セクション3 試作型救世主 その1 名も知れぬ都市の檻(2)
遭遇すれば、一つの部隊が壊滅する。
撒き散らされ、穢し尽くされ、蹂躙される。友軍の残骸と、磔にされた捕食変異体が発見された時、災禍を免れた幸運な部隊が、凄惨なる痕跡を通して、間接的に虚無の軍勢の到来を知る。
侵攻されれば、一つの都市が一夜にして廃墟となる。
数日の通信途絶の後、調査団が、人間だけが鏖殺された地獄を見る。劫掠された家々。広場で燃やされている死体の山、死ねない程度に傷つけられた見るも無惨な生命資源から、彼らの狂気じみた人類嫌悪を知る。
人類を呪いし、死からさえも見捨てられた、狂える怪物たち。
それがネレイスがかつて信じていた従来的な『クヌーズオーエ解放軍』だった。
但し、実際に見聞きし、記録した者は殆どいない。直接襲われた人間は死んでしまうし、実際に襲われた都市の映像など目にすることは無い。
ネレイスにしても、闊達で気ままな幼体だった時分には、「早く寝ないとスケルトンどもがやってくるぞ」と何度も脅しつけられたものだが、実在は信じていなかった。むしろギヨタンが優しげに微笑みながらシーツを被せてくれたことが嬉しかったぐらいで、スケルトンのことなんてちっとも考えていなかった。
だが浄化チームは、第一級の警戒対象として『クヌーズオーエ解放軍』を認識していた。
伝説や怪談話ではない。彼らは実在する都市の脅威だった。
英雄フェネキアの隷下にあったとき、若き兵士だったネレイスも、クヌーズオーエ解放軍の小さなグループと行き会った。
彼らはまるで生きている人間のように動き、喋り、笑った。
彼らは弾丸の雨を受けて平然としながら、こんなことを言っていた。
「これはおかしなことだ。これから死ぬしかないやつらが、どうしてだか、死なない俺たちにたてつこうとしている。まるで運命が見えていないんだな。お前たちはもう死んでいるだというのが分からないのか?」
不死であろうとも、人間は人間だ、人間のように口をきくのも当然ではある。
揃いもそろって厳めしい古式の外骨格を装着していたが、しかしそのブートレグに相当する機械甲冑なら、FRFにも相当数普及している。奇妙ではあるにせよ、見たことも聞いたこともない姿ではない。
だから、いざ目の当たりにすると、さほど驚異的な存在には見えなかった。
解放軍はさしずめ逍遙する異郷の騎士団と言った様相で、伝説に聞くほどおぞましくはなく、言ってしまえば都市の不死者や浄化チームの面々とさほど変わらない姿をしていた。
だからこそ浄化チームの面々は誤解した。逸ってしまった。
最大の不運は、ネレイスたちがFRFの不死者の、その末端の戦闘能力しか知らなかったことだ。
都市の管理を行うごく一部の不死者は、内政では優秀だが戦いとなれば全く役に立たない。大抵は機能が戦闘向きでなかったり、都市への被害を気にする余り全力を出せないせいなのだが、彼らはその一面的な知識を、全ての不死なる者へと誤って適応してしまっていた。
すなわち、スケルトンに対し、自分たちでも撃破可能な戦力だと誤認して先制攻撃を仕掛けたのだ。浄化チームの戦力ならば実際、FRFの下位の不死者なら撃退が可能だった。
平和裏に話し合いを願えば、違う未来があったのか。
今となっては、もう分からない。
解放軍の不死は、都市を支配する不使者たちとは全く違った。
彼らは人間の形をしているだけの災害だった。
精鋭中の精鋭で固められた部隊が、たった六機のスケルトンに瞬く間に屠られた。
もっとも、敵陣で実際に戦闘に参加したのは『クーロン』を名乗る一機だけだ。
所詮は軽装機、撃破に数秒とかかるまいと笑い合っている間に、浄化チームの精鋭五人が粉砕されて挽肉となった。
口元に煙の出る棒きれを咥えたその怪物は、浄化チームの兵士たちの乱射した自動追尾する超音速炸裂弾を容易く回避し、勇猛果敢に突貫してきた。
取るに足らない装甲を纏う両腕が自由軌道で被災する弾丸のことごとくを精密に迎撃し、踏み砕かれたアスファルトはめくれあがって津波の壁となって兵士たちを襲った。
接近されれば終わりだった。ろくな武器も持たない肉無しの、見たことも聞いたこともない奇妙な拳闘技が、完全武装した兵士たちを機械甲冑ごと爆砕していった。
ネレイスが殺されなかったのは、偶然だ。見る間に友軍が弾け飛んでいく異様な風景に怯え竦み、転げて失禁し、そこに爆発的な蹴打を受けた。
インパクトが不完全だったのだろう、奇跡的に致命傷には至らなかった。
『クーロン』は彼女に追撃を与えず、静かに「寝てな」と呟いた。
理解せざるを得なかった。
この猛攻は彼らからしてみれば決して本気の攻撃ではない。
おそらくは牽制未満、あるいは遊戯なのだ。『クーロン』には得物の選り好みをする程度の余裕があった。
殺戮の暴風の最中で、ネレイスは甲冑の中で血肉を吐きながら確信する。
これは、浄化チームの戦力では、どれだけ犠牲を出しても打倒出来ない。
定命の人間の敵う相手ではない。いや、きっと都市の戦闘向けの不死者でも対抗不可能だ。戦闘能力の次元が違いすぎる。
機動力も驚異的だったが、特別な装備も持っていない機体が、単純打撃で機械甲冑を正面から爆発四散させてしまうのは、いっそ幻覚であってほしい。
仮にこの『クーロン』を退けられたとしても、まだ五機のスケルトンが控えている。クーロンよりも重武装かつ、好戦的な気配のする五機を相手取る? 絵空事と呼ぶにも烏滸がましい、あまりにも愚かな願望だった。
同胞の半数が肉の鉄の混じり合う残骸と成り果てたとき、浄化チームの賢明な兵士たちは、栄えある死も、キャリアの完成も放棄し、武器を捨て、降伏の意志を見せた。
クーロンは攻撃を続行し、半分を即座に殺したが、それからスケルトンどもは動きを止めた。おそらく記録螺旋搭載の無線で、何事か取り決めをしていたのだろう。
何人かがクーロンと交代して、敗残兵どもを玩弄して遊び始めた。
生きていて、殺すだけで死ぬ人間というのが、永久に生き続ける彼らには余程面白かったのだろう。
それで、さらに半分が殺された。
挙げ句、仲間同士での潰し合い、殺し合い、穢し合いまで強要された。勝てば助かるという類では無い。
仲間を殺してみせても、何秒か命が長引くだけ、苦痛が少ないやり方で殺してもらえるというだけの、おぞましいゲームだ。
