第百番攻略拠点 『徹宵の詠い手』ヴォイニッチ(1)
階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。
濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。
白い首筋に、指先に、脇腹に、しなやかな脚に、陶磁の肌に、透明な雫が伝い落ちる。
また階段を上る……。
絶世の美を備えた細い面に苦悶の色がふと過ぎる。リリウムは終わらない階段を上り続けていた。ペパーミントの香りがする籠もった空気に包まれて完璧な造詣の華奢な体は熱を帯びていた。
白銀の少女は階段の途中で脚を止める。何度目かの休息を取ることに決めた。全身を伝う汗がブーツに溜まるようになり息を整えるよりも早く甘美な香りのする水溜まりが足下に出来上がる。遮る物のない枯死した荒野で嵐に出くわした旅人のような有様だったが冷涼なる蒼い視線の先には雨雲どころか空すら無くコンクリートの天井に等間隔で照明が続くばかりだった。
彼女がしとどに濡れているのは夥しい発汗のためだった。不死病患者の体液は種類に関わらず花香を放つものでこれらは不死としての恒常性に綻びが生じない限り無限に排出され続ける。それがために特定条件下で激しい運動が続くと周辺は水浸しになった。リリウムは通気性という概念の存在しない黒地に金の刺繍が施された行進聖詠服を着たまま数え切れない段数を進んでおり殆ど無限に続くのではないかと思われるほどの構造体で自然には風が吹くこともしない。
鼓笛隊の先導者に似た彼女の聖衣は幾らか埃を被ったのみで汚濁はないし幾千の土地の幾万の褥へと彼女を運んだ不朽結晶製のブーツもこのまま千年階段を踏み続けても鋲の一つも欠けることはあるまいが不滅を約束された肉体と言えども熱を落ち着かせるためには定期的に休む必要があった。
階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。白い首筋に指先に脇腹に脚に透明な雫が伝い滑り落ちる。また階段を上る……。階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。吐く息が熱い。濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。白い首筋に指先に脇腹に脚に透明な雫が伝い滑り落ちる。また階段を上る……。階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。白い首筋に指先に脇腹に脚に透明な雫が伝い滑り落ちる。あちこちが擦れてむず痒い。また階段を上る……。階段を上る。踊り場でスカートの裾を翻す。濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。白い首筋に指先に脇腹に脚に透明な雫が伝い滑り落ちる。また階段を上る……。
そして精神の疲弊を悟って休憩を取る。
大主教リリウムは、そうやって何十時間も同じ階段を昇っていた。
どこまで進んでも見知った階段だった。神秘的な部分など一つも無いが寸分変わらぬ光景は神からの啓示めいて無限の上昇を指示してくる。寸分変わらぬ踊り場と一直線の階段だけで構成された迷うところの無い迷宮。引き返す分には好意的で二階分降りるだけで踊り場に非常口のピクトグラムが現れる。賢者であれ知者であれ進むのか諦めるかのどちらかしか選べない。万人が果てを知らない。
バイオリズムの影響か己の不死の香気が及ばない時間がたびたび訪れ、そうすると周囲から涼やかなペパーミントの香りが漂ってくる。甘い記憶と結合するその香りの心地よさにリリウムは疼きを覚える。瞑目して階段の一角に腰掛ける。休憩を取ることに決めた。銀色の髪を整え首をふるふると振るい上質な服のように欺瞞された繊維状不朽結晶連続体の前を開きはだけて首元から胸元までの汗の溜まる部分に少しでも風が通るようにして体を拭った。排出される汗が香気で結界を造り聖句を口ずさんで恒常性の快復を増進させ脈拍と呼吸が完全に鎮まるのを待った。
恍惚の忘我と使命への意志の狭間で精神を放散させる。蛍光灯が低く唸り声を上げている。耳を澄ませていると彼女の軽い体の刻んできた足音が終わってしまった時間の中に縫い止めでもしていたのか階段のずっと下から響いてきて彼女を追い越してさらに先へと消えていった。こつん。こつん。こつん。こつん。もしかすると十年も前にこの塔を訪れたときの反響がまだ残っているのかも知れなかった。採決の鎚のような甲高い音が聖女の骨の芯をいつまでも震わせた。
「……何故だか、上手く進めませんね。大好きな人のところに行くというのに」
一人で来訪するのは初めてだ。如何に大主教であろうとも少しだけ不安なのは事実でそれがまさしく彼女の恒常性を乱しているのだった。この都市に聖少女救世頌歌永続交響機甲師団は連れ込めない。都市全体が複雑な恒常性の塊であるため余程高度な再誕者でなければ立ち入った途端に取り込まれてしまうし大人数を支配者である彼女に無用な警戒感を抱かせるのは本意では無く同じ理由で随伴の戦闘用の再誕者を連れていくのも推奨されなかった。安全性について考えるなら他の機体にこの領域へ踏み込むよう求めること自体が現実的では無かった。
誰にも助けを求められないのが大主教という立場の難点だ。唯一彼女の騎士であるヴァローナだけは恒常性を共有している加減で多少の無茶が効いてこうした場所にも同伴させることが出来た。リリウムの祝福に耐え未来を覗き見る奇跡を授かったがそれこそが彼女が無害であることの証明であった。何よりも都市の主と知らない仲でもなく彼女からも好かれていた。
