セクション3 エンカウンター その⑦ 祭壇の羊、再誕と祝福(8)
ケットシーの言葉には、心臓に訴えかける奇妙な熱が籠もっていた。
「そこまで仲間たちのことを真剣に考えていたのだな。いたの。立派な人だったのだな。また変なことを言っている、とか思って、本当にごめんなさい……反省します……」
感情を揺さぶられたリーンズィはいつものように何の根拠も無くうっかり信じてしまいそうになった。
無言でミラーズに手を触れられて、危ういところで踏み留まる。
> きらきらしているからといって、素敵に思えたからと言って、簡単に飛びついてはいけませんよ。
幾度となく行動の指針としてきたミラーズの忠告がようやくリフレインする。
ライトブラウンの髪の少女の脳髄が辛うじて正常に働いて、際限ないケットシーへの愛情が霧散した。
冷静な擬似人格が思考を取り繕う。好意的に解釈するなら、ケットシーの行いは、全ては非力なリクドーを『葬兵』シーラへと作り変えるための試練だった、ということだろうか。
それにしても、ケットシーが葬兵という肩書に執着を見せるのは稀なことだった。
陶磁の人形めいた生気の無い容貌に、よく言えばミステリアス、悪く言えば無思慮な表情を浮かべながら気ままに歩き回り、口を開ければ妄言か、無闇な挑発が飛び出す。そのせいで、彼女は自分が世界の中心にいて、そこで目立てれば他はどうでも良いのだと、リーンズィは認識してきた。
しかし、それは彼女の葬兵としての自認を見落としていたがために生じた偏見だ。
自分の活躍以外は何も重視していないという見立ては、きっと誤りなのだろう。
「職業意識が強い人だったのだな……」葬兵時代はもっと正常な思考判断があったのか。ケットシーの仲間だったという機体は、ユンカースを除いてこの地に存在しない。あるいは、この世界には。
ヒナ・ツジ。ケットシーは、リーンズィの幼い感性では、とっても困った人だった。現在でも、うわべにおいてさえ、正常に意思疎通が出来ている確証が持てないままだ。
臆病なレアよりも遙かに社交的なのに、ある意味で究極的に尊大で、誰と折り合うことも望んでいないし、自分が見ているものと他人が見ているものが違うかもしれない、などということは思いもしない。彼女は異常だった。現実を生きていない。たまたま会話が可能なだけの異世界人のように思える。
世界についての真実をどこに求めるかにも左右されるが、ケットシーについては、彼女の考えていること、目に映る景色といったすべては、現実を材料にして作られた代替世界だ。
ケットシーは空想世界の囚われ人なのだ。
そうだとしても、葬兵ブランケット・ストレイシープの長きに渡る戦いと、現実に築いてきた死体の山は、本物であった。
東アジアの経済共同体において、貧弱な装備で悪性変異体と戦い続けた武装集団、『葬兵』。
治安維持のために不死病患者を、感染が疑われるものを、狩る者たち。
慈悲深き眠りを与えて回る、彼らと同じ病に冒されし執行者たち。ケットシーはそれら東洋の不死の軍団において、頂点に立つ存在だった。詳細については、肝心の当人が虚とも実とも知れないふわふわとした言葉を連ねるばかりだが、彼女の支援機であるユンカースは多くの情報を提供してくれた。
戦歴は歪んでいたが誇張されておらず、ケットシーが真に偉大な戦士だということは明らかだった。
とてもそうは見えない、とリーンズィは思う。今現在は「過去フォーム」とやらであるらしいブレザーで肌を隠しているが、<首斬り兎>としての本領を発揮した彼女はとても戦士の服装ではない。臍部を隠さぬ煽情的な海兵服を纏い、裾の短いスカートから死蝋の如き不吉に滑らかな素肌を晒し、切断と殺戮を舞踏に仕立てて披露し、血を口紅とする。戦士と言うよりは悪い夢だ。
この娘は、存在自体が虚構じみている。
リーンズィがケットシーから想像するのは、レアと肩を並べて観ていたアクション映画のスーパー・ヒロインだ。前線部隊を指揮する現実的な軍属ではない。
だがケットシーは現実の兵士であり、指揮官だったのだ。名実ともに葬兵という組織を統括する象徴的立場であると同時に、幾人もの新兵を育てていた。情報提供元のユンカースは主人を讃えすぎるきらいのある支援AIだったが、贔屓目を差し引いても、その経歴に疑問は無い。
「安心して。ヒナはたくさんの男の子や女の子を葬兵にしてきた。数日までスチーム・ヘッドなんかじゃなかった、あなたみたいな娘だって、葬兵として育てた。みんな、政治犯や危険分子から徴発されてきた、ほんの少し『道』が見えてるだけの、可哀そうな子たち。大半は一回目の戦闘で心が壊れて、使い物にならなくなっちゃったけど……それでも正気のままで戦い続けた子も、ちゃんといた。シーラちゃんは運が良い。ここはね、ヒナのいた東アジアと違って、条件の良いところだよ。まず、使える武器がたくさんある。鉄砲も好きに撃って良いし」普通、最初に使う武器は銃の方が良いもんね、と暗い目で呟く。「変異体も素直な形状ばかり。頼りになる仲間もいっぱいる。ふふ、仲間だけじゃないよ。ヒナの感じるところによると、シーラちゃんの暮らしていた場所よりも、解放軍はずっと楽しい。たぶんシーラちゃんが許されていなかったことも、解放軍では自由に出来る」
ケットシーはバターナイフを後ろ手に回し、スカートをひらりとなびかせて振り返る。
ミラーズに近寄って片腕を伸ばし、小さな彼女を有無を言わさず引き寄せて、それからじゃれつくように柔く抱擁をした。
不思議そうな顔するミラーズの金色の髪にキスを一つ。それから少し身を屈めて、翡翠の瞳と視線を合わせる。意を汲んだミラーズは溜息をつき、両腕を黒髪の戦乙女の首に回して、自分から唇を重ねた。
呆気に取られるライトブラウンの髪の少女の前で二人は交歓を続けた。
そのうちケットシーの方から身を離し、満足げにぺろりと唇を舐め、今度はリーンズィに近寄ってきた。
「ど、どうして今そんなことを……?」
「リズちゃんリズちゃん。ほら、いっしょに仲よくしよ」
「え。何故……?」
