幕間 ある都市の夢
正気に返った瞬間、リーンズィは己の体内で悪性変異の因子を起爆させていた。
惨劇は起きてしまった。市長を名乗る生存者は、信じられないことに自分の部下を手にかけた。
反応出来なかった。
何人かは、間違いなく死んだ。
一刻も早く救護しなければならない。直行するにはウンドワートが障害となる。
依頼すれば快く解放してくれるだろうが、それでは一手遅れる。さらに一手、遅れてしまう。
リーンズィの衝動は、危険極まる異世界経由移動のトリガーを躊躇無く引いていた。
背後に七つの目玉を持つ炎上する影の気配。
『カタストロフ・シフトの起動を確認しました。無茶をしないで下さい』
嘲弄する声に「急がないと」と言い返す。
『時を遡ることは出来ません。急いで、何となるのです』
正論だが、それを飲み込むだけの余裕がリーンズィにはない。
浮遊感が体を襲う。
暗転した視界が赤く染まる。
準不朽結晶のブーツの足に、何かが潰れた感触が伝わった。
視線を下げて確認するまでもない。
リーンズィの眼前には死体が散乱していた。朽ちた服の残骸と肉塊が都市のそこかしこを赤く染めている。彼女の踏んだ地面だけが乾いていたはずがない。転移と同時に足下にあった肉片を踏み潰したのだろう。撒き散らされた血肉からは熟れた果実のような香りがする。おそらく虐殺によって滅ぼされたクヌーズオーエだろう、とリーンズィは曖昧に判断する。
ネレイスを名乗るFRF兵士、ディシーズドが己の部下を斬殺したあの数秒が脳裏に蘇り、暗い閃光となって神経系を貫いた。
数えきれぬ死を見てきた。リーンズィ自身も、何度も死んだ。オーバードライブなどはただ起動しているだけでデッドカウントが爆発的に増大するのだ。しかし不死病患者はどう殺されてもいずれ蘇る。スチーム・ヘッドからしてみれば、機関の燃料切れと肉体の死には、さほどの違いは無い。致命的なトラブルではないし容易に復旧出来る。
だから、リーンズィは、まさに一つの命を生きている人間がそれを失ってしまう瞬間を、これまで見たことがなかった。
癒えない傷。開いたままの傷。流れ出た血は永久に戻らない。乾いて、朽ちていくだけ。
以前マルボロの呟いていた「取り返しの付かないという感覚」を非言語的に理解したリーンズィは、凄まじい焦燥感と嘔吐感に苛まれていた。
……その精神状態が、虐殺行為のあったクヌーズオーエを引き寄せたのかもしれない。
死体の山に対して心理的な忌避感が生じたが、怯んでいる暇はない。死体を踏み潰しながら前方へ跳躍する。
送還されるまでの短い時間でウンドワートのいる場所を通過し、四人の兵士が倒れ伏せた場所まで迅速かつ精密に移動する必要がある。
痙攣する腕や足の残骸を蹴り飛ばしつつ、低倍率でオーバードライブ起動。
結局は一秒に満たない時間で移動を終わらせた。
『悪性変異反応の減衰を開始を確認しました。帰還時間まで、推定三秒』
後は待つだけで良い。準備だけでもしておかなければ。まずは救命手順の検索を開始して――
その時、リーンズィは言い知れぬ、何か引き合うような感覚に襲われて、ふと、前方を注視した。
……視線の先で、何者かが、不死病患者を、小枝でも落とすように、刃で払っている。
リーンズィは咄嗟に視覚系に対して診断プログラムを起動させたが、錯覚でも幻覚でも無い。
それは現実に存在していて、そしてオーバードライブに突入したリーンズィと同等の速度で活動している。
転移先の世界に第三者が存在するのは、極めて稀な事態である。カタストロフ・シフトにおいて<時の欠片に触れた者>が追放先として選ぶ世界は、例外なく人類が絶滅した行き止まりだ。リーンズィが観測した限りにおいて、明確に意識を保って活動していた存在は、スヴィトスラーフ聖歌隊のリリウムの精神的祖先である、あの名も知れぬ少女だけだった。
