セクション3 エンカウンター その⑦ 祭壇の羊、再誕と祝福(5)
淡い乳の海を渡るかのような朝だった。
少女の瞳の中で、全てが曖昧な白に染まっていた。
おおよそ時計通り、人類のリズムの通りに時間を刻む第二十四番拠点にしては珍しく、その夜は日が沈まなかった。昨晩は日が翳り雨が景色を煙らせており窓を開けても何も見えず時にはレアの声よりも窓外でごうごうと渦を巻く雨水の音が大きい程だった。
夜が明ける前に雨雲はどこか知らぬ時空へ吹き流され一面の水溜まりと吐息のような霧だけが残った。
視界は尚も明るいばかりで、先を見通せないが、繰り返し歩いた道を進むリーンズィのブーツに迷いはない。
水鏡を踏み、跳ね上げる。腕の中の熱と、乳海が攪拌されて弾けていく感触を楽しむ。
満ち満ちた水蒸気を遊歩道にして、陽光は未だ規律による停滞から覚めぬ屍の都市を飛び回り、万物を淡く照らし出している。
「……綺麗。綺麗な朝ね。リーンズィ」首筋に熱い吐息がかかり、続いて小さな唇が悪戯っぽく触れた。「あなたの肌が、いつもより透き通って見えるぐらいに」
あまねくものが使い古したベッドシーツのようなふわふわとした色彩に染まっている。
唯一輪郭がはっきりと分かるのは、リーンズィがその胸に抱く心地良い温度、羽根よりも軽い白髪の少女、愛らしき軍神、リーンズィだけが本当の顔を知る、麗しい人、アリス・レッドアイ・ウンドワートだった。
「ふふ。この朝はきっと、ここ最近ずっと頑張っていたリーンズィへのご褒美ね。助ける必要も無いFRFどもを救出して、みんなを説得して、支援物資の選定までして、あのサムライ女の説得もお疲れ様」
また唇を当ててくる。
夜を共にするのが数日ぶりだったせいか、レアはこれまで以上に積極的な愛の交換を求めるようになった。
以前の彼女であれば、遮る物のない路上で誰かの腕に我が身を預け、焦がれを隠しもせず、唇を、指を、肌を求めることなどあり得なかっただろう。
別れるまでの道すら密着して過ごしたいというのも、他ならぬレアからの要望だった。
白髪の少女は、その未成熟な肉体で愛を表現することを覚えて、すっかり夢中になっていた。
リーンズィも喜びを以てレアの熱情に応えた。リリウムやミラーズとも異なる不慣れな交歓の愛らしさ、いじらしさにすっかり蕩けてしまっているのはリーンズィも同じことで、二人は傍目など気にせず愛慕の確認をするようになっていた。
「だけど、こんな綺麗な朝が続くと、私はレアせんぱいが心配」
リーンズィはレアの頬を寄せながら囁く。
「ふふ。どうして、どうして? 昨日もあんなに確かめあったばかりじゃない。私に、どこか不安にさせてしまうところがあった?」試すようにライトブラウンの髪を撫で、じっと見つめる。「……まさかリリウムの方が好くなってしまったのかしら。確かにあの子の方がスタイルも良いし、歌うのも上手でしょうけど。ああ、嫌だわ、嫌だわ、あの淫売暗黒聖女、早く殺してやらないと」
「その言い方は意地悪で、ちょっと物騒だ、レア。私のレア。レアせんぱい……」焦がれるような恋情を込めて何度も囁く。白髪の少女がいっそう赤面してかすかに体を震わせる。「レアせんぱい。リリウムも素敵な人ではあるし、私も彼女も、互いが互いの花嫁ではあるけれど」リーンズィは拗ねた仕草をする愛しい人に、唇でそっとやり返した。「私の肉体の愛はレアせんぱいに注いでいる。私が言いたいのは、レアせんぱいの体は処女雪よりも繊細で、ただでさえとっても綺麗だということ。もっと綺麗になってしまったら、もしかしたら溶けてしまうかもしれない」
「もう」心の襞を擦られてレアは気恥ずかしそうに嘆息した。「あなたのせんぱいはずっとあなたの腕の中にいるわ。溶けて消えてしまったりしないわよ」
「だから心配なのだ。心配なの。あんまり見蕩れてしまったら、私がせんぱいに溶けてしまいそう」
「もう!」レアは真っ赤になってじたばたとした。「もう、もう! そんなに恥ずかしいこと吹き込んで、あたしに何をさせたいのよ!」
「二人で出来ることはぜんぶしたい」
「もう……」レアは頭から湯気を上げて、少しの間沈黙してしまった。それが可愛くて、リーンズィは脚を止めて、愛しい人のとろけきった顔を見つめた。「……そんなの、言われなくたって、全部してあげるわよ。余裕ぶっていられるのもいまのうちなんだから」
ここ数日の疲労は甚大なものだったが、リーンズィはようやく、自分の凝り固まった精神がほぐれたのを感じていた。
ミラーズやリリウム、そして何よりレアせんぱいの心理的ケアがなければ、リーンズィは今ごろ目を回して猫動画と海のいきもの画像と薪暖炉ストーブの映像を延々とローテーションするだけの機械になっていたかもしれない。
FRFからの亡命者を受け入れて三日。
そこからブランクエリアの資源を浚って集積場に移送完了するまでさらに四日が経っていた。
迎撃や探索よりも、諸々の事後処理の方が遙かに煩雑で、リーンズィはげっそりとしてしまった。