未来を見通せる人間は因果律を無視して勝手な結末を引き寄せてしまうがヴァローナはリリウムにひたすら尽した。彼女の騎士は姦淫と融和への焦がれも聖句使いとしての狂気も持たない善良な人間だった。
「……ふふ。以前来た時は楽しかったですね。ヴァローナ」
狂気によって仕立てられたウェストポイント帽もまた彼女の汗に溺れていた。
それを膝の上に載せて不死の聖女はもうここにはいない愛しい人の名を何度も口にする。
ヴァローナ。ヴァローナ。ヴァローナ……。
「あの子の香りにあてられて、行進聖詠服を脱ぎ捨てて裸で歩き始めたわたしを、大声を出して呼び止めてくれましたね。それから、それから、ふふ。この階段で何度も互いを確かめあいました……。あの子には呆れられてしまいましたけど、怒られてしまいましたけど、とても楽しかったですよ。ああ、ああ。ヴァローナ。まるで昨日のことのようです」
ヴァローナは去った。
使命を果たすために、最後の夜をリリウムと過ごし、帰らなかった。
そして今は、ヴァローナの連れてきてくれた、あの待ち焦がれた人が都市にいる。
『わたし』と『わたくし』のどちらもが待ち望んだ救世の天使様。
知らない世界、違う世界からやってきた、リリウムを愛してくれる天使様。
アルファⅡモナルキア・リーンズィ。
リーンズィ、リーンズィ、リーンズィ。リリウムは目蓋を閉じた。彼女の姿を思い浮かべながら何度も名前を唱え我が身を掻き抱き纏わり付くペパーミントの香りから心を逃がそうとした。ライトブラウンの髪をした背の高い麗人。潔癖な美貌と退廃の淫靡はヴァローナと同じなのに何もかもが異なる異邦の人。凜としているくせにやけに柔和なその表情を猫の目のようにくるくると切り替える愛らしくて優しい人……。
恒常性が作用して火照りは消去されていく。汗ばんだ体はやがて冷えて乾いていく。万事がそうだ。やがては冷えて動かなくなる。リリウムもいずれそうなるに違いない。
だが無数の攻略拠点、そして未知なるクヌーズオーエを捜索し続ける同胞たちに思いを馳せるうちに心臓が熱を持つ。やっと出会えた運命の人のためならば自分などどう使い潰されても良いとリリウムは信じる。リーンズィはきっとリリウムの望む未来には行けないだろう。ならばせめて安らかな道程へとリリウムは願った。ペパーミントの香りから意識を切り離す。欲動を抑える。立ち上がる。
リリウムはまた階段を上り始める。神に対してではなく聖乙女に祈る者どもの想いを携えて。その身が欲望とともに願いを引き受けているに過ぎないとリリウムは知っている。我が身など薪の一つに過ぎないと白銀の聖女は知っている。劣情でも歓喜でも構わない。彼らの偽りの魂に熱を与え我が身を燃やし進むべき道を照らす灯となることこそが清廉なる導き手たる彼女の使命だった。
階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。
濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。
白い首筋に、指先に、脇腹に、しなやかな脚に、陶磁の肌に、透明な雫が伝い落ちる。
また階段を上る……。
既知の行動範囲内に未変容領域が出現したという報告を受け取った段階でリリウムはこの閉鎖済の都市へ向けて移動を開始していた。全ての予定を切り上げて誰にもろくな相談をしなかった。一人軍団であり解放軍全体からの承認を得た支配クラスであるとは言え独断専行の誹りを免れ行為だったがリリウムの予感は絶対の物として信じられていた。
戦乱と対立によって荒廃した世界を少女の肉と絶対遵守の歌声によって平定したスヴィトスラーフ聖歌隊の、最も強大なる一人、大主教。自分自身の血と肉を不死病の器とし肉体をあらゆる奉仕に捧げた聖女の非言語的な予感は、肉体に備わる危険察知能力の最上位であると見做されていた。
まさしく天啓である。奇跡や天啓などに意味はないと語る機体はクヌーズオーエ解放軍には多いがリリウムの言葉は例外的に信用された。信仰は朽ち、祈りは朽ち、棺に収められるのは遠い日の思い出ばかりだ。解放軍兵士全体が最初から信仰心を持っていなかったわけではないがいかに堅固な信仰も不滅の肉体の前には脆すぎた。携挙を歓迎しようが審判の時を恐れようが永遠の命の前に横たわる永劫の時間に報いなどありはしないともう分かっていた。
しかしこの不死の時代、不滅の牢獄に、神の愛を説き神の代わりに友愛と熱情を振りまく麗しき少女が肉として存在する。神に縋れずとも柔肌に慰めを求め歌声に楽園を夢見ることは許される。肉があり、骨があり、鼓動と言葉が胸を震わせる。それならば信じられた。レーゲントのどれだけが神を信じているのかも定かでなかったが彼女たちもまた同じ在り方で以て同胞と大主教の愛は信じた。祈りを集約するリリウムの声は即ち神の息吹だ。神の息吹を疑うことは自分自身を疑うことに等しい。
リリウムは愛すべき信徒たちの祈りの主として、不安の正体を知る者へと真意を糾す必要があった。だからこそこの不可侵の都市の門を叩いたのだ。
階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。
濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。
白い首筋に、指先に、脇腹に、しなやかな脚に、陶磁の肌に、透明な雫が伝い落ちる。
