セクション3 試作型救世主 その1 名も知れぬ都市の檻(6)
ネレイスは自分の悲鳴で目を覚ました。恐ろしい夢を見ていたのだがそれはフェイク・ユーロピアで過ごしていた時の平凡な時期の記憶の残滓でネレイスは少女騎士として任命した直後の五人の娘と正装で記念撮影をするためにわざわざ写真技士を市庁舎に呼んでいた。祝いの日なのだからとベルガモットの香水など持ち出してきたが刺激が強すぎて娘ともども大変なことになってしまったのを覚えている。リクドーなどはすっかり目を回してサードにしがみつかないと立てなくなる始末だった。それでも写真は期待通りの素晴らしいものに仕上がったのだが改めて眺めてみるとどうにも同年代の少女が集合しているだけにしか見えずネレイスは外見では誰が娘で誰が親なのか分からないなと苦笑しそのことを娘たちに漏らすとニノセもサードもフィーアもフンフもリクドーも似たような感想を抱いていたらしく皆可笑しそうに表情を崩した。気を利かした写真技士がそのときもう一枚撮ってくれた。ネレイスはベッドの枕元にそのもう一枚の方の写真を飾るようになった。
恐ろしいところなど一つもないはずなのに悲鳴を上げずにはいられなかった。目覚めたネレイスは自分が何故悲鳴を上げたのだか分からず暫く呆然としながら考えた。そして起き上がろうとして手脚を拘束され寝台に横たえられているのを発見した。
そこでようやくもう絶対にあの穏やかな日々には戻れないのだと自覚した。自分はそれが恐ろしかったのだと理解した。自分はこれから殺される。この上なく残酷なやり方で死を迎える。痛みや屈辱は怖くないと思い込んでいたが決して戻れない日々への哀愁が酷く彼女を傷つけた。手指の一本皮の一枚が失われるごとに胸の奥底にしまってきた美しい日々は決して帰還し得ない幻の故郷そのものとなってどこかに剥落していくだろう。
ネレイスは、それが怖かった。それが怖いのだということにやっと気づけた。
一瞬も光の途絶えることのない照明を見上げながら息を整える。
汗を全身に浮かべた状態で、改めて自分の置かれている状況を確認した。
殆ど裸に近かった体には、人体改造を受ける前に着るような簡素な手術着が取り付けられて、それが寝台に寝かされている。腹から股間にかけて微かな鈍い痛みを伴う違和感があり事前に有用な臓器を摘出されたのだろうかと考えたがそれにしては苦痛の程度が弱すぎた。
四方をカーテンで区切られているため他に情報は得られない。起き上がろうとして、手脚に拘束具が取り付けられていることに気付く。
視線が届く範囲には、生命汚染を受けた市民に対して使われるような体内洗浄機が一台。
熱を帯びているように感じられたが、器官停止してしばらく経っているように見えた。
と、カーテンの一部を押し開いて、小柄な雌性体の甲冑騎士が入ってきた。
ダンタリオンと名乗った例のメサイアドールだ。
「目が醒めたようですねネレイス。ユーモアを示してあげた途端に急に倒れたので驚きました過労でしょうか過労ですね過労に違いないです無理もない後から聞いたのですが都市浄化に参加していたのでしょうそんな責務もないのによく頑張りましたねだけど徒労というのですよそれは倒れられてボクは死ぬほど驚きましたよ謝ってください」
稼動期間が極めて長い不死者は、時としてこのように一息で全てを言い切ろうとするようになる。
休眠期間を持っていない真のメサイアドールだ、とネレイスは畏敬と恐怖を覚え、言われるがまま「申し訳ございません……」と謝罪した。
「しかし気絶してくれたのには助かりましたおかげで処置が手早く済んだ」
「処置……いったい何を?」
「腸管や尿管等の洗浄というか穴から汚物の吸い出しをしておいたんですそこに機械があるでしょう死ねばあちこち筋肉が弛緩するものですがそれで撮影所の床を汚されると面倒ですし総統閣下のお目を汚すのもよくないのでああ一応あれが人生で最後の排泄だったんですよね意識さえあれば人生最後の排泄をする権利を与えてあげたのですが残念でした」
