セクション3 エンカウンター その⑦ 祭壇の羊、再誕と祝福(9)
痩せた野良犬のような矮躯。
十分に成熟しているとは言い難い、あばら骨の浮く薄い肉体。
装備は不全。纏う服さえありはしない。首輪を嵌められた姿は、拷問された虜囚、痛めつけられた少女以外の何者でもない。
しかし、その取るに足らぬ小さな拳が、超音速でベッド上の空間を切り裂いた。
リクドーの肉体の発育状況は、ミラーズよりは多少良い、という程度だ。
少女騎士を基盤とした人格記録がどれほど優秀であろうが、Tモデル不死病筐体と比肩する発展性を持っていようが、スチーム・ヘッドとしての経験値がない状態では、どのような要素もさほどの優位性を発揮しない。
形状を人間らしく誂えたがために、彼女はまだ、死なないだけの『少女』だ。改良型の人類であるFRF市民を不死病でさらに変異させ、それを人間らしい外観に編み直した変わり種ではあるにせよ、基本的な機能は、常に形状によって規定される。
見た目通りの出力しか発揮せず、対手を粉砕せしめるような尋常外の膂力など望み得ない。
仮に期待されたような暴力的な筋出力を発揮した場合でも、必殺の一撃は自身の肉体まで破壊する。定命の人間ならばそれを放った時点でまず己の骨が折れ砕け、肉が飛散し、それ以前の状態には二度と戻れないだろう。
そうした常識を捻じ伏せる機能が、破壊的抗戦機動だ。
肉体を恒常性に従って再生させるという不死病の性質を悪用したこの特殊機能は、身体組織を意図的に崩壊・再結合させることで、尋常外の速度と力を引き出すことを可能ならしめる。低倍率でも筋出力は跳ね上がり、矮小な肉体の拳打にすら、一流の格闘家であっても回避困難な速度と、大型肉食獣すら怯ませるほどの破壊力が宿る。代償としての自己破壊は、相応の再生能力強化によって踏み倒される。
オーバードライブ状態で放った拳は、全身全霊で振り抜かれた刃にも等しい。そして『蒸気抜刀』は原則としてオーバードライブを基点とする特殊な戦闘技能なのだ。蒸気に映じた意識が、自壊する己の肉体を鞘とし、存在しない刃を発生させる抜刀術。
遠ざかる目的地、求める勝利へと近付くための真摯なる自己破壊。
不死なる者のための、祈りの如き武道である。
「死んじゃえええええええっ!」
命中即死。
豹変したシーラの拳には、過剰なまでの殺傷能力が備わっている。
反動は大きいだろう。インパクトの瞬間に、腕部構造体は崩壊し、伝播した衝撃が他の部位まで壊してしまうかもしれない。だが過剰に活性化された恒常性が、瞬間的にそれらを修復するはずだ。
オーバードライブ機能の有無は、不死病患者の質を凌駕する。
どれほど筋骨隆々で戦闘経験が豊富な肉体を使っていても、オーバードライブに対応していなければ、戦闘用スチーム・ヘッドとしては成り立たない。少なくとも、超一流の機体が通常戦力として運用されているクヌーズオーエ解放軍ではそうだ。不朽の鎧を胸にするだけなら、砕けぬ刃を構えるだけなら、そんなものは自由意志なき不死病患者にも出来る。軍神の速度を纏う機体だけが戦闘用なのだ。
逆に言えば、オーバードライブさえ可能なら、未熟な機体であってもその戦列に加わることが出来る。
この時点でシーラは真なる一流の兵士と轡を並べる資格を得ていた。
加速の倍率は非常に低い部類だったが、茶色い髪の痩せた娘は、確実に一次元上の機体として覚醒を遂げたのだ。
「シーラ……!」
リーンズィが倍率を合わせ、感極まって声を漏らしたのも束の間。
「おそい!」
にべもなく呟いたケットシーが、振るわれた拳をごく当たり前のようにバターナイフで突き刺した。
一瞬だった。
シーラの拳よりさらに速い。
二度、三度と赤熱したバターナイフが踊る。
情緒も何も無かった。無慈悲な迎撃である。
「あうっ!? いっ、いっ……痛ったぁ!?」
シーラは苦鳴を吐いてオーバードライブを解除してしまった。
びっくりしてオーバードライブを解除したのはリーンズィも同じだ。
「ケットシー……どうして刺したのだ。どうして? 今のは素直に殴られる流れだと感じたのだけど」
「そ、そうだよぉ! ううう、またリクちゃんの体を傷つけてぇ……!」」慌てて拳を引っ込めたシーラが傷を補修しながら泣きそうな声を出す。「サードも、当てられると思ったのにぃ!」
ケットシーは涼しい顔でバターナイフを指先に乗せ、それを狂ったコンパスの針のようにくるくると回した。
「そんな甘い考えじゃこの業界でやっていけない。いい? 人生は筋書きの無いドラマだから時として台本を裏切るんだよ……? びっくり要素があった方が視聴率も上がる。サプライズ攻撃だね」
