セクション3 エンカウンター その⑦ 祭壇の羊、再誕と祝福(4)
ニノセの変性が収束したあと、ケットシーが彼女に施した外套の覆いはスヴィトスラーフ聖歌隊の乙女たちによって剥ぎ取られた。ケットシーは若干ショックを受け、大人しくブレザーを着直した。
無抵抗に横たわる肢体を、少女たちは検めた。メアリーなる廃レーゲントと結ばれた手だけは解かぬようにしながら、聖歌隊の祈り手はニノセの肉体を傷つけることのない範囲で触り、形を知り、どうあっても彼女が二度と目覚めないことを確かめた。
そして静かに声を合わせ、歌を奏で始めた。
崩壊した韻律による生誕の歌を。
レーゲントたちは、ニノセを彼女らなりの手段で祝福していた。友人に、恋人に、聖父スヴィトスラーフに対して行うのと変わるところのない熱心さによって接吻し、その形を丹念になぞり、薄く息をするだけのこの未熟な不死を、新たな同胞として受け入れた。
神の御国をくぐる資格を得た存在として、確かに認定した。
「ああ、聖なるかな、聖なるかな……」
ニノセに触れる聖歌隊の一人が歌を紡ぐ。
そうしているうちの大主教に仕込まれた言詞回路が起動し、感極まった様子で慨嘆の声を上げるようになった。
「ああ、ああ! こうして業苦は遠ざかり、清らかな肉がこの娘に与えられました! 再生の時を迎えたのです。おぞましきファーザーズ・リデンプション・ファクトリーの罪は償われた! 聖なるかな、聖父スヴィトスラーフ様。聖なるかな、大主教リリウム様! 聖なるかな、我らが新しき花嫁、リーンズィ様! 私たちは新たな恩寵を目の当たりにしました! 奇跡の実現を、祈りの集約を目撃しました! 聖なるかな、リーンズィ様、聖なるかな、聖なるかな!」
実のところ、スヴィトスラーフ聖歌隊にとって、FRFは救いがたいものだった。
普段は使徒アムネジア、ロングキャットグッドナイトの施した『忘却』の聖句によって認識を阻害されているが、FRF市民が不死に対して抗体を持っていること自体は、とうの昔に知れ渡っている。平時においてFRF市民、これら生命科学の遺児たちが忘却の霧へと追いやられているのは、彼らの救済を意識すること自体が、凄絶な認知負荷を生むからだ。
彼らは体質的に不死の恩寵に触れることが出来ず、偽りの救世主を崇め奉り、そればかりか自分たちを救おうとするスチーム・ヘッドを肉無しなどと呼んで忌み嫌い、陵辱し、破壊する。
そんな存在をどうやって導き、次のどこかへ連れて行くことが出来るだろう? 彼らを憐れみ我が身を捧げて救おうとした再誕者もいたが、いずれも多機能な愛玩物として酷使され、その聖なる心財を消費されて終わった。
横たわるこの『メアリー』のような末路は、さほど珍しくもないのだ。
聖少女にして大主教であるリリウムは、FRFの救済を『清廉なる導き手』である自分への試練と受け止めて、都市の外側から地道な干渉を繰り返している。
きっとリリウムならあるべき風景には辿り着くだろうと信じることは出来た。
だが、それが限界だった。
奇跡が通じないならば実力行使しか無いが、スヴィトスラーフ聖歌隊の取れる戦略は、基本的に不死病の拡散を前提とする。暴力は選択肢に入らない。不死の恩寵を拒絶し、敵意と欲望によって生き、死ねば壊れるだけの欠陥品の人類を救済する方策など、多くのレーゲントには思いも寄らない。
無論、救いたい。
救いたいが、救えないのだ。
精々諦観を抱きながら、弱い願いを、幾つか祈ってやる程度の存在だ。
だが、こうしてニノセは変性した。
FRF市民は決して不死へ至れない、という不文律は破却された。
聖歌隊の少女たちは思い思いのやり方で彼女の体を試した。爪を食い込ませ、艶めく肉を強く掴み、接吻し、舌を噛んだ。己の指を噛み切って、骨を露出させ、その先端を、ニノセの胸へ突き刺した。
一滴の血も路面に流れなかった。
あらゆる傷は瞬時に再生した。
少女たちは華やいで抱き合った。それは、まさしく不死であった。
苦悩も罪業もここにはない。
ニノセと名付けられた脆い肉は祝福と寵愛を注がれ、一回限りの呪わしい命から解放され、永久の命と真の自由を約束された。
奇跡。まさしく奇跡であった。
アルファⅡモナルキア・リーンズィは、これまでに誰にも出来ないと考えられていたことを成し遂げたのだ。
「ああ、ああ。なんて素晴らしい。我らが新しい花嫁、リーンズィ様なら、この堕落した生者にさえ、忌まわしい都市の騎士にさえ、愛を振りまくことが出来るのね。見て、この滑らかな肌、清らかな肉、甘い声に、繊細な心臓の鼓動を。不死のもたらす香りの芳しさを!」
「静粛なる命の言葉を与えましょう。歓喜を与えましょう。無言のうちに神の御国を讃える、その栄誉を授けましょう。御国の到来したときにその門を潜れるように、眠れる魂に言葉で化粧を施し、神の褥へ横たわるための準備をしてあげましょう」
「こうなってしまえばなんて愛らしい娘なのかしら。ねぇ見て、ずっと『メアリー』の手を握り締めている。彼らにも真実の愛を求める心があるのね。ああ、神は、聖父様は、斯くの如き穢れた魂の者どもにも救いの道を残してくださっていた……」
「……だけど、スヴィトスラーフ聖歌隊の再誕者をこんなふうに壊してしまうことが許されるわけが無いわ。どれだけの暴虐を重ねればこんなふうになってしまうの。キュプロクスの突撃隊のように火と硫黄の雨によってしかこの罪は償われないわ」
「ダメよ、今日は彼女の新しい誕生日なのだから」
一人が首を傾け、呪詛を零した唇を唇で塞いだ。
歌姫たちは、神の花嫁たちは、互いに熱く息を吐きながら、甘く囁きあう。
「誰もが誕生日をお祝いされたいと願っている。そして、こうしてニノセは新しい誕生を迎えた。……清廉なる導き手はそのささやかな願いを聞き流したりしない。そうでしょう?」
鹵獲したレーゲントが虐待され、人格を崩壊させられている。
そのことへの憎悪までは押し殺すことまでは出来ないが、彼女たちは再びの誕生を迎えたニノセを、穏やかに受容した。
レーゲントでなくとも、大抵の機体がそうだった。
兵士であれ技術者であり抵抗感は示さなかった。
受容するか、無関心であるかだ。
希有な出来事ではあったが、しかし大局的に見れば、スチーム・ヘッドあるいは通常の悪性変異体が新たに現れても、解放軍に大した影響は無い。FRF兵士を安全な形で捕縛し、仮にスチーム・ヘッド化して解放軍に引き入れたとしても、やはり物珍しいだけだ。スチーム・ヘッドだけならごまんといるのだから。