疑問は尽きないが、間近で見ると黒髪の狂戦士の蒼褪めた肌は、身震いがするほど美しい。使用している肉体が疼くのに任せてケットシーの抱擁に応じ、不朽結晶繊維越しに彼女の体温を楽しみ、求められるがままに何度か接吻した。
それでもリーンズィには意図が読めない。
「シーラのため? これをシーラに見せて何か意味が……?」
ケットシーが耳打ちする。
「いっぱい殺してインタビューしてるうちに分かった。あの子の出身地にはたぶん、愛し合う相手を選ぶ自由がない……だから見せつけるの」
「うん、そう、私もFRFの市民階級は抑圧されているのではないか、という感じがした……というかコルトからそう聞いた……」首筋を触られるのがくすぐったくて、心地よい。「……でも聞くところによると『市長』と『少女騎士』は支配者層だったのでは」
「違う。例外はないの。自由恋愛の概念はあるみたいだけど、恋愛は恋愛、生殖は生殖。ぜんぜん別なの。誰とどこで交配してどんな人間をどれだけ作るか、だいたい全部お役所に決められてたみたい。ヒナとリズちゃんみたいに、公然と身も心も愛し合える人は殆どいなかった……心で愛し合っても、体では自由にこんなに楽しいことが出来なかったの」
熱心に求めてくるので、リーンズィの吐息も熱くなる。だがリーンズィは辛うじて正気を保っていた。
「楽しいこと。楽しいことか。ふむむ。楽しいのは楽しい。ケットシーは、良い匂いがする。かわいい。私よりも柔らかい。……でも君と私が恋愛関係にあるのは外形上のことで別に心は愛し合ってはいない」
リーンズィは照れながらも真顔で言った。
基本的にケットシーは一方的に恋人のように振る舞っているだけで、リーンズィと明確な交わりは持っていない。こうして触れ合うことに抵抗が無いにせよ。
ケットシーはからかうように言い返す。
「でもリズちゃんは、ヒナのこと好きだよね。こんな風に互いを知り合えるぐらいには。心臓をどきどきさせるぐらいには。それとも、本当は、ヒナのこときらい……?」
「ケットシーのことは好き」リーンズィは求愛に応え、薄く汗をかくケットシーの髪をそっと撫でて、額に唇を寄せる。「君が私を好きなのと同じ程度には、私は君が好きだと思う」
「待って、な、何なの。どういう会話? 何この熱気と匂い……み、みんな何してるの……? まさか……」
朧げな視界と音、そして強まる不死病の芳香で察したリクドーの戸惑いの声には、恥じらいと、明らかな恐れの感情が宿っていた。
「い、命知らずなのかなっ、ここは市庁舎の個室じゃないんだよ!? 私的生殖権行使の許可証無しで生命資源製造に準ずる行為をするのは、重罪だっ! しかも複数でそんなことするなんて、アド・ワーカーと見做されても、反論できないよっ。も、もしも人口動態調整センターの刑吏にこのことが知れたら、こ、拘束されて、拷問されて、権利を剥奪されて、せ、精神が壊れるまでずっと……あっ……」出し抜けに語気から恐怖感が失われる。「そっか、ここは、もうボクたちの都市じゃなくて……」
「シーラちゃんは気づいた。正しい。ここは、もうあなたの都市じゃない。あなたを束縛してた都市じゃないんだよ?」
リーンズィから名残惜しそうに身を離し、今度はシーラと向き合う。
「解放軍では、誰も、誰かが誰かと愛し合うことを、禁止してない。兵士たちは仲間たちと静かに語らい、造花人形ではない『レーゲント』たちは、毎日楽しく歌を歌って、誰しもが好きな人と寄り添って、そうでなければ孤独を選んで、自由に暮らしてる。許可証なんてどこにいても必要ない。ヒナみたいな戦士でも、リズちゃんみたいな偉い人でも、みんな、みんな同じ。もちろん、そこら中に監視の目はあるし」ケットシーの虚ろな瞳が、非常用の放送設備に偽装された集音器や、コルトの管制する隠しカメラ群を射貫いた。「……度を過ぎれば怒られちゃうけど、でも違反したからという理由で、シーラちゃんに酷いことをする人はいない」
「それじゃ、ボクも……たとえば、ボクの姉様と、皆と、愛し合っていいの? 嫌いな人の腕に抱かれなくて良いの? 自分の意志でどこで何をしてても、問題ないの……?」
ケットシーは悪魔的に微笑んだ。
「そう。禁止された愛なんて、強要された交配なんて、この都市にはない。そういうの、ヒナのいた共同体でも末期には生じてけど、あんなの嫌だよね。ヒナもあんな世界は映すべきじゃ無いと思ったから偉い人の首ごと打ち切りにしたよ。解放軍は、その点、自由なの。ヒナも新参だし色々迷惑掛けちゃったけど、割とのびのびとさせてもらってる。シーラちゃんも、たくさん楽しんで、みんなと仲良くなって、一緒に技を高めていこ? ここはそういうことをするにはうってつけの土地。ヒナも、ここで新しい『葬兵』を育てることに決めたの。シーラちゃんのこと、いっぱい可愛がって、いっぱい、いっぱい、その体に、ヒナの蒸気抜刀を丁寧に刻み込んであげる。強くしてあげる。だから、怖がらなくて大丈夫だよ……一人前の葬兵になるまで、ヒナが守って、愛して、鍛えてあげるから……何も心配しないで大丈夫。あなたの師匠は、あなたをいつでも見てる。愛してる。大事にしている……」
微笑を浮かべたまま、血濡れの少女騎士をやさしく抱きしめ、血の蒸発しつつある体に触れ、接吻し、吐息を吹きかけ、耳元から脳髄へと、心の襞をくすぐるような甘い言葉を注ぎ込む。
きっとシーラの脳髄には、もうケットシーの蕩けるような囁き声しか届いていない。
聖句を使わないだけの聖歌隊のような振る舞いだが、茶色い髪のシーラは、丸きりとろけきった顔で身をゆだねていた。無私で情を注いでくれるケットシーの体温に、彼女を愛してくれていた姉、生体甲冑の母たるサードを、無意識に重ねているのかもしれない。
それにしても、気のせいだろうか、とリーンズィは視界に違和感を覚える。
リクドー=シーラの体を這っていた細かい縫合糸のような繊維だ。
それが、今度はぺちぺちとケットシーを叩いているように見えるのだ。
ケットシーの肉体が再生の邪魔をするので、不機嫌になっているのだろうか?