絶望と怨嗟、アンデッドどもの嘲りの声が木霊する中、鎧を剥がされたネレイスは血を吐きながら仲間を斬り殺し、またスケルトンの指図で仲間によって散々に蹂躙され、いっときは意識の喪失に追い込まれた。
生きて帰れるとは、浄化チームの誰も考えていなかっただろう。
事実、<総統>が超常的な手段を使って直々に救援に現れなければ、全滅していたに違いないのだ。
絶対なる君臨者、アルファⅢメサイアが解放軍を領域の外側に弾き出してくれたおかげで、ネレイスを含む数名だけが生き残った。
ことの顛末は跡から駆けつけた英雄フェネキアからの伝聞で、現実の当事者は、誰もメサイアの超越的戦闘を目にしていない。
だが、彼女たちはその神話めいた出来事を信じ、また自分たちが伝え聞いてきた都市造りの神話は全て事実だったのだと確信した。
器官停滞者や変異捕食者を一絡げにして死なない怪物と呼称しているが、スケルトンは怪物などではない。
彼らは己が意志で殺戮の技巧を操る冷酷なる虐殺者。
獣ではなく、悪魔だ。
FRFの都市と市民、それら脆弱なる者は、不滅なる悪意の軍勢に決して敵わない。百万の死体を積み上げても、彼らの命一つに届かない。
しかし、不浄の悪魔の存在は、対となる光輝の実在をも実証する。
即ち、救世主と天使たち。
永劫に渡り君臨する偉大なる不死の群れ。
ファーザーズ・リデンプション・ファクトリーを支配する貴き魂たち。
メサイアとメサイアドールの偉業を疑う理由はどこにも無い。
奇跡が起きなければ、あらゆる都市はとうの昔に滅んでいたに違いないからだ。
一度でもスケルトンとの戦闘を知れば、もうそれ以前には戻れない。
初回の生命資源製造も、初めての都市劫掠も、あの絶望と比べれば余りに矮小な出来事だ。
どうして真実を目の当たりにして正気で居られるだろう? 総統の支配領域の外には、人間では絶対に勝利し得ない不死の兵士が跋扈していて、そしておそらく<総統>であっても易々とは打倒出来ない。
死地から生還して以降、何も知らないまま死ねた仲間たちを、ネレイスは心底嫉んだ。
こんな恐怖と諦念を抱えて、どう生きていけば良いのか。
今まで暮らしてきた都市、数えきれぬ摩天楼に支えられた勇壮なる砂上の楼閣のような虚しくて脆いものに見え始めたのはその頃からだ。
補給基地へ帰還する途上、英雄フェネキアは心理的ショックで震えが止まらないネレイスを抱きしめ、慰め、色々なことを教えてくれた。
「浄化チームがスケルトンを倒せたことなんて、ボクの知る限り一度もないっスよ。数え切れない程挑んで、数え切れない程死んできたっス」英雄は可笑しそうに嗤う。「ねぇ、ネレイス。キミたちは、みんなのため、あいつらに殺されに行くんスよ……そのためにキミは産まれてきたんスよ? キミは、あいつらに殺されるまで生きていたいっスか?」
嫌です、と怯える少女は、媚態を繕い英雄の胸に縋った。あんなやつらとの戦いを免れるなら何でも出来ると訴えた。フェネキアは愛しそうにネレイスの頬を撫で、「今のことは他言無用っス」と囁いてネレイスの唇を奪った。
無限に続く不死者との自殺志願的な戦いから逃れたい。
そう願った少女は、フェネキアの勧め通り、後進の生命資源を育成する道を選んだのだ。
元より浄化チームでの活動に気まずさを感じ始めていた。良い機会だったのかも知れない。
浄化チームから離脱した後も、永遠に少女であることを要求されるネレイスは、愚直に、あるいは病的に『スケルトン』の存在を意識し続けた。
彼らは都市が喧伝し、民話に語られるような打倒すべき怨敵ではなく、自然災害だ。
そのくせ、決定的に人間の枠に縛られている。
つまりは所詮は単純な暴力に根ざしている、という奇妙な特性を持っていた。
暴力には暴力で対抗出来る。ハンムラビ法典にも『目を狙う相手と戦うときは、自分も目を狙え』と書いてある。
ある意味では、スケルトンとの戦いは、敵対的都市との戦争の遙かな延長線の先にある。
同程度の暴力を用立てできれば、瞬時に都市を滅ぼされることは無くなるだろう。
彼女は妄執によって武力の集中を志向した。母の後を継ぎ、フェイク・ユーロピアの市長となり、軍事を拡充し続けた。
都市全体を見渡しても有数の武装勢力となった。市民も順調に成熟していった。
それでもたった数機のスケルトンを打倒出来るだけの未来が見えない。
数巡援護、都市を冒す病を食い止めるため、『薬』なるものを求めて少女騎士たちを供として『領域外』へ発ったあの時は、スケルトンと遭遇する危険性は度外視していた。戦闘が成立しないと最初から分かっていたからだ。器官飛行船は都市の生命資源に対しては有効だがスケルトン相手には役に立たない。探知範囲外から一方的に狙撃されて終わりだ。
彼らの目は姿のない存在をも精密に補足し、特殊な銃火器から放たれる弾丸は遙か空の彼方にまで届くとフェネキアは語っていた。どんな索敵も防御も意味が無いのだ。
そして、ネレイスが全てを喪ったあの日。
かつて無いほどに状態の良い都市で出遭った解放軍は、記憶に刻まれた悪鬼どもとは、違った。
規模や武装の苛烈さは、記憶のそれとは比べるべくもない。
部隊ではなく、地獄の軍勢と呼ぶに相応しい規模だった。
万が一にも生きて帰ることは出来なくなったと、ネレイスは観念した。
だが、彼らは記憶よりもずっと異質だったのだ。
代表らしき人物の佇まいは、ネレイスをすら甘い気持ちにさせるものだった。潔癖そうな美貌に、どこか穏やかな眼差しを讃えた雌性体ベースのスケルトンで、『アルファⅡモナルキア・リーンズィ』と名乗った。
リーンズィはあろうことか都市への支援を申し出た。
FRF市民に対して好意的に接してくれるスケルトンがいるなど、ネレイスは夢想だにしなかった。それがために拙速な手段を選ぶこととなった。闘志の火が消えない娘たちを殺害し、供物として差し出した。
必ずしも間違っていたとは、ネレイスは今も思っていない。殺す必要は無かったのではないか……? 無事に都市へ帰還出来たとしても、認可外でのスケルトンのとの接触は禁忌だ。監禁され手脚や臓腑を抉り出され終わりのない拷問に晒される汚辱に満ちた日々を与えるのが本当に正しいことなのだろうか。
殺す必要は、あったのだろうか……?