永劫を歩く物言わぬ屍、不死病患者に似た存在になったニノセ。
そして強引な手段で人格記録を保存し、仮エージェントとして再生させたリクドー。
仮にも敵対陣営である二人について、倫理的な議論が行われるに違いないとリーンズィは覚悟したのだが、受け入れ手続きの方は拍子抜けするほど簡単だった。
解放軍中枢はFRF総体を敵視していたが、構成員単体に関しては、さほど問題視していなかった。
ニノセなどは完全に無害化されあと見做され、原初の聖句を吹き込まれ、『メアリー』なる廃レーゲントと合わせて人類文化再現の駒に造り替えられ、市中へ放逐された。議論も監視もないまま解放されてしまったのだ。
ちょうど、リーンズィたちの前を影が通りがかる。
腕を絡ませ合って歩く、睦まじき二人の乙女が、レアを抱くリーンズィの進路と、偶然にも交差する。
まさしくニノセたちだった。
メアリーは破損した人格記録媒体を取り外されて、もはやレーゲントではない。
振る舞いの上辺だけを指示する聖句の働きで、まるで生きている恋人のようだった。
彼女たちは文字通り恋人たちの役が与えられていた。
「ほら、あの子たちがあなたに挨拶に来たわよ」
「不死病患者はそんなことをしない。する必要が無いから」
「そうだけど。でも、不思議よね、不思議よね。クズ肉だと思って蔑んでたやつらも、こうして普通に幸せそうに歩いていると、尊重してあげないといけないって気になるんだから」
「……ちゃんと、意識のある状態で迎えてあげたかった」
「いいえ、いいえ? 死ぬしかなかったやつが、ここでこうして歩いている。良かったじゃないの」レアは慰める声音で頬に触れてくる。「二人はここでちゃんと息をしているし、スチーム・ヘッドになる権利を妹に譲ったのは、この娘の決断だもの。あなたはマシな働きをしたのよ。殺すだけの能なしどもと違ってね」
リーンズィは、あんまり卑下してはいけない、と軽くキスをしてから囁く。
「だけど、これは本当に幸福な結末だろうか。ニノセも私のように幸福な気持ちでいるのだろうか? いるの?」
「……半自動の不死病患者なんて、所詮は生者の上辺の上辺の上辺をなぞるだけの存在よ。幸せを感じているかどうかは……見ている側で考えないと、決まらないわ」
偽りの魂で駆動する機体でも、生者には、それしか出来ない。
眠れるニノセたちの心を一方的に想像して、幸福な幻想を押し付ける。
不死病患者の精神活動は、機械を用いて測定しても、フラットラインの形で現れる。
眠れる彼女らの様態からなにがしか読取ろうとするのは、言わば眠らぬ者の業であり、幸福も無残も、外形的な状態から解釈するのが常だ。
攻略拠点を徘徊する不死病患者には、労苦を負わされた個体は一人もいない。
皆、何かしら、快の感情を齎す行動を入力されている。
人類文化は喜びと希望によってこそ継承されるべきだったが、不死病患者には如何なる意志も存在しない。だからこそ幸福な動作の実行をプログラムする必要があった。『笑うから嬉しいのだ』。これは数世紀も前に陳腐化した理論だが、継承連帯では一定程度、その簡素極まる仮説が信仰されていた。
たとえ意識がなくとも、肉体の状態が快ならば、少しでも神経系に快の情報を入力できるはずだと彼らは信じた。その試みがきっと彼らの夢、無明の夢、観測不能な精神世界を、よりよりものにしてくれるはずだと願った。
馬鹿げた空想だ。都合の良い空想だった。
だがリーンズィもまた、願わずにはいられない。
レアと額を摺り合わせながら、進路を塞がれて立ち止まっているニノセの、その微笑を浮かべた虚ろな顔を垣間見る。
瞑目し、レアと唇を重ね、それから、小さく祈る。
「……みんな幸せでありますように」
リーンズィは、言葉のままに願った。
「……みんな幸せでありますように」
レアは、リーンズィの幸福を願った。
……不死病患者と変わるところの無いニノセたちを害することは、クヌーズオーエの法で禁じられている。彼女たちは最早何者にも縛られず、どのような悪意にも妨げられない。
永久に互いを互いの杖として、偽りの愛を背負い、歩き続けるだろう。
寄り添う二人を鏡として、リーンズィは自分とレアの姿を、ミラーズ、リリウム、ユイシス。
愛しい影たちを幻視する。
今だけでも、これで良かったと思えれば、どれほど楽だろうか。
「この子たちも悩みなんでしょうけど……リゼはどちらかと言えば、あの、ケンドー? やってる子が心配なんでしょ」
「うん……とても心配」
目下、最大の悩みであった。
諸々の手続きを終えてもなお、どうすれば良いのか分からない。
……スチーム・ヘッドとなったリクドーに対して、まずは拷問に近い例の教育を施し、辱め、精神的に屈服させるべきだという指摘が立ち上がった。
FRFはこれまでに何機ものレーゲントを鹵獲し、人格崩壊に追い込んできている。
『メアリー』の肉体の履歴を確認すれば、彼女たちを道具のように扱うFRFの非道さに誰もが言葉を失うだろう。