知覚はそうした異状を捉えているのだが、ケットシーが予想外に見せた情愛のほうが興味深かったので、リーンズィの意識はそちらに傾いていた。
ユイシスが無声で囁やく。
> ただ一つの面がその人物のすべてを示すわけではありません。貴官はエージェント・ヒナについて上方修正をかけるべきでしょう。時と場合によっては、彼女のような人物でさえ、慈母の如き抱擁をためらわないものです。
「立派なお姉さんだったのだな……ハードな戦闘と卑猥な映像の撮影でチャンネル登録数を稼いでいた、頭が特撮系テレビドラマの女の子と同じ人だとは思えない……」
教育の手管があまりにも凄惨すぎる気もする。しかし、それが葬兵の流儀だというならば、もう口出しはするまい。
実際のところ、リーンズィとしても、本当に他にこれといったプランがない。シーラからも糾弾されたが、リーンズィは行き当たりばったり行動していた。保護のためにエコーヘッド化したあとのことは全く考えていなかった。
ケットシーがシーラを戦闘用として教練するつもりがあるのならば、後ろ盾になっても良いと思える。リーンズィには、存在を繋ぐこと、それぐらいしかできない。
道を教える者がいるというのは、幸いである。
ユイシスが無声通信で思考を補強する。
> 貴官は知るべきでしょう。誰しもが、自称通りの人物ではありません。貴官の愛しいレアは最強の殺戮者ですが、一方では貴官に焦がれる儚い花にすぎません。当機のミラーズは、かつて憎悪と憐憫、そして美麗なる聖句と姦淫を以て万軍を狂わせ、世界の果てまで歩き通した邪教の司祭ですが、同時に真なる奇跡を用いて万人に幸福をもたらした、敬虔なる愛の人でもあります。貴官も同様です。貴官もまた、自任する通りの存在ではないし、他勢力から思われているような機体でもないのですから。エージェント・ヒナも貴官と同様に、多義的な側面を有しています。
世界を知らないリーンズィは、ただ頷く。
ユイシスの言うことを上手く飲み込めてはいなかった。人間とはそういうものだという話はたくさん聞いた。映画でもそういう場面はたくさん見た。
リーンズィは定命の人間を知らない。リーンズィにとって、死んでしまう人間こそが例外の存在で、FRF市民のような実例を見ても、これが普通なのだという実感は中々湧かない。
ただ、スチーム・ヘッドについては、とりあえずはその通りなのだろうと曖昧ながら得心しつつあった。
外観、機能、活動履歴、精神性。
それらの乖離は、スチーム・ヘッドにおいて特に著しい。
短期間の観察、一方向からの言動だけで本質を見極めるのは不可能だ。歩く要塞のような重武装パペットでも、歌を唇にして手を繋ぎ愛を囁き合うレーゲントたちでも、見た通りの存在では有り得ない。戦争行為の権化は休日に神像を彫って自我を保っているのかもしれず、平和と淫蕩の具現者たちは裏では互いに歯を立て傷つけ合うことで関係を維持しているのかもしれない。
見た目ほど、彼らは正気では無い。
スチーム・ヘッドの疑似人格は儚いものだと、リーンズィはもう知っている。勇士の館で不可思議なタロット占いを延々と繰り返している女性が、かつては戦友たちと朗らかに笑っていた戦闘用スチーム・ヘッドだと知ったときには、無性に憐れに思って、めそめそと泣いてしまった。しかし古くから彼女を知る機体は、奇妙なことに今も昔も彼女は変化していないとのたまう。以前から存在していた性質のうち、一つだけが極端に表出しているだけで、総体としては微々たる変化なのだと。人格記録は変質したが、核となる記憶が消え去ったわけでは無い。それが証拠に、挨拶するとき、彼女の心音は声に反応して、僅かに変化を見せると……。
「リーンズィ、思考が違う方向に行っている」金色の髪の乙女が、小さな両手でリーンズィを温める。「怖いのですね。永遠に滅びないことを約束された再誕者、スチーム・ヘッドですら変容していく、その事実が……」
瞬く間の幻想だ。
生存の恐怖が、幼い心に不吉な影を容赦なく植え付ける。
……目覚めている限り、人格記録は否応なしに変容していく。
スチーム・ヘッドとして起動した瞬間に生命の実感は消え失せ、理想も夢も色褪せる。
人工脳髄に演算させられる意識など、不滅にして不朽の肉体からしてみれば、身体を冒す病の一種に他ならない。
病ならば、治癒されてしまうのは当然だろう。意識活動は平坦化し、精神は容赦なく頽落する。意識が人生の履歴であり願望が精神活動の深き澱であるならば、永遠に清き肉体はその電信号全てを余分なパルスとして浄化してしまう。純粋な水は電流もろくに通さない。
恒常性の完成した肉体には、一部の例外を除き、意識が生じない。
だから、演算された人格は眠らない。
元より眠りを必要としないが、それとは異なる理由で、許されない。人間の模倣として睡眠を取ることは可能だ。しかし実際に許されているのは休止と演算の簡略化だけで、生命としての眠りを、スチーム・ヘッドは完全には再現できない。
人間は、眠れば夢を見てしまうからだ。
眠りの中では無限の願望が成就する。
肉体無き精神にとって、真性の眠りとは全てが超越の理によって解決されていく理想郷である。
であればこそ、スチーム・ヘッドは眠らない。眠れば二度と目覚められない。眠れない……。
そのために、さらに壊れていく。眠りは肉体を休息させると同時に、精神と活動履歴に対しても適切な再配置を行う。スチーム・ヘッドにはそれすらない。
一切は整理されず、無秩序に堆積し、意識という構造体自体が、やがてその重量に押し潰されて自壊する。
人工脳髄のデフラグ機能など、ものの役にも立たない。
数年は正気でいられるだろう。
十年は戦えるかもしれない。
では百年間歩き続けることが出来るか。
千年、自分の使命を忘れずにいられるか?
出来はしない、とリーンズィは断定する。
そんなこと、きっと、出来るわけが無い。
無限の年月の前には永遠であれと祈られた国家や思想ですら砂上の楼閣に等しい。
連なる形骸の都市がそうした印象をいっそう鮮明に刷り込む
況んや人間の精神がどうして無事でいられるだろう……?