結果論だ、という声を押し殺し、ネレイスは思考を切り離す。
兎も角、ネレイスの供物をリーンズィは受取らなかった。
血の気の多いスケルトンどもを抑え、約束を誠実に守ってくれた。
リーンズィなる不死の少女は、あまつさえネレイスが少女騎士を殺したことを咎め、それから「怖かったのだな」と理解をしてくれた。ネレイスは泣きそうになってしまった。
送り出す間際にはこんな言葉をかけてくれた。
「猫たちも見知らぬ土地では気が立って、仲間同士で喧嘩を始めてしまうという。君たちは迷子の猫さんだった。君たちを安心させられなくて、本当にごめんなさいがしたい……」
語彙が独特だったが、信頼に足る人物なのは間違いなかった。以前出遭った『クーロン』、殴打するだけで無敵の鋼を壊す尋常外の怪物も、リーンズィに感化されてか、明らかに凶暴性を喪っていた。
その美しいスケルトンは、極めて高い求心力を持っているようだった。
当然ではある。
リーンズィは、どう考えてもアルファⅢメサイアのような超上位の不死者だったのだから。
彼女の発揮した機能については、ネレイスの記録螺旋には収録がされていない。顔を見せるように言われたので、カメラを搭載したヘルメットを外していたからだ。
都市には未知の猛毒が充満している可能性もある。恭順の意志を示すために生命維持機能を捨て去る覚悟で応じたのだが、今回はそれが思わぬ成果を上げた。
思わぬような大物のスケルトンに次々と遭遇した。浄化チームでは存在を知られていた総統の写し身、『コルト』。ネレイスも存在を知らなかった兎のような形状のゴーレム。彼らも総統と類似のデザインではあるにせよ、アルファⅡモナルキアほどメサイアには似ていない。
一方で、アルファⅡモナルキアは、間違いなくアルファⅢメサイアに連なる機体だった。
メサイアの外装と機能を知れば、誰しもがそう判断するだろう。
奇跡的な状況の連続だったが、信じられないことに、リーンズィはニノセとリクドーを蘇生させ、ネレイスの市民のための物資『薬』までも製造してくれた。
特に前者は驚嘆すべき出来事だ。規模は小さく見えたが、病への耐性を持つFRF市民を器官停滞者へ造り替えるなど、偉大なる総統にすら叶わない。
……リーンズィの機能は他のFRF市民には明かしてはならない、とネレイスは理解していた。
例えば、天土を支配して豊穣を齎す。例えば炎熱を従えて電気を生み出す。例えば塵芥を集めて天を突く資材の塔へと変える。
総統直下の不死者たるメサイアドールは、どの機体も奇跡と呼ぶに相応しい機能を持っている。
だが、生命資源の命そのものを直接操作するような純粋な奇跡は、当の総統しか持っていない。
であれば、リーンズィ、あのアルファⅡモナルキアというスケルトンは、不死者にそんなものがあるのかは分からないが、姉妹や親子の関係だと考えるのが自然だ。
そんなものが都市の外に存在すると知れれば、そして彼女が人間に注ぐ愛と奇跡がメサイアドールら超越者と比較しても遜色ないほど深長であると分かれば、<総統>の治世には間違いなく甚大な混乱が起きる。
総統の忠実なるしもべの一員であるネレイスにしても、動揺は鮮烈なものとなった。他の生命資源ならばもっと酷い状態に陥るだろう。
だから、アルファⅡモナルキアについての詳細だけは、口にしてはならない。
哀願して供述を請う刑吏にも、傲岸なる不死者どもにも、誰にも、決して漏らしてはならない。
その沈黙こそが、全てを剥ぎ取られたネレイスに唯一許された、総統への忠誠の表明だ。それで自分が救われるわけではない。沈黙なのだから意図が伝わることは有り得ない。
斟酌も恩情もありはすまい。だが、ネレイスは都市を見捨てられてもなお、偉大なる総統を信じている。浄化チームに在籍していれば、アルファⅢメサイアの絶対的権能は何度も目にすることになる。強力なだけの不死者では無い。
総統の力は絶対だ。彼女は世界を救う奇跡そのものだ。
奇跡を疑うことは誰にも出来ない。
救世の奇跡が乱されるなど、あってはならない。
……クヌーズオーエ解放軍は、拍子抜けするほどあっさりと彼女を解放した。
本当に何のはかりごとも、裏切りも無かった。支援物資のどれかには、都市を救ってくれる何かが含まれていると信じられた。
ネレイスは、命を与えられたのだ。
しかし解放軍の陣地から出航してしばらくは感傷に耽ることさえ出来なかった。
過積載状態の器官飛行船を一人で操舵するのは尋常の作業ではない。過負荷のかかった生命機械に神経管で接続すること自体が苦痛であるし、そもそもこの規模の生命機械は、複数人で取り扱って負荷を分散するのが基本だ。
長時間航行するとなればサードのような生命機械の専門家も欠かせない。
現在のネレイスには、何も無い。
誰一人味方はいない。
もう都市にすらいないかもしれない。
少女騎士たちの力を借りていた頃ならば何の問題にもならなかった擬似フーン器官の吸排気異常であってもネレイス単独ではリカバリが困難だった。
器官停止に備えて必要浮力が軽減される安全な気流を見つける必要があったが、そこに至るまでに、市長の名を背負う少女は三度失神した。
機械甲冑の関節を固定しているため倒れ伏せることさえ出来ないのだが視界が暗転する度に首元から神経賦活剤が注入されて少女の肉体は強制的に覚醒を迎えネレイスは咳き込み喘ぐように息をしながら意識だけで跳ね起き死の予徴に囚われた心臓が処刑の時に鳴り響く鐘のように荒れ狂う中でバイザーに表示される警告を片端から拾う。
古代の遺物である機械甲冑の吐き出す文字はネレイスにも得体知れない模様の群れにしか見えないにせよ浄化チームでの過酷な教練が奇怪な表示の形と叩き込まれた知識とを強引に結びつけてくれる。
進むべき方向など分からない。墜落しないよう必死に各器官の流路を確認し圧力を調整し形骸の舵に縋り付く。大海に投げ出されくだらぬ板きれにしがみついて何千時間も漂流し続けた旧人類の伝説をネレイスは知っていて無論本物の海などと言うものは理解の外側にあったのだがもしも現実にその光景と出くわしたのならば自分はその憐れな漂流者と大差無いだろうと想像し咳き込むようにして発作的に嗤った。
苦闘の末に器官飛行船の航路を安定させることが出来てそれでようやく一息つけた。
依然として帰還までの路は定かではなく、船は浮いているが、正確にはまだ墜ちていないだけだった。永遠には飛んでいられないだろう。常勝無敗の器官飛行船も優秀な人員無しでは破裂寸前の風船と変わらない。
