セクション3 試作型救世主 その1 名も知れぬ都市の檻(1)
その夜も同じだった。
夢の中でお前は、総統の所有する壮麗なるメサイアドールたちが運営する、光輝に満ちた都市の一つに招かれていた。
今回はFRFの全都市統一放送にも時折姿を現す天空后アスタルトの都市。多くの市民から敬愛を注がれている慈悲深く偉大なる不死者が直々に管理している箱庭だ。
彼女は総統に次ぐ権能を持つ特級の不死者であり、お前という少女が理想とする、憧れの市長だ。万人の責務を我が身に集めて、たった一人で万人の仕事を完遂する。
気象を自在に操作し無限の豊穣を実現する彼女の都市は、幾千万の市民の胃袋を満たすための巨大な農業プラントであり、多大な功績を挙げた極めて少数の市民だけが居住を認められる楽園だ。
ただ招かれるだけでも途方もない名誉である。
まさしく夢のような場所だった。お前は、永遠に少女であるお前が本当に少女だったときの気持ちを思い出しながらどこまでも視界が開けているその稀なる世界を楽しむ。アスタルトの都市は朽ち果てた輝かしき人類史を形あるものとして再生する工場でもある。青々とした葉とはち切れそうな茎を旗のように高く掲げる幾千幾万の穂の群れ。それがどこまでもどこまでも広がっていて高層建築物は悉く打ち払われており都市を区切る壁が遙か遠くに聳えているのが拡張視覚を使わなくとも見えるほどで、それより大きな物となるとFRF統括運営局が本部を構えている<塔>の天を突く巨影だけだった。
お前は未成熟な己の乳房に手を押し当て、心臓が跳ねるの確かめて楽しむ。不純物の存在しない新鮮な空気で肺腑を膨らませては、嬉しくて微笑んでしまう。それというのも自然と呼べる風景が他のクヌーズオーエから完璧に絶滅しているせいで息をしているだけで堪らない悦びがあるからだ。お前はこれほど多くの変異していない安全な植物は見たことが無い。お前は現実にこれを見たことが無い……。
お前は振り返って娘を、目を輝かせている五人の麗しい娘たちを眺める。想像も付かないような絶景に陶然としている彼女たちが愛しくてたまらず一人一人に口づけして回る。見たまえあれがおまえたちの大好きな黄色いお菓子にも使われているトウモロコシという穀物の穂だよ。実際は味気ない配給糧食にも相当量含まれているのだが娘たちを喜ばせてやりたくてとびきりのご馳走の名前を挙げたのだ。夕食ではもっと良い物が振る舞われるだろうとお前が告げると五人の娘たちは溢れてしまった喜びを睦まじく分かち合った。お前は五人の少女騎士を心から愛していた。今回は五人しか連れて来れなかったが、他の娘たちも、いずれは……とお前は空想する。
娘たちだけではない。他の市民、お前という少女を市長と崇める無力な生命資源たちも……。
過分な夢かもしれない。だが夢ならば幾らでも秘めて育てられる。
いつかは、いつかは自分も、都市を救いたい。
市民たちに幸せな暮らしを与えてやりたい。
次の明日のために、お前はこの世とは思えない景色を心の中に切り取って収める……違う。
現実は違う。違ってしまった。
全ては欺瞞だ。
娘たちは幸せそうに笑っている……
「母様、あの馬みたいな生命資源は何なんでしょうか。もしかして、あれが人造ではない本当の馬なのかしら? 猫もいるの?」
「あれが本当の馬だよ、ニノセ。ここは本物の自然が生きている都市だ。探せばきっとどこかに猫もいるはずだ。私は動物に興味がないから、猫を見てもそれとは分からないだろうが」
……お前が間違えた。
「母様ぁ、サードも、ここでは生物災害防止の器具をつけなくて良いんだねぇ。首やお腹の爆弾も外してくれたし、とっても嬉しいよぉ。エンブリオ・ギアも快適そうだよぉ」
「生命資源の密度が少ないから生命災害の危険がないんだよ。そもそも、実の娘に爆弾を着けるのが本来おかしい。ずっとこうしてやりたかった。思えばサードには辛い目に合わせてばかりだったな」