そこで、捕虜に等しいリクドーに対して、積年の恨みを注ぎ込んでやろうとするのは当然の動きだ。
彼らを静止すべく議論を始め穏健派を飛び越えて、予想外にも真っ向から食ってかかった兵士がいた。
ケットシーだ。
捕虜たるリクドーについて、自分が全責任を持って『道』を教え込むと宣言し、さらに誰にも理解出来ない独自の理論で、リクドー懲罰論に対して、非常に熱心に反論した。
リーンズィも知らない間に、ケットシーは一人軍団・アルファⅡモナルキアの管轄ということで正式に処理されていた。おそらく懲罰担当官コルトの計らいだが、リーンズィとケットシーは仲を深めつつあるものの明確な関係性が出来上がっていない。色々と迷惑だったのだが、それが微妙なところで功を奏した。
リーンズィがケットシーの主張を権限でごり押す形で、取り敢えずは反FRF勢力を退けられた。その後も異論は噴出した。敵対的存在であるFRF出身者には相応の立場を理解させる必要がある、というのは、どうであれ尤もらしい理屈ではある。
だがケットシーが現実にリクドーに教導を、彼女の言う『道』を教え始めた途端、旗色が一転した。
配属一日にしてリクドーを公道に立たせて、服を脱がせ、それから見物人の前で殺した。
蘇生したらまた殺した。
刃を握らせて打ち合い兵としての心得を教え込んで真正面から丹念に殺す、必要の無い水分補給をさせてひとやすみと見せかけて殺す、愛を囁き押し倒し部屋に連れ込んで存分に可愛がってやりその途中で殺して窓から投げる、手脚を切ったあと再生が進まないよう適度に痛めつけながら不死の弱点を痛みと共に叩き込んで殺す、特に前触れなく不意打ちで殺して説明もしない、臓物を撒き散らして嬲り者しながらはらわたで首を絞めて殺すなどなど、バリエーション豊かに殺し続けた。
攻略拠点においてはあるまじき行為である。怒った猫がびゅんびゅん飛んできてケットシーに体当たりし、引っ掻き、キックして、にゃーと面倒くさそうに鳴き、謎の光を発して何度も戒めるという未曾有の事態に発展した。
事実上の師匠であるロングキャットグッドナイトの意向を組んだケットシーは、今度はクヌーズオーエの攻略拠点外部へと脱出。
ぐったりしたリクドーを連行してさらに愛し、教育し、ひたすら殺した。
痛めつけて分からせるだとか、尊厳を破壊するために陵辱するだとか、そういう次元ですらない。
言うなれば目的化した拷問だった。以前『キュプロクスの突撃隊』として活動していたようなスチーム・ヘッドでさえ絶句する所行だ。
ベテランからしてみれば、死とは積み重ねてきた数字でしかない。ところが成り立てのスチーム・ヘッドは事情が異なる。肉体的には不死でも、精神がまだ死に慣れていない。一度きりの死なら、人間の精神は耐えられる。何せ人間は例外なく人生の最後にその苦痛と戦って死に遂げるのだから。一度きりの人生なら、人間はその終点に至るまで、戦えるように作られている。
しかし不死病患者の生命には終点が存在しない。老いることも朽ちることも眠ることも無い。
どれほど痛めつけられようとも、どれほど酷く尊厳を損なわれようとも、どれほど執拗に粉砕されようと、肉体は無制限に補修され、命が完全に失われる度に、熱力学すら無視して損失を回収し、より死ににくい存在となって蘇生する。
それを何度でも繰り返すわけである。
死に慣れているなら少し苦しいだけだろう。しかし、死んでも終わらない死との戦いは、数日前まで定命の存在だった機体には、あまりに過酷だ。
虐待などと言う生ぬるいものではなく、リクドーは僅か一日で考え得る汚辱と苦痛の大半を注がれ、恥じらうべき部分全てを失った。
次の朝を迎える頃には己が裸体を晒していることすら気にせず、というよりも気にする余裕すらなくなり、滅多刺しにされながら苦しげに息をして立つだけの存在になっていた。
酸鼻極まるこれらの行いは、俗に言う『デッド・カウント稼ぎ』である。
ケットシー曰く、「ヒナは詳しいから分かる、成り立ての子は出来るだけ最初にいっぱい死なせた方が生存率上がるし、慣らしてあげないと可哀相だし、とりあえず五百回ぐらい殺すね。あと痛くないと覚えないって時代劇で見た。ストレスの緩和になるのと、視聴率もほしいから、定期的にやらしいこともします。チャンネル登録よろしくね!」。
デッド・カウントを進めるのは、戦闘用に仕上げるならば必須の工程ではある。数千回の死を経てスチーム・ヘッドは欠損した腕部を瞬時に修復せしめるほどの不滅性を獲得するのだ。つまり、再生能力の強化を期待して意図的に金苦しめて死なせる行いなので、泣こうがわめこうが終わらないのである。
リクドーが望むなら、いずれその連続して死に続ける試練に挑むことになってはいただろう。
だがそれは悪性変異や人格記録破損のリスクを勘案しながら、慎重に、長期に渡って計画的に行うものなのだ。