また階段を上る……。
この謎めいた階段に至るだけでも多くの苦難があったがこの不滅の都市においてはあらゆる側面が人間を試し行方を阻む。例えば入市の際に通過する隔離防壁は極薄いのだが扉を潜った瞬間に折り畳まれた街という複雑怪奇な迷宮が現れる。そしてその狂気的な迷宮を抜けてようやく市中に至れるのだ。
街灯を埋め尽くす不滅者と彼女が作り上げた無数の杭から反響する聖句の織りなす不実の迷宮。苦難と永劫の具現体としての罪人無き無間地獄だ。階段一つとってもそうだ。壁。壁。壁。壁。壁。壁。壁。罅割れて剥落して物質の内奥、真実の虚無を晒してしまいそうなコンクリート製の階段室がどこまでも続きそこかしこで品質の悪い電気灯が目の渇きに煩わされる眼病患者のように瞬きをしておりそんな光景が無限にどんな場所にも続いている。
それら無意味な循環構造はまさしく鎖として生と死のあわいに降ろされた錨であり滅びるべきもの壊れるべきものを強引に繋ぎ止め破綻したこの都市を存続させている。
階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。
濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。
白い首筋に、指先に、脇腹に、しなやかな脚に、陶磁の肌に、透明な雫が伝い落ちる。
また階段を上る……。
孤独と変わらぬ風景に耐えかねて、「とっても綺麗で短い聖句も編めるのに、あの子が好きにすると、全部こうなっちゃうんですよねぇ……」などと大主教同士でしか通じないようなことを呟いてしまう。
リリウムの大聖堂にしても基礎設計は『彼女』に監修を頼んでいる。「使いこなせないぐらい大がかりにしてあげたから精々後悔することだね僕は頼まれた通りに頼まれ事をこなしただけだから何も悪くないよ」と薄笑いを浮かべていた彼女は苦も無く大聖堂を起動させて貌を輝かせたリリウムに「こういう時は少しでも苦労する素振りを見せてくれると僕は嬉しがるんだよとても苦労して作ったんだからね」と渋面を作りそれからリリウムを熱っぽく抱擁しお祝いのキスをしてくれた。
階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。
濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。
白い首筋に、指先に、脇腹に、しなやかな脚に、陶磁の肌に、透明な雫が伝い落ちる。
また階段を上る……。
彼女に関する記憶は特別だった。生まれる前からの恋人であるリーンズィや、愛情の何たるか、肉を通して神の愛を説くことの何たるか、人を導くことの何たるかを教えてくれた実母マザー・キジール、そして聖父スヴィトスラーフ……人格記録媒体に刻み込まれたそれらとも階層が異なる。
他のレーゲントを見渡しても彼女と同じ比重を持った魂は存在しない。彼女の言葉はいつでもリリウムの精神性のいちばん幼く柔らかな部分を刺激する。
「運命の人はあなたではなかったし、わたしが最初に褥を共にしたのもあなたではありませんでした。だけど、きっとわたしの初恋の人は、あなたなのですよ」
そんなことを虚空に囁く。首輪の形をした聖遺物に心を委ねるまでリリウムはその感情に気付かなかった。天使に恋い焦がれる『わたくし』との合一を果たした頃にはより強い感情が少女の胸に芽生えていた。だからリリウムが本当のところ彼女をどう思っていたのかはもう誰にも分からない。何物でも無いただのリリウムは、もう彼女自身にさえいないからだ。
鮮やかな記憶だ。「結局のところちっぽけな現象に自己回帰性を与えることこそが僕の得意とするものの真実で君たち本物の神の吐息みたいな大した力じゃないんだよ」と自嘲していたのを覚えている。
そんなふうに蔑むものではありませんよと窘めていた頃には、彼女がまさかこんな大聖堂を作り続けることになるとは思いもしなかった。
「天使様の犬になった君には僕の気持ちなんて分からないだろうね」と彼女は嗤っていた。
彼女の本当の目的は不明だった。大主教としての願いのためなのか知的好奇心のためなのか外側から判別することは不可能で、そして現在の彼女と対話しても、真意は分からないだろう。彼女は自身の創造物の中に彼女自身まで組み込んでしまった。原初の願いを問うても真実はもう元の形をしていない。ただの『彼女』はもうどこにもいない。リリウムと同じく。
階段を上る。踊り場で黒いスカートの裾を翻す。
濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。
白い首筋に、指先に、脇腹に、しなやかな脚に、陶磁の肌に、透明な雫が伝い落ちる。
また階段を上る……。
気を抜けばリリウムの花の香りと染み入るようなペパーミントの香りが混ざりあってしまう。恒常性を侵食されている証なのだがリリウムの脳髄は快楽で痺れてしまう。かつて楽しんだことのある香りだからだ。白銀の少女はのぼせ上がった体を落ち着かせるために脚を止める。向かう先の背を向けてゆっくりと腰を下ろす。
ほう、と息をつく。
頭がくらくらしていた。この都市にはリリウムや他の不死ではなく彼女の香りだけが漂っている。元より淫蕩を是とするリリウムにとって、かつて愛欲を向けていた少女の香りは、いささか刺激が強すぎる。何せリリウムは彼女のことを今でも愛している。どういった愛なのか分からない。今も昔も白銀の聖女は性愛を通してしか愛を認識出来なかった。
