復するが、ヒトとして活動してきた履歴は残さない。苦痛を認識する前に、貴官は貴官ではなくなる。目覚めたときには、何の理解も出来なくなっているだろう』
プロトメサイアが偽りの玉座から立ち上がる。黒い騎士。FRFに属する全人類を支配し、守護し、生存を継続させる絶対なる支配者。
無量の犠牲の果てに無量の幸福を願う者。
おぞましき救世主が歩み寄ってくる。彼女は静かにガントレットの鍵盤を叩く。
左手の装甲、手首の辺りから、鋭利な杭のような機構が飛び出した。
その先端から紫電が迸り、白い防音壁で鎖された空間を淡く照らす。
やはり、解放軍の指導者の一人、不死者リーンズィとよく似た装備だ、とネレイスは想起する。
リーンズィはニノセとリクドー、彼女の少女騎士たちを不死者へと変えた。総統の手から放たれるのは単なる電流だが、こうして見ると、二人は、細部がとてもよく似ている。
リーンズィ。少女は思い返す。あれは、優しい娘だ。粗製も含めれば百人近い子を成してきたネレイスには理性ではなく直観で分かる。しかし、人間ではなく、解放軍側の救世主に違いなく、その存在はきっとFRFと対立することになる。
放置していては、いつか必ずプロトメサイアの障害になるだろう。
数千万の生命資源の存続を預かる、この仰ぎ見るべき不朽の光輝の前途に、立ち塞がる……。
ネレイスは息を整える。
目を開く。
最後の使命を果たすのだという意志が彼女の肉体に活力を与えていた。
少女は顔を上げる。決戦に挑む戦士の意志で、救世主を見上げる。
選択的光透過性を持つバイザーの中にあるレンズが稼動し、ネレイスの顔を捉えた。
投光器の光が暗い。
防音壁に反射する光が暗い。
直視してみれば、救世主に輝ける部分など一つも無い。
装甲は黒一色で、頭部と左腕、そして棺のような重外燃機関以外は全ての部位で意匠が違う。
肩には己の尾を食らう蛇の紋章。
再生と破壊のシンボル。
どこまでも歪で、均整が崩れていて、禍々しかった。
どのような麗句で讃えようとも、聖なる存在では有り得ない外観をしていた。
だが、FRFの全ての命に対して責任を負っている……。
鎧の中で一人きり。あらゆる生命資源のために、二千年の時を戦い続けている……。
不朽の甲冑が壊れかけるほどの長い時間を、戦い続けている。
あまりの神々しさに、自然と涙が溢れてくる。
ここまで接近して姿を拝するのは初めての経験だった。
異様な造形の甲冑を見た。この時、この瞬間、この処刑の直前に、真実の意味で、ネレイスは己の信仰を確信した。崇拝してきた存在が疑いようもなく救世を成す主であることを、人類の味方であることを、全ての都市の愛すべき母であること確信した。
万事を解決する整然とした回答などこの世界には存在しない。あるのは利益が少しでも被害を上回る困難な選択を求めて苦痛に悶える傷だらけの腕だけ。人類の汚泥のような生存欲求だけ。FRFの都市は、絶滅の引力に抗い、みっともなく泣き叫びながら廃滅の運命と剣を交す、惨めで憐れな生存者たちの最後の牙城だ。
だから、アルファⅢメサイアの均整の崩れた鎧、あまりにも禍々しいその姿は、足掻き続ける我ら人類、この最果ての都市に巣くう亡国の民の総統にこそ相応しいと、ネレイスは確信した。
頭に手が置かれる寸前になって、跪いていたネレイスは「総統閣下」と声を漏らした。
「最期に、忠信より申し上げたい儀がございます。今少し、お時間を頂けますか」
『貴官のための時間はまだ五三〇秒ある。一向に構わない。我々プロトメサイアに、何か追加で報告があるということか?』
「……この場の防音は完璧でしょうか」
『肯定する。我々が命じない限り、何者にも声は届かない。しかし、何故そのようなことを? 全てを尋問官に証言したと認識している。供述の中に、虚偽は検出されていない』