「サプライズ。嬉しい要素が何も無いのにサプライズ」リーンズィは理性を発揮した。「違うのでは?」
「ウォッチャーズの治安維持広報部隊みたいな理不尽なこと言わないでよぉ! だいたい、痛いのはもうナシって言ってたでしょ、サードもお腹の中で聞いてたんだからぁ!」
「だってほんとに遅いんだもん」ケットシーは無表情に言った。「やり返したいなら、もっともっと速く動いて。それとも痩せっぽちのリクちゃんの肉体は動かしにくい?」
「馬鹿にするな! もうコツは分かったもん、いくよぉ……蒸気抜刀『疾風』! お願い、リクちゃん!」
『起動コード受諾。オーバードライブ、起動します』
一時的に支援AIへとシフトしたシーラが復唱する。
『……ボク、オーバードライブって言わなかった? これ疾風じゃないの? あれっ? ボクどうなってるの? これどういう状態!?』
「ちょっと黙ってて! 後でちゃんと可愛がってあげるからぁ!」
『ほんとっ? えへへ、楽しみ……えへへじゃないよ! 何この悲しい一人芝居! ボクの声じゃん! 喋ってるのボクだよね? なんかサード姉様みたいな喋り方してるけど。あれっ……声出せないんだけど! ボクどこでどうやって喋ってるのかな!? それに、喋れないんだとしたら、ボクはどうやってボクの声でボクとして喋ってるの!?』
無論、電波を使い、無声で喋っているのである。
機能を発揮しつつ器用に困惑するシーラを無視して、彼女の肉体は先ほどを上回る加速での連続攻撃を敢行。
目にもとまらぬ速度で乱打する。
通常のスチーム・ヘッド同士の戦闘であれば勝敗を決する攻撃だが、ケットシーはほぼ同速でこれらを迎撃した。
シーラの拳は届かず、ただ赤熱した刃で裂かれるばかりだ。
血みどろのシーツを新たな血飛沫が濡らす。
痛みに耐えられないらしく、「ぎっ、ううううっ」と呻き、シーラは動きを止めてしまった。
今度は辛うじてオーバードライブを維持している。体内から這い出た糸状繊維組織がせっせと傷口を埋めていくのを、痛そうな顔をしながら薄目で確認しつつ、まなじりに涙を浮かべた。
「もーっ。サードと同じ速度で動かないでよぉ」
「いちおう、シーラちゃんより遅く動いてるんだけど……。もしかして運動音痴の人?」ケットシーは気の毒そうな顔をした。「さっきまでは遅くてもキレがあったのに。えっと、人を殴るときの力の入れ方って、分かる? こうやって、こう……パンチするにしても重心の移動を意識して、全身を捻るように……まっすぐに……拳を。やってみて?」
「……ぱ、パンチなんて出せなくても生きていけるんだからぁ!」
「そうですね。生きてはいけますね。暴力を使うなんて最低です」ミラーズが遠い目をして笑った。「そうよ。真理だわ。何であたしカタナ振り回すようになったのかしら……」
「何故なのだろう」リーンズィは素知らぬ顔をした。
ぜんぶヴォイドが悪いのだった。
『待ちなよ、いくら師匠でも姉様を虐めるなら許さないよっ! サード姉様がそんな細かく機敏に動けるわけないじゃないかっ!』首輪型人工脳髄からリクドーが素早く反論した。『上手なのは生体甲冑の使い方とかであって、反射神経とかは全然ダメなんだから! ……あっ、これボクの体動かしてのサード姉様なの!? ボクどうなってるの!?』
「リクちゃん、擁護してくれるのは嬉しいけど、サード、ちょっと傷ついちゃったなぁ……」
「そう言えばブランクエリアで打ち合ったときもサードちゃんだけ動き鈍かったね。ごめんね、攻撃するのやめる。出来ない子をからかうのは、ヒナとしても気が咎める」
「ああっもうまた馬鹿にしてるぅ! 二人とも酷いよぉ!」
リーンズィは拡張視覚に表示された加速度計を確認する。
大凡三倍速のオーバードライブだ。
大した速度では無いが、これを維持出来ているのだから、大きな進歩なのは違いない。
しかし、リーンズィの目にも、シーラの動きは、サードが起動する以前より悪く映った。
速度はあるのに、全ての動作がおそろしく鈍いのだ。
必死に攻撃しているのは伝わってくるのだが、打撃にしたところで、フォームが猫パンチも同然だった。オーバードライブに慣れた機体であれば、通常状態でも簡単に捌けてしまうだろう。
しゅばばばば、と繰り出されるひょろひょろの連撃を、ブレザー服の葬兵は最低限度の動作で回避する。それにも飽きたのかベッドを軋ませながら曲芸じみた回避を披露。致死の猫パンチを恐れもせず「ギシギシいう音、なんか興奮してこない? パブロフのワンちゃんにならない?」などと、誘惑するようなそうでもないようなことを口走る。