……お前が罪を犯した。
「ねぇ母様、ここでは好きな人と好きなように暮らしても罪にならないというのは、真実なんでしょうか。ここから他所の都市に出荷されることは基本的に無いと本で読みました。そんな都市があり得るんですか?」
「フィーア、アスタルト様は愛に満ちたお方だ。雨風に雷雨まで操る深遠なる力で以って、管下の生命資源には溢れんばかりの憐みを与えてくださる。市民を道具にするなどあり得ない。おまえは好きな相手と結ばれなさい」
……お前が現実にここを訪れたことは無い。
「母様、母様ー……じゃあ、市民を爆殺したり毒殺したり、そんなこともしなくいいのー? 騙し討ちにしたり、スラムに火をつけたり……犯罪率にとかも気にしなくていいのー?」
「貧困がどこにある? アド・ワーカーの発生する余地があるように見えるか? フンフ、おまえは優しい子だ。困っている市民がいたら助けてやりなさい。おまえは暗殺よりもそちらの方がよほど得意なのだから」
……お前が招かれるなど絶対に有り得ない。
「母様。ボクみたいな未熟な兵士が、それも純血ではない市民が、この地に足を踏み入れて、良かったんでしょうか? アスタルト様の不興を買ったりはしませんか……?」
「リクドー、おまえも、実の娘でないからといって、そんなに萎縮しながら生きる必要はないんだ。私より強いのだから、堂々としなさい。おまえにだって、もちろんここに来る資格がある……」
……お前は理解している。
「おまえたちにはみんな、ここに来る権利がある」
……お前は嘘をついている。
「私はずっとここに皆を連れて来たかった」
……お前はこの都市に来たことがない。
「だが、おまえたちは、私の愛しい少女騎士たちは、もう私の傍にはいない……この都市に招かれることも、永遠にない……」
……だって、おまえたちは、私が殺してしまった。
お前は五人の娘の微笑から目を逸らす。
手を伸ばせば抱きしめられるだろう。
この夢の中で、たったそれだけのことが、恐ろしくて出来ない。
どこかで銃声が聞こえた。
それを合図にして、いつものように少女は目覚めた。
即座に覚醒して、自身の生命資源としてのコンディションを確かめる。
彼女は打ちっぱなしのコンクリートの床、粗末なマットレスの上に打ち捨てられた自分自身を認識する。
周囲の環境を確かめる……何も見えない。何も見えはしない。光源と呼べるものは格子窓から潜り込んでくる天体、目蓋の無い白濁した眼球のような真っ白な月だけでそれが目には見えない大きな腕となって少女期で成長を止めた彼女の肉体を無遠慮に鷲掴みにし、かと思えば崩れて蛆の群れとなり肌を抉り肉を穿ち強引に体温を引き剥がしていく。少女は寒気を認識して震える。何も見えない。何も見えはしない……。
「明かせ」のコマンドで、言詞回路が起動。強化視覚が働き始める。
白痴の月が照らす先には、罅割れたコンクリートの壁と、鎖された扉しかない。震える呼吸音だけが、何も無い部屋に響いている……。
少女は自由を奪われて横たわる自分の肉体を見つける。
ぼさぼさの黒い髪をマットレスに広げたまま、その娘の目は、月明かりを映さない。疲労は濃い黒となり彼女の虚ろな瞳の周囲を重く凝り固めていた。
微睡みから追い落とされれば冷気が彼女を苛む。昼間に痛めつけられた体躯が強張り、蹴飛ばされたように咳を吐く。
ただ身を捩ることさえ難しい。それというのも彼女は薄い布地の拘束着によって両腕を後ろ手に結ばれているからで、首輪と壁の金具を繋いでいるリードは短く、満足に寝返りを打つことも出来ない。首を絞められている時と同じように、裸の脚で藻掻いて、床を蹴る。足の爪がまた剥がれた。
薄く煙る闇の中で、どうにかして上体を起こすと、何もつけていない尻をマットレスに預け、少しでも息の楽な姿勢を探す。