リーンズィは接触を図るかどうか逡巡したが、己が基底とする世界におけるFRF兵士救護を優先し、観察だけを行うことに決めた。
カタストロフ・シフトによる世界転移における二例目の知的存在は、真昼の冬空から落ちてきた新月のような、酷く陰鬱な色彩をしたスチーム・ヘッドだった。
背負った棺のような重外燃機関から細く白い煙が上がって空中に留まっているのが見える。よくよく目を凝らせば、その排気らしきものがまだリーンズィの周囲にも漂っている。
加速した世界で、その機体は樵のように不死病患者を斬り続けていた。感情は全く感じ取れない。苦境に飛び込んで可能性を探っているだとか、永遠の不滅を約束された者どもの輪から取り残されたことを怨んでいるだとか、そういった背景はないように見えた。
手近な人影に刀剣の類で斬りかかり、分割して、慎重に切り分けて、刃の腹で払い除ける。
ひたすらそれを繰り返す。
祈りにも似た、丁寧で静かな殺戮。異郷に伝わる儀式を遂行する神官の厳かさと、拷問を生業とする人体加工師の陰惨さが同居している。
リーンズィから正体不明機との間にはずっと距離があるのだが、その道中全てを、おぞましい数の死体が地面を覆っている。
殺戮の主がその期待であり、殺戮の先端もまたその機体であることは、疑いようが無い。
【高純度不朽結晶】のタグが視界を埋め尽くす。
『アルファⅡモナルキアと同モデルの重外燃機関を確認。同一コアかは判断不能。十分に警戒してください』ユイシスが緊迫した声音で警告を発する。『未登録のアルファシリーズです。こちらの出現を検知した兆候はありませんが、交戦した場合、被害は甚大なものとなります』
しかしリーンズィには、何故だか警戒しようという気持ちが湧いてこない。
一心不乱に殺害行為に取り組むその機体はどこか清廉な空気を纏っていて……だから、愛しい人の記憶をリーンズィに呼び起こさせる。
脳裏をよぎったのは、趣味の工芸品制作に取り組んでいる時のレアの姿だ。
リーンズィの恋人であるレアは色が白く、壊れそうなぐらい細くて、いつでも綺麗で可愛く、そして手先が器用だ。小さくて温かな指先で、色々なものを見事に造り出してしまう。絵も描くし、彫刻もする。どれも単なる真似事、価値の付かない不毛な作業と自嘲するのだが、彼女のアトリエに招かれたとき、リーンズィはその真剣さ、一つの無駄もないレア自身の気質を表すかのような、矢をつがえた弓の弦にも似たその真摯さに、いつもいつもすっかり魅入られてしまう。白髪を彩る繊細な赤い眼差しが向かう先で振るわれる彫刻刀と木槌。かつかつ、かつかつと、時計と違うリズムの音色が何千回も木材を刻み、何の意味も価値も感じられない木材の塊から、愛らしいウサギの原型を現出せしめる。見ていて退屈しないのとレアには不思議がられるが、大好きな人が大好きなことに没頭しているのを眺めているのがリーンズィは好きだった。それとは別に、ただの木の塊が少しずつ少しずつウサギの形になっていくのにも感銘を受ける。
魔法というには、あまりに手間がかかる。
奇跡と言うには、あまりに小さすぎる。
だけどそのウサギの像は、本来この世には無いはずのものだった。
レアの沈黙と情熱が、木の塊から、新しいウサギを造り出してしまうのだ。
彫刻の下絵にはリーンズィもアドバイスをしているし、同じような動作を繰り返すだけの単純極まる作業工程も何もかも見ているし、それを中断して甘えに来るレアの肉体も、余すところなく知り尽くしているというのに、リーンズィは彼女が彫刻作品を生み出しているという事実が、何だか信じられない大仕事のように思えた。