「えいっ、えいえいっ、えいっ! 避けるのやめて! 素直に叩かれてほしいなぁ!」
「ふふふ。全力だけど、全力じゃないでしょ。ヒナは詳しいから見抜いてる。手からたまに糸出してるよね。へたっぴの打撃と見せかけて、接触点からさっきのうねうねをヒナの体内に侵入させて、神経系をハックするのが狙い」
「……な、なんで分かるのぉ?」
「だって、パンチがまずダメだから。パンチがへたっぴな人はだいたい全部ダメだよ? 演技とかもダメ。お情けで当たってほしい、というお願いをする演技をしてる。どうせ当てたいなら、ぱんつとか見せて視線誘導したら? あっほとんど裸だから無理だね。ごめんね?」
「ダメとか言うなぁ! あとリクちゃんの裸をじろじろ見ないでよぉ!」
リーンズィにもそれまで気付かなかったが、ケットシーの指摘通り、シーラの傷口には繊維質の触手群が見え隠れしている。
かなり高度な隠蔽だ。統合支援AIにポイントされてようやく視認出来る。
ただ闇雲に猫パンチを繰り返していたわけではなく、シーラの肉体を乗っ取ったように、彼女はケットシーの肉体までも支配下におこうとしていた。そういうことだろう
合理的な判断だし、冷静な戦術の組み立てだ。運動性で劣るなら、他で勝れば良いだけのこと。一時的にでも相手の運動能力を奪えば、あとの選択肢は無限大だ。硬質化した触手を『生体人工脳髄』とでもいうべきデバイスに変形させ、行動不能な相手の頭蓋に捻じ込む。そんな大胆な作戦も現実味を持つだろう。
サードはあまり強硬に戦う人格ではないようだったが、しかし、したたかに勝ち筋を探っていく程度の意識は持ち合わせているようだ。
「相手の体を乗っ取ろうとするのは、うねうねが大好きなヘンタイ科学者さんにはありがちな発想。猫さんの騎士にも、そんな感じののっぽさんがいたね。あれ何だったの? 舞台装置? 予算が潤沢な時だけ出てくるのかな……かなり大がかりだったよね。でもそもそも、そんなぐらいじゃヒナの恒常性は汚せないから、諦めてね? サードちゃんは賢いらしいから、通じないって薄々気付いてるよね? それともヒナの体がほしい? リクちゃんの体じゃ満足できなくなっちゃった? ヒナは自分のスタイルの良さには自信があるけど。ねぇ、サードちゃん?」
「気安くサードの名前を呼ばないで! あと、目論見はその通りだけど、うねうね大好きヘンタイ科学者とか、そういうこと言うなぁー! 誘惑もしてこないで! サードはね、恋愛経験が殆ど無いんだよっ!」シーラはやけになって言い返した。
『そうだっ、ボクが初めての恋愛の相手だしっ! おまえ、サード姉様を淫乱マッドサイエンティストみたいに言わないでよっ! 実験と愛玩で死なせてしまった生命資源のために、自費でいちいちお墓を作るぐらい慈愛に満ちた人なんだからっ!』
「リクちゃん、他に擁護の仕方あるでしょ? 慈愛に満ちてるような印象ないよ、それぇ……」
その間にも攻撃を続ける。
どれだけ威勢良く拳を繰り出しても、動きはリーンズィでも簡単に回避出来そうなぐらいに粗雑だ。オーバードライブ倍率は緩やかに上昇しつつあるが、バッテリー残量の減少速度もまた緩やかだ。この時点で頭打ちの感があった。
ケットシーの筋書きでは、無事に攻撃が成立して教練は終わりという予定だったのだろう。
シーラの現状は、それを期待させるだけのコンディションではある。奇怪な繊維組織が後頭部から脳髄へ侵入しているのを除けば、現在のシーラの肉体には損傷が存在しない。オーバードライブとエンブリオ・ギアが片端から傷を修復したためだ。
本来なら万全の状態から鋭い攻撃を連発出来るだろう。
だというのに、動きが鈍くなっている。
これはさすがにケットシーにも予想外の結果だったのではないか。
リーンズィがユイシスに照会した限りでは、オーバードライブに生命管制が追いついておらず、神経の情報伝達やガス交換が上手くいっていないようだった。エンブリオ・ギアという異物を受け入れるので、リクドーの肉体が過負荷に喘いでいるというのが現状だ。
ただし、動作の精度が極端に劣化しているのは、まず間違いなく不死病筐体を操る擬似人格が格闘戦に不慣れだからだと考えているのが妥当だった。不慣れと言うよりは、生来的に向いていないように見える。いっそ動きが不自然な程だ。
リーンズィもあまり詳しいわけでは無いが、FRFの『少女騎士』というのは、ここまで戦闘能力で劣っていてもなれるものなのだろうか?