下腹部に痛みがあるのはそのせいかと得心したが、しかし機械を入れられただけとは思えない。採尿管でも入れているような異物感がある。
「……まだ、何か、中に残っている感じがするのですが」
「それはボクの施した詰め物のせいでしょうお目汚しはよくないですが撮影するにあたって苦痛を与えられたあなたが無様に汚物を撒き散らす画は欲しいので着色したゼリーを体内に充填しています蜜蝋を入れて封をしているだけなので力むと危ないです気をつけてください再充填も出来ますが気絶していないなら結構嫌な感触がしますよ」
「……」赤面する。いよいよ自分自身の尊厳というものを手放すのだ。「他に処置は? 内臓を取り除かれたりは……」
「まさかまさかボクは外科医でも生命機械の専門家でも総統閣下でもないのでそんなことは出来ませんしやりません特殊メイクならいくらだってやりますけどボクの現段階での役割はキャストのセッティングだけだから撮影そのものにはあまり関わっていないんです、あーあーあー、さっきはごめんなさいこうした特別な撮影は久々だし骨のある罪人が来るというので調子に乗ってしまいましたボクは群体型でもなければ今話しているこの肉体が本体というワケでもありません。『ダンタリオン』は貴方の目には見えないんです。あれはウェルカムジョークだったと思って忘れてください全部フィクションなんです」
「フィクション?」
「そうですぜんぶ上っ面のうそっぱちです」
十人に増殖したダンタリオンが唱和した。
ネレイスがびくりとしたのも束の間、それらは塵も残さず消え失せた。
「良いリアクションです。撮り甲斐があります。ボクの完全架構代替世界にはある種の映像処理に特化した人格群と演算機械が備わっていてボクはそれで生成された虚像を一次現実にリアルタイムで書き出すことが出来るんですよ。平たくホログラムみたいなものって言った方が分かりやすいかもしれませんね。いくらエリゴスのお気に入りでもどうせあなたのクリアランス権限では群体型アルファⅢ『メサイア』の詳細な構成については触れられていない。だからボクの本質を明かしてもきっと理解出来ないでしょう」
ネレイスにはまず『ホログラム』が何なのか分からなかったが、しかし骨も肉もあるダンタリオンは目の前の一人しかおらず、あとの全ては空間に投影した映像であるらしいことは、辛うじて理解出来た。エリゴスのお気に入り、というのが引っかかる。フェイク・ヨーロピアの後見人だった不死者エリゴスのことだろうか。
いずれにせよ目の前の不死者が、アルファⅢ『メサイア』を構成する一機、その中でも中核に近い存在、メサイアドールだと言うことには間違いない。何とも気安く接してしまっている。ネレイスは咄嗟に敬意を示すために跪こうとしたが寝台に拘束されているせいで体が強張っただけだった。
「こらあんまり無理に動いたらダメですよ詰め物が出てしまうから」
「だ、ダンタリオン様、礼を失しておりました、何卒ご容赦を……」
「怒るわけないでしょうそういう感情は長続きする関係においてのみ発されるべきものでもうすぐ消える君に対してそういう感情を抱くのはリソースの無駄です。だからあなたもいちいち改まらなくて良いです」
「は……」ネレイスは僅かに頭を下げた。「では、教えて頂けますか。ここは、どこですか」
「『撮影所』です。外見よりも広くて清潔なので変な気がするかもしれませんがあなたはおそらく浸水防止のための囲いを屋舎だと勘違いしています地上で雨が降るとどういう経路でか地下まで水が落ちてきてそこでまたここに降るのですあの雨除けのボロ屋の下にさらに下方へ向かうためのエレベーターがあってここはあなたの想像より何倍か広い空間ですよ」
「そういうことだったのですか」どういうことであってもここが処刑を撮影するための施設であることには変わりがない。「これから、私はどうなるのでしょう」
