セクション3 エンカウンター その⑦ 祭壇の羊、再誕と祝福(2)
クヌーズオーエの空は、諦めた老人の笑みのような、演じられた微笑のような、どこか虚構めいた色彩をしている。蒼い色の記憶まで塗り潰す厚い雲で鎖されているか、神経症になりそうなほど晴れ渡っているかのどちらかで、白夜の訪れた時には、世界に降ろされた透明な煙じみた光の帳が、地にある有耶無耶を形の無い手のひらで押し潰そうとしてくる。
天体の運行は塗り替えられた。季節の巡りも崩壊しきっている。そうではあるにせよ、北欧に人格記録の由来を持つ機体からしてみると、さほど違和感のない空ではあるらしい。
ただし、通奏低音じみて世界を這い回る空虚さは、特に温暖な地方の記憶を持つスチーム・ヘッドには、相当に堪えるようだった。底抜けに明るい、しかし冷たい陽気は、時として現実に対する見当識を丸きり狂わせてしまう。休日に機嫌良く音楽喫茶に出かけた機体が、しかし空の薄気味悪い青さに論理崩壊を起こし、そのまま路上で機能停止を迎えることさえある。
クヌーズオーエは自分がどこに居るのかさえ曖昧にしてしまう。擬似人格の拠り所を蹴飛ばして那由他の海の彼方へと送り出してしまう。
広大で息苦しくも、手を伸ばせば腕が溶けて消えてしまいそうな蒼穹は、盲目の神が彷徨える民草を愛するかの如く、受容不能な迷走と緊張感とを、等しく地を這う者どもに分け与える。
忌まれがちなクヌーズオーエの気候が、しかし事態を上手く運んでくれていた。
下半身を切断されたニノセは、自分を取り囲む、美しい少女達に視線を彷徨わせていた。見当識の消失を招く冷たい大気が彼女から思考能力を奪ってくれている。
聖歌隊の再誕者たちは円を組み、手を繋いで、時折互いに接吻し合い、癒やしと鎮静の聖句を口ずさんでいる。
発される言葉は出鱈目で、最低限の音律を保った無作為な単語の群れに過ぎない。
聖歌というには余りに不揃いな斉唱は、しかし不思議な安定感で、ある種の円環を構築している。
押し潰されそうなほど清らかな陰鬱な空より、聞く者の脳髄を肉の一片から不可視の尊厳まで侵し尽す天上の調べが降り注ぐ。
ニノセは微睡むような眼差しで自分を囲む輪を見上げている。
生きたまま鳥葬に処される何某かの罪人、あるいは捧げ物に似ている。
「ねぇ、私はもう死んでるの……?」
掠れた声で、ニノセは夢見るように呟く。
「ぜんぶキラキラ輝いて見えるわ。こんな綺麗なクヌーズオーエは……初めて……。わたし、私ね、メアリーの信じていた宗教について、勉強したの……天国のこと……。ここはもう、天国なのかしら……」
「いいや、眩しく見えるのは、瞳孔が散大して光を適切に取り込めなくなっているだけだ」
リーンズィは端的に応えてしまった。
ケットシーが「ふんいきは大事! ここは優しく手を握ってあげてそっと微笑むと……絵が良い!」とエア警笛を吹きながら注意を飛ばしてきたが、良く分からなかったので無視した。
無数の美声が編む不揃いな旋律は、祈祷としては申し分の無い音色で、空疎な都市を満たしている。
中核を成すのはかつて大主教であり、二度目の死より蘇ったエージェント・ミラーズだ。
彼女の紡ぐ癒やしの聖句を、上級レーゲントたちが受取り、構造化して、他のレーゲントへと伝播させている。
ミラーズにはもう『キジール』だった頃の力、世界を破滅に導いた一大勢力の幹部としての性能は無いようだが、それは聖句の生成に限った話なのであろう。統率に関して言えば未だに他の上級レーゲントよりも優れていると見受けられた。
ミラーズの指揮で構築される幾重にも聖句の詠唱を重ねて効力を拡張して作る『聖堂』と呼ばれる言詞構造体は、確実に効力を発揮していた。あまりにも強制力が甚大なため、聖句を湛えるレーゲントたちにすら効果が及んでいる。少女達の何人かは、涙ぐんで、空を仰ぐことさえする……。
彼女たちは、神の存在を、命令言語によって確信していた。強制された確信は天啓と区別が付かない。きっとその視界には、舞い降り天使たちの煌めく羽が輝いている。信じる者の前にのみ奇跡は訪れるのだ。
そうあれかしと願われたとき、不死の病は未来を確定させる。
彼女たちは信じている。『みんな幸せになりますように』。
『みんな』に己の敵までもが含まれているのは、言うまでも無い。