息を整え、自身の小水を採取し濾過してヘルメット内のチューブを吸って渇きを癒やす。自然とかつて肩を並べていた少女騎士に想いが流れる。彼女たちも処女航海では目を回してしまい採尿の操作すら覚束ない有様で、仕方なしにネレイスが操作をしてやったものだ。
今でも目を閉じただけで思い出せる程鮮やかだ。
なのに、自分の記憶とは思えないほど全てが遠かった。
いけない、と思った頃にはネレイスは自分が死に追いやった愛しい娘たちとの日々を思い出してしまった。
ヘルメット内の警告表示は滲んで見えなくなる。
……思えば、支援演算を行ってくれる造花人形だけは、解放軍に置いてくるべきではなかった。総統閣下の所有物とは言え、彼女たちは元々は解放軍の一員だ。猛烈な反発は必至だっただろうが、現状では帰還が困難であると訴えれば、あの優しいスケルトンのことだ、造花人形だけは返してくれたかもしれない。
とは言え、思いついても、とても口には出来なかっただろう。
ニノセがいたからだ。
器官停滞者となった我が娘が、幸せそうに造花人形と手を繋いでいるのを見た。
ニノセが造花人形に過剰に入れ込んでいるのは把握していた。
ニノセとて、市長の娘として多くの支配クラスと交わり、生命資源の供出に協力していた。無垢な雌性体では決してない。しかし心の純潔のようなものは、丸きり造花人形に捧げているように見えたし、どこか夢見がちなところがあった。かつてのネレイスのように。
造花人形の肉体や歌を、娯楽として消費するのは合法だが、都市に奉仕するという大原則を忘れ、純粋に造花人形のために活動するようになれば、話は変わってくる。
その場合、該当者は基本的に浄化チームによって虐殺主義的破壊行動者になったと判定され、処分される。
都市運営の歴史を紐解けば、造花人形がもたらしたと思われる動乱が幾つも発見出来る。この生命機械は極めて広汎な用途を持つが、その出自を敵対的組織たる解放軍に持つ危険物であることに変わりはない。時として思わぬ災禍を呼び込む。
扱いが難しいため、多くの都市では人口動態調整センターで教練用の備品として利用されるのみだ。
造花人形との接触頻度や行動内容は、全て上位機構に送信されるのだが、ニノセの数字は平均値から完全に外れていた。殺処分を免れていたのは、ニノセが市長の娘であり、個体として優秀で、生命資源の新規製造と供出にも協力的だったおかげだ。「一歩間違えればアド・ワーカー認定だ。誰のためにもならないことは、やめさせるがよかろう」と通りがかりの不死者に忠告されたことさえあった。
結局、ニノセは最期の瞬間まで造花人形と一緒に居ようとした。
ネレイスは我が娘を疎ましく思うと同時に、言いようのない憐れみに襲われて、遣る瀬なくなった。
ニノセはそれほどまでに造花人形に焦がれ、焦がれる自分を殺しながら生きてきたのだ。
自分を殺してでも守り続けてきた願いは、皮肉にも彼女の命脈が尽きた後に華を咲かせた。
彼女は永久にあの造花人形と一緒に居られる。
そこに意志も魂もありはしないとしても。
だからネレイスは、造花人形の回収を断念した。
手塩に掛けて育てた娘を斬るのは一度でも耐え難い。
白痴の不死となったニノセから造花人形を取り上げるのは、彼女をもう一度殺すことにも等しい。
市長たるもの冷厳なれと自戒してきたが、我が娘を二度も三度も死なせて平気でいられるほど強くはなかった。
だが、そもそも……本当に一度目の死は必要だったのか? 結果論として自分は拷問を受けているが、リーンズィの言葉を信じ、少女騎士を殺さずにおいておけば、娘たちに関しては、今でも皆無事だったのではないか……?
ネレイスは思考を切り離す。
今は収容所の所長のためにものを考えてやる時間だ。
この後悔は、必要ない。
総統が支配する領域においては、機械の計器類は信用出来る。
だが、得体の知れぬ空に似た空間、空とは名ばかりの異界を往くとき、器官飛行船の計器類は時折狂った数値を示す。
そもそもウォッチャーズの監視塔が存在しない『領域外』では、己の座標を知る手段がない。
太古においては、空に散らばる星から位置や方角の推定が出来たと言うが、月がいつでも一つだけだった頃の知識など、現代では無意味だ。
ネレイスが帰還できたのは、ひとえに器官飛行船がまたしても啓示の光を捉えたからだった。
ただ、躊躇はあった。無策にも啓示の光に従ったばかりに、こんなことになっている。『領域外』に探索へ出た時点で愚策であり重犯罪だ。それでも精々周辺の捜索だけに留めて帰還していれば、我が身はまだしも、少女騎士を全喪失するなど、起こり得ない事態だった。
完璧ではないにせよ、ネレイスの少女騎士は第一級の生命資源。血統ごと廃絶される危険性はない。権利を剥奪され、他の都市の支配クラスや人口動態調整センターへ『配分』されてしまう可能性はあるが、殺されはしないし、遺伝子は生命資源に受け継がれ、いつかどこかで花開くはずだ。死んで喪われてしまうよりは遙かに良い……。
あの青い光に従ったところで正しい場所辿り着ける保証などないとネレイスにはもう分かっている。
またも、想像の及ばない怪奇と遭遇し、何もかもが壊れてしまうような目に遭うかもしれない。
だが現在地の把握どころか複雑な操舵も覚束ない状態で出来るのは、遠方に揺らめく火を目指して真っ直ぐに進むことだけだった。
「そうとも、おまえにはもう何もないではないか」久遠の少女は鎧の下で自嘲する。「痩せた我が身がそんなに可愛いか? 手脚や胎がそんなに惜しいか。どうなっても構わないではないか……」
凍らせていた感情が溶け始めていた。少女騎士たちを喪った事実が徐々にネレイスの判断能力を鈍らせて、意識を「あの時、ああしていたならば」という益体もない後悔で埋め尽くしていく。
残されたのは物資を市民の元に届ける執念だけだ。彼女は執念で駆動して、同時に理性の嘲弄に呻きをこらえている。憧れの不死者アスタルトの真似事をして何になる? 嘲りの声は止まらない。無駄だ。全部無駄だ。お前は何も成し得ない。無意味に死を量産しただけだ。
少女は知れず、涙を零しながら笑声を漏らしていた。
生まれてきてこの方、誰かのことをこれほど滑稽に想ったことは無かった。