「プロトメサイアの準備が済み次第あなたはすぐにスタジオに向かいますが2サイクル先の予定なのであと二時間ぐらいは生きていられるでしょう。その間できることは何でも出来ます死ぬこととトイレに行くことだけは認められませんが」
ダンタリオンは特にどうということもないという手つきでネレイスの拘束を解き始めた。仔細に観察すれば、どれも身体改造者であるネレイスが出力を上げれば簡単に壊せる程度の拘束具だ。『詰め物』を行う際に、体を固定しただけのようだった。
メサイアたちは抵抗を予期していない。テロメアを延長された一三〇歳越えの生命資源がここに来て抵抗するなどとは露ほども思っておらず、よしんば逃走を試みたのだとしても、全く問題なく制圧可能と考えているのだろう。ネレイスにも、実際、逃走の意志は無い。可不可ではなく、自覚の問題だった。罪人は罪人であるのだから罪状に対し粛々と刑を受けるのが模範的市民というものだ。
「では台本を与えます。これから様々な機体があなたの体をそれらしく仕上げるために来訪しますが肉体のメンテナンスは彼らに任せてあなたはスタジオに行くまでの間に行動指示を覚えておきなさい」
ネレイスは大人しく紙束を受取って、ふと顔を曇らせた。表紙には『アルファⅢメサイア中核機体群による特例的な処刑の実施とその議事録』という文字列と、桁数が多すぎる数字が書かれている。おそらく通し番号だ。ネレイスにもこの長い長い番号に閉じ込められ都市の記録にしか存在が残っていない惨めな誰かになる日が来たのだ。
ウォッチドックスの構成員で、市長クラスとなれば、例外なく識字能力を要求される。総統と現実にやりとりする前に、ウォッチャーズが製作するこの『台本』という情報媒体を読みこなしておく必要があるからだ。
総統は無限の時間を生きる、都市で最も偉大な不死者だ。しかし、有限の時間を生きる市民と相対するには、その無限の時間を、瞬きの間に死んでいく生命資源と同期する必要がある。そして総統は慈悲深く、可能な限り多くの市民の嘆願に耳を傾けようとうする。
結果として総統は常に無限に等しい量のタスクに追われることになる。3540秒の執務時間と60秒の固定インターバルからなるまさしく秒刻みのサイクルで、昼も夜も無く市民と面会し続け、都市運営の計画を絶えず修正しているのだ。
だがそれでは総統の負担が増大する一方だ。少しでも労苦を取り除くために、いつからかウォッチャーズが市民と総統の間に割って入り、接触内容を事前に調整するようになった。現在では総統が議題から推定される面会時間を割り振り、ウォッチャーズがその制限時間において最大の効率で問題を解決出来るよう筋書きを作り、謁見者はそれに従って行動する、というのが慣例になっている。当然ながら、頻出する案件に関しては、全てが『台本』通りに簡潔にことが進む。もしも総統か市民が台本にない行動を取れば、途中で制限時間に達してしまい、解決を得られないままその時点で謁見が打ち切られてしまう。
それだから、台本読みは極めて重要なプロセスだ。ダンタリオンが去ると、長命者の少女は自分の死に纏わる予定表にすぎないその紙束を至って真剣に読み始めた。
割り振られた時間は1800秒。
総統が連続3540秒しか活動出来ないことを鑑みれば破格の配分だったが、それだけに待ち受ける処刑の凄惨さ、それほどの罰を招いた己の浅慮さに、身が竦む思いがした。
とにかくこの制限時間でどれだけ自分が適切に役をこなせるかが重要だ。総統手ずからの処刑と言うこともあってネレイス自身への要求は少なく、現場入りしてから入場するまでの流れと、立ち位置の厳密な指定がある程度だった。あとは意味が分からないか、塗りつぶされており、カメラ位置や通信設備関係の但し書きと思しき注意書きがあるとしか理解出来ない。
読んでいるうちに分かったが、どうやらネレイスの処刑は一大行事として扱われているようだ。それというのも、全都市への同時電影配信が予定されていると分かったからだ。都市に背き、許可なく器官飛行船を使って領域外へ逃走した大罪人ネレイスの死は、全都市に対して同時に知らされる。