そうしている間にも銃声らしき破裂音が続く。
どこかで誰かが撃ち合いをしている。
それは幾度かの応酬の後、いつものように、ぱったりと絶えた。
戦火が迫っているのかもしれないが少女は先ほど見た夢のことばかり考えていた。ニノセ、サード、フィーア、フンフ、リクドー。五人の息遣いや声、肉体の熱がすぐ傍にあるように感じられるのに体は寒さに震えている。
少女は、娘たちを軍刀で切り分けた時の感触を思い出して嘔吐しそうになった。中々胸のつかえを排出出来ない。固形の食料など、昨日の朝、わずかに食べたきりだ。
嫌な臭いのする胃液を吐くと、少女は少しだけ落ち着いた。見てはいけない夢を見たことの罪悪感。拘束着のある部位も、肌が剥き出しの部位も、汗をかいたせいで余計にびしょびしょで、冷えて痛む。
「……せめて静かに撃ち合いをしてほしいものだ」喉の粘つきを咳払いで晴らす。「まったく文明的では無い。夜間の武力衝突においては減音器の装着がマナーだと知らないのか? 私の都市ならこんな無作法は許さなかった」
しかし、眠って逃避の夢を見るのと、起きて苦痛を味わうのとではどちらが良いのだろう。彼女には判断が付かない。あるいは、こうして叩き起こされる方が、まだ健全ではないのか。
監禁と拷問が始まって三十日が経つ。
己の娘を殺して一人で生還した少女は、名前も知らぬ都市の収容所で刑吏に囲まれ、苦痛と汚濁に沈められている。
ただ、実際のところ、少女の精神は三日目には状況に適応していた。
銃撃戦ともなれば、間違いなく誰かが死んだはずで、あるいは、この収容所に攻撃を企んでいる勢力がいるのかもしれない。虐殺主義的破壊行動者たちの蜂起という可能性もあるが、少女は然して興味を覚えない。
習慣で目覚めただけだ。
目覚めてもどうしようもないのだが、と節々が痛む体で自嘲する。
頼りにする軍刀も、一般的な小銃も、もう手元には無い。体液の乾きで体が痒みを発しても、腕が動かせないので、耐えるしか無い。そんな惨めな境遇だ。
彼女はどこまでも虜囚だった。
布地はところどころが動かしやすいように切り取られており、肌色の部位が多い。
それに反して腕部だけは執拗に固められている。まさしく虜囚の装いだ。
月光に淡く肢体を浮かばせた肉体は、見た目通りの年齢ではなかった。愛玩されるのでなければ蹂躙されるばかりの、美的性質を重視したような雌性の生命資源だが、収められた人格は血を吸って獰猛に成長している。
英雄フェネキアに所有権を買い取られた状態で浄化チームに参加し、年齢固定処置を受け、この肉体を無限に続く都市へと投じてきた。
長じては特別製の生命資源の製造を対価に自分自身を買い戻し、母たる前市長から都市を継いで、手ずから鍛えた少女騎士たちを引き連れて、他都市への侵攻を繰り返してきた。
そんな彼女は、銃声が聞こえれば自然と目を醒ます。肉体に刻み込まれた回路がそのように導く。例え自由を奪われ、蹂躙されるだけの身分に堕とされたとしても、本当に少女だった短い期間を除いて、彼女は常に戦士だった。
現在とて、戦士としての機能が根本から失われたわけではない。
前市長から受け継いだ身体特性、自然に浄化される永遠に艶やかな肌の下では、支配機構<ウォッチャーズ>から与えられた強化筋腱が待機状態にあり、肉体の損壊は避けられないにせよ、力尽くで拘束を解くことも可能だ。
「でも逃げ出したところで看守や刑吏を何人か殺したところで終わりだろう……」などと考える。
果てしない拷問に晒されていながら、彼女の思考能力は少しも淀んでいない。
思考能力を環境から切り離す技巧を、どこで身につけたのか。初恋の相手であったギヨタンに裏切られた時だろうか。あるいは英雄フェネキアの愛人として、地獄のような鏡像都市を駆け回っていた時だろうか。初期に製造した生命資源たちを撤退戦で捨て駒として死なせた時だろうか……?