ニノセは呪われし聖句を唱える少女達に囲まれて、傍らの廃レーゲント、フラワードールへと、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「……誰も私を見てくれなかった。私は市長の予備、バックアップみたいなもので、ぜったいに一番にならないといけなくて……。姉妹の誰だって本当には私のことを理解してくれなかった。でもメアリーはいつだってありのままの私を……愛してくれた。あなたをめちゃくちゃにした私を愛してくれた。あなたを侵害したあとの私が、怖くなって抱きついて、そっとキスをして、あなたの反応を待っていたときのこと、覚えてる? あなたは私を抱き寄せて、胸の中で眠らせてくれた。その時からずっと、私はあなたに夢中だった。姉妹と同じぐらい、いえ、それよりもあなたのことが大切で、大好きになった……色々な市民の玩具にされてるあなたを、私だけの名前のある誰か、私だけの大切な人に変えたくなった。だから……これまで頑張ってこられたの。あなたと結ばれたくて、でも……こんなことになっちゃった……」
そうして血まみれの口元で一生懸命に接吻を重ねる。
フラワードールからの反応は無い。いつものことなのだろう。ニノセの意識は脳機能の低下とともに崩壊しつつある。愛を交し合ったというエピソードも、どこまでが現実でどこまでが妄想なのか、リーンズィには分からない。
人形の如き敵対勢力の、壊れてしまった少女に愛を注いで、無意味な交歓を花開かせて、しかし、ニノセは幸福そうだった。鳴り響く歌声は、形の無い麻酔薬だ。苦痛を和らげ、脳髄に快楽物質を精製させ、下半身喪失の苦痛すら曖昧にしてしまう。
無限の前進を煽る、清廉なる導き手たちの鎮魂歌。
辿り着く先に何があるわけでも無いが、この瞬間には、きっと有用だった。
「……ああ、この歌、メアリーもたまに歌っていたわ。賛美歌って言うのよね。神様って、そんなに大切なの。自分が誰だか分からなくなっても、信じられる存在なの。そのために永遠に歌い続けるなんて、信じられないわ……」
厳密には異なる。レーゲントたちは何か一つの聖歌や賛美歌の類を思い浮かべて息を繋ぐが、個々人の精製する聖句が異なる以上、現出するのは、リズムや音階だけを真似た、偽物の祈りだ。
だが偽物の祈りにも力は宿るのだ。本心から神を信じ、神のために歌を奉じるならば、強制力を伴う絶対の言語が万人を救済する暗示の迷宮を擬似的に展開する。歪み果てていようとも、邪なる者に捧げた祈りであろうとも、そこに込められた感情が褪せることはない。
みんな幸せになりますように。みんな幸せになりますように。みんな幸せになりますように……。
神の国はそこにあるのだろう。
偽りであろうと、呪詛であろうと、そこに幸福はあるのだろう。
「神ではなく、君のための歌だ」リーンズィは生身の右手でニノセの額に触れて、汗を拭ってやった。「神に縋るための歌だ。どうかこの娘が助かりますようにと、心から願う歌だ」
仮初めのなぐさめを囁く間にも、リーンズィの人工脳髄は統合支援AIユイシスと高速通信を続行している。
不活性状態の不死病を、より悪性のものへ置換する。
そのための手続きは着々と進んでいた。
ライトブラウンの髪の少女は、潔癖そうな美貌をニュートラルな表情で維持したまま、左腕部の蒸気甲冑から、予備の首輪型人工脳髄を取り外す。
【予備電源・容量減少】の警告が表示されるのを確認する。
モードを何に設定するか、短い時間悩んだ。
思考を先回りして、ユイシスが冷淡な声を差し挟んだ。
『……これ以上のエコーヘッド作成は非推奨です。予備電源系を構築するデバイスの仕様外転用を無作為に行えば、アルファⅡモナルキア総体の緊急用蓄電能力は、いずれ危険域に達します』
少女は頷いた。
手のひらに収まる冷たい金属の塊を弄ぶ。
首輪型人工脳髄。隷属化デバイス。名称は幾つもあるが、アルファⅡモナルキアのシステム上、この端末の区分は『予備電源』だ。
他のスチーム・ヘッドのコントロール奪取に使用出来るのは事実だが、その状態を長期間維持するのは仕様外だった。ヴォイドの人格記録を収録したデバイスとて、現在は回収され、アルファⅡモナルキアのバッテリーとして利用されている。
それこそが正しい用法なのだ。
限られた目的で分離して、すぐにバッテリーに戻す。
可能であるとしても、決して誰かの人格を写し取り、際限なくエミュレートするための道具では無い。
短期的には、予備電源を全て喪失しても問題は無いだろう。メイン蓄電槽の容量は膨大。発電能力は常識外。しかも時勢に全くそぐわない一部装甲型の蒸気甲冑は、省電力化を志向した結果なのだ。
現在のリーンズィには朧気ながら自分という機体の輪郭が分かり始めていた。重外燃機関は無尽燃焼炉の排熱を利用して、常時自然対流発電を行っており、バッテリー切れは自然な状況では起こり得ない。
アルファⅡモナルキアはクヌーズオーエ解放軍では最も永久に近い機体と言えた。
だが、どんな機体にも、いずれ決定的な一秒が到来する。
限界を超えるための一秒。
あまりにも長い致命的な一秒だ。
アルファⅡモナルキアは、きっとその一秒を突破するために造り出された。
ポイントオメガがどこにあるのか、今のリーンズィには見当が付く。その一秒の先にこそ、辿り着くべき領域がある……。