摘まれたばかりの生花の方がまだ値打ちが付くだろう。
他には、悪性変異体から人体を新造するメカニズムについて関心を寄せる機体が多くいたが――わずかに、一握りの機体だけが、真実に気付いていた。
彼らは、つい今し方解体された悪性変異体の示した様態、その異常性に注目していた。
あるいは彼らにとっては、目の前で起きたことの本質は『異常事態』であって、FRFの人間を不死化させた、などという事態は、真実注目するに値しなかった。
彼らは己らの嫌悪感や違和感を口にすることを躊躇った。レーゲントたちが甘やかな祝祭の空気を造り出しているのを尊重した。だからそれらの疑念を旧知の機体や戦術ネットワーク上の匿名化された情報共有フォーラムへ吐露するに留めた。
彼らの思考が拡散することはなかったが、戦術ネットワークに接続する全ての機体は懲罰担当の監視から逃れられない。SCAR運用システムは値から外れている感情について、常に走査を行っていた。
外部折衝やシステムのトリガーを担当するコルトは人間味が薄く、個人としての罪悪感も曖昧だが、決してそれらを持ち合わせていないわけではない。そういった感覚がなければ、刑罰の執行に際しては感情で勾配をつけるなどという芸当は出来ない。そのため、特定の条件に合致する期待は別だが、コルトが能動的かつ無差別に他者の内心を検閲することはない。
それに対して昆虫の如き情報処理機構、彼女とは異なる側面を担当するSCAR運用システムは、機械的に情報を分類して、スコア化していく。
結果として、端末として活動する何機かのスチーム・ヘッドに、指令が下された。それは意識に投げかけられた言葉だったり、意識そのもののように振る舞う、簡易な命令言語だったりした。
彼らはSCAR運用システムの評価を高精度化するためのセンサーとして活動を開始し、匿名のフォーラムに参加したり、思考の大本である機体と直接的に接触して、情報収集を行った。
……マルボロは、不意に空を見上げた。
それから周囲を見渡した。
泣き虫の懲罰担当管、コルトの姿を探した。
全く無意識だ。
その不随意行動はエラーとして感覚された。
数秒後に、何故自分がそんな行動をしたのか、ようやく気付いた。
彼の人工脳髄にも、SCARからの信号が入力されたのだ。
エージェント・クーロン――マルボロは、非常に古い形式で作られたスチーム・ヘッドだ。
近代化改修によりEMP対策は施されていたが、電子戦闘能力は皆無に近い。
本来なら命令言語を受信してすぐ、全く無自覚に行動を開始していたはずだ。
だが、彼という擬似人格は八極の拳を、極意に至らないにせよ確かに修めた拳法家であり、己の肉体を支配することにかけては、カタログスペック以上の機能を発揮する。
擬似人格への干渉を通して、肉体のステータスが変更されたことを精密に検出し、逆算して、思考に改竄の痕跡を見つけた。
マルボロは、見えざる糸を手繰ろうとしてる支配者について考えた。
彼女に従うことの意味を検討した。
そして手近な機体に市長ネレイスの監視の引き継ぎを頼み、端末として行動を開始した。
「無意識にせよ、俺らの女王様であるコルトが仰っているわけだから、まぁ従ってやらんでもないな」
操られているわけではなく、意向を汲んだ形だ。マルボロはコルトのことを愛していた。
さてどう働いたものかと考えているうちに、神経系が再度の思考干渉を検知する。どうやら彼にしか果たせない役割を期待されているらしい。
マルボロはコルトのことを考えた。それから、煙草吸いたいな、この騒ぎに乗じて煙草拾いに行っても良いんじゃないか、とあまり関係の無いこと思った。
暗黙に戦術ネットワークへ報酬を要求した形だ。
こうした要求は、システムへの貢献度に応じて叶ったり叶わなかったりした。
SCARによる戦術ネットワークを介した全軍への誘導は、不可視だ。事前の知識が無ければ察知することさえ出来ず、影響力は自然な形で結実する。
裏返せば、どんな内容でも発せられる命令は甚だ弱いものとなる。
マルボロほど察知能力と経験値の高い擬似人格ならば、命令コードに抵抗することも可能だった。彼という人間の来歴はSCARという虐殺と統治のシステムよりも古い。そもそもクーロンはSCARスクワッド設立自体に関わっていたし、試作段階から端末を務めていた。
原型機とも顔見知りだ。
マルボロはコルトと彼女を構築する要素を熟知していた。それ故に生前に修めた技能と合わせることで、アルファⅠ改型SCARの動向について、ほぼ完全に察知することが出来た出来た。
端末の中で最もシステムへの貢献度累計が高いと同時に、システムへの背反が最も多い端末だ。優秀な配下、コントロール可能な駒と呼ぶには、不安定が過ぎる。
そんな機体が端末として平然と存在出来てしまうのが、SCARの支配力の穏微さを物語っている。懲罰に関してはコルトが強権を振るうし、キュプロクスが健在だった頃はマッチポンプで無茶をやらかしたものだが、現在はそれすらない。
コルト・スカーレット・ドラグーンは、クヌーズオーエ解放軍の支配クラスにおいて、ある意味では最も非力だった。彼女たちの誘導は澪を揺らす海風のようなものだ。司令所での協議が前提だが、号令を発すれば全軍を動かすことが出来るファデルはもちろん、スヴィトスラーフ聖歌隊の大主教、数万の不死病患者とレーゲント、信者たちを従えるリリウムにも劣る。
リリウムは愛と歌を振りまく偶像に過ぎないとみる向きもある。ある意味では正しいのだろう。マルボロから見たとき、『清廉なる導き手』は群体のように思える。
とかく、リリウムの手腕に疑いを差し挟む余地はなく、他者支配に関しては一級品だ。聖句をトリガーにして対象の生体脳の報酬系を外部から起動させ、脳内物質の急速な放出により思考を快楽物質で汚染し、同時に肉体を刺激することで肉体的快楽と被支配の快楽を直結。『大聖堂』と呼ばれる独自の言詞構造体に取り込むことで、人格まで掌握してしまう。
だが、SCARにそんな高度な機能は存在しない。
代表格のコルトが辛うじて表だった権力を有しているぐらいで、権力だけで言うならばファデルには及ばない。キュプロクスの失敗を以て、コルトは君臨者の座から自分で降りた。
はっきり言ってしまえば、SCARとは失敗し、頽落し、ゾンビ化してしまったシステムだ。
解放軍に有益だから活かされているだけの、失敗した羊飼い。