いずれにせよ苦痛に満ちた記憶は強固な鉄杭となって彼女の内奥に食い込み、出血を強いながら、その精神を歪な形で支えている。
少女は――少女期で成長を止めた、齢百三〇年を超える長命者、フェイク・ユーロピアの市長たるネレイス五〇七号は、肉体の困憊に反して、酷く冷静に、客観的に状況を認識していた。
「今はこの立場に甘んじるべきだ。何の意味がある拷問なのか分からないが、ウォッチャーズの判断に逆らうべきではない。私はそれだけのことをしたのだからだ……」
それに、あの不死者は約束してくれた。最後には自分の都市の現状を見せてくれると。
そう結論づけて、足をはしたなく開いた姿勢のまま、座って眠ることに決めた。横になる方が回復の効率は良いが、リードを繋がれた首が痛まない位置を探すのも億劫だからだ。マットレスの異臭もどうにも気になる。
拷問から解放された直後は横になれれはそれで満足してしまうのだが、回復するとさすがに耐え難い。
意識を手放そうと考えると同時に、言詞回路が起動。
交感神経が働いて、彼女の脳髄から脳内麻薬を取り除く。
やがて睡魔が彼女の細い首を揺らし始める。
平時は安定している精神も、眠りの世界に踏み込む段になると弱気が染み出してくる。呼吸音だけが闇に響くようになると、それはますます明瞭な形で少女の心臓に不安を差し込んでくる。
全身が痛む。昼間から夜中まで、散々に痛めつけられた今に至る。私の娘たちなら屈辱と恐怖で泣いてしまっていたかもしれないな、と眠りかけている少女は空想する。愛と期待を注いで作り上げた五人の輝かしい少女騎士。彼女が殺してしまった娘たち。
そして、もはや生きてはいない娘たち……不死者となったニノセとリクドーのことを想う。
きっと、もう二度と会えないだろう。
曖昧な眠りの淵で、少女は、しかし祈らずにはいられない。身勝手だと知っていても、何という恥知らずの母だと己を罵りながら、ネレイスは祈り続ける。
どうか幸せになりますように、と。
並大抵の生命資源ならば、係累の平穏など一瞬たりとも脳裏をよぎらないだろう。ネレイスのおかれている状況は、平易に過酷だ。
独房に閉じ込められた彼女には、毛布の一枚すら与えられていないが、独房の外ではさらに酷い。拘束着すら常に着用しているわけではない。日が昇っている間は尋問官たちに転がされ、踏みにじられ、恫喝され、尋問され、苦痛と屈辱を注がれ続ける。ありとあらゆる権利を侵害されて過ごす。
最低限度人間らしい衛生状態でいられるのは、朝の身体清掃の直後だけであり、その清掃にしたところで、結局はネレイスから尊厳を奪い去るために実行されていた。洗浄は毎朝処刑場で行われる。彼らは処刑場を清掃するための吐水器官の試運転のついでに、ネレイスの細い体に、肌が裂けるような勢いで吹き出す水を浴びせた。酷いときには前日処刑された罪人の残骸や、血で汚れた処刑具や拷問器具と一緒だ。
拘束器具に固定された彼女は猛烈な水流に潰されそうになりながら、機材清掃用のブラシを素肌に当てられて、汚れを暴力的に擦り落とされる。清潔でいられることの喜びより痛みの方が遙かに大きい。
その後は濡れた体に鞭を打たれながら愛玩動物用の給餌皿の前につくばって、栄養ペレットを食べる。新しい、あるいは汚れたままの拘束着を着せられて、収容所のどこかに移送される。
休む間もなくその日の尋問が、尋問とは名ばかりの、終わらない虐待が始まる……。
市長としての生活を思えばこれだけでも十分に耐え難い扱いだったが、ところがネレイスは全く正気を保っていた。
都市へと帰還する前後のことを思えば、むしろ虜囚として振る舞う現在の方が落ち着いているほどだ。
権利を侵害されるのは無論苦痛だが、浄化チームの一員だった頃は、いっそ上官たちから似たような暴行を受けていた。前市長の指揮下で市民軍を率いて戦っていた時とて常勝無敗というわけではなく、何度か捕虜としての凄惨な生活を経験している。