不滅の器の内側で、世界は腐敗していく。
一つ領域を全滅させる兵器としての地位は、終わらない戦闘活動に倦んだ思惟から剥がれ落ちる。
かつて高く掲げた理想は現実の頽落によって無限に遠ざかり、かつて求めた輝かしいものは、水底から見上げた名月の如き、朧げな光の輪郭となり、永久に手が届かない。
破綻と再起動を繰り返す彼らは、総じて壊れている。
無自覚に自分自身という硝子絵を踏み砕き、わけもわからないままその残骸を出鱈目に組み直す……。
だが、ケットシーは違うらしい、とリーンズィは気づき始めていた。
皮肉なことに、リーンズィはこの時、ケットシーのおかげで活力を取り戻した。
ケットシーの精神構造は極めて強固だった。
あるいは彼女だけなら千年間、無辺の荒野を狂わずに彷徨えるのかもしれない。
何故なら、ヒナ・ツジは、その初まりから狂っているからだ。
現実と空想が結合した世界で活動し、狂気的な使命感で存在核を固定した彼女は、最初から壊れていて、精神の糸は複雑に絡み合って張り詰め、揺るがない。
歪曲された現実しか映さないうつろな黒い目は、はっきりと目覚めており、片時もまどろむことがない。眠りたいと思うことさえない。
彼女は狂人であると同時に、たった一人で殺戮の地平線に立つ戦士なのだ。
目覚めて、息をして、眠らぬ戦士の当然の責務として、弱者を愛し、守り、苦痛から解放するために殺す。何度でも殺す。
眠らぬ者を殺し続ける……。
それはきっと彼女の言う『葬兵』の理想型とも合致する。
眠れぬ者を鏖殺した土地でのみ、彼女らは安眠を得られるのだ。
その自覚を、彼女はまだ失っていない。
与えられた責務と向き合い続けている……。
「いずれにせよ、後継を育てることに意欲的であることは立派だ」すっかり元気になったリーンズィは頷く。「十分に評価して認めるべきだろう」
リーンズィと思考を共有していたミラーズは「そこは、あたしはあんまり感心しないわよ」とそっぽを向いた。
「どれだけ大変な旅をしてきたか、なんて、暴力を振るう言い訳にはならないわ。ましてや、相手はまだ幼い、小さな女の子ではありませんか。いいかしら、リーンズィ。終わってしまった世界なんだもの。子供というのはいくら甘やかして可愛がったって、大切なものを全部注ぎ込んで愛したって、まだ足りないぐらいなんです。私は、どんな理由があったって、あんなに痛めつけるのは好きになれません。もっと丁寧に、愛して、教えて、身も心も解放してあげて、そうしてから次の道へと導いていくべきだと思います。こんなことは、嘆かわしいことです」
ミラーズが二人にずっと付いていたのは、無論、アルファⅡモナルキア総体からの指示で監視をしていたためだ。
しかし無許可で計画を変更していたらしい。どうやら、いざとなれば強引に割り込む意図を独自に持っていた。戦力比は絶望的ではある。ケットシーは単騎でアルファシリーズ相当の機能を発揮する。アルファⅡモナルキアの端末に過ぎないミラーズでは、瞬時に破壊されて終わりだ。ヒナの人格が『共演者』の無益な破壊を望むとも思えないが、少なくともどれだけケットシーが加減をしてくれても、戦力的拮抗などあり得ない。
そんなことはミラーズは百も承知だろう。挑んでも、痛めつけられて嬲られるだけ。それでも看過出来ないのだ。曲がりなりにも神の花嫁、レーゲントの母として活動していた彼女からしてみれば、救われざる定命の人間から奇跡的に再誕したシーラもまた、新たな己の娘に等しい。
シーラが壊されていく。そんなことを、見過ごせるわけがない。
「……改めて言っておきますが、これ以上はダメとなったら、私は壊される覚悟で止めに入りますか。ねぇ、シーちゃん。リーンズィも合流したんだから、容赦しないからね。あんまり好き勝手やると、本当に許さないわ」
ベッドの上のケットシーへ、柔らかな声で釘を刺すミラーズ。
リーンズィの緑の瞳に映るのは、豪奢な行進聖詠服に包まれた小さな背中だ。ふわふわの長い髪が眩しくて愛らしい。不朽結晶の薄布を押し上げる、軽く小突けば倒れてしまいそうな線の細い肉体。だというのに、リーンズィはこの背中を信じても良い、と直感した。無差別に命を救い、分け隔てなく不死の病を振りまき、一度は世界を眠らせた者の背中は、果てしなく大きく見えた。
ケットシーは、強い。
一つか二つ格上の戦闘能力を持っている。
アポカリプスモードを起動させなければ、リーンズィでも御しきれない相手だ。
しかしミラーズがその気なので、リーンズィは特に計算もせず、瞬時にその気になった。
「そうなのだった。許さないのだ。許さないのです。猫の人も許さないと思う」頭の中のロングキャットグッドナイトが猫もそう思いますと肯定してくれた。「猫はいます。宜しくお願いします」
「二人ともそんなに睨まないで……んん、リズちゃんのそれは、睨んでるんだよね。目つきが可愛い。慣れてないのかな。でも、二人とも誤解してる。ヒナだって、久々の弟子を簡単に壊したりしない」陶然としているシーラをぎゅっと抱きながら葬兵はむくれた。「こうやって延々と虐めるのは可哀相、それも分かるよ。でも、もう少しだから。完成が着実に近づいてると感じる。きっと痛みを伴う教育はこれで終わり」
「……完成が近づいてる?」
リーンズィは左腕蒸気甲冑の入力釦をぽちぽち押す指を止めた。
「そう。もう終わりなら別に良い。それで、ケットシーは何を以て彼女の『完成』と考えているのだ? いるの?」
「かんたんなこと。『蒸気抜刀・疾風』の習得。葬兵は、全員これを身につけることで生き残れるようになる」
「じょーきばっとー……しゅとぅるむ…………?」
予想していなかった単語の登場に、リーンズィは一瞬思考を放棄してしまった。
「それは、ケットシーの使うオーバードライブ……あの動きが速くなるやつ?」
「そう、速くなるやつ」
「それって、死んだり何度も見たりすれば、自然に身につく技だろうか」
「身につく技だよ? だって、ヒナの仲間たちも、なんか、ヒナのを見てるうちに、いつのまにか、何となく、出来るようになったし……シーラもたぶんそう。きっとそう」
「そう……」
リーンズィはそう……と思った。
そう、ではなかった。
それは何となく出来るようになるものではない。
ユイシスに思考を補助してもらいながら情報を纏める。
葬兵育成の方針は確認出来た。オーバードライブを自力起動出来るようになれば、ひとまず完成のようだ。幸いなことに、首輪型人工脳髄は高倍率オーバードライブにも時間制限付きで対応している。シーラのようなエージェントの器を借りているだけの非正規人格記録でも、勘所さえ掴めば、必要な制御領域にアクセスして、加速した世界に突入出来るだろう。
戦闘用と銘打たれていてもオーバードライブを使えないスチーム・ヘッドは山ほどいるが、解放軍でその役割を担うなら、オーバードライブ機能の解放は必須である。
妥当な到達点だ。そこはリーンズィも異論無い。
だが致命的な問題がある。
ケットシーの埒外の領域での加速と、通常のオーバードライブは、『加速する』という結果が似ているだけで、性質が全く違う。
どう考えても、教えて伝えられる技能では無いのだ。
海兵服姿のこの虚ろな少女は、生前から超音速の世界に突入可能だったと推測されている。人間がそんなことをすれば死んでしまうため、病で床に伏していた彼女は才能に気付くことなく生涯を終えたのだろうが、死せざるものとして蘇った現在は、息をするようにそれを濫用している。
一生に一度であろうという大技を乱発できるのは、言うまでもなく彼女の人格が不死病筐体へと移し替えられているからであり、また頭部の鉢金型人工脳髄と首輪型人工脳髄が、生命管制を強力に補助しているおかげだ。
一般的な機械式のオーバードライブではない、自力での三〇〇倍加速。可能性世界選択の力と合わせれば、出来ない動作など無いに違いなく、まさしく奇跡と呼ぶに値する異能である。
葬兵たちが加速機能を持っていた、という発言は事実なのだろうが、正確な現実認識でもあるまい。
通常の人間には、超音速で動けるような知覚能力は備わっていないし、よしんば備わっていても、一般の人工脳髄ではその動作をサポート出来ない。
では、何故彼女の仲間たちがオーバードライブが使えたのか?