現実的には彼女たちの命令に、もう力も意味もありはしない。
だが、マルボロはそうは考えない。
言葉も姿も持たない、顔もない統治者へ呟く。
「気になるのは分かる、俺だってあれを見ておかしいと思った側の機体だからな。報酬がなくても、許可がもらえるんなら、野暮な話の一つもしにいくさ」
今回マルボロがSCARからの誘導に従うことにしたのは、まさしく彼の興味関心とネットワークの要求が合致したからだ。それに、元より断る理由が無い。
戦術ネットワークだけでなく、コルト個人にとっても利益になる行動だろう。
司令部直属の『都市漁り』である彼は、不良行動とは裏腹にコルトと戦術ネットワークの信奉者だ。解放軍を束ねるのはファデルだが、運営を円滑にしているのは間違いなく戦術ネットワークだし、このネットワークがもたらす規律に依らない緩やかな相互関係の集積は、永久に死せざるものたちのストレスを恒常的に緩和させている。
何よりマルボロは、ネットワークやシステムよりも、コルト個人のことを愛していた。
性愛や友愛の類では無い。言ってしまえば、それは望郷に近い。
アルファⅠ改型SCAR。
この機体群は異邦の超高性能スチーム・ヘッドの量産モデルであり、かつて彼が所属していた組織の希望だった。SCAR運用システムの本来の機能とは、監視と検閲によって同胞を支配し、扇動して導き、そしてあらゆる未来への責任を、単独で負うことにこそある。
利害調整の一環で結果的に人類の命運を背負って戦うことになった全自動戦争装置と似ているが、違う。
即ち、SCARは最初から世界を正しい方向に導くために作られた、救世の機械なのである。
人類文化継承連帯においては、これを小型の都市焼却機と見做していた。開発陣もその名目で予算を獲得していたが、それも結局は付随する機能にすぎない。戦術ネットワークを支配し、接続者を依存させ、場を支配する空気を誘導して意のままに操る。
初期ロットは四機だけだったが、量産・浸透すれば戦争を終わらせ、幸福のうちに人類を支配するための機構運用が可能になる。そう期待されていた。
だが人造の救世主たるには、不完全だった。
事実として、SCARは見た目よりも遙かに高度な機体だ。単機でクヌーズオーエ解放軍のシステム全体の何割かは完全に掌握している。この事実だけを抽出しても他の機体とは比較にならない。
それだけのことをやっても、SCARスクワッドは世界を救うに至らなかった。
その入り口にも立てなかった。
何故なら、方法論が間違っていたのだ。
所詮は兵器であり、出力できる解放は、武力による殺戮と支配だけだ。
それでは望んだ未来には、人類救済の結末には、決して辿り着けない。
「あいつに逆らって、癇癪起こされて撃たれるのも、まぁ先達としての役目だよな。でも俺だってまだ狂っちゃいない、草臥れていても、あれは俺たちの望んだ子だ、可愛いものは可愛い。最後の一人にまで自壊されたら……さすがに気が滅入る」
現在も発狂せず世界と戦い続けているコルトは立派だが、キュプロクスの失敗によって第一線からは退いたし、FRFとの接触にも負い目を感じている。
限界なのだ。
気晴らしで頭を撃ち抜く程度ならまだ良い。
発作的に自殺する機体はごまんといるし、スチーム・ヘッドはその程度では死ねない。
だがSCAR運用システムのもたらすプラズマの奔流に身を投げれば、再生など永劫彼方の出来事となる。理論上は再生すると言われているが、マルボロはそれが十年単位などという気楽な時間で達成されることは無いと、既に知っている。
「さすがに負担は肩代わりしてやるべきだ、俺たちの可愛いコルトのためには」
大事にしてやりたいという思いが強かった。
もっとも、代表人格たるコルトはシステム全体の動向など把握していないし、ネットワークでの動きからしか他者心理の推測が出来ないので、まさかそんなふうに思われているなどとは、全く分からないだろうが。
今回明らかにしなければならないのは、アルファⅡモナルキアが、リーンズィが、あのライトブラウンの髪の少女が、憐れなFRFどもに、一体何をしたのかということだ。
彼の考えている通りならば、彼の前に現れたアルファⅡモナルキアは、当初の想定とは全く違う機体だった。
アルファⅠ改型SCARに匹敵する電子戦能力、アルファⅡウンドワートが認めるほどの武勇。解放軍全体で見てもかけ離れた高性能機だが、あの二機と同様な機体構成をしているからには、どう考えても複数の無個性か人格記録媒体を多重連結して、完全架構代替世界を運営しているに違いなく、その最奥には『総体』として統合的な情報処理を担っている魂なき知性体が鎮座している。
そして、貧相な蒸気甲冑に反して、搭載機能は『悪性変異体の使役』と推定されている。剣呑極まりない。
調停防疫局のエージェントを名乗るこの複合人格機は、友好的な性質から問題を起こしていないが、仮に敵であれば以前の<首斬り兎>を上回る脅威であろう。
遭遇してすぐ全軍を巻き込んでの戦争になっていたに違いない。
だが、そうはならなかった。
『総体』同士の交渉の成果だろうか、とマルボロは推測する。モナルキアの総体には、SCARの見えざる総体が、まず最初に接触していたはずだ。そういった次元の遣り取りは、端末にまで降りてこないものだが、しかし機能や活動目的などの情報は、かなり詳細に要求されていたはずで、相当程度の交渉が行われたに違いないのだ。
おそらくアルファⅡモナルキア側の『総体』はそれに全面的に協力していた。擬似人格では知覚不能なレイヤーで、アルファⅠ改型SCARと同盟を結んだからこそ、アルファⅡモナルキアのような異質な機体が、すんなりと解放軍に受け入れられたのだ。
今更になってSCARがこのような反応を示すと言うことは、アルファⅡモナルキアと自己申告と今回観測された機能が食い違っていた可能性が高い。
マルボロはSCARの人ならざる心中を想像する。由々しき事態であろう。何らかの対抗措置が必要だ。しかし、状況を確認しないことにはSCARは行動を起こせない。俯瞰図を眺めてから行動計画を策定するこの出来損ないの救世主は、兎角手続きに拘る。
そこで大勢いる端末、その中でもマルボロの出番というわけだ。
他の端末では接触が難しいが、私的に交友を結んでいるマルボロなら事情を平穏に聞ける、とネットワークは判断しているようだった。