実のところ、予備電源の蓄電量など大したものではない。他のスチーム・ヘッドのバッテリーよりも桁違いに高性能だが、それでも全機能を解放したアルファⅡモナルキアを余分に一秒動かせるかどうかだ。
しかしその有無が0と1の境界を分けるのだとリーンズィは予感している。覆しようのない一秒。限界を超えた領域での一秒。いつ、どのような状況で訪れるか不明な一秒のための予備電源。
それを手放してしまうことの損得について考えた。
『忠告。その検体をエコーヘッド化することは理論上可能です。成功事例も調停防疫局のデータベースに存在しています。ですが到底戦力化出来ないような人格記録は、致命的状況を打開するための一手と釣り合うものではありません』
「……いいえ、私の愛しいユイシス。それは違うと思うわ」聖句の詠唱を他のレーゲントに任せ、ミラーズが言った。「価値がないというのは、救わない理由にはならない」
『ええ、当機の愛するミラーズ。議論の余地があるのは認めます。しかし物事には優先順位が存在します……』
二人が穏当に意見交換をしているのを、リーンズィは聞かないでいた。
空を見上げた。
書き割りのような空に、鳥の影を探した。
二羽の鴉を探した。
リーズィは、レアからいつぞやかの夜に聞かせて貰った、ある神様の話を思い出していた。
何千年か何万年も前ノルウェーのあたりにいたという、戦争と死の神のこと。彼は偽物の乙女と死から蘇らせた戦士たちで軍団を造り、いつか起こる世界最後の戦いに備えている。「これってクヌーズオーエ解放軍みたいじゃない?」と白髪の少女は可笑しそうにしていた。リーンズィが純粋な興味から、ではその世界最後の戦いが終わると何かあるのかと尋ねると、彼女は、少し深刻そうな顔をして、「それってどっちのことを言ってるの?」と問い返した。ややあって、諦めたような顔で「リーンズィは、どうなってほしい?」と問いを重ねてくる。闘争と勝利しか知らぬ少女は物憂げに唇を求める。「どうしたらいいと思う……?」
リーンズィにはその神よりも、彼の従者であるという鴉のことが印象に残った。
勝利の上にさらなる勝利を求め、自分自身をも生贄にしたというこの狂える神は、ある種の強迫観念に襲われていたのだろう。無限の闘争を求め、無限の闘争を恐れ、無限の闘争に備えた。
挙げ句、智慧ある二羽の鴉に世界を旅させて、次の一手を、まだ見ぬ次の一手を、次の敵を、まだ存在しない次の敵を、延々と捜索させた。
この二匹の鴉は仕事に飽かぬばかりか、時折道に迷う旅人にも囁いて、彼らを導いてくれたという。何か、ヒトのみでは思いつかぬ、思いも寄らぬ冴えたやり方を。
ライトブラウンの髪の少女には随分と示唆的で、魅力的に聞こえた。そんな存在が居ればどれだけ素敵だろう。どれだけ救われるだろう?
ミラーズの素体となったキジールと出遭ったときに、原型の人格たるエージェント・アルファⅡは一羽のカラスを見た。それがために、後継機たるリーンズィの思考の片隅にも、何かしら吉兆のようなものがこの世に本当に存在しているという考え方が根付いていて、それがそっと囁きかけてくれるのではないかと、ときどき信じたくなってしまうのだった。
もしも神話が、この人知れぬ僻地で、この無限に連なる都市で、窒息せず、仕事を投げ出さず、まだ呼吸をしているのならば、どうか正しい答えを示して欲しいとリーンズィは願った。
放心して、虚ろな蒼穹を仰ぎ、影を求める。
ない。何も無い。地にある全てを嘘にしてしまいそうな青空に影など見えはしない。武装を解除された器官飛行船だけが透明な海の形の無い岩礁に挫傷した幽霊船のように空に浮かんでおり錨を降ろすかの如くに臍帯じみた長い長い管を垂らしていてそれらは死んだ街の死んだショッピングモールの死んだ広場で出口の無い迷路そっくりに複雑に折り重なっている。
それが世界の実像だ。
都合の良い進路など分からない。
また、レアの話してくれた神様のことを考える。
戦争と死の神ですら、手がかりを必要としている。
何も無い自分に、いったい何の選択が出来るというのか。
リーンズィは嘔吐感を伴う恐怖を覚えた。
『……エージェント・リーンズィ、不安定な精神状態が継続していますが、敢えて提言します。意志決定の主体はあくまでも貴官です』
豊かな金色の髪を靡かせる愛慕の偶像のアバターを出現させ、惑える己の娘の頬を撫で、ユイシスが囁く。
『当機には、忠告以上の行動抑止は出来ません。ですが、注意してください。そのデバイスを使って誰かをどうにかしようとすればするほど、アルファⅡモナルキアの機能は低下します。その上で、どのような選択をしようとも、当機らは貴官を糾弾しません』
「うん。分かっている。私は……これを、やらないといけない気がしている」