服を脱ぎ、靴を脱ぎ、体を冷やし、百合の花に似た己の不死の香気の充満を待ちながら考える。
一般には秘匿されているが、ファーザーズ・リデンプション・ファクトリーとクヌーズオーエ解放軍は相互に接触を断つことで合意している。
そして、合意の締結を待たず物理的な隔離措置を一方的に引き受け何者の了解も得ないまま全てを書き換えてしまったのが、この先に待ち受けている『彼女』だ。
志はリリウムと同じだった。
父親も、生まれ育った環境も同じだ。
だが致命的に違う思想の持ち主だった。
祈りの対象も望む形も目指す世界も異なる。
リリウムは聖なる父の言葉を愛したが、彼女は聖なる父の奇跡を愛した。
白銀の乙女は塗り固めた人格で「皆幸せになりますように」と歌った。反発者を誘惑して聖句を吹き込み自由意志を奪い群体とした。「さぁ愛しあいましょう、混ざり合いましょう。連なり、重なり、約束の地へ進みましょう!」と扇動する裏で、彼女はそうした信仰を悉く否定した。
「僕は君のやり方が正しいとは思わないよリリウム。ねぇ考えてもみてご覧みんな同じような理想を掲げたところでそんなのは旧態依然としたやり方だ。二千年間誰も救えなかったじゃないか。どこかではなくここで肉ではなく言葉で見えない信仰ではなく目に見える奇跡で。そういう形で皆を幸せにするべきだよ」
彼女の言葉はいつでも奇妙な韻律を伴い細い声で長い息と共に紡がれて、だから歌と言うよりは幽かな風の音に似ていた。
何もかもがそうだった。
おぼろげで掴み所がなく、それなのにいつも傍にいる。
何千年も前から洞窟に隠れ住んでいる預言者の、その言葉の切れ端のような娘だった。
「誰だって無意味な行いのために死んでしまうべきじゃないのだから無理をしてどこかへ連れて行こうとするのではなくいつまでも理想の中で生き続けられるように工夫を重ねれば良いのではないかな。ねぇ君もしも御国があるのならきっと僕たちがこの取るに足らない奇跡で以て作り上げるべきものだよ分からないのかな僕たちならそれが出来るんだ。ねぇ、リリウム。僕と一緒にそうしようよ。大主教が何だと言うのかな、鞍替えしても良いはずだって僕は思うよ」
応じるわけも無い。リリウムは幼少期から『清廉なる導き手』の教義を修めてきたし、それでいて永遠に愛しき小さな母の救済の技法に生来の気質で慣れ親しんできたからだ。交歓を通した己の肉体への祈りの集約。
真摯な祈り、弱い聖句の集積による奇跡の実現をこそ信じる『徹宵の詠い手』の信徒たちの、そのストイックな方法論には転向できない。
だから議論はいつでも堂々巡り。
次の場所へと進み続けることで永続する命。
一つの場所に滞留することで永続する命。
似ているけれど決定的に異なる。
似ているから、混じり合うなどあり得ない。
それでも根本の志は同じだった。二人は同じように考えていたのだ。「誰だってこんなところで死んでしまうべきでは無い」。揺るぎの無いその一点が彼女たちを情愛で繋ぎ合わせた。
リリウムが『わたくし』と結びついても、互いに大主教の名前を継いでも、彼女たちは変わらず互いを愛し、敬い、求めた。
長い長い不死の蜜月。
競うことなく、争うことなく、睦まじく肩を並べている大主教はリリウムと彼女だけだった。
階段を上る。踊り場でスカートの裾を翻す。濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。白い首筋に指先に脇腹に脚に透明な雫が伝い滑り落ちる。また階段を上る……。
彼女の変容の深度はリリウムにも想像が付かない。
前回はまだ意思疎通が可能だったが今回も対話が上手くいくという保証は無かった。
階段を上る。上昇し続ける。同じ階段が永久に続く。「これほどまでに長い階段だったでしょうか?」とリリウムは弱音を漏らす。
もしかしたら辿り着けないのかも知れない。
その時には大主教としてレギオンを指揮し全力でこの都市を攻略しなければならない。
どうにかして、FRFについて、何かしら確認を取る必要があった。
彼女が有無を言わさぬ異界を築き上げたおかげで、仮初めに平穏が保たれていたのだから、FRFが動き出したのだとすれば、それは御遣いか、あの大主教か、そのどちらかが仕掛けた結果だ。
リリウムは覚悟していた。実状を確かめるまでは、愛しい人々の元には戻らないつもりだった。
外観のほっそりとした繊美さに似合わずリリウムの意志は鋼鉄よりも尚硬い。不死病が既に蔓延した地域を除けばスヴィトスラーフ聖歌隊が歓迎されることはまず無かった。所詮はセックスカルトのシンボル、洗脳された小娘にすぎないと嗤われることをリリウムは少しも辛く思わない。白銀の聖処女は真実この奉仕が人類救済に繋がると確信していたし、そして外側からどう見えようが、彼女たちスヴィトスラーフ聖歌隊は一度は実際に世界を平定した。
今、新たな試練がリリウムを飲み込んで離さない。
自分の手掛けた救済は正しいと信じる。
多くの同胞を得たが、無限に連鎖する都市は苦難に満ちた試練だ。
自分の旅がどうすれば終わるのかリリウムは考えたことがない。彼女は神の御国へ愛しい人々を、天使様を、皆を、何度死んででも連れて行かなければならないと決意していた。必要ならば何度でも何度でも繰り返さなければならない。『わたくし』がそうしたように。
清廉なる導き手、大主教リリウムには、救世主の一人としての自覚と責任がある。
肉体の快楽と精神的渇望を蜜と囁きで操る聖処女に宿った、『人類を救いたい』という切なる願いは、どんな刃よりも鋭く真っ直ぐに世界を貫いていた。