それをケットシーは初日から特に説明無く始めてしまったのである。 東アジア経済圏最強のスチーム・ヘッドの教育観は、端的に言って異常だった。三百人で数千倍の兵力を押し退けたという伝説のスパルタ兵でも頭がおかしくなって自殺するだろう。
リクドーはわけも分からないまま殺され、辱められ、愛を注がれ、個人が実現し得るシチュエーションの限界点で、数え切れない程殺された段階で、やっと自分が何故殺されているのか説明を受け、理解を待たずまた殺された。
ライブ配信には相当な視聴者が張り付いていたが、野次馬からもやめさせるべきという声が出ていた。怨恨が絡むにしても、拷問紛いの鍛錬は止めなければならない。幼い子供を残して不死の兵士となった機体も多いのだから、我が子ほどの外観年齢の娘が玩具のように嬲られているのは見るに堪えないだろう。
クヌーズオーエ解放軍の現在の価値観では、FRF憎しの世情より、ケットシーはやりすぎだという感情の方は優先されるのだ。
実際に何機かのスチーム・ヘッドが止めに入ったが、全て無駄だった。
ケットシーは、強かった。ニノセを三度殺すついでに他のスチームヘッドの両腕を切断して胴体を蹴り飛ばすなど造作も無い。自分を相手にしながらでも平然とリクドーを斬殺し続ける海兵服姿の戦姫を前にして、諦める以外には何も出来ない。
なお悪いことに、リーンズィが方々にリクドー受け入れプランを送信している最中にことが起こってしまったので、対応がかなり後手に回ってしまった。気付いたのは懲罰担当官のコルトからリクドーの処遇に関する打ち合わせの通信があった時で、あのコルトに「融和ムードの醸成とかそういう操作を完全に無にするレベルでヒナちゃんへの苦情が入ってるんだけど、私はどうすればいいと思う?」と複雑な泣き言を言われた時点であった。
融和ムードを醸成させる試みは完璧に無意味化していた。ケットシーは残虐すぎるので、監督責任者であるリーンズィはFRF出身のスチーム・ヘッドを保護するべきということで世論は団結してしまった。
全てケットシーの残虐な奇行のとても悪い意味での功績である。
そうこうしているうちにFRFに関する記憶は再閉鎖され、リクドーの素性もマスキングされて不明となり、忘れ去られた。そして「事情は分からないが『おはよう』から『次のおはよう』までケットシーに殺されまくっている新入りがいるらしい」という怪談紛いの現実だけが残り、それはそれで違う問題となった。
けっきょく、リーンズィとロングキャットグッドナイトの二人がかりでいっぱいケットシーをお説教して、謎の世界観を、謎の言葉でやりくるめ、いちおう教練の強度を下げさせることには成功した。
それらの試行があまりに忙しくて、それまではリーンズィはレアとも満足に会えなかったのだ。
愚痴や相談を散々聞かされたレアも、リーンズィと一緒にげんなりしてくれた。
「びっくり、びっくりよね。あのサムライ娘がFRFにそこまで入れ込むというのもそうだけど、リクドーだっけ、あのちっちゃめの子がぐちゃぐちゃにされてるくせに、あのイカレに必死で付いていこうとしているというのが」
「そう、そうなのだ。そうなの。せめて助けてと言ってくれれば対処が楽だったのに。リクドーはいっぱい殺されることを許容して、ケットシーのことを、挙げ句には師匠などと……」
ケットシーの仕打ちは常軌を逸していたのだが、合法的に静止するのは難しかった。
それは他ならぬ被害者であるリクドーが、矮躯に相応しくない情熱で、ケットシーから智慧を獲得しようとしていたからだ。
抵抗するのは不必要に体を開かれ、人間性を辱められているときぐらいで、あとはどう痛めつけられようと何度殺されようと、逃げようとはしなかった。
出来ないのでは無い。しなかったのだ。
本人が自由意志で決定したことならば、どれほど悲惨でも、合意の上でのトレーニングとなってしまう。悪性変異のリスクは厳密に管理されるべきなのだが、何せリクドーはアルファⅡモナルキアが管理しているスチーム・ヘッドだ。その点は何も問題ない。
諸処の要素が裏目に出て、規則を持ち出しての干渉が出来なくなってしまった。リーンズィが駆り出されたのには「ケットシーと親交があるため」という事情が絡んだのだ。
残虐さは減退したものの、尚もリクドーが教練を望んでいるので、ケットシーはまだリクドーへの過酷な教育を終わらせていない。『勇士の館』に帰れば、そこでは今も惨死と淫蕩が循環しているに違いない。
ミラーズとユイシスにストッパーを頼んではいるが、今後リクドーをどうするか、ケットシーをどう諫めるかは、大きな課題だ。
結局リクドーに移植したサードのエンブリオ・ギアの機能確認も出来ていない。「あのままだとお腹の中で育っちゃう感があったからいっぱい斬って色々なところに繋げておいたから大丈夫」とヒナは得意満面だったが何が大丈夫なのかリーンズィには不明だ。
とにかく、いつまでも放置していられない。