こうなってはミスは許されない。大罪人であるフェイク・ユーロピアの市長が、最後の謁見で無様を晒し、死に果たすことさえ満足に出来なかったと後生に伝えられては、さすがに死んでも死にきれない。ただし、死なせてもらえるなら、の話ではあった。
入れ替わり立ち替わり、様々な不死者が訪れて、緊張で強張る未成熟な長命者の体を、丁寧に整えていった。あるものは微細な傷や痣、目の下の隈を化粧して隠し、あるものは無遠慮に体毛を剃り、あるものは爪の間の汚れを落として先端を切り揃えてくれた。
不死者たちは他の要員と交替する際には、必ず技術的な打ち合わせを行っていた。それから次の持ち場へ向かうようだった。
ある不死者が教えてくれた。
「処刑対象のメイクアップは我々の空き時間に振られるタスクだ。何か話しかけられても、貴様は従順に話を聞いているだけで良い。何サイクルか後には確実に人間ではなくなっている、そんな生命資源は、世間話をするには最適の相手なのだ。相手に情けをかけることで、むしろ自分を慰める。貴様は生きたお人形だ。はははははは。されるがままに愛を受け取れ」
不死者たちはネレイスを言葉の吐け口として使いたいようだった。表現としては恐ろしかったが、暴力を振るうものは一人もいなかった。
散髪に訪れた不死者などは、非常に親身に接してくれた。
「三百年も都市の外にいたそうだな。折角生きて帰ってきたのに処刑とは虚しいだろうがとにかく死んでくれ。我々もプロトのやつがどういう処刑をやるのかは聞いてないが、でも最悪のケースは予め開示しておくべきだろうな」
不死者はカーテンの一角を取り払った。
その瞬間にネレイスは嘔吐感を催おした。
壁際に陳列されていた透明な棺のような培養槽に、人体のようなものが浮かんでいた。
否、それはまさしく人体だ。
ひと目見たネレイスは、無意識にそれをヒトではないと判断したのだが、どうしようもなく人間だった。
手も足もないある種の彫像に似ていた。頭部から胸部にかけては原形を保っており、薄く目を開いて呆としている美貌は、メサイアの血に属する個体に見えた。しかしそれ以外の部分が人間とは違った。身体部品の欠落が著しかった。歴史の教本で見た、首も腕もない打ち壊された勝利の女神の像のような雰囲気を漂わせているが、彼女が表現しているのは逆の事象だ。栄光や整然とした美、あるいは欠落が強調する神聖といったものは全く感じられない。むしろそうした人間的光輝や神話的無謬性を丹念に取り除かれている印象だった。
まず、腕が根元から切り落とされている。断端すら見当たらないので最初から無かったのかも知れないが、おそらくそうではないとネレイスの直感が告げている。乳房より下の肋骨からは肉が残さず削ぎ落とされ、肋骨が露出している。透明な培養液が渦を巻いているので、内側には肺も存在しないのだと知れた。あるいは心臓すら残されていないのかも知れない。
胴体は、ない。皮どころか肉さえ無い。下半身などは骨盤とその周辺部位は形を残されていたが、腕と同じく脚も付け根からない。とにかくあらゆる臓器は徹底的に取り除かれていた。代わりに見たことも無い球形の異様な臓器が骨盤の上あたり、臍があるべき座標の奥に鎮座している。朽ちた神殿の柱のような背骨だけが別たれるべき上半身と下半身を繋いでいた。大いなる欠落を表現するために人体を素材にして作られた奇妙なオブジェに見えた。
罪人の剥製かと思い、背筋に冷たいものを感じながら観察しているうちに、その肉塊と目が合った。ネレイスはそう感じた。
培養槽に浮かぶ女の残骸は明らかにネレイスの動きを視線で追っていた。
まだ生きていた。空っぽの腹腔に収められた臓器はおそらく生命維持装置だ。肥大化したそれは女の空っぽの腹で、血肉で作られた小惑星として幽かに脈動していた。よくよく見ればそこから無数に伸びた管が肋骨の庇の奥側に伸びていた。簡略化された管の類で液体を循環させる度に細かく震えていた。