「そう上手くいくもんかね」とマルボロは溜息をつく。
SCARは頑張っている、といつも思う。マルボロたちも、あの自律歩行型機械をコルトと同じぐらい愛していたが、出来損ないとしか言いようが無い。彼女の姉妹機たちが、情動を切除された状態にも関わらず自壊を選んでしまう程度には。
SCARは異なる三つの機能を統合することで成立するシステムだ。コルト等の代表人格が意志決定や折衝を行い、キュプロクス等の戦闘端末が破壊的な実働を担当し、総合的な情報処理と重火器の運用については、無人化された運用システムが行う。これがSCARのコンセプトだが、残念ながら肝心要の情報処理機構は、旧世代の超高度演算装置に遠く及ばない。
端末を通じて他者の内心を検閲し、情報を収集していると言っても、物事の極めて表層的な部分しか読み取れない。
出力される回答も深層に斬り込むような強固なものでは無い。
今回の行動傾向の誘導も粗雑だった。そもそも、関係者が本人に聞けば分かるだろう、という想定の仕方が危なっかしい。甘い、というのもそうだが、それ以上に人間性の複雑さと不整合を見落としている。
マルボロの経験上、本人がやっていることの実態と、何をやっているつもりなのかは、往々にして合致しないものだった。『実態』というものは相手の理解にそぐうものではない。
他ならぬマルボロ自身がそうだ。自分の放つ功夫の威力が尋常離れしていることは自覚している。生前に修めた術理が稚気じみた戦闘能力を理想としていたのは事実だが、達人相当の人間でも、現実に弾丸を弾き飛ばすような真似は出来なかった。
それなのに何故今の自分はFRF兵士を容易く捻り殺せるレベルの出力を発揮しているのか。
説明しろと言われても、答えに窮する。
「真っ直ぐ歩けることに秘訣とかないし……目で見て視覚情報を取得することを、神経科学で逐次解説出来るかっていうと……学者でも無理だろ」
ただ、可能だから可能なのだ。マルボロのような機体は古い時代には多く存在したが、彼らもマルボロと同じく、己らの発揮する奇妙な力について、具体的な回答は持たなかった。
技術者たちなら、多少マシな説明を知っているだろう。マルボロたちの宿す技能は、後に量産された『破壊的抗戦機動』の原型に類するものである。量産出来るからには、一部なりでも解明して、数式にでも落とし込んでいるに違いない。彼らに尋ねれば、分からないなりに『分かる』ことを語ることが出来るに違いない。
ではアルファⅡモナルキア・リーンズィはどうなのか。
「喋ってても学者様って言う感じじゃないし、今だって事情をご存知の顔じゃあないんだよぁ……」
マルボロの知る限りにおいて、リーンズィはあの白銀の大兎、恐るべきウンドワートと恋をしており、敬服すべきリリウムから愛を求められ、それらに不死にあるまじき拙く瑞々しい熱情で応じている。
スチーム・ヘッドと言うよりは、女の子だった。純心で、人を見捨てることを知らず、外観相応に恋愛に興味がある年頃の、率直に言って普通の女の子の人格だ。産まれつきスチーム・ヘッドだっただけの少女、と表現しても良いだろう。
人間として成長している過程にあり、しかもマルボロの煙草までちゃんと調達してくれる、大変可愛いやつであった。世界が終わる前、マルボロもかつての同門や戦友が伴侶と子を得た時にはふらりと出向いて散々彼らの子を可愛がっていたものだが、何だかその頃の気持ちを思い出させてくれる。
ただし、これらの性質は異常なのだ。厳密には、スチーム・ヘッドは、機体として成立した時点で己はオリジナルから転写されただけの擬似人格であるという諦観、言語的には説明出来ない喪失感を飲み込まねばならず、人間性は稼働年数が長くなるほど摩耗していく。たいていのスチーム・ヘッドは死の谷の底を歩く存在であり、諦観と疲労だけが歩く道に並んでいる。
誰しもが成長しないわけではない。多重複製されようが尊厳を陵辱されようが大した影響を受けないという、いかにも不死に向いた人格は、稀にいる。
いたいけな精神を維持し、素直に成長していくだけのリーンズィは、掛け値無しに異質だ。
「でも、それだけだしな……」
他には、人格として特別なところは無い。
異次元の機能を搭載した蒸気甲冑を、熟慮を重ねて慎重に解放していっているようには思えない。
現在も子供のように、FRF兵士に纏わり付き、夢中で無遠慮に血衝装甲を撫でて回っているが、リクドーを名乗るその少女が苦痛以外の感覚で細かく震えているのには、気付いていない。
マルボロは遠巻きに彼女らの微笑ましい遣り取りを眺めた。
「どろどろしているのに、つるつるでぶにぶに。生暖かくてどくどくしている。とても面白い感触。これ自体がガス交換を行っているのだな……。指で押すとほんのりとへこむ。ふむ。血晶変異型機動外殻とか言っていたが、もしかしてただ血が固まっただけのものではない?」
「……っは、どう見ても違うじゃないか、この血の装甲は……ボクの……ボクの皮膚と筋肉を拡張、したような、もの……で……恩寵の軍刀がコントロールユニットになってて……待って、それ以上触らないで! 痛いのとむず痒いので変な感じがする……!」
「こんなところにまで触覚があるのか。あるの。機械部品も見当たらないのにすごい。FRFの人たちは謎の機能を持っているのだな……。この赤い装甲の下に生体甲冑があるのだな? そこに、君のお姉さんの精神が転写されている感じはある? されている感じは……ありますか?」
「きゅ、急に丁寧語になるのやめろっ! ありますか、なんて言われたって、そんなの分からないよっ。生命資源科学なんて何にも分からないんだからっ」リクドーは我慢ならぬ様子で身悶えてしていた。「ううう! どうせ虜囚だし、死に体だよっ、だからどうしてくれても良いさ、でも敬意を払うつもりがあるなら、これ以上ボクを辱めるなっ! 今だって胴鎧を触ってるつもりなんだろうけど、そこ普通にボクの感覚が、ボク本来のやつとは別口で拡張されて『ある』からねっ?! 肺と心臓と臓物と、ざっくりやられて痛いのに、その、胸とかっ! お腹とか……色んなところペタペタ触るのやめろっ!」
困惑するリーンズィの傍らにカッターシャツの薄い生地に肌を透かせたケットシーが寄り添い、腕を絡め、生身の左手に指を繋ぎ、屍蝋じみた病的に白い顔貌に、僅かな羞恥の色を添えた。