階段を上る。踊り場でスカートの裾を翻す。濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。白い首筋に指先に脇腹に脚に透明な雫が伝い滑り落ちる。また階段を上る……。階段を上る。踊り場でスカートの裾を翻す。濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。白い首筋に指先に脇腹に脚に透明な雫が伝い滑り落ちる。また階段を上る……。階段を上る。踊り場でスカートの裾を翻す。濡れた銀の髪が朧気な光の中できらきらと翼のように輝く。白い首筋に指先に脇腹に脚に透明な雫が伝い滑り落ちる。また階段を上る……。
ついに辿り着いた。最上階までどれほどの時間を費やしたのかリリウムは数えなかった。大規模言詞構造体たる大聖堂を経由すれば体感時間を具体化することも可能だがここではそうしたところで然したる意味はない。待ち受ける彼女は御遣いたる<時の欠片に触れた者>に抗うことを望んでいた。当然、そのための備えをしている。歪曲と変造を重ねられて要塞の如く変わり果てたこの都市で、時空間の概念は崩壊していた。
階段の終点には朽ちかけた大きな木の扉があった。填め込まれた煤けた色ガラスがリリウムを見つめていた。小さな教会の門を想起させる経年劣化した赤茶けた扉は重く押し開くとき掻き毟るような音色を響かせた。
出迎えたのは外装を剥がれた置き時計でその中で鈍く輝く歯車が剥き出しのまま回り文字盤ではデフォルメされた鳩の模型が時を告げるために控えていたが針金で土台が固く結ばれていて目まぐるしい速度で回る長針が一度二度三度四度五度頂点を差しても動くことが出来ない。銀色の髪の少女は周囲を見渡した。懐古趣味的な装飾の姿見で今一度身だしなみを確認した。蒸発しきっていないきらきらと輝く艶めかしい汗を袖で拭い髪を整え襟元を直し胸元に皺がないか眺めてスカートの裾をたくし上げ吸水性の無い下着の状態を確かめスカートの裾を伸ばし最後に靴の爪先で木板の床を叩きた。
さらに奥へ進んだ。
冬の薄暗い空を透かす割れた窓の風が潜り断続的に切り裂かれた喉から漏れる声のような高い音を立てている。彼女は寂しげな冬の空を背にして座っていた。手に錆びた万年筆。向き合う書斎机には割れた花瓶と書きかけの日記帳が混合して得体の知れぬ残骸となって場違いなほど瑞々しい花々が花片を散らしていてそれらは強い風が吹く度にささくれだった床面や黴だらけの敷物に祝祭の日のように降り注いだ。
人間たちの時間は部屋からとうの昔に過ぎ去っていた。支配者が暮らすには手狭で彼女の座る場所からは何もかもが見渡せるはずだった。そこには彼女が大切にしてきたささやかなもの全てが並べられていて悉くが朽ちて軋みを上げていた。吊り下げられた多灯器具のアームは四つのうち三本までが破断しており吊るされた罪人のように揺れており蝋燭代わりの電球は微睡みを邪魔せぬ程度に暗い。額縁という額縁は墜落して壁際を硝子の破片で縁取り本棚は腐り果て散らばる書物の綴じ紐は千切れてばら撒かれた紙面は滲んだインクでなにがしかの結末について占うが理解されない、誰にも理解されないだろう。飾り棚の一つだけが無事でそこには懐かしい姿の少女達の姿が色褪せて残されていた。
リリウムは嘆息した。対面の少女に蒼い視線を注ぐ。ひとまずは、彼女の肉体がまだそこにあると確かめられた。脱帽して己の細指でそっと触れた舌先から唾液を取り額に突き刺さる百合の花弁を模した人工脳髄に紅のように塗って光沢を与えた。それからキジールに仕込まれた優雅な所作でスカートの裾を持ち上げ知らぬところの一つも無い旧友の肉体へと親愛を込めて微笑んだ。
何度未来を語り合い何度何度肌を重ね何度喧嘩別れをしたかリリウムは余すことなく覚えている。自分たちは分かりあえないということを何度も確かめ合った。
宝物のような思い出だ。
それを噛みしめてリリウムは歌う。
「ごきげんよう、セラフィニア――大主教『徹宵の歌い手』、セラフィニア・ヴォイニッチ。大主教『清廉なる導き手』リリウム、ご相談したいことがあって参りました。あなたの大聖堂にお邪魔したこと、きっと許してくださいますよね。わたしとあなたの友愛はまだ続いているとわたしは信じていますよ」
大主教ヴォイニッチ。
彼女こそがこの変質した都市の支配者であり、解放軍の多くから造反者、あるいは狂気に墜ちたと見做されている再誕者だった。
書斎机に向き合うヴォイニッチは沈黙を続けた。彼女のために縫製された質素でありながら威厳を醸し出す特別な黒銀の行進聖詠服は賢者の外套にも似てゆるやかにたわんでいてそれでいて痩せ気味の体にぴたりと張り付き細い肩や体格の割に豊かな乳房といった女性らしい曲線をつまびらかに浮かせている。暗闇を透明な光で束ねて精錬した暗く輝く黒髪は三つ編みにされて肩口から垂らされていて彼女に生来備わる静穏でありながら挑発的な美貌を芳しく彩っていたがその翠髪にもたおやかな肩にも過ぎ去った歳月を示す埃と塵が降り積もり彼女の姿を曇らせている。
セラフィニアもまた神の寵愛を受けた美姫でありリリウムと同じくスヴィトスラーフを父としていたが二人は似ていなかった。美貌の質が根本的に異なった。リリウムの美貌は視線で射竦められた罪人がたちどころに膝をつき赦しと愛を請うと詠われた極めて非人間的なものであり立ってその人を見るだけで人々は恍惚を覚える。実際リリウムの前で数えきれぬ人間が陥落し彼女の美を通して神を知り彼女を信じて柔肌に手を伸ばし愛憐を請うたが劇的な焦がれはある種の絶望を伴う。彼女の蒼い瞳は紀元前に凍結し現在まで厳然と屹立する氷山の切れ端で即ち人知の及ばぬ海の底にまで続く神慮の一端を覗くための窓であった。