自棄になった長命者の少女は、思考停止して、啓示の光を目指した。心は折れていたが浄化チームで仕込まれた技が機械的に少女の肉体を動かしていく。
各機器機の圧力を調整する。流路を切り替える。高度計を読む。器官賦活のトグルスイッチを都度切り替えていく。
潜境鏡の管を降ろし、危険の兆候が無いか確認する。さほどの意味は無い。飛行中の器官飛行船を補足して撃墜出来る存在はスケルトンの軍勢しかおらず、そして彼らの探知可能範囲は、器官飛行艇を遙かに上回る。対策しても無駄だ。
冷静だった頃のネレイスなら管は巻き上げて負担を減らそうと努めていただろう。
だが、その機械的習慣のおかげで、移動時間と移動距離が比例していないことに気付けた。
都市の構造はどこも似通っているため、市長になるほどの生命資源なら、あらゆる方角・あらゆる視点からの眺めを把握している。視覚情報さえあれば、自分がその都市のどの地点にいるのかは理解出来るのだ。
これを利用すれば、地上と時空間が連続していない上空でも、己の移動距離と進む方向の大まかな把握が可能となる。
都市の半ばほどの地点で、不意に潜境鏡が揺れた。移動が線形では無くなり、景色の進路が歪曲を始めた。
地上と上空は連続していないが、天地に跨がって連続している存在の移動方向が、それぞれに変わってしまうことは、通常有り得ない。
ネレイスは無意識に計器類を確かめた。
器官飛行船の側に異常は発見出来ない。
視界を船外の観測鏡に切り替えて、変わってしまったのは世界だと気付いた。
空は昼でもなく夜でもない。
流動する粘つく灰の光で満たされている。
思い出す光景がある。領域外に出てしばらく後、解放軍の待つクヌーズオーエへと運ばれたときと同じ現象だった。
潜境鏡を覗いていると、目まぐるしい速度で地表の状態が移り変わっていく。
自虐と悲嘆で染まっていた意識が驚愕と混乱とで現実へと引き戻された。焼け落ちる都市に焦げた肉塊が蠢いているかと思えば凍てついた黄昏の降りた廃屋群へと飛ばされそこに君臨する得体の知れぬ一匹の獣に船を見られたと感じた瞬間には塔も建築物もない見慣れぬ荒れ地へと移動しており朧気な月光を浴びながら電気松明か原始的な篝火を掲げた流民とそれを護衛する兵士たちの長い長い列に出くわしどこぞの都市に到着したのかと驚き解析機関に視覚を共有させたが直後大地そのものが視界から消失した。少女は混乱した。世界が消え去ったわけではないと分かるのだがそこで波打っているものが何なのかが理解出来ない。潜境鏡の方角を変えても壁はなく都市はなく塔すらない。透き通る蒼い色をした液体によって水平線の果てまで埋め尽くされている。データを挿げ替えられた解析機関が地上全てが塩分を含んだ大量の水で覆われているという情報を寄越してきたがそんな非現実的な都市があるわけがない。その異常な風景も永くは続かず見慣れた灰色の廃屋群へと切り替わる。
器官飛行船の速度に変化はない。
空自体が灰色の光を放っていることを除けば、飛行している領域に異常は無い。
しかし地上の有様は常軌を逸した速度で変化し続けている。
「往路でもこんな現象が起きていたのか……?」
総統の機能の及ばない領域では、全てがねじくれているとは聞いていた。しかし時空間の因果律が完璧に崩壊するなどということが有り得るのだろうか? 途中、崩れた状態から徐々に巻き戻されていく都市を見つけたが、何がその都市に起きたのか、どうすればそんな現象が起きるのか、全く分からない。
そうしているうちにネレイスは生身の背筋に怖気を覚えた。
戦士として研ぎ澄ましてきた感覚が、何者か背後に立っていると告げている。
視覚を器官飛行船から少女の肉体へと戻し、咄嗟に振り返ろうとして、ロックされた機械甲冑の関節に阻まれる。
奇妙な熱感を纏った存在が、息のかかるような位置からネレイスを覗き込み、鎧を通り抜けて肩に触れてくる。
その手は燃えるように冷たく、凍えるほどに熱い。二つの相反する性質が平然と同居する矛盾。
「おまえが私を運んでいるのか……」思考する前に、憎悪が言葉を結んだ。「私を嗤いに来たのか。おまえの運んだとおりに命が潰れていくぞ。それがそんなに可笑しいか! 嗤いたければ嗤え、私はお望み通りの敗残者だ! 何一つ、何一つこの船には残っていない! 見ろ、この惨めな船を。誰も居ない私の船を……」
怒号を発しながら機械甲冑のロックを解除し、上半身だけを動かして船内に視線を走らせた。
何の影もない。夢想した怪物などいるはずもない。
誰もない。
ここにはもう誰も居ない。お前の愛した娘たちもいない。おまえが殺した……。
悪魔が囁く。いや、これは私の言葉だ、とネレイスは瞑目する。「冷静になれ」と言詞回路で己を調律する。
どっぷりと汗をかきながら少女は心臓が落ち着くのを待った。幻覚だったのかと頭を振るが、何かが背後に立っていたのは間違いない。それは精神や思考ではなく、肉体によって感知されたものだ。
ネレイスは戦士として己の肉体を佳く信頼していた。
先ほどの気配が、この異常現象の主だというのならば、啓示の光もまたそれによって引き起こされたと見るべきだ。
啓示の光が何故現れるのかについては、誰も知らない。英雄フェネキアですら理解していないかもしれない。不死者をも超える信じがたい機能の持ち主の足跡だとも、自己補正を続ける鏡像連鎖都市クヌーズオーエの『恒常性』の発露だとも言われているが、そんなものを測定出来る人間はいない。
都市は常に変容を続け、際限の無い自己改変と無秩序な再配置を繰り返している。
総統ですら領域外の全容は把握していない……。
「私のような敗残者を生かして、どこに連れて行きたいのかは知らないが……私はおまえの思い通りには死んでやらない。私は市長なんだ。全市民の闘争を集約して身に宿す存在だ。殺すのも私、救うのも私だ! ぜんぶ私の仕事だ! 市長としての責務を果たし終えるまでは死なないぞ……!」
無人の艦内でネレイスは唸り声を上げる。
威嚇と言うよりは自分を激励する意味が強かった。
得体の知れぬ現象ではあるが、今は頼れる唯一のよすがだ。せいぜい利用してやる、と剛毅な思考を無理矢理に練り上げる。潜境鏡から意識を反らして安定航行に集中する。
全てがとっくに選ばれているというのならば、それに乗ってやるのみだ。
結果として、帰路においては、数時間でFRFの都市に行き着いてしまった。
ネレイスは甚だ困惑した。