「リズちゃん、それ以上はよくない。何かやらしい声出てるし放送倫理とかに引っかかってシンデレラタイム送りになっちゃうよ? ……東洋には人馬一体という言葉がある、ヒナは業界人なので詳しいから分かる。それと同じようにリクドーちゃんは鎧人一体の境地に達している……つまりタツジン。タツジンだから鎧に感覚がある」
「全然違う、そういう精神論っぽい話じゃないよっ。そのまま意味で、ボクの鎧は生きていて感覚があるの!」
「欲求不満ならヒナが撮影に付き合ってあげる。六番勝負やFRFの人たちの援護で需用が高まってるし、リズちゃんもこの事業で注目の的。ヒナとコラボで甘々な映像を配信すれば百万再生は固いよ……?」
などと妄言を述べている間に、白銀の大鎧が無音でケットシーににじり寄る。
これといった殺意は発していないが、マルボロには経験で分かる。カッターシャツ姿の少女への憎悪で燃えているのは明白だった。ケットシーはボディラインを意識しながら振り返り、手をヒラヒラさせてから、ウンドワートから間合いを取った。
抜け目のない業界人であった。
「ところで恩寵の軍刀っていうのはこれ?」
すす、と移動して、路上に転がされている軍刀を手に取る。
木材の棒きれでも振り回すかのようにぶんぶんと振るって、自分のてのひらに切っ先を滑らせた。赤い血が地面に零れることはない。
傷は瞬間的に再生した。
恒常性を掻き乱すという効果は少なくともケットシーには通じていなかった。
黒髪を揺らし、首を傾げる。
「切れ味悪い。仕立ても良くない。鍔のところカチャカチャ鳴ってる。あんまり上等な武器とは思えないけどこれの何がそんなに有り難いの?」
「……アンデッドの器官停滞者だって殺せる奇跡の武器だ。総統閣下が、ボクたちのために特別に作って下さる切り札……全てに総統閣下の愛情が込められているんだ」
「ブランドが大事ってこと? ヒナもよく分かるよ。ヒナが使うのと使わないのとではスポンサーの株価とかかなり変わってくるから……」
リーンズィはケットシーに目配せした。
頭部を失ったサードの死体に視線を向けた。
次の瞬間には、死体はリーンズィの足下へ運ばれている。ケットシーが究極的な加速で死体を運んでくれたらしい。
リクドーは大いに驚愕したが、命じたリーンズィもまさかそんな速度で運んでくるとは思わなかったので、やや驚いた。
「衝突事故を起こすからゆっくり動こう、ケットシー。不死身は急に止まらないと東洋の金言集にも書いてある。それで、リクドー。この軍刀は君たちにも有効なのか? なの?」
「……無敵の武器だよ。もちろん、ボクたちみたいな弱兵の装甲なんかも簡単に裂ける」
「ふむ。それでは、ギアの制御核はどこにある? 私の記憶だと確か胎内に存在したはず……」
「うん。他の生命資源と同じ、ヒトではない胎児みたいなものだから。子宮壁に着床してそこに根を張るって姉様は言ってた。姉様曰く、エンブリオ・ギアの株は周辺臓器を侵食した後、卵上組織を切り離して、血管を通して全身に因子を送り届けるとか……このあたりは株の移植を受けた他の少女騎士、つまりボクたちでも原則変わらない」
「では、ひとまずサードの制御核を取り出さないといけないか」
「なるほどなるほど」ケットシーは頷いた。「場所は把握した。軍刀、ヒナがちょっと借りるね。クッキングも得意。安心して、イタマエ検定三十段だから」
刃の閃光が旋風となって首の無い兵士の遺骸を刻んだ。
瞬く間にサードの腹部装甲は排除され、臍から下腹部にかけての健康的な肌が冬の寂光に晒された。
旋風はそれにて終息することなく今度はリクドーの胴鎧へと吹き荒んだ。
血飛沫を上げながら血と肉の装甲が割り断たれた。
「ぃぎっ……か、は……!?」
「ケットシー! 彼女の心肺機能は鎧が肩代わりしてる! 不用意だ!」
「どのみちもうすぐ死んじゃうよ? その子。命がどんどん小さくなってるもん。なら手早くした方がトータルでかしこい」
「そっ、その通りだよ。ボクのエンブリオ・ギアもそんなに長くないっ……躊躇わらず、手早くやってくれていいよっ……」
「……改めて意思確認をしたい。します。私は君を作り替える。君は、アルファⅡモナルキアに隷属するスチーム・ヘッドとなり、調停防疫局のエージェントとして活動することに同意するか。しますか。私と契約をする、しますか。契約するなら対価として、君の姉であるニノセとその恋人、メアリー、そして君とサードのご安全とご安心を保証する」
「……サード姉様を救えるなら……なんだってするよ……奴隷になってもいい、手足の腱を切られて生命資源の製造装置にされたって良い……君と、契約する……」
「では、ここに契約は成された」赤い光を灯す二連二対のレンズが瞬いた。「これよりサードの死骸から内臓組織を摘出し、君の胎内へ移植し」
「臓器の移植って……大工事だよ、何時間もかかる、そんな猶予はないよ……」
「君の臓物を掻き出して、そこにサードの臓器を押し込むだけだ。一時凌ぎの血管接合さえ寄生生物任せだ。……全部、君が生きているうちにやる。苦痛は極大のものとなるだろう。だからまずはもっと広範に剥ぐ必要がある」
「最低限度は残してたつもりだけど」と意外そうにケットシー。「胸の装甲とかなくなったら数秒で失血死だよ? 無理やり脱がせたら皮膚と肉がごっそりいくと思う。安全な着脱の手順とかないの、リクドーちゃん。ヒナは助かる命は助かって欲しいけど」
「……それには専用の設備が必要なんだ。特にブラッドクルスは、権限を持つ不死者にしか解除できない」
「そっか。じゃあ遠慮しない。金の鍵でしか開かない扉なんて壊しちゃうに限る。まずは可愛い顔をヒナに見せて?」
剣閃がリクドーの頬を通り抜けた。
頭部ヘルメット状組織が準備に轢断され、隠されていた顔が白日の下に晒された。
同時に彼女の生命を維持していた他の鎧も斬り飛ばされた。
リクドーもまた、ネレイスたちに見劣りしない美貌の持ち主だった。戦士の相はあるにせよ、どこか不安げで、全体的に幼い顔立ちをしている。系統はネレイスやニノセといったFRF兵士と変わらない。
彼女もまた祖先にTモデル不死病筐体を持っているのだろう。
「男の子みたいな喋り方だけど、ちゃんと女の子なんだね。ヒナとおんなじで」
「……かひゅっ、けほ……ふふ、股間に雄性管でもついてると思ったの? 残念、ボクだってただの……見て通りの、か弱くて脆い、ただの純粋雌性体だよ……」
「ううん。ヒナとあなたは、おんなじだよ? きっと弱くなんてない」
ケットシーは目を細めた。