『しかし、理由は述べるべきでしょう。論理的な思考の結果とは認識出来ません』
「論理的な話ではないんだ」リーンズィは呟いた。「私が思うのは、論理的な思考というのは時折現実から離れて、何というか、抽象的になりすぎてしまうのではないか、ということ。……ユイシスに要請する、私の思考を読んで、要約してほしい」
リーンズィには、上手く表現できない事柄がまだ多すぎる。一回性という異常な性質を帯びた命に対してどうすれば良いのか、まるで判断が出来ない。
彼女の人生は常に不死とともにあり、彼女自身には人間としての出生という事実すら無かった。彼女は機械知性が造り出したどこにもいないどこかの誰かだった。
それでも、自分の思考が一回性しかない人間の現実から乖離していることぐらいは、分かっていた。
リーンズィは想起する。数分前、ニノセに対して、眩しく感じられるのは瞳孔が散大している結果に過ぎず、天国などまだどこにもいないと答えた。
ケットシーに咎められて気付いたが、ニノセが欲しかったのは、むくつけの無遠慮わな指摘とは異なる。
メディア出演が豊富で、民間人の交流にも慣れていて、いつでもかっこよく戦って下着をチラリと見せつけることしか考えていないケットシーだったが、それだけに、何をすればご安心とご安全を提供出来るのか、そこのところを熟知していた。
人間が縋るのは、もっと熱の通った、心の襞をくすぐるような、真摯な慰めの言葉だったに違いないのだ。
アルファⅡモナルキアが造り出したリーンズィは、そんなに器用な人格では無い。だから、きっと表象だけに言及するのが正しい。上辺だけを見て、上辺だけを縫合し、上辺だけを塗り潰し、傷を仮初めに隠してしまうだけで良い。
必要なのは完治させることでは無く、生命を維持することだ。
だけど、とリーンズィは思い悩む。
我が身を省みず血肉を捧げようとするミラーズ、そして聖句の奔流で幾万の彷徨える者どもを導くリリウムのことを思うと、気持ちが揺らいでくる。
調停防疫局は、定義にもよるが、全人類に対して究極の医療行為を行った集団だ。全人類をおそらく永久に死ねぬ存在に造り替えた。それが本当に望んだ未来なのかは分からない。エージェント・シィーの記録では、どうやら不死病は思うように運用できなかったようだが、しかしこんな性質を持つ病を保持していた時点で、過程はどうあれ、最終目的地は不死がひしめくこの風景だったに違いない。
惜しみなく災禍をばら撒き、惜しみなく奇跡を与えた。
果たしてその最も幼い末裔の少女は、物資を惜しみながら、偽りの救済を施すだけの薄情者で良いのだろか?
……そんな情けない後輩を、レアせんぱいは軽蔑せずにいてくれるだろうか。
「やりたくないことはやらなくていい」とかつてヴォイドは言ってくれた。
では、やりたいことをやってはいけないとき、リーンズィはどうすればいいのだろう。
予備電源と成り果てた彼は眠っている。
叱責の声一つ、聞こえはしない。
ここに居る鴉はただ一匹。
リリウムの近衛兵だった少女、大鴉の騎士の肉体だけ。
リーンズィは我が身に問いかける。我が心臓に問いかける。
ねぇリーンズィ。君はどうしたい?
十数秒の葛藤だった。
リーンズィはニノセの傍に腰掛け、そっと後頭部を持ち上げて、彼女の細い首を持ち上げた。
ごつごつした蒸気甲冑の指先で、止めどなく汗の噴き出る肌を拭ってやった。
生身の右手で滑らかな首筋に触れ、脈拍を確かめる。弱々しい命の感触。
まだ死んではいない。死んでいないだけの肉体。
そして、躊躇いなくデバイスを嵌めた。
冷え切った金属の感触が刺激的だったのか、レアと同系統、愛しい人の面影を持つ瀕死の娘は、びくりと一際大きく震えた。
「くびわ……くびわ。私は奴隷になるの……? スケルトンの愛玩動物になるの……」
「確かに、そういう機能もあるデバイスなのだな」ライトブラウンの髪を揺らしながら、重々しく頷いた。「君は、これから不死となる。我々はそのような処置をする。上手く行けば……君の傷は癒えて、失われた一切が、君という器へと再び帰還する。しかし……君にはさらに、もう一つの道がある」
汗で濡れた髪をかき上げてやる。
失血で青ざめたかんばせ、病毒に侵されてドブネズミのように震える肉体。
その肌の冷たさを補おうと、せめてもの慰めにと、右手から体温を分け与える。
触り返してくるかと言えばそういうこともなく、彼女の手指は傍らのフラワードールに、しかと絡められている。
ニノセという少女のことをリーンズィは何も知らない。
でも人を愛することだけは、リーンズィにも少しだけ理解出来る。
彼女の幸せについて考えた。
それから、自分自身の幸福について。
「このデバイスを使えば、君はスチーム・ヘッドに……君たちの言うところのスケルトンになることも出来る。デバイスに人格記録を転写するんだ。これを装着している限り、不死となった後でも……」