「私は、極めて重大な真実を、一つだけこの胸に隠しております。クヌーズオーエ解放軍についてです。誰にも聞かれてはいけないと判断し、これまで口にすることすら避けて参りました……」
『クヌーズオーエ解放軍と接触した際の活動報告は記録螺旋から既に取得している。追加で報告すべき点があるとは考えられない』
「ヘルメットを外していた時間帯がありました。記録螺旋はヘルメットに搭載の機材を通してしか情報を蓄積しません。私はそのとき……アルファⅡモナルキア・リーンズィを名乗る指導者が、異常な機能を行使するのを目撃しました」
『アルファⅡモナルキア? なるほど、報告を許す。何を見た?』
「彼女には、おそらく、総統閣下と同系列の機能が備わっています。ニノセとリクドーを不死に造り替えたのは、不死者リーンズィです」
『それは既知の事象ではないか?』
プロトメサイアは処刑のための手を降ろし、首を傾げた。
『貴官は当初からそう報告していたはずだ。それに、我々プロトメサイアは、あの機体が出現する以前から、その機能を予測していた。我々が改良してきた新型の人類に不死病を感染させたことは、驚嘆に値するが、あのアルファⅡモナルキアがベースなら、どれだけ劣化していても、不死病を改変する機能があっても何ら不思議ではない』
「私は故意に曖昧な情報を織り交ぜておりました。単に不死に造り替えられたわけではなく……我が少女騎士たちは、それ以前に、アルファⅡモナルキア・リーンズィによって、おそろしい異形へと変貌させられていたのです。都市を這い回る捕食変異体のよりも尚奇怪な姿に」
『……何? 何だと?』
プロトメサイアの動作が硬直した。
「悪性変異体を造って造り替えた?」と誰かが鎧の内側が呟くのが聞こえた。
ネレイスが額に汗を浮かべて反応を待っていると、黒い騎士は少女の両肩に手を置いた。
そして肉声で囁いてきた。
「状況と形状を報告して君の所感を述べて今すぐに」
「は」
ネレイスはヘルメットの奥にある総統閣下の顔を想像しながら頷いた。きっと興奮で目を見開いている。
「まず少女騎士ニリツは、無数の腕だけで構築された怪物へと変貌し、然る後、不死者リーンズィによって人間の形へ編み直されました。恋人たる造花人形を抱擁しようとそのような姿になったのだろうと推測されています。少女騎士リクドーは少女騎士サードの臓器を移植後、肉腫で出来た卵じみた怪物になりました。サードの意識を再生する願望があったのだろうと……あの機体は、とにかく何か異様な事象が経由して不死化を実行したのです。人間の願いを叶えて怪物に変え、怪物の願いを変えて人間に戻した。そのように私には見えました」
「願いを叶えた。そう見えた。それで十分。不死病の発現を完璧にコントロールしているということ。変異の方向を定められるということ」プロトメサイアは乾いた呟きを漏らした。ネレイスに通じるところのある少女の声で。「ありえない。どうしてそんなことが? 劣化複製品ではない? アルファⅡモナルキアそのもの? ありえないありえないありえない。人格が違う。想定と違う。基礎設計と違う。あれはエージェント・アルファⅡですらない。しかもその機能が使えると言うことはアルファⅡモナルキアはアポカリプスモードに突入していることになる、だけどおかしいそれならば会話なんて出来るわけがない仕様通りなら全ての敵はもう消え去ってるボクたちの都市も当機も我々も滅ぼされているそれがどうして加工済のヒトを救うためにそんな繊細な不死病の操作を……? ありえない……機能はアルファⅡモナルキアなのに動作がアルファⅡモナルキアではない……ありえないありえない、ありえない……」