暫し動きを止めて、暗い茶色い髪をした少女騎士を真っ直ぐに見つめた。
血を零す少女の蒼白の唇を奪った。息を吹き込んでやり、血を啜り、貪欲に求め、そして顔を離して一人で頷いた。
「ぷは……きゅ、急にな、なに……?」
「ヒナにはね、あなたの生きてる意味が全部分かった。これはきっとシーズンの進行。あとで色々話を聞かせてもらうから、死なないでね。ヒナがもっと可愛がって、もっと強くしてあげる」
「なに……何なの……?」
裂かれた肺から空気を漏らしながらリクドーは困惑していた。
「ケットシーは君をとても気に入ったらしい。……綺麗な顔だ。髪の色も私と似ているので私も親近感がある」
「姉さんたちとは……少し……違うけどね。もらった鎧、剥がされちゃった……裸だ……恥ずかし……ひゅう、ひゅう……ごぼ……。けはっ、けほ……ねぇこれから、どうするの……姉さ、ま……」
「私は君の姉様ではない。君の姉は首を刎ねられ、急所を貫かれ、死んでいる」
リーンズィは機械的に応じた。
「『姉様』を蘇らせたいなら、手段は一つだ。可能性に縋るしかない。さっき言った通り、君の腹を引き裂き、空にして、サードの臓物を詰め込む。単純な措置だが負担は大きい。ショックで死ぬ可能性もあるがそのときはどうしようもない。だから、どうか、耐えてほしい。すぐに君を変異させて、恒常性を編み直すから、それまでどうかは、君は君でいてほしい」
汗ばむ蒼白の顔面で、リクドーは、凄絶極まる試練へ望むことを承諾した。
その細い首に隷属の首輪が嵌められる。
……絶叫が響き渡っていたのは数分のことだ。
鎧を剥がされ、切り裂かれた裸体を晒したこの小さな戦士は、己の臓器を生きたまま引き出されるという拷問にも等しい所行に、全霊の覚悟と再会への願いによって打ち勝った。
サードの臓物を放り込むとすぐに悪性変異体変換プロセスが開始された。
弾け飛んだリクドーが形成したのは、卵に似た、正体不明の肉塊だった。
監視していたマルボロは目を細める。
まさしく、卵だ。無数の触手や肉の管で編まれた球体。放っておけば外郭を食い破り古い時代の怪物が内側から這い出てくるような気がしたが永遠にその日は来ないだろう。成長とは即ち死の段階である。生まれることは死ぬことだ。不滅にして不朽の卵が孵ることなど、いったいどうしてあり得ようか。
何故こんな歪な悪性変異体が発生したのかは知れない。
だが、大方の理由は推測出来る。
リクドーは姉たるサードの子を引き継ぎ、おそらくはサードを我が身に孕むことを願った。
なればこそ、あのような奇怪な姿になる。
純粋な願いを叶えたからこそ、こんなこことになる。
問いただしに行くことに決めて、肉腫の如き卵から少女の肉体を編み始めたリーンズィへと近寄っていく。
何歩も歩かないうちに呼び止められた。
視線を向ける。
聖歌隊の行進聖詠服を着た少女が微笑んでいた。
稲穂の髪に帽子を乗せた魔性の麗人を、マルボロは知っている。
元大主教リリウム。
上級レーゲント、現在はアルファⅡモナルキアの端末である、天使のような退廃の娘。
エージェント・ミラーズだった。
「我が子は忙しいのです。答えられる範囲であれば、端末であるあたしが応えてあげる。おかしな話だけど、本体であるあの子より、あたしたちの方が基幹部に近いから」
おそらくアルファⅡモナルキアのシステム、『総体』の運営に能動的に関わっている人格だった。
「そうか」とマルボロは頷いた。リーンズィは、リクドーの蘇生に必死に見える。ミラーズが応えてくれるなら、そちらの方が都合が良い。
「じゃあ聞くが……カースド・リザレクターを生み出すぐらいは大した問題じゃないと思ってた……しかしあの姿は何だ?」
形を失っていく悪性変異体を凝視する。永遠に孵らぬ卵。不死であるだけで始まらない命。腕しかない悪性変異体よりも一層禍々しく、哀れで、合理性に欠ける。
「何であんな姿になるんだ」
「さぁ。真摯な祈りが届いたのではないかしら」ミラーズは素っ気なく応えた。「詳しくは神様にでも電話してちょうだい?」
「尋問みたいなもんだと思ってくれ。やりたくもないけどな。祈りが届いたとして、何であんな出鱈目なバケモノになる。回答次第では……許されないぞ」
別段、悪性変異体を生み出すことを問題視しているわけではない。不死病患者を不用意に虐待して変異させてしまうのはペナルティを免れない愚行だが、今回は特例だ。それに、悪性変異体であろうが黙契の獣であろうが、この程度のサイズならば、解放軍にとっては然したる障害にはならない。
例えばニノセの変異体は脅威度は同じ多腕の変異体である『ミスターG』以下だった。
マルボロは殊更に鮮明に理解している。
腕という殺戮の器官は、智慧の創り出す殺戮の技巧によって初めて機能を発揮する。
増殖しただけの少女の腕は、何の意味も持っていなかった。感覚器官が見当たらないし、おそらく這い回る以外には移動手段も無かった。
放置していても無害だったはずだ。
この卵のような変異体もそうだろう。人を殺戮する場面が全く思いつかないし、そもそも自力で何か出来るようには見えない。
問題は、そんな変異など、通常は起こるわけが無いと言うことだ。
「やつらの姿には、実益が無い。何をどう操作しても、腕だらけで役立たずな怪物だとか、デカいだけの肉の卵なんかにはならない。普通ならな」
悪性変異体との交戦経験が多いほど、ニノセたちの変異体の異常性は際立ったものに見える。
悪性変異体の奇異なる姿は、多かれ少なかれ、致命的な環境に対する過剰な適応の結果である。爪と牙に襲われれば、分厚い毛皮を生成して人狼の如く変形し、銃弾の雨で死なぬために、腐敗させた肉を流動する装甲として纏い、永遠に消えぬ炎を御するために、炎と磁場で己を繋ぎ止める。
彼らの姿には、切実かつ即物的な機能が伴う。つまり、苦しみたくないという本能の願いがある。怪物は誰かに望まれてではなく、苦痛から逃れるための適応によって、やむを得ず産まれてくるのだ。
フォーカードに出現する『ミスターG』などは人造の悪性変異体と推定されているが、索敵能力と武器の保持という要求があったことは誰しもに見て取れる。そして、些か過剰な部分もあるにせよミスターG程度が通常あり得るべき限界なのだろう。
それが、どうすれば、腕だけが無闇に増えるだとか、全身が肉管で構成された卵だとか、そういった、まったく理非の及ばぬ変貌を引き寄せられるのだろう?