とうとうシーラは苦しげに喘ぎ始めた。
「はうあぁぁぁ……つ、疲れる、きついよぉ……ごめんね、リクちゃん、苦しい思いさせて……はぁ……はぁ……で、でも、この泥棒猫がリクちゃんを辱めるなら……サードは諦めないよぉ……!」
『サード姉様……ボクのために、そこまで……』陶然として、リクドーが存在しない肺から溜息を吐く。『姉様。心ゆくまでボクを使って。姉様の喜びが、ボクの喜びなんだからっ」
「分かった。分かりましたので、やめて」葬兵は手を突き出した。「ガッツはあるね。ガッツがあるのは良いこと。うん、じゃあまぁ、いっか。美しい姉妹愛に感動したということにして切り上げてあげる。とりあえず、成ったね。倍率は……三から四ぐらい? しょっぱいけど、今度こそ終わりでいいよ。それでサードちゃん。妹さんの体はどう。大好きな妹さんの体、好きに使えて、嬉しかったりするの?」
「ぜぇ……はぁ……そんなの、教えないよぉ? リクちゃんはサードだけのものだから」
『ど、どうなの、サード姉様……ボクの体、どう?』
「お、教えられない」シーラは襤褸切れが張り付いただけの裸身を触りながら、頬を恋の色に染めた。「それは、他の人が見てる前じゃ、伝えきれないかなぁ……」
「姉妹仲良し水入らず。それで、サードちゃん。どんなに嬉しくても、『疾風』を続けてると体に負担がかかるし、すぐに解除した方が良いと思う。ヒナと同モデルの首輪だったら、サードちゃんもリクちゃんも、そろそろ充電が赤色でピコピコのはず」
「……どうせまた不意打ちするんでしょ? 充電がどうのこうのって、油断させようとしたって、その手には、乗らないんだからぁ……!」
『サード姉様、ブラフじゃないと思いますっ』首輪型人工脳髄がアラートを発する。『バッテリーが危ないのは本当っ、いいようになぶられてばかりだったから、ろくに充電もしてませんっ』
「蒸気抜刀『疾風』の反動は、ヒナは平気だけど他の人にはキツいやつだよ。その道のプロからは、早く解除してしまうのがオススメ。それとも、妹さんの体で、滝のように血のおしっこがしたいの? すごい趣味……ヒナには分からない」
「う、ううう……!」シーラは怒りと羞恥でさらに顔を赤くした。「そ、そんな趣味ないよぉ! でも散々リクちゃんで遊び倒したおまえみたいなやつは、信用出来ないんだものぉ……」
「シーラ。いや、サード。君の名前はサードだな? サード。よく聞いてほしい」
リーンズィが寄り添って、耳元で優しく呼びかける。
意識外からの呼気が刺激になったのか、血濡れの痩せ犬は、シーツを掴んでぴくりと反応した。
「オーバードライブは、身体組織を崩壊させることで出力を引き出す危険な機能。君たちがどう管制しても、解除直後には反動で内臓がずたずたになって、損壊した組織は下血や喀血の形で体外へと排出される。スチーム・ヘッドなら日常で、さほど恥ずかしくも無い姿。だが、経験の浅い君たちにとっては、あまり晒したくない醜態だろう。力は示された。もう十分。早めに切り上げた方が良いのではないか。ないの」
『……このオーバードライブっていうの、そんな不自由な機能なの?』
「それはあたしから説明するわね」金色の髪の天使がシーラの手を触りながら微笑む。「えっと、リクドー? シーラ? どちらにどう話しかければ良いのかしら……」ミラーズはシーラと首輪型人工脳髄を交互に見た。「私も元々はオーバードライブを使えなかったので共感出来ます。使った後は単純に物凄く全身が痛くなりますし、見た目も、ちょっと恥ずかしい感じになるわ。痛さだけで言うなら全身滅多刺しとあまり変わりません」
『え、嘘でしょ!? 結局ボクたち痛い思いするのっ?!』
「しますね。ぜったいします。経験上、倍率と使っていた時間に比例してあちこち痛くなるし、失禁や吐血も長くなる。尿道だけじゃ無くて、はしたないから言葉に出来ないようなところから、とにかくありとあらゆる場所から出血します。そんなの嫌ですよね?」
『い、嫌です。痛いのも恥ずかしいのも、苦しいのも今日はもうやだ……いや、だけど……』首輪型人工脳髄がランプを忙しなく点滅させる。『ね、姉様、どうしよう、どうしたら良いですか』
「……分かった。リクちゃんが可哀相だし、モナちゃんズに従うよぉ」言われながら、リーンズィは「モナちゃんズ!?」と復唱したくなるのに堪えた。「でも、そうすると、たぶん、体が倒れちゃうからぁ……せめて、骨なしでは信頼出来るおまえに受け止めてほしいなぁ。そこの肉切り女の腕には、リクちゃんを預けたくないし……。それに、なんか、そのままやらしいことしてきそうだよね、あの人ってぇ……視線の向け方がやらしいもん……」
「心外。ヒナもそこまで節操なしじゃないよ。ちゃんと時間帯は考えてアプローチしてるもん。どういう風にカメラに写ってるときが綺麗かなって考えてるだけ」
嘘であった。実際、節操なしであった。
リーンズィはシーラの考えが正しいと判断して何度も頷く。
おそらく極大の負荷に晒されていた擬似人格たちは記録していないのだろうが、彼女が懸念している事態は、ユイシスのログを見る限り、既に何回も発生していた。幾つかは公衆の面前で行われている。
当人らが記憶していなくて本当に良かった。リーンズィは悟られぬように胸を撫で下ろした。