この収容所では生命に影響が出ない類の拷問は大抵実行されていたが、それ以外はまるで手ぬるい。ネレイス相手にそこまでの拷問を行うことが許されていないせいだ。身体部位の物理的破壊や、顔面や生殖機能への執拗な破壊といったオーソドックスな手段すら取られていない。昼夜を通して行われる類の難儀な責め苦は、最初の数日はあったが、リソースの問題からネレイスに対しては実施されていなくなった。
拷問を受け続けてはいるが、ネレイスは極度に衰弱すること神経症になることも無かった。眠っている時、もう叶わない願いを夢の形で見てしまうことが、唯一苦しい。
現在は、夜間は丸々休息と自己再生促進の時間として使うことが出来た。
ネレイスの意識がついに途切れる。各種の拘束で著しく自由を奪われた状態で、しかし、静かに、落ち着いた寝息を立て始めている。
不自由な状態で眠るのも慣れたものだ。疲労は蓄積しているが、裂傷や骨折程度なら睡眠中に自然治癒する。現に、昼間の暴行の痕跡は、既に傷という形ではネレイスに残されていなかった。
眠りの中で、二度と帰れない日の夢と、永遠に叶わない夢の幻影を見る。
目元が濡れる。彼女は悲しみと後悔で息を詰まらせながら眠り続ける。
がちゃがちゃ、と鍵を開ける耳障りな音が聞こえた。
目を覚ます。何時だろう、鉄格子を見上げるが、月までは覗けない。
まだ夜ではある。
独房から引き摺り出され刑場に向かう時刻で無いのは確実だった。
「……一体何だ。またぞろ鬱憤晴らしか」
思い至って、少女は気怠げに呟く。
刑吏たちもネレイスに生命資源を製造させることは出来ないと勘付いているだろうが、かといってネレイスという極上の純粋雌性体を無視することも出来ない。
ネレイスの生命を仮にも管理している彼らには、一面的にはネレイスを自由にする権限がある。特に若い刑吏たちは己らの衝動に屈しがちだった。
昼間の拷問の苛烈さに比べれば欠伸が出るような行いだが、休息を妨げられるのは純粋に不快である。
しかし、また娘たちのことを思う。犯した罪の重さを思う。それと向き合うぐらいなら、外側から苦痛を注ぎ込まれていた方がまだ良い、と少女は乾いた嗤いを嗤う。
総統に背き、都市を裏切り、娘たちを失い、何の成果も出せないまま逃げ帰ってきたのだ。
己の愚かさと対面させられるよりは、暴力を振るわれ、痛みと生理的な恐怖感で身を竦ませている時の方が、実を言えば楽だ。
それにしても、夜中に独房の鍵を開けられるなど、何日ぶりかわからない。近頃は誰も彼も疲れきっているように見えた。
先ほどの銃声もそうだが、この都市を巡る治安情勢は急激に悪化しているようだった。収容所全体の稼働率も三十日の間で加速度的に上昇している。
拷問も虜囚の管理も、楽な仕事ではない。ネレイスに熱を浮かせていた若い看守たちにしても、業務外ではもう、どうにか休息するので手一杯だろう。
扉を潜ってくる人物に視線を向けていると、意外な声がした。
「起きていたのか」と壮年の純粋雄性体だ。「何となく、起きているんだろう、という気はしていた」
収容所の所長だった。
日中の拷問では顔を見ることもあるが、他の看守や刑吏と違って、これまでに私用で独房にまでやってきたことは一度も無い。もっとも、鉄格子の月光は彼の顔を照らさず、ネレイスの目には項垂れた彼の胸から下だけが曖昧な影として映るのみで、そもそも首など存在しないように見えた。
まるで死者と話しているような心地になって、ネレイスは名状し難い不安感を覚える。
「……立場あるものが、何の用だ。若い衆の真似をしてくだらないことがしたいのなら、手短に済ませてくれ。私はまだ寝ていたい」
「余裕、のようだな。タフな雌性体だ。そんな造花人形みたいな顔と体で、市長かつ戦士だと、本気で主張してるのか? おまけに浄化チーム出身だって?」