……その黒いスチーム・ヘッドが取り組んでいるのは、まさしくレアの取り組む創造行為と同じなのだと、何故だかそう感じられる。
憎悪や嗜虐の感情は微塵も感じられない。慈悲すらない。
だが確かな決意が備わっている。機械的な繰り返しの中に、どこかへ向かおうとする意志が存在する。ある種の情熱、ある種の信仰、ある種の計画に従って同じ行為を繰り返している。
何のための殺戮だろう、とリーンズィは周囲を見渡した。
花の香りがする血の海を見た。
目の醒めるような濃淡のない蒼穹と都市の路面を覆う血肉。眩暈がしそうになる。血とは雨の如く注ぐものであると言わんばかりの惨状。道という道が赤く染まり、分断された肉塊が溶け残った雪のように固まり、散らばる手脚は打ち捨てられた大樹の枝のようであり、死んだ蛇のような消化器や筋繊維の束が息絶えている。
『異常を検知。視覚内に存在する全ての不活性生体に、不死病因子が確認されました』
やはりこれは不死病患者の死体なのか。
独特の臭気で察しは付いていた。見渡す限り全ての場所に存在しているこの死骸は、不滅にして不朽であることを約束された不死なる者の、その成れの果てだ。
『報告。不死病患者から病を取り除く研究、即ち不死に死を与える研究は、調停防疫局においては重視されていませんでしたが、ステージ1かつ人工脳髄非搭載の感染者は、特定条件下では完全な不活性化が可能だという事実は突き止めていました。ですが、その分野の研究はそこで打ち止めになっています。不死病が蔓延に至る環境下で不死病を治癒させても、利益が無いためです』
リーンズィにも理解出来る。不死病患者は平時には病を拡散させるリスクを示すが、感染爆発が起こってしまった後ならば、悪性偏移を起こさなければ極めて安全である。
そもそも感染者自体が適切な封じ込め処置を施せば限りなく無害だ。病死・餓死のリスクが存在せず、暴動や大量死に繋がる行動を取ることすらない。生命維持に費用がかからないという点を考慮すれば、むしろ管理する側としては生者よりも好都合であり、それを多大なコストを投じてまでわざわざ治癒して、極限状況下で死なせてしまうのは、不合理だ。
> ……それに、完全に不死病を制御した暁には、自己凍結を起こした全ての人類が、新しい生命資源となって蘇る。リソースが死と災厄、無秩序な感染をもたらすだけの、一時的に不死病を制圧するための装備に注がれるのは自然だと思う。
『肯定。不死病の完全治癒には、当機らの世界でも莫大なコストと大規模な施設が必要と考えられ、あらゆる意味で現実的なプランとは考えられていませんでした。不明機は不死病根治のために舵を切った世界のアルファシリーズであり、全く異なる思想体系のもとで活動していると推定されます。脅威度を最大レベルと認定』
ユイシスによって『超高純度不朽結晶』のタグが付けられている剣を振るい、黒銀のスチーム・ヘッドは無抵抗で直立する不死病患者を、容赦なく解体していく。洗練された処刑の所作は美しくさえある。一刀一刀に苦痛が無いような配慮がなされていて、手慣れているのだろう、その機体は血飛沫を躱す余裕さえ見せていた。
他に蒸気機関の音紋などといった、同伴機の兆候を示す反応はない。
となれば、この凄まじい屍山血河の風景は、ただ一機のスチーム・ヘッドによってもたらされたことになる。
目的や意味よりも、所要時間の方が気に掛かった。
リーンズィは積み重ねられた死体の山を見渡す。
あの機体は、いったいどれだけの時間、これを繰り返しているのだろう? 途方もない時間と労力が必要になる作業だ。生半可な覚悟で挑めば、たとえスチーム・ヘッドであったとしても、精神へのダメージで意味消失を迎えかねない。人間から作られた精神は、不死身の肉体と頑強な甲冑を与えられても、無意味な活動を延々繰り返せるほどの頑強さは、獲得出来ないものだ。