嘔吐しそうになるのを堪えているネレイスに不死者は解説をしてくれた。
「こいつは都市の歴史で、一番最初に存在を補足されたアド・ワーカーだ。プロトメサイアが手ずから拷問し、生きながらにして、ここまで加工した。色々試行錯誤して、一ヶ月ぐらいかかったんだったかな。以来、生命維持技術の実験台兼標本として延命処置を施され、一千紀年ほど、こうして撮影所に放置されてる。最初の何年かは口を利いていたんだが、俺がそこから五十紀年ほど休眠した後は、もう人格が壊れていた。さすがにヒトとしての意識はもうないんだろうな。ときどき反射で動くぐらいだ」
発狂しても、長い時間を経ても、死なせてはもらえない……。途方もなく恐ろしい刑罰だった。全身を関節ごとに細かく切り離され、臓器を摘出され、それらを最低限度の管で簡易に接合されただけの状態で晒し台に立たされる。そんな凄まじい刑に遭う罪人を、ネレイスは過去に電影放送で見た覚えがある。
当時、既に市長として就任していたにも関わらず、その処刑はネレイスの心に深い傷をつけた。しばらく悪夢を見るようになり、どうしても眠れない夜は、少女騎士を呼び寄せて同衾してもらった。
あれこそが罪人に最大限の苦痛と恥辱を与え、ウォッチャーズの冷酷さを究極的に喧伝するための刑罰だろうと思い込んでいたが、総統が手ずから下す罰は、そんな生やさしいものではないのだ。
眼前の、永劫の時に縫い止められた罪人の残骸から、目を離せない。権利や機能を制限されて愛玩動物に堕とされるが如きは、まさしく総統の恩情なのだと知れた。自我のない多目的生命機械でも、生きてはいられるし、場合によっては子も成せる。命は受け継がれる。だがこんなふうにされてしまっては、もう喜びは何もない。本当に何もない。きっと果てしない苦しみが、感じられるものの全てだ。
「わ、たしも、まさか、これと、おなじ、刑を……?」
乾いた口腔から、掠れた音が鳴る。飲み込むための唾が出てこなかった。見せつけられた残骸は、それほどまでにおぞましかった。
「これはかなり極端な例だ。苦痛を引き延ばしたくないなら、総統がご満足行くよう素直に応えろ。何か疑問があっても、自分からあれやこれやと聞くのは、よしたほうがいい。隠し事も程々にしろ。こいつにしても、ここまでの姿にされたのは、頑として真相を話さなかったからだよ。アド・ワーカーの仲間を庇ってこうなった」
「……そ、それだけで、ここまでのことを……」
「当時はとにかく混乱していて、なんでこいつらがあんなことをしでかしたのか、全く理解が出来なかった」草臥れた床屋の騎士は鋏を下ろし、水槽に手を当てた。「意味の分からない暴走だった。人種、と言ってもお前らにはもうピンと来ないだろうが……こいつらは全く整合性のない分類法で人種の概念を再定義し、市民たちの分断と対立を煽り、めちゃくちゃな殺し合いをさせた。扇動の内容としては、そうだな、肌の色合いが薄いとか濃いとか、それぐらいは分かるだろう、そういう些細だが変えようのない要素を使って、憎悪の感情を呼び覚ましたんだ」
ネレイスには今ひとつ分からない。
どうすればその程度の問題から虐殺に発展するのだろう。
「この人は何を言っているんだ、という顔だな。それで正しいんだ。そういった要素への拘泥は薄いはずだからな。プロトのやつが長い年月をかけてそのように方向性を弄った。管理上のノイズになるというので、人類文化継承の題目を無視して、ヒトの差異についての意識を、徐々に都市から消していったんだな。認識を均されたお前たちには、その辺は本来理解出来ないはずだ。死にゆくお前には見えるようにしてやろう、プロトのやつの血族と、その他は別……という認識があるだろう? それが旧人類においては、とにかく敏感に作動しまくっていたんだよ。安物の呼び出しベルの方がまだ静かだった。排他と憎悪がひっきりなしに鳴りまくって、病が蔓延する前の段階で、馬鹿みたいな人数が死んでいった」