「やはり、異常事態なのですね。誰の耳にも入れてはならないような……」
この情報を隠し通したことにネレイスは一抹の誇りを覚えた。
幾千の慰めの言葉よりも、プロトメサイアの混乱を誰の目にもさらさなかったことの方が、遙かに強い安堵を与えた。
「命に替えても、総統閣下だけにお伝えしようと思っていた案件です。私は……このために生きて帰ってきたのかも知れません……」
プロトメサイアは再度硬直したあと、また拡声器を通した平坦な声で話し始めた。
『……確認する。このことは間違いなく誰にも話していないのだな?』
「誓って、話しておりません。不死者リーンズィに総統閣下に似た機能があると言うことだけは伝えましたが、実際の現象は口にしていません。総統閣下、彼女の機能は、いったい何なのですか……?」
『エラー。クリアランスを確認出来ません。……謝罪する、ネレイス。これはFRFとしての権限の外側で保護された情報だ。調停防疫局のエージェントでも提携組織の上位構成員でもない貴官に、これを知ることは認められない。ただ……大戦果だ。大戦果だよ、ネレイス。よくぞ……よくぞこれを隠し通し、そして我々プロトメサイアに伝えてくれた……感謝する、感謝する、感謝する。ありがとう、市長ネレイス。貴官は真なる帰還者だ。遠征隊がかつて求めて果たせなかったことを、真実、成し遂げた者だ。新しい可能性を発見して持ち帰った者だ……』
プロトメサイアは鎧の腕を広げ、胸にネレイスを優しく抱いた。
そんなふうに扱われるとは予想外で、感じるのは不朽の鎧の冷たさばかりだったが、ネレイスの心には得も言えない幸福感が満ち始めていた。
総統の身震いから、自分が、少女騎士たちが、最後に一つ成し遂げたのだという確信が湧き出でて、臓腑の底を温めていく。
「……私は多くのものを喪いました。裁定を待つことなく、自害すべきだったのかもしれません。でも、これだけを伝えるために、あるいは命を永らえておりました。愚かで無価値な人生でした。何も成し遂げられませんでした。ですが、人生のこうして総統閣下にお役に立てて、幸せでした……」
『総統権限により、量刑を変更する』
「……は」
『願いを三つまで口にすることを許可する』
「願いを?」総統の腕の中でネレイスはうろたえた。「どういうことですか」
『そのままの意味だ。三つまで、願いを叶えよう。我々プロトメサイアは、貴官の功績に応えるために、全権限を使用して、貴官の願いを、可能な範囲で叶える』
「過分な御言葉です」
『願いを三つ言いなさい。我々プロトメサイアは、貴官をそれに相応しい存在として評価した』
当然ながらネレイスは願いなど何も考えていなかった。
最後に情報を届けて死ぬつもりだった。
幾ばくかは、苦痛と恐怖と後悔とで、人格が壊れ始めていた。最後に総統のお役に立てれば、という淡い希望に縋って正気を保っていたに過ぎない。
だから、求めに応じて零れる言葉も、どこまでも純粋だった。
「……もしも、もしもFRF都市群のどこかに、どんな形でも、私の子孫やフェイク・ヨーロピアの市民がいるならば、ヒトとしての地位を復権させてあげてください。市民としてあるべき救済を、施してあげてください」
『要請を受諾した。残り二つだ』
「……これから私の肉体を通じて生まれてくる生命資源たちに、ヒトとしての権利を保証してあげてください。子孫の安逸なる未来は、常に我々の悲願です」
『要請を受諾した。残り一つだ』
「願いを口にする前に、どうか教えてください。私が持ち帰った医療物資は……総統閣下のお作りになった病に有効でしたか?」
『効果はあった。アルファⅡモナルキア由来とあっては迂闊には使えないが。さぁ、時間が無い。最後の願いは……?』