牽制の意志を込めてケットシーに視線を送ると、ブレザー姿の可憐な少女が「それ睨んでるの? 誘ってるの? 可愛いけど……? シーラちゃんに構い過ぎて嫉妬しちゃった?」と首を傾げてきた。リーンズィは若干のショックを受けた。
ライトブラウンの髪の、少しばかり背が高いだけの幼いスチーム・ヘッドは、人を威圧するのにめっぽう不慣れであった。
気を取り直して、咳払いを一つ。
「……とにかく大丈夫。後は私が守るから。おやすみ。シーラ。リクドーと、リクドーのお姉さん」
囁いてから、リーンズィはミラーズから教わった動作を実行する。
発汗を開始したシーラの、濡れた茶色い髪を掻き分ける。
啄むように口づけをする。首筋、首輪型人工脳髄に溜まった汗と血を、指で拭う。
シーラの目が潤むのを、精一杯の真摯さで見つめ続ける。
体の緊張が解けてしまうまで、生身の右手で、シーラの体を、なぞるように撫で続ける。
その体温に安心したのか、飢えた犬のように目をぎらつかせていたシーラは、体を硬直させた。
後頭部から脳髄に潜っていた繊維群が、突入孔から髄液を垂らしながら頭蓋の外へ這い出る。
触手の形態を取っていた糸状組織群はバラバラにほどけて、体内へと引き込まれていった。
「サードちゃんも納得してくれたね、おつかれさま。ヒナは、あなたたち、最新の葬兵である『シーラ』の、蒸気抜刀『疾風』皆伝を認めます」
ケットシーは仕事を成し遂げた顔で頷いていたが、別に皆伝ではなかった。
蒸気抜刀でもなかった。
定型では無いが、ただの機械式オーバードライブだ。
リーンズィがそのことを詳細に説明したものか迷っていると、ケットシーは軽やかに身を翻してベッドの下を漁り始めた。
そこから引きずり出されるのは、多種多様な不朽結晶製の刀剣や、相変わらず趣味的な色彩の強いコスチュームの数々。「正式装備、どれがいいかな……」と楽しそうな声が聞こえてくる。
猫妖精なりに、弟子へご褒美を用意していたということだろうか。
それにしても賠償と言うことで差し押さえられ、方々に売り払われた装備品が、何故彼女の手元に戻ってきているのか。
リーンズィは深く考えないことにした。
ケットシーのプレゼントを待たずに、少年のような美貌が機械的に言葉を紡ぐ。
「……追加人格記録媒体の離脱を確認。パラレルメディアモード解除。一時的に全擬似人格の演算を中断します」
シーラの肉体が脱力する。ライトブラウンの髪の少女は素早く背後に回り、倒れそうになった痩せた裸身を、可能な限り優しく受け止めて、柔らかく支えた。
そのまま自分もベッドに上がった。
己の聖詠服の下の釦を外し、露出した膝を枕にして、そこにシーラの頭を乗せてやる。
それから、髪を、頬を、首筋を、触れるか触れないかの力で撫でる。新鮮な不死の香りが鼻孔をくすぐるのを楽しみながら、ベッドの傍でごそごそとしているケットシーに視線を向け、彼女を躱したり背中を踏んだりつついたりしているミラーズに頼んで、衣服の切れを何枚か拾ってもらった。
程なくして、痩せ細った少女の肉体は痙攣を始めた。オーバードライブの反動だ。至る所から液状化した体組織の排出が始まった。リーンズィは布きれで覆ってそれを隠し、甘噛みするような加減した出力で首輪型人工脳髄へ給電しつつ、彼女の偽りの構造体のコントロールを行い、恒常性が安定して再生が進行するのを促進させた。
出血が止まると、かつてミラーズに撫でてもらったときのことを思い出しながら、親猫が子猫を舐めるときの愛情を以て、丹念に血液を拭っていった。ただし下半身はミラーズに任せた。彼女の手つきの方がずっと優しく、繊細な身体組織を傷つけることとは無縁だ。
かつてマザーと呼び慕われたそのスチーム・ヘッドは、相手の肉体を安心させることに慣れている。吹き込まれた鎮静の聖句との相乗効果で、痛みは随分と和らげられただろう。
不死の血を拭い清めると、ライトブラウンの髪の少女は戦闘の燠火を熱として残すシーラの肉体を抱きあげ、華奢な裸身の骨張った感触に甘い疼痛を覚えつつ、そっと囁く。
「シーラ。いや、リクドー。君はもう、完成した。さあ、目覚めなさい」
「あ、う……?」起動コードを入力されたシーラは薄く目を開いた。「……夢を、見ていたような……サード姉様みたいな声が聞こえてて……ふわふわしてる、あちこち痛い……ボク、『疾風』、使えた? ねぇ……えっと……誰だっけ……?」
枕にしていたリーンズィの太股に触り、身を起こし、抱きつくようにしながら、甘えるような声で、ぼうとした言葉を連ねてくる。
最愛の姉たるサードへの態度設定が、リーンズィに対しても適応されているような感触があった。
不明な記録媒体の挿入、表層人格の支援AI化といった推奨外動作を重ねたための不整合が出ているようだ。
数分前の出来事が擬似人格上で不整合を起こし、意識を混濁させているのだ。
リーンズィは彼女の態度を敢えては否定しない。
彼女が愛に飢えているのは本当だと感じた。
アルファⅡモナルキアの意志決定の主体として、あらん限りの愛情を注ぎ込むことに決めた。
抱き起こしたリクドーの肉体と視線を真っ直ぐに合わせ、接吻する。
「見事に使っていたよ。正確には、君では無くて、君に宿るサードが、それを成した。君たちは本当によく頑張った」
「……サード姉様、じゃ、ないっ! お前は、アルファⅡモナルキアっ……」