一方でセラフィニア・ヴォイニッチの瞳は空に例えられることが多かった。彼女の瞳もまた掛け値無し至上の光を湛えていて蒼く蒼く透き通っていたが想起させるものは何も無い。何も無い、ということを深く他者に刻み込む。彼女の瞳を覗き込んでもその先には何も無い。無限の空漠へと繋がる蒼だった。視線を向けて説法するだけで他者を改心させる類の奇跡をヴォイニッチは一度も起こしていない。
彼女は寡黙でありながら非常に多弁だったが誰かに働きかけるために語りかけることは滅多にしなかった。それというのも彼女はもっと分かりやすい形の奇跡をその身に宿していたからだ。人々は彼女の空疎な魂へ繋がる真っ青な瞳と例えば無から編まれた炎のような奇跡に畏怖し世界の輪郭をまるで知らなかったことに気付く。そして目覚め、改心し、神のあることを信じ、彼女に恭順する。リリウムが神の息吹ならヴォイニッチは神の業だった。彼女には信仰心など無いように思われたがリリウムよりも遙かに上手に奇跡を起こすことが出来た。
リリウムは久しく見ていなかった少女の肉体に向き合って、静かに応えを待った。壊れやすい細工のような肢体は簡素な事務椅子に腰掛けたまま動かない。虚空へと繋がる両の瞳は明らかにリリウムを見ていなかった。魂無き不死よりも遙かに重篤な有様で世界と相対していた。口元には笑みがあったが懲罰担当官のコルトの無表情と変わるところがない。実のところヴォイニッチは生前からずっと危うさを抱えていていつでも崖の縁から波の砕け散る岩礁を覗き込んでいる老人のような気鬱を滲ませていた。大主教になってからも年齢に見合わぬ陰と狂気じみた不動の微笑が秘めやかな華やかさに相応しい明るい色彩になることはなかった。
状態は最後に会ったときよりも遙かに悪化しているように見えた。
リリウムは不安になった。ヴォイニッチは生前から服装には頓着しない方だった。今のような在り方に移行してからは肉体のことなど一層どうでも良くなったようだったが、埃まみれの見窄らしい姿だったことは一度も無かった。かつて使徒や騎士、勇士に繕いを任せていた三つ編みはボサボサで使い古しの絵筆じみていた。彼女に狂信的に仕える者はもうこの地に残っていない。
彼女が一人残らず不滅者へと作り替えた後だ。
リリウムは咳払いして再度呼びかけた。
「ヴォイニッチ、ヴォイニッチ? あのー、あのですね! 折角古馴染みが、もう幼馴染みと呼んでも良い女の子が、こうして遊びに来たのです。挨拶ぐらい、しっかりしてはどうですか? ろんぐきゃ……ろんぐ……アムネジアなどは、いつもいつも挨拶は大事ですと言っていますよ。あなたの使徒があんなに礼儀正しいのに、どうしてあなたはそんなに無愛想なのですかっ」
返事は尚も無い。ヴォイニッチの肉体に欠けた部分は無く蔦のような形状の人格記録媒体も無事だ。機能停止はあり得なかった。その段階はこの高潔な思想家は自分で墓碑の下に埋めてしまった。永久に生きる存在としてはリリウムよりも位階が高い。だというのに心がここに無かった。
リリウムは溜息を吐き、乙女の頬を朱に染めて、恥じらい、それから決心した。ヴォイニッチに歩み寄る。椅子の回転機構が動くのを確かめて自分に向き合わせ、腰掛けたまま何もない空間へ視線を投げかけている黒髪の乙女を顎を上げる。顔を寄せ、唇を重ねる。さらに深く、かつてスヴィトスラーフ聖歌隊の大主教として親しくしていたときと同様に心からの愛情で接吻した。
ぺろりとペパーミントの香りが移った唇を舐めながら、黒髪の乙女の無防備な耳元で幾つか聖句を唱えて自分と感覚を同調させた。ヴォイニッチの肉体が震えた。これで彼女がリリウムを見つけてくれるはずだった。
「ふぅ……。もう、セラフィったら。わたくしはもう天使様と結ばれた体なのですからね。それなのに気付けのキスを求めて、こんなに甘美な味わいを欲しいままに押しつけて……怠惰であるにも程がありますっ。もちろん、わたしの、わたくしたちの愛は、今でもあなたにも向いておりますけどね。さぁ、どうか目を覚ましてくださいっ」
ヴォイニッチは『徹宵の詠い手』の名の通り眠らずに活動し続ける特性を持つ。定命だった頃から彼女は眠らなかった。ただし、いつでも声に応じるわけでは無い。遠大な思索に耽っているときのヴォイニッチを目覚めさせるのは、死人を黄泉から連れ戻すための儀式めいているヴォイニッチが自分自身を不滅者に作り替えてからはさらに難しくなった。
他にも幾つか呼びかけるための方法はあったがさしものリリウムもリーンズィの顔を思い浮かべて我慢した。恋を患っていた身であったからこそ古馴染みと愛を育むのは躊躇われた。火照ってしまった顔を隠すようにして窓を開き、溜息をついて眼下を一望した。
上ってきた階段の果てしなさには釣り合わない高度だったがそれは彼女が肉体を据えているのは概念的な『塔』であり物質的には廃屋に近いためだ。
前回来訪したときと何も変わらぬ混沌が都市を覆い尽くしているのがよく見えた。ほぼ全ての攻略拠点には人類文化を維持するために不死病患者が放たれていて彼らは聖句あるいは簡易人工脳髄の声に従い上辺だけの経済活動を行う。それは純粋な祈りかさもなければ見るに堪えない悪あがきで、いずれにせよ人間性のよすがに縋ろうとする営みだ。だがヴォイニッチの支配する都市はそうした共通項からも乖離していた。