恐るべきは、ニノセやリクドーが、本来何の意味も利益も無いない姿へ変異させたという、その事実にこそある。
悪性変異体の風貌はいつも怪物じみているが、古い時代の怪奇映画に出てくるような、おぞましさを追及した何かでは決して無い。『合理性という軛からは逃げられない』という不文律をまるで無視したその異形に、一握りのスチーム・ヘッドたちは、怯えていたのだ。
「……意味なんて、ここにあるではありませんか。尤もらしい理由なんて、いつでもあとからやってくるだけのもの」恋でも愛でもそうでしょう、と少女は詠う。「原初の願い、原初の過負荷は、こうして愛し合う彼女たちにこそ最初に宿ります。愛しい人を抱きしめたいと願うのは自然なことでしょう? 人間の腕って殴るだけに使うものじゃないの。カラテをやりすぎて忘れてしまったようですけれど。死んでしまった愛しい人を我が身と引き換えにしてでも産み直したいと願うのも、とっても自然なことではないですか?」
金色の髪をした天使は艶然と微笑む。
「いやカラテじゃないが……あと生き返らせたいとは思うかもしれないが産み直したいとか普通思うか……?」とマルボロは言い返しかけたが、現実を前にして、考える。
それは不死病の本質が『願いを叶えること』にあると知る解放軍の兵士ならば、誰もが考える。
「やはりそうか。願いが異形を産んだって言うんなら……これは、アルファⅡモナルキアが、お前たちが……あの死に損ないどもの願いを叶えてやったってことにならないか?」
ミラーズは微笑みを崩さない。
答えない。
その沈黙は、肯定以外の何者でもない。
不死病は人間を不老不死の肉塊に変え、精神活動を消失させるが、それはこの病の本質とは異なる。不老不死化は、病が、最初に肉体の持つ原始的な欲求に反応してしまうためだ。
結果として精神活動が無用となるのであって、何物も感染者からは欠落していない。不死化を阻止するのはほぼ不可能だが、肉体を経由しないのであれば、病によって全く別の願望が結実する可能性はある。
あくまでも机上の空論だが、人の手で不死病と人格の持つ願いとを直接結びつけることが出来るならば、そこには未知の変異が起きるのが道理であろう。人間の意識のように無闇に複雑で、それでいて曖昧模糊としたものが不死病と接触したならば、合理性の存在しない欲望の怪物が出力されてしまう。
そして、この空論が現実に適応されたのであれば、ニノセの変異体が花束の如き歪な腕の群れに成り果て、リクドーが胎動するだけの肉の卵へと変貌したことにも、説明は付く。
マルボロは驚愕を以て死者蘇生にも等しい異常な現象を見届ける。リーンズィのヘルメット、翼ある赤い蛇の跨ぐ二連二対のレンズの先で、リクドーが再生していく。
編み上げられていく少女の裸体、穏やかな寝顔の清らかさは、変異体の不完全な有様と並べると、ひたすらに美しい。
未成熟な矮躯には清廉な輝きが満ち、そのうちに愛する人を貪欲に求める心が、己が形を捨てても良いと願えるほどの狂おしい情愛が巣食っているとは、とても思えない。
だがその面影に、マルボロはコルト・スカーレット・ドラグーンの面影を見ていた。同じ系統の複製人間、あるいはそれと交配した家系の、人間の娘。一部の感情を切除されているコルトにすら、監視者と裁定者、扇動者の三つの顔を持つが、二面性を曝け出した彼女たちは無性に似通って見える。
……くだらない干渉ではある。乖離した二つの顔ぐらい、誰にでもあって当然だからだ。
エージェント・クーロンですら、『マルボロ』の仮面を被っている。
……これは何もかも変える力だ、と不意にマルボロは直観した。
ケットシーは現実を己の望むがままに書き換えるが、アルファⅡモナルキアは他者の願いを現実へと具現化してしまう。
甚だ不完全な形ではあるが、表象を抜き出せば、それこそが秘匿されていた真の機能であると分かる。
この両者が殆ど同時期に解放軍に加わったのは予徴であろう。
吉兆か凶兆か。マルボロは悩んだ。間違いなく、世界を変える力ではある。しかし変わった先の形までは知れない。こんな禍々しい力で世界をどう変えられるというのだ?
端末は、SCARへと問いかける。お前はこれをどう受容するのだ?