「どうか、それを役立ててください。私の都市を襲った疫病が、総統閣下の試練だったとしても、しかし試練の半ばで私のように落伍するものが現れたなら、市民を病から解放し、癒やしてやってください。市長に罪があろうとも、市民に罪はないのですから、どうか彼らに御慈悲を……」
『……ネレイス。我々の意図を理解しないのか?』
プロトメサイアはネレイスから身を離し、刃を手首に格納すると、少女の顔を両手でそっと挟み込み、レンズで覗き込んだ。
エリゴスのような、ギヨタンのような、前市長たる母のような、優しい手つきだった。
『どんな願いでも叶えると言っている。己の命を求めようとは思わないのか? 魂の自由を、身体の尊厳を求めないのか? 貴官は刑死を拒絶し、名誉を回復する権利をすら得ているのだ。あらゆる罪状を消し去ることなど造作もない。貴官はここから生きて帰ることが赦されているのだ。もう時間が無い。願いを変えることを認める……さぁ、願いを告げるがいい』
ネレイスは晴れやかな笑みを浮かべて、ひとすじ、透明な涙を流した。
「他に願いなどありません。命など求めません。私は、市長でした。市民にこの身の全てを捧げ、この身に市民の責任を背負い、一人でも多くの市民を幸せにするのが私の使命でした。私という犠牲一つで、未来の市民たちを救えるならば……それは、とても好ましいことです」
『……貴官は我々プロトメサイアの予想を超えて、遙かに良く仕上がっている。首輪型人工脳髄から、何の虚偽の心も伝わってこない……貴官は本心からそれを望んでいる』
プロトメサイアの声が僅かに震えているのが分かる。
ネレイスはさらに多くの涙を零した。
この絶対なる支配者は、泣いているのだ。
泣いてくれているのだ。
自分だけのために……。
『なんと喜ばしいことだろう。我が理想都市は、ついにこれほどの生命資源が、独自に生まれてくる段階にまで到達していたのだ……ベルの遠征隊が壊滅してから千年……長かった。とても長かった……ベル、君の子供だ、これは君の子供たちだよ……』
「総統閣下、問いを重ねる無礼をお許しください。都市は……私たち市民は、本当に何も変わっていませんか? そうお嘆きになっていたと人づてに聞きました。私たちは、ご期待に添えていませんでしたか? 何の進歩もありませんか……?」
『否、進歩はある。前進している。貴官らは常に進歩を続けている。気の迷いで発した言葉だ。そんな虞を残したまま、生を終える必要は無い……。改めて、貴官の忠誠に敬意を示す。ありがとう、ネレイス五〇七号。貴官には無限の感謝を捧げる。貴官と、貴官の少女騎士たちよ、遠征隊の遺児よ、バアルゼブルの血の繋がらない後継者たちよ。我々プロトメサイアは、貴官らの存在に無限の賛辞を送る。……では、処刑を開始する』
プロトメサイアの手がネレイスの頭部を掴んだ。
刃が展開され、冷たい切っ先が脳髄へ滑り込む。
痛みは感じない。
ただ熱だけがある。
これでいい。これでよかった。
ニノセ。サード。フィーア。フンフ。リクドー。
お母さんは、立派に市長としての役目を、果たしましたよ。
ネレイスは穏やかな心で目を閉じた。
『やはり貴官は、この理想都市に必要な資源だ。望まぬのであれば、活用させてもらう』
一瞬で前頭葉が焼き切られた。
少女の肉体は倒れ伏せ、痙攣しながら目を見開いて喘ぐ。
頭部の切創から焼け焦げた脳髄の破片が流れ出た。
漆黒の騎士が視線を向けると、損傷は即座に修復された。
身体的な反応もまた消え去った。
だが見開かれた瞳は何も映してはいない。
天井付近の照明にぼんやりと焦点を合わせ、ひゅう、ひゅうと、か細く息をしているだけだ。
ネレイスは二度と目覚めないだろう。
その肉体はもう、ネレイスでは無かった。