空を輝かせていた灰は何処かに去り、風景の変容が収束したかと思いきや、突然計器類の高度が低下した。
そして観測鏡に、まさしく馴染み深い風貌の汚らしい都市周辺者が映ったのだ。
彼らは己の肉体や様々な生命機械を使って居住不適都市からの資源切り出し作業に勤しんでおり、何人かは驚いた様子で、ネレイスの器官飛行船を指差して、言葉を交していた。
勝手知ったる開発拠点の風景だ。
少女は思わず脱力してしまった。
機械甲冑が無ければその場に倒れていたことだろう。
信じがたいことに、どこかの都市領域の辺縁に到達したようだった。
労働者群体の監視と護衛を務めている生命甲冑兵士が反射的に銃を向けてきたが、発砲する兆候はない。大仰な身振り手振りで指示を出し合い、それを受けて通信技士が仮設電柱によじ登って電線に信機を繋いでいる。
誰も彼も状況を飲み込めていないらしい。
ネレイスの認識の上では、彼女の船は突然この都市の低空に到着してしまったのだが、外部からも同様に見えたらしい。
器官飛行船が何の前触れもなく出現すれば、騒ぎにもなろう。普通は敵対的都市の攻撃に使う生命機械だからだ。すわ侵略かと身構えるはずだ。
ネレイスは機器を操作する。光通信機を使って、所属と、事故によって漂着した旨を伝え、下船してヘルメットを外し、顔を見せた。
生命資源たちは性別や身分に関係なく好意的な興奮を示した。ネレイスのような顔立ちで、少女期で成長を止めているものは、基本的に支配クラスに属している。
最低でも市長の眷属であり、最高の位階ではメサイアドールとなる。
稀に奉仕刑の憂き目に遭い、権利を剥奪されて人口動態調整センター送りになる個体もいるが、そうした惨めな境遇でも、待遇は他と全く異なる。センターの采配次第だが、都市周辺者程度では永久に触れる機会を得られない。硝子越しに眺めるのが精々だ。
低俗な生命資源にとって、ネレイスたち総統に連なる『人間』は偶像だ。電影放送の広報番組が、この顔貌の娘たちを支配者として崇めて焦がれて奉仕せよと命じている。新天地を求めて出奔した元市民ともなれば事情も変わってくるが、最下層に位置する都市周辺者たちは従順だ。ただ顔を見せただけで絶大な信用を得られるのだ。
兵士もすぐに警戒を解いて要求を聞いてくれた。
あまつさえ重罪人に対して脱面までする始末だ。
ネレイスはフェネキア直伝の媚笑を作った。
「私はネレイス。長命者のネレイスだ。急に現れてすまない。故あってここに流れ着いたのだ。許せ」
「はっ。拝謁の光栄に預かり、こっ、光栄です!」
「緊張しなくて良い。さて、君たちの権限ではおそらく手出しが出来ない案件だろう、まずは城壁管理係に繋いでもらえるか?」
「はっ、長命者ネレイス様! おい、城壁の連中に至急問い合わせろ! もうやってる? 知ってらぁ馬鹿!」
都市周辺者が元気なのは良いことだ、とネレイスは顔をほころばせる。
すると、兵士は顔を赤くして俯いてしまった。
……結局の所、戦争で強奪してくる資源以外は、下位の市民や都市周辺で活動する者たちの日々の勤労によって産出されている。彼らを無碍に扱い、使い捨てにする都市もあるが、フェイク・ヨーロピアでは労働者こそ都市の基盤だと考えて、福祉に力を入れていたものだ。
この辺りの中心都市からも、そういう方針を感じられる。
そう言えばここはどこの都市に属しているのだろう、とネレイスはヘルメットを被り直しながら思い至った。
「この都市は、まだ新しいのか? あまり捜索と解体が進んでいないな」
「はっ。ええ、新鋭の前進都市に属しておりまして。ここの拠点も、採掘が始まってまだ三年です」
前進都市か、とネレイスは納得する。
前進都市は文化再生ではなく鏡像連鎖都市クヌーズオーエへと切り込むことを目的に造られている拠点だ。
実態としては単なる物資産出の重点拠点であり、名称とは裏腹にどこに向かうこともない期限付きの採掘場なのだが、とにかく生産力が問われる形態だ。
労働者に勢いがあるのも頷ける。
「良い開拓者たちだ。新しい、ということは、三百台前半の都市だな?」
「はぁ。いいえ、三百番台といや、大分前の番号ですぜ」兵士は首を傾げた。「ここは第四三十四号前進基地の拠点です」
「よんひゃく……知らない前進基地だな。いつのまにか新しい計画が始まっていたのか」
よくあることだ。市長程度の権限では、ウォッチャーズの計画のうち僅かしか知れない。
知らない都市、知らない計画、知らない軍事力。
暴風の如きスケルトンどもの暴虐。
浄化チームに課せられたもう一つの使命。
……目の当たりにして初めて知れることの何と多いことか。
「おーい! 城壁まで進んで良しだってよ!」
「そうか! そういうことです、長命者ネレイス様。どうぞ船に戻って進んでください。お会いできて光栄でした」
ネレイスは浮遊する器官飛行船に戻り、再び航行を始めた。
帰還出来たのだという実感が湧いてきた。
ほんとうに、何かの間違いでは無いかと思うほど呆気なかった。
クヌーズオーエを区切る城壁に近づく。
生命機械に置換する形で造られた門から、神経管が伸びてきた。
それを器官飛行船の通信孔に受け入れる。
城壁の内部で活動している管理係の声が脳裏に響いた。
『お初にお目にかかります、長命者ネレイス様。何か事情がおありかとお見受けしますが、市民IDと器官飛行船のシリアルを提示してください』
都市周辺者たちの反応を見る限り、重犯罪者であるとは知られていない。
さすがに都市のネットワークと接続している城壁管理係は誤魔化せまい。
ネレイスは大人しく情報提供を行った。
数十秒後に返答があった。
『……申し訳ございません、一致するIDがデータベースに見つかりません』
「なに?」
ネレイスは聞き返してしまった。
城壁管理係には、越境しようとする者に対して権限の停止を宣告し、指示に従うよう要求する権利が与えられている。
場合によっては軍事攻撃も可能だ。
だから、てっきりそうした対応が来ると思ったのだ。
「私の身分が失効している、ということか?」
『失効もしていません。あなたの身分を証明するデータを、どこにも発見出来ません。おかしいな、直近百紀年の有効な生命資源の情報は与えられているのに……』
「では、器官飛行船のほうは、確認出来たのか? 総統閣下の資産だが」