「確かに姉様ではない。でも、我々は同じアルファⅡモナルキアだし、私の方が早くにそうなったのだから、ある意味では私は君のお姉さんでもある」
シーラは何か言い返そうとしたが、「もちろん君の愛するネレイスの子供たちとは違う。本当の姉妹ではないし、サードの代わりでも当然無い。そんなものは存在しないだろう。でも、私だって、君のことが大切なのだ。大切なの。まだ上手には振る舞えないけれど」とリーンズィが額を合わせながら言葉を重ねると、恥ずかしそうに視線を下げた。
「……蒸気抜刀、の話だよね。……えっと、気のせいかな、首から肉がばりばり剥離してたような……頭蓋骨削られるみたいな音も……。あれ、リーンズィ、さ……リーンズィは……いま、サード姉様のこと、言った……?」
「うん。言った。君のお姉さんのことを言った」
リーンズィは表情を整えた。退廃と潔癖の入り交じる顔を、可能な限り柔和に緩める。レアが時折自分に見せてくれるはにかむ顔を真似たのだ。
それからシーラの腹、サードの死骸から相当数の臓器を移植した、その滑らかな肌を撫でた。
「彼女は、君を救うために、無事に目覚めた。その意識は複製品ではあるだろうけど、サードは間違いなく君のお姉さんとして、君の傍に戻ってきた……初回起動の手続きは終わったのだな。終わったの」
「姉様が……エンブリオ・ギアが、起動したんだね。そうだ、思い出したっ。姉様が、助けてくれたんだ」茶色い髪の痩せた少女は、頬を赤らめて、リーンズィの手と重ねるようにして、己の裸の腹を愛しそうに撫でた。「良かったぁ……姉様、良かったよう……。あっ! あの、姉様ってどこから出てきたの? ……どうなんだろ、お腹とか、お臍とか、違うところとか突き破ったりしてた?」
ベッドの下から気紛れな猫のようにケットシーが顔を出した。
「そうそう。それなんだけど、ずっとお腹の方に『違う気配』が固まってたから、刻むついでにそれを全身に運んでおいたよ? エンブリオ・ギアってあのウネウネなんでしょ? あの、なんか成長した菌糸みたいな見た目になるあれ。あれを頭部以外の全ての場所に飛ばしたから、目覚めたサードちゃんはもうダイレクトに肉体を改造出来るはず。実際、サードちゃんっぽいウネウネは色んな傷口からニョロニョロしてたし。これはヒナのお手柄。誉めても良いよ? たくさん誉めて。ヒナは誉められて育つタイプ」
発言から一秒でケットシーの支援機ユンカースから「当機からのお願い:さすがにこれ以上は甘やかさないでください」というメッセージが届いた。
功罪あるが、リーンズィはヒナの誉められたいアピールを黙殺することにした。
「……師匠ってどうやってそういうの見透してるの? もしかして人体とか透けて見えるのっ?」
「匂いとか、熱の分布とか。リズちゃんとかも探知してたはずだし、そんなすごいやつじゃない。シーラちゃんもそのうち修得出来る。今シーズンの後継者枠だからたぶん出来る」
「そうなんだっ……やっぱり解放軍の不死者ってすごい」
「……そう。すごいのだった」
リーンズィは曖昧に首肯する。
熱源解析はアルファⅡモナルキアには標準で備わっている機構だが、ケットシーには、外観上それらしい装備が無い。支援機のユンカースに情報を転送して代理解析させている可能性もあるが、彼女の場合は、これも天性の異能なのではないかと思われた。
どこまで生前から人間離れしていたのだろう。
病床にいなければどれほどの仕事を成し遂げていたのか、分かったものでは無い。死んで傀儡の兵士になって一つの共同体を滅ぼすのと、どちらがより良い未来だったのかは、不明ではあるにせよ。
ミラーズはと言えば、「言われてみれば、おなかのところだけ、弾力とか温かさとか、筋肉の付き具合とか違う気がするわね……」などと考え込みながら、骨と筋肉の浮く兵士の儚い肉体を無遠慮に撫で回し、シーラがくすぐったそうに声を漏らすのを楽しんでいた。
数百人、数千人、あるいはそれ以上の体熱を知るミラーズは、肉体の経験に由来する繊細な指感覚で、どうにも異常を検知出来ているようだ。
リーンズィは、そうした肉体経験すら、特定の人物としか無い。
シーラの異変も、重外燃機関に搭載されている総体、あるいは統合支援AIに参照をかけて、ようやく兆候らしきものが分かるレベルだ。
他の機体に出来ることが、出来ない。それを恥ずかしいとは思わない。アルファⅡモナルキアは一機だけで完結する機体だが、意志決定の主体と認められたリーンズィは、そうではない。
彼女だけは、端末たちの力を借りるのが正しいのだ。
ヴォイドがミラーズのような『補佐役』を設けてくれた意図が、リーンズィには少しずつ分かり始めていた。
正直なところ、変異した肉体に対して無理矢理に再編をかけた都合上、そこまで元通りに繕えているか、リーンズィには自信が無かった。シーラという機体は見た目通りの不死病患者ではないし、ミラーズのようなエコーヘッドとも厳密には異なる。
他の端末が『リクドー由来の部位と、サード由来の部位』を個別に検出してくれて、むしろ安心していた。
取り繕えたのは、見た目だけ。
元に戻せたのは、形だけ。
だが、どれだけ上手に繕っても、それは他の不死病患者の様態とは決定的に異なる。