それと引き換えに、リーンズィは予備電源をさらに失う。
不合理的な選択だ。ニノセは定命者としては優秀な兵士のように思えたが、特筆すべき性質の持ち主では無かった。エコーヘッドに作り替えたところで、利益にはならない。
しかし、その選択肢があるということを、提示せずにはいられなかった。ユイシスは愚かだと非難したが、こうしなければリーンズィの精神が破断すると考えて、我が儘を聞いてくれた。
リーンズィは、真性の人間ではない。由縁も前世も人間としての前歴も存在しない。比喩で無く、架空の人間に等しい。そのため、精神には雛形が幾つも存在する。
そのうちの一つは、疑いようも無くミラーズだ。ミラーズは神を本当には信じていないし、スヴィトスラーフ聖歌隊の行動理念にも忠実ではない。
だが疲れ果てた誰かに手を差し伸べ、己が穢れ果てることすら厭わない清廉なる導き手としての性質が、彼女には備わっている。
リーンズィは彼女の最も新しい娘、最も新しい恋人として、自負を持っている。
それが、ミラーズのように振る舞えないなら、そんなのは石ころとどう違うだろう。
合理性など関係ない。リーンズィは助けたい。だから『やる』のだ。
それが幼い擬似人格の下した決断だった。
だが、詳細な説明をする前に、返答があった。
「いらないわ。メアリーと、一緒にいられるだけで良いって、言わなかった……」
呼吸のついで、といった調子だった。
最初は理解が追いつかなかった。
断られるとは思っていなかったのでリーンズィはうろたえた。
ネレイスも、リクドーも、何か口を挟もうとしていたが、誰かが意見を申し立てるよりも早くに、ニノセは決断していた。
命が尽きかけていることなど意に介さない意志が、外界からの誘惑に惑わされることのない資質が、彼女には備わっていた。
「あなたたちと同じになりたいんじゃ……ないの……。メアリー、と同じになりたい。それだけ……」
ライトブラウンの髪の少女はどうすれば良いのか分からず、何とはなしに、ニノセに口づけした。呼気にはまだ命の熱が残っている。
何故だかコルトとキスしている気分になった。
錯乱状態にあるのかと思っての行動だったが、ニノセは気怠げに、深い口づけに応じただけだ。
「見かけによらず……慎ましいキスをするのね……」
「……我々と同じになれば、君はもっとそのレーゲントに、メアリーに、色々と働きかけることが可能になる。能動的に彼女を愛することも……好きなだけ交歓することも出来る」
「いらない、って言ってるの。彼女は精神が、もう、残ってないんでしょう。メアリーと同じになるのが、一番の愛情表現よ……同じ、何も分からない体になって、永遠に手を繋ぎ続けるの……。それとも、あなたたちスケルトンの仲間になって、奉仕をしろとでもいうの……これって、取引かしら……」
レーゲントたちの歌声が小さくなった。
ミラーズが会話はまだ続くと予見して、話しやすくしてくれたのだ。
目配せしてくる金色の髪の天使を見る。
それから、息を整えて、ニノセに向かって言葉を紡ぐ。
「そういう……そういうわけではないんだ。もちろん、断るというのも当然の権利だ。すまない、君の願いを叶えよう。愚かな提案をした。私を赦してほしい」
「あなた、考えてることが顔に出やすいって、よく言われるでしょう。すごく悩んでいるのが分かったわ。そして嘘をついてる。スチーム・ヘッドを作る道具って、そんなにたくさん無いんじゃないの……」
「そんなことはない。物資は潤沢だ」調停防疫局は既に滅び、部品を融通できる同系機は存在せず、補給の目処は立っていない。「君一人の人格記録を保存するのは容易ではないにせよ、困難な仕事ではない」
「真実を指摘されても、無表情を保てば考えを悟られないで済む。そう思っている。違う? ……その左腕の甲冑に取り付けてる部品、『潤沢』なんて言えない。配給が無い時のパン屋みたい」下半身が無い少女は、震えながら薄く笑んだ。「リクドーに似てるわね。普段はビクビクしているくせに、大変なときは平静を装おうとする……」
急に名を使われたリクドーも、姉の言葉を推し量ろうとしていた。
「ボクの話は良いよ。ごぼ……けほけほっ……。ね、姉様。今はニノセ姉様の話です。虜囚の辱めを受けたくないというのなら、姉様らしいと思います。だけど……意固地になっているんじゃないですか……。別に情報を引き出されたって、それは解放軍の利益になりません……。ウォッチドックスが知っているぐらいのことは、解放軍だってずっと昔に知っているんです。母様も、情報漏洩防止が目的なら、ボクたちの頭を縦に割って、脳機能を破壊していたはずですから」