「何度もそう言っているだろう。赦しを請うように、媚びるように、哀願するように、ねだるように。一通りの言い方で何千回と『同じ話』をしている。おまえたちの仕事を円滑に回すためにな。報告書にも目を通していないのか? 私はおまえたちの要求に対して誠実でいる」
拷問、拷問、拷問、拷問。収監されて以来、彼女が苦痛に晒されていない瞬間は存在しなかった。刑吏たちは彼女を最も程度の低い生命資源同然に扱った。自由な時間は一切無い。自由な身体部位は一つもない。排泄すら自由では無い。彼らは嘲り、怒り狂い、時に慈悲深さを見せながら、少女を熱心に拷問し、同じことを何度も問い糾す。『お前は何故都市を裏切ったのか? 都市の外側で何をしたのか?』。彼女は毎日同じ証言を繰り返す。自分は都市に背いて呪われた肉なしと交わった愚かな淫売なのだと言い続ける。同じ告解を繰り返す……。
だが彼らは決して満足しない。少女の肉体が発する言葉をそもそも聞いていない。嬲り尽して貶め、尊厳を剥ぎ取ること事態が目的だからだと、ネレイスには思えた。
「私をいたぶるのが目的で、供述には興味がないのだろう?」
「こう何日もいたぶるのが楽しいものか。仕事だぞ? まぁ嫌いだとも言わないが」所長は首を振った。「あんたの供述は何度も聞いたが肝心なところがまるで分からない。というよりは、俺らには何をどう判断して、情報をどう処理すれば良いのか、見当が付かない。それでそろそろ一つ、あんたに業務外で尋ねてみるべきだろうと思って、こうしてやってきたわけだ。……この都市も悪くなる一方だが、最近は輪を掛けて騒がしくなってきた。収容所としてもこの厄介な案件からいい加減解放されたい」
ネレイスは思わず眉を潜めた。「この収容所は公営だろう。善き市民は都市の指示に従い、その通りに行動するべきだ。しかも今回は都市の更に上層、ウォッチャーズの不死者の指図によるもの。それに疑義を挟むというのはあまりにも罪深い。囚人に対して欲望をぶつける方がまだ健全だぞ、市民。どうしても倦怠感が取れないなら、解消に協力してやらなくもない。おまえたちは、捕虜に対しては規定の範囲内ならどのような行為をしても許されるのだからな」
「御免被る。まったく、大したタマだよ、何でそんな上から目線で刑吏を唆せるんだ? まぁあんたみたいな優秀な雌性体から生命資源が得られるなら魅力的だ。部下もあんたには随分夢中にになっていたそうだしな。だが……俺から言わせれば、あんたみたいな手合いに手を出すのは危険すぎる。自称通りの戦士だというのならな。そんな可愛らしい細身でも、顎の力だけで相手の腕を食いちぎってしまうし、腰から下が自由なら、相手の首やら腰やらをあっという間に破砕してしまう。そういうもんだろう」
「よく知っているな」どれもネレイスには実際にやった経験がある。浄化チーム出身者なら誰でも出来るだろう。
「前市長がクーデターで斃された後、馬鹿なやつらが捕虜にした雌性体兵士に手を出そうとして、そういう死に方をした。刹那的な快楽と決定的な死を秤にかけるほど愚かにはなれん」
「賢明な判断だ。私とて栄光ある総統閣下の写し身の末裔、これほど良質な雌性体をおまえたちのような階級の市民が好きに出来る機会は無いのだろうが、しかしおまえの部下たちには、辟易とさせられていた。私のこの、相手を飽きさせない美貌も考え物だな」
刑吏の長は「本当に大したタマだ。市長ってのも妄言じゃないのかもしれん」と肩を竦める。
「それにしたところで、おまえは部下のコントロールが出来ていないように見えるぞ、所長。この収容所も多忙になってきたようだが、部下たちに休養は与えているか? 良い管理者は良い部下を持つ。逆もまた然りだ」
惨めな姿を晒している虜囚に、逆に懇々と説教をされる状況が可笑しいのか、影は僅かに喉を鳴らした。昼間に見せる残虐性は見受けられない。