何せリクドーの肉体は不死病のステージ2へ進んでおり、別段そこから快復したわけでは無いのだから。リーンズィは形を編み直した過ぎない。
形状が機能を規定するとは言え、機能まで正確に退行させることに成功しているなら、僥倖であろう。
「それにしても可愛らしい体なのに何故だか胸は結構あるのね……」
「ミラーズ……ミラーズさんっ……ボクはサード姉様のモノだからっ」
控えめな声で必死に抗弁するシーラを微笑ましそうに眺めながら、ミラーズは「愛する者がいるというのは、とても良いことです。ハレルヤハ」と素直に彼女を解放した。
「は、肌感覚は不死になってから鈍い感じがするのに、他はあまり変わらないんだねっ……でも、そっか。フェイク・ユーロピアから出るとき、姉様から鎧株を分けて貰った時点で、その、大事な内臓の幾つかと癒着しちゃうって聞いてたし……生体装甲の展開も、そういう感じだったから、ちょっと怖かったんだけど……見た目が酷くなったり、生殖機能がなくなったりはしなさそうで、安心した」
「ええ。とっても綺麗な体ですよ」と金色の髪の乙女が接吻する。
シーラは躊躇いがちにそれを受け入れた。苦痛を伴う試練から解放され、美しいスヴィトスラーフ聖歌隊の乙女の注ぎ込む聖句に狂わされ、アルファⅡモナルキアに隷属することの安心感を受容しつつあるのかもしれない。
シーラが慣れていくのは良いことなのだが、リーンズィはシーラの発言にひりつくような焦りを覚えた。
「……待ってほしい、あの、生殖機能の件だが。落ち着いてきいてほしい。不死病が発現した時点で、もう通常の手段で生殖は出来ないのだ。出来ないの。ごめんなさい。そうした説明をしていなかった……生命主義を掲げる君たちにはとてもショックだと思うが……君の遺伝特性を持つ人間を新しく産むことは、もう、不可能だ……」
「……それぐらい知ってるよっ。ウォッチャーズの不死者だって、基本はそうだったんだから。そのう、ボクが言ってるのは……ね? 誰かと愛し合うとか、あの……そういうことに纏わる話だから。株を寄生させていただけのサード姉様ですら、かなり難しい状態だったわけだし」
記憶を読み出しながら、シーラは寂しそうな目をした。
そういった日常の記憶もちゃんと残っているのだな、とリーンズィは頷く。
首輪型人工脳髄に収録されている『リクドー』としての行動履歴は、決して完璧なものではない。
人格記録の転写自体は上手くいった。肺と心臓を損傷したリクドーの肉体は苦痛を和らげるために脳内麻薬を放出し、記憶野を活性化させて、通常では有り得ない深度で過去の記憶を想起させていた。俗に走馬燈と呼ばれる現象だが、本人が苦しいことを無視すれば、電気的な情報を転写するには非常に都合が良い。
さらにアルファⅡモナルキアは変異を実行させる直前には首輪から脊椎神経を通し生体脳へと電子パルス攻撃を実行。脳細胞をバーストさせて、破壊的に記憶情報を抜き取っている。リクドーはこの時脳を焼損して死亡し、リーンズィの与えた不死病因子で蘇生した形だ。
文字通り死ぬほどの苦痛があったはずだが、苦痛を知覚する前に死んだはずなので、あらゆる意味で何も覚えてはいまい。
ともあれ、白紙の記録媒体には、短期記憶だけではない濃厚な人格情報が転写出来た。
「エンブリオ・ギアを寄生させて臓器を組み替えられた時点で、ボクも、姉様たちも……生命資源製造どころか、リラクゼーションのために触れあうことさえ出来なくなるって、覚悟してたよ。だから、形だけでも機能が残ってるなら、良い方かなっ」
やはり、かなり高い次元で擬似人格が成立している。記憶の抽出は上々だ。
本格的な形式の人格記録媒体作成は、専用の設備で生体脳を慎重に解体しながら実行される。精度も深度もアルファⅡモナルキアの行うそれとは比較にならない。首輪型人工脳髄の人格複製はあくまでも簡易的なもので、どうしても情報の取りこぼしが出てしまうのだ。
ミラーズへと造り替えられたキジールがそうであったように、リクドーの擬似人格もまた、極端に不安定化してしまう虞はあった。
幸いなことに、茶色い髪をした、少年のように精悍な美しいこの少女は、ケットシーに虐待されて発狂した時を除き、一定の水準で安定性を維持している。
リーンズィは自分の仕事に改めて満足した。
知らない機能を多用する大変な作業だったが、シーラはかなり『普通のスチーム・ヘッド』らしく仕上がっていた。
自分の作成した機体がちゃんと動いていることへの感動と、よく見るとやっぱり綺麗系かつ可愛い顔でレアせんぱいに似ているし体格もミラーズみたいで魅力的だという欲動、健気で良い子なので大事にしてあげたいという気持ちが芽生え、それぞれ混じり合い、リーンズィは今までに経験の無い独特の愛着を覚えた。
ミラーズと一緒になって、小柄な裸身を挟み込むようにして抱き、頬を寄せ、ロングキャットグッドナイトの猫に対してするように二人で頭を撫で回す。
「ちょ、やめっ、あうう……お前たちっ、ボクを玩具扱いするなっ」などと言い返すシーラは、言葉とは裏腹に心地よさそうにしていた。
甘え上手なのだな、とリーンズィはミラーズと一緒になってさらにシーラを可愛がった。
最新の『姉妹機』の肌を味わいながら、ミラーズが問いかける。
「ねぇシーラ、臓器の組み替えって、それって、痛くなかったのですか? サード様という方は、昔からそういうことがお上手だったのかしら」