難しい話では無い。
それは彼らの装備の出自に関係するものだ。
「……勘だけど、リーンズィ」ミラーズが躊躇いがちに、小さな声で問いかけてくる。「ソーヘー? っていう人たちが、シーちゃんみたいに動けたのって……えっと、資質っていうか技って言うか、私も付けてるこの首輪型の人工脳髄のおかげではありません……? たぶん同じやつよね……?」
「そうだと思う……」
リーンズィも自分の首輪を触りながら肯定した。
シーラの肉体を修復し終えてリソースに余裕が出てきたらしいユイシスが、アバターを表示し、金色の髪をした少女の姿でふわふわと漂いながら、嘲るような、歌うような、独特なリズムの発声で注釈する。
『推測。エージェント・ヒナは、東アジアに引き渡される前は調停防疫局製のスチーム・ヘッドであり、シィーの遺したログに誤謬が無いのであれば、シグマ型ネフィリムのプロトタイプです。葬兵はそれを劣化複製した機体群だと考えられます。正規版であるエージェント・シィーの仕様を参照すると、シグマ型ネフィリムは、メイン人工脳髄に加えて、隷属化デバイスと同様の装備を、補助用人工脳髄として標準搭載していたとものと推測されます。調停防疫局に特有のツインメディア方式です。この仕様を利用すれば、特別な改造無しでも破壊的抗戦機動を発動可能です。複製精度の高い機体に関しては、オーバードライブにも問題なく対応していたものと推定します』
「ねぇ、あたしのユイシス。あれって、この首輪さえあったら誰でも使える感じなの? シィーの人格記録無しでも、あたしもいずれ凄い速度を出せるようになっていたのかしら」
『原則としては不可能です。調停防疫局のエージェントは全て人格記録媒体装填済人工脳髄を二基以上搭載しています。初回起動手続きでは、基底人格を演算する一基と、破壊的抗戦機動を管制する一基が、それぞれ必要となります。貴官はエージェント・シィーが初回起動を代行したため、手続きを省略出来ました』
「ユイシス。気のせいじゃ無いと思うんだけど、……あの子、シーラは、人工脳髄一個しか積んで無くない……?」
襤褸布のようなドレスシャツに首輪を嵌めただけのシーラの姿は、遠い異郷の滅ぼされた王国から拉致されてきた王女じみて見窄らしい。
彼女の身分は、まさしくその首輪によってのみ規定される。
他に人格記録を装填した人工脳髄は存在しない。
純正エージェントとは構成が異なる。
『肯定します、当機のミラーズ。現状でのオーバードライブ突入は、試験隷属化端末2号には不可能です……』
表情を曇らせていくアルファⅡモナルキアを余所に、ケットシーは「シーラちゃんには、実際に『疾風』を発動させた状態で、これを全速力で突き刺していくから」と告げ、猛烈な速度で赤熱したバターナイフを振るって見せた。
常人の目には、真っ赤に滾る切っ先の残像しか捉えられないだろう。
「ヒナのナイフを一回でも自分の力で捌けたら、シーラちゃんは合格ということにするね」
「……い、今の速度に対応しろってこと? そんなの出来るわけ……」
「出来ないという思い込みは捨てること。これまでに一度でも抵抗しようと本気で思った? それじゃ何にも出来ないままだよ?」
「……無理。無理だと、思ってた、うん」
「何事もやってみないと。死んでも大丈夫なんだから挑戦、挑戦。痛いのも気持ちよくなるかもしれない。何回死んでもヒナは痛いの嫌いだけど」
「で、でも、その『疾風』って、ボクにも使えるような技なの?」
「使えるよ? 葬兵の第三十位ぐらいまではぜったい使えたし、それ以下でも割と身につける子はいた。まぁだってこれ出来るようにならないとどこかの段階で他国のスチーム・ヘッドとか変異体に身も心も蹂躙されて壊れちゃうからなんだけど……」
「ま、待って。それ、結果的に使えた人が生き残っただけじゃないかなっ!? 因果関係おかしくない!?」シーラは真相に気付いてしまった。「自分が言ってることの意味、分かってる!?」
「ショギョームジョー。なせば、なるようになる。やってみないとわからない。怖じ気づかずにやってみよ?」
「う、うん。そう、そうだね。でも、でもさ、もし対応出来なかったら……?」
「出来るようになるまで痛くするだけ。力が欲しいんでしょ? 強くなりたいんでしょ? 我慢しよ?」
「確かに師匠にはそんなふうに相談をしたけど、ここまで酷くされるなんて……斬られて斬られて斬られて斬られて、治して治して治して治して。どれだけ欠けても治せるみたいだけど、下手したら元から付いてた部品、もうこの首輪しかないんじゃないかな……もう耐えられないよ……痛いの、もうやだよう……」シーラは琥珀色の瞳を涙で潤ませた。「出来るようになる気がしないよ……やめにしてもらえないかなぁ……師匠はもしかして、ボクが軽率なことを言ったの、怒ってるのかな……」
「怒ってないよ。……出来ない人は死んでも出来ない。それは本当。だけど、どうしても無理そうだったら、どうせモナちゃんズの皆が止めに入るし平気だよ。あと、どうせ今の環境なら死んでもそう簡単に精神まで壊れない。どこまで行っても痛いだけで済む。壊れないならどんなトラウマもかすり傷だよ」
「今なんて?」話を聞いていたリーンズィは思わず復唱した。「モナちゃんズ……!?」
もしかするとアルファⅡモナルキアのことだろうか。響きが可愛い。短いし、親しみやすいので、これからはモナちゃんズと名乗ろうかと思った。しかし「……い、威厳は大事よ。さすがにモナちゃんズでは、相手に変な顔か、大爆笑をされてしまうわ」とミラーズに言われたので諦めた。
同時に、現状ではオーバードライブ起動不可能というユイシスの証言を踏まえ、状況を考察する。
正規エージェントではないが、隷属化デバイスで擬似人格化した以上は、リクドー=シーラもアルファⅡモナルキアの端末の一機だ。
これが全く無意味に危険に晒されているのだとすれば、ユイシスは既に干渉と阻止を試みているだろう。
ユイシスは冷淡で意地悪でいつでもリーンズィを嘲笑してくるしこれ見よがしにミラーズといちゃいちゃしてリーンズィを挑発してくるが、端末が無用な危険に晒されているのを楽しむような、陰惨な思考様式の機体では無い。