ネレイスとて、その辺りは履修済みだ。しかし口出しせず大人しく頷いた。そんな理由で大虐殺が起きるというのは、やはり明確にイメージ出来なかったが、どうやらこの不死者はその二千年よりずっと前の時代を経験した、本物の古参らしい。吐き出される言葉の節々に実態のある重苦しさが宿っていて、いかにそれが忌々しい問題だったのかが、よく伝わってきた。
「虐殺主義的破壊行動者たちは、プロトのやつが折角埋もれさせたそれらの差異と忌避感を、墓場から蘇らせた。あー、そうだな、墓場って分かるか。ソイレント工場の配管に、髪の毛やら油やらを集めて止める金網があるだろ、旧人類にとってはあんな感じのやつだ。そして蘇らせたそれを、過去よりもさらに強力にした。差異を過大に誇張して、他の市民を操った。頭骨の形が違う、首の長さが違う、指の反り具合が違う……やつらはヒトじゃない、偽物だ、偽の人間は滅ぼさなければならないってな。そういう『流れ』をいつのまにか作りやがった。千年も前といえば、ようやく都市の新規開拓が安定してきたところだ。そこで何の前触れもなくそんなやつらが現れた。ウォッチャーズは大混乱だ。お前がしでかしたことも正直かなり問題だが、この瓶詰め女とは程度が全然違う。お前にしても、いま我々の話している事件については、はっきり言って意味が分からないだろう? そんなことをして何になる? 信条の衝突で虐殺に至るならともかく、何故そんな外形的で無意味な要素で無益な対立を煽る必要がある? どうして旧世界にしか無かった馬鹿げた大量殺戮を蘇らせた? 外観の些細な差異に基づいた対立をやらせて、そもそも何か得があったのか? 虐殺を起こすための手段を見つけたのでそれを試してみたかっただけなのか? まぁ……最初は事故だと思われていた。千年も都市運営をやってれば、市民にそういう才能を持つエラー個体が出ることもあるだろう。プロトのやつも最初は割り切っていた」
それなりに残酷な刑罰が待っていただろうが、もしそうならこんな標本人間にはならなかっただろうさ、とため息をつく。
「だがエラー個体ではなかったんだな。解体していけば嫌でも分かる。虐殺を煽る技術は外付け。思想と行動以外には何の異常も無かった。そしてやつらはこいつ以外にも次々現れた……知ってるとは思うが、アド・ワーカーは『虐殺を起こす』という目的で破壊活動を行う、正真正銘の異常思想集団だ。出現以来、やつらは何も無いところから虐殺を生やすための手法を磨き続けてる。この瓶詰め女は、そうした狂った思想に魅入られた初期の一人で、アド・ワーカーの方向性を明確にした重要なサンプルだが……アド・ワーカーの実態ではない」
ネレイスは曖昧に首肯する。不死者はそれを受けて「我々の中で、あくまでも『俺』の見解だがな」と言葉を付け足した。ネレイスは髪を切られながら、また頷いた。
市長を務めてはいたが、この少女は、実のところ、アド・ワーカーなる『グループ』の存在には懐疑的だった。虐殺のために虐殺をしているとしか見えないエラー個体が存在するのは事実だ。しかし彼らは特定集団が生み出しているのではなく、偶発的に誕生するというのがネレイスの認識で、しかもそれは思考傾向の変容と過激化が原因なのであって、最初から虐殺という手段だけを重視するわけではない、と解釈していた。
アド・ワーカーはしばしば同時多発的に現れるため、一般的に思想的な連帯だと見做されてはいるが、ウォッチャーズにおいてすらその扱いは一意ではなく、ある世代に特定の器質的欠陥を持つ市民が集中すると、何故か共鳴して異常行動を取り始める、と解説する不死者もいる。ネレイスもどちらかと言えばその派閥だ。
スケルトンの工作員がそのような操作を行なっているという噂もあり、それについてはスケルトンを絶対的な敵とする精神性から半ば信じていたが、しかし解放軍の現状を知ると、どうにもそちらは空疎な世論操作の一環であるように感じられた。冷静に考えてみれば、とネレイスは思う。あれほどの超越者が大軍勢を組んでいるのだから、都市を滅ぼすのに周りくどい手段を取る必要がない。