「……姉様は生命科学の権威なんだ」上気した顔でシーラは答える。「ボクは何て言うか、姉様を受け入れるのには慣れてたし……あと、寄生させるときは、神経とか脳とか弄くってもらったから……電気で筋肉も弛緩させて……後は別に、痛くはなかった。成長した生体装甲を展開するときは、その……伝承通り、お腹から股間までを裂いて強引に装甲が這い出てきたから、さすがに気絶しそうになったけど……」
凄絶な光景をリーンズィは空想する。
伝承通り、という部分がいたたまれない。
そうなると知っていて、少女騎士たちは、生きた鎧に身を預けたのだ。
「あっ、そうだ。リーンズィ。……リーンズィ、さん」何か思いついた様子で呼びかけ、リーンズィを上目遣いで見て、身動ぎする。「……えっと、リーンズィ姉様の方が良い……? 良いですか?」
「リーンズィ姉様!?」
リーンズィはやや興奮して復唱した。
レアせんぱいも自分と接している時もこうした高揚感を得ているのだろうかと分析しつつ、体を疼かせる情愛を宥める。
「たぶん私の方が稼動時間も短いし、姉様と呼ぶ必要は無い。君は、今は君のお姉さんを大事にするべきなのだな。リーンズィで大丈夫だ」
ミラーズも「その通りですよ」とシーラの頭を撫でる。
「ありがとう。じゃあ、えっと、リーンズィさん。……今のエンブリオ・ギアって、姉様って、外側に出てきたんだよね。どんな感じだったのかなっ」
「お腹を裂くような、すごいことにはなっていなかった。こう、うねうねとした繊維が傷口から出て……。覚えていないかもしれないけど、腕や首からもエンブリオ・ギアらしきものが発生していた。でもそれはかなり穏当な形での発現だ。傷口を塞ぐために動いているように見えた」
「良かった。姉様を感じるには毎回痛い思いしないといけないのかなって不安で……これは雰囲気でそうなんじゃないかなって分析してるんだけど、たぶんボクと姉様は同時には目覚められないんだよね?」
「おそらく」とリーンズィは肯定する。サードのエンブリオ・ギアは通常の人工脳髄や人格記録媒体とはかなり仕様が異なる。ミラーズとシィーが短期間していたような、肉体の主導権を分かち合う『二人乗り』の状態には出来ないはずだ。
「手とか斬ったら、姉様が出てくるんだよねっ。お腹裂かなくて良いなら、うん、良かった! まぁエンブリオ・ギアを展開したときよりベッドの下のあの刃物持った女にめちゃくちゃされたときの方が確実に痛かったけど……」
「よく頑張りましたね、シーラ。辛いところがあれば、痛みを取り除いてあげますからね」
聖母の微笑みを浮かべるミラーズに、シーラは眉根を下げ、人なつっこそうな笑みを返した。
「はい、あの、えっと、もうどこも痛くはないです。ミラーズさんの手、……あったかくて気持ち良いし……痛いのもとんでいくみたいっ」
押されれば強硬に反応し、絆されれば簡単に媚笑が出る。凄烈な戦士の相と弄ばれる年少者の面影が入り交じる、そんな二面性のある性格なのだろう。戦士の面が剥落したときのシーラは、凜とした顔立ちはそのままに、どこか気弱そうな雰囲気を醸し出す。何とも庇護欲をそそる少女だった。
ミラーズは後続機としても女性としても彼女を大層気に入ったらしく、裸の痩せた体、筋肉が痛んで痙攣している部位を撫で始め、治癒促進の聖句を耳元で唱える。
エンブリオ・ギアを内包する薄い腹を重点的に温めるその手を、シーラは拒まない。目つきは陶然としていて、心まで許しているように見える。金色の髪の、堕落した聖女の纏う、他者を包み込むような温かい気配、そしてレーゲントとしての対人メンテナンス能力に、飲まれてしまったらしい。
そもそもが、ミラーズの聖句、そして生来の美しい声音に抗うのは至難である。
アルファⅡモナルキア総体の操作まで加われば意識など簡単に蕩かされてしまう。
そのうちシーラは「まま……ママ……なの……?」と、ここには存在しない母を幻視し始めていた。
「『ママ』で思い出した。シーラちゃん、シーラちゃん」
ベッドの下で未だにゴソゴソしていたケットシーが顔を出した。
「聞くの忘れてた。ギアの制御核ってデフォルトだとどの辺にあるの? 子宮とかその辺り? 弟子のパーツ構成は知っておきたいし、教えて」
「……人が良い気持ちになってるのに、師匠にはデリカシーがないのかなっ! それに、そういうこと、あんまり大きい声で言わないでっ。生命資源製造に使う大事なところの話は、全部プライバシー案件だよっ!」
我に返ったシーラは赤面しながら大声を出した。
自分を挟み込んでいるリーンズィとミラーズの間からするりと抜け出して、ベッド下を覗き込み、不機嫌そうにケットシーと目線を合わせる。
「シーラちゃん、それで、どこなの? 違う場所?」
「……まぁ、そう、その辺だよっ。厳密には、もっと広汎な器官が、制御核維持のために転換されちゃうらしいけど。それがどうかし……」
「隙ありっ」
ベッド下から飛び出したケットシー。
彼女がノーモーションで手元から投擲したバターナイフが、音もなくシーラの下腹部に突き刺さった。
刃先は滑らかな肌を裂き、吸い込まれるように、出血する時間さえ与えずに、体内へ滑り込み。
……金属塊が粉砕されるような鈍い音が、血濡れの部屋に響いた。