『不可能』と断じつつも積極的な活動には転じていないということは、シーラには別の可能性が残されている。
リーンズィはヴァローナの瞳に数秒先の光を取り込もうとした。
「それじゃあヒナはこれからグサグサザクザクやっていくね。準備は良い?」
「待って、心の準備が……すう、はぁ……すぅ……も、もうちょっと待って」
「恋も弾丸も待ってはくれない。それじゃあ行くね。えいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえい」
「えっちょっ待って酷いよっうっうっうっ、うあっ、あっ? あれっ意外と痛くな……いいいい痛っ?! 熱っ、いたい、あぎっ、やっぱり痛いよっうわっえっ痛っあうっああっあうっあつっいえあっいいいいいっ、ししょっ、速いっ痛っやめてっあああああっ!? あがっ……ご、ぼ…………ぎっ……」
赤熱する超音速の切っ先が、機銃の掃射もかくやという勢いでシーラの肌を貫いていく。
死ねば終わりの相手には有効で、見栄えも悪くならない。なるほど、対人技という葬兵の認識は間違っていない、とリーンズィは評価する。
視覚不能な速度の刃が、的確に致命部位を破壊していく。
傷口が瞬時に焼灼される都合上、体外への出血は極端に少ない。
常人なら、高熱によって鈍麻させられた知覚野が痛みを発する頃には、ショックで絶命しているはずだ。
だが、憐れなことに、シーラのデッド・カウントは、その次元の損傷でも問題なく再生出来るレベルに達していた。
瞬きしているうちにシーラの肌には烙印の如き傷が次々に刻まれ、少女騎士は鋭利な苦痛に弄ばれるがまま悲鳴を奏でる。首、腕の付け根、太股、肝臓、その他通常なら破損が即座に致命傷に繋がる部位が次々に切断されていくが、循環器系だけなら再生・保護が可能らしい。シーラは苦痛に狂い、痙攣するばかりで、一向に絶命を迎えられない。
やがてバターナイフの小さな刃は乳房を貫き肋骨を滑って心臓を傷つけ、肺までも裂いていく。
呼吸器系が血反吐で満たされ花の香りがする血反吐を吐き涙を零すが別方向から貫いた刃が血に逃げ道を作り乾きつつあったベッドシーツを再び鮮血で汚させる。
溺死による人格の一時停止という死の休息を、ケットシーは許さない。
「えいえいえいえいえいえいえいえいえい。どうしたの、シーラ。やり返さないともっと違う切り方をするよ? もしかしてこれが気持ちよくなっちゃった?」
「かぁ、が、けふっ! くあっ……、うっ……こ、のぉ……! 馬、鹿にするなあっ!」」
激痛に呼吸を震わせながらも、茶色の瞳は刃の煌めきを捉えている。
リーンズィは、彼女が軌跡を読んだと直観した。
血まみれの腕が、壁でも押し退けるように突き出された。
間違いなくバターナイフにぶつかるコースだ。
刃を受け止めようとしたその手のひらは、しかし、容赦なく縦に割られた。
「え、あ、ひっ」シーラの顔が苦痛に歪む。「ボクの手……」
「ざんねん」の囁きと三連突きが肩口に叩き込まれ、その抵抗は否定された。「ちゃんと反らすか、きちんと止めるかしなきゃダメ。考え方が甘い」
少女騎士は、地獄のようなデッド・カウント進行の中で着実に成長している。瞬間的には、超高速で繰り出されるバターナイフの一撃を見切れるまでに研ぎ澄まされていた。きっと生前では到達し得ない領域だろう。
しかし、見えるだけでは、ケットシーの攻撃を止められないのだ。
現在のケットシーの加速度は五倍程度。
生身の人間の感覚と筋力で対応可能な速度では無い。
同程度まで、とはいかなくとも、オーバードライブを起動させなければ防御は困難だろう。
ケットシーはベッドに座ったまま、狂える指揮者の仕草で刃を振るい続ける。
腹を突く、抉り込む、腹を庇おうとした手を切り払う、タックルを試みて中腰を上げたシーラの脚を容赦なく削ぐ、肩口から胸までを一文字に裂く。
少女騎士の痩せた体に纏わり付いていたシャツの残骸が血肉とともに剥がれ落ちていていく。
「このままだと裸になっちゃうけど、シーラちゃんは服を着てるのが嫌いなのかな?」
「いあっ、はあああ、うう……あっ、ぎっ、はあっ、いい、痛い、痛い痛いっ痛っ、んっ、刺すなら、刺すだけに、してっ、やめっ、きゃあ、っうっう、痛いっ、痛いよぉ。けふっ、は……」
抵抗できたのは、結局十数秒のことだった。
バターナイフが突き込まれる度にシーラは苦しみに喘ぎ、弱り果て、涙を流し、血を吐いて、哀願するように声を出すだけになった。
美しい痩せた裸身は焼けた切創と噴出する血液で赤く染め上げられ、部位によっては臓器や骨が露出し、再生は生命活動に関わる部位だけに集中して実行される状態へと遷移しており、手も使い物にならない。
ケットシーの攻撃に対応するなど最早叶うまい。
「……もういいでしょう。見てられないわ。さぁ、リーンズィ、止めさせるわよ」
目を見開いたミラーズが、鞘から刃を抜く。
リーンズィもオーバードライブ起動の準備を進めていたが、力なく嬲られて痙攣するだけのシーラの、抉られた首元から、にわかに血が噴き出すのを見た。
猛烈な怖気がリーンズィの背筋を貫いた。
肉体に起因する嫌悪感、違和感。
人工脳髄の演算に頼らない生来的な直観。
ユイシスも瞬時にその部位をポイントした。
ただの傷。
ただの流血。
だが、出血のタイミングが通常から外れている。
呼吸とも鼓動とも噛み合わないタイミングだ。
「待って、ミラーズ。何かが……」リーンズィは瞳を朱の色に変えた。「何かが、見える」
何かが、傷口の奥で蠢いているのが見えた。
首筋だけでは無い。
鎖骨を伝い右腕部へ潜り、さらにその下側へと入り込んで、それは脈動している。
「これは……?」
「下の方から血が垂れてる。漏らしちゃったの? もう壊れちゃう寸前? 仕方ない、それじゃあ今日は首を落として、反省会だね」
ケットシーが、バターナイフを振り上る。
辛うじて倒れないまま激痛に喘いでいるシーラの首へと、赤熱した刃が、断頭の風切りを奏でる。