プロトメサイアは、ネレイスだったものを抱き起こし、首輪型人工脳髄を剥ぎ取った。
そして周囲の防音壁を解体した。
「……予定より早いようですが」
控えていた不死者の一人が薄暗いスタジオの闇から問いかけてくる。
『回答する。本人の希望だ。我々プロトメサイアの時間を少しでも有意義に使うようにと』
「ネレイスちゃんは真面目ッスねぇ。最後まで足掻いてみっともなく命乞いをしたら可愛かったのに」
嘲るように笑いながら姿を現したのは金色の和毛の少女、フェネキアだ。
血まみれの機械甲冑から湯気が立っている。
「死に目が見たくて駆けつけたッス。お目汚し許してくださいね? それで、予定通りネレイスちゃんの残骸はボクが引き取って、生命資源製造用に使って良いんスよね? 可哀相なネレイスちゃん。死後の自由すらないなんて……ふふふふふ」
『計画は変更になった』
「変更?」フェネキアは憮然とした。「この土壇場で変更って、総統らしくないッスね」
『最終的に、彼女の残骸は貴官に任せるが、まず我が都市で最高の定命者である貴官に、ネレイス五〇七号との交配と、ヒトタイプの生命資源の製造を命じる。そのために必要な資源は全て与える。最高性能の後継機を製造せよ。然る後、ネレイスから市長の身分を剥奪する』
「別にそれぐらいなら構わないッスけど……お互い知らない仲じゃないし? 全部知り尽くしてるし? むしろ大歓迎ッス」フェネキアは少し頬を赤らめた。だがすぐに顔色がなくなる。「それで、ネレイスと何か取引したんスか」
『我々プロトメサイアは、ネレイス五〇七号に、三つの願いを叶える権利を与えた』
不死者たちは顔を見合わせ、怪訝そうに呻いた。
フェネキアは平然として、しかし曖昧な笑みと殺意以外には何も無いその美貌を、無表情一色で染めた。
総統の腕の中で動かないネレイスを、忌々しそうに見下ろしていた。
『願いの一つが、血族とフェイク・ヨーロピア市民の生き残りがいるなら保護して欲しいというものだった。我々プロトメサイアは、それを叶える』
「いないものは保護できないッスけど……」総統命令でぜんぶ殺しちゃったし、とネレイスは肩を竦める。「ああ、それでまだ市長としての身分が有効化されてるネレイスちゃんに、最後の市民を産ませて、その市民を生き残りとして可愛がっていこうと。なるほどッスね」
『肯定する。貴官の所有物となった後も、ネレイスとその子孫への過度の暴行や虐待は禁じる。全て貴官の直系血族と同様に厚遇せよ。これはネレイスの二つ目の願いである』
「ふうん。それぐらいならね。まぁ。まぁまぁ。直系親族と同様に、って……命令足りてなくないですか?」フェネキアは妖しげな光を目に宿らせた。「大事なことを命令し忘れてる」
『我々プロトメサイアはこの血族は貴官の汚染に耐えると確信している。アド・ワーカー化したなら、それまでのことである』
「ふうん。ふーん。ふーん? まぁいいっスけど」フェネキアは不愉快そうだった。「それで、願いの最後の一つは?」
『この場には直接関係が無いため、省略する』
「……そっか。とにかく、命を願わなかったんスね。死後の在り方も」
『肯定する』
「箱入り娘だからかなぁ、根がピュアなんスよね。『最悪の事態』の想定が甘い。そこがまた可愛いんスけど」金髪の女戦士は嗤った。「だからこんなことになる……」
プロトメサイアはエリゴスを手招きし、ネレイスの人格記録が転写された人工脳髄を渡した。
『謝罪する。貴官には、まだ不死者として活動して貰うことになった』
青い鎧の不死者は震える手で壊れ物のように首輪を扱った。
ランプが未だに明滅しているのを見て、エリゴスはプロトメサイアに問うた。
「どうして……特別な処置はしないと……」