このままずっとレアと密事に浸っていたいのがリーンズィの本音だが、互いに多忙の身だ。
いつかは覚悟を決めて「ただいま」を言うしか無いのだった。
ニノセの通行待ちを言い訳に、ライトブラウンの髪の少女が腕の中の恋人と戯れ初めて、数分が経った。
「……何か変じゃない?」と最初に口にしたのはレアだ。
リーンズィも気付いていた。
目の前に立つニノセと『メアリー』に動き出す気配が無い。
通常なら障害物を検知してリーンズィたちを避けて歩行を再開するはずである。
彼女たちの瞳は、虚無へ通じる窓にすぎない。どのように睦まじく振る舞い、どのように愛を演じていようとも、そこに魂や意志は存在しない。
だというのに、リーンズィは彼女たちの目に作為を感じた。
「……何か言いたいのか? 言いたいの?」
リーンズィは問いかける。形ならぬ形、声ならぬ声に問いかける。見えざるは見えず、聞こえざる聞こえない。しかしそこに何かがいるとをヴァローナの肉体が告げている。情愛に浮かされていたはずの肉体が急に冷え、背筋を怖気が駆け抜ける。
リーンズィは『見たいものを見せる目』であるヴァローナの瞳を起動した。そうすれば異常の原因が分かると非言語的に判断したのだ。
その瞬間、視界が、不意に色彩を失った。
妖精郷の森に漂う朝霧の如く乳白色の煙は、産業革命期の排気じみて暗く淀んだ。
清廉だった大気が流動する液体の粘性を帯びて、リーンズィの体を包み込む。
レアせんぱい、これはいったい。
呟いて、少女は自分が何も抱えていないことを発見する。一切の温度が肉体の表面から滑り落ちる。
薄汚れた薄明の朧気な光の中で、少女には何も聞こえない。
己の心臓の音すらどこか遠い。
それはどこか遠くの地平線にあって鈍く低い音色で体を揺らしている。
自分自身という存在のアンカーをどこに置いてきたのか少女は懸命に考えた。
それから自分の名前が欠落してしまっていることに気付いた。
周囲を見渡す。誰もいない。
正面を見る。誰もいない。
誰でもない、がいる。
問いかける。
レアせんぱい?
その名前は思い出せる。愛しい人は思い出せる。
だが、誰もいない、はレアせんぱいではない。
誰も居ない。リーンズィは吐き気を感じた。
誰もいない、になった空間に問いかける。
何だ? 君は誰? 私に何をしている。何をするの。
誰もいない。そこには誰もいない。誰もいない。誰もいないよここには誰もいない誰もいない誰でもない誰でもないと誰でもないを名乗る誰かが名乗っているが彼女こそが誰でもないだった。私は誰でもない。僕は誰でもない。僕たちは誰でもない。ここには誰もいない。ここには、もう誰でもない、しかいない。
息が苦しくなる。息の仕方が分からない。
少女は己の胸を確かめる。
服の上から乳房を押す。
肉の感触はある。
だが臓物の在処が分からない。
自分の心臓の位置が分からない。
胸を掻き毟りたくなる。肉を裂いて自分の中身を確認したくて堪らない。
だけど誰でもないの前には何もない。
髪を冷たいものが伝う。それが汗なのか雨なのか少女には分からない。
少女の立つ場所には誰もいないから。
少女もまた誰でもないから。
無数の影が目前を通り過ぎる。誰でもない。透明な形をした色のない奇妙が生えていない脚を器用に動かして波のように蠢き少女の脚を芋虫の群れのように擦り景色が捻れ曲がり幾何学模様を描いて延伸し自分自身を空間へと飲み込んでいく。そこにはずっと前から見たことも聞いたことも名前も無い樹木が明日から繁っていて古い時代のフィルム映像のように規則的に揺れているのだけどそれは空に見たことも聞いたことも名前も無い太陽と月と星が行き交っていて光を求める色の無い葉がぐるぐるぐるぐるぐるぐると回っているのに合わせて天と地がぐるぐるぐるぐるぐるると回転しているからで少女は今ここがいつの何なのか分からなくなったが誰でもない。
白黒の雷が落ちる。色彩のない光が落ちる。
少女は身を竦ませた。光の奔流が水飛沫のように飛び散る。
息をしようとするが、誰でもない。息が出来ない。
誰でもない、に息を吹き込もうとする。
誰でもない、は息をしている。
少女はそれを見た。
それの存在に気付いた。
それは誰でもないと誰でもないが立っていた場所に、もう立っていた。
彼女たちは重なり合っていて、同じだったから、破綻していて、誰でもないだった。
ニノセ、と少女は指を差す。君はニノセ。
誰でもないの指を使って、目前に立つ存在の、片方の名を唱える。
君は、ニノセだ。
虚ろな眼窩に淡い笑み。
自分自身の恒常性に属する偽りの不死病患者。
もう片方を指差す。
名前を唱えようとする。
失敗した。誰でもない。
だから、分からない。
君は誰だ? 君はメアリー。
メアリーではない。そうだ、君だけが誰でもない。
少女は己の脚を確かめた。
どこに立っているのかを知った。
どこにも少女はいない。
自分は、ここにはいない。
そのことを理解した瞬間に視界が定まった。