空気の破裂する音がした。
刃は、確かに振るわれた。
果たして、頸部は、まだ繋がっている。
「……え」ミラーズは飛びかかろうとする姿勢のまま硬直した。「うそ、でしょ?」
神速の迎撃だった。
シーラの右腕が、先端から真っ二つに裂けていた。
刃を受け止めて、壊れていた。
バターナイフは尚も接触面の血肉を焦がしているが、腕の両断には失敗している。
直線上にあった頸には届いていない。
掌から手首までを構成する諸々の骨片、腕の肉が勢いを殺し、尺骨と橈骨が刃に食らいついた。
そして肘関節を砕いた先、上腕骨に阻まれて、刃は完全に無力化されたのだ。
有り得ない光景だった。
そもそも、手で受けられるはずが無かった。
刃を払おうとして、逆に割られて以降も、腕部はバターナイフによって嬲られ続け、筋腱の類は完全に破壊されている。
事実、ユイシスは『全機能喪失』とその腕を診断した。
あちこちが抉れていて、血まみれで、赤黒い。
神経系どころか、血管系の修復さえ間に合っていない。
指の一本であっても動かせるわけがない。
……それが突如として跳ね上がった。
破壊された腕は、暗闇を運ぶはずの一撃を、この上ないほど完璧に防ぎきった。
「……ぃ……あ、はっ、い、たいっ、よおっ……う、うう……首……取れて、ない? えっ……なにこれ……」
血を吐きながら、他ならぬシーラが、自分の腕の挙動を理解出来ず、呆然としている。
先端から割られた腕から血が噴き出すのと、部品が零れ落ちるのを見て、吐き気を催したようだが、嫌悪より疑問が勝ったようだった。
「ボクの腕……うそ、感覚も無いのに、なんで……」
「そこまでよ、シーちゃん、もう良いでしょう。あなたの攻撃を一回でも捌ければ終わり、そういう約束でしたね」
「……うーん?」
ケットシーは淡泊な美貌に不満の色を浮かべた。
木の洞のような暗い瞳に好奇心の光を瞬かせる。
よほどシーラの腕の動きがお気に召したらしい。
「一回だけならまぐれかもしれない。もう一回。もう一回斬るから、もう一回やってみて?」
「シーちゃんったら! ああ、本当に困った人!」
いよいよ刃を抜いたミラーズを、リーンズィの生身の右手が制止する。
「ミラーズ。落ち着いて。心配要らない」
「いいえ、心配しかありません! あたし一人でも斬りに行くわよ、リーンズィ!」
「一人じゃない。ミラーズを足したら、三人になる。君の力添えは、今の二人には余分だ」
「余分なわけ……うわっシーラ、何それ!? どうしたの!?」
「わっ、何か出ててきてる! うねうねネバネバしてる……!」
異変に気付いたのは、葬兵もミラーズも同時だった。
ケットシーは腕を半ばまで断ち割ったバターナイフを引き抜こうとしたとき、その奇怪な物体は肉体の内奥より這い出でた。
菌糸の群れにも見えるが、違う。
白い繊維質の物体。それが腕の断面のあちこちから伸びて、赤熱した刃に絡みついている。
血を滴らせた白い糸の集合体。出来損ないの蜘蛛の巣じみてもいる。
それはまさしくシーラの体を這い回って、傷を塞いでいた糸に似た組織であった。
高速震動する刃の放射する熱で焼かれる傍から、幾重にも巻き付いて重なり合い、自らを補強し、ある種の構造体を形作って、凶器を拘束していた。
この奇怪な組織を目にしたとき、リーンズィが無意識にサーチをかけたのは、ロングキャットグッドナイトの擁する狼の騎士<ベルリオーズ>の記録だ。
大型蒸気甲冑の内部に巣食っていた、人工筋肉・演算装置兼用の粘菌状生物。
「うん、似てる。うねうねしてるし、ねばねばで、なんか視覚的に生暖かい……」
しかし、比べてみると些か様態が異なる。
動作自体には類似点があるにせよ、糸状組織群の外観に最も近いのは、粘菌状構造体ではない。不死病患者の肉体が急速に再生する際に発生する、一般的な再編動作用繊維状組織群体だ。
この繊維組織は神経や筋肉を主要な素材として創出されるため、薄く赤みがかった白色をしているのが特徴的で、一本一本が自律して活動する。
本来は恒常性を快復するためだけに発生するが、しばしば再生を阻害する他の無機物を泡状の構造体で包んで取り込む。バターナイフ捕縛も同じ機序で起きた現象かもしれない。
だが、そうした事例はいずれも異物の排除が困難な状況において偶発的に起こるもので、しかもデータベースを参照する限りでは、そこに至るまで非常に長い時間が掛かるようだった。
糸状組織群は一瞬でバターナイフを絡め取ってしまった。
如何にも作為的に感じられる。そこに意志の介在を感じずにはいられない。仔細に観察すれば、ずたずたに切り裂かれた腕部の傷口、その至るところに同様の構造体が張り巡らされ、外側へ漏出しているのが確認出来る。
筋組織を素材にしているなら、破壊された腱の代役も出来るだろう。
損傷を無視して腕を動作させたのは、これらの不明な組織群の仕業だと解釈して違いあるまい。
「シーラちゃん、こんな特技があったんだ。何百回も殺したのに全然気付かなかった。ううん……違うか。これは、シーラちゃんじゃない。そうでしょ? そういうことだよね?」
オーバードライブのレベルを高めたケットシーが、強引にバターナイフを引き剥がす。
筋繊維を織り込んでいようとも、所詮は脆弱な生命組織の集合体。音速で拳を放てる戦闘用スチーム・ヘッドの、過剰なまでに増幅された腕力には、対抗出来ない。
流れるような所作で、ケットシーはブレザーの袖を撓め、細腕を弓のように引き、刺突の態勢を取った。
そして喜色を浮かべ、瞠目する。
反撃があったのだ。
糸状組織群は即座に束ねられて連なり、蛇の如き一本の触手に変じた。
それが傷口から這い出で、大弓から放たれた矢の如くに、勢いよく葬兵へ食らいついた。
空気を撃ち抜く甲高い音が響く。オーバードライブだ。
心臓部を一直線に狙う進路。命中は必然。
並のスチーム・ヘッドなら一度死んでいるだろう。
不意打ちだったはずだが、しかし葬兵は僅かに身をずらして致命打を回避。
硬質化した先端は刃と化しているが、ケットシーの細い肩をかすめて、僅かに抉るだけで終わった。