「いいえ、これはあなたのための話よ。リクドー」姉は顔を背けた。「スケルトンの長、リーンズィ。私にこれ以上の願いがあるとすれば、それはね、その首輪を使う権利を、そこにいる私の妹であるリクドーに、譲ってほしいということ。それだけ」
「姉様、ボクはそんなこと……」
「私の願いよ。あなたの姉としての。……私、あなたのこと嫌いよ、リクドー。後からやってきた、血の繋がらない新参のくせに、誰よりも強くて、母様にもたくさん愛されていた。憎たらしくて仕方なかった。腹いせにあなたの生殖権を競り落としてやったとき、私が命令したことを覚えている? サードのラボに行かせたのよ。あの寄生生物の培養施設に。ひとつ、研究に協力してこいって。泣いて懇願するなら、撤回してやる気でいたのに、それでもあなたは従うだけだった……。忌まわしい妹。私より優秀なくせに。裏で低性能な資源だと私を嘲笑ってたんでしょう。私も、あなたなんて死んでしまえば良いと思ってた」
「そんな……そんなことありません! 姉様のことを嘲笑うなんて……」
「……私は私が私でなくなることよりも、あなたが死んでしまうことの方がずっとつらいわ。死にかけて、初めて分かったのよ。死んでほしいぐらい嫌いだけど、本当に死んでほしいわけじゃなかった。あなたが妬ましくって……無為に傷を負わせてきた。だから……最後に姉として……少しぐらい、埋め合わせをしないと……」
横たわり、半分しかない体から懸命に息を吐きだすニノセは、死の国の坂を急速に下りつつある。
紡ぐ言葉は明瞭でなく、時折舌がもつれて、音として成り立っていなかった。
多眼のヘルメットを被ったままのリクドーは、信じられないものでも見るかのように、無数の視線を彷徨わせていた。
「ニノセ。不要だというのならば、私は、君の意思を尊重する。約束する」
意識は朦朧としているはずだが、意志決定は正気で行っていると判断出来た。
迷妄や混乱ではない。
ユイシスの解析が確かならば、ニノセは本心から望みを訴えている。
「……ボクも不死なんかいらない」リクドーは肩を落とした。「姉様には悪いけど、ボクもサード姉様がいない世界なんかには生きていたくない。天国だとか地獄だとか、ボクは信じていない。もしも神様なんてものがいるのなら、ふふ、何でもこんなことになってるのか……」
ヘルメットの眼球の群れがレーゲントたちを見渡す。
そして、リクドーは気まずそうに首を振った。
「……悪いけど、ボクには納得ができないもの。でも……死んだ人間にだけ行ける場所があるというのなら、ボクはそこに行きたい。サード姉様と同じ所に行きたい。サード姉様の産み育てたこの鎧と一緒に死んでいきたい……」
「ああ、そうだ。その件で確認を取っておくべきだった」
リーンズィはふと気がついてFRFの兵士たちを見渡した。
「君たちのギアは『エンブリオ・ギア』というのか?」
遠くにいるネレイスとリクドーが返答を躊躇しているうちに、ニノセが「そうよ」と譫言で返事をした。
「姉様、もう喋らないでください……そろそろギアの酸素合成容量も尽きます、苦しいだけです。僕が答える。スケルトン、そうだよ、これはエンブリオ・ギアだ。市長の実子、少女騎士のサードという極上の生命資源が、その生涯を捧げて産み育てた、至上の生体装甲だ」
「産んで育てる。ふむ。そこの首を切断された個体が母体なのか?」
「……そうだよ!」気に障ったらしく、リクドーが声を荒げた。「だから何だと言うんだ……! 生命汚染が怖いのか、肉無しども! サード姉様の死体を焼き払うというのなら、死んででも止めてやる……!」
「そんなことはしない。怒鳴らないでほしい。何故君たちはそんな極端なことばかり考えるの。私が言いたいのは、君たちはエンブリオ・ギアの仕様を誤解しているのではないか、ということだ。こういう使い方もあるのかも知れないが、はっきり言って、鎧として使うのは仕様外だと思う」
意外にも、真っ先にこの答えに反応したのは、ネレイスを監視しているマルボロだった。
「どういうことだ。このギアについて詳しいのか、リーンズィ? こいつらみたいな下っ端が、死んでも構わないって覚悟でたまに持ち出してくる、クソ忌々しい装備だが、ちゃんと使えてるように見えるぜ」
「私のデータベースにまさしく『エンブリオ・ギア』の名前で登録がある。調停防疫局が同じ装備を試作していた。倫理的な問題をクリアできず、安定した運用も出来そうにないので、実用に供されたケースは少ないのだが」
「何……? お前らの組織がこんな……分かってるのか? こいつらの生体装甲は、下腹部の臓器、子宮だの膵臓だの肝臓だのに根を張るロクでもない代物だ。こんなもんを、なんで作ったんだ」
「そうではない。私が知っているのは、こんな鎧ではない。もっともっと小さなデバイスだ。人間の小指の指先よりも小さいぐらいだ」右手の小指をぴこぴこと動かしてみる。「不死病患者の胚を肉と皮で包んだ小さな塊で、他国に不死病のサンプルを密かに移送するのに使う。このサイズなら人間の体内に隠せる。生体組織だから手荷物検査やX線検査ではまず見つからない」