人影は幾つもあるがそれらは連動していない。深酒で見当識を失ったかのような動きで規則性なく出鱈目に歩き回り、衝突し、その瞬間に衝突した事実など無かったかのように位置を変えて放浪を続行する。ある一部の区画は広大な麦畑の形をしておりそこでは血肉の泥濘で編まれた子供たちが駆け回っていてスチーム・パペットが数千年も前に打ち捨てられた遺物じみて鎮座しているがそれらは全て幻影だ。大聖堂と接続しているリリウムの目にはそれが周囲の人工脳髄への不正アクセスによって構築された共有幻覚に過ぎないと見抜かれており現実には廃墟で蒸気機関を振動させている白痴の鎧の不死が空き地に佇んでいるだけだった。砲弾が飛び交う領域まで見受けられるがそれもまた数機のスチーム・ヘッドが結んだ虚像で彼らは終わることの無い塹壕戦でEMPが吹き荒れ数百年巻き戻された泥沼の戦争を永劫繰り返すだけの機械に成り果てており砲弾を受けては弾け飛び復元し己らの幸運を噛み合わない言葉で称賛し合う。猫たちの乗り物となって市内を巡回しているだけの機体もいた。ロングキャットグッドナイト、アムネジアの眷属ですねとリリウムは少しだけ表情を柔らかくした。やっと言えました、と口元を綻ばせる。
狂気に陥り奇怪な思想に囚われただけの集団のようにも見えるが事態はより深刻であり彼は因果律というものを半ば無視して行動していた。異常行動を未来永劫繰り返すことを定められた彼らは一般に不滅者と呼ばれる存在だった。|存在核確立済自己言及式言詞駆動人造脳髄。大主教ヴォイニッチが聖句技術を駆使して作り上げた奇跡。限りなく真に迫った、ヒトの形をした永遠。己の存在理由、夢、理想といったものをよすがに恒常性を編み直された偽りの人間たち。
もはやどこにも至れない彼らは、対価として誰からもその存在を侵されない。
ただ一人、彼女たちを生み出した一人の少女の言葉のみが、彼らを人間の影の如き不滅の戦闘部隊へと変貌させる。
「……あまりわたしたちの信徒や勇士たちと戦わせたくはないですね」
白銀の乙女が物憂げにぽつりと漏らすのは、かつてFRFとの武力抗争を未然に防ぐために起こった戦闘の悪夢めいた悲惨さが目に焼き付いているからだ。
ヴォイニッチの判断は正しかったのだろう。差し迫った地点へと到達した戦禍を食い止めるにはその場で新しい災厄の箱を開くしかない。知性のあるものならば誰しもが逃げ出したくなる地獄を出現させるしか無いのだ。
例えば自分を崇めて慕う信徒たちを言詞によって磨り潰して組み替えて継ぎ接ぎにして何万発の銃弾を撃ち込んでも意に介さない波濤の如き怪物を敵味方の区別も教えぬまま解き放つような。
大主教ヴォイニッチは天使を愛さない。天使はリリウムを拐かしたから。
だから彼女は天使のいない地獄を呼び寄せた。
第百番攻略拠点。それがこの都市のかつての名だ。FRFの拠点へ繋がる最短経路に存在するクヌーズオーエにして、容易には突入出来ぬ極めつけに危険な悪性変異体が跋扈する領域への橋頭堡であり、元来は中心部に存在する『暗い塔』を目指すための最終補給地点として期待されていた。解放軍とFRFの衝突を未然に防ぐためにヴォイニッチによって閉鎖されてから、実態は支配クラスの機体にのみ可視となった。
「ヴォイニッチ、そろそろ返事をしてくれませんか? わたしはわたし一人で『わたくし』とお喋りするのは平気ですけど、だけどお相手がいる状態でお預けをされてしまうのを、楽しめるたちではないのですよ。あんまり焦らせるようなら、あなたの信徒たちと炉端で語り合いを初めてしまいますよ? 魂を『ことば』に移した方たちとの交歓には興味がございます……セラフィニアがそれを眺めていたいというのなら、遠慮無く試させてもらいますけど」
ごとり、と異音がした。
本棚から紙束が落ちた。白銀の乙女は嘆息してもう一度微動だにせず微笑んだままのヴォイニッチの肉体へそっと口づけして目を合わせ頬を撫でた。
「ヴォイニッチ。ヴォイニッチ。ハレルヤハ、ずっと会いたかった! リリウムが遊びにきましたよっ」
危惧や懸念は音を立てて崩れた。この都市への警戒感も吹き飛んだ。リリウムの心は愛の悦楽を求めるバイアスに突き動かされ歓びでいっぱいになってしまった。感情の自由を厳密には持たない調整済人格であるからこその挙動だったが彼女の乳房の間、肋骨の奥で、心臓は真実の歓喜に打ち震えていた。
リリウムは嘘偽りなく彼女のことを愛していた。
「もう、ずっと聞き耳を立てていたのですか、意地悪なヴォイニッチ。わたしが服を脱いで休息を取っていたところまで舐め回すように見ていたんですねっ。不埒ですっ。可愛い下着を穿いてきて良かったですっ。だけど物足りないですね。既に天使様との婚姻を済ませた身ですけど、ヴォイニッチが相手なんですもの、遠慮無く触ってくれても良かったんですよ?」
リリウムが拾い上げると黄ばんだ紙の上に得体の知れぬ文字が次々に浮かび上がり慌ただしい筆致で言い訳がましい文面を作成していく。上級レーゲントにしか読み取れぬ文字列はその実解読しても大した内容は記されておらずただ意思伝達の媒体としているだけだ。
「ふうん。難しい話は分からないですが……あなたの肉体の状態がすごく酷いから心配したんですからねっ。そう言えば、あなたはどんな状態なのです? わたしと交配したら子は成せるのでしょうか。ですから、ヴォイニッチ、あなたのリリウムは心配なのです。このままだとあなたはずっと誤解をされたままではありませんか。せめてわたしたち大主教で仲睦まじく混じり合い、二人の子を成せば、その奇跡を通して、皆はあなたがまだここにいると分かってくださるでしょうから」