グループの実在を疑うのには、心情の問題もある。どうしても承服し難いのだ。例えば、外観の僅かな差異のようなくだらない要因を使って市民を扇動し、万単位の死者を伴う大規模な虐殺を引き起こす。そんな異常で奇怪な技術を千年以上も継承して、得体の知れない確固たる意志によって継続的に大量死を起こし続けている集団があるなど、常識的に考えればあり得ないことである。
「瓶詰め女がさらに悪かったのは、自分こそが騒動の首魁であるかのように振る舞ったことだ。結局、ただ教化が強烈で、認知が歪みきっていただけの末端だったんだが、あそこまで加工しないと我々にはその事実が分からなかった。当時はプロトのやつも自由意志を弄るのに消極的だったから、やり方が迂遠になって……いいか、とにかく変な拘りを見せれば、こうなる可能性もある。我々にもプロトのやつがどういうつもりでこいつを生かしているのかよく分からん。我々の中の俺もメサイアの一部ではあるが、正直中核を成すアルファⅢの連中の評価関数は独特すぎる。未だに理解出来ない。お前も、この瓶詰め女みたいになりたくないなら、余計なことはしないことだ。大丈夫だ、下手に逆らわなければ、こうはならない」
「……色々なことを教えてくださり、たいへんありがたいです」
「お前のためじゃない。撮影を円滑にやらないと我々のスケジュールが狂う。それはひいては他の市民の不利益になる」
素っ気なく応えながら、不死者は汗で濡れたネレイスの髪に鋏を通す。見事な手際だった。継承連帯の広告なんかに釣られず美容師のまま死ねば良かったと時々思うが俺という人格がまだ発狂してないところを見るとこれが自分の本当の才能だったんだろうなと不死者は愚痴を零し、それきり話さなくなった。話したいことがなくなったのだろう。
ネレイスの体はどんどん綺麗になっていった。あれだけ収容所で虐待され嬲られていたとは誰にももう分かるまい。不死者と言葉を交わしつつ、水槽に浮かぶトルソを恐れ、繰り返し繰り返し台本の文字を追った。
またある不死者が、首輪型の機械を持ってきた。
ネレイスはさすがに唖然として台本から意識を離してしまった。
ここでこれを見るとは思っていなかったからだ。
「これは脳内の神経活動を磁場で読み取ったり、逆に書き込んだりする機械。解放軍のアルファⅠ改型、コルト・スカーレットドラグーンには会ったのよね。彼女も使っていたでしょう」不死者は先回りして語りかけた。「あの機体は、総統に最も近しい」
「ど、どうか教えてください、不死者様。彼女は、総統閣下のいったいなんなのですか?」
「コルトは、総統の後継機だった。カタログスペックを見る限り、総統よりずっと低性能だけど、少なくとも総統は今でも後継機扱いしてる。仲違いをしてしまったらしくて、私たちがフォーカード……FRFの前身組織を発足した当時には、もういなかった。だから、彼女が本当の意味での総統の後継機だったのは、ずっと昔の話なんでしょうね」
ネレイスは、あの機体の顔を見たとき、震えてしまった。メサイアの尊顔を直に拝謁した経験があるからこそ分かってしまった。メサイアの血に連なるだけ者ではない。おそらくメサイアの宿る肉体とほぼ同じものを使っていた。
後継と言うからには、元々はメサイアドールの一機なのかもしれない。それも市長に対する少女騎士のような、期待と愛を注がれた、特注の一機だ。あるいは娘とさえ言っていいのだろうか。
しかし、あの酷薄な笑みを浮かべていた機体が後継機なのだとすれば、それでは、リーンズィというあの機体は、総統の何にあたるのか。
あちらも相当な美貌の持ち主だったが、しかしメサイアの血統には見えなかった。不死者が不死の肉体に古代の機械を乗せて意識を再生している存在だということは、ネレイスも知っている。本質的に不死者はスケルトンと変わりがない。その真髄は彼らの纏う装備にこそ存在している。