ここは、自分が生きている世界ではない。
複雑に入り組んで破綻し続ける模造の世界で、彼女だけが真実誰でもない。
誰でもない彼女が、そこにいる。
おそらくカタストロフ・シフトに似た現象が励起されたのだ、と少女はどうにかして思考を紡ぐ。擬似人格だけが不明な領域に転送されているのだろう。人格記録媒体をハックされた? いったい何を通して? 思いつく節がある。少女は、そんなの決まっているじゃないかその目を通してだよその何もかも見えてしまう瞳は僕が図面を引いてリリウムが作り上げたんだから、と思った。思ってから違和感を覚えた。そんなことは思っていない。そこまでは分かっていない。それは、明らかに誰でもないからやってきた思考であった。少女には少女と少女の区別が全く付かなかった。少女は言い聞かせる。ここにある脳髄は自分の脳髄ではないのだからそれで考えようとしてはいけない。ここにいるのは、少女自身ではなく、おそらく誰でもないの肉体だ。自分は欺瞞されている。
少女は自分のものではない息と、自分のものではない心臓の、誰でもない意識の上で冷静な思考を紡ぎ、それと対峙した。
誰でもないは、狂った生態系が構築されては崩壊していく無色彩の世界で、ニノセと手を繋いで佇んでいる。隠者のローブめいた質素な行進聖詠服には目立った装飾がなく清廉なる導き手とは対照的だったが両方の首元に設けられた前留が左側だけ解放されていて布地が垂れて臍までの肌が見えていた。白い肩に黒い髪の束が垂らされていてその非現実的な黒い波は彫刻のように完璧な乳房の膨らみと化学繊維のように滑らかな肌に浮く扇情的な肋骨を渡っており毛先からは絶え間なく水滴が落ちている。
その娘はずぶ濡れだったがそれというのも土砂降りの雨を冠にしているからで顔かたちは降りしきる雨と暗雲に鎖されて僅かに輪郭が覗える程度だった。ブーツを履いた足下は濡れていない。暴風雨は彼女の頭だけを覆い隠す。星の導きと託宣について語る神聖な娼婦の被る薄い絹のヴェールに似ている。
基底存在たるメアリーの背丈はニノセよりも高かったが、誰でもない自身はニノセよりも背が小さかった。
少女はようやく彼女の姿を捉えることに成功した。その姿と様態から、君の考えている通りだよよく気付いたね、と少女は推論した。ここは僕の構築した言詞構造体で君にも分かりやすく言うならリリウムの<大聖堂>と似たようなものだよそういうわけだから何もかもが僕自身なんだよ言ってしまえば僕の胎内のようなものなのさ君はそこに作られた永久に産まれてくることのない赤子で正確性を意識して表現するなら代理演算された仮想身体へ転写されているにすぎないのだから君と僕の間に境などというものは存在しなくて君が考えたことは僕の考えたことになるし僕の考えたことも君の考えたことになるという塩梅でつまりお互いに言葉を交す必要さえないんだけれど今の君にはまだ適応が難しいかもしれないね、と少しだけ考えた。
それから戦慄した。
誰でもないと、自分自身とを、切り分けることが、全く出来ない。
少女は目前の異常事態へと推論を重ねる。どうやら君は僕とどこかで遭遇しているみたいだねその反応で分かるよ僕の在り方というのは随分と歪んでしまっていて普通は見ることも聞くことも出来ないんだ何も分からないまま僕と出くわすと普通は自分が発狂したんだと思い込んでそのまま本当に発狂してしまうこともあるからね全くこうなってからは困ったもので複雑な介入無しで意思疎通できるのはリリウムぐらいだしコルトと接触を続けると互いに不整合を示す始末さああヴァローナですらも僕のことは結局あまりはっきりとは認識出来なかったんだけど何となく会話は出来たんだよねそれを考慮すると肉体関係というのも意外と役に立つものだよ僕と彼女は一晩二晩の淡い思い出を架け橋にして接続していたんだ骨と肉と芳香と刹那的な享楽の記憶が僕たちを結んでいたのだね、と雨音が歌う。どうであれ認識してもらえるのであれば僕は楽が出来て良いよ少しでも繋がりが出来ていないと情報伝達が全然出来ないからね大抵皆僕が話しかけても無視するし逆に話しかけられても僕には全然伝わらないし不便で仕方ない。
それで、君は何? と少女は首を傾げた。
純粋にわけが分からなかった。どうしても何とは失礼じゃないかな僕は君の花嫁とも深い仲だし君のことも色々と惚気話も聞かされているよ、としか考えられない。
それから、誰? と聞いたほうが礼儀正しかったかもしれないと思って、誰? と思い直した。ごめんなさいも付け加えた方が良い? 良いですか? 構わないよ実のところ何にも名乗らないで君の擬似人格を侵犯している僕の方が無礼だからねこれって目標言詞構造体の陵辱にも等しい行いだし逆に謝られても申し訳ない気持ちがあるからむしろ謝らないでほしいかな、と少女は納得した。あまり納得出来なかった。ならばせめて名乗るべきでは? 私はアルファⅡモナルキア・リーンズィ。とても不愉快だ。不愉快です。あなたは?