『それも駄目みたいで。誠に申し訳ございません、ネットワークのトラブルかも。前進基地の本部ではそうした障害は起きていないので、より上位の機構に対して連絡を行います。つまり、<ウォッチャーズ>に対してですが。なにぶん、ここらは前進都市ですので、中央とはアナクロなやり方でしか接続出来ません。向こうもそんなにこちらを重視していないので、返事が来るまで三時間はかかるかと予想されます、しばらくお待ちください』
真綿で首を絞められるような気持ちで少女は待った。
しかし、三時間も必要でな無かった。
一時間が過ぎた頃、緊張した声音で『本件はウォッチャーズの管轄に移行された』と宣告があった。
『今後、あらゆる敵対的行動は、全ての都市に対する攻撃と見做される。即時の殺処分も可能だ。理解するか?』
「理解する。私はどうすればいい?」
『待機せよ。近辺に存在するウォッチャーズの即応軍団が急行している。……ああ、信じられない、こんなことは初めてだ。あなた何をしたんですか?』
「何も知らされてないのか?」
『ああ、いいえ、話さないでください。機密の漏洩があったと判定されれば自分まで処分される……。降伏する意志があるなら、規定に従って、全権限に対するロックを解除し、メイン神経管での係留を行え』
ネレイスは城壁管理係まで死なせることはあるまいと考え、黙ってこれに従った。
一時間もしない間に、未知の高速器官飛行艇が十隻も現れた。
警告もなしに蒸気銛が次々に放たれた。
資源コンテナを巧妙に避けて、ネレイスの器官飛行船を構成する柔肉を貫いた。
神経管で直接接続している少女の肉体にも激痛が走り、擬似フーン器官が機能不全を起こした。
だが墜落することはない。
強襲した船団によってワイヤーで吊るされた形だ。
『降りろ』と船内の拡声器から低い声が聞こえた。
降りろ。降りろ。降りろ……。
ネレイスが脳髄へと直接書き込まれた全身を穿たれる痛みから復帰するまで、声は繰り返し発された。
『降りろ、不正市民。おまえは完全に包囲されている……』
ハッチを開け、管を掴み、転げるように下船する。
無数の銃口と刃が彼女を出迎えた。
充満している香りですぐに分かった。
不死者だ。
十数名の不死者。
不死者だけで構成されたウォッチャーズの戦闘部隊だ。
さほど上位の戦力ではない。彼らは、解放軍のスケルトンよりも遙かに脆弱だ。浄化チーム時代からネレイスはその事実を知っていた。不遜な試算ではあるが、フェイク・ユーロピアの兵力総てを注ぎ込めば、一部隊ぐらいならば押さえ込める程度だ。
裏を返せば、武闘派の都市の戦力をかき集めても、それが限界だ。
一つの部隊が、一つの戦闘的都市に相当する戦闘能力を持つ。
それが不死者だ。ネレイスのような簡易な人体改造者からしてみれば、音速で動く過剰性能の兵士一人も、不死が隊伍を組んだだけの戦術部隊も、手に負えないという意味では大差無い。
定命の存在では、人生を百度繰り返しても打ち倒せない。
出遭ったなら、恭順するか、死ぬかだ。
武装解除を命じられ、彼女は言われるがまま、機械甲冑を脱いだ。
装飾用のインナーは身につけていない。一糸纏わぬ裸体を晒して跪く。
遠巻きに都市周辺者たちが好色そうに見物しているのを感じる。
屈辱だったが従うしかない。凱旋の栄光など一欠片もなかった。
これまでの対応が鈍すぎたのだ。ネレイスは自分に言い聞かせた。
これこそが正しい扱いなのだ……。
ネレイスはこの地で、疑いようも無い罪人だった。
不死者は彼女の腹を蹴り上げ、体をひっくり返した。
何度も踏みつけ、踏み躙りながら、声を荒げる真似をした。
「どこでそのIDを手に入れた。所属はどこだ。何故この都市に降りた。どこから船を持ち出した。その肉体は何だ? 誰が整形した、誰がテロメア延長を手がけた。誰から盗んだ! どうした、誰が黙って良いと言った」
装面した不死者は何度もネレイスを足蹴にした。
少女は沈黙を貫き、苦痛を飲み込んで震えた。
不死者との会話では、相手が発言を許すまで決して口を開いてはいけない。
恫喝に誘導されて不要な発言をすれば、手脚の一本は失われるだろう。
「……多少弁えているようだな。よし、名乗って供述しろ」
「私は、ネレイス五〇七号です。いやしくも、<フェイク・ユーロピア>の市長を努めております。詳細情報は、どうぞ私の機械甲冑から……」
「お前の提案など求めていない」不死者はネレイスを蹴り上げた。「ふざけた名前を出しやがって。どうせ顔を変えているのだろう。ネレイス……ネレイス! ふん、本当によくもまぁそんな名前を使おうと思ったものだ、穢れたアド・ワーカーめ!」
機械甲冑の解体作業は、ネレイスがそれを脱いですぐに始まっていた。
恩寵の甲冑は、もう二度と起動することはないだろう。自分が下位の生命資源の前で裸体を晒している事実よりも、愛着のある装備が破壊されていく光景の方が、ネレイスには堪えた。
数百の戦場を駆け抜けてきた鎧の解体を通じて、積み上げてきた過去をも直接否定される気がした。
ブラックボックスとなっている記録螺旋が取り外され、不死者の技官が読み取りを始めた。
その円筒状の小さな無機機械には、ネレイスが戦闘中に経験した出来事の一切が詰まっている。自身ですら知り得ない生体情報が剥き出しで記録されているのだ。
猛烈な羞恥が湧いてきたが、頭を踏まれていては身悶えすら出来ない。
「これは……」息を飲む音が聞こえた。「これは、ネレイス五〇七号だ」
「やはり、ネレイス五〇七号は、アド・ワーカーに鹵獲されていたか。顔もIDも機械甲冑も奪われていたわけだ。ネレイス、こんなことになるとは……。だが、何故今なんだ? 何かこの偽装の理由は分かるか?」
「……何だこれは。分からない。該当する情報が無い」
「何故こんなタイミングで投入されたのか知らんが、まぁ、それはこの忌々しい偽物に聞けば良いな」
「待て。違う。収録された生体データに不整合が見当たらないんだ。着用開始時から現在まで、そいつは完璧に連続している」
「……ネレイス五〇七号本人なら、こいつは生命資源を腹の中に抱えた状態で初回起動をやっているはずだ。連続性を再度検証してくれ。どこかに綻びがあるはずだ」
「照合出来ている。そんな特殊なデータは弄くりようがないし、他も、ウォッチャーズで保存していた分とも一致している。偽装の痕跡が見当たらない。そいつはネレイス五〇七号本人だ」
「……こいつがあのネレイスだと?」
復唱しただけにも聞こえたが、踏みつけにされた少女は「おかしい」と直感した。