「……すごい。この服に簡単に穴を開けちゃうんだ」
刺突を返されたことよりも、ブレザー型の装束が一部でも破壊されたことに驚いた様子だった。
見た目は如何にも見栄えを重視していて、コスチュームプレイ用といった風体だが、通常の物質では破壊不能ないわゆる『準不朽素材』で編まれている。
このブレザーを貫通してしまうこと事態が異常だ。
リーンズィの視界に『解析:低純度不朽結晶連続体』の表示が浮かんだ。
先端部分は単に硬質化したのではなく、不朽結晶へと置き換えられている。
糸が束ねられた触手は、今や伸縮自在の生きた槍へと変貌しているのである。
触手は第二撃のために身を撓めようとしたが、ケットシーは焦りもしない。
糸状組織群が動くのに合わせて、あっさりと先端の鏃だけを斬り捨ててしまった。
悪夢でも見るかのような表情で、縦に裂けた自分の腕の断面から触手が伸びるの見ていたシーラは、触手の先端が切断された瞬間に、「あうっ!? えっ……あっ、あっ、痛いっ!? なんで!?」と悲鳴を上げた。
どうやら痛覚を共有しているらしい。痛みは触手にも届いている。刃無しでも突貫は出来たはずだが、触手は細かく震えながら攻撃を断念した。
ぬるりとした動きでシーラの体に纏わり付いて、ちろ、と愛でるように、肌を、頬を這う。
涙を浮かべる眦を拭う。
それから、破損した腕へと潜り込んで、溶けた。
傷口は瞬時に消え去った。
再生と呼ぶには速すぎた。
部品を補填したといった方が適切だろう。
「え……? これ、もしか、して……ボクのことを、助けてくれるの? この機能、知ってる。……エンブリオ・ギア、なの? ボクがお腹に入れた……姉様の……」
「タネは分かった。期待通りではないけど、期待以上。だけどあなたは、もっと凄いことが出来るよね? 今後のためにも見せてほしいな。これからは三人でチームなんだもの。葬兵は仲良しが大切。ねぇ、聞こえる? シーラの中にいる人……サード」
「サード……サード姉様?」
修復された腕で、シーラは己の痩せた腹を撫でた。
己の胎内で眠りについているはずの、エンブリオ・ギアの核を確かめた。
その手の温もりに呼応するように。
シーラの首筋の筋肉組織が、皮膚ごと剥落した。
「う、ひあっ、痛いっ! えっ!? 何!?」
「首の後ろの方の肉が剥がれた」リーンズィが冷静に実況すると「そういうことじゃなくてっ」と涙目の反論が飛ぶ。
苦痛に身悶えする猶予さえ与えず、肉片は繊維質の触手に編み直される。
脊髄からは変容した流体組織が吸い上げられた。
肉体に起こった急激な変化による麻痺で、シーラは一時、呼吸を失った。
それも束の間だ。
シーラの後背に形成された触手の先端は、またしても鏃のような硬質組織に変化。
空気が破裂する。
今度は敵を穿つ一撃では無い。
触手の切っ先は、シーラの脳髄に向けられていた。
生ける繊維の槍は、肉の剥がれた頸椎の付け根から、剥き出しの後頭部、頭蓋の内部へと真っ直ぐに突入した。
「うえっ! ぎ、ああっ!? えっ、何、いった……痛い、えっ、あえっ、中でぐりぐりするのやめて、あっ、あっ、あっあっ。お、おええっ……吐きそう……何か、何か入ってくるよおっ! あたま……熱い……何これっ、がっ、ああっ、ぎっあ、あああああああ!? ぎ……あ。あー……。擬似人格演算への干渉を確認しました。防御・診断用の補助システム起動をします」
生体脳髄を物理的に侵犯される痛みと不快感へ捧げられた悲鳴は、すぐに平坦なものに変わった。
首輪型人工脳髄のランプが点滅を始める。
統合支援AIの口調にも似た事務的なアナウンスが、生気を失ったシーラの唇から漏れた。
「不明な人格記録媒体の挿入を確認しました。生体脳髄へのアクセス、進行中。セキュリティを検証中。……シリアルを確認。調停防疫局正式装備、種別:増殖型内寄生機動胞衣。最終代理人リーンズィを経由してアルファⅡモナルキアへの照合を開始。認可を確認しました。侵入対抗変異演算式Ⅰ、解除。侵入対抗変異演算式Ⅱ、解除。侵入対抗変異演算式Ⅲ、解除。不明な人格記録の全機能を制限。正規人格記録として認定します」
ケットシーは指先でバターナイフを回しながら、硬直して歌うように言葉を紡ぐシーラの顔を、興味深そうに眺めていた。
リーンズィもまた、その姿を見守っている。
氷像の如く静止した裸体は傷だらけで、やせっぽちで、そのくせ血と体液で濡れて、いかにも女性らしい。
血と闘争を追究する古い時代の部族が捧げ物として血肉で練った芸術品めいている。
悲惨な姿だというのに、どこか厳かな静粛さが備わっていた。
「エンブリオ・コアへのアクセス開始。エラー。正常動作を確認出来ませんでした。不整合を解消中……統合成功。パラレルメディアシステム、スタンバイ。仮エージェント・リクドー、補助モードにて待機。新規エージェントの仮登録を開始。成功。限定解除……破壊的抗戦機動、レディ。人格記録『サード』をリリースします」
がくん、と少女騎士の体が揺れた。
眠りに落ちたかのように目を閉じる。
少年のような揺らぎに満ちた目元を、苦痛から解放された時の安息が彩る。
……再び開かれた茶色い瞳に宿った光は、燃え上がるような怒気だ。
変化は劇的だった。
傷口という傷口に糸状繊維組織が発生し、瞬時に全てを縫合・癒着させた。
再生速度は通常の不死病患者の比ではない。
生命管制特化のスチーム・ヘッドでも、これほどの速度で全身の切創を修復するのは難しいだろう。
痩せ細った秀美な造形は血濡れの野犬の美しさで窓外からの光に火照る。
だが、最も変貌したのは、シーラのその気迫だった。
少女騎士は吠えた。
「……リクちゃん、は……サードのものなんだからぁっ! 人の愛妹をっ、恋人をっ、人生のパートナーをっ! お前みたいなふざけたやつが、好きかってにいじくるなぁーっ!」
シーラはヒトの形を取り戻した拳を握りしめる。
震える拳で空気を握り、真っ直ぐなストレートで破裂させる。
筋肉が出力に耐え切れず断裂する。
あらん限りの怒りを込められた一撃が、弾丸の速度でケットシーへと放たれた。