誰でもない、は仮想世界の少女の脳髄で考える。僕はセラフィニア。セラフィニア・ヴォイニッチ。第九十九番攻略拠点を占領して時空境界面を通して隣接する第百番攻略拠点を言詞的に統合しているスヴィトスラーフ聖歌隊の大主教で今は信徒にして端末の一人であるマリーゴールド・ヴォイニッチを通じて君に干渉している丁寧語は必要ないよリリウムの花嫁は僕の花嫁も同然だから。
私はリリウムの花嫁ではあるが君の花嫁ではないし、あとマリーゴールドはそこにいるべき彼女の名前ではない、君が重なっているその体はメアリーだったはず、と少女は考えるが、いやそれはこの隣の子が勝手につけた愛称だよ本来のレーゲントとしての朽ち名はマリーゴールドなんだ僕たちとしてはこんな風に愛してもらえて満足だしここにいる私はもうメアリーという名前で生きようと思っていますが今は建前上ヴォイニッチの一人として発言しています、ということを思い出して、そういうものなのかと頷いた。
誰でもないは、ただ立っているだけで何もしなかった。大主教ということなので、リリウムと同じく凄絶な美貌の持ち主であることは疑いようが無く、ただ一言で万の兵士を動かすのだろう。しかし、誰でもない、は何もしない。少女もまた、何もしない。
誰でもない仮想の少女が自問自答をしているだけで、互いに声は一つも発していないのだ。そもそもこの空間には言葉は単独では存在しない。意味は、出力されるとその全てが形象を伴ってしまうのだと推測された。少女が考えごとをするだけで遠方で高層建築が倒壊し代わりに巨大な腕が生えてきて辺りを掻き回し自殺して自分自身の残骸から新しい高層建築を引き出すし目も耳も無い背の高い六歩脚の獣が空に見えない階段を作って群れを成して通り過ぎていく。思考と現象に関連性を見出すのは困難だがこの空間では何かしらの結びつけが行われているのだ。少女には想像もつかないが、ちょっとした考え事をするだけでも相当な改変が必要になるんだよ僕はこの言詞空間を組み替えることでしか思考を自由に出来ないのさ、ということだろうか。
これが大主教ヴォイニッチという存在なのかと少女は驚嘆してしまう。伝え聞くところによると、優れた才智によって恒常性を無秩序に冗長化して変容と拡張を無尽に繰り返す超大規模言詞機構。千の朝と千の夜に祈りを捧げ、生きながらにして世界そのものと交わり、世界の子を孕み、この世界へと違う現実を産み落とした、狂える奇跡の実現者。そこまで狂ってはいないよ、と少女は不満に思う。狂ったほうが楽なんだろうけどこうなってしまうと狂うのも難しい仕事でね何回エミュレートしても発狂する数秒前からバックアップから正常だった頃の擬似人格がリリースされてしまって総体に何の影響ももたらさないんだ本当に何にも出来ないんだよ僕たちは嫌になることばかりさ神様に一番近いなんて讃えてくれた信徒も取り込んでしまったし。
誰でもないの剥き出しの片側の素肌は、編まれた髪は、ことごとく濡れている。世界そのものと交合した聖処女の体は濡れて、艶めいている。
祈りの果てに奇跡は起きる。受胎する。奇跡は出生する。
それがどのような奇跡かは誰も知らない。
対峙する少女は思う。それで、いったいこの人は何をしに来たのだろう。思うところはそれに尽きる。デートを邪魔したのは悪いと思っていると、いや思っていないに違いない。いくらでも予想することは可能だ。もしかすると、来た、という表現も正しくないのかもしれないが、とにかく理由を少女は考えた。考えなければ、互いに考えることが出来ないからだ。少女は少女の言葉を想像する。おそらく、長話をする気は無いよ今日はアルファⅡモナルキアではない君つまりリーンズィと専用の迂回路を作りたくて挨拶に来たんだよだって君たちはどうにも信用出来ないところがある変だとても変なんだ君たちの昨日は僕が見てきたどんな機体とも違う構造を持っていて恐ろしいんだでも君はまた違うように感じられるから互助の取り決めが出来ると見込んでここに引き寄せたのさ全く余計な遠回りだその通り遠回りしか出来ないんだ僕は予め保険を打ちたくてたまらないというのが僕の悪い癖でね保険を打って保険を打って保険を打って手品をやっている間に大主教になってしまったわけだね君への迂回路を強引に成立させたのもその性分のせいなんだ笑って許すか泣いて諦めるか、というところだろう。きっとそこから続けて、全く無駄な手続きというわけでもないんだよだってアルファⅡモナルキア総体を制御するにはシステムから切断されて無垢の状態になった君へ干渉するしかないわけだからそうなると防衛手段を張られるよりも先に枝をつけないといけないそのための手を回すのは早ければ早いほど良い、などと言い訳してくるに違いない。
誰でもないはニノセと手を繋いで佇んでいる。
少女は思った。
君なら分かるのだろうか。君たちは幸せなのだろうか。幸せなの。
私は上手く二人を結べただろうか。
私は、君たちを救えた?