事務椅子に腰掛けた黒黒髪の聖女の表皮から急速に埃が分解されていく。表情や眼振に変動は無いがヴォイニッチの姿は見る間に少女の体に隠者の外套を貼り付けただけのレーゲント的な出で立ちになった。唇に色が灯り微笑も少し明るくなった。リリウムは改めて緑髪の聖処女を抱いて昔のように接吻した。何度も愛情を注いだリリウムは頬を朱に染めて頷いた。
「だって、愛を多く持つのは悪いことではありませんよ? ……それに、わたしの花嫁だって、他に恋人を作っているのです。わたしが古い友人と愛を確かめ合ってその結晶を身篭っても、きっと許してくれるでしょう。もちろん、婚外交渉で子供を作るなんて大変なことですから、きちんと話し合いはするつもりですっ」
沈黙の聖女は無反応だ。熱い接吻にも身じろぎ一つしない。彼女は何も感じない。
サイドチェストにティーセットが編まれ触れてもいないのに湯気が立ち始める。
「はわあっ。ハレルヤハ、この香り、アッサムですねっ。本物そっくりですっ。すごいですヴォイニッチ、偽物でも、食べ物の創成が出来るようになったんですか。夢物語だと思ってましたっ。こういう分野ではもう誰にも負けませんねっ」
称賛の声は届かない。ヴォイニッチ自身は何もしない。事務椅子で今も虚空を見つめる。リリウムは親愛の言葉を何度も囁き肉体に快楽を与えたっぷりと返礼する。自分でカップに紅茶を注いで微笑した。荒れ果てていた室内の調度は時間を巻き戻されたかのようで失われた色彩が蘇っていく。
「ええ、十分です。ふふふ、あなたの書斎でのこと、ちょっと思い出してしました。……永遠に、キジール母様とアムネジアと、そしてあなたがいた、素晴らしい毎日。聖父様もわたしたちを優しく愛してくださいました。わたしはあのままずっと一緒だと思っていたんですよ? あなたが変わり初めて、わたしが運命に気付くまでは、ですが」
破壊された本棚も逆回しに修復されていき有耶無耶の古紙の山も糸で引かれたかのようにあるべき場所へと引き戻される。
「ヴァローナは本当に良い子だったんですからっ。もう、嫉み羨み求めることは、別の大主教の領分でしょうに。嘆かわしいことですっ。それで、本題なんですが……FRFが動き出したみたいなんです。率直に聞きますね。第百番攻略拠点を誰か通過させましたか?」
ヴォイニッチは瞬きすらしない。無反応ままで常人には何の変化も読み取れない。
「ううん……それじゃあ、ヴォイニッチはこの件には無関係だったんですね。失礼を働いてごめんなさい。あなたが心変わりをしたかと疑ってしまいました」
『徹宵の歌い手』は最後まで人間らしい反応を示さない。構造物は生きているかの如く組み替えられいくが当人はまるで植物の残骸のようだった。
「……その情報を一体どこで手に入れたのですか。まだ実際に紹介したことも無いのに。ロング……にゃにゃにゃ…にゃットナイトからの報告ですか?」
きっとその瞳が人間らしく世界と相対する機会は永久に無い。ヴォイニッチはこの不滅の都市で真なる不死へと堕ちたのだ。
「端末というと、FRFに貸し出している、あなたの恒常性を挿入したレーゲント、でしたっけ。人道支援目的だったはずですよねっ。それが何故? 解放軍との接触なんて、前線での運用も良いところじゃないですか。プロトメサイア様は恐ろしい罪人ですが、あれはちゃんと約束を守る人です。そんなレーゲントの使い方を許すはずがないでしょう?」
……部屋のあちこちからヴォイニッチの言葉が伝わってくる。リリウムは真摯な心で視線を這わせ、部屋の内装に変化を探し、窓の外に耳を済ませ、インターフェイスでしかないヴォイニッチの肉体を指でなぞり、意志の介在しない眼球を覗き込み、愛おしい友人である彼女の言葉を読みとろうとした。
新しい流れが作られつつあるんだ、と黒髪の少女は都市を通じて語りかける。
僕たちでは制御出来ない大きな流れが、運命という水路へ流し込まれたのだろうね。
彼女自身はもう人語を操らない。
低位の再誕者には、彼女の意志を感知することすら出来ない。
何故ならば彼女は都市であって人ではないからだ。
これが大主教ヴォイニッチだった。
彼女は狂ってなどいない。
解放軍に反旗を翻したわけでも無い。
ただ、変容したのだ。
次の姿へと。
現在の第百番攻略拠点は終わりのない悪夢だ。
それは不滅者たちの占領都市。
それは永続する苦悶の檻。
それは狂える大主教ヴォイニッチの箱庭。
それは不滅という忌まわしき現象に支配された異界……。
いずれも偽りの真実に過ぎない。
第百番攻略拠点は不可知の領域にある。
都市でありながら一個の完結した生命体なのである。
大主教ヴォイニッチは『滞留する永遠』を実現させようとした。
彼女は自己を解体して無制限に拡大し、広大な都市そのものを、極限まで拡張・冗長化させた恒常性によって侵食し、再帰構造を構築して一人で掌握したのだ。
『現時点において最大規模の構造を持つ不滅者』と呼ぶのが、現在の彼女の本質に最も近い。
幾千の不滅者を兵器として駐留させる、全てを言詞で再編された、意志を持つ都市。
それこそが現在のセラフィニア。
永久にして不滅の要塞都市。
『不滅者』と化したヴォイニッチの存在の形だった。
「祭壇の羊、再誕と祝福(4)」冒頭に組み込む予定だったんですが考えていたより処理が重かったのと何か長くなったので独立させてしまいました。こんなに時間がかかるなんて……。
名前だけ出てた人の初登場回でした。今後出るのかなこれ。
末尾に(1)とついていますが、仮の処理です。(2)とかは今のところ考えてません。