『伝達ミスだろう。他のメサイアドールの発言を我々プロトメサイアは感知していない』黒い騎士はこともなげに告げた。『案ずる必要はない。バッテリーの劣化した隷属化デバイスでも機能は残されている。人格記録は正常に進行した。十分な刺激を十分な時間をかけて与えたのだから、かなり真に迫った複製になったと推測する』
「どうして、どうしてネレイスを……」
『ネレイス五〇七号を、不死者として再誕させると決定した』
「あの子の、私の子の魂を、どうしてまだこの都市に縛るのというの? プロトメサイア……この墓場のような都市に……」
『その苦難を課すに足る人格記録と判断した。技術局に通達。凍結ハンガーの禁忌指定区域を総統権限にて解放。指定する装備パッケージと不死病筐体を搬出し、技術局にて再起動の処置を行え。機体名はアルファⅢバアル。バアルゼブル。クヌーズオーエの矛、我が盟友バアルの再誕を命じる……』
再誕自体は、実際のところ、上位の不死者の間である程度コンセンサスが取られていた。エリゴスには知らされていなかっただけだ。長年接触できなかったクヌーズオーエ解放軍と遭遇した時点で、そうなる程度には功績があると見做される。当然の処置だ。
全ては茶番、全てが暗黙に積み上げられた欺瞞だ。プロトメサイアは、嘘をつかない。嘘をつかないだけだ。真実を全て語るわけではないのだ。
しかし、アルファⅢバアルの名前が出た途端に、不死者からどよめきが起こった。
それは誰の同意にも基づかない決定だった。
「大した実績も無い長命者あがりに、FRFで最強のスチーム・ヘッドだったバアル様を任せるんですか!? ありえない!」
「っていうか、ベルゼブブの機能の大半はあいつの才能任せだったじゃねえか、木っ端の人格記録に使わせても役に立たないと思うぜ。俺が使ってもでもどうなるだか。賛成しないぞ、<夢見る者>」
「ベルゼブブって言ってるの聞かれたら死ぬまで殺されるッスよ」総統からネレイスの肉体を受取りながらフェネキアがぼやいた。「ベル様、コケにされたら相手が消滅するまで根に持つし。そのせいで遠征隊も壊れて、もう本人も死んじゃってますけど」
「いや、いや、役に立たないならまだ良い、暴走した場合がマズすぎる。まともにバアルの相手が出来るのは、プロトメサイア他はそれこそアスタルトぐらいだ。気の狂ったバアルもどきに、自分でも気がつかないうちに焼き殺される……なんてのはごめんだ」
「ワシはどうでもよか。めがんてら強いスチーム・ヘッドがるんならさっさと使うべき思うき」
「お前には聞いてないんだよ外様の殺しや風情が」
プロトメサイアは落ち着き払った姿勢で声を張り上げた。
『貴官らに情報開示出来ないのは不本意だだが彼女は、我が盟友バアルにも成し遂げられなかったことを達成した。その事実だけは、ここに明確に示す。領域外に脱出し、そしてクヌーズオーエの今後に関わるほどの無二の情報を確保し、生還したのだ。バアルの<遠征隊>と重ねずには居られない。君、答え給えよ。そうは思わないか?』
紛糾する不死者たちに、プロトメサイアの声は静かに響いた。
居合わせた大半の機体に原初の聖句は通用しない。
それはプロトメサイアも先刻承知で、この場合は傾注を促す符合としての性質が強い。
そして彼女は自身の聖句の特殊性から、このコマンドを、メサイアドールの同胞には滅多に使わない。
この聖句を仲間に対して使うと言うことは、自分が本気であり、敵対者を生んでも構わないという覚悟の表示なのだ。
無言こそが、偽りの救世主に従う不死者たちの回答だった。
『異論はないと判断する』
「ではでは、やるのですねやるのですかやってしまいますか!」ダンタリオンが手を上げて喜んだ。「ボクは大歓迎ですずっと燻ったままの計画でしたしまぁあんな優しそうな子にバアルを継がせてしまうのはどうかと思いますがプロトメサイアがそれほどに強く信じるというのならばバアルもきっと喜ぶと思います。では、準備はよろしいですか?」