そうしているうちにリクドーの再生が終わった。
二本の脚でふらふらと歩き始めたニノセの介添えをするアルファⅡモナルキアをマルボロは凝視する。
願いを叶えて有り得ない姿へ変貌させ、歪な怪物から人間に編み直す。
大主教ヴォイニッチが予言した通り、事態の決定的な変質が始まりつつあるのを実感していた。
何もかも偶然ではあるまい。
おそらくは<時の欠片が触れた者>の画策に違いなかった。そしてコルトが探し求めていた『可能性』が、クヌーズオーエ解放軍へと次々に運ばれてきている。
内心で問いかける。
声なくして、問いかける。
自分の思考を覗き見されていることを前提として言葉を紡ぐ。
> これは奇跡なのか、何なのか。この問いかけに、お前たちには応える義務があるだろうな。
それは、自分をハッキングし、思考を盗聴しているアルファⅡモナルキア『総体』への問いかけだ。
まず間違いなくアルファⅡモナルキア『総体』は戦術ネットワークをハッキングし、他の機体の内心を検閲している。
何故そんな機能があると思い至ったのかと言えば、彼の本体であるSCAR運用システムがまさしくそうだからだ。
それに、マルボロの人工脳髄には、記録媒体の類が装填されていない。彼の実態はSCAR運用システムの自律型支援ユニットだ。極めて古い時代に製造されて型落ちとなったエージェントの再利用品で、形式的に最も近いのは、フォーカードの遠隔操作型スチーム・ヘッドたちである。彼の人格はコルトのSCAR運用システムに装填されており、本体はともかくとして、端末である彼には、さほどの電子戦能力は備わっていない。思考を読取ることが可能な機体には、基本的に対抗不能ということになる。
標的にするにはあまりにも容易く、それ故に罠にはまってしまう。
マルボロは、八極を修めた拳士であり。
自身の肉体の不随意の動きから自分以外の誰かの意志を解析する出来るのだ。
「……窃視されてること前提の思考って疲れませんか?」と溜息を吐きながらミラーズが肉声で応えた。「まぁ、あたしは慣れたし、リーンズィにだって何を見られても構わないと思ってるけど、情事の最中に他からの不正アクセスのアラートが鳴ると、とっても不愉快になります。これって、主にあなたのご主人様であるコルトへのクレームなんだけど。今度あなたから文句を言ってもらえる?」
こうしたその電子戦能力の不完全さが、意思疎通の役に立つこともある。マルボロは脱力しながら思考だけで応じた。
> 直接回答しないところを見ると、お前らもやっぱりコルトと同じ仕様か。機密保持のため、中枢に関わる情報を公開する権限はない。だが不正に取得した情報に対しては反応出来る。だからそうやって独り言を言う。その辺はシステムから許されてるわけだな。どうせ解放軍の全体に枝を伸ばしてるんだろう? そうしてみると、どう取捨しようが、俺の思考なんてものは、お前らの総体にとっては、情報網に浮かんだ泡みたいな扱いになるからな。それに対してあれこれ明示せずに言及することは黙認される。
「あたしにも分からないわ、そんなの。っていうか未だにユイシスがいないとまともに機能使えないし……」
彼女と瓜二つの、質感を持った幻影が現れたのをマルボロは見た。
ミラーズと幻影はごく自然に唇を重ね合わせ、手を握り合い、吐息を交す。彼女の堕落した天使のような退廃の美貌を精緻に写し取る幻影は、最後にマルボロに視線を向け、嘲るように口の端を上げて、一瞬で消え去った。
> 今のが総体のアバターか? 同じ顔なのに性格悪そうだな。
「今のは統合支援AI……いいえ、いいえ。あたしが全てを委ねた、私の現在の恋人です。性格悪そうとか悪口言うなら何も教えてあげないわよ。とっても可愛い人なんだから」
喜色を滲ませて現れた幻影とミラーズはまた口づけした。『清廉なる導き手』のレーゲントには皆淫蕩の気があり、時折痴情のもつれでトラブルを起こすが、開祖あたりの人間もやっぱりそういう気質なんだなとマルボロはぼんやりと思った。
おそらく思考の盗聴にリーンズィは全く関与していない。リーンズィはまだ純粋で、悪いことは悪いので悪いのだ、というシンプルな価値観で活動している。外観はヴァローナを引き継いでいて大人っぽく、潔癖さと淫猥さというアンビバレントな性質が存続しているが、感情と表情が連動していて、何を考えているのか、普通に外側から見ただけで分かる。マルボロは逐次不正アクセスを検知出来るため分かるのだが、覗き見した情報を後から自主的に削除してしまうぐらいだ。見た目だけがうら若い他の機体とは異質で、これほど未成熟な擬似人格は解放軍に存在しておらず、他者の内心を好んで覗き見たりはしないはずだ。
しかしアルファⅡモナルキア『総体』は、残念ながらリーンズィではない。
> 俺としては多少なり情報を仕入れられれば満足だ。どうなんだ? これは奇跡なのか何なのか。それだけでも答えてくれ。
「不用意に接触するのは危険、というのは教えても良いと思う。あたしのほうもあなたから結構重要な情報を盗んじゃってると思うけどそれは大丈夫なの?」
> 今更心配をしてくれてありがとう。
「皮肉や厭味じゃありませんよ。リーンズィがよくしてもらってるいるのは知っています。コルトと違って話も通じるし、喫煙の習慣さえなければ、あたしもあなたはいい人だと思うわ。そんな人のプライバシーをあまり堂々と侵害したくない」
> そうかい? じゃあまあ答えるが、俺から盗まれる情報なんて知ったことでは無いというか、『総体』同士のやり合いなんて知ったことか、という感じなんだよ。どうせ取られて困る情報はこの俺という端末まで降りてこない。総体だけで話が完結して、ここにいるこの俺が一つも納得出来ないということのほうが、何て言ったもんかな、イライラするぐらいだな。
「割り切りが良いのですね。あまり嫌いではないタイプの人です。だから告げます。……これは、奇跡なんかじゃないわ」ミラーズの声は、嘆きを孕んでいた。「あの子に与えられた機能は……奇跡なんて綺麗なものじゃない」
『アルファⅡモナルキアは悪性変異を支配する機体だ』という噂は、かねてよりまことしやかに語られていた。
クヌーズオーエで長年を過ごせばそのような機体もいるだろうと納得出来る。
悪性変異体をこうして生み出したのも、何ら驚くべきことではない。
……だが変異を支配することの真の意味を、誰も、この事件が起きるまでは、本当には理解していなかったのだ。