……ああ、やっぱり、レアせんぱいと同じなのだ、とリーンズィは改めて思う。
不明機は、死体の山から何かを創り出そうとしている。
創り出そうという真摯な精神性だけが、こんな不毛な道程を肯定する。あの機体は、不死病に汚染された都市から自分の信じられる何かを生み出すために、この峻険な山道を、岩を背負って歩んでいる。
何度でも転げ落ちるだろう。山の頂上には何も無いかもしれない。
それでもやるしかないのだ、という強迫観念が、あのスチーム・ヘッドを突き動かしている。
<時の欠片に触れた者>が偶発的にこの遭遇をもたらしたとは到底考えられない。破滅した世界の囚われ人かもしれないが、もしかすると、いつかどこかでまた遭うかしれない。
リリウムの首輪に収録された少女ですら、長い旅の果てにリーンズィと再会した。
『報告。悪性変異マーカー、急速に減衰。基底現実への送還シークエンス開始を確認。カタストロフ・シフト、解除されます』
背後に<時の欠片に触れた者>の熱を感じる。
偽の悪性変異であったと見做されて、アンカーを頼りに元の世界と近似の場所へ送り返されるはずだ。
……黒銀のスチーム・ヘッドが、立ち止まって、振り返った。
フルフェイス型のヘルメットと、内部で風車のように回転する三本のスリットがこちらを見た。
黒い光を漏らしながらレンズの倍率をしきりに変えている。
その機体は、やはりアルファの名を冠する機体に酷似していた。
全身を覆う不朽結晶装甲製の黒い鎧。
右肩には円環を象る翼ある蛇の紋章。
殺戮の手を止めて、ただリーンズィを見つめていた。
声が聞こえてくる。
『……奇妙だ。我々の運営する都市に登録外の機体が存在するはずが無い。なるほど。つまり、これは、夢だ。我々はそう判断する。ログの参照を開始……人格記録の再生を停止して、充電モードに移行させた記憶がある。これが夢、か……我々の人格は停止しているはず。ならばこれはいったい何だ? 誰が何を見ている? 我々は眠っているはずなのに……』
女の声だ。
目の前の未登録機が使用するボディの声だろう。
その呟きが、どうしてだか聞こえてくる。不思議に思っていると、何のことは無い、通信回線に独り言が垂れ流されているだけだった。
調停防疫局の秘匿回線であるということを無視すれば。
『古い記憶の再演なのか、記録をベースとした完全架構世界を現実と誤認しているだけなのか。興味深いところだが、普段と同様、休眠時の記録は総体には持ち帰れまい。ならば眠っている時間が惜しい。どの段階で再起動が進むのだろう? 早く目覚めなければ。都市が、市民たちが心配だ。どれほど改良しても一つの命を生きている者はあまりにも脆い。早く目覚めなければ……。ああ、目覚めるための方法が分からない。どうすれば目覚められる。どうすれば新しい朝に至れる。この夢はいつになったら終わってくれる? 子供たちのところに戻らなければ……早く目覚めなければ……』
『次元歪曲の開始を確認。強制転移、実行されます』
世界の全てが崩落していく錯覚。
全身が内側から裏返っていくような泡立つ感覚がリーンズィの記憶を曖昧に解体していく。
帰還の予後にも種類がある。これは後々齟齬が出るパターンの感覚だ。
基底現実へ戻っても、暫くの間はこの光景を忘れてしまっているだろう。
リーンズィはしかし、確信していた。
この遭遇の必然を。
黒いヘルメットのスチーム・ヘッドとは、絶対に……どこかで出遭うことなる、と。
何故なら、その女の声は、レアせんぱいに、コルトに、都市焼却機フリアエに似ている。
その立ち姿はあまりにも――
アルファⅡモナルキアと、似ている。