「麻薬の密輸入かよ。要するにケツやら股やらに隠すわけだな」
「排泄器に入れると様々な支障が出て大変らしいので、基本的には不死病と親和性の強いSモデル複製人間が生殖器等に格納する想定だった。事前に電気信号で入力しておけば、時間が来れば体内で外部組織が崩壊して不死病因子が漏出し、運搬役を不死病のキャリアに変えることも出来たという。だが、不都合が非常に多い。通常の方法でも予想以上にコントロールが難しい不死病を、いつ暴発するかも分からないやり方で取り扱うのは、危険すぎる。死蔵されていた試作品も、結局は末期的な傷病者に対して使う、救急用の座剤のような感じで消費されたようなのだが……」
「物騒なんだか間抜けなんだか。しかしそれじゃあ『ギア』なんて名前にならないだろう。臓器と癒着する現在の性質とも噛み合わん」
「……うん、僕も、サード姉様のエンブリオ・ギアとは違うもののように聞こえるよ」
リクドーが興味を示している。
良い傾向だ、と手応えを感じつつ、リーンズィは言葉を続けた。
「そこは難しいところなのだが、これは『ギアになる』デバイスなのだ。ほんの小指ほどのサイズだが、不死病を発症させる直前に胎内から神経パルスを発して、逆流してきた神経信号から人格を収録し、簡易ながら人格記録媒体を作成する機能があった。つまり寄生先を即席のエージェントに変えてしまうのだ。さらに不死病発症後、一時的に体内の構造を組み替えて簡易な装甲を生産させることも出来た。この一連の流れこそが本当に期待されていた機能。宿主を疫病の主に作り替え、不死の兵士として蘇生させ、鎧を生ませる。まさにエンブリオのギアなのだな。そして君たちの装着している生体甲冑は、おそらくその機能の一部を強引に利用して作られている」
「ああそう。由来が知れて良かったよ。ボクたちが間違った使い方をしていると言うこともね。だから何。だからどうした、ねぇ、『簡易な装甲』のために生命資源としての価値を捧げたサード姉様を愚弄してるの!? ボクたちのために鎧を育ててくれた姉様を!」
「そうではなく……今重要なのは、この装備が『神経信号を収集して人格記録媒体を作成する』というところだ」リーンズィは首無しの死体を見遣った。「あの状態ではもう蘇生は出来ない。不死病でも、脳が壊れた相手には望まれた効果が出ない。だが、人格は別だ。君たちの全てのギアの祖が彼女なら、彼女の胎内の制御核、エンブリオ・ギアの本体が彼女の人格記録媒体として完成している可能性がある」
リクドーは言葉を失った。
「……嘘、じゃないの?」
「確証はない。何せ、君たちは通常の不死病を発症しないので、どういう経過でエンブリオ・ギアが成長しているのか、ぜんぜん予想が付かない。寄生対象を不死にしないまま肉と皮で出来たギアを生産させる、という挙動からして、丸きり未知の領域だ。ただ、そこまではちゃんと動いているのだから、君の言うサード姉様の人格複製が実行されていないというのも、考えにくい」
リーンズィは、エコーヘッド化された時の我が身の状態異常について思いを巡らせる。欲動が暴走し、身体接触を過剰に追及した。情動失禁を始めとする過剰な神経反応に、意識喪失。神経スキャンには必ずそういった弊害が伴う。
サードがどれだけの期間、その身にエンブリオ・ギアを宿していたのかは不明だが、短期と言うことはあるまい。
数年かそれ以上。完璧に肉体に定着しているはずで、それならばエンブリオ・ギアによる人格記録の作成が行われていない方が不自然だ。
「……どんな形でも良いから再会したいと思うなら、それは君次第になる。幸い君には肉体の大部分が残っているし、制御核を移植できると思う。人格のみという形にはなる……しかし、おそらく君たちは再会が可能だ。私には君たちの感情の機微や倫理観はよく分からないが、どうか考えておいてほしい」
「サード姉様の、人格を……ボクの体に……?」
リクドーが考え始めたのを確認して、リーンズィはニノセの本格的な処置に取りかかった。
きっと良い結果になると信じることが出来た。
ニノセの傍に跪き、重外燃機関にマウントしていたヘルメットを装着した。
人間の顔をしていない存在に処置をされるのは恐ろしいだろうが、全機能を解放するには不可欠な装備だ。
顔を覗き込み、頬を撫でてやる。
選択的光透過性を備えたバイザーに青ざめた娘のどこか艶美な顔が映り込んだ。
呆としていたのは数秒だ。
ヘルメットへと焦点を合わせた両目に、不意に輝きと戸惑いが宿った。
リーンズィではなく、彼女を通して別の何かを見ていた。
「閣下……?」と驚いたような声を血反吐と一緒に零した。
「? 私は閣下ではない」