不死者は公務においては、演技以外で感情を乱さないし、プライベートでも滅多に表情を変えないほどだ。
それが、僅かでも声が震えたのならば、それは心底から動揺しているという証拠だった。不死者たちも暗黙のうちに視線を交し合って、寸時硬直した。自分たちの意志でまるで機械のように振る舞う不死者が、こうした露骨な反応を見せるのは稀だ。
脚で頭を踏まれている状態だが、ネレイス自身も戸惑った。何をそんなに恐れることがあるのだ? どこをどう見ても現在の自分は裸に剥かれたただの娘だ。多少人体改造されていても不死者に敵うような存在ではないのに。
その後は特に問答も無く、窒息防止用の管を飲まされ、裸のまま隔離コンテナに放り込まれた。真っ暗闇だったが振動が激しかったために器官飛行艇で運ばれているのだとネレイスは察した。
どこかのウォッチャーズの施設で粘性の清掃生物機械によって隅々まで洗浄された後、人間らしい衣服を与えられ、清潔な部屋で一昼夜の休息を許された。
どうして自分の手脚はまだついているのだろう? 少女は、自分のおかれている状況が理解出来ないままベッドに横たわり、静かに時間を過ごした。喪われた栄光についての感傷と、殺してしまった少女騎士たちへの悔恨、そして奇妙な態度を取る不死者たちのことを考えた。
どれも上手く纏まらない。どうしてこうなっているのか、納得が出来ない。酷く落ち着かない気分になり、またこの先で待ち受けている刑罰の過酷さについて想像して、時折震えた。
そして尋問室で三日間取り調べを受けた。
無論のこと、機械甲冑の記録螺旋を回収されているため、彼女がヘルメットを付けている間に見聞きしたことは、全て不死者たちに筒抜けだ。
尋問の最中に形ばかりの暴力を振るわれたが、実際には事実確認の質問に対して淡々と応答するだけの無機質な時間が流れた。
「……規定の取り調べは以上だが、尋問は何か聞いておきたいことはあるか、ネレイス五〇七号」と本件の担当らしき不死者は尋ねた。
最初にネレイスを足蹴にしていたぶっていた不死者だ。
尋問の最中にも散々にネレイスを痛めつけたが、壊すような真似は決してしなかった。
彼らが自分の取り扱いに慎重になっているということにネレイスは気付いていた。
反逆者に対する処遇としてはあまりにも甘すぎるのだ。
尋問にしても、胸部を抉られて肺を引きずり出されるぐらいの処置はされていてもおかしくない。
何が不死者たちを抑制しているのか聞きたかったが、それよりも気になっていることが、市長たるネレイスにはあった。
「いやしくも愚かな、このはしたない市民の発言を、どうか赦して下さい。私の統治していた都市は、どうなっていますか」ネレイスは目を伏せた。「恐ろしい病が蔓延しつつあったのです。あろうことか、総統閣下も見放されてしまわれた……。だから私は、先ほどお話しした通り、私の都市を救うために、全てを犠牲にしました。私の都市は、どうしていますか。私の市民たちは、苦しんでいませんか」
「……そんなことが本当に聞きたいのか? 他にいくらもで重要事項はあるぞ」
「都市へ帰還したいなどと、烏滸がましいことは願いません。ただ、知りたいのです。私の市民たちは、どうなっているのでしょうか……」
不死者は黙った。
装面しているせいで表情は分からないが、何か考え事をしているように見えた。
あるいは無線で他のウォッチャーズと相談しているのかも知れない。
彼は出し抜けに「……お前は拘禁中だ。記録螺旋の解析も終わった。だから、俺がお前を傷つけることはもうない。無意味だし、そう何度もやりたくない」と告げた。
「はい」不死者の前では自分を繕う必要はない。少女は曖昧に頷いた。「私も、痛くされるのは嫌です」
「そうだろう。何も望まなければ、裁定が下されるまで、お前は清潔な独房で、苦痛なく最後の時間までの短い猶予を過ごすことが出来る。総統閣下は、望まないのであれば傷つけるなと仰せだ」
「はい……」
「その温情を拒絶してでも、都市へ帰還したいか?」
「帰還、ですか」ネレイスは瞠目した。「帰還が、許されるのですか?」
「『ついで』だ。幾つか仕事をしてもらうことになるし、罪人は罪人だ、相応の立場になるが、最後に都市の有様を見ることぐらいは出来るだろう。……お前がこれ以上の苦痛を受容するというのならば、暫くの間、ある都市の収容所で、お前を拷問させてみようかという話が上から出ている。お嬢様育ちのお前にはストレスだろう。この選択は裁定に関与しない。痛みを感じる時間が増えるだけで、最後の処分は変わらないだろう。だから俺は推奨しない」
考えてみれば、そのときの不死者の提案は不自然極まるものだった。殆どプライベートでの会話のような色彩を帯びていたし、ネレイスに同情のような何かを示していた。
しかし帰還を仄めかされたことへの喜びの方が圧倒的に勝り、ネレイスは疑問を感じなかった。
拷問も、尊厳への攻撃も、領域外浄化チームでの経験を思えば、幾らでも順応可能だ。
ネレイスは一も二もなく了承した。
そしてこれといった説明も受けないまま名も知れぬ都市に連行され、収容所での現在に至るのだ。
担当の不死者も同じ収容所に滞在しているが、少女がみっともなく悲鳴を上げているのを眺めているだけで、全く状況に関与してこない。
会話すらしていない。何か聞きたい情報があるようには見えない。
話に聞いた『仕事』に関しての打ち合わせも無い。
何のために監禁されて拷問を受けているのか、未だにはっきりと分からなかった。
どれだけ記憶を掘り返しても不死者たちが欲しがりそうな情報など思いつかない。
収容所の一室で、拘束されたネレイスは「やはり私が知っていることでお前たちの役に立つことはなさそうだ」と告げた。
顔の見えない所長は嘆息し、それならば、と話を切り替えた。
「では、この都市の状況についてどう考える……? 個人的な興味だが、市長を自称するのであれば、何か意味のあることが言えるだろう。俺はどうにも最近、よくない予感がするんだ。まぁ、拷問されているだけの状況で、見えてくることがあるとも思えないがね」
「いや、大いにある。私の所見で良いなら教えよう」と首輪を鳴らしながらネレイスは頷く。
あるいは、そちらの情報の方が遙かに彼には重要だろう、と少女は考えた。
せめて、少しはこの疲れ果てた刑吏の役に立てば良いのだが。