「真相は分からないが、あんたが異常に肝が据わってるのは分かってきたところだよ。とにかく今夜はそういう何の実も結ばない用事じゃない。一つ、どうしても、あんたに教えてほしいんだ」年古い刑吏は声を潜めた。「……いつまでもあんたの拷問をやっていられるほど、ここは暇じゃない。分かるだろう。そうなってきてる。反体制派の市民や犯罪者は増える一方だ。この部屋だって拘禁するだけならもっと入れられるからな、さっさと吐くこと吐いて、出て行って欲しいというのが本音だ」
「質問には誠実に答えているぞ。これ以上何を聞きたいというんだ?」
そうなんだろうな、と影の中で首肯する。信じられないが、あんたは嘘を吐いていないんだろう、と。
「しかし、どんな回答を得ても、拷問を観覧している不死者は納得してくれない! これは何故なんだ……? 俺にはもうどうすればいいのか分からない……毎日毎日毎日毎日犯罪者は増える。毎日毎日毎日毎日処罰や尋問についての書類が回ってくる、罪人は増える、被疑者はますます増える、それと平行してあんたの拷問も続けないといけない……やりたくやってるんじゃない、別にやらないといけない仕事でもない、だがやれと言われたからやってるんだ、こんなのはおかしいだろう? ここは下位クラス市民の犯罪者予備軍や反体制勢力をブチ込んで身の程を分からせて処分するための施設なのになんであんたみたいなのが放り込まれるんだ……?」
収容所の長は首を振った。疲れ切った彼の仕草は奇妙に間延びしている。あるいは雲間を突くような尖塔から長い長いロープに吊るされた死体がゆっくりと左右に振れている様に似ていた。しかし顔は尚も見えない……存在しない頭が存在しない喉から異物でも吐き出すようにして呻き声で問いかけてくる。
「この状況は異常だ。だってそうだろう? あんたは気が触れているのかもしれない。あんたの言ってることはどれも到底信じられないことばかりだ。聞いたことのない都市。聞いたことの無い市長の名前! だいたい、FRFの領域の外に出て生きて帰って来れるはずがないんだからな。でも確実にどこかの都市の長命者だ。生命資源としての質を知れば知るほどそこは疑えなくなる。だが政変が起きかけてる俺らの都市の出身者ではないし、そもそもここは長命者向けの施設ですらない……」
ネレイスは黙って頷く。普通、長命者を始めとする都市の支配クラスを捕えたなら、屈辱を与える以外の目的では、一般市民と同じような場所に拘禁しない。どのような力関係での交渉であれ、それは支配クラス同士で行うべきだ。支配クラスが中央政府に申請しなければ、そういった階級の生命資源からは生殖権すら奪取出来ないのだから。
「あんたの罪状は『都市への反逆』だな? なるほど、重大だな。でもそれなら全部ウォッチャーズに任せるべきだ。何故俺らがやらされてるんだ……? 俺らは率直に言ってあんたに纏わる何かの事件とは無関係だ。あんたはこの都市に滞在してる犯罪者で、不死者から直々に情報を聞き出せと命じられてる。不死者の命令は絶対だ。だから、ルールに則ってあんたを拷問しているが……逆に言えばそれ以上の理由が無い。肝心の聞き出すべき情報自体が俺らには見当も付かないわけだ。リソースに余裕があるうちは許容していたがもう無理だ。なぁ、これはどういうことなんだ。あんたを連れてきて、監視してる不死者にしたところで、最初に曖昧な指針を示したきり、だんまりだ。あんたの供述について報告しても、良いとも悪いとも言わない。自白螺子の使用も許さない。いったい何なんだ? 教えてくれ。俺らは、何が知りたくてあんたを拷問してるんだ……? これは拷問と言って良いのか? いつになったら、俺らはあんたを拷問することから解放される?」
ネレイスにもどう答えたものか分からない。百三十年の歳月を生きてきたが、加害する側が無力な虜囚に対して何を問えば良いのか懇願するなどという事態は一度も見たことが無いので、戸惑ってしまう。
言われるまでもなく不条理な状況だった。拘束されたままのその少女も、事態の歪さを身に染みて痛感している。