錯乱しているのだろう。口元を拭ってやってから、左腕の蒸気甲冑に取り付けられた世界生命終局時計管制装置の鍵盤を叩く。
アポカリプスモードの起動は必要ない。スターティングレバーを引いて鎮圧拘束用有機再編骨芯弾の生成を開始する。
重外燃機関が急速発電を開始してリーンズィの血液を一瞬で吸い尽くし、蒸発させた。ライトブラウンの髪の少女は酸欠で死ぬ瞬間に特有の致死的な恍惚感に、思わず艶のある声を漏らして硬直、機能停止。すぐに再起動する。何十回も繰り返した死だ。これしきでは悪性変異進行率は全く上昇しなくなった。
腥い緋色の煙が充満する景色を背負って左手の装甲を開き、骨と肉で形作られた弾丸を取り出す。
ニノセは陶然としていた。満ち満ちたリーンズィの芳香にあてられた結果かもしれず、あるいは血の排気が燃え上がる翼のように渦を巻いていたからかも知れなかった。
リーンズィが合図をすると、ミラーズが金色の髪を揺らしながらニノセに近寄った。
首筋をなぞり、唇を合わせ、口を開かせ、舌先で口蓋を刺激し、唾液の分泌を誘い、あるいは流し込み、口腔を湿らせてやる。そして耳元で沈静化の聖句を繰り返し繰り返し唱えた。
痺れて開かれた口腔に、リーンズィは己の左手の親指を変異させた肉腫の弾丸を差し込んだ。
22口径弾ほどの小さな弾体には、あらゆる生命体の恒常性を引き裂く破壊力が秘められている。
「私の肉を食べなさい。これは不死の病によって立てられる新しい契約だ。この世界に君がある限り、君の生命は常にこの世界にある」
しかし彼女にはもう咀嚼するほどの力が無かった。
弾丸を取り出し、代わりにミラーズがそれを噛み砕いた。
ゆっくりとした舌遣いで血の滴る肉片を少女の喉奥へと注ぎ込む。
「……けほ。けほ、けほ、けほ。……血の味がする。少し怖くなってきた」ニノセは目を伏せた。「メアリーを抱きしめていても良いかしら」
「君の変異に巻き込まれる。それは、推奨されない」
ニノセが落胆するのと同時に、にゃー、と気の抜けたような鳴き声が聞こえた。
ロングキャットグッドナイトの猫だ。ケットシーに抱えられた状態でこちらにやってくる。まだらぶちのとてもふわふわした猫で、見るからにポカポカしていそうだった。
ケットシーが手を離すと猫はくるくると回りながらタシッ、と見事に着地した。
そしてニノセの鎧の胸に駆け上がり、何年も前から約束してた指定席であるかのようにそこに座り込んだ。
「ケットシー、これは?」
「ロンキャ先輩から猫指令があったから連れてきた」腰を曲げて、ニノセの額を撫でる。「『人生の最後にはいつも猫がいるものです。猫は太陽と月を追いかけて遊び、ピカピカの光を総身に蓄え、いつでもあなたを見守っているのです』以上、ロンキャ先輩の猫による福音書七冊目の四行目ぐらい。ヒナは優秀だからアシスタントディレクターみたいなことも出来る」
「……この生命機械は……抱いていても良いのかしら」
ロングキャットグッドナイトの眷属たちは全て不滅者、あるいはその影の如きものだ。変異に巻き込まれても全く無事で生還するだろう。少女の死を看取る、まさしくそのために遣わされたのだとリーンズィには理解出来た。「誰も寂しいままでは死なせないので」という高潔なる少女の声が聞こえてくる気がした。
「その中はとても特別な存在だ。抱いてみると良い。ふわふわのポカポカで、太陽のような香りがする……」
ニノセは言われるがまま猫を抱いた。
猫はと言えば、抵抗するでもなくその身を委ね、呑気に鎧を舐め始めた。
「ふふ。ふにゃふにゃで、良い匂いがする。赤ちゃんみたい。ふふふ。猫。そっか。これが『本物の猫』。病を退ける神獣。絵本で何度も見たことある……ふふ、フィーア、猫だよ。本物の猫。ウォッチドックスの言い伝えは、全部が嘘じゃ無かったのね。本当にいたんだ。でも、理想都市や天国にしかいないって聞いてたのに……」
嬉しそうな声のせいで、リーンズィまで少し嬉しくなった。
ヘルメットの中で瞑目する。それから、周囲を確認した。造花人形のメアリーは、猫に気を取られている隙にミラーズたちが避難させていた、
万が一失敗した時のために、戦闘用スチーム・ヘッドたちが蒸気機関を起動させており、重低音が巨竜の鼓動のように大気を揺らしている。
『初体験は誰でも緊張します。当機もドキドキしたものです。リーンズィは、準備はよろしいですか?』
統合支援AIの初体験は謎の概念であるが追求しないことにした。
リーンズィは頷き、スターティングレバーを引いて、戻した。
永久に不滅であるべき部品同士がぶつかり合い、棺桶に釘を打つが如き音が響く。
肉腫の弾丸を飲み込んだニノセは、自身の体内で何かが破裂するのを感じたはずだ。
彼女の意識活動は数秒後に消滅した。
最後に聞いたのは、きっと猫の鳴き声だろう。