あの棺のような蒸気器官、そしてあのヘルメットのデザイン。彼女たちの類似性は、総統が現れたのかと思ったほどだ。リーンズィは、肉体は似ていないし、厳かな部分に欠けていたが、装備が総統と酷似している。人間ではなく、機械としてのメサイアの姉妹なのかもしれない……。
考え込み始めたネレイスの首に、問答無用で機械の首輪が取り付けられた。
痛いほど冷たいその感触で我に帰り、ニノセやリクドーのように体を造り替えられるのかと恐怖したが、何も起きない。
「……どんな活用法を見たのか知らないけど、これにはもう意識活動を簡易にモニタリングして、大雑把に補正・記録するぐらいの機能しかない。総統の使い古しなの。どんなに省電力で動かしても、一時間と少しで完全に充電が切れてしまう……」不死者は虚しそうに呟いた。「永久に変わらない素材で作られてるのに、耐用年数はとっくに過ぎている。何もかもそうよ。こんな道具一つでも例外はないの」
時間は瞬く間に過ぎていく。
集中が途切れそうになるたび、水槽の培養液に加工人体が、自分をじっと見ているのを意識する。
瓶詰めの娘の存在に、全く慣れない。これは自分の未来だという予感がどうしても拭えない。罰は覚悟していたがここまでの次元は想定外だった。可能性は低いというのは身の安全を意味しない。だから恐怖と緊張だけが高まっていく。自分もこんなふうにされてしまうのだろうか? こんな、何の尊厳もない肉の塊に造り替えられ、永久に放置されて過ごすのか?
観察しているうちに分かったが、生命維持装置、この球形の臓器は、おそらく生命資源製造のための臓器を重点的に改造して造られたものだ。瓶詰めの女は、もう自分の体からは何も産み出せない。臓器という臓器を失っているために、部品レベルで他者と一体化することさえ不可能だった。
ウォッチャーズが都市の支配レベルに対して行う拷問など、これに比べれば児戯だ。どんな無残な姿にされても、一通り情報を吐き終えれば、人口動態調整センターあたりに運ばれて、代理母体や移植用臓器、生命機械の部品として再利用してもらえる。
運が良ければ、遺伝子情報を多少でも継ぐ者が、何らかの形で現れるということだ。
単に処刑されただけの場合でも、都市の支配レベルなら死後の扱いは似たようなものだ。部品単位であれば生命資源としては免罪されることが多い。
だが、瓶詰めにされたこの女は、生命資源としての価値どころか、受け継いできた歴史までも完全に毀損されていた。一切の光明がない。淡い願望すら彼女には許されない。堪える、堪えられないの問題ではない。永久の苦痛の中で絶望し続ける他ない……。
こうはなりたくなかった。そもそも、一ヶ月もかけてこんな姿にされる? 過程を考えるだけでネレイスは失禁しそうになる。総統の処罰が簡潔であることを祈るばかりだった。
しかし、しかし……と、ネレイスの脳裏を良からぬ空想が刺激する。ネレイスの都市、フェイク・ユーロピアは、既に地上にはない。だが、どう滅んだのか。自分の子孫や市民に生き残りはいるのか。それを確かめるぐらいの猶予は、残されていないだろうか……?
畢竟、ネレイスに出来るのは総統の恩寵に期待することだけだが、自分の死に様と、愛しい市民たちの情報を秤にかけるのは自由だ。
どれほどのリスクになるか分からず、見合うだけのリターンがあるかも不明だ。その道を選ばないのが正しいと分かっている。
だがアルファⅡモナルキアの情報を明かせば、何かしらの光明はあるはず。手も足も腹もない瓶詰めの女を眺める。自分とよく似た顔貌の罪人を眺める……。
こんな目には、あいたくない。
黙って殺されるのがいちばん良い。
きっと後悔することになる……。
それでも滅びた都市の騎士姫は、考え続けた。
自分が犠牲にしてきた全てに贖うにはどうすればいいのか。総統への最後の忠誠をどう示すべきなのか。
ネレイスは、考え続けた。