君たちの恋は実った……?
大主教は、花のように笑った。
「それを伝えたくて私は大主教様をこの体に、神の褥へ呼んだのです。リーンズィ様、私は幸せです。私たちは幸せに暮らしていて、きっと幸せになれると思います。あの滅び行く都市では、物言わぬ愛玩物としてしか機能を示せなかった私ですが、この娘は、ニノセは私を心から愛し、求めてくれました。この子だけは、導くことが出来ました。ふふ。可愛らしい私のニノセ。この子が小さな頃からずっと私が相談を聞いていたんですよ。返事をする自由すら無かったけど、縋ってくるこの娘が愛らしくて、瞳がとっても綺麗で、たまらなかった。……そして、あなたのおかげで、ニノセは命を取り留めました。これからも、ずっと一緒にいられます。だから、その感謝を伝えたくて、私はヴォイニッチ様の力をお借りしたのです。リーンズィ様、ありがとうございます。私に恋をしているニノセを助けてくれて、本当にありがとうございます。ヴォイニッチ様も端末となった私の願いを聞いて下さり、ありがとうございます。私たちは、幸せです」
少女は狼狽した。私は死ぬしかなかった命を永らえさせただけだし僕は誰の願いも叶えないよ神様じゃないんだからと溜息をつき未完成な機能の実験台にしただけだから本当は感謝されるようなことは何にもないのだないのないのですそうだよ僕だって君たちを目標と接触を持つための道具にしただけさ僕たちは因果律や可能性世界を消費することに何の躊躇いも覚えないろくでなしなんだからと自責をした。
誰でもないはただそこで佇んでいる。
真に誰でもない存在には、それしかできない。神がそうであるように。
そういうわけだから、と少女は想う。今日は挨拶だけにしようか。
嵐の前にまた会うことになるだろうから。
だから、ねぇ君、起こしてあげなさい。
いつのまにかそこに誰でもないではない、誰かが立っている。
くりくりとした目に、見覚えがある。
彼女は光輝く白い猫を抱えていた。
その猫を、高く、高く、祈るように掲げる。
ぐぐ、と精一杯に伸びをして、こう言った。
「おはようございます――目覚めなさい」
猫が鳴いたのを少女は聞いた。
リーンズィは目をしばたかせた。
停止したニノセとメアリーが、恋人らしく手を繋いでそこに立っている。
乳白色の大気は静けさで満ちていて、空には曖昧な太陽の輪郭がある。雨の残り香に乱反射して、幾重にも重なる虹の冠が見えた。
熱を感じて視線を落とす。
リーンズィの首に手を回す白兎の乙女は、上気した顔に、きょとんとした表情を浮かべる。
「リゼこうはい、どうしたの? いきなりボーッとして。なんだか、目の色が赤になってたけど」
ライトブラウンの髪の少女は不意に歓喜と、恋人への愛おしさに駆られた。
無言でレアに顔を寄せた。
考えていることまでは分かるまい。レアとリーンズィは同じ少女ではないのだから。ここには奇跡はない。互いを求める気持ちだけしかない。
だが心は確かに伝わった。
レアは小さな顎を上げ、自分からリーンズィを求めた。
二人は目を薄く閉じ、恋人と接吻する。
互いの形を確かめ、唇を離す。
緑と赤の瞳が、恋慕に潤む視線を、熱く絡ませる。
「……いつもよりもっと甘いわ。ねぇどうかしたの?」
「夢だと思う。夢を、見ていた」
「夢? スチーム・ヘッドは夢なんて見ないでしょ。……妄想なら、わたしもよくするけど」
「うん。だから、私も、幸せな妄想を、していたのだと……思う。たぶん」
「ふうん? それが夢なのね。どんな夢を見ていたの?」
「私が誰かを幸せに出来たという夢だった」
黒猫を頭に乗せた猫っ毛の少女が、いつのまにか霧の中にいた。色彩の欠けたような印象を与える簡素な行進聖詠服のそのレーゲントは、動作不良を起こしたニノセとメアリーを誘導して、猫たちと一緒に、どこかへと歩いて行く。
にゃーにゃーと鳴く声がする。きっと彼女たちはどこまでも行くのだろうと、とリーンズィは思う。何故だか涙がにじんでくる。
自分はきっと彼女たちを繋ぎ止めることが出来たのだろう。そう信じられた。
リーンズィには、ヴァローナの瞳から侵入してきた得体の知れぬ存在の、その痕跡を余すところなく記憶出来たわけではない。
だけど、ライトブラウンの髪の少女は安堵の息で「良かった」と呟いた。
レアが不思議そうにしているのに微笑みと再びのキスで返す。
幸せな恋人たちは、また道を進む。
行き着く先は誰にも知れない。
辿り着くのは、誰でもない。誰でもないだろう。