『ああ、準備がようやく終わった。ダンタリオンには<第二次遠征隊>構想のプロパガンダを製作して貰いたい。最初はサブリミナル程度で構わない。計画の実現にまだ十数年はかかる。徐々に市民を啓発する形で整えよ』
「はいはい了解了解です任せてくださいノーランより魅力的で立派な映像にしてみせます!」
『そしてエリゴス、貴官にはバアルゼブルを継いだネレイスの補佐を頼みたい。長命者からメサイアドールの転換は、通常の不死者になる過程よりも困難だ。そこで、祖の片割れたる貴官に、初等訓練から任せようと思う』
「……拒否権は……」
『当然、認める。しかし、単なる人格記録に成り果てようと、ネレイスは貴官の娘であり、貴官が愛を注いだ市民の実の娘でもあり、そして貴官の尊敬していた機体の後継となる存在だ。その後見人となるのが、それほどに苦痛なのか。今回の計画には、バアルの機能停止後に凍結されていた幾つかの試行も織り込むつもりである。その過程で、貴官の孫に当たる存在を育成する必要も出てくるだろう。重ねて問うが、彼女たちの成長と目的の達成を、間近で見ていたくはないのか……?』
「……いえ……それは……もちろん……見たい……見たい……けれど……」青い甲冑の女騎士は曖昧な声音で口ごもった。「しかし私は……人格的に、既にメサイアドールの任に耐えられず……」
『では、メサイアドールの任を解こう。貴官の使命は後継の育成のみだ。殺戮も管理も必要ない。そうだ、人格を白紙化されたネレイスの肉体の管理権を、貴官にも与える。昔馴染みのフェネキアも含めて、皆で、仲睦まじく暮らせるだろう。任務の外では、かつて貴官が夢見たような平和な生活を、まさしく送れるように取り計らおう。そのための全ての権利を認めよう。これでも、まだ、耐えられないか?』
「……いいえ……」
『よろしい。では、それをせよ』
誰でも、意見することは出来る。
誰であれ、異を唱えることは出来る。
プロトメサイアは抗弁や異論を聞き入れないほど狭量な機体ではない。
それが実現可能であり、過去に失敗した事例がないプロジェクトならば、プロトメサイアは惜しみなく支援を行うだろう。
だがプロトメサイア以上の成果を出せた機体は一人もいない。異議を貫ける機体は数えるほどしかいない。
何故ならば、全て失敗に終わった後だからだ。この二千年、さらに過去、人類がまだ健在だった時代に、大抵のプロジェクトは立案・実行されており、そして全て失敗している。
代案を示すことも、否定材料を並べることも、もう何も出来ない。何度も同じ失敗は繰り返せない。
ただプロトメサイアだけが選択を続ける。誰も選ばなかった道を選び続ける、屍を積み続ける、殺戮を続ける。正しいからでも、肯定されるからでもない。まだ失敗しておらず、まだ破綻しておらず、まだ終わっておらず、僅かでも成果が出ているから、ひたすらに同じ行いを続ける。
殺戮の地平線を、全てが終わるまで進み続ける……。
FRFを統べる者とは、そのような機体であった。
不死者たちは膝をつき、恭順を示した。
結局はプロトメサイアが頼りだ。誰もがプロトメサイアを信じるしかない。
間違いだと分かっていても、この歪な救世の機械に、従うしかない。
虐殺をもたらす歌声が響く……。
『では、諸君。ついに時が来た。ついに我々はここに至った。この暗き千年王国に、新たな千年が始まるのだ。我々プロトメサイアは、現時刻を以て、凍結されていた第二次遠征隊計画の再開を宣言する――』
『セクション3 試作型救世主 その2』はこの二話で終わりです。