市長としての権限を制限され、身体的自由も無い。命を奪われることは無いにせよ、彼女は汚辱と苦痛を放り込むために設えられた屑籠にも等しい。その程度の罰では償えないほどの罪を犯した自覚がある。だから、少なくとも昼間は、刑吏に対して従順に振る舞い、問われたことに関しては、全てを話してきた。
だが現実には拷問を行う刑吏の側が追い詰められている。彼らは自分たちが何のためにこの得体の知れない長命者を拷問しているのか理解する立場に無い。
この都市は、どうにも終わりが近いように見えた。ネレイスの預かり知るところではないが、収容所からそう遠くないところで銃撃戦が起きるほど情勢が逼迫している。山ほどの被疑者、山ほどの罪人から情報と悲鳴を引き出し、死体の山にして排出する。
朝、ネレイスは『清掃』の拷問で激流のような吐水に押し潰されそうになりながら、処刑場が荒れ果てていく様を、しかと観察していた。
拷問される人間も処刑される人間も、まともな増加ペースではない。おそらく生粋の加虐嗜好の持ち主でも目を回すほどの忙しさだろう。
だというのに、問うべきことが存在しない、この都市には居ないはずの虜囚を責めることを、機械的に強要されている。こうなっては、どちらが主で、どちらが従なのか、その境界さえ曖昧になる。
あるいは彼女たちは局所的には運命共同体とさえ言えた。
「……私は不死者に連れられて、ここに来た。私が重罪人で、そして、他にも重大な嫌疑を掛けられているからだ。それだけのことだ……」
「ああ、分かってる。彼を歓待したのは俺らとその血族だからな。器官飛行船の不正使用と喪失は最悪の罪だ。解放軍の連中と接触を待ったというのもな。他に何かあるのか?」
「無い。そもそも、事件の一部始終が収録された機械甲冑の記録螺旋を、まさしくその不死者に渡している……。私のその時々のバイタルデータまで含めて全部丸裸にされた後だ。他に特別に供述出来ることは、もう殆どない」
「記録螺子を渡してる?」彼は闇の中で絶句していた。「それはおかしい。記録螺旋があるならそれで十分だろう。あの不死者は全てを知った上でさらに拷問しろと言っているのか? そんなことをして何になる。そういう性愛者だというならまだ飲み込めるが……拷問自体にはさして興味が無いようじゃないか、あの人は。何のために俺らに任務を……」
「ついでだ、と言われた」ネレイスは首のリードを鬱陶しく思いながら応えた。「市民未満の階級に堕とされることが、総統閣下による裁定が定まるまでの当面の罰なのだと思っていたが、どうも君たちを見ていると、そういうわけでもなさそうだな……」
実を言えば、秘密にしている情報が全くない、というわけでもない。
機械甲冑の記録螺旋は頭部装甲に存在し、仕様上、頭部装甲を外している間は電力供給が断たれて、記録が中断される。正規の手続きを踏まずに停止した場合は不具合が生じ、前後の記録まで一部が引き飛ぶ。
都市の外側、あの群れを成す解放軍の不死者の統率者に、顔を見せるよう命令された時には、記録螺子をどうにかする余裕がなかった。
そのため、実際には短時間ながら収録されていない部分があるのだ。
ネレイスは、この情報の取り扱いには慎重であろうと決めていた。何を見て何を聞いたのかは、不死者にも想像し得ないことだし、刑吏には間違っても話すようなことでも無い。
もしかすると、誰にも話さないまま生命資源として果てるのが最も良いのかもしれない。古い伝承に現れる『パンドラの箱』に似ている。開けば災厄が溢れ出すだろうが、同時に希望がそこには収められているのだ。
しかし……他に何か話してやれることはあるだろうか?
少女は拘束されて無防備な状態のまま、市長としての感性、年長者としての共感性を示し始めた。
この哀れな収容所の責任者に何か教えてやれるだろうか?
ネレイスは考える。
解放軍の不死者たちのもとから帰還し、この収容所に至るまでの経緯を、順繰りに思い返す……。




